第57章-第59章
第五十七章
クーパーウッドがペンシルバニアのイースタン刑務所で費やした時間は、入所日から出所まででちょうと十三か月だった。この結果に影響を与えたのは、一部は彼の働きかけで、一部はそうではないものだった。まず、収監から約半年後にエドワード・マリア・バトラーが自宅の仕事部屋で椅子に座ったまま息を引き取った。アイリーンの素行がバトラーの大きな負担になっていた。クーパーウッドが判決を受けてから、とりわけ彼が刑務所で肩にすがって泣いたときから、アイリーンは父親を目の敵にするようになった。その態度は子供がとれば不自然でも、苦しめられた恋人がとったと思えばちゃんと説明がついた。バトラーは高い関心を持ってステーネスの獄中生活を見守っていた。たとえそのステーネルに恩赦が下っても、自分には下らないようにバトラーが自分の影響力を駆使している、とクーパーウッドは自分の考えをアイリーンに告げてあった。これは計り知れないほどアイリーンを激怒させた。チャンスを逃さず実際に父親を侮辱し、あらゆる場面で無視し、同じテーブルで食事をすることを極力拒み、同席するときは、なんとか席を交換してもらったノラの代わりに母親の隣に座った。父親の前では、もう歌も演奏もしなかった。さらには家に来てくれた、しかもある意味で彼らに会うのは彼女のためでもあった大勢の若い政治家の卵たちまで執拗に無視した。バトラーは、もちろん、その意味を理解していた。何も言わなかった。彼には娘の怒りを鎮めることができなかった。
母親も兄たちも最初はまったくわからなかった。(バトラー夫人にはさっぱりわからなかった)しかしクーパーウッドが収監されて間もなく、カラムとオーエンは事の真相に気がついた。増え続ける財力のおかげで歓迎してれた門閥の一つのあるパーティーから帰ろうとしたとき、オーエンはたまたま顔見知りの二人の男の一人が、玄関先でコートを直しながら立っていたときに相手に言った言葉を聞きつけた。「例のクーパーウッドが四年くらいこんだ場所を見たんだって?」
「ああ」相手は答えた。「賢い悪魔――って言ったっけ? 奴が懇ろにしてる相手の女の子もわかったよ――わかるだろ、誰のことか。ミス・バトラー――そんな名前じゃなかったっけ?」
オーエンは自分の耳が信じられなかった。もう一人の客がドアを開けて外に出るときに言うまで、話がつながらなかった。「じゃ、バトラーのおっさんは仕返しをしたってわけだ。おっさんが奴をぶちこんだって話だからな」
オーエンは眉を曇らせた。激しい闘志が目に浮かんだ。彼の力は父親ゆずりだった。こいつらは一体何の話をしているんだ? こいつらは、どんなミス・バトラーを念頭においてるんだ? これがアイリーンかノラの可能性はあるだろうか? どうすればクーパーウッドがそのどちらかと懇ろになれるのだろう? ノラはありえないとオーエンは思った。ノアはオーエンの知り合いの青年にぞっこんで、その青年と結婚するつもりなのだから。アイリーンはクーパーウッド夫妻とかなり親交があり、やたらとこの資本家のことを褒めていた。アイリーンってことが、ありえるだろうか? オーエンにはそれが信じられなかった。一度は二人の知人を追いかけて、その意味を問いただそうと考えたが、オーエンがステップまで出たときは、相手はすでにだいぶ通りを進んでいて、彼が行きたい方向とは反対方向にいた。オーエンはこの件を父親に尋ねることにした。
聞かれたバトラーはすぐに打ち明けたが、この件は伏せておくように息子に口止めした。
「知らせてほしかったな」オーエンは険しい顔で言った。「ぼくがあの野良犬を撃ち殺してやったのに」
「そうだろうな」バトラーは言った。「お前の人生と引き換えでは割に合わんし、残りの家族の者まであいつの汚名の巻き添えになるだけだ。あいつは汚い手口の代償を受けたんだ、これだけでは済むまいがな。誰にも言うんじゃないぞ。待つんだ。一、二年もしたら、出たくてどうしようもなくなるさ。アイリーンにも言うんじゃないぞ。話してどうなることでもない。あいつさえしばらくいなくなれば、アイリーンは自分の罪を自覚するようになると思うんだ」その後、オーエンは妹を大事にしようと努力した。しかし、オーエンは世間体や出世にこだわる人で、自分も世の中で頭角を現したいと熱望していたので、妹がどうしてそんなことをしたのか理解できなかった。妹が自分の前途に置いた障害に激しい怒りを感じた。とりわけ、敵は、やりたければ、これを手にして彼の顔面に投げつけるだろう――やりたくなるに決まってるではないか。
カラムがこの問題を知ったのは、まったく別の形だが、ほぼ同時刻だった。カラムは、市内にすてきなビルを構えるアスレチック・クラブと、名門カントリー・クラブのメンバーで、時々そこまで行って関連施設のプールやトルコ風呂を楽しんだ。ある晩、ビリヤード場にいると友人の一人が近づいてきて言った。「なあ、バトラー、ぼくは君の親友だよね?」
「ああ、そうだとも」カラムは答えた。「それがどうした?」
「あのね」リチャード・ペチックという名の若者が、ほとんど緊張状態の表情でカラムを見て言った。「きみの感情を害するというか、きみが知るべきではないと思う話を持って来るつもりはなかったんだが、きみはこれは知っておくべきだと思ってね」若者は首を絞めつけている高めの白い襟を引っ張った。
「きみに悪意がないことくらい知ってるよ、ペチック」カラムは興味津々で答えた。「何なんだい? どういうことなんだい?」
「ううん、言いたくはないんだけれどね」ペチックは答えた。「ヒッブスの奴が、きみの妹さんのことをこのあたりで言いふらしてるんだ」
「何だって言うんだ?」元気いっぱいに背筋を伸ばして、こういう場合に是とされる対人対処法を思い出しながら、カラムは叫んだ。怒って当然だった。もしも自分の名誉が何らかの形で侵害されたのなら、何らかの形で適切な満足を要求し取り立てるべきだった――ありえるのがぶん殴るという形だった。「うちの妹が何だと言うんだ? いずれにせよ、そいつは何の権利があってここで妹の名前を出すんだ? 妹のことなど知らんくせに」
ペチックは、カラムとヒッブスをもめさせたのではないかと、とても心配するふりをした。言いたくないと言っておきながら、本当は言いたくてたまらなかったのだ。ようやく口を開いた。「ヒッブスは、きみの妹さんがクーパーウッドと関係があるという作り話を言いふらしているんだ。最近裁判にかけられて、それで刑務所に行くことになった奴だよね」
「何だって?」カラムは大したことがないふりを捨てて、ピンチが迫った人の真剣な表情をまとって叫んだ。「そいつが、そんなことを言ったんだな? 今どこにいる? ぼくに面と向かって言うか、見てみたいものだ」
細面で垢抜けした若い顔立ちに、父親譲りの凄まじい戦闘力が垣間見えた。
「なあ、カラム」ペチックは自分が引き起こした本物の嵐に気づき、その結果が少し不安になって言った。「気をつけて物を言えよ。ここじゃ騒ぎはご法度だ。規則違反だって知ってるよな。それに、あいつは酔っぱらっているのかもしれないしな。どうせ、くだらない話を吹き込まれただけだと思うぜ。なあ、頼むから、そんなに興奮すんなよ」この嵐を呼んだペチックは自分の立場がどうなるのか、この結果が少なからず気になった。カルムばかりか自分までもが告げ口屋としてもう巻き込まれているのかもしれなかった。
しかしこうなってしまうとカラムはそう簡単には抑えられなかった。顔を真っ青にして、古いイギリス風レストランに向かっていた。ヒッブスはたまたまそこにいて、同年代の友人とブランデーソーダを飲んでいた。カラムは店に入って名前を呼んだ。
「おい、ヒッブス」
その声を聞きつけて、入口にいる相手を見とがめると、ヒッブスは立ち上がって向かって行った。プリンストン大学で教育を受けた、いかにも大学生らしい面白い青年だった。いろいろな情報源から――例えばクラブの別のメンバーから――アイリーンにまつわる噂を仕入れて、ペチックのいる前で繰り返したのだった。
