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資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第42章-第49章

 

第四十二章


裁判は続いた。これでクーパーウッドを有罪にできるとシャノンが納得する手応えを州側が打ち立てるまで、検察側の証人は次から次へと現れた。そこまでやってシャノンは終わりを宣言した。シュテーガーはすかさず立ち上がり、これもあれもその他も、示すだけの証拠がないのだから本件を取り下げるよう長い弁論を始めた。しかしペイダーソン判事は全く取り合おうとしなかった。彼はこの問題が地元の政界でどれほど重視されているかを知っていた。


「今さらそんなことを言ったって仕方がないと思いますよ、シュテーガーさん」言わせるだけ言わせておいてからペイダーソンはうんざりして言った。「市の慣習なら私だって知ってますよ。今回の起訴は市の慣習に関わるものではありません。言いたいことがあれば私ではなく陪審へどうぞ。私はもうそこには立ち入れんのですよ。被告の裁判が終了した時点で新たに申し立てればいいでしょう。申し立ては却下されました」


シャノン地方検事は熱心に聞きながら座っていた。どう言おうが裁判長の考え方を和ます余地はないと見てシュテーガーが戻るとクーパーウッドはその結果に微笑んだ。


「陪審に託すしかありません」シュテーガーは言った。


「そういうことだな」クーパーウッドは答えた。


それからシュテーガーは陪審に近づいて自分の視点から事件のあらましを述べ、自分の視点から証拠が示すと自分が確信していることを陪審に語った。


「実際のところはですね、みなさん、検察側が提出できる証拠と、我々弁護側が提出できる証拠に本質的な違いはありません。我々だって、検察側が今主張しているように、クーパーウッドさんがステーネルさんから六万ドルの小切手を受け取ったことや、その金額の、彼が代理人として支払いを受ける権利があった市債の証書を減債基金に収めなかったことに、異議を唱えるつもりはありません。しかし我々は、彼が市の代理人として、四年間市の財務局を通じて市と取引を行い、市財務官と交わした契約に基づいて、すべての金銭の支払いおよび減債基金への証書の預託をその取引があった翌月の一日まで保留する権利を有していたことも、合理的疑いの余地がないものだと主張し証明するつもりです。実は、これを証明するために我々はまさにこのやり方で過去に市の財務局と取り引きをした経験があるトレーダーや銀行家を大勢連れてくることができますし、そのつもりでおります。検察側はみなさんに、クーパーウッドさんがこの小切手を受け取った時点で自分が破産することを知っていたとか、この証書は彼が主張するような減債基金に収めるつもりで購入したのではなかったとか、さらには自分が破産することを知っていたのでその後証書を預けられず、計画的にステーネルさんの秘書のアルバート・スターズさんのところに行き、この証書を購入したと話して、もしくは話さずに事実と違うことをほのめかして、小切手を確保し、立ち去った、と信じるよう求めています。


さて、みなさん、事実がどうだったかは、すぐに証言が明らかにしてくれますから、現時点でこれらの点を長々と議論するつもりはありません。この場には証人がたくさんおりますから証人の話を聞いてください。みなさんに覚えておいてほしいのは、クーパーウッドさんが市財務官を訪ねた時点で自分が破産しそうなのを知っていたとか、問題の証書を購入しなかったとか、いつも市と収支を合わせる月初まで好きなだけ減債基金に収めずに保留しておく権利を有していなかったとかいうものは、おそらくジョージ・W・ステーネルさんから得られる証言の他に、証拠らしい証拠は一切ないことです。前の市財務官のステーネルさんはおそらくこの方向で証言するかもしれませんが、クーパーウッドさん本人は別の方向で証言をするでしょう。二人のうちどちらを信じるかはみなさんの判断にお任せします――ジョージ・W・ステーネルさんは、クーパーウッドさんの元仕事仲間で、前の市財務官、長年にわたって利益を得てきたのにただ一度の金融不安、火事、パニックに見舞われただけで、せっかく多大な利益をもたらしてくれた仲間を裏切ってしまった人物です、それともフランク・A・クーパーウッドさんでしょうか。有名な銀行家にして資本家、この嵐を切り抜けるために孤軍奮闘し、市と交わしたあらゆる契約を履行し、火事とパニックによって自分に強いられたこの不当な財政難を改善するために今まで多忙を極め、つい昨日も、市に対して、もし自分が事業を中断せずに管理を許されるなら、喜んで自分の負債を(実際にはすべてが彼のものではないのですが)彼とステーネルさんと市との間で議論されている五十万ドルのお金も含めて、できるだけ速やかに返済し、自分の動機に対するこの不当な疑いには何の根拠もないことを、口先ではなく、仕事によって証明する旨を申し出ました。おそらくみなさんが推察するとおり、市は彼の申し出を受け入れませんでした。後ほどみなさんにその理由をお話しします。当面は証言を聞きながら審議を継続いたします。弁護側としては、みなさんに今日ここで証言されるすべてのことに細心の注意を払くようお願いします。W・C・デービソンさんが証言台に立ったらよく注意して話を聞いてください。クーパーウッドさんが証言に立ったら同じように注意して話を聞いてください。他の証言もしっかり聞いてください。そうすればみなさんがご自身で判断できます。この起訴をすべき正当な動機を見い出せるか確かめてください。私には見出せません。みなさん、ご清聴どうもありがとうございました」


それから金融混乱のときに取引所でクーパーウッドの特別代理人を務めたアーサー・リバースを証人に呼んで、マーケットを支えるために彼が大量の市債を購入したことを証言させ、次にクーパーウッドの弟、エドワードとジョセフが、その時に市債の売買――主に買い付け――についてリバースから受けた指示を証言した。


次の証人はジラード・ナショナル銀行のW・C・デービソン頭取だった。体の大きな男で、丸々としているというより、いっぱいに広がった体型だった。肩と胸に厚みがあり、大きなブロンドの頭は額が広く、高潔で分別がありそうに見えた。団子鼻には説得力があり、唇は薄くてしっかりむすんでいた。その厳しい青い目には時折、かすかな皮肉っぽいユーモアのセンスが感じられたが、ほとんどの場合は親しみやすく、慎重で、おとなしそうであり、ちっとも感傷的ではなく、親切にさえ見えなかった。誰の目にも明らかなように、デービソンの仕事は大変な金融事情を述べることだった。彼がフランク・アルガーノン・クーパーウッドに精神的に支配されるとか動揺させられたりせずに、自然にクーパーウッド寄りである様子も見て取れた。デービソンがとても静かに、そして見ようによってはさも仰々しく席に着いたとき、この種の法律や金融を語っても、普通の人間にはわかるまいし、まともな資本家の品位を下げる――つまり面倒だ、と感じていたのは明らかだった。宣誓するデービソンのために聖書を掲げてその横で眠たそうにしているスパークヒーバーなどはさながら木の塊に過ぎす、宣誓は彼個人の問題だった。時々本当のことを言っておけばそれで役目は果たせた。デービソンの証言はとても率直で単純明快だった。


フランク・アルガーノン・クーパーウッド氏とは十年来の知り合いである。この間ほぼずっと、彼と、あるいは彼を通じて仕事をしてきた。ステーネル氏との個人的な関係については全く知らなかった。自分はステーネル氏とは面識がない。問題の六万ドルの小切手に話が及ぶと――確かに、前にそれを見たことがある。十月十日に、クーパーウッド商会の当座貸越を相殺するために、他の担保と一緒に銀行に持ち込まれたものだった。これは銀行の帳簿のクーパーウッド商会への信用貸し分にあてられた。銀行は手形交換所を通じて現金を確保した。その後クーパーウッド商会が銀行からお金を引き出して当座貸越を発生させることはなかった。クーパーウッドの銀行口座は清算されたからである。


クーパーウッド氏が引き出し額は大きかったかもしれないが、それについて検討されることはなかった。デービソン氏はクーパーウッド氏が破産しそうだったことを知らなかった――こうもあっけなくするとは思わなかった。クーパーウッドの銀行口座の借り越しは日常茶飯事だった。実のところ、この仕事で借り越しは普通のことだった。それは自分の資産を積極的に活用したことであり、仕事が順調である証拠だった。しかしクーパーウッドの借り越しは担保で保証されたものであり、担保や小切手の束、あるいはその両方を送るのが習慣だった。そういうものがいろいろと使われて物事を立ち行かせていた。クーパーウッド氏の口座は銀行で一番大きく最も活発だったとデービソン氏は親切にもわざわざ口添えしてくれた。クーパーウッド氏が破産したとき、銀行には九万ドル以上の市債の証書があった。それはクーパーウッド氏が担保として送ったものだった。シャノンは陪審員への影響を考えて反対尋問で、デービソン氏は何か下心があってクーパーウッドに特に肩入れしているのではないかと探りを入れようとしたが果たせなかった。シュテーガーはその後を受けて、デービソン氏がクーパーウッドのために作ってくれた有利な点を彼に繰り返し説明させることで、陪審員の疑念を完全に払拭しようと全力を尽くした。シャノンは当然、反論したが無駄だった。シュテーガーは何とか自分の主張を押し通した。


シュテーガーはクーパーウッドを証言台に立たせるのは今だと判断した。ここで彼の名前が出ると法廷全体がざわめいた。


クーパーウッドは颯爽と素早く前に出た。とても落ち着いた明るい態度だった。人生に抗いつつも丁寧に向き合っていた。この検察官も、この陪審員も、この無価値なくせに過大評価されている裁判官も、運命のいたずらも、基本的には彼をかき乱したり、尻込みさせたり、弱気にさせたりはしなかった。クーパーウッドは陪審員の精神的素養を瞬時に見抜いた。シャノンを手こずらせて煙に巻く自分の弁護士を支援したかった。事実だろうが見かけだろうが壊れない基本構造だけがそれを可能にすると彼の理性は告げた。自分のしたことは経済活動として正しいと信じた。自分にはそうする権利があった。人生は戦争だ――特に金が絡んだ人生は。戦略はその基本であり、義務であり、必然だった。そんなことも理解できない、ちっぽけな、つまらない考え方にどうして悩まねばならないのだろう? クーパーウッドは、シュテーガーと陪審員のために自分がしてきたことをおさらいして、できる限りまっとうな、聞こえのいい光を当てた。そもそも自分からステーネルさんに近づいたのではなく呼ばれたのです――クーパーウッドは語った。自分は何もステーネルさんに勧めてはいません。自分はただステーネルさんと彼のお友だちに投資の選択肢を示しただけで、相手がそれを手に入れようと夢中になりすぎて手に入れただけです。(この時点でシャノンは、ステーネルと友人たちが抗議の声の一つも出せずに「振り落とせる」ように、クーパーウッドがいかに巧妙に路面鉄道会社を作っていたかを見抜けなかった。だからクーパーウッドはこれを自分がステーネルたちにつくったチャンスだと話した。シャノンもシュテーガーも金融は専門ではなかった。二人とも――特にシャノンは――多少は疑っていたが一応信じなければならなかった。)市財務官事務所側の慣例については自分の責任ではないとクーパーウッドは証言した。クーパーウッドは一介の銀行家でありブローカーにすぎなかった。


陪審員はクーパーウッドを見て、六万ドルの小切手の問題以外すべてを信じた。話がそこに及ぶと、クーパーウッドはすべてに十分なもっともらしい説明をした。この最後の数日の間にステーネルに会いに行きはしたが、まさか自分が本当に破産するとは思っていなかった。ステーネルにお金を要求したのは事実である――それほど多くではない、すべてを考慮して――十五万ドル、ステーネルの証言どおりだった。しかしクーパーウッドの態度に動揺はなかった。ステーネルは資金源の一つでしかなかった。あの時は他にも頼む当てがあると確信していた。おろおろうろたえたり追加融資を保留するのは間違いだとステーネルに指摘したことはあったが、ステーネルの証言にあったような強い言葉を使ったことはないし矢の催促をしたこともなかった。ステーネルが最も簡単で手っ取り早い資金源であったことは事実だが、資金源は彼だけではなかった。実際のところ、必要なら、主だった金融仲間たちが自分の信用枠を大きく広げてくれるだろうし、身近なところを整理すれば、嵐が通り過ぎるまで事業を継続するくらいの時間は十分あると考えていた。パニックの初日にマーケットを維持するために市債の購入規模を拡大したことと、六万ドルかかった事実をステーネルに伝えた。ステーネルは何も反対しなかった。ただその時ステーネルは精神的に相当参っていたので細心の注意を払えなかった可能性はある。クーパーウッドも驚いたが、その後、予想もしなかった方向から予想もしなかった圧力がかかって、大手の金融機関は快くどころか不幸にして厳しい態度で臨むようになった。最後の瞬間まで本当に予想もしなかったが、この圧力が翌日一気に押し寄せてきて、店を閉めざるを得なくなった。その時、自分が六万ドルの小切手を取りに行ったのは、まったくの偶然だった。もちろんそのお金は必要だった。しかしそれは支払われて当然のものであり、事務員はみんな多忙を極めていた。ただ時間を節約するために自分がもらいに行って受け取ったに過ぎなかった。拒めば訴訟沙汰になることをステーネルは知っていた。市に代わって購入した際に、市債の証書を預託しなかった件は、まったく気に留めていなかった。その件は全て帳簿係のスタプレイ氏が担当していた。実のところ、証書が預けられていないことを自分は知らなかった。(これは真っ赤な嘘だった。クーパーウッドはちゃんと知っていた。)その小切手がジラード・ナショナル銀行に渡されたのは偶然で、状況が違っていたら、どこかの別の銀行に引き渡されたかもしれなかった。


こうしてクーパーウッドは、シュテーガーとシャノンの厳しい追求に、この上なく魅力的な率直さで答えていった。彼がそのすべてに対してとった堂々たる態度――本気で仕事に徹した態度――を見れば、彼はいわゆる商魂を備えた人物と言えただろう。そして、本当にクーパーウッドは、自分がしてきたことと、今説明していることは、すべて必要であり重要であると同時に正しいと信じた。陪審員には自分が見たように物事を見てもらいたかった――自分の立場に立ってわかってもらいたかった。


クーパーウッドの出番は終わった。彼の証言とその人柄が陪審員に与えた印象は独特だった。陪審員番号一番のフィリップ・モールトリーは、クーパーウッドが嘘をついていると判断した。自分が破産しそうなのがどうして前日にわからないのか彼には理解できなかった。クーパーウッドは知っていたにちがいないと思った。とにかく、クーパーウッドとステーネルの間であった一連の取引全体を考えると、何かの処罰に値するように思えた。この証言の間ずっと、陪審室に入ったらどうやって有罪の評決を出そうか考えていた。クーパーウッドが有罪であることを他の人たちに納得させるために用いる論点をいくつか考えてさえいた。かと思えば陪審員二番、洋服屋のサイモン・グラスバーグはすべての顛末を理解したと考え、無罪に投票することに決めた。クーパーウッドが無実だとは思わなかったが、処罰には当たらないと思った。陪審員三番、建築家のフレッチャー・ノートンはクーパーウッドが有罪だと思ったが、同時にあまりに才能があるから刑務所に送るには惜しいと思った。陪審員四番、アイルランド人の請負業者チャールズ・ヒレガンは多少信心深い人で、クーパーウッドは有罪であり罰せられるべきだと考えた。陪審員五番、石炭商のフィリップ・ルカッシュは彼が有罪だと思った。陪審員六番、鉱山技師のベンジャミン・フレイザーはおそらく有罪だと思ったが確信は持てなかった。陪審員七番、小柄で現実的で心の狭い三番街のブローカー、J・J・ブリッジスは、どうしようかわからないまま、クーパーウッドは狡猾で、有罪で、処罰に値すると考え有罪に投票するつもりだった。陪審員八番、小さな蒸気船会社の総支配人ガイ・E・トリップは決めかねていた。陪審員九番、引退した接着剤製造業者のジョセフ・ティスディルは、クーパーウッドはおそらく起訴状どおり有罪だと思ったが、ティスディルにすればそんなものは犯罪ではなかった。クーパーウッドにはその状況でしたことをする権利があった。ティスディルは無罪に投票するつもりだった。陪審員十番、若い花屋のリチャード・マーシュは情に流されてクーパーウッドを支持した。実は確信など何もなかった。陪審員十一番、懐は軽いが体重は重い食料雑貨商のリチャード・ウエバーは、クーパーウッドの有罪を支持した。彼には罪があると考えた。陪審員十二番、小麦粉の卸売商のワシントン・B・トーマスはクーパーウッドが有罪だと思ったが、有罪を宣告した上で情状酌量の余地があると信じた。人は更生させるべきである、が彼のモットーだった。


一同は立ち上がった。自分の証言が少しでも功を奏したかどうかを考えながら、クーパーウッドは立ち去った。


 

 

第四十三章




最初に陪審員に演説するのは被告側弁護士の特権なので、シュテーガーは検察に向かって礼儀正しく一礼して進み出た。両手を陪審席の手すりに置いて、とても静かで控えめだが印象的な態度で話し始めた。 

 


「陪審員のみなさん、私の依頼人、三番街で働くこの街の有名な銀行家で資本家のフランク・アルガーノン・クーパーウッドさんが、この地区の地方検事を代表とするペンシルバニア州に起訴されました。総額六万ドルを、彼の注文に対し作成された一八七一年十月九日付の小切手という形で、当時この市の財務官の専属秘書兼主席会計士だったアルバート・スターズから受け取り、フィラデルフィア市の金庫から自分の財布に不正に移し替えたとするものであります。さて、みなさん、これに関連する事実とは何でしょうか? みなさんはいろいろな証人の話を聞いて、この物語の概略を知っています。まずはジョージ・W・ステーネル証言を取り上げてみましょう。その証言によりますと、一八六六年後半のいつだったか、証人は、当時額面を大きく下回って売られていた市債の取り扱いを指南し――単に指南するだけでなく、その知識が正しいことを実践してくれそうな銀行家もしくはブローカーが必要不可欠になりました。ステーネルさんは当時金融には不案内でした。クーパーウッドさんは取引所でブローカーやトレーダーとしてうらやましいほどの実績を持つ意欲的な青年でした。市債を額面で扱うにはどうすればいいのかを、ステーネルさんに理屈で説明するだけでなく実践してみせました。その時に、クーパーウッドさんはステーネルさんと協定を結びました。その詳細についてみなさんはステーネルさん本人から聞いています。その結果、大量の市債が売るためにステーネルさんからクーパーウッドさんに引き渡されました。巧みな売買の操作によって――ここで説明する必要はありませんが、クーパーウッドさんが働く世界では完全に正常で合法的な方法で――市債を額面まで引き上げ、みなさんもここでの証言ですべてを聞いたとおり、毎年その状態を維持しました。


さて、みなさん、ここでの争点は何でしょう? 今ステーネルさんをこの法廷に連れ出して、昔の代理人兼ブローカーを窃盗と横領で告発し、市の公金六万ドルを返済の影もなく私的に流用したと主張させている重大事実とは? 一体何なのでしょう? クーパーウッドさんは密かにまるで盗む気満々である日突然ステーネルさんや彼の部下たちに知られずに財務官室に入り、強引に犯罪の意図をもって六万ドル相当の市の公金を持ち去ったのでしょうか? とんでもありません。みなさんも地方検事の説明を聞いたでしょうが、罪状というのは、クーパーウッドさんが就業日の午後四時から五時の間の白昼に堂々とやってきて、三十分から四十五分ほどステーネルさんと閉じこもり、出てきて、アルバート・スターズさんに、最近、市の減債基金向けに六万ドル相当の市債を購入したことと、その分の金はまだ支払われていないことを説明し、その金額を市の帳簿の自分の欄に計上するよう求め、自分がもらって当然の小切手を渡すよう要求して立ち去った件です。そこに何か注目すべきことがあるのでしょうか、みなさん? 何か変なところがありますか? クーパーウッドさんはその時に扱ったと自分でも言ってましたが、彼がそういう業務を扱う市の代理人ではないという証言が今日ここでされたでしょうか? 自分でも言ってましたが、彼が市債を購入しなかったと、どなたかこの証言台で証言したでしょうか? 


