(5)絶望の中から
フェレスは、全身を火照りと痛みに包まれていた。
体に現実感がなく、ふわふわとして手も足もうまく動かせない。
そんな状態で、彼は走り去っていく男を追っていた。
大事な契約書の入ったあの鞄を奪った男だ。
「待て! それを、それを返せ!」
フェレスは、叫びながら男を必死に追う。
「返せ! それがいるんだ! フランシアを助けるのには……!」
だが、どれだけ走ってもフェレスはその背中に追いつくことはできなかった。
それどころか、男の姿はみるみるうちに遠ざかり、雑踏の向こうへと消えていく。
「待ってくれ、返してくれ……! 僕は……!」
息が切れ、体の痛みと重さにフェレスの足が動かなくなっていく。
胸が激しく脈打って口の中が乾き、頭がずきずきと痛んだ。
そして、力尽きて両膝に手をつき、その場に立ち止まったフェレスの前に、不意に誰かが立ちはだかる。
重い頭をのろのろと上げた彼が見たのは、派手な黄緑色のひょろ長い男と、灰色の太った男だった。
「召使い、ご主人様が断罪されるところを見せてやる」
「申し訳ございません、頼りない弁護士で……」
にやにや笑って言いながら、二人はフェレスに道を譲るように左右へ下がる。
そこには、縛り首にされた彼女がぶら下がっていた。
「あぁあ、あぁあああ、あああああ! うわぁああああああああ!!」
絶叫。
そして跳ね起きたフェレスの全身を、今度ははっきりとした激痛が襲った。
一拍置いて、痛みに呻く彼の額と肩を誰かが力強く押し、ぼふん、と柔らかい枕へとその身を沈めさせる。
「寝てろバカ野郎! びっくりさせやがって!」
「アレックスさん! もっと優しくしてください! フェレスは怪我人ですよ!?」
「そうだよアレックス、見ろよ。ボロボロじゃんか!」
「うるっせー! せっかくおれが時々鍛えてやってるのに、こんなにボコボコにされやがって!」
三者三様の声が聞こえる中、フェレスはゆっくりと目を開けた。
安い宿屋のものとは違う柔らかなベッド。
上品そうなカーテンと、贅沢な大きいガラス窓。
そして、自分の顔を覗き込むお嬢様の従者二人と少女人形。
「フランシア……」
「フェレス、大丈夫です? ごめんなさいですよ。本体のほうなら治癒魔法をかけてあげられるですけど……」
「そんなことより、鞄……契約書は……」
「それも、ごめんなさいです……。プリシラ様に部屋をお借りした後、一応探しには行ったですけど……」
無表情の少女人形は、フランシアの声で申し訳なさそうにそう答えた。
長いため息とともにベッドに沈み込んで、フェレスは絶望した顔で唇を噛む。
脳裏にちらつく、先ほど見たばかりの夢の光景。
今度は現実であれを見せられるのか。
ぐす、とフェレスがひとつ鼻をすすると、少し遠くで勢いよく本を閉じる音がした。
「わたくしの屋敷で泣くのはやめてちょうだい。そんな情けない男に部屋を貸すのは嫌よ」
小ぶりな本を持ったプリシラはそう言いながらフェレスの横たわるベッドに歩み寄ると、泣き顔のフェレスを以前と同じ意志の強そうな瞳で見下ろした。そして彼女が本を持ったまま腕を組むと、アレックスが素早く持ってきた椅子に悠々と腰を下ろす。
「起きたなら何があったのかわたくしに教えなさい、フェレス」
「そうだフェレス。どこのどいつにやられたのか教えろ! おれが代わりにまとめて空の果てまでブッ飛ばしてきてやる!!」
「アレックス、それは後になさい。まずは最初から順番にわかるように話して。フランシア、あなたもよ」
そういうプリシラの口調や声は穏やかだったが、表情は明らかに怒りをはらんでいた。腫れあがった腕で涙を拭くフェレスの隣で、少女人形のフランシアがくるりとスムーズに首を回して口を開く。
「実際のところ、わたしもよくはわかってないですよ。わかる範囲でのことの起こりは、クロードさんという検事の方が、カナベル村で起きた詐欺事件について証言をしてほしいって訪ねて来られたですけども」
「クロード? クロード・ジャネス? 検事で黄緑色の?」
「フルネームは存じないですけども、色はおっしゃるとおり黄緑でしたからたぶんその方だと思うですよ」
