第35章-第41章
第三十五章
時間が経つにつれてバトラーは、娘に対する自分の義務のことで、ますます困惑し、落ち着かなくなった。娘のこそこそした態度と明らかに父親を避けたがっている様子から、何らかの形で娘はまだクーパーウッドに接触している、これは何かの社会的な厄介事を引き起こすことになる、と確信した。クーパーウッド夫人のところに行って、夫人から夫に圧力をかけてもらおうと一度は思ったが、後でこれはよくないと判断した。アイリーンがクーパーウッドと密会している確証はまだなかったし、それにクーパーウッド夫人は夫の背信を知らないかもしれない。クーパーウッド本人に会いに行って脅そうとも考えたが、それでは強硬手段になるし、さっきの場合と同じで証拠がなかった。興信所に頼むのはためらいがあったし、他の家族の者には打ち明けたくなかった。一度出かけて、その家を下見がてら北十番街九三一番地の近所を見て回ったが、ちっとも役には立たなかった。そこは貸家で、クーパーウッドはすでにそことの関係を断っていた。
そしてついにバトラーはアイリーンをどこか多少離れたところへ行くよう招待してもらう計画を思いついた――ボストンとか妻の妹が住んでいるニューオリンズ。これは裏工作が要る緻密な作業であり、こういう問題になるとバトラーは必ずしも機転が利く人ではなかったが、これに取り組んだ。バトラーはニューオーリンズにいる妻の妹宛てに密かに手紙を書き、自分から聞いたとは一切明かさずに妻に手紙を書いて、アイリーンが訪ねて行くことを許してもらえないかどうかを尋ね、同時にアイリーンに招待状を書いてくれるよう頼んだが、この手紙を破り捨てた。少ししてから、モレンハウワー夫人と三人の娘、キャロライン、フェリシア、アルタが十二月の初めにヨーロッパに行き、パリ、リヴィエラ、ローマを訪れることを偶然に知ると、バトラーは、私の妻は私を置いていきはしないだろうから娘たちで行くべきだと口実を設けて、ノラとアイリーン、あるいはアイリーンだけでも誘うよう奥さんを説得してはもらえないか、とモレンハウワーに頼むことに決めた。しばらくアイリーンを遠ざけるならこれはいい方法だ。六か月もいなくなるのだ。モレンハウワーはもちろん喜んで協力してくれた。両家はかなり仲がよかったからだ。モレンハウワー夫人は快諾した――政治的な観点から喜んだ――そして招待された。ノラは大喜びした。ヨーロッパ見物がしたくて、こういうチャンスをずっと待ち望んでいたからだ。アイリーンはモレンハウワー夫人が自分を招待してくれたことがうれしかった。数年前なら、すんなり応じたことだろう。しかし今は、困った横槍が入った、クーパーウッドとの関係を邪魔する小さな障害がまた増えた、としか感じなかった。ある晩、夕食の席でバトラー夫人から出された提案にアイリーンはさっそく冷水を浴びせた。バトラー夫人はこの件に自分の夫が関与していることを知らず、その日の午後モレンハウワー夫人の訪問を受け、そのときに招待されたのだった。
「あちらさんはね、お父さんさえよければ、あなたたち二人にも来てもらいたがっているのよ」母親は自分から進んで言った。「あなたたち、すてきなひと時を過ごすことになるわね。パリとリヴィエラに行くんですってよ」
「まあ、すてき!」ノラは叫んだ。「私、ずっとパリに行きたかったの。あなたもでしょ、アイリーン? ねえ、それってすてきじゃない?」
「あたしは行きたいとは思わないわ」アイリーンは答えた。アイリーンは最初から興味を示して自分の立場を不利にしたくはなかった。「もうすぐ冬になるよ。それに着るものがないし。行くならいつか別の機会に行きたいわ」
「ええっ、アイリーン・バトラー!」ノラは叫んだ。「何てこと言うのよ! いつか冬の外国に行きたいって何度も言ってたじゃない。せっかくそのチャンスが来たのよ――それに服なんか向こうで作ってもらえばいいでしょ」
「現地では手に入らないのかい?」バトラー夫人は尋ねた。「それに、こっちでだってまだ二、三週間あるわよ」
「ガイドを兼ねた相談役として男手は要りませんかね?」カラムが口を挟んだ。
「そういう役目なら僕がお役にたてるかもしれません」オーエンが控えめに言った。
「お母さんじゃ、わかりませんよ」バトラー夫人は微笑んで、一口分をもりもりと噛みながら答えた。「そういうのは先方に聞かなきゃならないでしょ、息子たち」
アイリーンはなおもねばった。行きたくなかったのだ。急すぎるとか、ああ言えばこう言い、こう言えばああ言った。ちょうどその時バトラーが現れてテーブルの上座についた。すべてを知りながら、そう見えないようにしようと必死だった。
「あなたは反対しませんよね、エドワード?」バトラー夫人は提案のあらましを説明しながら尋ねた。
「反対だと!」バトラーはぎこちないながらも陽気に振る舞おうと努力して、同じ言葉を繰り返した。「反対なんかしたら割りを食うのは自分だからな。しばらくお前たちみんなを締め出せたら、こっちはせいせいするってもんだ」
「何を言ってんのよ!」夫人は言った。「あなたがひとりで生活したら、大変なことになるでしょ」
「ひとりになんてなるもんか、絶対に」バトラーは答えた。「この街には私を歓迎してくれる場所はいくらでもある――大きなお世話だ」
「そして、私がいなかったらあなたが歓迎されないところだって、いくらでもありますからね。言っときますけど」バトラー夫人がにこやかに切り返した。
「それも大げさだとは言い切れんな」バトラーは優しく答えた。
アイリーンは譲らなかった。ノラと母親が二人がかりでいくら説得しても何の効果もなかった。バトラーは自分の計画が失敗したのをかなり不満げに見はしたが、あきらめなかった。モレンハウワー家の招待を受けるよう娘を説得できる見込みはないと最終的に確信したバトラーは、しばらくしてから探偵を雇おうと決めた。
当時、探偵で名高いウィリアム・A・ピンカートンと彼の事務所の評判はすごかった。この男は貧困から一連の浮き沈みを経て、その独特で、しかも多くの人たちにとって不快な職業のトップに立った。しかし不幸をもたらすかもしれないこういう仕事を必要とする人にとって、この男のとても有名で明らかに愛国的な、南北戦争とアブラハム・リンカーンとのつながりは行動のきっかけになった。ピンカートン、いや彼の仕事は、波乱の在任期間中、大統領官邸でリンカーンを守ることだった。会社の業務を取り仕切る事務所は、フィラデルフィア、ワシントン、ニューヨーク、そして言うまでもないがその他の場所にもあった。フィラデルフィアでも看板をよく見かけたが、バトラーは地元の事務所に行くのは気が進まなかった。いったんこれに決断を下すと、本社があるニューヨークまで出向くことにした。
バトラーはある日、いつものように商用という簡単な口実をつけて、ニューヨークに旅立った――当時は列車で約五時間かかり――二時に到着した。バトラーはロウワー・ブロードウェイの事務所で責任者に面会を求めた。相手は五十歳の大柄で、粗野な顔つきの、体のずっしりした男で、目は灰色、白髪頭で、顔の輪郭はふっくらしているが鋭くて抜け目なかった。話をする間に、太くて短い指の手が漫然と机を叩いた。男は、異様に派手な印象をバトラーに与えた、焦げ茶色のウールのスーツを着用し、大きなU字型のダイヤのピンをつけていた。バトラーはいつも保守的な灰色の服だった。
ボーイがこの立派な人物の前に案内すると、バトラーは「初めまして」と言った――男の名前はマーチンソン――ギルバート・マーチンソン――アメリカ人とアイルランド人の血を引いていた。マーチンソンは会釈し、抜かりなくバトラーを見て、すぐに相手を実力者、おそらくは地位のある人物だと見抜いた。それから立ち上がって椅子をすすめた。
「おかけください」マーチンソンは太いゲジゲジ眉毛の下から年老いたアイルランド人を観察しながら言った。「どういったご用件でしょうか?」
「あなたが責任者ですね?」バトラーは鋭く探るような目で相手を見ながら厳粛に尋ねた。