「うちの妹が何だって言ってたんだ?」カラムはヒッブスの目を見ながら険しい表情で尋ねた。
「ぼくは――ただ――」ヒッブスは口ごもった。もめるのを予感して、避けようと必死だった。とりたてて勇敢なわけではなく、見た目もそうだった。髪は麦わら色、目は青、頬はピンクだった。「その――別に何でもないんだが、ぼくが言っていたなんて誰が言ったんだい?」ヒッブスはペチックを見て、告げ口した相手をつきとめるた。ペチックは興奮して叫んだ。
「今さら言い逃れすんなよ、ヒッブス。ぼくはきみから聞いたんだよな?」
「さて、何て言ったんだっけ?」ヒッブスは開き直った。
「さあ、何て言ったんだ?」カラムは会話を自分の方へ振り向けながら険しい口調で口を挟んだ。「そこのところを知りたいんだよ」
「ああ」ヒッブスはしどろもどろになった。「ぼくは他のみんなと違うことは言ってないと思うんだがな。きみの妹がクーパーウッドととても親密だった、と誰かが言った話を繰り返しただけさ。その辺で他の人から聞いた以上のことは言ってないよ」
「ほう、そうだったのかい?」カラムは叫ぶと、ポケットから手を出してヒッブスの顔面を殴った。左手で激しく連打した。「これで妹の名前を言いふらすのはよそうという気になっただろう、小僧!」
ヒッブスの腕が振り上がった。ボクシングの心得がないわけでもなく、カラムの胸に一発、首に一発打ち込んで盛んに反撃した。瞬く間に、この続き部屋の二区画は大騒ぎになった。修羅場を演じようとしている男たちの気迫で、テーブルや椅子がひっくりかえった。喧嘩の当事者二人はすぐに引き離された。双方、それぞれの友人が割って入り、盛んに説得が試みられたが応じなかった。カラムは左手の拳を調べていた。自分がお見舞いした打撃のせいで切れてしまったのだ。カラムは紳士のように冷静だった。ヒッブスはものすごく取り乱し、興奮状態で、自分は極めて不当な扱いを受けたと主張した。こんなところで襲われたのだから。いずれにせよ、ヒッブスの言い分では、ペチックが彼の話を立ち聞きして嘘までついていた。ちなみに、ペチックは、自分は親友としてできることをしたまでだと反論していた。クラブは九日ほどこの話で持ちきりだった。両者双方の友人の懸命な努力によって新聞沙汰だけは回避できた。カラムは、巷に広がる噂の中でもクラブの噂には一応根拠があることを知って激怒し、退会し、二度とそのクラブに行かなかった。
「そんな奴、殴らなきゃよかったんだ」その事件を聞きつけるとオーエンは言った。「かえって話を広げるだけだぞ。アイリーンがこの町を出て行けばいいんだが行かないだろうな。まだ奴とつづいているし、そんなこと、ノラにも母さんにも話せない。この話を聞き終わることはあるまい、お前もぼくもな――きっと」
「くそ、アイリーンを別れさせないと」カラムは叫んだ。
「まあ、承知せんだろうな」オーエンは答えた。「お父さんは手を尽くしたんだが、アイリーンが承知しない。ほったらかしの状態だ。あいつは今、刑務所の中だ。あいつもおそらくはこれでお終いだ。世間じゃお父さんがあいつをぶち込んだと思ってるようだ。まあ、そんなとこなんだろう。多分、もう少ししたら、アイリーンに別れるよう説得できるさ。あいつにさえ会わなかったらなあ。あいつが出所したら、いい殺し方があるんだが」
「いや、そんなことは御免だ」カラムは答えた。「やっても無駄だ。新たな面倒を起こすだけだ。とにかくあいつは破滅したんだ」
二人は、できるだけ早く結婚するようノラをせかすことにした。アイリーンに向ける二人の反感は、バトラー夫人がこの後思いわずらい、狼狽と悲しみと驚きに打ちひしがれるほど、冷淡極まる態度になった。
この分断された世界の中で、バトラーはとうとう自分が何を考え何をすればいいのか、わからなくなっていることに気がついた。もう何か月も悩んでいるのに未だに解決策は見つからなかった。そして、ついには信仰まで失い、デスクで仕事用の椅子に座ったまま倒れた――疲れ果てたわびしい七十歳の男の姿だった。アイリーンへの悩みはある程度の心理的要因ではあったが、直接の死因は左心室不全だった。バトラーの死因がアイリーンに対する悲嘆のせいあるはずがないのは確かである。彼はとても大柄な男だった――卒中を起こしやすく、静脈も動脈も硬化していた。もう何年も前からかなりの運動不足で、それにより消化機能が著しく低下していた。七十歳を過ぎ、寿命に達したのだ。発見は翌朝、両手は膝の中、頭を胸部にうなだれた状態で冷たくなっていた。
バトラーはセント・ティモシー教会の格別なはからいを受けて埋葬された。葬儀には大勢の政治家や市役所関係者が参列した。彼らは、娘への憂慮が故人の最期に関係があるのかどうかひそひそ話し合った。もちろん、数々の功績はすべて偲ばれたし、モレンハウワーとシンプソンは追悼の意を込めて立派な花を送った。三人は一心同体だったから二人ともバトラーの死をとても悲しんだ。しかしバトラーが死んだことで三人の関係は終わった。バトラーはこれまでに地元で記された最も短い遺言の一つで全財産を妻に遺した。
「最愛の妻、ノラに全財産を譲る。全て妻の裁量にて処分されたし」
これに誤解の生じる余地はなかった。生前バトラーが妻のためにこっそりしたためた私文書に、妻の死後に財産がどう処分されるべきかが記されていた。それは妻の遺言状に見せかけたバトラーの本物の遺言状だった。バトラー夫人はその文言を変えるつもりはなかった。バトラーは妻が死ぬまで、すべてのものをそっくりそのまま残しておくことよう妻に託した。アイリーンの最初の割り当て部分は変更されずじまいだった。この世のいかなる権力もバトラー夫人を改心させられなかったら、バトラーの遺書により、夫人の死後アイリーンには二十五万ドルが支払われるようになったままだった。この事実も書面に記された他のいかなる事実もバトラー夫人から伝えられることはなかったので、これは夫人の遺言として残された。アイリーンは、自分に何が残されたのか、時々気にはなったが知ろうとはしなかった。何も考えなかった――これは仕方がないことだと感じただけだった。
バトラーの死はたちまち家庭の雰囲気を一変させた。葬儀後、一家は落ち着いて平穏な元の生活を続けているように見えたが、それは単に見せかけの問題だった。状況はカラムとオーエンがアイリーンをある程度軽蔑し、それをわかった上でアイリーンが受けて立つというものだった。アイリーンはとても傲慢だった。オーエンはバトラーの死後アイリーンを無理やり追い出そうと考えたが、最終的にそれが何の役に立つのかと自問した。古い家を離れたがらないバトラー夫人は、アイリーンのことが大好きだったから、アイリーンをいさせておくには理由があった。それに、無理に追い出そうとすれば、母親に説明する必要が出てくるだろうし、それが好ましいとは思われなかった。オーエンはキャロライン・モーレンハウワーに関心を寄せていた。いつの日か結婚したいと思っていた――彼女のことは大好きだったが、その他の理由と同じくらい、将来の財産が目当てだった。八月にバトラーが亡くなった翌年の一月、ノラがひっそりと結婚した。続いて春にはカラムも同じような冒険に乗り出した。