無表情な少女人形がそう答えると、プリシラは持っていた本を自分の膝に乗せ、その上に両手を重ねて呆れたようにひとつ鼻を鳴らした。そして彼女は隣に立っている少女人形を見上げると、片手で顔にかかった濃い金色の癖毛をかき上げて訊ねる。
「あなた、あの男を知らなかったの? 嘘と捏造と脅迫で法廷を牛耳って、邪魔な相手を好きなように罪人に仕立て上げてるって噂なのよ。実際、わたくしの知っている人も何人か考えられないような罪で牢獄に送られているわ。田舎暮らしだからといって世間の動きに疎いのもほどほどになさい」
「……知っていれば、連れていかせなどしなかった……」
「すみませんお嬢さん。ぼくもいたんですけど、奥で作業に夢中で……」
涙を拭いた腕で目を覆ったまま、フェレスが絞り出すように言った。プリシラの隣に控えていたガストンも、申し訳なさそうに肩を落とす。不機嫌そうな顔で眉を寄せると、プリシラはため息交じりに続きを促した。
「誰もかれも頼りにならないわね。……それから?」
「その後はなんだか牢屋みたいなところに連れていかれて、重さをごまかす魔法符を使った詐欺師で、拘束具を解呪する違法な魔法の使い手で、あと何か泥棒だなんて言いがかりをつけられたです。なんだか馬鹿馬鹿しくなって帰りたいって言ったら、逃げ出すつもりだってあの検事が叫んで、そのまま捕まえられちゃいました」
「なんだそりゃ、無茶苦茶じゃねえか!」
「その無茶苦茶を合法にしてるのがあの検事よ。……それで、あなたはいま牢獄の中からこれを動かしているというわけね」
「ああ、それはちょっと違うですけども……」
憤慨するアレックスを視線だけで制してからのプリシラの言葉に、少女人形は首を横に振った。戸惑ったようにまばたきしてからプリシラはガストンのほうを見たが、彼も肩をすくめてお手上げのポーズを取る。機構や造型はすべてガストンの仕事だが、動力や制御の部分はフランシアの魔法技術の上に成り立っているこの少女人形の現状については、ガストンの知識の範囲外だった。
「家で使った使い魔の護符をあの時まだ持っていたですから、取り上げられる前に魂の一部をこの子に転送したですよ。遠隔制御じゃなくて独立動作なんです」
「……そんなことして大丈夫なの?」
「使い魔を作るのとそんなには変わらないですよ。でも、たぶん護符を取り上げられちゃったせいで本体との情報のやり取りは全然できないです。普通の動物の使い魔なら護符なんかなくても意思疎通できるですけどね」
そう言った少女人形の動きが急に止まった。何事かとそれを凝視したプリシラと従者二人の前で、人形は無表情のまま小首をかしげると、少し茶目っ気のある声で言う。
「ごめんなさいです。ため息をついたつもりだったんですけど、この子は息をしてないものですからなんだか変な感じになっちゃいました」
「驚かせないでちょうだい。どこかおかしくなったのかと思ったじゃない」
「失礼したですよ。……そのあとは、この子の体で目を覚ましたわたしは、家にフェレスがいなかったものですから急いでサンズウォールまで走ってきて、門が閉まっていたので壁を飛び越えて……」
「待ちなさい。壁を飛び越えたって、あなたサンズウォールの街壁を飛び越えたの?」
事もなげに言う人形に、怪訝そうな顔で訊ねるプリシラ。
もともとは隣国との国境防衛基地だったこの街の壁は、ただの壁ではなく強固な防壁だった。壁面は上に行くにつれ反っており、その上端には鋭いトゲが侵入者を拒んでいる。
今は使われていないが矢や槍を通す窓、油や石を落とす仕組みなど、敵を追い払うための仕掛けに富んだ防壁も、さすがにひととびに飛び越えられることは想定されていなかった。
人形はやはり特段の感慨もなさそうに彼女の言葉にこくりとうなずくと、青い瞳をガストンのほうへ向ける。
「ガストンさんが心血を注いだ傑作ですからね。この子の力なら、街壁ぐらいひとっとびですよ。そのあとはフェレスを探して、助けて、こちらへお邪魔したです。わたしのほうは以上ですね」
「とんでもないわね……。まあいいわ、とりあえずフランシアのほうは要約すると『理由はわからないけど無理やり捕まえられた』ね。じゃあ次、あなたは?」