「はい」マーチンソンは簡潔に答えた。「ここでは私がその任についています」
「この事務所を経営しているピンカートンさんは――今はこちらにいらっしゃらないのですか?」バトラーは慎重に尋ねた。「悪気はないのですが、もしよければピンカートンさんと個人的にお話したいのですが」
「ピンカートンは今シカゴにいます」マーチンソンは答えた。「一週間か十日は戻らないと思います。ですが、ピンカートンに話すのと同じ信頼で、私に話していただくことはできますよ。私がここの最高責任者ですから。しかし、その判断はご自分でなさるのが一番ですね」
バトラーは目の前の人物を値踏みしながら、しばらく押し黙って自問自答した。「あなたはご家族がおありですか?」バトラーは唐突に尋ねた。
「はい、結婚しています」マーチンソンは厳粛に答えた。「妻と二人の子供がいます」
マーチンソンは長年の経験から、これは息子、娘、妻といった家族の不行状に違いないと思った。こういう事件は少なくなかった。
「ピンカートンさん御本人とお話ししたかったのですが、あなたが責任者だとおっしゃるなら――」バトラーは口ごもった。
「そうです」マーチンソンは答えた。「ピンカートンに話すのと同じように自由にお話しください。私の専用オフィスに行きませんか? そこの方がもっとくつろいでお話できますから」
マーチンソンはブロードウェイを見下ろす二つの窓がある隣の部屋に案内してくれた。重たい茶色のきれいに磨かれた長方形のテーブルが一つ、革張りの椅子が四脚、北軍が勝利した南北戦争の戦闘の絵が何枚かあった。バトラーは疑いを抱いたまま後に続いた。アイリーンのことを誰かに打ち明けるのが嫌でたまらなかった。この期に及んでも自分がやろうとしていることに自信が持てなかった。内心思ったように〝こういう連中を見極め〟たかった。それから、やりたいことを決めるつもりだった。窓のところへ行って通りを見下ろすと、そこには乗合馬車やあらゆる種類の車両からなる見事な渦巻きがあった。マーチンソンは静かにドアを閉めた。
「さて、それでは、私があなたために役に立てることがもし何かあるなら」マーチンソンはいったん話をやめた。こういう小細工を弄して、バトラーの本名を引き出そうと思ったが――〝うまくいく〟ことが多いのだが――今回は名前が出なかった。バトラーも抜かりはなかった。
「これに踏み込みたいのか、自分でもよくわからないんです」老人は厳かに言った。「適切なやり方で扱われない恐れがあるのなら、絶対にやりません。知りたいことがあるんです――知っておくべきことが――でも、それは私のあまり知られたくない問題でして――」 バトラーはいったん話をやめ、しばらくマーチンソンを見ながら、考え、推測した。マーチンソンは相手の尋常ではない精神状態を理解した。こういう事例を数多く見ていたからだ。
「最初に申し上げておきますが、ええと――」
「スキャンロン」バトラーは難なく口を挟んだ。「とでも呼んでください、もし名前を呼びたいのなら。とりあえず本名は伏せておきます」
「スキャンロンさん」マーチンソンは苦もなく続けた。「それが本名であろうがなかろうが、別に気にしません。どういう状況でも、こちらがあなたの本名を知る必要がない場合もあると申し上げるつもりでした――すべてはあなたが知りたがっている内容次第です。あなたの個人的問題は、私たちが知ることになっても、まるであなたが誰にも話したことがなかったのと同じくらいに安心できる状態です。私たちの仕事は信頼の上に築かれていますから、私たちが裏切ることは決してありません。裏切りませんよ。うちには勤続三十年以上の男女がいて、正当な理由がない限り誰も解雇しませんし、理由をつけてやめさせる必要がありそうな人間は採用しません。ピンカートンは人を見る目があるんです。ここには他にも自分たちもそうだと考える者がいます。私たちは毎年、全米各地で個別の依頼を一万件以上扱います。それに求められる範囲でしか依頼に取り組みません。顧客が求める事柄だけを見つけ出すよう努力します。不必要にひとさまの事情を詮索したりしません。私たちでは顧客が知りたがっていることを、見つけ出すことができないと判断すれば、その旨を真っ先にお伝えします。多くの依頼は、着手する前に、この事務所の時点で断られます。あなたの依頼もそういうものかもしれません。私たちは、単に依頼を得るためだけの依頼を求めてはいませんので。そのことを率直に申し上げておきます。私たちは公共政策に関わる問題や、ある種の小さな迫害のようなものには一切手出ししません――そういうものの当事者になるつもりはないからです。これで内容はおわかりいただけたでしょう。あなたは世間に通じた方だとお見受けしますし、私もそうありたいと思っています。うちのような組織が、誰かの信頼を裏切ると思いますか?」マーチンソンはいったん話をやめて、自分が今言ったことの確認を求めて、バトラーを見た。
「そうは思えません」バトラーは言った。「おっしゃるとおりです。ですが、あなただって自分の個人的事情を白日の下にさらすのは簡単ではないでしょう」老人は悲しげにつけ加えた。
双方、押し黙った。
「どうやら」バトラーは最後に言った。「あなたは信頼できそうだ。いろいろ助言していただきたい。もちろん、十分な代償を支払うつもりです。調べるのはあまり難しいことじゃありません。私の住んでいるところにいるある男が、ある女と付き合っているかどうかと、どこで会ってるかを知りたい。あなたならそういうことを簡単に調べられると思うのですが――いかがでしょう?」
「お安い御用ですな」マーチンソンは答えた。「そういうことは年中やっています。あなたが話しやすいように、お力になれるかちょっと確認させてください、スキャンロンさん。これはわかりきったことですが、あなただって必要以上のことは話したくはないでしょうし、私たちもどうしても必要なこと以外は話してもらいたくありません。もちろん、街の名前はうかがわねばなりません。それと男性か女性、いずれかの名前が必要です。そういうやり方で協力したくないというのであれば、両方である必要はありません。時には、片方の名前――たとえば男性の名前――それと女性の特徴――正確なのを――あるいは写真でもいただければ、しばらくしてから、あなたがお知りになりたいことを正確にお伝えできます。もちろん、完全な情報があれば、いつだってそれに越したことはありません。その辺はご自由に。多くても少なくてもいいですから、あなたの好きなように話してください。私たちがあなたのために最善を尽くすことと、後であなたが満足されることは保証いたします」
マーチンソンは和やかに微笑んだ。
「では、本題に入ります」バトラーはかなり気が引けたが、ついに思い切って言った。「あなたには率直に言いましょう。私の名前はスキャンロンではなく、バトラーです。フィラデルフィアに住んでいます。男はそこにいます。クーパーウッドという名前の銀行家です――フランク・A・クーパーウッド――」
「ちょっとお待ちください」マーチンソンはポケットから大きなメモ帳と鉛筆をひっぱり出しながら言った。「ひかえます。つづりは?」
バトラーは説明した。
「はい、続けてください」
「会社が三番街にあります――フランク・A・クーパーウッド商会――場所なら誰でも教えてくれますよ。最近そこで破産したばかりなんです」
「ああ、あの男ですか」マーチンソンが口を挟んだ。「聞いたことがある。そちらで何かの市の横領事件にかかわっているんでしたね。うちのフィラデルフィア支店に行かなかったのは、うちの地元の人間にこの件を知られたくなかったからですな。そうじゃありませんか?」
「それがその男でして、それが理由になります」バトラーは言った。「このことはフィラデルフィアで知られたくないんです。だから、ここにいるんです。この男の住まいはジラード・アベニュー――千九百三十七番地。これも現地に行けばわかります」
「わかりました」マーチンソンは了解した。