一方、バトラーの死に伴い、政治の指導権が大きく動いた。かつてバトラーの子分の一人だったが、近頃は多数の酒場を持ち、他にもいかがわしい店舗を牛耳る一区、二区、三区、四区の実力者トム・コリンズという人物が、政界へと乗り出した。彼は十一万五千票もの得票を揺るがしかねかったのでモレンハウワーとシンプソンは、彼に相談しなければならなかった。その多くは不正投票だったが、だからといってそれが時々彼らの死活問題になることに変わりはなかった。バトラーの息子たちは政界進出の可能性が消え、路面鉄道と請負業に専念せざるを得なくなった。ステーネルを収監し続けることでクーパーウッドを収監しておけたわけだから、バトラーが反対していたクーパーウッドとステーネルの恩赦が、だいぶ簡単な問題になった。公金横領のスキャンダルは、徐々に下火になった。新聞がこの件に全然触れなくなった。有力な金融業者やブローカーが名を連ね、クーパーウッドの裁判と有罪判決が極めて不当であることを指摘して恩赦を与えるよう求めていた大規模な嘆願書が、シュテーガーとウィンゲートを通じて知事に送られた。ステーネルには、そんな努力は一切必要なかった。政治家たちは、機が熟したと見えればいつでも知事に、彼を釈放すべきだと言う用意ができていた。バトラーがクーパーウッドの釈放に反対していたから話が進まなかっただけだった。片方を出して、もう片方を無視することは、事実上不可能だった。この請願は、バトラーの死と相まって、ものの見事に道を切り開いた。
それでも、バトラーの死の翌年の三月、ステーネルとクーパーウッド両名が十三か月間――幅広い国民の怒りを鎮めるのに適当と思われる期間――収監されるまでは、何もなされなかった。この間にステーネルは心身ともにかなりの変化を遂げていた。自分の大盤振る舞いのおかげでいろいろな形で得をした小物の市会議員たちが、ときどき訪ねてきて、このとおりここで自由同然の待遇を与えられ、自分の家族は苦しまなかったが、それでもステーネルは、自分が政治的にも社会的にも終わったと自覚していた。今は誰かが時折、果物をかごで差し入れて、もうそう長く苦しむことはないと請け合ってくれるかもしれないが、外に出れば自分には保険の勧誘か不動産の営業の経験しか頼るものがないことを知っていた。小さな政治基盤を固めようとしていた時代ですら、それだけでは不安定だった。公金五十万ドルを横領して五年間も刑務所に送られた人物と知られているだけだったら、どうなるだろう? たとえ四、五千ドルでも、小さなスタートを切る資金を誰が自分に貸してくれるだろうか? 時々表敬訪問に来た人たちや、自分がひどい目にあったと言いに来てくれた人たちはどうだろう? 無理に決まっている。その全員が、自分たちにはそんなに余裕はない、と正直に言うかもしれない。もし差し出せる立派な担保があれば――かなうだろう。しかし立派な担保があったら、その連中のところへ行く必要がないのである。もしステーネルが知ってさえいたら、本当に彼を助けたであろう人物は、フランク・A・クーパーウッドだった。クーパーウッドの見立て通りで自分が間違っていたとステーネルが非を認めることができたら、クーパーウッドは見返りを考えずに喜んでその金を渡しただろう。しかし、人を見る目がなかったのでステーネルは、クーパーウッドは自分の敵に違いないと考えた。それにステーネルには彼に近づく勇気も経営判断力もなかっただろう。
クーパーウッドは収監されている間に、ウィンゲートを通じてゆっくりとわずかながら資金を蓄えていた。相手がこれ以上受け取るわけにはいかないと最後に決断するまで、シュテーガーには折に触れて相当な金額を支払っていた。
「もしあなたが復活したら、フランク」シュテーガーは言った。「ご用がおありのときは私を思い出してください。でも思い出したがらないでしょうね。私のせいで、あなたは負けっぱなしで、負けしかありませんでしたから。知事への請願の件は無報酬でお引き受けします。今後はあなたのために私ができることは、なんでも無償でいたします」
「なあ、馬鹿なこと言いなさんな、ハーパー」クーパーウッドは答えた。「私の一件でこれ以上の仕事をやれた人間は思いつかないね。きっと、これほどまでに信頼できる人間だって誰もいないよ。何しろ私は弁護士が好きじゃないもんでね」
「まあ、そうですね」シュテーガーは言った。「弁護士も資本家を相手にしたって仕方がありませんしね。まあ、おあいこでしょう」両名は握手を交わした。
一八七三年三月初旬、ついにステーネルの赦免が決まると――クーパーウッドの赦免も必然的に、しかし慎重に盛り込まれた。ストロビク、ハーモン、ウィンペニーからなる代表団は、予定どおり議会と市政の総意を代表し、承認者モレンハウワーとシンプソンの代弁者として、ハリスバーグの知事を訪ね、国民に印象を与えるために必要な正式な陳情を行った。それと同時に、シュテーガー、デービソン、ウォルター・リーを世話人とするクーパーウッドのための請願がなされた。知事は、あらかじめこの委員よりもかなり上の方から指示を受けていたので、すべての手続きをとても厳粛に行った。この問題を審議するつもりだった。この二名の犯罪歴と関係記録を調べるつもりだった。約束は一切できなかった――静観するのである。しかし棚の一つで請願書にかなり埃をかぶらせておいたまま、全然何の調査もしないで、十日後に知事は二つの別々の恩赦を文書で交付した。一通は礼儀として、ストロビク、ハーモン、ウィンペニーたちの手に渡し、彼らの希望通り直接ステーネル氏のところへ向かわせた。もう一通は、シュテーガーの要望どおり、彼に渡した。そして、書類を受け取りに来た二つグループはそれから出発した。その日の午後、ストロビク、ハーモン、ウィンペニーのグループと、シュテーガー、ウィンゲート、ウォルター・リーのグループは、刑務所の門に別々の時間に到着した。
第五十八章
もうじき恩赦を受ける、あるいはその可能性が非常に高いという事実は否定されず――むしろ事あるごとに盛んに話題になったが、このクーパーウッドの恩赦の件、その正確な時期は本人には伏せられた。ウィンゲートもシュテーガーと同様にクーパーウッドには進捗状況を正確に伝え続けていた。しかし実際に知事の私設秘書から、いずれ恩赦が言い渡される確認がとれると、シュテーガー、ウィンゲート、ウォルター・リーらは示し合わせて、クーパーウッドをびっくりさせようして何も言わないことにした。彼らは、つまりシュテーガーとウィンゲートに至っては、手続きに何か支障が出てそうすぐには出られないかもしれない、とクーパーウッドに言う始末だった。クーパーウッドは多少落ち込んだが、めげずに自分を戒めた。待てばいい、いつかはうまくいく、と自分に言い聞かせた。ある金曜日の午後、デスマス所長に同行して、ウィンゲート、シュテーガー、リーが独房の扉の前に現れたのを見ていささか驚いた。
所長は、ついにクーパーウッドが出所するかと思うと感無量だった――クーパーウッドに敬服していた――彼が釈放をどう受け止めるかを見るために、独房まで同行することにした。途中でデスマスは、彼は常に模範囚だった事実を述べた。「独房の庭に小さな花園を作ったんですよ」所長はウォルター・リーに打ち明けた。「スミレとパンジーとゼラニウムを植えたんです。それがまた、立派に育ちましてね」
リーは微笑んだ。獄中でさえ勤勉で風流とはクーパーウッドらしかった。こういう男は征服されないのかもしれない。「まったく大した男ですよ」リーはデスマスに言った。
「まったくです」所長は答えた。「彼を見ればそれがわかりますからね」
四人は格子の扉から中をのぞいた。クーパーウッドは監視されていないのに作業をしていて黙々と励んでいた。
「精が出るな、フランク?」シュテーガーが声をかけた。
クーパーウッドは肩越しに一瞥して立ち上がった。近頃の日課で、出所したらどうしようと考えていたところだった。
「何ですかこの」クーパーウッドは尋ねた。――「お偉いさんの視察は?」即座に何かを察知した。四人全員が朗らかに微笑んだ。ボンハが所長に代わって扉の鍵を開けた。
「大したことじゃない、フランク」シュテーガーは満面の笑顔で答えた。「ただ釈放になっただけだよ。何なら手荷物をまとめて出てきてもいいんだぞ」