それではどうしてステーネルさんはクーパーウッドさんを、彼がその市債を購入する権利を持っていたのに、そして彼が購入したことはここで争われていないのに、その証書の代金の六万ドルの小切手を略取したとか不正に処理したとかいって告発するのでしょうか? その理由はここにあります――いいですか――ここです。私の依頼人は小切手を要求して、それを持ち去って自分の銀行の自分の口座に入れたときに忘れたのです、検察側の言い方で言うと、受け取った小切手のもとである六万ドル分の証書を減債基金に収めなかったのです。そしてそれをやり忘れ、同じ日の金融混乱のせいで支払いを全面的に停止せざるを得なくなり、それによって、検察側と気が気でないこの市の共和党指導者たちの言う、横領犯、泥棒、ああだこうだになったのです――その辺の罪状はジョージ・W・ステーネルと市民の目には無関係に見える共和党指導者が代わりに呼びそうなものなら何でもいいわけです」 

 


そして、ここでシュテーガーは大胆かつ果敢に、シカゴ大火とその後のパニックとそれの政治との因果関係で明らかになった政治状況全体をざっと説明して、クーパーウッドを不当に悪者にされた代理人、火事の前はフィラデルフィアの政治指導者の誰もが重宝し一目置いていた相手なのに、その後選挙に負ける恐れが出たとたんに、とにかく手の届くところにいた一番手頃なスケープゴートに選ばれた者、に仕立て上げた。


そして、シュテーガーはこの作業に三十分かけた。それが済むとすぐにシュテーガーは、今度はステーネルのことを、特定の投資の成果は出したいがそれを自分たちとは結びつけられたくない彼の上役の政治勢力に利用されたただの子分か隠れ蓑だと指摘して続けた。 

 


「しかし今、これだけのことがすべてわかってしまうと、このすべてがいかに馬鹿馬鹿しいかおわかりでしょう! 馬鹿げてる! フランク・A・クーパーウッドはこの問題を扱う市の代理人を何年も務めてきました。彼はステーネルさんと最初に合意した一定のルールの下で働きました。そのルールは、ステーネルさんが市財務官として登場するずっと前の歴代政権の慣習や規則の遺物なので、明らかにステーネルさんとは関係ない前任者たちから持ち越されたものです。そのうちの一つは、翌月一日に収支決算をするまですべての取引を繰り越せるというものです。つまり、月の初めまで、市財務官には何のお金も支払う必要もなく、小切手を送る必要も、お金を預ける必要も、減債基金に証書を収める必要もないのです。その理由はですね――よく聞いてください、みなさん、ここが重要ですから――それはですね、彼が市財務官のために行った市債その他の取引は、非常に数が多く、迅速さを要し、事前の予測が立たないので、適切な業務を運行するためには、この種の融通の効く簡単なシステムを採用しなければならなかったからです。そうでなければ、ステーネルさん第一で、いや、他の誰にしてもそうですか、最優先で働くことはできなかったかもしれません。彼の――市財務官の会計処理は膨大な量だったでしょうからね。ステーネルさんは早い段階でこのことを証言しています。アルバート・スターズは、彼がそう理解していることを指摘してくれました。さあ、そのとき何があったのでしょう? これだけのことです。こういう場合に、クーパーウッドさん本人がこういう預けものを持って、いろんな銀行だとか減債基金だとか市の財務官事務所に出向いたり、部下の会計責任者に『はい、スタプレイ、六万ドルの小切手だよ』と言ったりするでしょうか、陪審員のみなさんは、まともなビジネスマンは、思うのでしょうか。これこれの分の市債の証書が今日中に減債基金に収められていると確認するでしょうか? しませんよね? 他のどんな例えにしたって馬鹿馬鹿しい限りです! 当然のように、そしていつもそうしていたように、クーパーウッドさんには組織がありました。時が来たら、この小切手もこの証書も自動的に処理されたことでしょう。彼は小切手を経理に渡したっきり、すっかり忘れました。みなさんは、こういう大きな仕事をする銀行家が、何か他のことをしているところを想像するのですか?」

 


シュテーガー氏は一息ついて、自分の論点が十分に伝わったと見て満足するや先を続けた。 

 


「もちろん、その答えは、彼が破産しそうなことを知ったからです。まあ、クーパーウッド氏の答弁は、そんなことは何も知らなかった、なのですが、彼自らがここで証言したとおり、自分がそういうことになると思うとか知るとかしたのは、実際にそういう事態が起こる直前だったというだけのことです。では、どうしてこれが、法的権利のある小切手をクーパーウッドさんに渡すことを拒む言い訳になったのでしょう? 私は自分ではわかっていると思います。もしみなさんに聞く気があるのなら、理由を説明できると思います」 

 


シュテーガーは立ち位置をかえて別の知的な角度から陪審員と対峙した。 

 


「直前に起きた大火事とパニックのせいもあるのでしょうが、それは単にその時ジョージ・W・ステーネルさんが何らかの理由で――おそらくクーパーウッドさんが地元の出来事にいちいち怯えないように注意したものだから――クーパーウッドさんが店を閉じようとしていると想像したのでしょう。低利でかなりの金を預けていたわけですからステーネルさんは、提供したサービス代だから実際には彼に支払われねばならないお金であり、ステーネルさんが二・五パーセントで融資したお金とまったく関係ないのに、これ以上クーパーウッドさんにお金を渡してはいけない、と判断したからです。実に馬鹿げたことじゃありませんか? しかし、ジョージ・W・ステーネルさんはまずクーパーウッドさんの支払能力とは全く関係のない火事とパニックのせいで勝手に怖くなり、本来ならフランク・A・クーパーウッドさんに支払わねばならないお金を渡さないことにしてしまったのです。ステーネルさんは(クーパーウッドさんを仲介して)犯罪も同然に私利私欲で市の公金を使っており、バレて処罰される危険がありましたからね。さて、みなさん、その判断の是非はどうやって決まったのでしょうか? わかりきったことでしょう、みなさん? ここで証言された市債の証書を購入したとき、クーパーウッドさんはまだ市の代理人でしたか? 確かに代理人でした。もしそうなら、そのお金を受け取る権利は彼にありましたか? どなたかここで立ち上がってそれを否定する気がありますか? さあ、この問題で彼が正しいか、正直か、どこに疑問があるのでしょう? いったい疑問はどこから降って湧いたのでしょう? 私はみなさんに説明できます。出処はたった一つ、それ以外にはありません。共和党のスケープゴートを見つけたがっているこの街の政治家です。


元々自分のものを要求して受け取っただけなのに、それを理由に市の代理人のクーパーウッドさんを起訴する、このとてもおかしな決定を説明するのに、みなさんは私が随分見当違いなことを言っていると今お考えかもしれませんが、そんなことはありません。当時の共和党の立場を考えてください。巨額の市の公金不正支出の真相が事細かく明らかになると、来たるべき選挙にかなりの悪影響が出る事を考えてください。共和党は候補に新人の市財務官と新人の地方検事をかかえていました。市財務官は、自分や友人のために管理下の資金を低金利で投資する特権が許されるのが慣例でした。安月給でしたからね。それなりの生活をするには何かの手段をもたねばなりませんでした。この市の公金を融資するという慣例はジョージ・ステーネルさんの責任でしょうか? とんでもない。ではクーパーウッドさんでしょうか? とんでもない。クーパーウッドさんやステーネルさんが登場するずっと以前から、この習慣はありました。それなのに、なぜ今になってこんな大騒ぎをするのでしょう? こうなったのもすべては、世間に知られるのをあのときステーネルさんが怯え、あのとき政治家たちが恐れたからに過ぎません。これまでにバレた市財務官はひとりもいません。バレるということは、つまりステーネルさんが利用しているかなり悪質な行為に世間の注目を集めてしまう危機に直面することは、新しい事態だったんです。ただそれだけでした。大火事とパニックは、街の多くの金融機関の安全と経営を脅かしていました――その中にクーパーウッドさんの会社もありました。破産者がたくさん出るかもしれません。たくさんの破産者が出るならある人が破産することだってありえます。もしフランク・A・クーパーウッドが破産したら、二・五パーセントという超低金利で市から借りた五十万ドルをフィラデルフィア市に返せなくなります。そうなるとクーパーウッドさんは非常に困るのではありませんか? 彼は市財務官のところへ行って二・五パーセントで融資を頼みましたか? 頼んだら、違法なビジネスですか? 最低の金利で借りられる融資先から金を借りる権利が人間にはありませんか? もし貸したくなかったら、ステーネルさんはクーパーウッドさんに貸さなければいいのではありませんか? 現に彼は今日ここで、自分が最初にクーパーウッドさんを招聘したと証言したのではありませんか? それでは、いったいどうしてこんな窃盗罪、受託者窃盗罪、横領罪、小切手横領罪などの起訴が起きたのでしょう? 


もう一度、みなさん、よく聞いてください。私がその理由を説明しますから。ステーネルの背後にいて、ステーネルがその命令に従っていた相手が、誰かを政治のスケープゴートに仕立てたかったのです――他に候補がいなかったらフランク・アルガーノン・クーパーウッドになったのです。それが理由です。天地神明にかけて他に理由はありません。何一つとして。もしもクーパーウッドさんがあの時事態を乗り切るために追加融資を必要としていたなら、金を提供してこの問題をもみ消す方が彼らにとっては良策だったでしょう。違法ではあったでしょうが――これまでこの件に関連して行われた他の行為ほど違法ではありません――しかしそうした方が安全だったでしょう。怖かったんですよ、みなさん、怖くて勇気が出なかったんです。大きな危機が発生して大きな危機に対処できなくなると、本当にこんなこともできなくなるのです。これまで一度も自分たちの信頼を裏切ったことがなく、その忠誠とすばらしい金融手腕から彼らと市は莫大な利益をあげていたのに、その人物を頼るのが不安でした。その時の市財務官には、火事とパニックと破綻の可能性の噂を前にして突き進んで違法行為をやり通す勇気などありませんでした。そして今日ここで証言したとおり、彼は手を引くことしました――クーパーウッドさんに全額もしくは少なくとも自分が彼に融資した五十万ドルの大半を返済するよう求めました。といっても実際には、クーパーウッドさんはそれを自分とステーネルのために使っていたのにです。さらに権限で購入した市債の代金まで拒みました。こういう取引のいずれかの代理人としてクーパーウッドは有罪でしょうか? これっぽっちも有罪ではありません。今回の彼の破産に関連して、市に五十万ドルを返済させるために起こされた訴訟があるでしょうか? ないのです。ひとたび状況が判明してみれば、これはジョージ・W・ステーネルの愚かな大騒ぎにすぎず、党の財務官ステーネル以外に市の損失の責任をなすりつけられる相手を見つけたいという共和党指導者の強い願望にすぎません。みなさんは今日ここでクーパーウッドさんの証言を聞きました――彼はまずこういう事態が起きないようにするために、ステーネルさんのところへ行きました。この警告が仇となり、ステーネルさんは逆上して正気を失い、クーパーウッドさんに融資の全額、彼が二・五パーセントで融資した五十万ドルすべての返済を求めました。随分と愚かな金貸しがあったものですね? 完全に合法的な融資を引き上げるのに適したタイミングではなかったでしょうに? 


さて、六万ドルの小切手の件に戻りましょう。ステーネルさんの証言によれば、クーパーウッドさんが破産する直前の午後に立ち寄ったときに、これ以上お金は渡せない、無理だと相手に告げました、するとクーパーウッドさんは部屋を出て事務所本体に行き、知らないうちに、あるいは同意もなしに、主席事務官兼秘書のアルバート・スターズさんを説得して、彼には権利のない、知っていたらステーネルさんなら支払いを止めていたはずの六万ドルの小切手を渡させたそうです。


おかしいでしょう! なぜ彼が知らなかったのでしょう? 帳簿があったんですよ、目の前に。スターズさんが最初に言ってきたのは翌朝です。クーパーウッドさんはそれを何とも思いませんでした。だって彼にはそれを受け取る権利がありましたから。破産しようがしまいが、こういう場合、管轄するどの裁判所でもそれを回収できたんです。ステーネルさんが支払いを止めるつもりだったと言うのも愚かな話です。この主張はおそらく、翌朝仲間や政治家たちと相談して知恵をつけられたのでしょう。すべてが策略と罠でした。この時は共和党に差し出すためのスケープゴートでした。それ以上でも以下でもありません。こればかりはクーパーウッドさんに有罪判決が下されるのを見たくて仕方がない人でなければわかりません」 

 


シュテーガーはいったん話をやめて思わせぶりにシャノンを見た。 

 


「陪審員のみなさん(シュテーガーはようやく静かに真剣に結論に入った。)今晩評議室でよく考えれば、この起訴状に書かれている窃盗罪や、受託者窃盗罪や、六万ドルの小切手の横領罪に対するこの起訴は、この一つの行為がさも犯罪に見えるよう言いくるめようとする地方検事の熱心な努力以外の何物でもないとわかります。クーパーウッドさんを犠牲にしてでも自分の立場を守りたくて仕方がない、自分たちさえ罪に問われなければ、名誉も公正な裁きも一切まったく関係ない、大勢の困った政治家の血迷った想像の産物以外の何物でもありません。彼らはペンシルバニア州共和党本部に、共和党の市の運営管理がうまくいっていないと思われたくないのです。ジョージ・W・ステーネルをかばえるだけかばって、私の依頼人を政治的なスケープゴートにしたいのです。そんなことはあってはならないことですし、そうさせてはなりません。まともな良識人として、そんなことになるのをみなさんは許さないでしょう。そう考えると、私は安心してみなさんに託せます」 

 


シュテーガーは突如陪審員席に背を向けてクーパーウッドの脇の自分の席へ戻った。するとシャノンが立ち上がった。冷静で、力があって、威勢がよく、ずっと若かった。


人間の問題として、シャノンはシュテーガーがクーパーウッドのために築き上げたこの事実に特に異論はなかったし、クーパーウッドのとった金の稼ぎ方に反対しなかった。現にシャノンは、自分がクーパーウッドの立場だったら、まったく同じことをしただろうと実際に考えていた。しかし、彼は新たに選任された地方検事だった。実績を作らねばなかったし、彼の上にいる政治権力者たちは、クーパーウッドをそのまま有罪にするべきだと考えていた。そこで、シャノンはまず手すりにしっかり両手をつき、しばらく陪審員の目をじっと見て、頭の中で少し考えを組み立ててから話を始めた。 

 


「さて、陪審員のみなさん、私たち全員が今日ここで判明したことにしっかりと注意を払えば、難なく一つの結論にたどり着くように、私には思えます。私たちがみんなで事実を正しく判断しようとすれば、とても満足のいく結論が出るでしょう。本件の被告クーパーウッドさんは先ほども言いましたが、窃盗罪、受託者窃盗罪、横領罪、特定小切手横領罪で起訴されて本日この法廷に出廷しました。――特定小切手とは一八七一年十月九日付の総額六万ドル、フランク・A・クーパーウッド商会の請求に基づいて市財務官に代わって市財務官秘書により振り出され、被告にはそれに署名する権利があったとして被告により署名がなされ、先ほど述べたフランク・A・クーパーウッドに引き渡されたものです。被告の言い分によれば、その時はきちんと支払い能力があっただけでなく、事前に六万ドル分の市債の証書も購入済みで、その時点で預けたか、もしくはその直後に慣例にならい市の減債基金口座に預け入れ、いつものとおりにいつもの業務を終えるつもりでした――つまり、市に代わって市債を購入し、それを減債基金に預け、迅速かつ適正に払い戻しを受けるというのが、市の金融代行業者フランク・A・クーパーウッド商会の業務です。さて、みなさん、この事件の本当の事実とは何でしょう? いわゆるフランク・A・クーパーウッド商会なるものは実在したのでしょうか――みなさんは今日ここで証言をお聞きになったでしょうが、ご存知のように会社など存在しません、だたフランク・A・クーパーウッドがいるだけです――彼が受領したという形でこのとき小切手を受領したのはいわゆるフランク・A・クーパーウッドその人です――果たしてそのとき、彼は権限を有する市の代理人だったでしょうか、それとも違っていたでしょうか? 彼に支払能力はあったでしょうか? 彼は自分が破産すると本当に思っていたでしょうか、この六万ドルの小切手は、法も道徳も何もかも一切顧みずに、投資家生活を守るために掴んだ最後の細い藁だったでしょうか、彼が入手したと言った方法で入手し、入手したと言った時に入手したその金額の市債の証書は、実際に購入していたでしょうか、単に自分の正当な手数料を受け取っていただけでしょうか? 彼はこの市債の証書を、彼が言ったように――そうするのが自然であり普通であると理解されていたように――市の減債基金に預けるつもりだったでしょうか――それともそうではなかったでしょうか? 彼がこの六万ドルの小切手を手に入れた日、彼の仲介代行者としての市財務官との関係は、これまでと同じだったでしょうか、そうではなかったでしょうか? 両者の関係は、十五分前でも二日前でも二週間前でも――適切に終了しているのであれば時間は関係ありませんが、終わっていましたか、いませんでしたか? 特別な契約条項や運用期間の規定がない限りビジネスマンにはいつでも協定を破棄する権利があります――みなさんもきっとご存知でしょう。この事件の証拠を検証する上で、みなさんはそのことを忘れてはなりません。ジョージ・W・ステーネルは、フランク・A・クーパーウッドが資金繰りに行き詰まり、もはやこの協定により彼が負うはずの義務を適切かつ忠実に遂行できないと知り、もしくは思い、この六万ドルの小切手が手渡される前の一八七一年十月九日に、即刻その場で協定を破棄しましたか、それとも破棄しませんでしたか? フランク・A・クーパーウッドさんはそのとき、もう自分が市や市財務官の代理人でないことを知り、自分が破産していることも知り(自分がそうだと認めたとステーネルさんの証言にありました)、その後購入したと明言した証書を減債基金に収めるつもりもないのに、ステーネルさんのオフィスに出向き、秘書と会い、市債六万ドル相当を購入したと告げて小切手を請求して受け取り、ポケットに入れて立ち去り、市に対していかなる手段、様式、形状であろうが一切返還しないまま、その二十四時間後に、これとさらに五十万ドルの市への負債を抱えて破産しました、それともしませんでしたか? この場合の事実とは何でしょう? 証人は何を証言しましたか? ジョージ・W・ステーネル、アルバート・スターズ、デービソン頭取、クーパーウッドさん本人は、何を証言しましたか? では、この事件の気になるわかりにくい事実は何でしょう? みなさんはとても珍しい問題を判断しなければなりません」 

 


シャノンはいったん話をやめて袖を整えながら陪審員を見つめた。自分が追っているのは、立派な正しい地域社会と立派で善良な陪審員に、正直者の印象を抱かせてしまうほど堂々としている、ずる賢くしたたかな犯罪者だとわかっているといわんばかりだった。


それから続けた。 

 


「さて、みなさん、事実はどうなのでしょう? どうしてこんなことになったのか、みなさんならご自分でわかるはずです。みなさんには分別がありますから私が言うまでもありません。ここに二人の人物がいます。一人はフィラデルフィアの市財務官に選ばれ、市の利益を守ってその財政を最も上手に運営することを誓いました。もう一人は難しい財政問題解決の手助けをするために財政事情の見通しが立たない時に招かれました。そして、みなさんが担当する事件は、密かに結ばれた私的な金融取引に関する合意と、その後の違法な取引に関するものです。ずるさと賢さで上をゆく三番街の妙技に精通している一方が、もう片方を幸運な投資という一見魅力的な道に誘って、偶然とはいえそれでも犯罪に近い、破滅とさらし者と世間に後ろ指さされるという泥沼に導いたものです。そして二人のうちの弱い方の人間――つまり最も危険な立場にいるフィラデルフィアの市財務官が――もはや理屈で考えて、まあ勇敢でも――片方の人間にそれ以上ついていけなくなるところまで来てしまいました。そのときの光景はおわかりですね、今日の午後ここの証人席でステーネルさんによって描写されましたから――あれですよ、質の悪い貪欲で無慈悲な金融屋の狼が、ちぢこまったうぶな商売相手の子羊を見下ろして、白い輝く歯をギラギラさせながら、こう言うのです『もし私が要求するお金――とりあえず三十万ドル――を寄こさなければ、あなたは囚人になってあなたの子供たちは路頭に迷い、あなたも奥さんも家族も再び貧乏に逆戻りだ。そしてあなたに手を差し伸べる者は誰もいなくなりますよ』ステーネルさんはクーパーウッドさんが自分にそう言ったと言うのです。彼が言ったに関しては、私はこれっぽっちも疑っておりません。シュテーガーさんはとても慎重に自分の依頼人に言及する中で、品がいいとか親切とか紳士的な代理人だとか、三番街でコールローンが十から十五パーセント、それ以上かかるこのご時世に、二パーセント半の金利で五十万ドル使うことを事実上余儀なくされただけのブローカーだと述べています。ですか、私はそれを信じようとは思いません。これを聞いて私が変に思うのは、もし彼がとても品がよく親切で優しく、関係の希薄な――ただの雇われた助っ人の代理人だったら――どういうわけでこの六万ドルの小切手の問題が持ち上がる二、三日前にステーネルさんの事務所に行き、ステーネルさんが宣誓のもとで証言しているような『すぐにあと三十万ドル相当の市の金を渡さないと、今日にでも私は破産して、あなたは囚人になって刑務所へ行くことになりますよ』と言うことができたのでしょう? 彼はステーネルさんにそう言ったのです。『私は破産し、あなたは囚人。私には手が出せなくても、あなたは逮捕されますよ。私は単なる代理人ですからね』これが、親切で温厚で善良な品のいい代理人や、雇われブローカーの言う言葉に聞こえますか、それとも、厳しい傲慢な人を見下した主人――つまり、主導権を握って手段を選ばずルールを決めて勝とうとする人のように聞こえますか? 


