この空の下で、僕たちはどうやって生きればいい?
僕はいつもの景色をなぞるように歩く。
なんでもない日の、なんでもない放課後。
すれ違う子供の笑顔に心を痛め、死んだ魚のような目をしたサラリーマンを見て溜飲を下げる、そんな普通の日。
こういう日だからこそ、僕は思う。
「人はなぜ生きるのか」
平均寿命は時を重ねるごとに背伸びを続けた。
人生百年時代なんて言われることも珍しくはなくなった。
そんな世界で、僕はどう生きればいい?
人生百年なら、五十年後の僕を待つのは希望か?
違うだろう。
漠然としたものではない、確信的な不安。
それが僕の胸の中で渦巻いて離れない。
日常的にこういうことを考えているかと言われるとそうでもないのだけど、ひとりになったときに、ふと。不安に心臓を噛み切られそうになる。
こうなったときの僕は酷いもので、全てを馬鹿だとすら思う。
クラスメイトも親友も、親も親戚も、先生もそこらへんの人たちも。
「なんで生きているのか」
この問いにしっかりと答えられない人は全員愚かしくて馬鹿だと思ってるから。そして、しっかり答えられた人は誰ひとりもいなかったから。
さて、大きな川に架かる橋が見えてきたところで少し話を変えよう。
僕も最近気付いた……とは少し違うけど、実感したことがある。いつも誰かが言っていて、その度にそうなんだろうなと漠然と肯定しているつもりになりながら、実際はそうでもないだろうと思っていたこと。
結局世の中は金なんだって。
金がなければ、僕たちは何もできない。
僕たちは進化したと誰もが胸を張るが、金に隷属しただけではないかと思わざるを得ない程に、人生は金に右往左往する。
別にそれがいけないとは言わない。
でも、でもさ。じゃあ生きるのは金のためか?
ああ、話題が戻ってきちゃったね。まあちょうど橋も渡り終わったしいいか。話を続けよう。
僕はこの人生、短いながらにいろんな人を見てきた。
真っ当な社会人からニート、社畜から犯罪者。ボンボンからホームレス、タワマン住みまで。とにかくいろんな人に会った。
その人たちにはそれぞれ個性と呼ぶにふさわしいものがあって、それは僕にもあるんだと思った。本人が自身の個性を自覚していることなんて、そうそうないと知ったのもこれをきっかけにしたことだ。
でも、誰に会っても分からなかった。
「なんのために生きるのか。」
「幸せのために」
そう嘯く人は一定数いた。
でもそれでは、説明がつかないのだ。
「幸せ」な人ほど、笑顔は少なくて薄かった。「不幸」な人ほど笑顔は多く、明るかった。
ああ、分からない。
「幸せ」ってなんだ。「生きる」ってなんだ。
「なんのために生きるんだ」
あなたは、なんのために?
あなたは、なんのために生きていますか?