クーパーウッドは一様に友人たちを見渡した。言われていたとはいえ、まさかこんなに早いとは予想していなかった。悪ふざけや脅かしっこはあまり歓迎しないのだが、こればかりはうれしかった――急に自由になった実感がわいた。それでも、随分前から心待ちにしていたことだったので、その魅力はある程度下がっていた。彼はここで不幸であって不幸ではなかった。最初、その恥ずかしさと屈辱感はかなりのものだった。近頃では、慣れてきたのか、狭さや屈辱を感じなくなっていた。ただ、監禁されて遅れをとらされたと思うとやりきれなかった。あることへの強烈な願い――主に成功と汚名返上――を除けば、自分は狭い独房の中でもかなり快適に暮らせることに気がついた。とっくの昔に、この石灰の臭いに、(もっと不快な悪臭を克服することに)、定期的に捕獲した大量のネズミに、慣れてしまった。籐椅子作りに打ち込めることを知り、やろうと思えば一日に二十脚は座れるようにできるほど上達し、春、夏、秋には小さな庭で作業をしていた。毎晩、狭い庭から空を眺めていた。その結果、不思議なことに、後年、ある有名大学に立派な反射望遠鏡を贈ることになった。クーパーウッドは自分を普通の囚人とは思っていなかった。いかなる形であれ――もし本当の犯罪が関係していたとしても、自分が処罰されるほどのことをしたとは感じていなかった。ボンハからは、ここに収監されている大勢の犯罪者、それもいろんな殺人犯たちの経歴を聞いたし、折に触れて大勢が指摘された。ボンハに連れられて広い庭に入ったり、ここで調理されている普通の献立を見たり、ステーネルの手心を加えられた生活の話を聞いたりした。まんざら悪くはない、ただ自分のような人間が遅れをとることは損失だ、と最後に思い至った。もし外にいて法廷闘争を演じる必要がなかったら、今頃はもっとたくさんのことができたはずなのだ。法廷と刑務所め! そんなものに巻き込まれた無駄を考えると、首を傾げるしかなかった。
「これでよし」ざっと周囲を見回しながら言った。「準備完了だ」
クーパーウッドは、ろくすっぽ最終確認もせずに廊下に踏み出し、上客を失ってひどく悲しんでいるボンハに言った。「この辺のものが家に送られるように手配してほしいんだ、ウォルター。その椅子や、あの時計や、この鏡、その辺の絵――要するに私のリネンの肌着やカミソリなどを除いたこの辺のものは全部好きにしていいからね」
この最後のささやかな施しは、ボンハの傷ついた心を少し和らげた。一行は収監事務所に入った。そこでクーパーウッドはかなりほっとした気分で囚人服と柔らかいシャツを脱ぎ捨てた。木靴はとっくに自前のもっといい靴にかえられていた。前年の入所時に着用していた山高帽とグレイのオーバーコートを着て、準備完了を表した。刑務所の入口で振り返り、庭に通じている鉄の扉を最後に一瞥した。
「名残惜しいんじゃあるまいな、フランク?」シュテーガーは不思議そうに尋ねた。
「まさか」クーパーウッドは答えた。「そんなことを考えていたんじゃない。ただの外観を見ただけだ」
一分もすると外門に着き、そこでクーパーウッドは最後に所長と握手を交わした。やがて大きくて印象的なゴシック様式の入口を出て馬車に乗り込むと、背後で門に鍵がかけられ、一行は追い払われた。
「さあ、これで終わった、フランク」シュテーガーは楽しそうに言った。「これでもう悩むことはないでしょう」
「ああ」クーパーウッドは答えた。「ああいうのは帰りよりも行くときに見るほうが嫌だな」
「これは何かお祝いしないといけませんね」ウォルター・リーは言った。「ただフランクを連れ帰るだけじゃ駄目だ。グリーンズに繰り出すのはどうだ? 名案だろ」
「悪いが、気が進まない」クーパーウッドはしみじみ答えた。「あとで内輪の集まりを催すよ。今すぐ家に帰って着替えをしたい」
クーパーウッドは、アイリーン、子供たち、両親、自分の将来全般について考えていた。これからは、自分の人生がかなり広がっていくと確信していた。この十三か月で、身の処し方をたっぷりと学んだ。アイリーンに会って、いろいろな事をどう感じているかをさぐるつもりだった。それから自分の会社でやっていたような業務を、ウィンゲート商会で再開するつもりだった。友人を通じて、再び取引所の会員権を確保するつもりだった。そして前科者と取引することを嫌う人々の偏見をかわすために、自らはウィンゲート商会のために働く社外のなんでも屋か取引所の場立ちとして活動するつもりだった。あの件が事実上彼の相場操縦だったことは公的には証明されなかった。今はマーケットの何か大きな動き――暴落か何か――を待つだけだ。クーパーウッドは自分が破滅したかどうかを世間に見せてやるつもりだった。
みんなはクーパーウッドを妻の小さな家の前で降した。クーパーウッドは立ち込める薄暗がりの中へ颯爽と入っていった。
一八七三年九月十八日、秋晴れ日の十二時十五分、フィラデルフィアの街で、世界史上最大の驚愕の金融惨事の一つがその幕を開けた。フィラデルフィア南三番街一一四番地にあって、ニューヨーク、ワシントン、ロンドンに支店を持つ、アメリカ一の金融機関、ジェイ・クック銀行が店を閉めた。アメリカの金融危機についてくわしい人なら、その後で起こった恐慌のすごさをよく知っている。それは一八七三年恐慌としてすべての歴史書で語り継がれた。そしてそれに続いて広がった破産と災厄は事実上アメリカ史上に前例がないものだった。
このとき再びブローカー――表向きはブローカーの代理人――だったクーパーウッドは、南三番街で商売をしていて、取引所ではウィンゲート商会を代表していた。イースタン刑務所を出所してから経過した半年の間に、クーパーウッドはひっそりと以前からの知り合いを相手に、社交はともかく、金融取引を再開していた。
さらに、ウィンゲート商会は繁盛し、それがしばらく続いていたので、知る人には彼の信用は高まった。表向きは、北二十一番街の小さな家で妻と一緒に暮らしていたが、現実は、北十五番街の独身者向けアパート住まいで、アイリーンが時折通っていた。夫婦の不和は、もはや家族みんなが知るところとなった。仲を取り持とうとする努力もかすかにはあったが、良い結果は出なかった。過去二年間の苦労のおかげで、両親はすっかり厄介事や異常事態を予想するようになってしまい、驚きはするが、数年前のように大きな衝撃にはならなかった。人生が怖くてたまらなくなり、その異様な展開に立ち向かえなかった。ただ最善を願って祈ることしかできなかった。
一方、バトラー家の方は、何かあったとしてもアイリーンのやることには関わらないようになってしまった。アイリーンは兄たちと、すべてを知ったノラに無視された。母親はすっかり宗教に傾倒して、失ったもののことを鬱々と考えるばかりで、かつてのようにアイリーンの生活を積極的に監視しなくなった。それに、クーパーウッドと彼の愛人は以前よりも行動が慎重になった。結果は同じだが、行動が前よりも用心深くて警戒するようになった。クーパーウッドは西部を考えていた。ここフィラデルフィアでちょっとした地位を築き、資本金に十万ドルくらい稼いで、盛んに耳にした果てしない大草原――シカゴ、ファーゴ、ダルース、スーシティなど、将来のすばらしい生活拠点として当時フィラデルフィアや東部で期待された土地に移ろう、そしてアイリーンを連れて行こう、と考えていた。クーパーウッド夫人が正式に離婚に同意しない限り、アイリーンとの結婚の問題は解決できなかった――この時点ではその目処は立っていなかった。彼もアイリーンもそんなことで思いとどまりはしなかった。二人は共に将来を築くつもりだった――結婚しようがしまいが、二人はそう考えていた。クーパーウッドがやるとわかっているのは、アイリーンを一緒に連れて行くことと、時の経過と夫の不在に拠り所にして妻の考えを改めさせようとしていることだった。