みなさん、私はジョージ・W・ステーネルの弁護をしているのではありません。私の判断では、彼は自分のうぬぼれ屋の共犯者と同罪ですから――でなければそれ以上です――羊の皮をかぶって笑顔で現れて、市のお金を二人の金儲けの道具にする巧妙な手口を指南したしたたかな資本家と同罪です。しかし私はこのクーパーウッドさんがついさっき聞いたような親切で温厚で善良な代理人と評されるのを聞くとむかむかします。もしみなさんがこの説明全体を正しく把握したければ、十年から十二年くらいさかのぼって、かなり貧しい政治家の駆け出しだった頃と、この非常に巧妙で有能な仲介代理人が現れて市の金で金儲けをする手段を指摘する前のジョージ・W・ステーネルさんを見なければなりません。ジョージ・W・ステーネルは大した人物ではありませんでした。ステーネルが新しく市財務官に選ばれたのを知ったときのフランク・A・クーパウッドもたいした人物ではありませんでした。その時に、品のいいさわやかで若い立派な身なりの彼が、狐のように抜け目なく現れて、こう言うのが目に浮かびませんか?『お任せください。市債を扱わせてください。市のお金を二パーセント以下で融資してください』みなさんには彼がこう持ちかける声が聞こえませんか? その様子を思い浮かべることができませんか? 


初めて市財務官に就任したときジョージ・W・ステーネルは貧乏でした。かなりの貧乏人でした。彼にあったのは年間二千五百ドル程度の不動産と保険を扱う小さな仕事だけでした。奥さんと養わねばならない四人の子供をかかえ、贅沢だの安らぎなどと呼べるものはこれっぽっちも味わったことがありませんでした。そんなときに現れたのがクーパーウッドさんです――確か求めに応じたんでしたね、しかし用事といってもステーネルさんの頭には悪い事をして儲けようという考えはまったくありませんでした――そして彼は二人が互いに有利になるように市債の相場操縦という壮大な計画を提案します。みなさん、この証言台で見たジョージ・W・ステーネルさんの様子から、あそこにいるあの紳士に不正蓄財の計画を持ちかけたのがステーネルさんだと思いますか?」

 


シャノンはクーパーウッドを指差した。 

 


「みなさんにはステーネルさんが、金融やそれに関連するこのすばらしい相場操縦についてあの紳士に何かを言える人物に見えますか? どうですか、みなさん、この二人はその後荒稼ぎをしたわけですが、ステーネルさんがそんなうまい手口を持ちかけるほどの切れ者に見えますか? 数週間前に破産した時にこのクーパーウッドが自分の債権者向けに作成した収支報告書によれば、彼の資産は百二十五万ドル以上だそうです。今日の段階で三十四歳を少し過ぎたばかりなのに。前の財務官と最初に仕事の関係ができた時点では、どれほどの資産家だったのでしょうか? みなさんは何かご存知ですか? 私は知っています。一か月ほど前に就任した時にこの件を調べてもらいましたから。二十万ドルちょっとなんです、みなさん――二十万ドルちょっとですよ。ここにその年のダン社のレポートの要約があります。その後、我らのシーザーがどれほど急に豊かになったか、これでみなさんはわかりましたね。この短い年月でどんなに儲かったかわかりましたね。解任されて横領罪で起訴されるまでに、ジョージ・W・ステーネルはこれほどの資産家になりましたか? 彼はなったでしょうか? 私の手元には当時の彼の資産目録があります。何でしたらみなさんにお目にかけても構いません。三週間前に調べた総資産はちょうど二十二万ドルでした。私は理由があって知っていますが、これは正確な評価額です。クーパーウッドさんは急速にお金持ちになったのに、ステーネルさんが随分ゆっくりなのはどうしてだと思いますか? 二人は共犯者なんですよ。三番街のコールレートが時々十六とか十七パーセントになろうという時に、ステーネルさんは二パーセントで巨額の市の資金をクーパーウッドさんに融資していました。そこに座っているクーパーウッドさんなら、この格安で手に入れた資金を最大限に活用する方法を知っていると思いませんか? 彼が知らないように見えますか? みなさんは証言台で彼を見たことがありますね。証言するのを聞いたことがありますね。とても人当たりがよく、正直そうな、善人で、もちろんステーネルさんや彼の友だちのためになることは何でもやり、六年ちょっとで百万ドルも稼ぎましたが、ステーネルさんに許したのは十六万ドル以下です。もっとも手を組んだ時点でステーネルさんの所持金は微々たるもの――数千ドル――でしたからね」 

 


シャノンはいよいよ、クーパーウッドがステーネルを訪ねてアルバート・スターズから六万ドルの小切手を受け取った十月九日の大事な取引に臨んだ。この巧妙な犯罪といえる(シャノンはそう考えているらしい)取引に対する軽蔑はとどまるところを知らなかった。これは明らかな窃盗で、どろぼうだった。クーパーウッドはスターズに小切手を要求した時点でそれを知っていた。 

 


「考えてください! (シャノンは振り返って、真っ向からクーパーウッドを見据えて叫んだ。クーパーウッドは平然と構え、動じたり、恥じたりせずに、向き合った。)考えてください! この男の図太い神経――その頭脳の緻密な策略家ぶりを考えてください。彼は自分が破産することを知っていたのです。資金繰りに二日間かけると――自分の不埒な計画を狂わせた天災の埋め合わせをするために二日間もがくと――一か所、つまり市のお金以外の心当たりの財源をすべて使い果たしたので、無理してでもそこで援助を得られない限り、破産するのだと知りました。すでに市財務部には五十万ドルの負債があります。すでに散々、市財務官を手玉に取って深く関与させていたので、相手はその借金のあまりの大きさに震え上がりました。そんなことがクーパーウッドさんを思いとどまらせたでしょうか? とんでもありません」 

 


シャノンが目の前で不気味な指の振り方をしたので、クーパーウッドはうっとうしそうに顔をそむけた。「あいつは自分の将来のために点数稼ぎをしているんだ」とシュテーガーにささやいた。「陪審員にそう言ってもらいたいな」


「そうしたいのは山々ですが」シュテーガーは冷笑しながら答えた。「私の持ち時間は終わりました」 

 


「(シャノンはもう一度陪審員の方を向いて続けた)市債を六万ドル追加購入したとか、今すぐその分の小切手をくれとか、アルバート・スターズに言えてしまうほどの図太い貪欲な神経を考えてください! 彼は言葉どおり、本当にこの市債を購入したのでしょうか? 誰にわかるでしょう? 彼が使うややこしい複雑な会計処理に目を通してちゃんとわかる人がいるのでしょうか? もし彼が証書を購入していたとしても、市などどうでもよかったというのが本音でしょう。なぜなら、彼はその証書を、本来あるべき減債基金に収める努力をしなかったのですから。彼も彼の弁護士も、月初までやる必要がなかったと口をそろえて言いますが、法律ではただちにやらねばならないことになっています。それに法律的にはやらねばならないことを本人はちゃんとわかっていました。彼も彼の弁護士も口をそろえて、彼が破産するとは思わなかったと言っています。だったら、そんな心配をする必要はなかったわけです。みなさんのうちどなたか、本気でこれを信じましたか? これ以前にそんなに早く小切手を請求したことがありましたか? このひどい処理を散々続けてきた中で、こういう例が他にありましたか? なかったことはみなさんがご承知です。以前には、どんな場合でも一度だってこのオフィスで彼本人が何かの小切手を請求することなどありませんでした。なのに今回は請求したのです。なぜでしょう? なぜこの時は請求しなくてはならなかったのでしょう? 本人が言うように数時間くらいの差はどうってことなかったのでしょう? いつものように若いのを送ってもよかったはずです。それまではずっとそうしてきたわけですから。なぜ今回は違ったのでしょう? 私からみなさんにその理由を説明します! (シャノンはいきなり声を荒らげて叫んだ。)理由はこうです! 自分が破産するとわかったからです! 一応は合法である最後の逃げ道――ジョージ・W・ステーネルの援助――が閉ざされたとわかったからです! 正直なところ、合意内容が明らかになったらこれ以上は一ドルもフィラデルフィア市から引き出せないとわかったからです。この小切手を受け取らずに市役所を離れて使いの者に取りに行かせたら、部下に周知させる時間を興奮した市財務官に与えてしまうことになり、そうなったらもうお金は手に入れられないとわかったからです。これが理由です! みなさん、本当に知りたいのであれば、これが理由なのです。


さて、陪審員のみなさん、 有罪にしようものならはなはだしい不正義を行うことになると弁護側のシュテーガーさんは言いますが、上品でご立派な徳のあるこの市民に対する私の論告は終わりました。これだけは言わせてください。私にはみなさんがまともで理性のある人たちに見えます――普通に生活していてどこででも出会う、立派なアメリカ流のやり方で立派なアメリカのビジネスを行っている人たちということです。さて、陪審員のみなさん(今度はとても穏やかな口調だった。)これだけは言わねばなりません。今日みなさんはここで散々見聞きしたわけですが、それでもなおフランク・A・クーパーウッドさんは正直で立派な人物であるとか、故意に承知の上でフィラデルフィア市から六万ドルを盗んではいないとか、彼は証言どおりに証書を実際に購入していて、しかも証言どおりに減債基金に収めるつもりだったと思うのでしたら、今日からでも三番街に戻って、めちゃめちゃになった自分の経営の立て直しにかかれるように、彼を速やかに釈放する以外に何もする必要はありません。善良な正直者のみなさんがすべきことはそれだけです――ただちに彼をこの社会に解放して、被告側弁護人シュテーガーさんの言う彼にとられたひどい不当な仕打ちが少しでも軽くなるようにしてください。もしそう思うのであれば、みなさんにはすみやかに彼の無罪を認める義務があります。ジョージ・W・ステーネルについては心配いりません。彼の有罪は本人の供述で成立します。本人が有罪を認めていますから。後ほど裁判なしで刑が宣告されるでしょう。ですが、この人物は――自分は立派な正直者だと言い、破産するとは思わなかったと言っています。ああいう威嚇的な、強引な、恐ろしい言葉を使ったのは破産の危機にあったからではなく、これ以上援助を探すのに手間をかけたくなかったからだと言うのです。みなさんはどう思いますか? みなさんは、彼が減債基金用の六万ドルの証書を購入したと、そのお金を受け取る権利があったと、本当に思いますか? だったら、どうして減債基金に収めなかったのですか? 今もそこにはありません。六万ドルはなくなりました。どこにあるのでしょう? ジラード・ナショナル銀行です。彼はそこで十万ドルも借り越していたのです! 銀行はその小切手と、他の小切手や有価証券で残りの四万ドル分を受け取ったのでしょうか? そのとおりです。なぜでしょう? 彼が店を閉める直前にしたこの最後の小さな誠意に対し、ジラード・ナショナル銀行は何らかの形で感謝してもいいですよね? みなさんはこの事件でとても親切に証言する姿を見たでしょうがデービソン頭取はとても好意的だと、ひょっとしたら――私はそうだとは言いませんが――だからとても好意的にクーパーウッドさんの立場を解釈したんだと思いますか? そうなのかもしれませんね。そういうふうに私と同じように考えても構いません。いずれにしても、みなさん、デービソン頭取は、クーパーウッドさんを立派な正直者だと言っています。彼の弁護人のシュテーガーさんと同じですよ。みなさんはずっと証言を聞いてきましたね。さあ、よく考えてください。もし彼を解放したいのであれば――解放してください。(弱々しく首をふった。)みなさんが判断することです。私ならしませんがね。しかし私は一介の仕事熱心な検察官に過ぎません――一人の人間の一つの意見です。みなさんは違う考え方をするかもしれません――それはみなさんにおまかせします。(まるで軽蔑するみたいに思わせぶりに手を振った。)私の役目はこれで終わりです。ご静聴、感謝したします。みなさん、判決はみなさんにかかっています」 

 


シャノンは堂々と背を向けた。陪審員はざわついた――法廷にいるだけで何もしていない傍聴人もざわついた。ペイダーソン判事は安堵のため息をついた。もうすっかり暗くなっていた。法廷のガス灯はすべて明るくともされた。外にいる人には雪が降っているのが見えた。裁判長は疲れた様子で書類をいじり、厳粛な態度で陪審員の方を向きながらいつものように規則の説明を始めた。それが済むと陪審員たちは評議室に移動した。


急速に人がいなくなり始めた法廷を突っ切ってさっそく現れた父親の方を向いてクーパーウッドは言った。


「さあ、じきに結果がわかるでしょう」


「そうだな」ヘンリー・クーパーウッドは少し疲れた様子で答えた。「うまくいくといいがな。ついさっきバトラーが帰るのを見かけた」


「いたんですか?」クーパーウッドは気になって仕方がなかった。


「ああ」父親は答えた。「帰ったばかりだ」


こんなところまで来て自分が裁判にかけられる姿を見とどけたがるほどバトラーは自分の運命に興味があるのか、とクーパーウッドは思った。シャノンは彼の手先であり、ペイダーソン判事はある意味で彼の密使だった。クーパーウッドは娘の問題でバトラーを負かしたかもしれないが、陪審員が何かのはずみで同情しない限り、ここではそう簡単にバトラーを破ることはできなかった。陪審員は有罪を評決するかもしれない。そのときはバトラーのペイダーソン判事が判決を下す特権をもってしまう――量刑最大の判決を下すだろう。それはあまりいい話ではない――五年なのだ! それを考えると少しぞっとしたが、まだ起きてもいないことを心配しても仕方がなかった。シュテーガーは進み出て、保釈が今、陪審員がこの部屋を出た瞬間に終了し、身柄は今この瞬間事実上、保安官の管理下にあるとクーパーウッドに告げた。面識のあるアドレイ・ジャスパース保安官だった。陪審員の無罪評決が出ない限り、合理的な疑いの認定を求める申請書が作成されて効力が発するまで保安官の管理下にいなくてはならないことをシュテーガーは付け加えた。


「丸五日ってところでしょう、フランク」シュテーガーは言った。「ジャスパースは悪い奴じゃない。話が通じる奴です。もちろん運がよければ、彼のところへ行く必要はありませんがね。でも今はこの廷吏と一緒に移動しなければなりません。事が順調に運べば帰ることになります。まあ、ここは勝ちたいところですね」シュテーガーは言った。「奴らを笑いとばしてやりたいし、あなたがそうするところを拝見したいものです。あなたは随分ひどい扱いを受けたと思います。だからそれを完全に払拭したいですね。陪審員があなたに不利な評決を下しても、一ダースの根拠を並べ立てそんなものくつがえしてやりますよ」


シュテーガーとクーパーウッド親子はさっそくと副保安官と一緒に歩き出した。『エディ』・ザンダースという名の小柄な男が近づいてきて担当になった。彼らは法廷の奥にある囲い場と呼ばれる小部屋に入った。陪審員の退室によって自由を剥奪された被告人たちは全員そこで陪審員の帰りを待たねばならなかった。天井が高い正方形の陰気な部屋で、チェストナット・ストリートに面した窓が一つと、どこかに通じている二つ目のドアがあったが、どこに通じているかは誰も知らなかった。部屋は薄汚く、床はすり切れた板張りで、四方に重たい質素な木の長椅子が数脚並べてあり、絵や飾りの類は何もなかった。アームが二本あるガス管が一本、天井の真ん中からぶら下がっていた。独特のこもった鼻をつく臭いがしみついていた。明らかに人生の漂流物と投げ出されたもののにおいだった――犯罪者もいれば罪のない者もいる――それがここで時には立ち時には座って評議の結果を知ろうとじっと待っていた。


もちろんクーパーウッドはうんざりしていたが、どうせ自分だけが頼りなのはわかりきっていたし余裕をもてたのでそんな素振りは見せなかった。ここまでずっと完全無欠で、気難しいほどの自己管理をしてきたのに、ここで自分に大きな衝撃を与える人生の一形態に否応なく接することになった。傍らにいたシュテーガーが、慰めとも、説明とも、弁解ともとれる発言をした。


「どうも思わしくないが、気にしないでしばらく待ちましょう。評議はそんなにかからないと思います」


「こっちの分が悪いのかもしれない」クーパーウッドは答えて窓のところへ行き、つけ加えた。「なるようにしかならないさ」


父親は表情を曇らせた。フランクが長期刑になる寸前にいると思うからこんな雰囲気になるのだろうか? 神よ! 一瞬、体が震えた。そして何年ぶりかに黙祷を捧げた。

 

 


第四十四章


一方、評議室では激論が交わされていた。陪審員席で黙って推論を重ねるしかなかった全ての論点が今、公然と議論されていた。


こういう場合、陪審員がどう悩んであれこれ考えるのか――いわゆる評決に至る過程がどれほど奇妙で気まぐれなものなのか――を見るのは驚くほど面白い。いわゆる真実なんてものは最善を尽くしてもはっきりしないものである。諸々の事実は不思議と逆でも通用するし、合っていようが間違っていようが説明はついてしまうのだ。この陪審はものすごく複雑な問題を前にして検討に検討を重ねた。