訊ねてから、プリシラは続いてフェレスのほうに目を向けた。少女人形と従者たちも、ベッドに横たわっている彼に目を向ける。
横になったままほとんど黙っていたフェレスは寝ているようにも見えたが、プリシラにそう問いかけられると彼はゆっくりと大きく息を吸い込んだ。そして、そこからさらに二度深呼吸してから、フェレスは腕で目を覆ったままゆっくりと話し出す。
「……フランシアが連れていかれた次の日の朝にサンズウォールへ来て、昨日クロードが『深夜のたぬき』を捕まえたという噂を聞いた」
「ごめんなさいです。お話に割り込みますけども、なんです? それ。ちょっと間が抜けた感じのお名前ですけど」
「貴族の家から宝物を盗み出しては街に銀貨をばらまいてる自称義賊よ。うちはまだ入られたことはないけれど」
少女人形の問いに、プリシラが静かに答えた。その答えにも首を傾げた彼女が、無表情のままさらに問いを重ねる。
「どうしてわかるです? 泥棒ってこっそり入ってくるものですよね」
「『深夜のたぬき』は花火とか煙とかいろいろ派手なのよ。入る時じゃなくて逃げ出す時の話だけど。わたくしも少しだけ姿を見たことがあるわ。全身ピンクの装束の太った……たぶん、男」
「わたし、その泥棒扱いで捕まったんでしょうか。服は着替えられても、太った男の方っていうだけでもう全然違う人だと思うですけど……」
「その話は後にしましょう。フェレス、続きを話してちょうだい」
ひらひらと手を振ってプリシラが軌道修正を促すと、少女人形はぴたりと口を閉じた。表情が出せれば納得いかない顔をしていただろう雰囲気を醸し出す彼女に見つめられながら、フェレスはひとつため息をつく。
「司法局に行って『深夜のたぬき』に面会させてほしいと衛兵と交渉していたら、クロードがやってきた。フランシアを本当に捕まえたのか訊ねたら、法廷でお前の主人を断罪してやると挑発されたよ」
腕をベッドに下ろして、フェレスは閉じていた目を開く。金色の瞳は涙に充血して赤く染まっていた。その目を少女人形に向け、フェレスは話を続ける。
「僕は弁護士を探した。法廷で検事を相手に戦うにはそれしかないからな。図書館の司書にあたりを付けてもらって、クロードの息がかかっていない弁護士を片っ端からあたったのだが、全員に断られた」
「なんだ! どいつもこいつも意気地がねえな!」
「……その前に、その図書館の司書っていうのは信用できるのかしら」
「この街の図書館に通うようになって二年ほどの間、ずっと世話になっている顔なじみだ。僕は信用できると思っている。もし裏切られているのだとしたら、それは……僕の力不足だ。すまない」
横になったまま、フェレスはそう言って目を伏せる。その手にひんやりと冷たい軟質素材の手を乗せて首を横に振る少女人形。
「気にしないでも大丈夫ですよ。フェレスのすることなら、わたしはもう全然許しちゃうです」
「……いまはむしろ責められたほうが気が楽だ」
「反省会はともかくさ、そこからどうしてそんな大怪我につながるんだ?」
「……途方に暮れていた時に、さっき話に出た司書に偶然会った。そこにグラハムと言う弁護士が声をかけてきたんだ。昔、フランシアに世話になったことがあって、是非恩を返すために弁護をさせて欲しいという話だった」
話を聞いていた少女人形がかくりとまた首を傾げた。フランシアと同じ仕草で自分の顎に人差し指を当てると、彼女は青い瞳でそこすら豪華な作りの部屋の天井を見上げながら言う。
「たぶんその方のお世話をしたことはないと思うですけど……」
「そうだろうな。その弁護士は十年前にお前と暮らしている僕をあの家で見たと言っていた。……ありえない話だ」
「どういうことかしら?」
「僕があの家に来たのは五年前の事だ。つまり、あの弁護士はでたらめを言って僕に取り入ろうとしたんだ。声をかけて来た時も相当焦った様子だった。そのあと僕はその弁護士と話をしたが、その時も必死だったよ。どうしても受けなければまずい理由があったんだろうな」
そこで、フェレスは一旦話を止めた。少女人形が傍らのカップに水を注いで差し出すと、フェレスは痛みに顔をしかめながら身を起こしてそれを受け取り、口を付ける。再び手を差し出した彼女にカップを返してから、フェレスはひと心地付いたように肩を落とした。