クーパーウッドのキャリアに著しい変化をもたらす運命のこの大恐慌は、アメリカ人の楽観主義と、この国の抑えきれない進歩が自然に生んだ異常な出来事の一つだった。正確には、初期の修行とその後成功をすべてフィラデルフィアでやり遂げ、やがて当代随一の資本家となったジェイ・クックの名声と野心の結果だった。この人物の台頭から異例の出世までをここで辿っても仕方がない。彼が行った提案と彼の考案した方法によって、連邦政府はその最悪の時期に、南部との戦いを継続するための資金を調達することができた、と言えば済むことだ。この男は南北戦争が終わると、フィラデルフィアで巨大な銀行事業を築き上げ、ニューヨークとワシントンに大きな支店を構え、何かやるべき重要なこと、自分の才能にふさわしい建設的な仕事はないかと、しばらくは途方に暮れた。戦争が終わってしまうと残るは平和に投資するしかなくなった。アメリカの投資先で最大のものは、大陸横断鉄道の建設関連だった。一八六〇年に認可されたユニオン・パシフィック鉄道はすでに着工していた。ノーザン・パシフィック鉄道とサザン・パシフィック鉄道は、すでに様々な開拓者が思惑を抱いていた。大事業の狙いは、大西洋と太平洋を鉄で結び、領土をつなぎ合わせて、新たに連邦を束ねるか、あるいは金銀が最重要な大規模採掘事業を始めるかだった。現実的には、何をおいてもまずは鉄道建設だった。鉄道株は全米のどの取引所でも他を寄せ付けず最も貴重で重要だった。ここフィラデルフィアでも、ニューヨーク・セントラル、ロックアイランド、ウォバッシュ、セントラル・パシフィック、セントポール、ハンニバル&セント・ジョセフ、ユニオン・パシフィック、オハイオ&ミシシッピなどが盛んに取り引きされた。これらの銘柄を扱うことで、金持ちや有名人になる人たちがいた。東部ではコーネリアス・バンダービルト、ジェイ・グールド、ダニエル・ドゥルー、ジェームズ・フィッシュなど、西部ではフェア、クロッカー、W・R・ハースト、コリス・P・ハンティングトンなどの大物がすでにこれらの事業に関わって巨大な山のように頭角を現しつつあった。これに最も熱い夢を見ていたのがジェイ・クックだった。彼にはグールドのような狼の狡猾さはなく、ヴァンダービルトのような実用的知識もなかったが、アメリカ北部に自分の名を永遠に刻む鋼鉄のベルトを通す野望があった。
クックを最も魅了した計画は、ダルースがあるスペリオル湖の最西岸と、コロンビア川が注ぐ太平洋の一帯――合衆国の三分の一にあたる最北地――との間にある当時はほぼ未踏だった地域の開発に関するものだった。もしも鉄道が通ったら、ここには大都市と繁栄する町ができるだろう。この鉄道が横断するロッキー山脈の一帯には、さまざまな金属の鉱山があり、肥沃なトウモロコシや小麦の土地からは、計り知れない富が生まれると考えられた。そうなればダルースまでしか運ばれなかった生産物は、大幅にコストを削減した上で五大湖とエリー運河を経由して大西洋まで運べるのだ。それは同時代のパナマ運河計画にも似た帝国の構想であり、人類に有益なものとして堂々と述べてもよさそうだった。これはクックの関心と熱意を呼び覚ました。真剣に取り組んで、しかるべき期限内に完成させなくてはならない会社に、政府がこの線路の両側の広大な土地を与えた事実と、自分が優れた有名人であり続けるチャンスが巡ってきたことから、結局クックはこの事業を引き受けた。多くの異論と批判にさらされたが、南北戦争の戦費を調達できた天才なら、ノーザン・パシフィック鉄道の資金を調達できると考えられた。クックはこの計画のメリットを――大手の金融機関の代理店ではなく――直接国民に伝えて、肉屋、パン屋、燭台屋に自分の売りたい株を売ればいいと考え、この事業に取り組んだ。
絶好のチャンスだった。彼の非凡な才能は南北戦争の最中、巨額の公債を、このような形で直接国民に売りさばいたのである。ノーザン・パシフィック株でもいけるだろう。数年かけて盛大なキャンペーンを行い、該当地域を調査し、大がかりな鉄道建設会社を組織し、最も困難な条件下で数百マイルもの線路を敷設し、一定の割合の利息が保証された株式を大量に販売した。もし、クック個人が鉄道建設のことよく知らなかったとか、計画があまりに大規模だったから、たとえ偉人であっても一人の人間の手には負えなかった事実がなかったら、その後の経営陣がしてみせたように、成功を証明していたかもしれんない。しかし、折り悪く、フランスとドイツの戦争でヨーロッパ資本は当面身動きがとれなくなり、アメリカの計画は見向きもされなくなった。そして妬み、中傷、一定の割合の不祥事などが寄ってたかって計画を頓挫させた。一八七三年九月十八日、正午十二時十五分、ジェイ・クック商会はおよそ八百万ドル、ノーザン・パシフィック鉄道は投資額相当――約五千万ドル以上――が払えなくなった。
その結果がどうなるかは想像がついた――最大手の金融業者と一大鉄道事業が、同時につぶれるのだ。「晴天の金融界に雷鳴」とフィラデルフィア・プレスは報じた。「真夏の正午の炎天下で雪が降ったとしてもここまで驚けない」フィラデルフィア・インクワイアラーは報じた。これまでのクックの大成功で、彼を無敵だと信じていた国民には、これが理解できなかった。到底信じられなかった。ジェイ・クックが破産? まさか、何ら不足はなかったろうに。それでも、クックは破産した。その直後のたび重なる暴落を目撃した後でニューヨーク証券取引所は八日間休場した。レイクショア鉄道は百七十万ドルのコールローンを返済できなかった。ヴァンダービルトと提携していたユニオン信託は散々粘った挙げ句に店を閉めた。ニューヨークのナショナル信託は金庫に国債を八十万ドル保有していたのに、それが担保では一ドルも借りられず営業を停止した。不安が蔓延し、噂はみんなに影響した。
フィラデルフィアではそのニュースが証券取引所に届いたとき、最初はニューヨーク証券取引所から証券部に宛てた短信の形で届いた。「ジェイ・クック商会倒産の噂が流れている。返信求む」このニュースは信じられず、返答されなかった。黙殺された。ブローカーの間ではろくに注目されなかった。クーパーウッドは、自分の商品を直接国民に売りつけるというそこの社長の御高説にかなり懐疑的だったのでジェイ・クック商会の行く末を見守っていた――おそらくは疑いを抱いた唯一の人物だった。クーパーウッドはかつて、ある人に問われてすばらしい批評を書いていた。その中で彼は、ノーザン・パシフィック鉄道のような重要な事業が、一社どころか一人の人間に全面的に依存したことなどかつてなかった、そしてそれは好ましくない、と述べた。「私は、この鉄道が通過する土地が、クック氏とその仲間たちが我々に信じ込ませようとするほど、気候、土壌、木材、鉱物などにおいて、比類ないものだとは信じていない。また、現在あるいはこの先何年もの間、この鉄道がその膨大な発行株式の求める利息を稼げるとも思わない。非常に危険でありそこにはリスクがある」だからその通知が掲示されたとき、クーパーウッドは万が一ジェイ・クック商会が倒産したらどんな影響があるのだろうと思いながら、様子を見ていた。
考える時間はあまりなかった。第二報が取引所に掲示された。「ニューヨーク発、九月十八日、ジェイ・クック商会営業停止」
クーパーウッドにはそれが信じられなかった。大きなチャンスだと思い、我を忘れた。他のブローカーたちと一緒になって確認のためにその有名な老舗銀行がある三番街一一四番地に駆けつけた。本来なら堂々と構えておいそれとは動かないのだが、ためらわず走った。もしこれが本当だったら待ちに待ったチャンスが来たのだ。パニックと惨事は広範囲に及ぶだろう。すべての株価が大暴落するだろう。自分は渦中にいるに違いない。ウィンゲートと弟二人には手もとにいてもらわねばならない。三人に、売り方と、買うタイミングと、買う銘柄を教えなくてはならない。絶好のチャンスが到来したのだ!