陪審は、おかしなやり方とおかしな理由で、明確な結論ではなく評決にたどり着く。個々の陪審員がちゃんと結論を出していないのに陪審が評決に至ることはとても多いのだ。法曹界関係者はみんな知っているが、これには時間が一役買っている。陪審はメンバーの総称を言うこともあれば一人一人を指すこともよくあるが、事件の判断に時間をかけるのを嫌がる。よほど魅力的な問題でない限り、座ってじっくり考えることが楽しいはずがない。話が枝分かれしたり、詭弁で煙に巻かれると、うんざりする人や退屈する人が出てしまうのだ。評議室そのものが、つまらないしんどい場所になりかねず、そうなることが多いのだ。


一方でまた、一致の程度がどうであれ陪審は評議の不一致を考えない。人間の心にはもともと建設的なところがあるので、問題を解決しないままにしておくことは明らかに情けないことなのだ。他のやり残した大事な仕事と同じで普通の人にはそれが付きまとう。評議室にいる人たちは、科学者や哲学者が好んで考えたがる科学的に実証された結晶の原子と同じで、最終的には自分たちをきちんと並べて、全体が整然と美しくまとまった一つになって、簡潔で合理的な正面を前に出し、何にせよきちんと正しく自分たちが作り上げたものに――要領がよくて分別のある陪審に、なりたがる。よく見れば、これと同じ本能は他にも自然界の各地で――サルガッソー海に漂流する海藻の中で、静かな水面で気泡が織りなす幾何学模様の中で、多くの昆虫とかこの世界の実体や質感を作っている原子の形態の驚くほど不合理な構造の中で――見事に発揮されている。目が感知し実在と呼ぶ、形を持つ幻影が――秩序をこよなく愛しそれ自体が秩序である何かの巨大な精巧さで射貫かれているようだ。いわゆる理性――気まぐれな夢――に過ぎないとはいえ、我々という存在の原子は、どこへ行くのかも、何をすべきかも知っている。しかも我々のものではない秩序や知恵や意思を表明して、我々を差し置いて、秩序あるものを作り上げる。それを陪審員の潜在意識的な精神がするのである。同時に、一人の人間が別の人間に及ぼす不思議な催眠効果や、一つの解答にたどり着くまで――溶けて一つにまとまったものができるまで――さまざまなタイプの人間が互いにさまざまな影響を及ぼし合うことを、忘れてはならない。評議室では、一人か二人か三人の考えや決意が十分に明確なだけで、それが部屋全体に浸透して他の大勢の理性や反対意見を抑えがちである。自分の中に明確な考えを持つ「目立つ」人間は、御しやすい集団で勝利を飾る指導者か、燃え盛る知性の集中砲火の猛攻を食らう標的になりやすい。人は理由のないつまらない否定を軽蔑する。中でも評議室では、自分がそう信じる理由を――求められれば――提示するよう期待される。「賛成できません」ではすまないのだ。陪審員は論戦するものだと知られている。何年間も続いている熾烈な対立はこういう閉鎖空間で生まれていた。理屈に合わない反対意見や結論を出そうものなら強情な陪審員は地元の商売でも責められた。


クーパーウッドは疑いなく何らかの処罰に値すると結論が出た後で、評決は起訴状で問われた四つの罪すべてを有罪にすべきかどうかで争われた。個々の罪状の違いがあまりよくわからなかったので、陪審は四つすべてを有罪として情状酌量の勧告を追加した。しかしその後、この最後の一文は削除された。被告は有罪か無罪のいずれかなのだ。陪審員に酌量すべき状況がわかるのだから裁判官にもわかるはずだ――むしろ裁判官の方がよくわかるはずだった。その手を縛る理由でもあるのだろうか? とにかく、普通はこういう勧告に注意などは払われない。それはただ陪審員がぐらついているように見せただけだった。


そしてようやく、夜十二時十分に陪審は評決の準備ができた。この事件には関心があり、自宅がそれほど遠くなかったことから、寝ずにずっと待つことにしていたペイダーソン判事が呼び戻された。シュテーガーとクーパーウッドが呼び出された。法廷には明かりが煌々と灯り、廷吏と事務官と速記がいた。陪審が入廷した。クーパーウッドは右側にシュテーガーを従えて、いつも被告人が立って評決と裁判官の説明を聞く柵の場所に続いている入口で待機した。父親も一緒にいた。ひどく緊張していた。


クーパーウッドは生まれて初めて、寝ぼけて歩く気分を味わった。これが本当に二か月前の、あの裕福で、進歩的な、自信に満ちたフランク・クーパーウッドだろうか? 今日はまだ十二月五日なのか、それとももう六日(真夜中は過ぎていた)になったのか? どうして陪審は評議にこんなに長い時間をかけたのだろう? これはどういうことだろう? 今ここに陪審が勢ぞろいして立ち、しっかりと前を見つめていた。そして今ここにペイダーソン判事が現れ壇に上がった。縮れ髪がやけに魅力的に目立たっていた。いつもの廷吏が秩序を求めて注意していた。裁判長は――礼を失するだろうが――クーパーウッドには目をやらずに陪審を見た。陪審は裁判長を見返した。「陪審のみなさん、評決は出ましたか?」という事務官の言葉に、陪審長は声を上げた。「出ました」


「被告人は有罪ですか無罪ですか?」


「被告人は起訴状の罪状どおり有罪です」


どういうわけでこうなったのだろう? 自分のものではない六万ドルの小切手を受け取ったからだろうか? 確かにそういうことはあった。彼とジョージ・W・ステーネルの間を行き来したお金の総額からしたら、いったい六万ドルが何だというのだろう? まったく何でもないものだ! その中でも微々たるものだ。それでもここで立ちはだかった。この忌まわしいちっぽけな小切手が、彼のさらなる前進を阻む敵対者の山、石の壁、牢獄の壁になった。驚くべきことだった。クーパーウッドはぐるっと法廷を見回した。何とだたっぴろく殺風景で冷めたいのだろう! それでも自分がフランク・A・クーパーウッドであることは変わらない。こんな無駄なことを考えてどうするんだ? 自由と名誉と復活を求める戦いは、まだ終わっていない。神さま! 戦いは始まったばかりだ。五日後にまた保釈される。シュテーガーが控訴する。保釈され、二か月が手に入り、その間に控訴する。まだ負けてはいない。自由を勝ち取るのだ。この陪審は大間違いをした。上級審ならそう言ってくれるだろう。この評決を覆してくれるだろう。クーパーウッドにはそれがわかった。シュテーガーの方を向くと、シュテーガーは陪審員の中に無理やり説得されて自分の意思に反する投票をさせられた者がいることに期待して、事務員に陪審の聞き取りをさせていた。


「あれはあなたの評決ですか?」事務員が陪審員番号一番のフィリップ・モールトリーに尋ねるのをシュテーガーは聞いた。


「そうです」問われた相手は粛然と答えた。


「あれはあなたの評決ですか?」事務員はサイモン・グラスバーグを指差していた。


「そうです」


「あれはあなたの評決ですか?」フレッチャー・ノートンを指差した。


「はい」


そうやって陪審全員の聞き取りが終わった。ひょっとしたら考えを変えたのがいただろうとシュテーガーは思ったが、全員がはっきり明確に答えた。裁判官は陪審に感謝の言葉を述べ、今夜の長かった役目を鑑みて任期の終了を告げた。今シュテーガーに残されていることは、ペイダーソン判事を説得して、州最高裁が再審請求を審理する間、刑の執行を停止しさせることくらいだった。


シュテーガーが正式にこれを要求したので、裁判官はクーパーウッドをじろじろ見て様子をうかがった。そしてこの事件の重要性と、最高裁ならこの事件の合理的疑いの証明をあっさり認定するかもしれないと感じたから同意した。これでクーパーウッドはやり残したことがなくなった。あとはこの遅い時刻に副保安官と郡刑務所へ戻るだけだった。少なくとも五日――あるいはもっと長く――そこにいなければならなかった。 

 


地元ではモヤメンシング刑務所として知られる問題の刑務所は、十番街とリード・ストリートにあり、建物の造りやデザインを見ても決して馬鹿にできなかった。そこは、中央棟――刑務所と保安官居住区の三階建てで、狭間胸壁のコーニスと、高さが中央棟の三分の一くらいの丸い狭間胸壁の塔があるものと、二つの翼棟――それぞれが二階建てで、両端に狭間胸壁の小塔があり、かなり城郭風の造りで、アメリカ人の目にはいかにも刑務所らしく見えるもので構成されていた。刑務所の正面は、中央棟より三十五フィート低く、翼棟より二十五フィート低くて、通りから少なくとも百フィート奥に引っ込んでおり、端から端まで、つまり翼棟から街区の端まで高さ二十フィートの石の壁が続いていた。この建物は、カーテンのかかった二つの上層階にしつらえたかなり広い障害のない空間が突き抜けていたので、いかにも刑務所であるという感じはなく、正面全体がかなり快適な住居という印象だった。通りから見て右側の翼棟は郡刑務所として知られる区画で、何かの判決を受けた短期服役中の囚人の管理にあてられ、左側の翼棟は未決囚に限った管理と監督にあてられた。建物全体が滑らかな明るい色の石でできていたので、こういう雪の夜は、内部で使われる数少ない照明が暗がりで弱い光を放つと、薄気味悪い、幻想的、神秘的といっていいたたずまいを見せた。


クーパーウッドがこの施設に連行されたのは、ひどく風の強い夜だった。風が吹きすさんでその前の雪を見ていて面白いほど渦巻かせていた。四季裁判所で守衛を務める副保安官のエディ・ザンダースがクーパーウッド親子とシュテーガーに同行した。ザンダースは小柄で、色黒、短い無精髭をはやし、高度な知性はないが抜けめない目をしていた。自分がとても重要な地位だと考えている副保安官の威厳を保つことを第一とし、その次は真面目にコツコツ稼ぐことだった。法廷と刑務所間の往復で囚人に同行して、逃亡しないことを確認するという小さな世界の細かいこと以外はほとんど知らなかった。特定のタイプの囚人――金持ちやそこそこ順調な囚人――には親切でないこともなかった。そういう相手だと報われることを随分前から知っていた。今夜は少し愛想よく話しかけた――天候がかなり悪いとか、刑務所はそれほど遠くないから歩いていけるとか、ジャスパース保安官はおそらく近くにいるか、起こせばいい、などである。クーパーウッドはろくに聞いていなかった。母親と妻とアイリーンのことを考えていた。


刑務所にたどり着くと、保安官のアドレイ・ジャスパースの事務所がそっちにあったので、中央棟に連れていかれた。ジャスパースは最近選任されたばかりだった。自分の職務が適切に行われている限り、実際のところ中の状況はそっちのけで、外の状況ばかりに従う傾向があった。政治家はみんな知っていたが、彼は自分の安月給を増やそうとして、その代償を払えるお金がある囚人に個室を貸して特権を与えていた。前任の保安官もやっていた。実際、ジャスパースが就任したとき、すでに何人かの囚人がこの特権を享受していたし、その邪魔をするつもりなどなかった。彼の言う「ふさわしい相手」に貸す部屋は、刑務所の中央棟にあり、そこには彼自身の居住空間もあった。閂がなく独房っぽさがなかった。収容者全員の動きから「目を離さない」ように指示された警備員が常に一名部屋の入口に立っていたから、脱獄の危険は特になかった。便宜をはかってもらった囚人はどう見ても自由な人だった。希望すれば自分の部屋で食事をとることができた。読書、トランプ、面会ができ、好きな楽器があれば禁止されなかった。守らねばならない規則が一つだけあった。もし囚人が公人で報道関係者が訪ねてきたら、他の囚人のように独房に収容されていないことを相手に知られないために、下の階の個室の面会室に連れて来られなければならなかった。


こういう事情はほとんど全て事前にシュテーガーにからクーパーウッドに伝えられていたはずなのに、いざ刑務所の入口をまたいでみると、奇妙な違和感と敗北感が襲ってきた。クーパーウッド一行は入口の左側にある小さな事務所に案内された。そこは机が一つと椅子が一つあるだけで、弱火のガス灯が薄暗く照らしていた。丸々太った血色のいいジャスパース保安官が出迎え、随分と親しげに挨拶した。ザンダースは役目を終え、足早に自分の仕事に戻った。


「嫌な夜ですな?」ジャスパースはそう言ってガスを強め、囚人の登録手続きをする準備をした。シュテーガーが進み出て部屋の隅で机越しに短い私語を交わしたところ、たちまち保安官の顔が明るくなった。


「はい、いいですよ、いいですとも! それで大丈夫です、シュテーガーさん! それじゃ、そういうことで!」


自分のいるところから太った保安官を見て、クーパーウッドは事情をすべて理解した。持ち前の批評家的な態度と、冷静で知的な落ち着きを完全に取り戻していた。ここは刑務所だ。そしてこれが自分を担当することになる太った平凡な保安官だ。よし、ならばこれを最大限に活用するまでだ。これから検査をされるのだろうかとクーパーウッドは考えた――普通、囚人はされる――しかしされないことがすぐに判明した。


「大丈夫ですよ、クーパーウッドさん」ジャスパースは立ち上がりながら言った。「一応は快適な環境を用意できると思います。おわかりでしょうが、我々はここでホテルを経営しているわけじゃない」――一人悦に入った――「でも快適にできると思いますよ。ジョン」ジャスパースは、目をこすりながら別室から現れた眠そうな雑用係に声をかけた。「六号室の鍵はあるか?」


「ございます」


「よこせ」


ジョンは姿を消して戻ってきた。その間にシュテーガーはクーパーウッドに、衣類など欲しいものは何を持ち込んでもいいと説明した。翌朝、シュテーガーが立ち寄って、クーパーウッドが面会を希望する家族の者が来られるように打ち合わせをすることになった。クーパーウッドはすぐに父親に、これはできるだけしたくないと説明した。ジョセフかエドワードが翌朝、下着などの詰まった手荷物を持ってくるのはいいとしても、他の者は、出所かずっと勾留かが決まるまで待たせておきたかった。アイリーンに手紙を書いて、何もするなと注意しようと考えていたところ、保安官が手招きしたのでおとなしく従った。父親とシュテーガーに付き添われて自分の新しい部屋に行った。


そこは広さが十五フィート×二十フィート、天井がやや高い簡素な白壁の部屋で、備品は高い背もたれの黄色い木製ベッド、黄色い書き物机、模造桜材の小さなテーブル、彫刻入りのヒッコリー材の背もたれがついている桜色に染めたごく普通の藤椅子が三脚だった。ベッドと同じ黄色に塗られた木の洗面台には、洗面器、水差し、蓋なしの石鹸入れ、そして他のものとはおそろいではないおそらく十セントくらいの、小さな安物のピンクの花柄の歯ブラシと髭剃り用のマグカップがあった。ジャスパース保安官にとってこの部屋の価値は、こういう場合に、週二十五ドルから三十五ドルの対価を得られることだった。クーパーウッドは三十五ドルを払うつもりだった。


クーパーウッドはつかつかと窓辺へ行った。目の前の芝生はもう雪に埋もれていた。もう大丈夫だと思うと言った。父親もシュテーガーもそうしてほしければ何時間でも相談に乗るつもりだったが、話すことは何もなかった。クーパーウッドは話をしたくなかった。


「朝のうちにエドに新しい下着をいくつかとスーツを二着持って来させてください。それで十分です。ジョージなら僕の荷物をそろえられます」身の回りの世話から他のことまでこなしてしまう家の使用人の名前をあげた。「心配しないようにリリアンに伝えてください。僕なら大丈夫です。五日で出られるのに、わざわざこんなところに来て欲しくありません。そうならなかったらならなかったで時間はたっぷりありますからね。僕に代わって子供たちにキスしてあげてください」そしてにっこりと微笑んだ。


この予審の結果の予想をはずしたので、州最高裁判所が何をして何をしないかを自信をもって言うのは怖いくらいだったが、シュテーガーは何かを言わなければならなかった。


「控訴の結果を心配する必要はないと思います、フランク。合理的な疑いの証明はできるでしょう。これで二か月、ひょっとしたらそれ以上引延しができるかもしれません。多めに見ても保釈金が三万ドルを超えるとは思いません。何が起こっても、五、六日もすれば再び外に出られますよ」


クーパーウッドはそう願いたいものだと言って今夜はこの辺にしておこうと提案した。無駄なやりとりを少ししてから、父親とシュテーガーはようやくおやすみなさいを言い、ひとりで考え事ができるようにクーパーウッドを残して帰った。しかし疲れていたので、服を脱ぎ捨てるようにして粗末なベッドにもぐり込むと、すぐに眠ってしまった。


 

 

第四十五章


一般的な刑務所生活についての話になるが、特別室があって、へつらう看守がいて、できるだけ快適にしようといろいろ手を尽くして大幅に修正したところで、刑務所は刑務所である。それからは逃れられない。クーパーウッドは、普通の下宿の部屋と何ら遜色のない一室で、まだ馴染めていないこの本物の刑務所のそういう部分の特徴を気にしていた。ここに独房があることは知っていた。多分ベタベタで、臭く、害虫が住みつき、いかつい鉄格子に囲まれている。もしもっといい部屋に払う金がなかったら、鉄格子は今そこに収容されている囚人に聞かせたように彼にも簡単にカシャンという音を聞かせていただろう。人間の平等なるものは、たとえ司法組織という厳しい枠の中でさえ、ある人間には彼自身が今楽しんでいるような私的な自由を与えるし、たまたま気転や影響力や友人や富がなかった別の人間には、金で買えるもっと快適な環境を与えないのだ。


裁判の翌朝、目を覚ましながらクーパーウッドは不思議な気分になった。自分はもう自分の寝室の自由で快適な環境ではなく、刑務所の独房、いや、かなり快適な代わりの部屋、要するに保安官が貸してくれた寝室にいるのだと突然気がついた。起き出して窓の外を見た。外の地面とパセインク・アベニューは雪で真っ白だった。荷馬車が数台、重たそうに静かに通り過ぎて行くところだった。少しだが朝の用事で行き来するフィラデルフィア市民の姿がちらほら見えた。自分が仕事を続けるためには、社会復帰を果たすためには、何をしなければならないか、どう行動しなければならないか、をさっそく考え始めた。それをしながら、服を着て、指示された呼び鈴の紐を引いた。これで火を起こしてその後で食事を持ってきてくれる付き人を呼べるのだ。青い制服のみすぼらしい刑務官が、この部屋を使うくらいだからクーパーウッドの身分は高いのだろうと意識して、暖炉に木と石炭をくべて火を起こし、後で朝食を運んできが、それにしても粗末な刑務所の食事どころではない代物だった。


保安官は熱心に気を遣ってくれたのかもしれないが、弟のエドワードが服の差し入れ持ってくるまで、結局、数時間我慢して待つしかなかった。部屋付きの刑務官が報酬目当てで朝刊を持ってきた。金融関係のニュース以外はざっと目を通した。午後遅くなってシュテーガーが到着した。ある訴訟手続きを延期させるのに忙しかったと言っていたが重要な業務を抱えた人にクーパーウッドが会えるように保安官と調整していたのだった。


