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刻印の継承者 その9  作者: 神野 碧
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封印帝国

混濁する意識の中で、長い長い年月の間、少年は待ち続ける。

―何を?―

 時に少年は自問する。その問いは、鋭利な刃物のように少年の核心を抉る。その源は燃え盛るような憎悪だ。憎悪に裏付けられた少年の望み。それは、自らの手で叶えなければならない。今すぐにでもその望みを叶えたい。自分にはその力がある。なのに待ち続けているのはなぜなのか。堂々巡りをする思考。待ち続けた先にあるのは希望なのか、絶望なのか。

 待ち続けている間、数多くの人間が少年の周囲を行き交っていた。彼らは時に少年の体を傷つけ、皮膚を剥がし、針を刺して血液や体液を抜き取ってゆく。それらの行為が何を意味するのか、少年は理解すると同時に、強く拒否していた。己の意思は唯一絶対のもの。切り離すことなどできはしない。

 そして少年は待ち続ける。己の望みが叶う日を。




初めて彼と対面した時、彼女が感じたのは深い失望だった。引き継ぎの情報で、分かり切っていたこととはいえ、目の前の対象物のおぞましさに、軽い吐き気を覚えたくらいに。

彼女は女性として初めて、ザグレス復権の切り札としての少年の管理責任者を任命されていた。当初は、魔導を熟知した最高権威者がその任に就き、知識と技能を駆使して、少年の生命維持と同時に、宿した魔力の汎用化を試みていたのだが、その努力はことごとく徒労に帰していた。採取された少年の体細胞が増殖することはなく、オリジナルの個体だけが生命反応を維持し続ける。そんな状況が変わることなく月日が流れ、汎用化の試みは半ば放棄されて、オリジナルの個体の生命維持管理だけが継続されていた。それは、経験の浅い魔導士にも努まることであり、それゆえの失望から、彼女は《彼》に、八つ当たり気味の嫌悪をも覚えていた。

とはいえ、《切り札》としての少年の存在の重要性は薄れることなく、歴代の王の直属のもと、秘密裡に少年は《保護》されてきたのだった。その間、ザグレス経済は、閉じた世界での循環経済を確立させ、安定した社会を築くまでに至っていたのだが、封鎖前の栄華には遠く及ばず、その因となったキルギアへの遺恨は語り継がれ、《壁》からの解放は、国是として代々の国王に受け継がれてきたのだった。

 少年の管理者を引き継いだ彼女は、気を取り直すと、生来の生真面目さで少年の生命反応を持続させ、既に数えきらぬくらいに試みられた、少年の宿す魔力の汎用化実験とさらなる解析を繰り返していた。

 地下の閉ざされた空間での孤独な作業と、一向に得られない成果は、自身が自覚する以上にストレスをため込むものだった。その反作用からか、彼女の作業の対象物である《彼》に対する感情は、微妙に変化していた。

 最初は単なる《モノ》としてしか考えられなかった《彼》のことを、生命を宿した稀有なものとしてその存在を意識するようになったのだ。命を宿しているのならそれなりの敬意は払うべきだろう。《生命体》として彼のことをもっと知るべきだ、そんな意識が芽生えると、行き詰まっていた解析、研究に対する意欲がほのかに高まり、《彼》に対する新たなアプローチを模索していた。それでも一向に成果は得られなかったものの、憂いや迷いは薄れ、真摯に解析、研究と、新たな実験に取り組んでいた。

 そんなある日。

 日課である生体データをチェックしていて、何気なく《彼》の眼球の動きを追っていると、常に自分のことを捉えていることに彼女は気づいていた。赴任当初であれば薄気味悪く感じていただろうと自覚して、彼女は自嘲気味に笑う。束の間の笑いを収めると、彼女は彼の視線と真っ直ぐに向かい合っていた。明らかな意図を持ったその視線は、なにがしかのメッセージに違いない。その意図を読み解こうと、彼女は仔細に彼の体を観察する。彼女の指がとある部位に触れた時。彼の瞳の微妙な変化を彼女は見逃さなかった。



―とんでもない坊やだわね―



その変化の意味を、彼女は直感的に理解していた。そしてそれは、《彼》に対する新たなアプローチを啓示するものだった。彼のデリケートな部位をさらに観察すべく指を滑らせると、その部位はぴくりと動き、萌芽するかの如く、新たな細胞組織を形成していた。

