1話 ゆきさん
私は心臓の鼓動を抑えるので必死であった。
電灯の光りは心もとなく、オレンジの光で彼女の顔を照らした。
そんな彼女が普段とは違う雰囲気を纏っているような気がして、私は意味もなく手遊びを繰り返していた。
いや、恐ら私は手の震えを隠すためにとりあえず手を動かさざるを得なかったのだろう。
その時が近づくにつれてこのまま死んでしまうのではないかと思うほどに心臓は鼓動を早める。
恐らく、私の寿命は1年は縮んだだろう。
私は今、一世一代の異性への告白をしようとしているのだ。
これは私がたった4ヶ月の留学で経験した体験談である。
しかし期待はしないでいただきたい。これを書いているのは本当に衝動に寄るものである。
震える手で、添削もそこそこに慌しく執筆しているのだ。
つまるところ、私は動揺している。
とにかく私は、このショックを作品の創造にぶつけ、少しでもこの動揺した気持ちを消化したいだけなのだ。
ともかく、それとしてこの物語にハッピーエンドは期待しないでいただきたい。
あの野郎絶対許さねぇ。
まず、わたしは20歳のただの大学生である。名前は荻野大輔としておこう。
今まで頑張ってきたことと言えばラグビー、筋力トレーニングと少々の中国語だけだ。
ちなみに恋愛経験はほぼ0。風俗に友人と場の空気で一度行ったことはあったものの、本番まではしなかったので童貞である。
ちなみに"ほぼ"と言ったのは19の時同じ授業を取っていた中国人の女の子に告白され、キスすらする前に結婚を迫られ、プレッシャーを感じた私がすぐに振るというなんとも恋愛と呼ぶには少々刹那的すぎる出来事があったにすぎない。
無論、私は美形ではない。スポーツができるわけではないし、楽器が弾けるでもない。
ただただ女の子に話せる事と言えば少しのラグビー経験と少々のオタク知識である。
正直言って男としての魅力は限りなく低いと感じている。
しかしこう言ってはなんだが、私は凄まじいほどの不細工ではないという自負は正直未だにある。
この一瞬できた彼女に凄まじく肯定されたおかげかは分からないが、もともと調子に乗りやすく他人に流されやすい私にとってはその存在が私の自身に大きな影響を及ぼすのは当たり前なのである。
まあ私の詳細を知った所で得する読者はいないであろう。
だがとにかく、私がラノベ主人公のように女の子を侍らせまくる力があるわけではないということは理解して頂きたい。
では早速物語の始まりについて書くとしよう。
留学が決まった。行き先はかの大国、中国の北京である。
中国を選んだ理由といえば中学生の頃三国志が好きだったのと町中でよく見かける中国人の会話内容が気になったからに過ぎない。
ともかく、さほど大したビジョンはなかった。
大学のプログラムなので、毎月返済不要の奨学金が振り込まれる上に、飛行機代、保険代や寮費もタダ。奨学金も毎日そこそこの贅沢をしても問題はない金額だ。
親に迷惑をかけたくなかったのでそれがこのプログラムの最も魅力であったと感じていたと思う。
というか単純に既存の人間関係とは違う場所で、バイトもせずのんびり過ごしたかっただけかもしれない。
とにかく私は友人や家族との別れもそこそこに、9月の始まりにたった一学期の留学に出発したのであった。
北京に着いた時は意外に空気が綺麗だと感じた。
後から聞いたが、これは同時期に現地で首脳会談のようなものがあったからだとかなんとか。まあどうでもいい。
初日は到着したのが遅い時間という事もあって大学内にあるホテルに泊まった。
部屋はまあ、流石中国といったレベルであったが。
疲れもあってかすぐさま寝たことを覚えている。
次の日は朝早く起きてすぐさま入寮の手続きに行った。
朝早かったというのにそこそこの数の外国人が列をなしており、私は30分ほど待つことになった。
中国はいろいろあってツイッターやグーグルが使えないので列に並ぶ間はとにかく暇だ。前に並ぶ人々が何人であるかを推理する、なんてことをして暇つぶしをしていた。
その時、列を外れて立つ一人の男性が目に入った。
身長は高くガタイがいい。髪は目まで伸ばしているが、不思議と不潔な印象を受けなかった。
恐らく韓国人か中国人だろう。そう推測しているうちに、彼がこちらに向かって歩いてきている事に気づいた。
私はさほどコミュ力は高くはないので敢えて目を合わせない様にした。
だが彼は私に話しかけてきた。
それは中国語であった。今思い返せば簡単な構文だったが来て二日目の私は動揺して口をパクパクさせる事しかできなかった。
彼はそれを察したのか今度は英語でそれを尋ねてきた。
「Where are you from?」
出身を聞かれたらしい。
私は日本から来たと即答すると彼は嬉しそうに顔をにやつかせこう言った。
「ああ、日本人ですか」
流暢な日本語。私は彼が日本人であると確信する。
同時に安心感で心が満たされた。
彼の名前は金田雅之。まさゆきからとって"ゆきさん"と読んで欲しいそうだ。現在この大学の本科生であり、来年卒業を控えている大学4年生だ。
そして後に知ることになるが、私が出会う人々の中でも群を抜いて印象的な人である。
実は前年同じプログラムで留学した私の先輩と面識があり、私の事も先輩づてに聞いていたらしい。
彼の通訳もあって手早く寮の手続きを終えることができ、そのまま私の部屋まで案内してくることになった。
勿論、中国版のLINE "we chat"で連絡先を交換する。
ゆきさんは部屋の前まで案内してくれたのち、後で昼ごはんでも食べようと約束して別れた。
寮の部屋は意外と広かった。2人部屋だからと言うのもあるだろうが、ベッドと机、クローゼットが一対用意されていた。
ちなみにルームメイトはまだいない。荷物もないので手続きすらしていないのだろう。
私は少しテンションが上がってしまい、ベッドに強めに飛び込んだ。
硬い!