この時までにクーパーウッドは、十日までにここを出て当日かその直後に会うからどんなことがあっても自分に会おうとするなとアイリーンに手紙を出していた。クーパーウッドもわかっていたが、アイリーンはとても彼に会いたがっていた。しかし父親に雇われた探偵に監視されていると考えるのが妥当だった。これは事実ではなかったがアイリーンの心を苦しめていた。そして最近夕食の席でオーエンとカラムに言われた侮辱もそうだが、アイリーンの激しい気性はもう我慢の限界を超えていた。しかしキャリガン家にはクーパーウッドの手紙が届いていたので、十日の朝に、合理的な疑いの証明を求めるクーパーウッドの請求が認められたことと、少なくとも当分の間再び自由の身になることを読んで知るまで何も行動しなかった。これはずっとやりたがっていたことを実行する勇気をアイリーンに与えた。そしてこれは、自分は父親がいなくてもやっていける、自分がやりたくないことは父親といえどやらせることはできない、ことを父親に教えることだった。クーパーウッドがくれた二百ドルはまだ持っていた。それと多少の自分の現金――多分全部で三百五十ドル――があった。これだけあれば冒険の終わりを見届けるか、少なくとも自分の幸せにつながる何か別の準備ができるまで十分もつと考えた。家族が自分にどういう気持ちでいるかを知っていたから、辛いのは家族であって自分ではないと感じた。おそらく、自分の決意の程を知れば父親は、干渉をしないで仲直りを決心するだろう。とにかくやってみることにした。アイリーンはさっそく、キャリガン家に行きます、いつでも歓迎します、とクーパーウッドに連絡した。


ある意味でクーパーウッドはアイリーンの連絡を受けて大喜びした。こうした現在の窮状はバトラーとの対立が大きな原因だと感じたから、その娘を使ってバトラーを叩くことに良心の呵責を全然感じなかった。バトラーを怒らせないことが賢明だと以前は感じていたが無駄だとわかった。老人をなだめられない以上はアイリーンを使って、彼女に自分の資産がないわけじゃないことと、父親なしでも生きられることを、バトラーに思い知らせてやるのがちょうどいいかもしれない、と思った。アイリーンならバトラーに強く出て、娘に対する父親の態度を変えさせたり、もしかしたら自分(クーパーウッド)に対する政治的な謀略だって多少修正させられるかもしれない。嵐のときはどこの港に入ったっていい――それにもう失うものがない。アイリーンの行動は他のことをするよりも効くかもしれないと直感が働いた――だからそれを妨げることは何もしなかった。


アイリーンは、宝石、下着を少々、役に立つと思うドレスを二、三着、その他の物を少し選んで、持っていた一番大きな旅行鞄に詰めた。靴やストッキングが頭に浮かんだ。頑張っても欲しいもの全部は詰められないと気づいた。持っていくと決めた一番すてきな帽子は入れずに運ぶしかなかった。それだけで別に荷造りしたが、釈然としなかった。それでも持っていくことにした。お金や宝石をしまってある小さな引き出しを引っかき回して三百五十ドル見つけて財布に入れた。アイリーンでもわかったが、これでは足らなかった。でもクーパーウッドが助けてくれるだろう。もしクーパーウッドが自分の面倒を見る準備をしてくれず、父親が軟化しなかったら何か仕事をしなければならなくなる。実践的な訓練を受けたことがなく、経済観念が乏しい人たちに、世間が向ける厳しい顔をアイリーンはほとんど知らなかった。人生の厳しい側面をまったく理解していなかった。十二月十日、アイリーンは聞こえよがしに鼻歌を歌いながら、父親が夕食をとりに下の階へ降りる音が聞こえるのを待った。それから、上の方の手すりから身を乗り出して、オーエン、カラム、ノラ、母親がテーブルについていて、家政婦のケーティがどこにも見えないことを確認した。それから父親の書斎に忍び込んで、服から書き置きを出し、父親の机の上に置いて外に出た。宛名は「お父さん」で内容はこうだった。 

 


親愛なるお父さん

あたしはお父さんの期待にそうことができません。クーパーウッドさんを愛し抜くことを決めましたので、出て行きます。彼共々あたしを探さないでください。お父さんが思いつきそうなところにはいません。彼のところへもいきません。そこにはいませんから。彼があたしを求めて結婚できるまで、しばらくは一人で頑張るつもりです。本当にごめんなさい、でもお父さんの希望に応えることはできません。お父さんがあたしにしたことは決して許すことができません。お母さん、ノラ、兄たちに、あたしのことをよろしくお伝えください。


          アイリーン 

 


確実に発見させるために、アイリーンはバトラーが読み物をする時にいつも使っている縁の厚いメガネを手に取り、その上に置いた。一瞬、とても変な――泥棒にでもなったような――初めての感じがした。一瞬とはいえ痛みと一緒に恩知らずになった気分を感じた。おそらく、自分は間違ったことをしている。父はずっとあたしを大事にしてきたのだ。母はとても嫌な思いをするだろう。ノラは寂しがるだろう、カラムもオーエンもそうだ。しかしもうみんなにはあたしのことはわからない。父親の態度は腹立たしくて仕方がない。そのことはわかっていたのかもしれないが、父は古過ぎる。宗教や既成概念にしばられ過ぎている――変わることはあるまい。あたしには二度と家の敷居をまたがせないかもしれない。構うものか、何とかうまくやっていくからいい。父親に思い知らせてやる。学校の先生になれるかもしれない。必要ならずっとキャリガン家に住んでもいいし、音楽を教えてもいい。


アイリーンはこっそり下の階へ降りて玄関ホールに行き、外のドアを開けて通りをのぞき込んだ。暗闇ではすでに街灯が煌々と燃えていて、冷たい風が吹いていた。鞄は重かったが、アイリーンには底力があった。約五十フィート先の街角まで元気よく歩いて、南に曲がって、かなりピリピリ、イライラしながら歩き続けた。これはアイリーンにとって新しい経験であり、すべてがとてもみっともなく、普段やり慣れていることとはかなり違うように思えた。終いには街角に鞄を置いて、ひと休みした。遠くで口笛を吹いている少年が目にとまった。近づいて来たので声をかけた。「ねえ! あの、きみ!」


少年は物珍しそうにアイリーンを見ながらやってきた。


「お小遣いほしい?」


「はい」少年は片方の耳にだらしなくかかっている帽子を直しながら礼儀正しく答えた。


「この鞄を運んでちょうだい」アイリーンが言うと少年は鞄を持ち上げて出発した。


やがてキャリガン家にたどり着くと、アイリーンは大きな興奮に包まれて新しい家族の一員に迎えられた。いったん落ち着いてしまうと、化粧品や自分の着るものを丁寧に並べながら臆面もなく自分の状況を受け止めた。自分と母親とノラの面倒をまとめてみていたメイドのキャサリンがもういないという現実は、辛くはなかったが勝手が違った。こういう贅沢品と永久に別れるとは思ってもいなかったので気楽なものだった。


マミー・キャリガンと母娘が下働き役を買って出たので、アイリーンには必要だった、いつもの環境からは全然抜け出していなかった。

 

 

第四十六章


一方、バトラー邸では家族が夕食に集まっていた。バトラー夫人はテーブルのはずれに悠然と座っていた。白髪は丸みを帯びたつやつやの額から後ろへととかし、グレーと白の縞柄のリボンで縁取られたダークグレーのシルクのドレスをまとっていた。それは見事なほど夫人の派手な性格に合っていた。母親が選んだものは、アイリーンが見立てて、これが似合うと確認済みのものだった。ノラは袖口と襟が赤いベルベットの淡いグリーンのドレスを着て、爽やかで初々しかった。若々しく華奢で陽気に見えた。目も顔色も髪も瑞々しく健康的だった。母親からもらったばかりのサンゴのビーズの紐をいじっていた。


「ねえ、見てよ、カラム」ノラは向かいの席の兄に言った。カラムはぼんやりナイフとフォークでテーブルをたたいていた。「どう、すてきじゃない? お母さんがくれたのよ」


「お母さんは僕よりもお前にものをあげるからね。僕からお前が得られるものが何なのかくらいわかるだろう?」


「何さ?」


カラムはからかうようにノラを見た。お返しにノラはしかめっ面をしてみせた。ちょうどその時オーエンが入ってきてテーブルの自分の席についた。バトラー夫人はノラの不機嫌な顔を見て言った。


「まあ、そんなことしたらお兄さんは大事にしてくれませんよ、頼りにできるのに」


「ああ、何って日なんだ!」オーエンはだるそうにナプキンを広げながら言った。「一度にやることがいっぱいだ」


「何があったの?」母親は親身になって尋ねた。


「大したことじゃないですよ、お母さん」とオーエンは答えた。「まあ、どれもこれも――とんだ散財ってだけのことです」


「さあ、美味しい心のこもったお食事にしましょ、そうすれば気分も晴れますからね」母親は優しく心を込めて言った。「トンプソンがね」――母親は出入りの食料雑貨商の話をした――「うちに豆の最後の分を持ってきたの。せっかくだからいただかないといけませんよ」


「まったくだ、何だって豆にやってりゃ解決するって、オーエン」カラムは冗談を言った。「お母さんが正解だ」


「おいしいのよ、あなたにもわかるから」バトラー夫人は冗談に全く気づかずに答えた。


「そのとおりですね、お母さん」カラムは答えた。「まさに頭脳食ですよ。ノラに食べさせましょう」


「自分こそ食べた方がいいわよ、お利口さん。それにしてもご機嫌ね! ああ、誰かに会いに出かけるんだ。だからでしょ」


「そうだよ、ノラ。お利口さんだな。五、六個にしとけよ。それぞれに十分から十五分かけてな。お前がもっとすてきだったら、お前のとこにも行くんだがな」


「そのチャンスがあったらどうぞ」ノラは馬鹿にした。「そんなチャンスはないって教えてあげるから。もし兄さんよりましな人をつかまえられなかったら最悪だもん」


「僕くらいいい奴ってことだろ」カラムは訂正した。


「子供たち、子供たち!」バトラー夫人は使用人のジョン老人がいないか周囲を見回しながら静かに口を挟んだ。「あなたたちときたら、すぐにかっとなるんだから。はい、そこまでにして。お父さんがいらしたわ。アイリーンはどこかしら?」


バトラーは重い足取りで入ってきて席についた。


使用人のジョンが他の料理と一緒に豆の大皿を運んで現れた。バトラー夫人はアイリーンを呼びに誰かを行かせてと頼んだ。


「寒くなってきたな」バトラーは会話につなげようと口を開いてアイリーンがいない席に目をやった。じきに降りて来るだろう――大きな悩みの種が。バトラーはこの二か月ずっと気を遣いっぱなしだった――娘の前ではできるだけクーパーウッドの話題を避けていた。


「寒くなりましたね」オーエンが言った。「一段と寒くなった。いよいよ冬本番ですね」


ジョン老人は順々にいろいろな皿を並べ始めた。しかしすべて並べ終わってもアイリーンは一向に現れなかった。


「アイリーンがいるか見てきてちょうだい、ジョン」バトラー夫人は気になって言った。「食事が冷めちゃうわ」


ジョン老人はアイリーンが部屋にいないのを知らせに戻ってきた。


「きっとどこかにいるはずよ」バトラー夫人は少しだけ困惑して言った。「食べたくなったら来るでしょ、心配ないわ。食事の時間だってことはわかってるんだから」


会話は、新しい市庁舎に計画されて完成が間近の新型の給水設備から始まって、クーパーウッドの財務的社会的ダメージ、株式市場の概況、アリゾナの新しい金鉱、次の火曜日にモレンハウワー夫人がヨーロッパへ出発すること、これにノラとカラムのもっともらしいコメントがついて、クリスマスのチャリティー・ダンスパーティーへとさまよった。


「アイリーンが行きたがるわね」バトラー夫人は言った。


「私もよ」ノラが口を挟んだ。


「誰が連れていくのかな?」カラムが尋ねた。


「それは私の問題だわ、兄さん」ノラはぴしゃりと答えた。


食事は終わった。どうして食事に降りてこなかったのかを確認がてらバトラー夫人はアイリーンの部屋まで行った。バトラーは自分の悩みのすべてを妻に打ち明けられたらどんなにいいだろうと思いながら書斎に入った。座って明かりをつけると机の上に手紙があった。すぐにアイリーンの筆跡だとわかった。こんなものを書いて寄越すとはどういうつもりだ? 不吉な予感した。バトラーはゆっくり封を破ってメガネをかけて真剣に読んだ。


アイリーンが出て行った。バトラーはそれがまるで火で書かれでもしたように一語一句じっと見つめた。クーパーウッドと一緒に行ったのではない、と書いてあった。それでもなお、クーパーウッドがアイリーンを連れてフィラデルフィアから逃げた可能性はある。もう我慢できん。これで終わりだ。アイリーンは家出をそそのかされた――どこへ行った――どうする気だ? しかしクーパーウッドがアイリーンをそそのかしてこんなことをやらせたとはバトラーには到底信じられなかった。あまりにもリスクが大き過ぎる。自分の家族とバトラーの家族まで巻き込むことになる。きっと新聞はすぐに嗅ぎ付けるだろう。バトラーはその紙を握りつぶしながら立ち上がった。物音がしたので振り向いた。妻が入ってきた。バトラーは気を引き締めてポケットに手紙を押し込んだ。


「アイリーンが部屋にいないのよ」夫人は不思議そうに言った。「外出するようなことをあなたに言ってませんでしたか?」


「いや」バトラーはいつ妻に打ち明けようか迷いながら正直に答えた。


「変だわね」バトラー夫人は不審そうに言った。「何か用があって出かけたに違いないのに、誰にも言ってないなんておかしいわ」


バトラーは何の反応も示さなかった。あえて反応しなかった。「戻って来るさ」何よりもまず時間を稼ぎたい一心でバトラーは言った。こんなふりをしなければならないのを申し訳ないと思った。夫人が出ていくとバトラーはドアを閉めた。そしてその手紙を取り出してもう一度読んだ。娘は気が変になった。野蛮極まりない、人の道に外れた、非常識なことをしている。クーパーウッドのところじゃなかったら一体どこに行くところがあるんだ? 娘は世間に赤っ恥をさらす寸前にいる。この分でいくとそうなってしまう。バトラーが思いつく範囲でやるべきことは一つしかなかった。クーパーウッドがまだフィラデルフィアにいるのなら、奴が知っている。バトラーはクーパーウッドのところへ行くつもりだった――脅し、甘言、必要なら本気で殺すつもりだった。アイリーンは戻らなければならない。ヨーロッパに行く必要はないかもしれないが、少なくともクーパーウッドが正式に結婚できるようになるまでは戻ってきて行動を慎まねばならない。今バトラーが期待できるのはそれだけだった。アイリーンは待たなければならない。そしていつか自分までが娘の情けない提案を受け入れられるようになるのかもしれない。恐ろしい考えだ! 母親を殺して妹にまで恥をかかせてしまう。バトラーは立ち上がって帽子をとりオーバーコートを着て家を出た。


クーパーウッド邸に到着すると応接間へ案内された。クーパーウッドはその時書斎にいて個人的な書類に目を通していたが、バトラーの名前が告げられるとすぐ下の階に降りて行った。バトラーの来訪を告げられても何の動揺も起こさないのがこの男らしい。バトラーが来るとは。つまりアイリーンが家出したのだ。これは言い争いではなく貫禄の戦いだ。この二人でなら、知的にも、社会的にも、他のどんな点においても、自分の方が力は上だと感じた。我々が生命と呼ぶこの男の精神的部分は鋼のように無情になった。自分は妻や父親に向かって、政治家たちが自分をスケープゴートにしようとしていて、バトラーもその一味だと話してはいたが、それでもバトラーは一人の友人として完全に縁が切れたとは思っておらず、礼節を重んじなければならないことを思い出した。できることなら何としてもバトラーをなだめて、穏便に友好的に人生の難しい現実を話し合いで解決したかった。しかしアイリーンの問題は今ここで一気に決着をつけねばならない。そう考えたからこそクーパーウッドはすぐにバトラーの前に現れた。


クーパーウッドが在宅中で面会に応じる気があることを知ると、老人はこの資本家との接触を極力短く効果的にしようと決めた。相変わらず軽快なクーパーウッドの足音を聞いてバトラーはほんの少し動揺した。


「今晩は、バトラーさん」相手を見て手を差し出しながらクーパーウッドは明るく言った。「どういったご用件でしょう?」


「まずは私の前のからそいつをどけてもらおう」バトラーは容赦なくクーパーウッドの手に言及した。「そんなものは必要ない。娘の件で話をしに来たんだ。率直に答えてほしい。娘はどこにいる?」


「アイリーンのことですか?」クーパーウッドは落ち着いた詮索はするが手の内は明かさない目で、相手を見ながら言った。このセリフにしても少し考える時間を稼ぐために言ってみたに過ぎなかった。「お嬢さんのことで私に何が言えるというんですか?」


「娘の居場所を言えるはずだ、わかってるんだぞ。それに、自宅に帰らせることもできるはずだ、本来いる場所にな。お前にうちの敷居をまたがせたのは不覚だった。しかしここでお前と言い争うつもりはない。娘の居場所を言うんだ、そして今後は娘に手を出すな、さもないと私は――」老人の拳が万力のように閉まり、胸が抑えつけられた怒りでふくらんだ。「いいか、賢いのならあまり私に手を焼かせるなよ」バトラーはしばらくしてから幾分落ち着きを取り戻して付け加えた。「お前とは一切取り引きしたくない。娘を取り戻したいだけだ」


「話を聞いてください、バトラーさん」この状況が自分にもたらした優越感を味わいながらクーパーウッドは極めて冷静に言った。「あなたさえよければ私は率直に話したいのです。私にはあなたのお嬢さんの居場所がわかるかもしれないし、わからないかもしれない。あなたに話したくなるかもしれないし、ならないかもしれない。お嬢さんは私が話すことを望まないかもしれませんからね。しかしあなたが私と穏便に話をしたくないのであれば、これ以上話を続ける必要はありません。どうぞお好きになさればいい。二階の私の部屋にいらっしゃいませんか? そこの方がもっと気楽に話ができますよ」


バトラーはかつて散々目をかけてやった相手を驚きの目で見た。これまでの経験を通してもこれほど冷酷なタイプに会ったことがなかった――丁寧で、人当たりがよく、力があり、恐れ知らずだ。この男は間違いなく羊としてやって来たのに、貪欲な狼だったことが判明した。収監されたのにこれっぽっちも懲りていなかった。


「お前の部屋なんかに行くものか」バトラーは言った。「もしお前が計画していることだとしても、お前が娘と一緒にフィラデルフィアを出て行くことはないからな。そのくらいわかる。私を出し抜いたつもりでいて、それをうまく利用したいのだろうが、そうはいかんぞ。物乞い同然でうちに来て私の助けにすがり、私が目をかけて散々力になってやったのにそれでは飽き足らず――私からまんまと娘まで奪っていくとはな。娘の母親、妹、兄たち――お前がそうなる方法も知らないような立派な者――のことがなかったら、この場でおまえの頭を打ち砕いてやるところだ。若い無邪気な娘を連れ去り、悪女に仕立てあげる奴、しかも既婚者のくせに! ここで話をしているのが息子の一人でなく私だったことを、神のご加護だと思うがいい。さもなけれ自分の言いたいことを語ろうにも生きてはできなかったろうからな」


老人は厳しい態度を崩さなかったが怒りにかられてどうすることもできなかった。


「すいませんが、バトラーさん」クーパーウッドは穏やかに対応した。「私は説明したいのですが、あなたがさせてくれないのですよ。私にはあなたのお嬢さんと駆け落ちするつもりもフィラデルフィアを離れるつもりもありません。私がそんなことを考える人間ではないことをちゃんと知っておくべきですね。私の関心事はずっと大きいのですよ。あなたも私も現実的な人間です。二人で一緒にこの問題を話し合えば合意に達することができるはずです。一度、あなたのところに行って説明しようと思ったのですが、あなたが私の話に聞く耳をもたないことはわかりきってました。でもせっかく来ていただいたわけですから、お話したいですね。もし私の部屋へおいでいただけるなら喜んで話をしますが――そうでないならやめておきます。いらっしゃいませんか?」