「ありがとう、フランシア」
「いえいえですよ。……それで、その方とはどうしたです?」
「いろいろ情報を引き出してから契約した」
「なんでだ!? そんな胡散臭え奴と!」
「そうしておくべきだったからだ。裁判の三日前になっても被告や代理人が弁護士をつけなかった場合、公選弁護人というものが選ばれて、これは基本的に交代させられない。だが、とりあえず契約した弁護士をつけておけば、裁判が始まる直前でも交代させられるんだ」
「公選弁護人……あっ、クロードさんがその話してたときに出てきたですよ、グラハムさんのお名前! なんだかちょっと聞いたことがあると思ったです!」
「そうか……それで僕に近づいてきたのか、あの弁護士は」
あんな相手でも『さん』付けの彼女に微妙な顔をしながら、フェレスは納得したように呟いた。うつむいて視線をベッドに落としたまま、少年は肩を落として言葉を続ける。
「明日の朝にグラハムを担当弁護士登録して、裁判までになんとか他の弁護士に頼むつもりだった。だが、僕は襲われて肝心の契約書を奪われてしまった。あれがなければどうにもならない。改ざん対策もしたし、明日の朝までは自由に動けると思って油断していたんだ……」
話し終えたフェレスは、布団の上で強く拳を握りしめる。
少年の頭の中に渦巻くのは、後悔と絶望。
だが、沈鬱な表情でうつむいている彼に、プリシラは膝の上の本をアレックスに渡しながら立ち上がると、仁王立ちで腕組みをして問いかける。
「さっき全員に断られたと言っていたけれど、他の弁護士に頼むつもりだったと言うことは、まだ当てがあるということでいいのかしら、フェレス」
「あるには、ある……だけど、今となってはもう……」
ぱん、と、乾いた音が鳴る。
右手を振りぬいたプリシラは、頬を打たれて傾いたフェレスを真顔で見下ろしていた。
「あなた、今の言葉を誰の前で言ったのかわかっている? 確かに本人そのものじゃないかもしれない。でも、助けるつもりだった相手の目の前で諦めの言葉を吐くなんて最低だわ!」
「お嬢さん……」
「まだまるまる二日あるわ。今日も入れればさらに半日ある! わたくしは諦めてなんてやらないわ。フランシアは……その、まだ作って欲しいものがいろいろあるし、あ、秋にはお爺様が楽しみにしてらっしゃる食事会にも参加してもらわないといけないんだから!」
言い切って勢いよくベッドに背を向けると、プリシラは金の髪をなびかせて部屋を飛び出していった。ガストンが慌ててその後を追う。
残ったアレックスは、まだ打ちひしがれていたフェレスの胸倉を掴んで引っ張ると、頭突きでもするかのように顔を近づけて彼を怒鳴りつけた。
「しっかりしろフェレス! おれが稽古つけてやった時のお前はもうちょっとなんてぇかこう、ギラギラしてただろ! 普通に変えられないならその弁護士をぶっ飛ばすとか、それもダメなら牢破りとか、なんか……なんかあんだろ! フランシアさんが大事なら諦めんな!」
そしてアレックスもフェレスの体をベッドに放ると、彼の主人と相棒を追ってけたたましく部屋を出ていった。残されたフランシアが少女人形の手をそっとフェレスに差し伸べる。だが、彼はただじっと見つめるだけで、その手を取ろうとはしなかった。ため息でも付くように身じろぎすると、彼女はゆっくりとした動きで少年の背を抱き、ひんやりとした人形の額をこつんと彼にくっつける。
「こんなことなら、なんとかして触覚もつけておいたらよかったです。せっかく素直に抱っこされてくれてるですのに、何にも伝わってこないですよ」
「フランシア、僕は……」
「いいですよ、フェレス。こんなになるまでがんばってくれたんですもの。わたし、フェレスにはこれ以上わたしのために傷ついて欲しくないです。だからやめてくださいね、牢破りとかそんなの絶対だめですよ?」
穏やかに、諭すようにフランシアは静かに彼にそう告げた。それきり、初夏の日差しが差し込む広い寝室を静けさが支配する。そこだけは柔らかい人形の手で、できるだけ優しく彼の背を叩くフランシア。
