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孤独とぼっち

作者: エチュード

 昔から、友達が多いのは良いことだとされてきた。社交性や協調性があり、誰とでも仲良くできる人は、ある意味人格者のような扱いをさえされてきた。友達が多いというだけで自慢の種にもなり、大勢の仲間に囲まれて、いつも賑やかに生活しているイメージを持つ。反対に友達がいないとなると、人間として何か欠陥でもあるように、人から見られることもあった。それは悪い事でもないのに、大っぴらに言うのを憚られたりもした。

 ところが、時代の流れに伴う価値観の多様性の為せる業なのか、このところ「ぼっち」という言葉と共に、独りで行動することが見直されてきている。漸く「独り」が日の目を見る時代が来たというか、ついに「独り」が市民権を得られることになったと言うべきか。むしろ最近では、ぼっちの方に分がある見解まで出てきている。書籍などでも、ぼっちを肯定的に捉えた論調が、多くなっているように感じる。

 けれども、ぼっち肯定論は今に始まったことではなく、洋の東西を問わず太古の昔からあったようだ。例えば宗教で言うと、キリスト教やヒンズー教、それに仏教の修行者や求道者は、険しい山に籠るなど人から離れて、修行をしてきたことが伝わっている。つまり、神や聖なる何かに近づく為には、意識的に人間関係を断ち、孤独な状態に自らを置く必要があったようだ。今日でもたまに、お坊さんが座禅を組んで修行をする様子を、テレビなどで見ることがあるが、何人かの人が同じ場所に集まっていても、話をすることなどはない。山に籠るのとは状況が違うが、おそらく各人が自分の世界で修行に励んでいるのだろう。

 宗教の世界だけでなく、哲学や文学においても、今で言うところの「ぼっち」は必須条件であったとする見方もある。つまり、大勢でワイワイ騒いでいると、物事の真理などにまで思い及ぶことはないが、孤独な状態にあると、ちょっとした事も突き詰めて考えてみる。そこから導き出されて、真理や創作が生まれる機会があるとする考え方だ。それは至極当たり前のことのようにも思える。さらに、孤独と幸福の関係については、ショーペンハウアーや三木清が詳しいようだが、哲学の世界でも、孤独はネガティブに捉えられてはいないみたいだ。

 それ以前にもあったのかも知れないが、昭和の文学作品によると、孤独癖という言葉があり、孤独が必ずしも忌み嫌われるべきものではないという、ぼっちを肯定する考え方があったことがわかる。孤独癖とは「ひとりで居たがる性癖、自ら孤独でいようとする傾向があること」と定義されている。そうだとすると、「ぼっち」という言葉の流行と共に、「独り」が見直されている現在より前にも、独りの価値は密かに認められていたわけだ。

 「月に吠える」などで有名な詩人の萩原朔太郎は、晩年に『僕の孤独癖について』という随筆を書いている。それによると、彼は子どもの頃から人嫌い、交際嫌いであったらしい。その原因は彼の孤独癖によるものだったそうだが、それは一般的な人とは少し変わった、彼の性格に起因していたようだ。というのは、彼には病的な強迫観念があったそうなのだ。つまり、彼は性格的に、一般的な人とはすこし変わった要素を備えていたようだ。そんな彼を、周囲の人は理解してはくれなかった。そうなると、人と付き合う為には、彼自身が自分を偽ったり警戒したりして、神経をすり減らさなければならなくなる。それが煩わしく窮屈だから、交際を避けていたのだという。だから、彼の場合の孤独癖は、孤独を好むと言うよりは、むしろ孤独を強いられている状態だったというのだ。

 その彼の孤独癖が、晩年に変化をみせるようになったそうだ。何故かというと、年齢と共に体が丈夫になり、神経が図太く鈍ってきて、悩まされてきた病的な強迫観念などが、弱まってきたらしい。つまり、彼は変人から平凡人に変化してきていたと、自ら分析している。その結果、交際嫌いだった彼が、稀に人と会わない日があると、寂しいと感じるまでになったという。しかし、それと共に、詩の方は拙くなってきたらしい。そのように本人が言明する事例があるのだから、詩作に及ぼす孤独の影響は大きいに違いない。そんな風に自分を省みて彼は、孤独は悲劇だと言っている。ということは、例え詩作が下手になっても良いから、人と関わり合いながら、生活したいという思いがあったのだろう。そんな本人の思いがどうであれ、また強いられたものであったとしても、孤独が作品を生み出したという一面があったことも、確かなのではないだろうか。

 このように、萩原朔太郎の例から想像するに、詩(文学)の世界についても、孤独が少なからず関与していると考えて良いだろう。詩は小説よりも感性によって左右される分野のような気がするので、特にそうなのかも知れない。それにしても、上手く詩が書けていた時の孤独な自分は悲劇だった、と考えている詩人の彼を潔いとも思うが、それだけ彼にとって孤独は辛いものだったのだろう。その辺を彼の作品の愛好家は、どのように解釈するのだろうか。

 宗教や哲学、文学以外にも、人並み外れた実力がある有名なスポーツ選手の中には、周りから付き合いにくいと思われている人がいると聞く。そういう人は、何年に一度などという世界大会の為に、各チームから選ばれて召集されても、周りに「話しかけてくれるな」という雰囲気を漂わせているという。何故かと当人に訊くと、自分は試合に勝つためにそこにいる訳で、他の選手と仲良くする為ではない、ときっぱり言い切っている。なるほど、それはそうだ。信念があって、それに基づく実力を、試合で遺憾なく発揮できる人にとって、周囲は関係がないのかも知れない。まあ、そんなことが言えるのは、ずば抜けて実力がある選手だけで、普通の人はなかなかそこまではっきり言うことはできない。多くの選手は、やはり周りとコミュニケーションを取りながら、できるだけ自分の力を出せるように努めているのだろう。