バトラーはクーパーウッドに歩があるのを悟った。行った方がいいのかもしれない。そうしなければ何も情報が入らないことは明らかだった。


「いいだろう」バトラーは言った。


クーパーウッドは実に和やかに先導し、仕事部屋に入りながら後ろ手にドアを閉めた。


「二人でこの問題を話し合えば合意に達することができるはずです」二人が部屋に入ってドアを閉めた時にクーパーウッドは改めて言った。「自分がかなりの悪人に見えることはわかっていますが、私はあなたが考えるほどの悪人じゃありません」バトラーは軽蔑のまなざしで相手を見つめた。「私はお嬢さんを愛していますし、お嬢さんは私を愛しています。結婚しているのに私に何ができるのかとお考えなのはわかりますが、私にはできますし、実行をお約束します。私の結婚は幸せではありません。このパニックがなかったら私は妻と離婚してアイリーンと結婚するつもりでした。私は本気でお付き合いをしています。あなたがご不満なのも当然の状況が、数週間前にありましたが、あれは軽率であっても、人間なら誰でもすることです。お嬢さんは文句を言ってませんよ――合意の上のことです」ここで娘を持ち出されて、バトラーは怒りと恥ずかしさで顔を赤くしたが、自分を抑えた。


「娘が文句を言わなければそれでいいと思ってるのか?」バトラーは皮肉たっぷりに尋ねた。


「私から見ればそうですがあなたから見れば違うのでしょう。あなたにはあなたの人生観があるのでしょう、バトラーさん、そして私には私の人生観があるのです」


「いずれにせよ正しいのはそこだけだ」バトラーは口を挟んだ。


「どうせ私たちのどちらかが正しいか間違っているかは証明できませんよ。私の判断ではこの目的さえかなえば手段など問題ではありません。私が見据えているのはアイリーンとの結婚です。私が陥ったこの金融の苦境を切り抜けられたら、そうするつもりです。もちろん、私だってあなたに認めていただきたい――それはアイリーンも同じ思いです。でもできなければ仕方がありません」(こんなことを言っても年老いた請負人の考えをやわらげる効果はあまりないかもしれないが、それでも相手の選択肢や譲れない一線に何か影響を与えるに違いないとクーパーウッドは考えていた。結婚を視野に入れなければアイリーンの現状は到底納得できるものではなかった。たとえクーパーウッドが世間の目に有罪判決を受けた横領犯に見えたとしても、それで事は決まらなかった。彼は自由の身になって立ち直るかもしれない――きっと立ち直るだろう――もしアイリーンがその状況でできるのであれば喜んで彼と結婚するべきだった。クーパーウッドは、バトラーの宗教や道徳に対する考え方がかなり偏っていることをよく理解していなかった。)「最近あなたはアイリーンのことを根に持って私を引きずり降ろそうと必死になっているようですが、それはただ私がやりたいと思うことを遅らせているだけです」


「私に協力しろとでもいいたいのか?」バトラーは無限の嫌悪感と我慢を強いられながら言った。


「私はアイリーンと結婚したいのです」クーパーウッドは強調するために繰り返した。「アイリーンだって私と結婚したがっています。こんな状況ですから、あなたの気持ちがどうであろうと、私がすることにあなたは何も反対できませんよ。それなのに、あなたは私と対立を続けている――あなただってすべきだと本当はわかってるくせに私がやりにくいようにしている」


「おまえは、悪党だ」バトラーは腹の底を見透かして言った。「私からすればお前は詐欺師だ。お前と関わり合いを持たせたい子はうちにはいない。この状況を見る限り、お前が自由の身でも娘がお前と結婚した方がいいとは言わんよ。お前にできてもそのくらいがいいところだ――もしやるつもりがあるとしてだ、それも怪しいがな。しかし今はそんなことをどうこう言っても仕方がない。娘をどこかに隠してどうしようというんだ? 娘とは結婚できんのだぞ。離婚ひとつできんのだからな。訴訟対策と刑務所に入らないようにするだけで手一杯だろう。娘がいたところでお前の出費が増えるだけだ。他のことで使う金が足らなくなると思うんだがな。何でまともな家庭から娘を連れ去って、結婚できたとしも恥さらしになるようなまねをさせたがるんだ? お前がどんな人間にせよ、愛情と呼べるものを持っているのなら、娘を自宅から引き離したりせず極力相手の品位を尊重するものだろう。いいか、お前が娘をどんな女にしようが、娘にお前の一万倍の値打ちがないと私が思ったりしないことに変わりはないんだ。でもお前に少しでも良心てものが残っているのなら、娘に家族の顔に泥を塗らせたり、老いた母親に辛い思いをさせたりはしないだろう。そんなことしたら娘の立場を今よりもっと悪くするだけなんだからな。今そんなことをしてお前に何の得があるんだ? そこからどんな結果を期待しているんだ? 少しでも分別ってものがあったら自分でそのくらいわかるはずだ。お前は自分でトラブルを増やしているだけで、片付けてはいないんだぞ――あとになったって娘がお前に感謝することはないからな」


バトラーは議論に引き込まれてしまったことに驚いて話すのをやめた。まともに見られないほどこの男への軽蔑は大きかったが、彼の役目は、彼の要求は、アイリーンを取り戻すことだった。クーパーウッドは相手に真剣な注意を払う人の態度でバトラーを見た。バトラーが言ったことを深く考え込んでいるようだった。


「実を言うと、バトラーさん」クーパーウッドは言った。「私はアイリーンに家出してはしくはありませんでした。ご自分で聞けば、彼女はそう言うでしょう。やめるよう精一杯説得したのですが、出ていくの一点張りでしたから、どこへ行くにせよ快適でいられるよう万全の手配をするくらいのことしかできませんでした。あなたが探偵に尾行させたことを、えらく怒ってましたからね。そのことと、本人が望んでもいないのにあなたが彼女をどこかへ追い払おうとしたことが、家出の主な原因です。家出は私が望んだわけではありません。あなたは時々お忘れのようですが、バトラーさん、アイリーンは成人の女性ですし、自分の意志を持っているんですよ。あなたは、私が彼女を操ってひどい目に遭わせていると考えている。私は実際に彼女をとても愛しているんです。付き合って三、四年です。あなたも愛について多少なりともご存知なら、それが相手を操ることでないことはご存知でしょう。私がアイリーンに与えたのと同じくらい、アイリーンも私に影響を与えたと言ってもいいのですから、私は別にアイリーンを不当に扱ってはいませんよ。私は彼女を愛してます。そしてそれこそがすべての問題の原因なのです。あなたはやって来て、お嬢さんを返せとおっしゃる。実際、私にできるのかできないのか、私にもわかりません。私がそう願っても、相手の気持ちまではわかりませんからね。私に食ってかかって、もうあたしのことなんか大事じゃないんでしょ、くらいのことは言いかねない。そんな事実はないのですから、彼女にそんな思いをさせたくはありません。先ほども言いましたが、あなたが彼女にした仕打ちと、あなたが彼女をフィラデルフィアから連れ出したがっている事実が原因で、彼女は大変傷ついています。私にそれが癒せるのなら、あなたにだってできるはずです。彼女の居場所を教えることができたとしても、教えたいかはわかりません。彼女とこの提案にあなたがどういう態度をとるのかを知るまでは絶対に無理ですね」


クーパーウッドは話をやめて穏やかに請負業者の老人を見た。相手は睨み返した。


「提案とは何だ?」バトラーはこの議論の妙な展開が気になって尋ねた。いつの間にかこの問題全体を少し違った角度から見始めていた。状況はある程度変化していた。クーパーウッドはこの問題にかなり誠実に対応しているように見えた。約束はまったく当てにならないかもしれないが、もしかしたらアイリーンを愛しているのかもしれない。そして、いつかは妻と離婚して結婚するつもりなのかもしれない。バトラーも知ってのとおり、離婚は彼が崇拝してやまないカトリック教会の定めに反した。神の掟と良識は、クーパーウッドは妻子を捨てて他の女と――たとえアイリーンであっても、彼女を救うためだとしても――一緒になってはならないと戒めた。社会学的に言えば計画すること自体が悪い事であり、クーパーウッドの本質がいかに悪党であるかを示した。しかしクーパーウッドはカトリックではなかった。彼の人生観はバトラーのものと同じではなかった。それよりも、最悪なのは(アイリーンの気性が一因なのは間違いないが)彼はアイリーンの状態まで著しく悪くしてしまった。アイリーンはそう簡単に普通の正常な感覚に戻らないかもしれない。だからこの問題は考える価値があった。最終的にはこんなことを容認できないとバトラーはわかっていた――絶対にできない、教会への信仰を守れなかった――しかしそれでも彼は人間だからそれを考慮した。それにアイリーンには戻ってほしかった。これからは自分の将来のあり方についてアイリーンは多少の発言権を持つことになるだろうとバトラーは思った。


「まあ、簡単なことです」クーパーウッドは答えた。「まずアイリーンがフィラデルフィアに残ることに反対しないでいただきたい。次に私への攻撃をやめていただきたい」クーパーウッドは取り入るように微笑んだ。この話を進める間ずっと寛大な態度で臨んで、本気でバトラーをなだめたいと願っていた。「あなたがそうしたくなければ、もちろん私には無理強いできません。バトラーさん、私がこんなことを持ち出すのも、もしアイリーンのことがなかったらあなたは私にこんな態度を取らなかったと思うからです。匿名の手紙を受け取って、その日の午後に私への融資を引き上げたことは承知しています。それ以来、あなたが私をやたら目の敵にしていると方々で聞きました。そういう態度をとらないでほしいと言いたいだけです。私は六万ドルを横領していません。あなたはそれをご存知でしょう。善意だったのですから。あの証書を使った時点では破産すると思いませんでした。返済を求められた他の融資がなかったら、いつものように月末まで業務を続けて期日内に戻せていたでしょう。私は常にあなたの厚意をかけがえのないものと思ってきました。それを失ったことが残念でなりません。これで私が言いたいことはすべて言いました」


バトラーは抜け目のない打算的な目でクーパーウッドを見た。この男はなかなか見どころがあるが、とんでもない邪心を秘めている。バトラーは彼が小切手を取得した経緯とそれに関連するたくさんのことをよく知っていた。今夜のカードの出し方は、あの火事の晩に自分のところに駆け込んだやり方と同じだった。この男は抜け目のない打算的なただの薄情者だ。


「約束はしないが」バトラーは言った。「娘を居場所を教えればその件は考えてやる。今さらお前に頼まれる筋合いはないし、こっちも応える義理はない。だがとにかくその件は考えてやる」


「それはよかった」クーパーウッドは答えた。「期待できるのはそれくらいですよ。ところでアイリーンのことはどうなんですか? フィラデルフィアから連れ出すつもりですか?」


「落ちついて生活態度を改めるなら、せんよ、だがお前と娘の関係は終わりにせねばならん。家族の顔に泥を塗るばかりか自分の魂まで堕落させているんだからな。それはお前も同じことだ。おまえが自由の身になれば、他のことをいろいろ話す時間もできるだろう。それ以上は約束はしない」


クーパーウッドは、このアイリーンの行動が特に自分のためにはならなかったとしても、アイリーンに対しては確かに効果があったと認め、すぐに家に戻った方がいいと確信した。州最高裁判所への上告がどうなるかはわからない。合理的な疑いの証明が特別に認められて開かれる再審請求が通らないかもしれない。その場合クーパーウッドは刑務所で刑期を務めなければならなくなる。もし自分が刑務所に行かざるを得なくなったら、アイリーンは家族のもとにいた方が安全だ――その方がずっといい。これから二か月の間は、上告の行方が判明するまで、両手はふさがりっぱなしになるだろう。そしてその後は――まあ、何があってもクーパーウッドは戦い続けるつもりだった。


クーパーウッドはこうして自分の裁判のことを考える間も、この妥協案をどうまとめればアイリーンの愛情をつなぎとめることができて、家に戻るよう勧めても彼女の気分を損ねないようにできるか考えていた。アイリーンが自分と会うことをあきらめることに同意しないことはわかっていたし、それを勧めるつもりもなかった。自分に有利な理由がないのにバトラーにアイリーンの居場所を教えれば惨めな役まわりを演じることになる。クーパーウッドは、どうすればいいかがはっきりと――アイリーンが最も納得する形で――わかるまで教えるつもりはなかった。ずっとこのままの状態で幸せが続かないことはわかっていた。アイリーンの家出は、バトラーの自分に対する激しい反発と、娘をフィラデルフィアから離れさせて行いを改めさせようという決定が原因だった。しかしこの最後の問題は今や一応回避された。言葉とは裏腹にバトラーはもはや復讐の鬼ではなかった。情に流されていた――娘に会いたくてたまらず、許したがっていた。自分の土俵で思い知らされ、文字通り打ちのめされた。クーパーウッドは老人の目をみてそれがわかった。自分が直接アイリーンと話をして状況を説明できれば、少なくとも当面はこれがお互いのためであり、この問題が丸く収まるとアイリーンを説得する自信があった。とりあえずバトラーはどこかで――多分ここで――待たせておく。その間に自分が行ってアイリーンに話をする。この状況を知ればアイリーンはおそらく黙って受け入れるだろう。



「この状況で私にできることはせいぜい」しばらくしてクーパーウッドは言った。「二、三日中にアイリーンに会って彼女の意向を聞くくらいですね。私が事情を説明します。もし彼女が戻りたければ戻ればいいわけです。あなたの言い分は何でも伝えると約束しますよ」


「二、三日だと!」バトラーは怒って叫んだ。「二、三日など、とんでもない! 今夜戻らなくちゃ駄目だ。母親はまだ家出のことは知らんのだ。今夜が期限だ! 私が自分で行って今夜中に連れ戻してやる」


「いや、それは駄目です」クーパーウッドは言った。「私が自分で行かなければなりません。ここでお待ちいただければ、何ができるか私が確認して、あなたにお知らせします」


「いいだろう」バトラーはしぶしぶ言うと今度は後ろで手を組んで行ったり来たりを始めた。「頼むから、早いとこやってくれ。無駄にする時間はないんだ」バトラーは妻のことを考えていた。クーパーウッドは使用人を呼ぶと馬車の支度を言いつけ、ジョージにこの部屋のことは構うなと伝えた。バトラーがこの彼にとって不愉快な部屋を言ったり来たりしている間に、クーパーウッドは急いで出かけた。


 

 

第四十七章



キャリガン家に到着したのは十一時近くだったが、アイリーンはまだ寝ていなかった。ベルが鳴ったときは二階の寝室でマミーとキャリガン夫人を相手に自分が社交で経験した話を打ち明けていた。キャリガン夫人が下におりてドアを開けクーパーウッドに応対した。


「バトラーさんがこちらにいらしてますね」クーパーウッドは言った。「父親の使いの者が来たと伝えてもらえますか?」自分がここにいることは家族の者にも漏らさぬようアイリーンが指示しておいたのに、クーパーウッドの貫禄とバトラーの名前を持ち出されたのとでキャリガン夫人は気が動転してしまった。「ちょっとお待ちを」夫人は言った。「見てまいります」


夫人が奥へ引っ込むと、クーパーウッドは帽子を脱ぎながら、アイリーンがそこにいることに満足した様子ですかさず中に入った。「少し話をしたいだけだと伝えてださい」キャリガン夫人が上の階にあがる間にアイリーンに聞こえるように声を大きくして叫んだ。アイリーンは聞きつけ、さっそく降りて来た。随分早く来たものだとかなり驚いていた。うぬぼれて、家中は大騒ぎに違いないと想像をふくらませた。もしそうなっていなかったら、さぞかし悲しんだことだろう。


キャリガン家の者が面白がって聞き耳を立てていただろうから、クーパーウッドは慎重だった。アイリーンが降りてくると、指を唇にあて黙れの合図を出して言った。「バトラーさんですね」


「そうよ」ほくそ笑んでアイリーンは答えた。ひとまず彼にキスしたかった。「何かあったの?」静かに尋ねた。


「帰らなければならないと思う」クーパーウッドは小さな声で言った。「そうしないと大騒ぎになりそうだ。お母さんはまだ知らないらしい。お父さんが今私のうちにいてきみを待っている。もしきみが帰ってくれれば私はかなり助かるかもしれないんだ。実はね――」クーパーウッドはバトラーとの会話を包み隠さず話し、この問題について自分の意見を述べた。問題のさまざまな局面が提示される間アイリーンの表情は目まぐるしく変わったが、クーパーウッドの問題のとらえ方の明確さと、これが片付きさえすれば二人はこれどおりの関係を継続できるという確約に説得されて帰る決心をした。ある意味で父親の降伏は大勝利だった。アイリーンは、自分が家にいないと家族がやっていけない、荷物は後で取りに来る、と笑顔でキャリガン家に別れを告げてクーパーウッドと一緒に帰った。自宅に着くとクーパーウッドは、父親を連れてくるからアイリーンは馬車で待つように頼んだ。


「どうだった?」クーパーウッドがドアを開けるとバトラーは振り向いて言った。アイリーンは見当たらなかった。


「外の馬車にいます」クーパーウッドは言った。「よかったらそのままお使いください。うちの者をとりにやらせますから」


「けっこうだ。歩いて行く」バトラーは言った。


クーパーウッドは馬車を片付けるよう使用人に言いつけた。バトラーは堂々と歩いて出て行った。


娘に対するクーパーウッドの影響力はいかんともしがたく、おそらくはずっと続くものと認めざるを得なかった。バトラーにできることはせいぜい娘を家の敷地内にとどめておくくらいだった。自宅にいた方がまだ正気に戻る可能性があった。娘がまた機嫌を損ねるのを恐れるあまり、帰り道の会話はとても慎重に臨んだ。議論など論外だった。


「家出する前にもう一度話し合ってもよかっただろう、アイリーン」バトラーは言った。「お前が家出したと知ったらお母さんはオロオロするぞ。まだ知らずにいるんだからな。夕食の時間はどこかにいたと言わなくちゃいけないよ」


「キャリガンさんのところにいたのよ」アイリーンは答えた。「それで平気よ。お母さんはそんなこと心配しないわ」


「胸が痛んだよ、アイリーン。反省して改心してほしい。もうそれ以上は何も言わん」


アイリーンはそのとき勝った気分で部屋に戻った。そしてバトラー家ではどうやら物事は今までと同じように進んだ。しかしこの敗北がクーパーウッドに対するバトラーの態度を一転させたと思ったら大間違いである。 

 


仮釈放の日から二か月先の上告審までの間、クーパーウッドは粉砕された自分の戦力を修復するために全力を尽くしていた。やめていた仕事を再開した。しかし有罪判決を受けてからは、事業再建の見込みがガラリと変わってしまった。破産したときに大口の債権者を守ろうとしたのだから、もし再び自由の身になれば、もし自由を手に入れて、他の条件が同じであれば、自分を最も助けてくれそうな人たち――たとえばクック商会、クラーク商会、ドレクセル商会、ジラード・ナショナル銀行など――との信頼関係は良好だろうと思っていた――判決で自分の評判が大ダメージを受けていなかったらそうだったろう。妥当だろうがそうでなかろうがこういう司法判断が、自分の最も熱心な支持者たちのやる気をどれほど削ぐかを、クーパーウッドは持ち前の楽観のせいで完全に読み違えていた。