「まあ、私が知りたいのはこの男についてです――それとある女性、というか若い娘です」老人は口をつぐみ、アイリーンをこの件に巻き込まねばならないことに顔をしかめた。これについてはほとんど考えられなかった――それほどアイリーンのことが好きであり、彼はアイリーンをとても誇りに思ってきた。クーパーウッドに対する暗い悶々とした怒りがバトラーの心で燃えあがった。
「察するところ、お身内の方なのでは」マーチンソンは気を利かせて言った。「これ以上お話しする必要はありません――よろしければ特徴だけ教えてください。それを元に調べられるかもしれません」自分がここで相手にしているのは、その人なりの流儀で立派な老市民であり、さらにひどく悩んでもいる、とマーチンソンははっきり理解した。バトラーの深刻な思い詰めた表情がそれを物語った。「私には率直に話していただいていいんですよ、バトラーさん」マーチンソンはつけ加えた。「状況は理解しているつもりです。私たちはただ、あなたを助けるために必要な情報が欲しいだけであって、それ以上は何も求めてません」
「そうです」老人は不機嫌な顔で言った。「身内の者です。実は私の娘なんです。あなたは分別がおありの誠実なお方だとお見受けします。私はその娘の父親なんです。どんなことがあっても娘を傷つけるようなことはしたくありません。娘を救おうとしているんです。私は男の方に用があるんです」バトラーは突然大きな拳を力強く握りしめた。
二人の娘を持つマーチンソンはその示唆に富む動作を見守った。
「お気持ちはわかります、バトラーさん」マーチンソンは言った。「私も父親ですから。あなたのためにできることはすべて行います。お嬢さんの正確な特徴を教えていただくか、ご自宅か会社で私の部下のひとりに、もちろん偶然会わせていただくことができれば、二人が定期的に会っているかどうかをすぐにお知らせできると思います。知りたいのはそれだけですか?」
「それだけです」バトラーは厳かに言った。
「まあ、それなら時間はかかりませんよ、バトラーさん――運が良ければ三、四日――一週間か十日、まあ二週間もあればつかめるかもしれません。最初の数日で証拠がつかめない場合は、どれくらいの期間、相手を尾行してほしいかによりますね」
「どれだけ時間がかかろうとも知りたい」バトラーは苦々しく答えた。「突き止めるのに一か月でも二か月でも三か月かかってもいいから知りたい。知りたいんだ」と言いながら老人は立ち上がった。とても積極的で、とても荒ぶっていた。「分別のないもんは寄こさんでくださいよ――たっぷり備えた人を頼みます。もしいるんなら父親である人にしてほしい――そして口が固くて分別のある人をね――若いもんじゃなく」
「わかりました、バトラーさん」マーチンソンは答えた。「お任せください。うちにいる最高のメンバーを当てますから。信頼できる連中です。思慮深いですからね。その辺ところはお任せください。まずは一名単独でこの件を担当させましょう。気に入るかどうかを、あなたご自身が確認してください。その者には私からは何も伝えません。あなたがその者に話せばいいようにね。もしその者を気に入ればお話しください。後はその者がやりますから。その上で増援が必要なら増援を派遣します。ご自宅の住所は?」
バトラーは伝えた。
「それと、この件が口外されることはありませんね?」
「一切ありません――お約束します」
「それで、その人はいつ来るんですか?」
「お望みなら明日にでも。今夜派遣できる者もいますよ。今はここにいません、それとも、あなたと話をしてもらいましょうか。でも、その者には私から話をして、すべてをはっきりさせておきましょう。あなたは何も心配する必要はありません。彼の手にかかれば、お嬢さんの名誉は安心です」
「ご親切にありがとうございます」バトラーはとても慎重に、ほんの少しだけ和らいだ調子で言った。「すっかりお世話になりました。このご恩に対し、謝礼は存分にいたします」
「そのお気遣いは無用ですよ、バトラーさん」マーチンソンは答えた。「この会社は何事も通常料金で承っております」
マーチンソンはバトラーをドアまで案内し、老人は出て行った。バトラーはこれにひどく落ち込んでいた――情けなくて仕方がなかった。探偵に自分の娘のアイリーンの素行調査をやらせなくてはならないなんて!
第三十六章
その翌日、バトラーの事務所に、のっぽの異様に物々しい男が現れた。背が目立つほど高く、やせてぎすぎすしていて、髪と目は黒、肌は土色、顔は長くて革のようにカサカサで、鷹のようだった。男はバトラーと一時間以上話し込んでから帰った。男はその晩夕食の時間にバトラーの自宅にやってきて、バトラーの部屋に通され、策を弄してアイリーンをひと目見た。バトラーはアイリーンを呼び寄せると、彼女がよく見えるように入口から離れて片側に立った。探偵は、冬に備えてすでに掛けられた厚手のカーテンの陰に立ち、通りを眺めているふりをしていた。
「今朝、誰かシシーに乗ったか?」バトラーは家族のお気に入りの馬のことをアイリーンに尋ねた。バトラーの計画では探偵が姿を見られた場合、馬の売買にやって来た馬主という印象を与えることになっていた。探偵の名前はジョナス・アルダーソンといい、いかにも馬の商人という風貌だった。
「さあ、乗ってないと思うわ、お父さん」アイリーンは答えた。「あたしは乗ってません。確かめてみるわ」
「いや、いいよ。明日お前が乗るか、知りたかったんだ」
「いいえ、お父さんか使うなら乗らないわ。あたしはジェリーでもいいから」
「よし、それじゃ、厩舎に入れといてくれ」バトラーは静かにドアを閉めた。アイリーンはすぐに馬の商談だと判断した。あたしのお気に入りの馬をあたしに相談もせずに父が処分することはないとわかっていたから、アイリーンはこれについてそれ以上考えなかった。
アイリーンが行ってしまうとアルダーソンは陰から出て来て、これで大丈夫ですと明言した。「知りたいことはみんなわかりました。何かわかれば数日中にお知らせします」
アルダーソンは帰った。三十六時間のうちにクーパーウッドの自宅と事務所、バトラーの家、クーパーウッドの弁護士ハーパー・シュテーガーの事務所、クーパーウッドとアイリーン、がそれぞれ個別に完全な監視下に置かれた。最初は六人でやっていたが、南六番街にある二番目の密会場所が発見されると最終的に七人になった。探偵は全員、ニューヨークから来ていた。一週間ですべてがアルダーソンの知るところとなった。アイリーンとクーパーウッドが何かそれらしい待ち合わせをしているのを発見した場合、バトラーが望めばアイリーンが現場にいるうちにバトラーが駆けつけてアイリーンと直接対面できるように知らせを受けることが、アルダーソンとバトラーの間で合意されていた。バトラーにはクーパーウッドを殺すつもりはなかった――アルダーソンは少なくとも自分の前ではバトラーがそうしないように目を光らせただろう。だが、厳しく叱責して、おそらくは相手を床に倒し、アイリーンを連れ出すことくらいはするつもりだ。アイリーンは、クーパーウッドと付き合っているか、いないか、でもう嘘をつけないし、今後、どうする、どうしない、を言えなくなるだろう。バトラーは頭ごなしに命じるつもりだった。アイリーンが更生するか、さもなければバトラーが彼女を更生施設へ送るかだ。妹、あるいは他の善良な子女への影響を考えるがいい――アイリーンが知ったことを知り、やっていることをやりでもしたら! アイリーンはこの後ヨーロッパか、あるいはバトラーが送ると決めたところへ行くことになるのだ。
自分の行動計画を立てるにあたって、バトラーはアルダーソンを信じて打ち明ける必要があった。すると探偵は、クーパーウッドの身柄は守る、と自分の決意を明確にした。
