泉からの呼び声
「嘘……」
目の前に広がるのは山道が土砂で埋まっている光景。
麓へと降りるための唯一の道が雨と土砂で埋まり、見事に孤立無援となった状況。そして、傘を探す余裕もなく濡れ鼠になりながらその場に座り込んだ。
スマホのバッテリーも心許なく、雨宿りできる本館には蛇のような化け物が潜んでいて戻ることはできない。戻ってしまったら今度こそ私達は食べられて殺されてしまうかもしれない。それどころか、ここで足踏みをしている間にあの化け物が本館から出てきてしまうかもしれない。
私達があの化け物から逃げることができたのは、あの化け物の翼が壁に擦れて巨体がまともに動くことができなかったからだ。翼がつっかえない外に出てきたのなら、すぐさま逃げる私達に追いついて、あの大きな口でぱっくりと食べられてしまうに違いない。
獲物が逃げてしまったのだ。
化け物はじきに本館から出てくることだろう。
化け物が外に出たら私達の足では空を飛んでいるアレには敵わない。
そして、土砂で埋まって山を降りることもできなければ、逃げ場もない。
『絶望』
その言葉だけが心の奥深くに刻み込まれる。
「……清香、まだどこか、雨宿りができる場所があるはずだよ。確か、途中の崖に洞窟みたいなところがあったろう。そこに行こう」
「で、でもメジロちゃん……あそこに逃げ込んだらいよいよ逃げ場がなくなってしまいますよ……?」
「あの化け物も、ボク達が逃げると思うだろう。それならこっちの道に来るはず……アレにそんな知性があるなら、だけど。洞窟を素通りしてくれることを祈るしかない。『死にたくない』んでしょ?」
「そりゃ……そうですけど」
首を振る。死にたくない。死にたくない。こんなところで死にたくなんてない。メジロちゃんだって、気丈に振る舞って私を元気づけてくれているけれど、きっと怖いし、死にたくないはずだ。
「さあ行こう」
「うん」
雨のなか、私達は二人で手を繋ぎながら急いで洞窟まで走った。懐中電灯はもうほとんど役に立たない。
洞窟には無事辿り着くことができた。
どうやらまだ化け物は外に出てきていないらしい。濡れて重くなった服をぎゅっと絞って体を抱きしめる。洞窟の中だからか、かなり気温が低く雨で体温を奪われた私達には寒いのだ。
それに、あの化け物に出会って少し収まったと思っていた『声』が、今度はよりはっきりと聞こえるようになってしまっている。どこか懐かしいような……聞き覚えのあるような、私を呼ぶ声。なぜだか、すごく身近な声のはずなのに、肝心の声の主が誰だったのかを思い出せない。
「清香、見て。泉がある」
「泉ですか……?」
安全確認のためだからと言って奥を見に行っていたメジロちゃんが呼んでいる。震えてどうしようもない足をゆっくりと動かし、私はその場所に向かう。メジロちゃんに手を繋いでいてもらわないとまともに歩けないほど、私は精神的にキているようだった。
しかし、泉を見た瞬間に蹲る。
「あっ、ぐっ……」
――――きよかちゃん。
――きよか。
――――きよかちゃんおきて。
――きよか、めをさませ。
――――おねがい、きよかちゃん。
きよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよかきよかちゃんきよか……。
頭の中を覆い尽くすほどの声、声、声。
やめてやめて、頭が痛い。やだ怖いよ死にたくないよ。お願いやめて。呼ばないで、痛いよ痛いよ怖い怖いよ嫌だよやめてよおねがいだから、ねえお母――。
「清香!?」
ハッとする。
目の前に心配そうな顔をしたメジロちゃんがいて、いつのまにか自分が地面に座り込んで、頭を打ち付けていたことに気がついた。視界の中に赤い筋が垂れているのが見える。そっと額に手を当てると、ぬるりと血がついた。血が出るほどに正気を失っていたらしい。
「なにがあったの清香」
「そ、れが、ね」
弱りきって掠れた声で訴える。
「声が、あの化け物に会ってからは……聞こえづらくなっていたのに、この泉から直接声がするんです。声の発生源はきっとここで、でも、おかしくて。泉にこんなに近いのに、さっきより声が小さくなってる。どうしてですか? さっきまであんなに大きな声が聞こえていたのに……それに」
――どうして泉から聞こえるのは、お母さんとお父さんの声なの?
メジロちゃんが目を見開く。
相変わらず、声はずうっと頭の中に響いていた。
こんなにうるさいのに、どうして、メジロちゃんには聞こえないの。
そんな疑問は、なにかに気付いてしまうのが怖くて口にできなかった。