第五十九章
ジェイ・クック商会は銀行と販促の業務では大手だが、その銀行の建物自体は灰色の石と赤レンガ造りの四階建て半という非常に簡素なものだった。ここは立派とか快適な銀行と思われたことがなかった。クーパーウッドはよくそこに足を運んだ。人の前腕ほどの長さのドブネズミがドック・ストリートのどぶから這い出てきて店内を自由に駆け回った。何十人もの事務員が、照明も換気も十分とは言えないガス灯の下で、銀行の膨大な口座を管理していた。そこは、クーパーウッドの友人デービソンが今でも活躍しているジラード・ナショナル銀行の隣で、この通りの主要な金融業者が集まっていた。クーパーウッドは走っている間に、ウィンゲートから自分宛ての伝言を携えて証券取引所に向かっていた弟のエドワードに出くわした。
「急いでウィンゲートとジョーをつかまえておけ」クーパーウッドは言った。「今日の午後は大変だぞ。ジェイ・クックが倒産したんだ」
エドワードは他の言葉を待たずに、指示されたとおりに先を急いだ。
クーパーウッドは、一番乗りに混じってジェイ・クック商会にたどり着いた。驚いたことに、見慣れた頑丈な茶色いオーク材の扉は閉まっていて、扉に張り紙があった。クーパーウッドはすばやく目を通して駆け出した。
一八七三年九月十八日
お客さまへ
予期せぬ事態が発生したため、誠に遺憾ではございますが、お支払いを停止させていただくことになりました。一両日中に、債権者のみなさまに委細ご案内申し上げます。それまでしばしのご猶予をお願いいたします。弊社は大幅な債務超過に陥ってしまいました。
ジェイ・クック商会
クーパーウッドの目にキラキラと勝利の輝きが浮かんだ。クーパーウッドは他の大勢と一緒に取引所の方へ引き返した。一方で、取材に来た記者は銀行の巨大な扉をノックした。すると菱形ののぞき窓から顔を出した守衛に、今日はジェイ・クックは帰宅して面会はかなわないと告げられた。
「いよいよ」クーパーウッドは、自分にとってこのパニックは破滅ではなくチャンスだと考えた。「私の出番だ。売りだ――売りまくるぞ」
以前、シカゴ大火でパニックが発生したときクーパーウッドの立場は買い持ちだった――自分の身を守るために、たくさんの銘柄を保有し続けざるを得なかった。今は言うほどのものは何も持っていなかった――おそらく、何とかかき集めた七万五千ドルがいいところだった。ありがたい! 失ったところで、失うものはウィンゲートの古い会社の評判だ。そんなものは何でもない。ウィンゲートの陰で取引をするから使っているだけに過ぎない――自分が商いに参加する口実、自分が売り買いする権利として使っているに過ぎない――儲けるための手段はすべてそろっていた。多くの者が破滅を覚悟する中で、クーパーウッドは成功すること考えていた。自分の命令を正確に実行するためにウィンゲートと二人の兄弟を部下にするつもりだった。必要なら四人目と五人目を調達すればいい。部下に売り注文を出す――片っ端から――必要であれば、十、十五、二十、三十ポイント安くして、油断している沈んだマーケットを罠にはめる。こっちを大胆過ぎると思いそうな臆病者を脅かすだめだ。それからできるだけ下値で買って買って買いまくる。売った分の買い戻しと利益を得るためだ。
このパニックがどのくらいの範囲に広がってどのくらい続くのか、本能がクーパーウッドに教えてくれた。ノーザン・パシフィック鉄道は一億ドルの事業だ。何十万人もの市民――国中の小さな銀行家、商人、牧師、弁護士、医者、未亡人、機関投資家――の貯蓄が関係し、みんながジェイ・クックの信用と保証を頼りにしていた。クーパーウッドはかつて、クックが管理していたノーザン・パシフィック用公有地供与に関する壮大な目論見書と所在地の地図を見たことがあった。そこには(プロクター・ノット氏が下院の演説で皮肉ってそう呼んだ)「無塩の湖の天頂の都市」ダルースからロッキー山脈とミズーリ川の源流を経て太平洋に伸びる、広大な広がりというか一帯が載っていた。何百万エーカーもあり、全長千四百マイルにも及ぶこの国有地を表面上クックがどのように管理したかを見てきたが、所詮、帝国は幻影にすぎなかった。そこに、銀や金や銅の鉱山はあるかもしれない。土地は有益だった――いつかは有益になるだろう。しかし現在はどうなのか? それは愚か者の想像力を掻き立てはするだろう――それ以上のものは何もなかった。そこには手が届かなかった。この先何年も届かないままだろう。この鉄道を建設するために、何千人もが出資したことは間違いなかった。しかしそれが破産したら、今に何千人もが破産することになるのだ。今、その惨事が起こった。国民の嘆きと怒りは激しかろう。何日も何日も、何週間も何か月も、日頃の自信と勇気がなくなってしまうだろう。この時を待っていた。これこそ彼が待ち望んだ瞬間だった。夜中にきらめく無情の星の下を徘徊する狼のように、クーパーウッドは単純な人たちがしょんぼり集まっているのを見下ろして、無知と世間知らずのせいで彼らはどんな犠牲を払うのだろうと見ていた。
クーパーウッドは取引所に、二年前に負け戦を演じたのと同じあの部屋に、急いで戻った。事業パートナーと弟がまだ来ていないことを知り、目につくそばからすべてを売り始めた。修羅場だった。誰もがパニックに陥ったブローカーからの売り注文を大量にかかえ、そしてもっと時間がたってからは買い注文をかかえて、四方八方から殺到していた。様々な銘柄のセクターで大勢のブローカーや場立ちたちがひしめき合っていた。外では、ジェイ・クック商会、クラーク商会、ジラード・ナショナル銀行や他の金融機関の前の通りに、ものすごい人だかりができ始めていた。彼らは、この騒ぎを知るために、預金を引き出すために、自分たちの利益を守るために、そこへ急いでいた。警官がジェイ・クック商会の倒産を叫んでいた少年を逮捕した。しかしこの大惨事のニュースは野火のように広がっていった。
このパニックに陥った連中の中で、クーパーウッドは完全に冷静沈着で、極めて冷ややかだった。獄中で毎日粛々と十脚の椅子作りに励み、ネズミに罠を仕掛け、与えられた小さな庭で黙々と孤独に仕事をしたのと同じクーパーウッドだった。今は元気いっぱいで力が有り余っていた。自分を印象づけて際立たせるには、もう一度この取引所のフロアにいるだけで十分だった。クーパーウッドは、すでに声を枯らして叫びながら集まる人混みの中心に分け入って、驚くほど量を、崩れつつある買値で儲けを出したがっている数少ない者には魅力な値段で、提示された分だけ引き受けていた。破産が発表されたとき、ニューヨーク・セントラルは一〇四と八分の七、ロードアイランドは一〇八と八分の七、ウェスタン・ユニオンは九二と二分の一、ウォバッシュは七〇と四分の一、パナマは一一七と八分の三、セントラル・パシフィックは九九と八分の五、セントポールは五十一、ハンニバル&セント・ジョセフは四八、ノースウェスタンは六三、ユニオン・パシフィックは二六と四分の三、オハイオ&ミシシッピは三八と四分の三だった。クーパーウッドの会社には手持ちの株がほとんどなかった。顧客の分も預かっていなかった。それなのに彼は誰にでも、相手がその気になりそうだ感じたままの値段で、売って、売って、売りまくった。
「ニューヨーク・セントラル五千株、九九、九八、九七、九六、九五、九四、九三、九二、九一、九〇、八九」と叫ぶクーパーウッドの声を聞いたことある人がいたかもしれない。そして売れ行きが悪かったときは何か別の銘柄――ロックアイランド、パナマ、セントラル・パシフィック、ウェスタン・ユニオン、ノースウェスタン、ユニオン・パシフィック――に切り替えた。弟とウィンゲートが駆け込んで来るのを見て、彼らに指示を出す間、作業を中断した。クーパーウッドは静かに注意した。「必要なら十五ポイント下げてもいいからみんな売れ――今はそれ以下じゃ駄目だ――そしてそれを下回ったら全部買っていい。エド、十五ポイント安でどこか地元の路面鉄道が買えないか確認しろ。ジョー、お前は私のそばにいて、私が指示したら買え」
取引所の事務方が小さな壇の上に現れた。
「E・W・クラーク商会が今しがた閉店しました」一時三十分に発表があった。
「ティグ商会が営業を停止せざるを得えない旨を発表しました」一時四十五分に発表があった。
「フィラデルフィア・ファースト・ナショナル銀行から、ただ今債務不履行に陥ったとの申し出がありました」二時に発表があった。
発表が終わると、これまでと同じように毎回鐘が鳴ったときに、群がる男たちが「ああ――」と陰惨な声を出した。
「ティグ商会か」発表を聞いてほんの一瞬クーパーウッドは思った。「あいつもここまでか」そして、クーパーウッドは自分の仕事に戻った。