「殴るとか暴力を振るうとかは一切許しませんよ」この件について最初に話したときに、アルダーソンはバトラーに言った。「それは規則に反しますから。どうしてもというなら、捜索令状があれば立ち入れます。私なら、あなたがこの件に関与していることを誰にも知られずにそれを入手できますよ。ニューヨークから女の子を探すためだと言えばいいんですから。でも、あなたは私の部下と一緒に入らなければなりません。どんなトラブルも部下たちが許しませんがね。あなたは無事にお嬢さんを取り戻せますよ――我々が連れ出しますから。何でしたら相手の男もです。でももし我々がやるとなると、あなたが何かで相手を訴えなくてはなりません。そのときに近所の人に見られる危険があります。このやり方だと、あなたが野次馬を集めないという保証は必ずしもできません」バトラーはこの問題にかなり不安をかかえていた。これは人目を引くという大きな危険をはらんでいた。それでもバトラーは知りたかった。できることならアイリーンを怖がらせたかった――劇的に改心させたかった。
一週間もしないうちにアルダーソンは、アイリーンとクーパーウッドが、一見個人の住居のようだが、決してそうではないところを訪れていることをつかんだ。南六番街にあるこの家はあくまでも密会用のものだった。しかし、ここはそれなりにその種の平均的な施設よりも上等だった。赤いレンガ造りで、白い石に縁取られた四階建てのこの家は、十八ほどあるすべての部屋に、派手だがきれいに家具が備え付けられていた。ここの常連客は極めて排他的で、女主人の知り合いか、人づてに紹介された者しか入れなかった。これが、この世界の不義の情事が求めてやまないプライバシーを保証した。連れのどちらかが知られていれば「予約してある」と告げるだけで個室に案内された。クーパーウッドは以前の経験からこの場所を知っていて、北十番街の家を手放す必要が生じたときに、ここで会おうとアイリーンには指示してあった。
この特性を聞いたアルダーソンがバトラーに伝えたように、こういう場所に入って誰かを見つけようとするのは極めて困難だった。これには捜査権が絡み、しかも取得は困難だった。行われている業務が地域社会の倫理観に反している多くの場合は、力ずくで入るのが手っ取り早いが、時には居住者側からの猛反発に遭うことがある。この件はそれかもしれない。そういう反発を避ける唯一の確実な手段は、その場所を経営する女主人に打ち明けて味方につけ、十分な報酬を払っておとなしくさせることだった。「しかし今回はそれをお勧めしません」アルダーソンはバトラーに言った。「この女はあなたがお探しの男に特に好意的だと思うからです。危険でも奇襲をかける方がいいかもしれない」アルダーソンは説明した。それを行うためには、リーダーの他に少なくとも三名――おそらく四名――の人員が必要になる。呼び鈴に反応してドアが開いて一名が玄関内に突入できたら、他の者がすぐに現れて一緒に入り、リーダーを支援する。次に必要なのは迅速な探索――すみやかにすべてのドアを開ける。もし使用人がいたら、何らかの方法で制圧して黙らせなければならない。お金で解決するときもあれば、力ずくでやり遂げるときもある。次は、使用人に扮した探偵の一人が、ドアを一つ一つ静かに叩く――バトラーと他の者は待機している――顔が現れたら状況に応じて確認するかしないかを判断する。ドアが開かず、空室でない場合は、最終的に強行突入もありえた。この家は連棟式住宅の一棟で、正面と裏口以外に逃げ道はなく、ドアは厳重に守られているはずだった。これは大胆に練られた計画で、これだけのことをするにも関わらず、アイリーンを連れ出す件は秘密が守られねばならない。
バトラーはこれを聞いたとき、この恐ろしい手続き全体に不安を覚えた。この家には行かないで、お父さんは知っているんだ、お前は否定できないぞと言い切って、ただ娘と話すだけにしようと一度は考えた。その上で、ヨーロッパへ行くか更生施設へ行くかを選択させるのだ。しかしアイリーンの気質の生々しい獣の性質と、自分自身の本質的に粗野な一面を感じたことが、最終的に彼にこの別のやり方を選ばせた。バトラーはアルダーソンに、計画を完成させて、アイリーンかクーパーウッドがその家に入るのを見かけたら、すぐに知らせるよう命じた。そのときが来れば自ら現地に乗りつけて、探偵たちの助けを借りてアイリーンと対峙するつもりだった。
愛情の観点から見ても、バトラーが持っていたかもしれない矯正理論から見ても、これは愚かな企てであり、残酷な行為だった。暴力からいいことは生まれない。しかしバトラーにはそれがわからなかった。バトラーはアイリーンを脅し、ショック療法で彼女が犯している罪の重大さをわからせたかったのだ。決定が下されてから丸一週間待った。すると、ある日の午後、やきもきして神経がすり減った頃に山場が訪れた。クーパーウッドはすでに起訴され、今は裁判を待っているところだった。アイリーンは、父親がクーパーウッドをどう思っているかについての自分の考えを、時々クーパーウッドに伝えていた。もちろん、アイリーンはこの証言をバトラーから直接得たわけではなかった――バトラーはアイリーンに対して過剰に秘密主義だったので、自分がどれほど容赦なくクーパーウッドの最終的な破滅を企てていたかをアイリーンに知らせることはなかった――オーエンに打ち明けられた話の断片からつかんだのだ。オーエンがそれをカラムに打ち明け、それをカラムが順送りで何の気なしにアイリーンに打ち明けた。まず、アイリーンはこうして新たに選ばれた地方検事――その検事がとりそうな態度――の情報をつかんだ。その人物はバトラーの自宅や事務所によく来る人だった。シャノンはクーパーウッドを〝ぶち込む〟ために全力を尽くすつもりでいる――つまり、おやじは奴がそれだけの刑を受けるに値すると考えているんだと僕は思うね、とオーエンはカラムに言った。
次にアイリーンは、父親がクーパーウッドの事業再開を望んでいないこと――許されていいとは感じていないこと――をつかんだ。ある朝バトラーは、クーパーウッドの法廷闘争に関する新聞記事を見て「この街からあいつがいなくなれば、それこそ神の恵みってやつだな」とオーエンに言った。するとオーエンはカラムに、どうしておやじはこんなに辛辣なんだろうと尋ねた。二人の息子にはそれが理解できなかった。クーパーウッドはこういうことのすべてをアイリーンから聞いた。それ以上のことも――自分を裁くことになるペイダーソン判事についての断片的情報、彼がバトラーの友人であること――それからステナーは彼の刑期をまっとうするために刑務所に送られるかもしれないが、後ですぐに赦免されるであろうことも聞いた。
どうもクーパーウッドはあまり怖がってはいないようだった。有罪になっても自分には知事に赦免を働きかける有力な金融界の友人がいるし、いずれにせよ、自分を有罪にするだけの証拠はないと思う、とアイリーンに告げた。彼は世論の叫びとアイリーンの父親の影響力のせいで、政治的なスケープゴートにされたに過ぎなかったし、バトラーが二人に関する手紙を受け取ってからは、バトラーの敵意の犠牲者になっただけで、それ以外の何物でもなかった。「きみのお父さんさえいなかったら」クーパーウッドは言った。「こんな起訴はすぐに取り消せたんだ。モレンハウワーもシンプソンも、私に個人な恨みはないからね、絶対に。彼らは私にフィラデルフィアの路面鉄道事業から手を引かせたがっている。もちろん最初はステナーの状況をもっと良く見せたかったんだろう。でも、それにしても、きみのお父さんが敵対さえしなかったら彼らだってここまで私を犠牲者に仕立てはしなかっただろう。きみのお父さんは、このシャノンって奴や小物の政治家を自分が必要としている場所に配置してもいるんだ。そこに問題があるんだよ。彼らだって仕事は続けていかなきゃならないわけだしね」
