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駆り立てる恐怖

 私達が『それ』に出会ってしまったのは、本館からの脱出を試みていたところだった。


 事前にナニカがいるのは分かっていた。天井に程近い場所にあれほどの深い爪痕を残すものがいるのは、分かっていたんだ。けれど、まさか『常軌を逸した化け物』としか言えないものが、当たり前のような顔をして廃別荘にいるだなんて――思うわけがないじゃないか。


 その大きな弾力のありそうの『翼膜』と天井に近い壁が擦れ合う嫌な音が響き渡る。その巨体は四メートルは超えている。曲がりくねった蛇のような、芋虫のように見える細長い体は廃別荘の中で窮屈そうにしていた。


 空中でとぐろを巻いて体を収縮しているようだが、大きなその体は自由が効かないようで、一枚しかない翼が常に壁へと爪痕を刻みつけながらこちらに移動する姿。


 あまりにも強大で。

 あまりにも非現実的で。

 あまりにも強い恐怖で。


 私はただの一歩も足が動かない。


 あまりにも大きな恐怖がそこにあると、人は動けない。

 逃げることができない。


 まるで車に轢かれる直前の猫や鹿のように、突然起こったことに思考が停止し、むしろその目前に迫る『死』へと一歩近寄ってしまうような生命の不思議。


 死へと自ら近づき、口では「死にたくない」と言葉にしながらゆっくりと迫る死神に自らを生贄として差し出すかのように歩み寄る。


 脳は考えることをやめ、防衛反応故か指先から空気に触れているという触覚が徐々にに失われていく。


 感覚が消え、恐怖を駆り立てるものから目を逸らすこともできず、逃げるという選択肢すら見えず、体は逃れることを不可能として、『痛みもなく死ぬ』ことができるようにと『最悪(さいぜん)』の行動を取る。


「メジロちゃ……逃げ」


 口からこぼれ落ちたのは唯一の相棒、親友と呼べる青鳩メジロへのメッセージ。自分も死にたくないと思っている癖に、体が動かなくて怖い癖に、なにも考えられなくなっている癖に。


 ――どうしようもなく大切な女の子が生きて帰れるなら。


 そう無意識に思って漏れた『懇願』だった。


「清香っ、このっ!」


 けれど彼女は逃げなかった。

 目の前の化け物に、暗闇に慣れたその目に懐中電灯のスイッチを押して直接光を浴びせた彼女は、そのまま動けない私の手を取って走り出す。


 化け物はこの世のものとはとても思えない、どんな音とも形容しがたい甲高い悲鳴をあげながら首のような曲がりくねった部分を振り回す。


 それが最後に見た姿で、メジロちゃんに引きずられるように走り出した私は、それからは背後を振り返る余裕もなくもつれる足を動かしてその場を離れていった。


 何度も転びそうになって、何度も「離して」「このままじゃ二人とも食べられちゃいます」と言いながら泣く。


 いくらあの化け物が一瞬光に怯んだとしても、いくら体の大きさのせいで移動しづらくても、私達のような小娘風情が逃げ切れる気なんてしなかった。


 特に私なんかは膝が笑っているような情けないありさまで、メジロちゃんに引っ張ってもらわないと一歩も歩けないような状態。当然メジロちゃんへの負担も計り知れず、私がいるだけで彼女の走るスピードは遅くなる。


 足手まといの私がいるだけで、彼女も危険にさらされる。だから、置いていけと強く強く主張した。けれど、彼女は私に「うるさい!」といつになく強い口調で叱咤すると震える声で叫ぶ。


「ボクだって清香に死んでほしくなんてない! 気持ちは一緒だよ!」

「ご、ごめんなさいメジロちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……」


 壊れた機械みたいに同じ言葉を垂れ流しながら、私はされるがままにメジロちゃんについていく。決壊したダムのように涙は止めどなく溢れていき、足手まといは消えた方が良いと思いながらも、やっぱり「死にたくない」という気持ちはあって、宙ぶらりんな覚悟は跡形もなく砕け散った。


「メジロちゃん、ごめんなさい……弱虫でごめんなさい」

「いいんだよ。それより、ボクの咄嗟のアイデアは最善手だったでしょ?」


 本来、あんな化け物への勝ち筋なんて当然なく、メジロちゃんは自分の判断でオノを投げ捨て、懐中電灯の光を『アレ』に浴びせた。結果的にあの化け物は暗闇の中に現れた突然の光に怯み、私達は難を逃れている。


「うん、さすがですね」

「そうでしょ? ほら、早く外に出よう。アレに気づかれないように外に出ないと……それで、麓に降りて助けを呼ぶ」


 外にあの化け物が出てきてしまえば、この隠れ鬼は私達の負けが決定する。空を飛んでいる相手に徒歩で勝てるはずもないのだ。武器もない、せいぜい機転を効かせることしかできない。なら早く外に出て逃げてしまうより他にない。


 ……確かに、その通りだ。


「死にたくないもんね?」

「……はい」


 問いかけに素直に答えて、満足そうに笑い声を漏らす彼女に首を傾げる。


「大丈夫、絶対に帰れるから」


 なんの根拠もないのに、なぜだか彼女の言葉は信じることができた。


「ほら、出口。山を降りよう」

「はい……」


 踏み出した外は――いまだに止まない雨が降り続けている。

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