試験管に採取された白い液体が、地下空間で揺れる仄暗い照明の下で淡雪のような光沢を放つのを、彼女は矯めつ眇めつ眺めていた。その液体が、《彼》の魔力を継承するものかを確かめる最も単純で確実な方法。市井の女性であれば二の足を踏むような決断を、彼女はあっさりと下していた。




 これまでとは違う感覚を覚え、少年は安堵する。これまでであれば、身体を何の配慮もなく乱暴に削られ、蔑みのこもった視線とともに嘲るような言葉が投げかけられるのが常だった。けれど、彼女は違う。当初こそ怯えてぎこちなかったが、繊細な手つきで扱ってくれる。母親が子供に接するように。彼の視線は自ずと動いて彼女の姿を追いかける。憂いを帯びて俯いていたかと思えば、次の瞬間には凛として面を上げ、きびきびとした動きで羊皮紙にペンを走らせる。視線が捉える彼女の表情は目まぐるしく変化して飽きることがなかった。

 彼女の所作を眺め続けているうち、彼はこれまで感じたことのない奇妙な感覚を覚えていた。淡く胸を締め付けられるような感覚。それにつられて、微かに乱れる呼吸。そんな感覚の変化を見透かしたように、彼女は彼の体にそっと触れる。彼の体をなぞるように動いた彼女の手が、ある一点で止まると。彼の感覚の波はひときわ大きくなり、ぴくりと体を震わせていた。




 人工の羊水で満たされた透明な円筒形の中で、頼りなげに揺れる胎児。《彼》の遺伝子を継ぐべく成長しているのは女の子だった。既に胎児とは呼べぬくらいに器官が整っている《娘》の姿に、母である彼女は、にわかに沸き上がった不安を持て余していた。

 成長の経過は、間もなく臨月に相当する時間になる。人工の羊水の中から出て、外界での生を迎える日も近い。これまでに収集したデータでは、《娘》は《彼》が有する魔法をつかさどる遺伝子を引き継いでいることが確認されている。それは、かつてキルギアを壊滅させた魔力を宿していることの証だ。それをどのようにして、望むかたちで発露させることが出来るかを検証しなくてはならない。それを幼い命に課すことに感じる躊躇いを打ち消そうと彼女は軽く首を振る。母国の結界からの解放と、その元凶であるキルギア打倒は、ザグレスの積年の悲願であり、彼女とてそれを望んでいる、はずだ。にもかかわらず、憂いばかりが深まって為すべきことに集中できないでいる。

―キルギアノメツボウガ、アナタノシンノノゾミデスカ?―

《……ワカ……ラナイ》

―ナラバ、ナニヲノゾムノデスカ?―

《ワタシノ……ノゾミハ……》

 堂々巡りの自己問答の末に彼女ははたと気づく。結界を破る術がなければ、《娘》の能力を実証することが不可能なことに。結界に関しては彼女の管轄外であり、結界が存在する間、彼女に出来ることは何もないのだ。ザグレスの叡智を結集させての取り組みにもかかわらず、結界の無効化は目途すらたっていない。結界による封鎖から幾千の年月が経過したというのに。巷のごく一部では諦観して、キルギアとの和平を説く者すらいるという。そんな状況下でこれまで取り組んできた自身の労力は何だったのか。

 落胆して項垂れる彼女の耳が、微かな音を捉える。ゴボ、ゴボゴボ。音の源は、ガラス管の中の羊水だ。微かに泡立った羊水の中で《娘》が小さな手足を動かしている。項垂れていた顔を上げて、彼女はじっと、時を経つのも忘れるくらいの長い時間、《娘》の動くさまを見つめていた。




 程なくして、羊水の中から一つの命が外界に生まれ出た。



 産着を身に着けた《娘》を抱いて、彼女は《彼》の前に立っていた。生まれて間もない《娘》は、目をしっかり開けて《彼》のことを見つめ、強い興味を示すように《彼》に向かって両手を伸ばし、ばたばたと振っていた。

 《彼》の外見は、一般の人間から見たら醜悪でしかないだろう。にもかかわらず、《娘》が示す無垢の所作。彼女はその意味を誰よりも知っている。剝き出しの《彼》の眼球はゆるりと動いて、《娘》の所作を追っている。