取引時間が終わると、コートが破れ、襟は乱れ、ネクタイははぎ取られ、帽子はなくなったが、クーパーウッドは正気のまま、穏やかな、落ち着いた態度で現れた。
「さて、エド」クーパーウッドは弟に会うと尋ねた。「どうだった?」弟は同じようにボロボロにされ、ひっかかれ、へとへとだった。
「まったく」袖をひっぱりながらエドワードは答えた。「こんな目にあったのは初めてだ。もう少しで服をはぎとられるところだった」
「地元の路面鉄道は買ったのか?」
「五千株ほど」
「グリーンズへ行った方がいいな」フランクは一流ホテルのロビーのことを言った。「まだ終わってないんだ。そこでもうひと仕事あるんだ」
先に立ってウィンゲートと弟のジョーを見つけると、一緒に出発し、途中で自分たちが買った分と売った分を大雑把に計算した。
そして予想どおり、興奮は夜が来ても冷めなかった。群衆は三番街のジェイ・クック商会の前や他の金融機関の前に居残って、自分たちに有利になる展開を待っているようだった。議論と興奮の会場はグリーンズ・ホテルだった。そこは十八日の夜、ロビーも廊下も、銀行家、ブローカー、相場師でごった返していた。事実上、証券取引所が丸々このホテルに場所を移していた。明日はどうなるのだろう? 次に破産するのは誰だろう? どこからお金を工面しようか? これが、それぞれの心と、それぞれの舌から発せられた話題だった。ニューヨークから惨事の続報がすぐに飛び込んできた。向こうでも銀行や信託会社が台風に見舞われた木々のように倒れていた。クーパーウッドは巡回しながら、見えるものを見て聞けるものを聞き、取引所の規則に反しているが他のみんながしていることと一致する理解にたどり着いて、モレンハウワーとシンプソンの代理人だとわかっている連中を見て、週が終わらないうちにそいつからも何か巻き上げられそうだと独りでお祝いした。クーパーウッドは路面鉄道を所有していないかもしれないが、所有する手段を手に入れるつつもりだった。伝聞や、ニューヨークなどから入ってきた情報で、状況は最悪であり、すぐに正常な状態に戻ると期待する人には何の希望もないことを知った。最後の一人がいなくなるまで、今夜は引き上げないつもりだった。もうすでに朝と言ってよかった。
翌日は金曜日で、いろいろと不吉な予感がした。ブラック・フライデーの再来になるだろうか? 街がしっかり目覚めないうちからクーパーウッドはオフィスに詰めていた。状況が似てなくもない二年前の感じとは妙に違うと思いながら、クーパーウッドは、その日の計画を綿密に練り上げた。昨日は不意打ちを喰らったにもかかわらず、十五万ドルも稼いだ。今日はそれ以上でないにしても同じぐらい儲かると予想した。自分の小さな組織を完璧に整えて、部下たちに自分の命令を厳守させることさえできたら、どれだけのことができるかわからなかった。南北戦争中にジェイ・クックの忠実な補佐役だったフィスク&ハッチが営業を停止すると、さっそく他に破産が波及した。店は扉を開けてからわずか十五分で百五十万ドル引き出されて、またすぐに扉を閉めた。破産の原因はコリス・P・ハンティングトンのセントラル・パシフィック鉄道とチェサピーク&オハイオ鉄道のせいだった。フィデリティ信託への取り付けは延々と続いた。こうした諸々の事実と、取引所に張り出されたニューヨークの倒産続報は、クーパーウッドが非常に関心を持っていた根拠を強化した。だから絶えず下落し続ける中で、できるだけ高く売り、できるだけ安く買っていた。十二時までに、十万ドルに達したと部下と一緒になって考えた。三時までにさらに二十万ドルを手にしていた。その日は午後三時から七時までを取引の清算に費やし、七時から午前一時まで何も食べずに、できる限り追加情報を収集して、今後の計画を立てることに費やした。土曜日の朝が来た。クーパーウッドは前日の成績を繰り返し、日曜日に取引を清算し、月曜日は大商いをした。月曜日の午後三時までに、すべての損失と不確定要素を一掃しても、自分は再び百万長者であり、今や未来ははっきりとまっすぐ目の前にある、と思った。
その日の午後遅くオフィスのデスクに座って、慌ただしく先を急ぐブローカー、メッセンジャー、不安にかられた預金者たちがまだいる三番街を眺めながら、フィラデルフィアとここでの生活に関する限り、自分の時代と、自分と共にあったこの街の時代は終わったと感じた。ここでもどこででも、もうブローカー稼業に未練はなかった。今回の破産と、二年前に彼を襲ったシカゴ大火の惨劇は、クーパーウッドから証券取引所への愛着と、フィラデルフィアへの思いをすべて取り除いてしまった。以前はあれほど幸せだったのに、ここにいてずっと不幸だった。そして服役した経験が、かつて交際を希望していた人々から自分を遠ざけてしまったことがはっきりと実感できた。フィラデルフィアの実業家として再出発し、自分は犯さなかったと世間に信じてほしかった犯罪の恩赦を受けた今、新天地を求めてフィラデルフィアを離れる以外に他には何もやることがなかった。
「無事にこれを抜け出したら、これで終わりだ」クーパーウッドは自分に言い聞かせた。「西部へ行って何か他の仕事をしよう」クーパーウッドは、路面鉄道、地上げ屋、何かの大規模な製造業のようなもの、さらには鉱業を合理的な基準に照らして考えた。
「教訓を学んだしな」ようやく立ち上がって帰り支度をしながら独り言を言った。「豊かさは以前と同じで、ほんの少しだけ年を取った。一度は捕まったが、二度と捕まるものか」クーパーウッドはウィンゲートに、始めた作戦を続行するように言いつけて、自らも精力的に推し進めるつもりだった。しかしその間ずっと頭の中に、ある一つの豊かな思いが駆け巡っていた。「私は百万長者だ。自由の身だ。まだ三十六歳だし、将来はすべて目の前にある」
そんな思いを抱きながら、クーパーウッドはアイリーンを訪ねて今後の計画を練った。
ペンシルバニアの山々を通過し、オハイオやインディアナの平原を走る列車が、この野心的な青年資本家をシカゴや西部へと運んだのは、それからわずか三か月後のことだった。若くて金持ちで体は元気いっぱいだったにもかかわらず、自分の将来がどうなるかについては、厳しい保守的な投機家だった。出発する前に慎重に調べたとおり、西部は豊かだった。最近のニューヨークの手形交換所の受領高や、銀行預金残高の傾向や、金の輸送量を調べ、膨大な量の金がシカゴへ流れていることを知った。クーパーウッドは金融を正確に理解していた。金の輸送の意味は明白だった。お金が動くところには取引があった――繁栄し発展中の暮らしがあった。この世界が何を提供してくれるのか、自分ではっきりと見極めたかった。
二年後、ダルースに若い投機家が彗星のように現れた。シカゴで、表向きは西部の小麦を大量に扱うフランク・A・クーパーウッド商会という穀物委託業者が暫定的に開業したあとで、フィラデルフィアで静かに離婚が成立した。フランク・A・クーパーウッド夫人が希望したようだった。時間は夫人を悪いようにしなかったらしい。一度はかなり悪化した資産内容も、今はすっかり改善した。夫人は西フィラデルフィアにいる姉妹の一人の近所に、立派な中流階級の住居にある快適さをすべて備えた、新しくて興味深い家を構えた。今ではすっかり元の信心深さを取り戻していた。二人の子供、フランクとリリアンは私立学校に通い、夕方には母親のもとに帰ってきた。ウォッシュ・シムズはまた黒人の雑用全体を取り仕切った。日曜日には、ヘンリー・ワージントン・クーパーウッド夫妻がよく訪れた。もう経済的に困ってはいなかったが、かつて順風だった帆に風は吹かなくなり、風下で鳴りを潜め、疲弊していた。ヘンリー・クーパーウッドは、やっていけるだけの金が十分にあったから、下っ端の社員としてあくせく働かずに済んだが、社交を楽しむ生活はなくなっていた。老いて、失意と悲しみの中にいた。かつての名誉と経済的な栄華に包まれてそれを感じることができた。もと通りだ――それでも同じではなかった。勇気も夢もなくなって、死を待つばかりだった。
ここにはアンナ・アデレード・クーパーウッドも時々顔を出した。水道局の事務員をしていて、人生の奇妙な変化についていろいろと考えた。世の中で目立つ役割を果たす定めを背負っているかに思えた兄に大きな関心があったが理解することはできなかった。どんな形であれ、兄の身近な人がみんな、兄の成功に左右されるのを見て、世の中で正義や道徳がどういう位置関係にあるのか理解できなかった。ある種の一般原則はありそうだったが――世間はあると思い込んでいたが――しかし明らかに例外は存在した。確かに兄は知られているルールを守らなかったが、それでも再びかなりうまくいっているように見えた。これはどういうことだろう? 先妻のクーパーウッド夫人は、夫の行動を非難しながらも、夫の繁栄を当然のこととして受け入れた。それだと倫理はどうなっているのだろう?