「ええ、わかってるわ」アイリーンは答えた。「あたしのせいよ、みんな、あたしのせいだわ。もしあたしのことと、父の疑念がなかったら、父はすぐにあなたを助けたでしょうね。あのね、時々、あたし思うんだけど、あたしってずっとあなたに迷惑かけっぱなしよね。どうしたらいいかわかんないわ。もしあなたのためになるんなら、あたししばらくあなたに会わないようにするけど、でも今さらそれが何の役に立つのかわからないわ。ああ、愛してるわ。あたし、あなたのことを愛してるのよ、フランク! あたし、あなたのためなら何だってする。世間が何を考え、何を言おうが気にしないわ。あたし、あなたを愛してるもの」
「まあ、そう思ってるだけだよ」クーパーウッドは冗談めかして答えた。「じきに乗り越えるさ。人は他にもいるからね」
「他の人なんて!」アイリーンは憤慨と軽蔑をあらわにして繰り返した。「あなたのあとには誰もいないわよ。あたしがほしいのはただ一人、あたしのフランクよ。あなたがあたしを捨てたら、あたしは地獄に行ってやる。見てらっしゃい」
「そんなことを言うもんじゃない、アイリーン」クーパーウッドはイライラして答えた。「きみの口からそんな言葉は聞きたくないな。きみはそんなことしやしないよ。私だって愛してるさ。私がきみを捨てたりしないってことはわかってるだろう。今となっては、きみの方こそ私を捨てた方が報われるよ」
「まあ、何てこと言うの!」アイリーンは叫んだ。「あなたを捨てるだなんて! そんなことってある? でも、あなたがあたしを捨てたら、あたしはさっき言ったとおりにするわ。誓います」
「そんなこと言うもんじゃない。馬鹿なこと言うなよ」
「誓うわ。愛にかけて誓います。あなたの成功にかけて誓います――それがあたし自身の幸せだから。あたしはただ言ったとおりのことを実行するだけよ。地獄にだって行くわ」
クーパーウッドは起き上がった。自分が呼び起こしてしまったこの根深い情熱が今になって少し怖くなった。これは危険だな。どこへ向かうかわからないぞ。
十一月の陰気な午後、張り込み中の探偵からアイリーンとクーパーウッドが南六番街の家にいると手筈どおりに報告を受けたアルダーソンは、バトラーの事務所に急行しバトラーに同行を促した。しかしこの期に及んでもバトラーは、そんなところで自分の娘を見つけることになることが信じられなかった。そのことが恥ずかしくて、恐ろしかった。娘に何て言えばいいんだ? どう叱ればいいんだ? クーパーウッドのことはどうしよう? 考える間、バトラーの大きな手は震えた。二人は急いで目的地まで二、三軒のところに乗りつけた。そこへ通りの向こう側で見張っていた二人目の探偵が近づいた。バトラーとアルダーソンは乗り物から降りて一緒にドアに近づいた。時刻は間もなく午後四時半。家の一室では、上着とベストを脱いだクーパーウッドがアイリーンの悩みを聞いていた。
そのとき二人が座っていた部屋は、当時広く普及した、割と平凡な贅沢という概念の特徴をよく表していた。家具会社によって一般市場に売り出された家具の〝セット売り〟のほとんどは、少しでも豪華さの正しい概念に近づけると、ルイ時代の模倣になった。カーテンは常に重厚で、錦織りであることが多く、赤いことも珍しくない。絨毯には鮮やかな色彩で花が豊かに描かれ、厚みがあり、ビロードのような毛羽立ちだった。どんな木材で作られようが家具はほぼ例外なく重く、花柄で、使い勝手が悪かった。この部屋には、ウォールナット材で重厚に作られたベッドと、それに合わせた洗面台と書き物机と衣装箪笥があった。洗面台の上には金縁の大きな四角い鏡が掛けられ、壁には風景や数名の裸体を扱った出来の悪い版画が、金縁の額に収まってかかっている。金箔で縁取られた椅子は、ピンクと白の花柄のブロケードが張られ、磨かれた真鍮の鋲で留められていた。絨毯は厚手のブリュッセル産で、色は淡いクリームとピンク、装飾として花と大きな青い植木鉢が織り込まれていた。全体的な印象は、明るく豪華で少し古風だった。
「あたし、時々、怖くてたまらなくなるのよ」アイリーンは言った。「父があたしたちを見張ってるかもしれないでしょ。もし父があたしたちを見つけたらどうしようって悩んでばかりいるわ。これを嘘で誤魔化すことはできないでしょ?」
「確かにできないね」アイリーンの魅力の誘いに決して反応し損うことがないクーパーウッドは言った。こんなにも美しく滑らかな腕、豊かな優雅に先細りしている喉と首、頭のまわりで後光のように揺れる赤みを帯びたブロンド、キラキラ光る大きな目をしているのだ。あふれんばかりの女性らしさのすばらしい活力がアイリーンにはあった――気まぐれで、片寄りがあり、夢見がちだが、とても繊細だった。「でもそのときが来るまで、橋は渡らない方がいいんだ」クーパーウッドは続けた。「私自身も、しばらくこういうことをやらない方がいいと考えてはいたんだ。あんな手紙が来るくらいだから私たちは当分行動をひかえるべきだったね」
クーパーウッドは、アイリーンが立って髪を整えている化粧台に近づいた。
「きみはとてもかわいいお転婆娘だね」と言って、アイリーンを抱き寄せてかわいい口にキスをし、「楽園のこちら側には、きみ以上にすてきな人はいないよ」と耳元でささやいた。
これが繰り広げられている一方で、バトラーともう一人の探偵は家の玄関の片側の見えないところに移動、その間に先頭に立つアルダーソンが呼び鈴を鳴らした。黒人の使用人が現れた。
「デイビス夫人はいるかな?」アルダーソンは管理人の女性の名前を出して穏やかに尋ねた。「会いたいんだ」
「どうぞ」メイドは疑いもせずに言って、右側の応接室にうながした。アルダーソンは柔らかい鍔広の帽子を脱いで中に入った。メイドが二階に上がると、直ちに玄関に戻ってバトラーと二人の探偵を招き入れた。四人は誰にも見られずに応接室に入った。しばらくして、最近の言葉でこの種の女性のことを表す〝マダム〟が現れた。背が高くて、色白で、無骨でも、見た目は全然不快な感じがせず、明るい青い目をして、愛想よく微笑んでいた。幼少期に警察と接触した期間が長かったことと性的虐待が、彼女を用心深い女にしてしまい、世間は自分をどう利用するつもりなのかと少し恐れていた。この独特な生計の立て方は違法であったし、他に自分のために使える実用的な知識がなかった彼女は、どんな職業にもいる苦労している商売人と同じくらいに、警察や世間一般と平和にやっていくことを願っていた。身につけているのは、ゆったりとした青い花柄のネグリジェだか化粧着、前がはだけて、青いリボンで結ばれ、その下の高価な下着が少し見える。大きなオパールの指輪が左手の中指を飾り、鮮やかな青いトルコ石が耳からぶらさがり、青銅のバックルのついた黄色いシルクのスリッパを履いている。全体的に見ると、この女の外観は、金の花柄の壁紙や、青とクリーム色のブリュッセルの絨毯や、横たわる裸婦の重厚な金縁の彫刻画や、床から天井まである金枠の窓間鏡で構成されたこの応接室そのものの特徴にそぐわないものではなかった。言うまでもないが、バトラーは、自分の娘もその破壊的な影響が及ぶ範囲に巻き込むと思われる、この扇情的な雰囲気に心底ショックを受けた。
アルダーソンが探偵の一人に、その女性の背後に回れ――つまり女性とドアの間に割り込め――と合図すると、男が動いた。
「お騒がせしてすいませんね、デイビスさん」アルダーソンは言った。「我々はこの家にいる二人連れを探してるんだ。家出娘を追ってましてね。別に騒ぎを起こしたいんじゃない――ただその娘を捕まえて連れて行きたいだけだ」デイビス夫人は青ざめて口を開けた。「だから、騒いだり叫んだりしないことだ、さもないと我々がやめさせなきゃならなくなるからね。この家はうちの者が完全に取り囲んでいる。誰も抜け出せんよ。あなた、クーパーウッドって名前の人を知ってますか?」
ある意味では幸いなことに、デイビス夫人はとりわけ神経質でも争いを好むタイプでもなく、割と達観していた。このフィラデルフィアでは警察と連絡をとっていないので、摘発されるかもしれない。叫んだところで何の役に立つだろう? と考えた。ここは包囲されている。今この家にはクーパーウッドとアイリーンを救える者は誰もいない。デイビス夫人はクーパーウッドの名前もアイリーンの名前も知らなかった。夫人にとって二人はモンタギュー夫妻なのだ。