 近づいて、《彼》の視線の高さに合わせるように屈んで、彼女は干乾びた《彼》の頭皮をそっと撫で、耳元に唇を近づける。

「きみとはこれでお別れよ」

 穏やかなトーンの声が、唇から漏れる。そのまま腰を上げると、《彼》の反応を一顧だにすることなく、彼女は《娘》とともに《彼》の元を離れていた。

 《母親である》彼女の腕の中で《娘》は拗ねたように体をくねらせ、《父親である》彼との別れを惜しむように手足をばたつかせていた。




 控えめになされた彼女の意見具申に対し、国王は玉座の上から、

「それがそなたの望みなら、好きにするがよい」

 即座に告げられたその答えは、彼女が全く予期していないものだった。

「そ、そんな……陛下は本当にそれでよろしいのですか」

 思わず本末転倒な問いを投げ返してしまうくらいに。

 王は緩く笑んで、

「何を狼狽えているのだ。そなたにとってはこの上ないことではないか」

「はっ。恐れ入ります。御意に感謝いたします」

 かしこまって答える彼女に、王もまた表情を引き締め、

「ときに、そなたは―」言葉を切り、王はゆっくりと、ことさらに威厳を込めたような口調で、

「真にキルギアの打倒を望むか」

 即座に答えられず、彼女は、視線を宙にさまよわせる。間髪を入れず王は、

「正直に言う。我は、修羅の歴史の再来は望まぬ」

 期せずして告げられた王の本音に、彼女ははっとして視線を王に向ける。その視線を射抜くようにはね返して、

「誤解するでないぞ。壁からの解放はザグレスの悲願であることに変わりはない。その先の世を、我は思い描いているのだ。壁からの解放を成し得たのと同時に《いにしえの力》を行使する必要はない。我らが国権が担保されれば、無為な争いをして世に修羅を招くことなかれ、だ。ただし、キルギアが修羅を望んで我が国に牙を向けるのであれば、容赦はしない。その時にはそなたの手の中の赤子の力、行使させてもらう。それまでの猶予だ」

 眼光鋭く言い切ると、それきり王は口を噤む。

 抱かれた《娘》がむずかるように声を上げたのを機に、王に一礼して、彼女は玉座の前を去っていた。

 穏健派と目される現国王の厚意によって《いにしえの力》の継承者である彼女の《娘》は、ティアと名付けられて王宮を離れ、市井では名門貴族として名を馳せ、王宮の信も厚いアヴュレット家に里子として託されることとなった。

 全ての事情を話したうえで、母親としての自分のことを決して本人に明かさないことを確約させて娘を託した後、宮廷魔導士であった母親は自らの意思で宮廷を去り、町の片隅で、庶民としてのつつましやかな生活を営む道を歩んでいた。

 里親の愛情に育まれて、ティアは健やかに成長し、平穏に暮らしていた。穏健派の国王が人知れず暗殺され、得体の知れぬ側近を従えた強硬派の王が即位するまでは。




 王都の雰囲気がとげとげしく不穏になってゆくのを、彼女は肌で感じ取っていた。即位したばかりの新国王は、キルギアに対する強硬な姿勢を喧伝して国民感情を煽っていた。

喧伝が《いにしえの力》の復活と行使に及ぶに至り、ただならぬ事態を予感して、彼女は心を軋ませていた。

 そんな折、だった。

 王都の上空を、翼をもつ船が編隊で飛行しているのを、王都の市民は呆然と見上げていた。常識の範疇を越えた乗り物の出現に、ただ驚くばかりの市民に向け、間髪を入れずに国王は、その意図を宣言していた。その船が、中空高く飛んで壁を超える能力を持つ、対キルギアの最新鋭兵器であると。その報に国民は、祖国解放の日は近いと大いに湧き立っていた。

 下町の市場で庶民たちの歓喜の声を聞きながら、ひとり、彼女は湧き立つ憂いを押し殺していた。

 ささやかな買い物を済ませた彼女が住まいの長屋に戻ると、この界隈には不釣合な身なりをした紳士が戸口に立っている。紳士の姿を認めた彼女は息を呑む。

紳士は一礼すると、

「お久しぶりです、イレーネ様」

 穏やかな声を発していた。

「ラウリ……様」

 アヴュレット家当主であり、ティアの里親であるラウリ氏の来訪の意を素早く察し、はやる思いでイレーネは、

「ティアは……娘は無事なのでしょうか」

 ラウリは、感情を交えることなく、

「ええ、今は無事です。ただし、あまり時間はない」

「どういう、ことです?」

「王宮からの遣いが、ティアの召還を求めてきました」

 危惧していたことが現実となったことに動揺し、イレーネはラウリに詰め寄って、

「ラウリ様はそれを承諾したのですか、どうなんです」

 彼女の剣幕に、ラウリは本来の感情を取り戻したように表情を歪め、

「否、です。ティアの王宮への召還など、わたしは望んでおりません。だからこそ、こうしてイレーネ様のもとを訪れたのではないですか。前国王の側近魔導士まで務めたイレーネ様のお力添えをいただくために」