金融界の親しい友人たちはすでに、彼が沈みゆく船だと確信していた。金融の学者はかつて、お金ほど敏感なものはないし、損得勘定には取引の対象の性質が大きく影響すると言った。何年か刑務所に入るかもしれない男のために、多くのことをしようとするのは無駄だった。最高裁で敗訴して実刑判決が出ても、知事との関係で何らかの措置が講じられるかもしれないが、それは二か月以上先のことだし、その結果がどうなるかは彼らにはわからなかった。だから、援助や信用の拡大、あるいは全面的再建のために立てた計画を受け入れてほしいというクーパーウッドの度重なる訴えは、疑いを抱く人たちにやんわりとかわされた。考えてはくれる。見てはくれる。行く手には立ちはだかるものがある。そして、ああでもない、こうでもない、行動したくない人たちの言い訳を延々と聞くだけだった。この頃、クーパーウッドはいつものように軽快に金融界を歩き回り、そこで出会った長年来の知り合い全員に挨拶を交わし、問われるたびに前途洋々で順調にやっているふりをした。しかし誰も彼を信じなかった。本当は相手が信じようが信じまいがどうでもよかった。彼の仕事は、誰でもいいから本当に自分を助けてくれそうな人物を説得するなり、無理してでも説き伏せることだった。その他のことはすべて無視して地道にこの仕事に取り組んだ。


「よお、フランク」彼を見かければ友人は声をかけてくれる。「調子はどうだい?」


「いいよ! 上々だね!」クーパーウッドは快活に答える。「絶好調だよ」そしてクーパーウッドは自分の問題がどんなふうに処理されているかをざっと説明した。自分を知り自分の活躍に関心を持つ者全員に楽観的見通しをたっぷり伝えたが当然関心を持たぬ人は多かった。


この頃、破産申請の再調査もずっと続けられていたのでクーパーウッドとシュテーガーは絶えず裁判所で顔を合わせることになった。つらい日々だったが、くじけなかった。フィラデルフィアにとどまって最後まで戦い抜きたかった――火事の以前の立場を回復したかった。世間の目に復活した姿を見せたかった。実際に長期間刑務所に収監されなければそれが可能だとも感じた。そうなったときでさえ出所してしまえば、ごく自然に楽観主義がクーパーウッドの考え方だった。しかしフィラデルフィアに関しては、明らかにむなしい夢を見ていた。


彼に不利に働いている要因の一つは、バトラーや政治家たちとの変わらぬ対立だった。どうやら――誰もその理由をはっきりと言えなかったが――この資本家と前市財務官は上告を棄却されて最後は一緒に刑の宣告を受ける、というのが政界の一般的な見方だった。ステーネルは当初罪を認めて黙って罰を受けるつもりだったが、はっきりと罪を認めて何の正当性もないように見えるよりは、むしろ将来のために罪は認めず、自分の違反は慣例によるものだったと主張した方がいい、と政治家仲間の数名に説得された。ステーネルはこれをやったがやはり有罪になった。形ばかりの上告がなされてそれが今、州最高裁判所で審議中だった。


それに、バトラーとクーパーウッド夫人に手紙を書いた少女に端を発する件があちこちでささやかれるようになったせいで、この頃にはクーパーウッドとバトラーの娘アイリーンとの関係を噂するゴシップが広がっていた。十番街には家があった。そこはアイリーンのためにクーパーウッドに管理されていた。バトラーがやけに目の敵にするのも無理はなかった。これで多くのことの説明がついた。現実的な金融界でさえ今や批判は彼の敵よりむしろクーパーウッドに向いていた。というのも、彼のキャリアがあるのも最初の頃バトラーに目をかけられた事実があったからではないか? その恩に対して何という報い方だろう! 最も古い、最も堅固な崇拝者たちさえ首をかしげた。これはクーパーウッドの行動を司る、あの持ち前の「自分を満足させる」という態度の一例だと彼らははっきりと感じ取った。彼は確かに強い男だった――そして華麗だった。これほど華やかで、それでいて魅力的で、投資に積極的で、同時に保守的な人物は三番街にはいなかった。しかし大胆も利己主義もほどほどにしないと天罰がくだりやすくなるのではないだろうか? あれは死神と同じで目立つものが大好きなのだ。おそらくバトラーの娘に手を出すべきではなかった。間違いなくあんな大胆にあの小切手を手に入れるべきではなかった。ましてやステーネルと喧嘩別れした直後にである。少しばかり強引過ぎた。こんな経歴の者が、この地で元の地位に戻れるかものか、疑わしいのではないだろうか? 彼に一番近い銀行家も実業家も明らかに懐疑的だった。


しかしこの頃のクーパーウッドと彼の人生観――ありのままの気持ち――「自分を満足させたい」――は、美への愛着や恋愛や女性が関わると彼を無情にも軽率にもした。今でさえアイリーン・バトラーのような少女の美しさと喜びは、その支持を得ずに済ませられるなら、五千万人の支持よりも、クーパーウッドにははるかに重要だった。彼の運気は急上昇が続いたので大儲けしてうかれている間は、自分がしていることの社会的意義をろくに考えたことがなかった。若さと生きる喜びが血潮にみなぎった。新緑がそう見えてそう感じるような、若さと元気を実感した。自分の中で春が暮れ始めようとしていたが、クーパーウッドは気にしなかった。破綻した後で、アイリーンとしばらくは別れていた方が賢明なことくらいわかったろうに、と他の人なら思ったかもしれないときでも、彼はとにかく手放したくなかった。アイリーンは過ぎ去ったすばらしい日々を代表する最高の存在だった。彼女は彼と過去とまだ成功を収めていない未来とを結ぶものだった。


一番心配なのは、もし刑務所に入れられるとか、破産宣告を受けるとか、あるいはその両方をくらったら、自分はおそらく取引所会員の特権を失うことになる。それはこのフィラデルフィアで一番の出世街道が、永遠ではないにしても、しばらくの間閉ざされることだった。クーパーウッドは今、複雑な事情で会員権が資産として差し押さえられていて、活動できなかった。彼が雇えるほとんど唯一の従業員エドワードとジョセフが、クーパーウッドに代わってまだ細々と行動していた。しかし取引所の他の会員たちは当然ながらこの弟たちをクーパーウッドの代理人だと疑っており、彼らが自分で事業を立ち上げたと言っても、それはクーパーウッドが、顧客にとって必ずしも有利とはいえない、どうせ違法な何か隠れた活動を考えているという印象を他の銀行証券関係者たちに与えただけだった。しかしクーパーウッドはどんなことがあろうと、積極的ではなく鳴りを潜めてでも取引所にとどまらねばならなかった。そして頭の中でざっと考えて、自分が刑務所に入れられるか破産するか、あるいはその両方をくらった場合に備えて、取引所で好かれていてあるいは好かれそうで操り人形かダミーとして使える男と予備的な秘密の提携をしておくべきだと思いついた。


ようやくこれだという相手を思いついた。大した相手ではなかった――事業規模が小さかった。しかし正直者でクーパーウッドに好意的だった。名前はウィンゲート――スティーブン・ウィンゲート。南三番街のブローカーであまり堅実とはいえない業務を何とか続けていた。四十五歳、背は中くらい、かなり太っているが決して見苦しくはなく、むしろ知的で活動的だが、あまり迫力や強引さはなかった。仮に一端の人間になる運命だったとしてもそうなるには実際にクーパーウッドのような人が必要だった。彼は取引所の会員で評判がよく尊敬されていたが大した成功はしていなかった。これまでにも、クーパーウッドに小さな――妥当な金利での小額融資とか内部情報など――頼みごとをしてクーパーウッドがかなえたことがあったのでウィンゲートはクーパーウッドのことが好きで、少し気の毒に思っていた。今ウィンゲートは大した成功をとげていない高齢者にゆっくりとなりかかっていた。そういう男が自然にそうなるように扱いやすかった。しばらくは誰も彼がクーパーウッドに雇われているとは疑わないだろう。そしてクーパーウッドはウインゲートを頼りにして忠実に命令を実行できた。クーパーウッドはウインゲートを招いて長い打ち合わせをした。現在の状況や、ウインゲートがパートナーとして自分のために何ができると自分が考えているか、自分には彼の事業がどれだけ必要か、などを話したところ、相手が乗り気だとわかった。


「何でもあなたの言うとおりにしますよ、クーパーウッドさん」ウインゲートは約束した。「あなたなら何があっても私を守ってくれるとわかってますし、一緒に働きたくて、あなた以上に尊敬できる人は世界に誰もいませんからね。この嵐は完全に吹きやむでしょうし、あなたは大丈夫ですよ。いずれにせよ、やってみればいいことです。うまくいかなかったら後でどうしたらいいかを考えましょう」


こうして、この関係はひとまず結ばれた。クーパーウッドはウィンゲートを通じて小さな行動を開始した。

 

 

第四十八章


下級審の判決破棄と再審を請求したクーパーウッドの訴えに対して州最高裁判所が判断を下すまでに、アイリーンとの関係の噂が広く知れ渡ってしまった。これまでのことでわかるように、それはクーパーウッドにダメージを与え、未だに大きな影響を及ぼし続けていた。これは、クーパーウッドが主犯格でステーネルは犠牲者である、という政治家が最初に作ろうとした印象を確かなものにした。彼の合法すれすれの投資術には、彼の財務の才能というちゃんとした裏付けがあり、この点においては他の各方面で、無事に、騒がれることなく、大喝采を浴びて行われているものに比べても全然悪くはないのに、今やそれは危険極まりない悪知恵を駆使した詐欺だと見なされた。クーパーウッドには妻と二人の子供がいた。彼の本心も知らないくせに想像力豊かな大衆は、彼が妻子を見捨て、リリアンと離婚し、アイリーンと結婚する寸前だったという結論に飛びついた。保守的な見方では、これは十分に犯罪だった。彼の蓄財の記録、裁判、有罪判決、どうみても破産している状況などと関連付けると、市民は、彼が政治家の言う通りの人物だと信じたくなった。有罪で当然だ。最高裁判所は、彼の再審請求を認めるべきではない。こうやって私たちの心の奥の考えや意思は時々、突然はじけて未知の重大な作用を経て世論になることがある。どうして自分たちが知っているのか明らかにわからないのに知っているのである。テレパシーだか先験哲学の類が存在しているのだ。


たとえば、それは州最高裁判所の五人の判事と州知事の耳にも届いた。


合理的な疑いの認定を受けてクーパーウッドが保釈されていた四週間の間に、ハーパー・シュテーガーとデニス・シャノンの両名は州最高裁判所判事の前に出て再審認定の是非を議論した。クーパーウッドは弁護士を通して最高裁判所判事に練習したとおりに訴え、自分が一審でいかに不当に起訴されたか、窃盗も何も罪を問うに足る確かな重大な証拠は何もないことを存分に示した。シュテーガーは自分の主張を述べるにあたって二時間十分かけ、地方検事のシャノンは反論にそれ以上かけた。その間、司法では経験が豊富でもあまり金融を理解していない五人の担当判事は熱心に耳を傾けた。そのうちの三人の判事、スミッソン、レイニー、ベックウィスは、当時の政治的感情やボスの意向に殊の外従順な人たちで、特にバトラーの娘との関係とバトラーの彼に対する反発が耳に入ってからは、このクーパーウッドの取引に関する話にさっぱり興味を示さなかった。彼らは一応この問題全体を公平にわけ隔てなく考えているつもりだった。しかしクーパーウッドのバトラーに対する仕打ちが彼らの頭から離れることはなかった。残りの二人、マーヴィンとラファルスキー判事は、人一倍大きな同情心と理解力を持っていたが、人一倍政治的に自由なわけではなかった。これまでのところ、クーパーウッドはひどい扱われ方だと感じはしたが、それに対して自分たちに何ができるかはわからなかった。クーパーウッドは政治的にも社会的にもかなり苦しい立場にあった。判事たちは、シュテーガーが正確に述べた彼の大きな社会経済的ダメージを理解し考慮した。中でもラファルスキー判事は自分の人生にも少女に関する同様の出来事があったため、クーパーウッドの有罪判決に強く反対する気になった。しかし政治的なしがらみと義務がある以上、求められていることに対立するのは政治的に賢明ではないと悟った。しかし、スミッソン、レイニー、ベックウィス三判事があまり議論をせずにクーパーウッドに有罪判決を下そうとしているのを知ると、ラファルスキーとマーヴィンは反対意見を述べることにした。関連する問題はとても複雑だった。クーパーウッドには行動の自由という基本原則があるのだから合衆国最高裁判所まで持ち込むかもしれない。いずれにせよ、ペンシルベニアや他の地域の裁判所の判事も、この事件の判決を調べる気になるだろう。これはそれほどの大事件だった。反対意見を出しても何も害はないと少数派は判断した。クーパーウッドが有罪でありさえすれば政治家は構わない――むしろこの方がいい。この方が公平に見える。それにマーヴィンとラファルスキーは、できることならクーパーウッドを一気に有罪に持ち込もうとするスミッソン、レイニー、ベックウィスと一緒にされるのはご免だった。だから五人の判事はみんな、このような状況で誰もがそうであるように、自分たちはかなり公平にわけ隔てなくすべての問題を考えている、と思っていた。一八七二年十二月十一日スミッソンは、自分とレイニーとベックウィス両判事の意見として次のように述べた。


「被告人フランク・A・クーパーウッドは下級審の評決(ペンシルバニア州対フランク・A・クーパーウッド)の取消しと再審を請求している。本法廷では、被告に対し何らかの重大な不正行為があったとは確認できない。(ここでかなり長く事件の経緯が蒸し返され、その中にクーパーウッドの簡素化した市財務局との取引方法への言及はなく、財務官事務所の慣例や先例は、法の精神と条文を守るのを怠った彼の責任と何ら関係がないと指摘された)合法的な過程を装った物品の取得は(スミッソン判事は多数派を代弁して続けた)窃盗罪に当たるかもしれない。本件では、重罪の意図を確認することが陪審の役目だった。事実の問題として陪審は被告に不利な評決をした。その評決を支持する十分な証拠がないとは本法廷では確認できなかった。被告はいかなる目的で小切手を入手したのか? 被告は破産寸前だった。販売するために手元にあった市債は、すでに自分の借金の担保になっていた――被告は五十万ドルの現金を融資として不正に取得していた。通常の手段では市財務局からこれ以上何も得られないと考えるのが妥当である。それから被告そこに行き、犯意はなくとも後ろめたい手段で、さらに六万ドルを手に入れた。陪審はこれは行われたことに意図があったと認定した」 

 


クーパーウッドの再審請求が多数決で否定されたことがこの意見の中で述べられた。


マーヴィン判事は、自分とラファルスキー判事の意見として反対意見を記した。 

 


「クーパーウッド氏が代理人の権限を持たずにこの小切手を受け取ったわけではないことは、本件の証拠から明らかである。代理人の立場にありながら、この小切手の受領が意味する義務をまっとうしなかった、あるいはまっとうする意思がなかったことは明確に立証されなかった。減債基金向けの買い付けの内容は、市場に、その意味では一般に、知られてはならないことが方針として了解されていたことと、最終結果が満足できる限り代理人クーパーウッド氏は資産と負債の処理について完全に自由な裁量権を持つことになっていたことが裁判で明らかにされた。購入する時期も購入時の量も一定ではなかった。被告が小切手を受け取った時点で、それを不正に使用する意図がなければ、第一の訴因でさえ有罪にはできない。陪審の評決はこの事実を立証していない。証拠は立証できるほど決定的なものではない。この同じ陪審は他の三つの訴因で証拠の影も形もないのに被告を有罪にした。他の訴因が明らかに間違っているのに第一の訴因の結論が間違いではないと言えるだろうか? 第一の訴因で窃盗罪を課した陪審評決は有効ではない、この評決を破棄して再審を認めるべきである、とするのが少数派の意見である」 

 


ユダヤ系だが妙にアメリカ人らしい風貌で、じっくりと考え込むが手際のいいラファルスキー判事は、第三の意見を書くことが求められていると感じた。それは特に自分の考えを反映していて、マーヴィン判事に同意した点に若干の変更と補足を加えるのはもちろん多数派に批判的であるべきだと考えた。クーパーウッドを有罪にするのは難しい問題だった。彼を有罪にする政治的必然性は別として、高等裁判所のいろいろな意見にもそれほどはっきり示されたものはなかった。ラファルスキー判事は、犯罪が行われたとしてもそれは窃盗として知られているものではないと例をあげてつけ加えた。 

 


「クーパーウッドがすぐに市債を引き渡すつもりがなかった意図も、主席事務官アルバート・スターズもしくは市財務官が小切手の占有権だけでなく、小切手の所有権とその分の金銭をまったく手放すつもりがなかった意図も、いずれも証拠からは結論づけることができない。この金額の市債の証書を購入したとクーパーウッドが発言したことはスターズ氏によって証言されたが、彼が購入しなかったことは明確に証明されなかった。被告がそれを減債基金に収めなかったことについて公平を期さねばならない。法律の条文に反しても、慣習に照らして判断されねばならない。そうすることは被告の慣習だったのか? 私の判断では、今しがた本法廷多数派に発表された主張は、窃盗を構成する犯罪をその限界まで拡大してしまった。これでは手広く完全に正当な株式取引を行っている実業家の誰もが、本件のように、市場の急落や火災によって、知らないうちに重罪犯になりかねない。原則が主張されてこのような判決が出て、このような結果を導きかねないとは、控えめに言っても驚きである」 

 


少数派判事の反対意見によって随分慰められる一方で、覚悟を決めてこの件に関して最悪の事態を想定し、それを見越してできる限り身の回りの問題を片付けてきたわけだが、それでもクーパーウッドはひどく失望した。いつもどおり強気であくまで気丈に振る舞っていたが、悩んでいなかったと言えば嘘になる。最高水準の感受性はなくなったわけではなく、彼の中であの冷たい鉄のようなもの、決して彼を見捨てない理性、に管理、支配されているだけだった。シュテーガーが指摘したようにあとは合衆国最高裁判所に上告するしかなかったが、そこで合衆国最高裁判所が考慮しなければならないのは、判決のいくつかの局面の合憲性と、国民としての権利だけだった。これは面倒で費用がかかった。何を争点にできるのか、今のところ必ずしも定かではなかった。かなり手間取るだろう――おそらく一年半かそれ以上。いずれにしてもそれが終わってから刑期を務めなければならないかもしれない。それに裁判の間だってきっとしばらくは投獄されねばならないだろう。


クーパーウッドは、シュテーガーの状況説明を聞いてからしばらくあれこれと考え込んだ。「どうやら、刑務所に入るか国を出るしかないようだ。私は刑務所に行くことにした。長い目で見ればこのフィラデルフィアで戦い抜いて勝ち上がれるからね。最高裁で判決をくつがえせるかもしれないし、ほとぼりが冷めてから知事の恩赦がもらえると思う。逃げたりはしない。私がそんなものじゃないことはみんなが知っているからね。私を倒したつもりの連中の鞭は私をかすりもしなかったのさ。しばらくすれば、この件からは抜け出せる。その時には、このつまらん小物の政治家たちに、本当の闘いをするってことがどういうことかを見せてやる。奴らはもう私からは一ドルも手に入らない――一ドルたりともな! 私を解放すればあの五十万ドルだっていずれは払ってやったものを。今頃は口笛を吹いていられたはずなのに!」


クーパーウッドは歯を食いしばった。灰色の目がギラギラと決意を新たにした。


「できることは全部やりました、フランク」シュテーガーは同情的に弁解した。「私なりに全力で臨んだことは認めてくれますよね。私がわかってないのかもしれませんが――その辺はご自分で答えを出してください――でも私は自分の限界内で最善を尽くしました。あなたがお望みなら、この件を続けるためにもう少しできることがあるのですが、それはもうあなたにお任せします。何なりと言ってください」


「この期に及んでつまらん話はよしてくれ、ハーパー」クーパーウッドは苛立ちを隠しきれずに答えた。「自分が満足か不満かは自分でわかっている。不満だったらすぐに言うさ。きみはこのまま続けて最高裁に持ち込むだけの確かな根拠を見つけられるか確認した方がいいと思う。でも私は刑を宣告してもらうつもりだ。すぐにでもペイダーソンが出頭の日時を決めてくれるさ」


「それはあなたの対応次第ですよ、フランク。その方が都合がよければ、多分一週間か十日は刑の宣告を猶予してもらえるかもしれません。シャノンはそれに反対しないでしょう。問題が一つだけあります。ジャスパースが明日あなたの様子を見にここに来ますよ。上告が却下されたのを知り次第、再びあなたを拘束するのが彼の義務ですから。お金を払わないと拘束したがるでしょうけど、それは解決できます。先延ばしして少しでも時間を稼ぎたいのであれば副保安官をつけて刑務所の外にいられるように調整してくれると思います。でも夜は所内にいなくてはならないでしょう。数年前のアルバートソン事件以来、そういうことが結構厳しいんです」


シュテーガーは、副保安官の監視下で夜間、郡刑務所の外にいて逃亡してしまった有名な銀行の出納係の事件に言及した。当時、保安官事務所には辛辣で厳しい非難が浴びせられた。それ以来、評判や財産の有無にかかわらず、有罪と決まった犯罪者は少なくとも夜間は郡刑務所に留まることになった。


クーパーウッドは弁護士事務所の窓から二番街を眺めながらこれを冷静に考えた。そうしたからといって刑期全体が少しも減らされないのに郡刑務所で夜を過ごすのは嫌だったが、丁寧な待遇を一遍味わっていたからジャスパースの管理下で自分に起こるかもしれないことをあまり心配しなかった。数か月自由にならないのなら、自分に今できることは、三番街のオフィスからやるのと同じように刑務所の独房からでも調整できることだった。まったく同じにはいくまいがほぼ同じだった。いずれにしろ交渉してどうなる? 刑期を務めねばならないのなら、悪あがきはやめてそれを受け入れた方がいいかもしれない。身辺整理に一日か二日かかるかもしれないが、それ以上求めて何になるだろう? 