「そんな名前の人は知らないね」デイビス夫人は緊張して答えた。
「ここに赤毛の娘は来てませんか?」アルダーソンの部下の一人が尋ねた。「それと、グレイのスーツを着た明るい茶色の口髭の男は? 二人は三十分前にここに入ったんですよ。覚えてるでしょ?」
「この家に二人連れは一組しかいないよ。でも、それがあんたたちのお目当ての人かどうかは知らないね。何なら降りて来るように頼んできますよ。騒ぎは御免だからね。ああ、おっかない」
「こっちは騒ぎを起こす気はない」アルダーソンは答えた。「そっちが起こさなきゃね。ただ静かにしててくれればいい。こっちは娘に会って連れ出したいだけだ。でも、あなたはここにいてくれ。二人はどの部屋にいるだい?」
「二階の奥の二つ目の部屋さ。私を行かせないつもりかい? 行かせた方がずっといいって。ただノックして、出てきてと頼むだけだからさ」
「いや、それはこっちでやる。あなたはここにいてくれ。あなたは面倒に巻き込まれなくったっていいだろう。ここにいてくれるだけでいい」アルダーソンは突っぱねた。
アルダーソンはバトラーに合図した。しかしバトラーはこの恐ろしい仕事に乗り出した今になって、自分は間違えたと考えていた。クーパーウッドを殺す気がないのなら、無理やり押し入って娘を連れ出したところで、それが何の役に立つんだ? 娘をここに来させれば、それで十分だ。その時点で娘は、父がすべてを知っていることを知るのだから。とにかく人前でクーパーウッドと喧嘩したくはない、と今ようやく決心がついた。バトラーは怖かった。自分で自分のことが怖かったのだ。
「その女を行かせよう」バトラーは頑なにデイビス夫人にこだわって断固たる態度で言った。「しかし見張るがな。降りて私のところに来るように女の子に言うんだ」
デイビス夫人は瞬時に、これは家族の悲劇なんだと理解し、悩みながらも、娘が無事そこから抜け出せることを願い、直ちにアルダーソンと彼のすぐ後ろにぴったりついている部下たちと一緒に二階に上がった。クーパーウッドとアイリーンがいる部屋のドアにたどり着くと、デイビス夫人は軽くノックした。この時アイリーンとクーパーウッドは大きな肘掛椅子に座っていた。最初のノックでアイリーンは顔色を失い、跳び上がるように立ち上った。いつもなら緊張しないのに、この日はなぜか胸騒ぎがした。クーパーウッドの目がたちまち険しくなった。
「神経質になることはない」クーパーウッドは言った。「きっと使用人だ。私が行く」
クーパーウッドは行きかけたがアイリーンがとめて「待って」と言った。多少安心したのか、アイリーンはクローゼットへ行って、部屋着を取り出し、それを羽織った。その間に、またノックがあった。それからアイリーンはドアのところへ行ってほんの少しだけ開けた。
「モンタギューさん」デイビス夫人は明らかに緊張している無理に作った声を上げた。 「あなたに会いたいという男性が下にいらしてます」
「あたしに会いたい男性ですって!」アイリーンは驚いて真っ青になって叫んだ。「本当なの?」
「はい、あなたに会いたいとのことです。他にもお連れの方が数名います。多分、お身内の方だと思います」
クーパーウッドと同じようにアイリーンは、ほぼ疑いの余地なく起こっていたことを瞬時に理解した。バトラーかクーパーウッド夫人が、あたしたちを尾行していたのだ――おそらく、うちの父だ。このときクーパーウッドは、自分ではなくアイリーンを守るために何をすべきかを考えた。こんなときでさえ彼は自分自身のことを決して深く心配しなかった。彼は騎士道精神が旺盛だから、どんな女性のことにも怖気づくことをよしとしなかった。バトラーが自分を殺したいと思っている可能性がないわけではなかったが、そんなことでクーパーウッドは動じなかった。現に彼はこの考えにまったく注意を払わなかったし、武器を持っていなかった。
「私が服を着て降りるよ」アイリーンの青ざめた顔を見てクーパーウッドは言った。「きみはここにいなさい。とにかく心配するな――私がここからきみを救い出すから――さあ、心配するのはおよし。これは私の問題なんだ。私がこれにきみを巻き込んだんだから、私がそこから救い出すよ」クーパーウッドは帽子とコートを取りに行き、その間に付け足した。「きみは先に着替えてて、でも、私を先に行かせるんだ」
ドアが閉まるとすぐにアイリーンはてきぱきと緊張した様子で服を着始めた。アイリーンの頭脳は高速で動く機械のように活動していた。相手は本当にあたしの父親かしら、と考えていた。もしかしたら違うかもしれない。別のモンタギュー夫人が――本物が、いるなんてことがありえるかしら? 仮にこれが父親だとしたら――父は家族には告げず、今まであたしの秘密を守ってくれて、とても親身になってくれていたのに。父はあたしのことを愛している――アイリーンはこれを知っていた。こういうとき、その子が愛され、大事にされ、甘やかされてきたか、そうではなかったかで、子供の態度に大きな差が生じる。アイリーンは愛され、大事にされ、甘やかされてきた。父親が自分や他の誰かに暴力的なことをするなんてことは考えられなかった。でも、父親と向き合うのは――父親の目を見つめるのは、かなり大変なことだ。父親を正確に思い出すと、動揺しながらも機転が効いて、どうすればいいかを教えてくれた。
「駄目よ、フランク」アイリーンは興奮気味にささやいた。「もし父ならあたしを行かせた方がいいわ。父との話し方なら、あたし、知ってるから。父はあたしには何も言わないわ。あなたはここにいて。あたし、怖くなんかないわ――本当よ、怖いもんですか。あなたに用があれば、こっちから呼ぶわ」
クーパーウッドは近づいてアイリーンのかわいい顎に両手を添えて、真剣に目をのぞき込んだ。
「怖がってはいけないよ」クーパーウッドは言った。「私が行く。もし相手がお父さんなら、きみは一緒に帰ればいい。あの人がきみや私に何かをするとは思わない。もしお父さんだったら、事務所の方に手紙をくれ。私はそっちにいる。私がきみの助けになるなら、何なりとするよ。私たちなら何とかできるさ。こればかりは説明しようとしても無駄だ。何も言わなくていい」
クーパーウッドは上着とコートを着て、手に帽子を持って立っていた。アイリーンはほぼ支度が済み、背中で服を留める赤スグリ色のボタンの列で手こずっていた。クーパーウッドは手伝った。アイリーンの支度が、帽子から手袋まですべて整うとクーパーウッドは言った。
「やはり私を先に行かせてくれ。様子を見たい」
「駄目よ、お願いだから、フランク」アイリーンは果敢に食い下がった。「あたしにまかせて、どうせ父だから。他に誰がいるのよ?」アイリーンは一瞬、父が二人の兄を連れてきたのかと訝ったが、今はそう思わなかった。自分の父親ならそんなことはしないのを知っていたからだ。「あなたはあたしが呼んだら、来ればいいのよ」アイリーンは続けた。「どうせ何も起こらないわよ。父のことはわかってるんだから。父はあたしには何もしないわ。あなたが行けば、父を怒らすだけよ。あたしに行かせて。あなたはこのドアのところにいて。あたしが呼ばなければ、大丈夫ってことよ。いい?」
アイリーンは二つのかわいい手を彼の肩に置いた。クーパーウッドはこの問題を慎重に検討した。「わかったよ、でも階段の下までは一緒に行く」
二人はドアのところへ行って、クーパーウッドがドアを開けた。外にはアルダーソンと他に探偵が二人いて、デイビス夫人が五フィートくらい離れたところに立っていた。
「それで」クーパーウッドはアルダーソンを見ながら命じるように言った。
「こちらのご婦人に会いたがっている紳士が下にいるんだ」アルダーソンが言った。「彼女の父親だと思うよ」静かにつけ加えた。
クーパーウッドはアイリーンに道を譲った。アイリーンは、男たちの前でこうしてさらし者にされたことに憤慨して通り過ぎた。アイリーンの勇気は完全に回復していた。今は、父親が自分を人前で見世物にしようとしたと思って腹立たしかった。クーパーウッドは後を追い始めた。