アイリーン・バトラーはクーパーウッドの行動を現在の状況から今後の展望まですべて知っていた。妻が離婚を承諾して間もなく、今住んでいるこの新しい世界を何度も往復した後の冬のある午後、二人は一緒にフィラデルフィアを後にした。アイリーンは、ノラと一緒に暮らしたがっている母親に、以前銀行家だった人と恋に落ちたから結婚したいと説明した。老婦人は最初、事実を捻じ曲げているとしか思わなかったが承諾した。
こうして、アイリーンにとって長く続いたこの古い世界との関係は永遠に終わった。シカゴが自分の前にあった――フランクの話では、これまで二人がフィラデルフィアで築けたものよりも遥かに優れた人生だった。
「ようやく出発できてよかったじゃない?」アイリーンは言った。
「とにかく、これで有利に運べるよ」クーパーウッドは言った。
ミクテロペリカ・ボナキについて
学名ミクテロペリカ・ボナキ、通称ブラック・グルーパーという魚がいるが、この話の余談に取り上げるには最適であり、もっとよく知ってもらった方がいいと思う。元気な生き物で、体重は普通二百五十ポンドにまで成長し、環境適応能力が抜群なので生存率が高い。私たちが創造力と呼んでありがたがっているあのとても不思議なものは、正直者と善人だけが栄えるように、この人の世を築くとされている。そこで、ブラック・グルーパーの特徴である問題の生態を見てみよう。もっと先に進めて少し説得できそうな材料を集めるのもいいかもしれない――恐ろしいクモは短慮なハエに罠を仕掛ける。きれいなドロセラ(モウセンゴケ)はその美しさの餌食になったものを捕食するために閉じ込める場所として、深紅の萼を使う。虹色のクラゲはプリズムのような触手を美しい水流のように広げて、その輝く檻に落ちたすべてのものをひたすら刺して苦しめる。人間自身が穴を掘って罠を仕掛けるのに忙しい。しかしそれを信じようとはしない。足は状況の罠にはまっても、目は幻影を見ている。
青い海の暗い世界を移動中のミクテロペリカは、見栄えはよくないにせよ、人間の知覚が発見しうるどれにも引けを取らないほど、特徴を作り上げる天才のいい見本である。その卓越性は、皮膚の色素にのみに関連するおよそ信じられない擬態能力にある。人間なら電気仕掛けの機械で、一瞬のうちに華麗なシーンを別のシーンに作り変えたり、見物人の目の前に現れては消える映像を矢継ぎ早に映す能力を自慢する。ミクテロペリカがその全身を自在に操る力は、それよりはるかにすごいものである。何か幻想的で不自然なものを目にしている感覚なくして、ずっとそれを見ることはできない。その擬態能力はそれほど鮮やかなものである。黒からたちまち白になれる。地表ような茶色からきれいな水の青色へ溶け込むことだってできる。その模様まで空の雲のように変化する。変幻自在なその能力には驚いてしまう。
入江の底では、周囲の泥に擬態できる。きれいな葉っぱに混じって隠れれば、葉っぱと同じ模様になる。光が差すところに潜んでいると、それ自身が水の中でぼんやりと輝く光のようになる。その見えない回避能力と攻撃力はずば抜けている。
ミクテロペリカにこの能力を与えた、支配的で知的で建設的な力の意図は何だったのだろう? それを本物らしく見せるためだろうか? 正直者で健気に生きているすべての魚にもわかる、変わらない姿を見せられるようにするためだろうか? それともここで、奸智、ごまかし、いかさまが働いたのだろうか? 錯覚を促し、嘘なのにもっともらしく、やろうと思えば存在しないように見え、共通点のないものに擬態し、すごく巧妙な手段で生き抜く生き物では、備えようにも敵の能力が不足している。非難があがるのも無理はない。
これを前にしてみなさんは、ありがたくて、慈悲深い、創造力に富んだ、法を越えた力が、ずる賢いとか人を欺く意志ではない、と言えるだろうか? それとも、私たちが住んでいるこの実在らしい方が錯覚だとでも言うのだろうか? そうでないとしたら、十戒や正義の錯覚はどこから来たのだろう? どうして山上の垂訓の夢が見られたのだろうか? そして、それはどう役立つのだろう?
魔法の水晶
もしみなさんが神秘主義者とか占い師、あるいは呪文や夢や秘伝の器や水晶球でものを占う神秘の世界の一員であったなら、この時にその神秘の深淵を覗いて、今は幸せそうなこの二人に関わる波乱の世界を予見したかもしれない。魔女の鍋の湯気や、輝く水晶の奥に、都市が次から次へと現れたかもしれない。邸宅、馬車、宝石、美の世界。一人の男の権力に蹂躙された広大な大都市。どうにもならない力に憤って煮えくり返る大国。高価な絵画が飾られた大広間。その豪華さにおいて追随するものがない宮殿。ある名前を時々驚きをもって読む全世界。そして、悲しみの連鎖。
吹きすさぶ荒野でマクベスの名を呼んだ三人の魔女が、次に呼ぶ相手はクーパーウッドだったかもしれない。「万歳、フランク・クーパーウッド、すばらしい鉄道の事業主! 万歳、フランク・クーパーウッド、金に糸目をつけない大邸宅の建築主! 万歳、フランク・クーパーウッド、芸術の後援者にして無限の富の持ち主! あなたはこののち、名をあげるだろう」しかし三人の魔女のように、相手は嘘をつきそうだった。何しろ栄光の中には、死海の果実の灰もあった――つまりは欲望で燃え上がらせることも、贅沢で満足させることもできないのだ。経験を積むも心はずっと疲弊したままで、魂は風のない月のように幻影を失った。そしてマクダフにしたようにアイリーンにも、もっと哀れな約束、希望と挫折に関わる約束をしたかもしれない。持つことと、持たないこと! すべては見せかけでも、持たないのは悲しい! はかない夢の中で輝きながら扉を閉ざした華やかな上流社会、愛は鬼火のようにすり抜けて暗闇の中で死んだ。「万歳、フランク・クーパーウッド、支配者であり支配者でない者、現実が幻滅でしかない夢の世界の王子!」魔女たちはそう呼びかけたかもしれない。ころがる球が数字と踊り、怒りは幻と踊った。それが真実だったのだろう。こういう始まり方をしたらこういう終わり方になると読めないとしたらどこが賢いのだろう!