「私に、何をせよと?」

「我々一家がキルギアに渡ることの手助けしていただきたい」

「は……?」

「今の国王様は大変に危険なお方だということはイレーネ様もご承知でしょう。そんな方のもとに《いにしえの力》を宿すティアを捧げられましょうか。そんなことをしたら、キルギアとの修羅の争いになります。そんなくらいなら―」

「あなたとティアが、先を越してキルギアの渡ると? ばかげています、危険すぎるではないですか!」

「危険な賭けなことなど承知しています。けれど、今何もしなければ、間違いなく誰もが、その誰よりもティアが望まぬ事が起こります。あの子自身の能力の解放によって。その前に、我々一家が、王宮に先駆けて民間人の立場でキルギアと交渉できれば、望みが生まれます。無論、ティアの能力のことは極秘にします。そのうえで交渉が決裂して、キルギアが我が国に強硬な態度を示すようであれば、大変に不本意ですが、両国の開戦もやむなしとしましょう。ここで重要なことは、ティアの能力が覚醒前だということです。彼女の身がキルギアにあれば、国王とて、おいそれと彼女の正体を明かすことは出来ないはずですから。キルギアでの我々の処遇と、我が国とキルギアとの雌雄は運任せ、ですが」

「そこまでの覚悟がおありなのか……」

ラウリの揺るぎない決意に、イレーネは言葉に詰まる。彼の言うように、ティアが覚醒前で、なおかつ、正体がキルギア側に知れなければ、僥倖はある。

イレーネは表情を引き締め、

「いくつか、問いたいのですが」

「はい、何なりと」

「《空飛ぶ船》は確実に結界を越えられるのですか?」

「ええ。厳密にいえば、船自体に結界を破る能力があるわけではなく、結界に存在する《抜け道》を通るだけですが」

「なるほど。《空飛ぶ船》を調達できればキルギアに渡ることが出来るということですね。けれど、どうやって船を調達するというのですか。わたしにはそんなことが出来る権限などないのですよ。残念ながらお力にはなれない」

「ヴァレス殿をご存知でしょう」

 既知の人物の名に僥倖を見いだし、イレーネははっと顔を上げてラウリを見つめる。

 切れ者の科学者として異彩を放ちながら、政治能力にも長けた件の人物、ヴァレスは、穏健な政治思想から、前国王のもとでは重鎮の地位に就き、当時は夢物語だと揶揄されていた《空飛ぶ船》の開発にも携わったと噂で聞いている。彼が新国王の下でどのように遇されているのかは知る由もなかったが、前国王の下で、彼と同じく側近を務めた縁から、イレーネは彼の人となりをよく知っている。彼であれば、協力を仰げる。《空飛ぶ船》の開発に関わったのなら、クルーを抱え込んで船を動かすことも出来るかもしれない。

「ヴァレス殿は、まだ王宮にいらっしゃるのですね」

 ラウリは大きく頷き、

「ヴァレス殿であれば十分信に足るはず。彼とはすぐにコンタクトは取れるでしょうか」

「承知しました。彼がまだ王宮にいるということであれば、すぐにヴァレス殿に宛てた密使を立てましょう」

 静かな瞳がひたと向き合う。

「ティアの、娘のことは―」

「ティアの、娘のことを―」

 図らずも重なった言葉に言葉を止め、二人は静かに頷く。

 やわらかな陽光に包まれて、裏路地を去ってゆくラウリの姿を見届けると、イレーネは身を引き締めて居室に戻り、密書をしたためるべくペンを執っていた。

 数週間後―

 初めて結界を越えた《空飛ぶ船》は、キルギア本土にたどり着くことなく、乗員もろとも波濤に呑まれて姿を消していた。ただ一人を除いて。

 その事実を知るべくもなく、キルギアに渡ったであろうティアの無事を祈りながら日々を過ごしていたいイレーネの元に、ザグレスに残ったアヴュレット家当主代理からの驚くべき密書が届いた。王宮内にティアが幽閉されているようだと。その意味を即座に理解すると、居ても立ってもいられず、イレーネは、ティアの父親である《彼》の意思を見届けるべく、王宮に潜入していた。




                                      続く

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