「あなたはすぐに降りない方がいいと思うがな」アルダーソンは賢しげに警告した。「相手は娘の親父さんだ。あの娘、バトラーっていうんだろ? 向こうはあなたを娘ほどには歓迎してないぞ」
それでもクーパーウッドは聞き耳を立てながら、階段の降り口に向かってゆっくりと歩いた。
「なんでまたこんなところに来たのよ、お父さん?」アイリーンの尋ねる声が聞こえた。
バトラーの返事は聞こえなかったが、もう気が楽だった。バトラーがどれほど娘を愛しているかを知っていたからだ。
父親と対峙したアイリーンは今、反抗的にじっと見つめて非難の表情を見せようとしていたが、ぼさぼさの眉毛の下にあるバトラーの深い灰色の目は、怒りと反抗のさなかにいるアイリーンでさえもあからさまにひけらかすことができないほどの、疲労と絶望の重さを露呈した。これはあまりにも悲しすぎた。
「まさかこんなところでお前を見つけるとは思わなかったよ」バトラーは言った。「お前はもっと自分のことを大切に考えると思ってたんだがな」声が詰まり、バトラーは話をやめた。
「誰と一緒にいるのかもわかってるんだぞ」バトラーは悲しそうに首を振りながら話を続けた。「あの犬め! いまにやっつけてやる! 私は人を使ってお前を見張ってたんだ。ああ、今日はいいを恥かいた! 今日は屈辱の日だ! さあ、お前は私と一緒にうちに帰るんだ」
「お父さん、そのことなんだけど」アイリーンは始めた。「人を使ってあたしを見張ってたですって。考えるべきだったわ――」見たことがないような、苦悶に満ちた、それでいて威圧的な態度で父親が手をあげたので、アイリーンは話すのをやめた。
「そんなことはいい! そんなことはいいんだ!」見たことがない悲しそうな灰色の眉の下から苦々しくにらみつけてバトラーは言った。「我慢できん! これ以上、お父さんを怒らせないでくれ! 私たちはこの状況をまだ抜け出せずにいる。奴もだ! さあ、お前はお父さんと一緒にうちに帰るぞ」
アイリーンは理解した。父が言っているのはクーパーウッドのことだ。このことはアイリーンを怖がらせた。
「準備ならできてるわ」アイリーンは緊張して答えた。
老人は胸が張り裂ける思いで先にたった。この時の苦しみは一生忘れることはないだろうと感じて。
第三十七章
バトラーは憤慨し、できればこの資本家を散々な目に遭わせてやると決めたにもかかわらず、自分が二十四時間前と同じ人間であることが到底信じられないほど、アイリーンの態度にひどく動揺して衝撃を受けていた。アイリーンは悪びれた様子もなく反抗的だった。自分の罪の重さと向き合えば、娘は完全に弱気になると彼は期待していたのだ。ところが、絶望したことに、いったん無事にあの家を出た後で、自分が娘の中に自分のものとは比較にならないほどの闘志を呼び覚ましてしまったことに気がついた。アイリーンにもバトラー自身やオーエンの気概が多少はあったのだ。アイリーンは――バトラーのものではない――小型馬車の中で父親の横に座っていた。バトラーはそれに乗って娘を自宅へ連れ帰るところだった。さまざまな考えが波が打ち寄せるように襲いかかるたびに、アイリーンの顔は赤くなったり青くなったりを繰り返し、父がこうも明らかに自分を罠にかけた今となっては、一歩も譲らず、クーパーウッドと自分の愛と自分の全体的な立場をはっきりさせようと決心した。今さら父親が何を考えようと、どうでもいいことじゃない、とアイリーンは自問した。これは自分の問題だ。あたしはクーパーウッドを愛している。あたしは父親の目からすればいつまでたっても恥さらしでしかないのだ。今後これはどう変わるのかしら? 父は親心とはいえ親馬鹿に陥り、このあたしを監視し、他の男たち――見知らぬ人、探偵、クーパーウッド――の前でさらし者にした。この先、あたしは父にどんな真の愛情を抱けるかしら? アイリーンからすれば、父親は過ちを犯たのだ。父は愚かで卑劣なことをしてくれた。これはあたしの行為がどんなにひどかったとしても正当化できるものではない。こんなやり方であたしのところに押しかけて、他の男たち――あの下品な探偵たち――の前で、あたしの魂からベールをはぎ取って、何をやり遂げたかったのかしら? ああ、寝室から応接室まで歩いたときのあの苦痛ときたら! こればかりは父を絶対に許さない――絶対に、絶対に、絶対に許すもんですか! 父は今、父に対するあたしの愛を殺したのよ――これがアイリーンの心情だった。これから二人の間で激しい闘いが始まるのだ。道すがら――いっときの完全な沈黙の中――アイリーンの両手は反抗的に握ったり開いたりし、爪は手のひらを切り、口は硬く閉じていた。
がむしゃらな抵抗がこの先この世界で何か価値のあるものを生むかどうかは誰にもわからない。それは、この人間世界の仕組みに深く根付いているように思えるので、とかくまかり通っているように見える。おそらく、この人生という見世物はそれに負うところがあり、これが科学的に証明される可能性はかなり高いだろう。しかし、そう言われて証明されたからといって、それにどんな価値があるのだろう? その見世物にはどんな価値があるのだろう? そして、アイリーンと父親の間で演じられたこういうシーンにはどんな価値があるのだろう?
移動中のこの老人には、どう決着がつくのかわからない二人の間の厳しい争い以外、何も見えなかった。私がこの娘にできることは何なんだ? 私たちはせっかくこの恐ろしい惨事から遠ざかっているというのに、娘は一言も口を効いてくれない! 娘ときたら、どうしてこんなところに来たのよ、と尋ねさえしたのだ! 娘を罠にかける行為そのものが失敗したとなると、どうやって娘を従わせればいいだろう? 策略は物理的には大成功を収めたが、精神的には完敗だった。自宅につくとアイリーンは降りた。この老人は、このときすっかり困惑してこれ以上先に進みたくなかったので、馬車で事務所に戻った。それから外に出て歩いた――彼にとっては珍しいことだった。こういうことを――歩きながら考えることを――何年もしてなかったからだ。開いているカトリックの教会まで来ると、中に入って啓示を求めて祈った。室内の薄暗さ、聖櫃の前でぽつんと灯る聖体灯、ロウソクのそなえられた高く白い祭壇が、荒ぶる気持ちを和らげてくれた。
しばらくして教会を出ると自宅に戻った。アイリーンは夕食の席に現れず、バトラーは食事が喉を通らなかった。自分の部屋にこもってドアを閉め――考えて考えて考え抜いた。あのいかがわしい家にいたアイリーンの恐ろしい光景が頭の中で燃えあがった。クーパーウッドが娘をあんなところに連れ込んだのだ――私のアイリーンを、私と妻のかわいい娘を。私が祈ろうが、迷っていようが、娘が反対しようが、状況が不可解だろうが、娘はここから抜け出さなければならない。しばらく遠くへ行き、あの男との関係を断たねばならない。そのときになれば法があの男にしかるべき処置を下すはずだ。どのみち、クーパーウッドは刑務所へ行くことになるだろう――行って当然の人物がいるとすればあいつだからな。打ち残した手がないか確かめよう。必要なら、個人的な問題ということにしよう。やらなければならないのは、私がこれを望んでいることを法曹界に周知させることだ。陪審員を買収することはできない。それだと犯罪になってしまう。しかしこの事件が正式に全力で法廷で争われるように手配することはできる。もしクーパーウッドが有罪になれば、神に助けを求めるしかない。金融界のあいつの友人の嘆願がやつを救うことはない。下級裁判所と上級裁判所の判事たちは、どちらが自分の利益になるかを知っている。彼らはその時々の最高権力者に有利になるよう無理な解釈でもするだろうし、私なら確実にそれに影響を及ぼすことができる。一方、アイリーンは自分の立場の奇妙さを考えていた。二人とも帰り道は無言だったが、アイリーンは父親との対話が迫りつつあることを知っていた。話し合いは必然だった。父はあたしをどこかに行かせたがるだろう。きっと、何らかの形でヨーロッパ旅行を蒸し返すだろう――このときアイリーンは、モレンハウワー夫人の招待を策略だと疑っていた。あたしは自分が行くかどうかを決めなくてはならない。クーパーウッドが裁判にかけられようとしているそのときに、あたしは彼を置き去りにしようというの? アイリーンは行かないことに決めた。彼がどうなるかを見届けたい。まずは家を出よう――誰か親戚か友人、何なら知らない人のところでもいいから駆け込んで、かくまってもらうのだ。多少のお金はある――少しだけど。父はいつもあたしのことになるととても気前がよかったからだ。着るものを少し持って行方をくらませればいい。しばらく家を出れば、喜んで迎えをよこすだろう。母は半狂乱、ノラとカラムとオーエンは驚きと心配で我を忘れ、父は――ああ、目に浮かぶわ。もしかしたら、これで父は正気に戻るかもしれない。感情の起伏が激しくても、アイリーンは自分がこの家の誇りであり、関心の的であることを知っていた。