びっくりした。経験したことがない高反発だ。これは後ほどどうにかしなければと思案を巡らせた。
そうだ、こういった事こそゆきさんに聞くのが一番である。
私は早速昼食の誘いをゆきさんに送った。
待ち合わせは寮の前だ。寮の前には乱雑に置かれた自転車とベンチが大量に並んでいた。
少しだけ遅れてゆきさんがやってきた。
彼が案内してくれたのは寮から歩いて2分のこじんまりとしたお店だった。
ゆきさんが中国語で何か頼むと、5分後くらいにサンドイッチのようなものと、水餃子が入ったスープが運ばれてきた。
サンドイッチを頬張る。少しパンが乾燥しているような気がする。それに肉の風味も味わったことのない独特さがあった。
ゆきさんに聞いてみると、それはロバの肉だそうだ。
ここに来る時に乗った飛行機で食べたハンバーガーもこんな味がした気がする。点数にするなら50点
そしてもう一方の水餃子のスープを頂く。
暖まった水餃子を噛むと一気に肉汁が広がり...と思いきや再び独特な風味。
というか臭い。
私の表情が険しくなったのに気づいたののか、ゆきさんは納得したように手をぽんと叩いた。
「あぁ、パクチーを抜くの忘れてたわ」
「な、なるほど。パクチー...」
確かに考えれば水餃子の中の緑の草の様なものから変な味がする様な気がする。
後は作業だった。水餃子を解体し、パクチーを抜きつつ食べる。
それに集中しすぎたのか、私はするべき質問をしていなかった。
というか忘れていた、完全に。
ただ他愛もない会話をするだけである。
ゆきさんは島根県出身だった。そして中学校から高校までは韓国で過ごし、そこから大学で中国に留学したらしい。
なんとグローバルな人なんだ。
話を聞けば聞くほど彼は凄いところばかりだった。英語、韓国語中国語も殆どネイティブレベル、スペイン語も勉強中。大学の単位はほぼとり終わり、余った時間はトレーニングと勉強。お酒は飲まず、タバコも吸わない。ついでにサッカーは一時期プロを目指していた事もあり、大学チームのエースらしい。
私はここまで聞いて、ついに聞いてしまった。
「どうしてそこまで頑張れるんですか?」
正直に言って怠惰に生きてきた私にとってゆきさんは物語の登場人物のように現実味がないように思えた。
だから単純に気になったのだ。彼がいかにこの様な努力を続けているのか、そしてどういった気持ちでやっているのかを。
「俺は一人の女の子を幸せにするために生きているんだ」
これまた、現実味のない言葉が飛び出した。
アニメや漫画の世界で聞くような言葉...しかし彼はあくまで真顔でそれを言い放った。
「女の子って...それは彼女ってことですか?」
「いや、彼女とはちょっと違うな」
「え、ゆきさん彼女いないんですか?凄くいそうなのに」
これは本心である。ゆきさんの顔はずば抜けてハンサムではないが単純にモテそうだと思った。
「彼女っていうか...婚約者かな」
「え、婚約者...?許婚、的な?」
「んー...」
ゆきさんは少し考えこむように顎を撫でた。
自分としては若干22歳で、それも付き合ったこともない人と結婚するというのはいささか不安である。
むしろ嫌であると言ってもいい。できることなら自分で決めた相手と付き合ってから結婚するのが理想だと思っている。
だがそんな考えを見透かした様な顔をして、ゆきさんは急に神妙な顔つきになってこう言った。
「荻野くんはさ、宗教とか興味ある?」
ここから私のカオスな留学生活が始まるのである。