 これからはもう、宗教家でもなく、哲学者や文学者でもなく、スポーツも大して上手くないが、人と接するのが苦手だという人も、肩身の狭い思いなどする必要はない。そういう人の為に、「ぼっち」という言葉が出現したのだろうから。つまり、孤独癖など従来の独りを肯定する考え方を表す場合、孤独という言葉は神聖で高尚過ぎた。あまりにも高い場所にあるが為に、誰の手にも届くものではなかった。そこで、孤独の価値観が一般人の身近にまで降りて来てくれたのが、「ぼっち」という言葉になるのでは、と勝手に解釈している。

 昨今では、ぼっち○○というのが流行りで、日常生活の中で、様々な事を一人で楽しむ方法などを紹介する本も出ている。またテレビで、あるお笑いの人が独りでキャンプをする番組があり、時々それを視聴するのだが、そのお笑いの人がいかに独りが好きかが、画面から滲み出ている。また、撮影スタッフは居るといっても撮られるのは独りなので、ちょっとした行動にも、人間性が出ているような気がして面白い。

 例えば、撮影をする関係上ということもあると思うが、テントを張る場所を決めるにも、とにかく人の居ない場所を探す。いくらぼっちキャンプだと言っても、誰もが利用できるキャンプ場なのに、まるで人に見つかってはいけない人のように、貪欲に人影のない場所を求める。それが毎回行われ、他のキャンパーとは、一切接点を持つことはない。そうして人の問題が解決すると、辺りの景色とテントがマッチするかなど、見ているこちらには分かりにくいことへの拘りも、随所に見せてくる。

 それから、テレビ番組なので、一応計画も立てているのだろうが、状況に応じて出演者の好きなように変更する。テントで一晩過ごすとなると、いろいろと必要な道具があるが、それらを忘れてくることも珍しくない。何人かでするキャンプなら、道具などのチェックも怠らないのだろうが、そういう緊張感が全く見受けられない。仕事の筈なのだけれど、ぼっちの良いところを、余すところなく追求し享受している。何度か視聴していると、そんな出演者のやる気があるかないかが、画面から見て取れるようになった。乗り気の時にはカメラマン相手に饒舌で、気が向かない時には、数メートルしか離れていない場所へ、モノを取りに行くのさえ億劫がって行かない。これも皆、ぼっちならでは許されることだろう。そんな様子を見ていると、ついついこちらも、ぼっち側の人間の心境になってしまうこともある。

 さて、私の場合小学校高学年の時に、一時期だけ群れの中に居た記憶がある。同じクラスの女子と数人で行動を共にしていたのだが、皆が仲が良いというよりは、リーダー的存在の子を介して、集まっていたグループだったような気がする。だから、リーダーの意見はグループの総意で、誰も異を唱えない。私達のグループは悪事には無関係だったが、リーダーがやろうと言えば、気が進まないことでも、付き合わなければならなかったので、よくあるいじめの問題も、あのような状況下では起こり得ることが理解できる。特に年端のいかない子供達においては。

 私がその群れを離れた直接の理由は、好きではない遊びを、しなければいけなかったことだった。面白さが全く理解できない遊びは、苦痛でしかなかった。抜けるきっかけは単純だったが、子供心にもあのままの生活を続けていると、何事も自分の意思で決定し、行動できなくなるのではとも考えた。それで懲りたというのではないが、以後は群れに参加する機会はなかった。

 だからといって、私はいつ何時でも独りで行動できるという訳でもない。どちらかというと、人付き合いは得意な方ではない。でも、たいていの状況下では、一人や二人は気の合う人と居合わせるものである。学生時代、女子生徒は特に、また社会人になっても、二人三人で一緒に行動している人達は多い。そんな風に多くの人と付き合うのは苦手だが、ごく少数の人となら親しくすることができる。そして、その関係を続けたいと思えば、少し迎合してみたり、そうでなければ離れてみることもある。そんな具合に、その時その時に、少数の仲間には恵まれてきた。だから、人格者やその周りに集まる人でもないが、ぼっちでもない。でも、どちらかを選べと言われると、大人数で行動を共にするよりは、独りの方が気は楽である。しかしながら、独りでキャンプはできないし、旅行も行けないことはないが、楽しいかと言われれば答えはノーだ。

 人が生きて行く上で、一番煩わしいのは人間関係だと言われる。その煩わしさをものともせず、人望を集め大勢でワイワイ賑やかに暮らせる人は、それはそれで素晴らしい。その大勢の中の一員として、自ら進んで居場所を確保できる人も、ある種の才能を備えている人だろう。また、気心の知れたごく少数の仲間と過ごすことで、平穏な生活ができる人は珍しくないだろう。そしてまた、人と関わることで神経をすり減らすことを避け、孤独な状態でしかできないことを、敢えて求める人もいるだろう。

 文明の発達に伴って徐々に、物理的には人と関わらなくても、生活できる部分が多くなってきている。人と話をしなくても、メディアから情報を得られ、世間の情勢を知ることもできる。また、インターネットによって、人と直接かかわることなく欲しい物を買うこともできれば、直接会うことのない友達を探すこともできる。今後世の中が便利になると共に、益々そんな状態に拍車がかかっていくに違いない。ぼっちという言葉の出現はその予兆か、或いは既に進めている最初の一歩なのかも知れない。

 今後他人との関わりが極端に減っていく社会において、人々はどんどんぼっちの状態へと傾いて行くのだろうか。それとも反動で、人は人との繋がりを求めるようになるのだろうか。いずれにしても、ぼっちという言葉は、友達が居ないことが恥ずかしいという考えを、時代遅れとして葬り去ることに、一役買ったと言えるのではないだろうか。






 

 







 




 

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