「こっちが何もしないで普通にいけば刑の宣告はいつになるんだ?」


「まあ、金曜日か月曜日でしょう」シュテーガーは答えた。「この件でシャノンがどう動くつもりなのかわかりません。少し調べてから会おうと思ってます」


「その方がいいと思う」クーパーウッドは答えた。「私は金曜日でも月曜日でもどちらでもいい。まったくこだわりはないからね。できれば月曜日の方がいいな。それまで手を出さないようジャスパースを説得できる手段があると思わんか? 向こうはこっちにちゃんと支払能力があるとわかっているんだ」


「わかりませんが、フランク、確かめましょう。今夜にでも行って話してきます。多分百ドルもやればあいつは規則を緩めてくれますよ」


クーパーウッドは苦笑いした。


「ジャスパースに百ドルもやったら規則なんかなくなってしまうぞ」そう答えて、帰ろうと立ち上がった。


シュテーガーも立ち上がった。「双方に会ってからお宅へうかがいます。夕食後は家にいますか?」


「ああ」


二人はオーバーコートを着ると寒い二月の中に出て行った。クーパーウッドは三番街のオフィスに戻り、シュテーガーはシャノンとジャスパースに会いに行った。

 

 

第四十九章


クーパーウッドの刑の宣告を月曜日にする手続きはシャノンを通してすぐに行われた。シャノンとしては多少の引延しをしても異論はなかった。


次にシュテーガーは郡刑務所を訪れたが、五時に近かったのですでに暗かった。ジャスパース保安官が、パイプの掃除をしていた専用の書庫からのんびりと出てきた。


「これはシュテーガーさんじゃありませんか?」ジャスパースは人当たりのいい笑顔で言った。「どうしました? 会えてうれしいですよ。座りませんか? また例のクーパーウッドの件で来たんでしょ。地方検事から敗訴したという連絡を受け取ったばかりです」


「その件ですよ、保安官」シュテーガーは機嫌を取るように答えた。「その件で保安官の意向をうかがってくるよう頼まれたのです。ペイダーソン判事が刑の宣告の時間を月曜日の午前十時に決めました。いずれにせよ、月曜日の八時前か日曜日の夜までこちらに出頭しなくても、保安官には大して支障は出ませんよね? ご存知のとおり完全に信頼できる人です」あわよくば百ドルを払うのを避けようとして、シュテーガーはクーパーウッドの到着時刻をささいな問題にしようと下手に出てジャスパースの出方を探っていた。しかしジャスパースはそう簡単にあしらえる相手ではなかった。太った顔がかなり渋い顔になった。どうしてシュテーガーは報酬もちらつかせずにこんな頼みごとができるんだ? 


「ご存知でしょうが、シュテーガーさん、それじゃ法律に違反しますよ」ジャスパースは慎重に不満をにじませて話し始めた。「他のことと同じように便宜を図りたいところだが、三年前のあのアルバートソン事件以来こっちもここの運営をもっと慎重にやらなくちゃならなくてね、それに――」


「ええ、わかってます、保安官」シュテーガーは構わず口を挟んだ。「おわかりでしょうが、とにかくこれは普通の事情とは違うんです。クーパーウッドさんはとても重要な人物で、やることをたくさんかかえてましてね。裁判所の職員に納得してもらうというか罰金を支払って、七十五だか百ドルで済む問題なら事は簡単なんでしょうが――」シュテーガーは言いよどんで巧みに顔をそむけた。ジャスパースの顔がたちまちゆるみ始めた。普段なら違反し難い法律でも、もうそれほど重要ではなくなった。これ以上言う必要はないとシュテーガーは判断した。


「とても扱いにくい問題なんですよ、これは、シュテーガーさん」声が少し泣き言じみていたが保安官は話に乗ってきた。「何かあったらこっちは職を失ってしまいますからね。どんな状況でもそんなことはやりたくないし、やるつもりもないが、ただ私はたまたまクーパーウッドさんもステーネルさんのことも知っているし、二人とも好きでしてね。こんなことをする権利が二人にあるとは思わんが、クーパーウッドさんがあまり大っぴらに行動しないのならこの件は例外にしても構わないと思います。このことは地方検事局の人間には知られたくないんですよ。副保安官をどこか近くに常駐させて監視させる分には構いませんな。私も、まあ、ちゃんと法律は守らないといかんのでね。だからといって煩わせたりはしませんよ。ただの見張りみたいなもんです」ジャスパースは硬軟織り交ぜて――状況を察してくれとなだめるように――相手を見た。シュテーガーはうなずいた。


「わかりました、保安官、そうですね。あなたのおっしゃる通りです」保安官が警戒しながら書庫に案内する間にシュテーガーは財布を取り出した。


「この中にある私が自分でそろえた法律書をご覧ください、シュテーガーさん」ジャスパースは穏やかな口調で言うそばから、シュテーガーが差し出す小さく丸めた十ドル札をそっと握りしめていた。「ご存知でしょうが、ここでは時々こういう本を使うんですよ。こういうものを周りに置くのはいいことです」ジャスパースは州の報告書や改正法律集や刑務所規則などの列全体を包み込むように片腕を振りかざす一方でお金をポケットにしまい、シュテーガーは見るふりをした。


「良いお考えです、保安官。たいしたものですね。では、クーパーウッドさんは月曜の早朝、八時か八時半にここに来ればいいとお考えですね?」


「そうだな」保安官は答えた。妙にそわそわしているが、機嫌がよく、相手を喜ばせたい気分だった。「それより早く収監する事態が生じるとは思わんが、もしそうなったらあなたに知らせるから、あなたが連れて来てくださいね。でもそんなことはないと思いますよ、シュテーガーさん。何も問題はないと思います」その時二人は再びメインホールにいた。「またお会いできてよかった、シュテーガーさん――本当によかった」保安官は付け加えた。「そのうち、また来てください」


シュテーガーは保安官に手を振って気持ちよく別れると、クーパーウッド邸へ駆けつけた。


その晩会社から帰ってきたクーパーウッドがこぎれいなグレーのスーツと仕立てのいいオーバーコートを着て、立派な邸宅の正面のステップを上る姿を見ていたら、まさか彼が、これがここでの最後の夜になるかもしれない、と考えていたとは誰も思わなかっただろう。その様子も歩き方も、気落ちしている感じをまったくうかがわせなかった。早めに灯したランプが煌々と輝く玄関に入ると、年寄りの黒人雑用係のウォッシュ・シムズが、暖炉にくべる石炭の入ったバケツを持って地下から上がってくるところに出くわした。


「今夜はお寒うございます、クーパーウッドさま」ウォッシュは言った。華氏六十度以下は彼にとってとても寒いものであり、フィラデルフィアが出身地のノースカロライナにないことが残念でならなかった。


「身にしみるね、ウォッシュ」クーパーウッドは生返事をした。ジラード・ストリートを西に家に向かう間に、家のことや、家の様子――近所の人が時々窓からこっちを見ながら自分をどう考えているか――を少し考えていた。澄み切っていて寒かった。騒動が始まって以来、葬式のように陰鬱な雰囲気がここに居座るのをクーパーウッドが許さなかったので、応接間と居間には明かりが灯されていた。通りをずっと西に行ったところでは、見納めになるチカチカと刺すような薄紫と菫色のきらめきが、道路の冷たい白い雪の上で光っていた。明かりの灯った窓とクリーム色のレースのカーテンがある灰緑色の石造りの家は特に魅力的に見えた。ここに築きあげて装飾の限りを尽くしたこの自慢の種のことを一瞬考えた。果たして自分はこの先もう一度自分の力でこれを手に入れられるだろうか。「家内はどこだ?」我に返るとウォッシュに尋ねた。


「居間にいらっしゃると思います、旦那様」


クーパーウッド夫人はそんなことをしそうもなかったが、他の残ったものの中から引き続き雇う選択をしない限り、ウォッシュはすぐに失業だな、とおかしなことを考えながらクーパーウッドは階段をのぼった。居間に入ると、夫人は長方形のセンターテーブルのそばに座って、娘のリリアンのペチコートにホックと留穴を縫い付けていた。夫の足音に気づくと顔をあげて、近頃見せる妙に自信なげな微笑みを浮かべ――苦悩、不安、疑念を表しながら――尋ねた。「何か進展があった、フランク?」その微笑みは、自在に取り外せる帽子かベルトかアクセサリーのようだった。


「特に何もないね」とそっけなく答えた。「敗訴が判明したくらいだ。じきにシュテーガーがここに報告に来るよ。向こうから連絡があったんだ。そんなことだろうとは思ってたがね」


正面切って負けたと言いたくなかった。その様子から妻が十分に悩んでいるのがわかったし、今は急なショックを与えたくなかった。


「まさかそんな!」驚きと恐怖の入り混じった声で答えるとリリアンは立ち上がった。


刑務所を考えることがほとんどない世界、裁判所や拘置所などの悲惨なものが出しゃばらずに日々順調に物事が進む世界、にずっと慣れっこだったので、この数か月は危うく彼女を狂人にするところだった。クーパーウッドは、奥で大人しくしているようにリリアンにきっぱりと言っておいた――ほとんど何も話さなかったので、リリアンは裁判の行方がさっぱりわからなかった。知識としてあるものは、自分の両親とアンナから聞いたことと、新聞の綿密な、内偵同然の記事を読んで得たものだった。


夫が郡刑務所に入ったときも、夫の父親が傍聴に行って刑務所から帰って来てそれを報告するまで何も知らなかった。リリアンにはひどいショックだった。これを予期してずっと恐れていたとはいえ、突然こんなあっけない形でこの事実を突きつけるのは、あまりにも酷だった。


クーパーウッドが三十五歳であるのに対してリリアンは四十歳だったが、娘の服を手に持って立っている分には今でも断然魅力的な女性だった。一家の全盛期終盤に作った服の一着をまとっていた。濃い茶色の縁取りがある高級シルクのクリーム色のガウンはリリアンが着ると魅力的だった。目が少しくぼんで縁が赤いが、それ以外に強い精神的ストレスの兆候はなかった。十年前に夫を魅了したかつての落ち着きのある美しさはかなり残っていた。


「それって大変なことじゃないの?」両手を小刻みに震わせながらリリアンはか細い声で言った。「ひどいことじゃないの? もうあなたにできることは本当にないの? 本当は刑務所に行く必要なんてないのよね?」クーパーウッドはリリアンの嘆いたり神経質に怖がるところが嫌いだった。もっと強くて自立した女性の方が好きだったが、それでも彼女は自分の妻であり、かつてはとても愛した相手だった。


「そうなりそうなんだ、リリアン」このときは不憫だと思ったから、クーパーウッドは長い間を置いてから、昔見せた本物の同情を初めて声ににじませて言った。同時に、基本的に無関心な自分のリリアンに対する今の態度を、不安に駆られた相手に誤解させかねなかったからそれ以上踏み込むことを恐れた。しかしリリアンはそんなに鈍くはなかった。夫の声にある思いやりが夫の敗北、つまりは自分の敗北でもあるものによってもたらされたことくらいは見抜けた。リリアンは少し息が苦しかった――それでも感動した。ただの同情の素振りが、永遠に過ぎ去った昔の日々をよみがえらせた。あの日々をよみがえらせることができたらいいのに! 


「私のことできみに心配をかけたくはない」クーパーウッドはリリアンが何も言えないうちに先を続けた。「戦いはまだ終わってないんだ。私はここから抜け出すつもりだからね。物事のけじめをつけるためにどうやら私は刑務所に行かなくてはならないらしい。きみにお願いしたいんだが、残りの家族、特に父と母の前では明るさを絶やさないでほしい。元気づけてあげないとね」クーパーウッドは一度リリアンの手を取ろうと思ったがとりやめた。リリアンは夫がためらったのも、今の夫と十年から十二年前の夫の態度との大きな落差にも内心では気づいていた。今はもう、かつてなら思ったであろうほど、傷つかなかった。リリアンは何と言っていいかよくわからずに夫のことを見た。本当は言いたいことがあまりなかった。


「行かなくちゃいけないにしても、すぐに行かなくちゃいけないの?」リリアンはうんざりしながらも思い切って尋ねた。


「まだわからない。今夜かもしれないし、金曜日かもしれない。月曜日まで平気なのかもしれない。シュテーガーの連絡待ちなんだ。じきにここに来ると思う」


刑務所へ行く! 刑務所へ行く! 自分の夫が、私のフランク・クーパーウッドが、一家の大黒柱が――刑務所へ行くなど家族全員の魂の破滅だ。それに未だに、どうして自分がこんな目に遭うのかよくわからなかった! 自分に何ができるのか考えながらリリアンはその場に立ち尽くした。


「何か私にできることがありますか?」まるで夢から覚めたように前に飛び出しながらリリアンは尋ねた。「何かしてほしいことがありますか? もしかしたらフィラデルフィアを離れた方がいいって思わない、フランク? 行きたくなければ、刑務所なんか行く必要ないわよ」


生まれて初めて退屈な平穏から叩き出されてリリアンは少し我を忘れていた。


クーパーウッドは話をやめ、少しの間じろじろと調べるように相手を見すえた。すぐに厳しい実業家の判断力が復活した。


「それじゃ罪を認めることになるんだ、リリアン、私は罪を犯してないからね」クーパーウッドはほとんど冷淡に答えた。「私は逃げたり、刑務所に入ったりするようなことは何もしてないんだ。今は時間を節約するためにそこに行くだけなんだよ。こんな裁判をずっと続けてはいられないからね。どうせ出てくるんだ――それなりの時間が経過すれば恩赦なり請願でね。だったら、すぐに行った方がいい。私はフィラデルフィアから逃げ出すつもりはない。判決文では五人の判事のうち二人が私を支持した。それは、国が私に事件性を抱いていないというかなり公平な証拠なんだ」


リリアンは自分が間違っていたことがわかった。これではっきりと判断できた。「そんなつもりじゃなかったのよ、フランク」リリアンは弁解がましく答えた。「そんなんじゃなかったってわかるでしょ。もちろん、あなたが有罪じゃないことくらいわかっているわよ。どうして私がよりによってあなたを有罪だと思わなければならないの?」


何らかの反論、さらなる議論――もしかしたら優しい言葉の一つ――を期待しながらリリアンは口をつぐんだ。古い破綻しかかった愛情の痕跡があっただけで、クーパーウッドは黙って机に向かって他の事を考えていた。


この時、自分の状態の異常さが、再びリリアンを襲った。すべてが悲しくて絶望的だった。自分はこれから先どうすればいいのだろう? フランクはどうするつもりだろう? リリアンは半分震えながらも考えて決めた――彼女は変わっていて抵抗しない性格だった――どうして夫の時間を邪魔をするの? どうして悩むの? そんなことしたってどうにもならないのに。現に夫はもう自分には気を遣ってないのに――これは現実だった。夫をその気にさせられるものは何もなかった。二人を再び結びつけるものは何もなかった。この悲劇でさえできなかった。夫は別の女性に――アイリーンに――関心があった。夫にとって妻の愚かな考えや説明、不安、悲しみ、苦しみは重要ではなかった。夫は、夫の自由を求める妻の苦悶の声を、夫の有罪の可能性を論じるもの、無実を疑うもの、夫への非難だと受けとめかねなかった! リリアンがちょっと目をそらすと、クーパーウッドは部屋を出て行こうとした。


「またすぐに戻って来るけど」わざわざ一声かけた。「子供たちはうちにいるのか?」


「ええ、子供部屋にいます」リリアンは悲しそうに、すっかり途方に暮れ、取り乱して答えた。


「ねえ、フランク!」リリアンはそう叫ぼうと口まで出かかったが言い出せないうちに夫は階段を駆け下りて行ってしまった。左手を口にあて、怪しくおぼろで陰鬱な霧にでも入り込んだ目で、テーブルに戻って考えた。まさか人生がこうなるなんて――愛がこうもあっけなく、跡形もなく滅ぶなんて――あり得るかしら? 十年前もそうだった――でも、なぜそこへ戻るの? 確かに愛が死ぬことはある。今それを蒸し返しても仕方がないのに。これで人生で二度、愛は砕けてしまったようだ――一度目は最初の夫が死んだとき、そして今度は二番目の夫が自分を裏切って別の女性と恋に落ち、刑務所に送られようとしていた。こんなことを引き起こすのは自分の何が原因だろう? 自分に何か落ち度があるのだろうか? これからどうすればいいだろう? どうなってしまうのだろう? もちろんリリアンは、夫の刑期の長さを知らなかった。一年かもしれないし、新聞に書いてあったように五年かもしれない。神さま! 五年もかかったら子供たちは父親をほとんど忘れてしまうかもしれない。リリアンはもう片方の手も口にあてて、それから額にあてた。そこに鈍い痛みがあった。これから先のことを考えようとしたが、どういうわけか、今は先のことが全然思い浮かばなかった。突然、自分の意志とは無関係に、そんなことになるとは思わなかったのに、胸が高鳴り始め、喉が短く鋭い痛みを伴う痙攣を四、五回起こして収縮し、目が熱くなった。リリアンは、激しい苦悶の絶望に震え、ドライアイかもしれないが、ほてっていて泣いても涙が少なかった。しばらくは抑えることができず、その場に立って震えるだけだった。やがて鈍い痛みが取って代わり元の自分に戻った。


「どうして泣くの?」急に矛先を自分に向けて詰問した。「どうしてこんな無駄な大泣きをするの? これが役に立つの?」


しかし、自分をじっくりと淡々と見つめ直したにもかかわらず、自分の魂の中で嵐が反響するのを、いわば遠くの方でゴロゴロと響くのを、リリアンはずっと感じていた。「どうして泣くの? 泣いてもいいじゃない?」そう言ってもよかったかもしれないが――言うつもりはなかった。つい最近自分を襲ったこの大嵐は、今はただ自分の魂の境界をぐるぐる回っているだけだが、再び傷つけに戻って来ることをリリアンは無意識のうちに、考えるまでもなく知っていた。


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