軟質で自然だが表情の作れない人形の顔を思って、微笑んであげられたらいいですのに、と彼女は声に出さずに呟いた。そしてしばらくの後、彼女はもうほんの少しだけ強く少年の体を抱きしめると、しみじみとした声で囁く。
「五年だけだったですけど、わたし、フェレスと一緒にいられて楽しかったですよ。もっといろいろ、一緒に遊んだり勉強したり暮らしたりしたかったですけど――」
「……いやだ……」
「はいです?」
「いやだ……。僕は、フランシアがいなくなるのは嫌だ……!」
骨がきしみそうなほど強く、フェレスは膝の上の拳を握りしめる。
彼女の言葉ににじむ諦めの響き。
それに気づいたときの絶望感。
こんな気持ちを自分も彼女に味わわせてしまったのだと、フェレスは強い後悔と自分への怒りに身を震わせた。
「フェレス……」
「やってやる……。牢破りだって、あの弁護士の排除だって……!」
「フェレス、落ち着くです。お願いですよ。牢破りなんて無理です」
「だったらあの弁護士を排除して……!」
「やめてください。そんなことしてどうなるって言うです?」
「どうなるって……!」
その時、フェレスは自分の思考に小さなひらめきを感じて言葉を止めた。
そんなことをしたらどうなるのか。
牢破りは確かに難しいが、弁護士の排除はできないことではない。
公選弁護人は被告人またはその代理人によって交代させることができない。だが、被告人や代理人によって交代させられなくとも、絶対に交代させられないわけではない。
例え自分が排除しなかったとしても、事故や病気など弁護士が裁判に出られなくなる要素はいくらでもある。何があっても交代させられないのでは、裁判制度が成り立たない。
なにか、他の制度があるはずだ。
絶望に目を塞がれて見えていなかった他の道。
そこにたどり着いたフェレスの唇が、小さく短く言葉を紡ぎだす。
「……まだ、負けていなかった」
まだ負けていない。まだ戦える道があるかもしれない。
痛む体に現実感と力が戻ってきたようにフェレスは感じていた。
絶望と悲しみと怒りでぐちゃぐちゃだった彼の頭に思考が戻ってくる。
「フェレス、危ないことは……」
「フランシア」
彼女の言葉を、フェレスは自分の言葉で遮った。
そして、彼はベッドから立ち上がると、目の前の少女人形の固い体を抱きしめる。
「絶対僕が助けてやる。お前が牢獄へ送られても、死刑台へ送られても、僕はもう二度と諦めない」
「……フェレス」
その時、部屋の戸が少し軋むような音がした。目の前の人形は抱きしめたまま、フェレスは瞬時にそちらへ顔を向け、鋭く叫ぶ。
「誰だ!」
「……ごめんごめん、ぼくだよ。お嬢さんに『あの二人はただの客じゃなくて匿ってる相手なのに、あんたたち両方ついてきてどうするの』って怒られちゃってさ。で、ぼくだけ戻ってきたらこのシーンだろ。お邪魔かなって思ったんだけど」
「……いや。ちょうど力を借りたかった所だ」
扉の陰から顔を出したガストンに、フェレスは彼女の体をそっと離して向き直った。そんな彼の様子に、面白いものでも見つけたようにガストンが目を丸くする。
「お、なんだ? さっきまで死人みたいだったのに、ちょっと行って戻って来る間になんか元気になってるじゃん。どうしたんだ?」
「あと二日半ある、自分は諦めない。……お前の主人がさっきそう言った。それが身に染みたんだ。だから、僕もそうすることにした」
言って、フェレスは口元に笑みを浮かべた。主を持ち上げられたガストンは腕を組むと、己のことのように得意げに何度もうなずいてみせる。
「そうかそうか、うちのお嬢さんはやっぱりいいこと言うよな。ぼくらも昔それに痺れて、ずっとお仕えさせてもらってるんだ。とりあえず元気になったならよかったよ。ぼく、お前のそういうふてぶてしいところ結構好きだぜ」
そう言ってから、ガストンはフェレスを見てにやりと笑った。悪戯っ子のような、それでいて少しの狂気と邪悪さも感じられる、不敵な笑み。
「……で、ぼくの力を借りたいんだって? いいぜ。さっきの感じだと、なんか無茶するつもりなんだろ。聞かせろよ、フェレス。最近はお嬢さんの手前もあって大人しくしてたけど、ぼくちゃんこう見えても悪だくみ大好きなんだ」