六番街の家でひどいさらし者にされた数日後に、父親が部屋へ来るように呼びつけたとき、アイリーンの考えが進んでいたのがこの方向だった。バトラーはアイリーンと密かに話をしたかったから、娘が家にいるのを期待して、午後早々に事務所から帰宅してみると、運良くアイリーンは家にいた。アイリーンはこの数日、外出したい気分ではなかった――これから起こるもめ事が気になって仕方がなかった。探偵がいるにもかかわらず、明日の午後ウィスコンシンで会いたい、とクーパーウッドに手紙を書いたばかりだった。どうしても彼に会わなければならない。父は何もしなかった、と伝えはしたが、何かをしようとするだろうという確信があったからだ。そのことでクーパーウッドと話がしたかった。
「お父さんはな、お前のことと、この問題をどうすべきかをずっと考えてたんだ、アイリーン」二人っきりで自宅の〝仕事部屋〟にこもったとたんに、父親は何の前置きもなく話し始めた。「もし破滅の道を歩む人がいるとするなら、まさにお前がそれなんだ。お前の不滅の魂のことを考えると、お父さんは震えてしまうよ。手遅れになる前に、お父さんは何かお前のためになることをしたいんだ。このひと月以上お父さんはずっと自分を責めてきたんだ。考えたよ、ひょっとして、お父さんが何かをしてしまったのか、それとも、お父さんかお母さんが、し忘れたのか、それがお前を今日のような事態に追い込んでしまったのかなって。言うまでもないが、それがお父さんの良心を苦しめてるんだ、我が子よ。今日お前が見ているのは、心を砕かれた男だ。お父さんはもう二度と頭を上げることはできないよ。ああ、恥だ――恥ずかしいったらない! あんなものを見るために私は生きてきたのか!」
「でも、お父さん」神と教会、家族、母親、父親への義務に関する長い説教を聞かねばならないのかと考え、少し取り乱したアイリーンは抗議した。そういうことのすべてがそれなりには重要なことはわかっていたが、クーパーウッドと彼の視点はアイリーンに新たな人生観を与えていた。二人は、この家族の問題――両親、子供、夫、妻、兄弟、姉妹――について、あらゆる視点から議論した。クーパーウッドの放任主義的な態度はアイリーンの考え方に浸透して完全に染め上げていた。アイリーンは彼の冷淡で率直な「私は自分が満足すればそれでいい」という態度を通して物事を見ていた。クーパーウッドは、人と人との間に生じて喧嘩や口論や対立や別れを生む、小さな性格の違いを残念に思ったが、そいうものはどうしようもない。人は成長していくうちにそれぞれ考え方が変わるからだ。人の考え方はさまざまな割合で少しずつ変化する――だから変わるのだ。モラル――これはある人にはあるが、ない人にはない。説明のしようがない。クーパーウッドにすれば、肉体関係が悪いとは全然思わなかった。互いに気の合う同士の間なら、それは罪がなく甘美だった。クーパーウッドの腕の中にいるアイリーンは、未婚でありながら彼に愛され、クーパーウッドもアイリーンに愛されたが、彼女は生きているどの女性と比べても善良で純粋だった――ほとんどの女性よりもはるかに純粋だった。人は、与えられた社会秩序や理論や物事の枠組みの中に自分を置いている。社会で成功するために、相手を怒らせないために、自分の道を平らにするために、物事を簡単にするために、無用な批判を避けるために、それらしい外見を作る――上辺では従っている――必要があった。それ以外は何もする必要がなかった。破産してはならないし、捕まるなどもってのほかだ。もしそうなったら、黙って戦い抜いて、何も言わないことだ。これは、彼が今抱えている金融上のトラブルに関係することで実行していることであり、先日事件が発覚した時点で実行する準備ができていたことだった。今話を聞いている間、すべてではないにしてもこれがある程度アイリーンの気分に色濃く反映していた。
「でもね、お父さん」アイリーンは反論した。「あたし、クーパーウッドさんを愛してるの。結婚したも同然なのよ。いつかクーパーウッド夫人と離婚すれば、彼はあたしと結婚するんだから。お父さんは事情がわかってないのよ。彼はあたしのことが大好きだし、あたしは彼を愛しているわ。彼はあたしを必要としているのよ」
バトラーは怪訝そうに理解できないものを見る目で娘を見た。「離婚と言ったな」バトラーはカトリック教会と、このことに関係する教会の教義について考えながら話し始めた。「あいつは妻子と別れるつもりなのか――お前のために? あいつがお前を必要としているだと?」バトラーは皮肉をこめて付け加えた。「じゃあ、奥さんや子供たちはどうなるんだ? 家族にはあいつが必要なんじゃないのか? お前の話を聞こう?」
アイリーンは反抗的に頭を後ろに反らせた。「それはそうだけどさ」彼女は繰り返した。「お父さんはわかってないだけよ」
バトラーは自分の耳が信じられなかった。今まで生きてきたが、こんな話は聞いたことがなかった。このことはバトラーを驚かせ、衝撃を与えた。政治やビジネスのことなら微妙な駆け引きまで全部知っているが、恋愛の問題は手に負えなかった。恋愛のことなど何も知らないからだ。自分の娘がこんなことを言うなんて、しかもカトリックの娘とあろう者が! クーパーウッド自身の権謀術数に長けた堕落した頭脳が出処でなければ、娘がどこでそんな考えを知ったのか、バトラーにはわからなかった。
「お前はいつからそんな考えを持つようになったんだ?」バトラーは突然、冷静に、真面目に尋ねた。「どこでそんなことを覚えたんだ? この家の中では絶対にそんな話は聞かなかったはずだぞ。まるで気が変になったかのような口ぶりだな」
「ねえ、馬鹿なことは言わないでよ、お父さん」どうせこんなことを父親に言っても無駄だと思いながら、アイリーンは怒って燃え上がった。「あたしはもう子供じゃないんだから。二十四歳なのよ。お父さんがわかってないだけよ。クーパーウッドさんはね、奥さんのことが好きじゃないのよ。でき次第離婚して、あたしと結婚するつもりなんだから。あたしは彼を愛してる。そして彼はあたしを愛してる。それだけのことよ」
「ほお、そうなのか?」バトラーはどんなことをしてでもこの娘を正気に戻そうと固く決意して尋ねた。「それじゃ、お前は奥さんや子供たちのことは何も考えてないんだな? その上、あいつが刑務所に行こうが、お前には関係ないんだな。囚人服を着ることになっても、お前は同じようにあいつを愛するんだろうな――おそらく今以上に」(この老人は少し皮肉っぽくなったときが、人間的に言えば、一番調子よかった。)「お前のことだから、そういうことになっても、あいつを受け入れそうだ」
アイリーンはたちまち激しく逆上した。「そうよ、あたし知ってるんだから」そして冷笑し「それってお父さんがやりたがってることでしょ。お父さんが何をやってるのか、あたし、知ってるんだから。フランクだって知ってるわ。お父さんは、彼がやってもいないことに何かの罪をきせて、刑務所に送ろうとしてるじゃない――全部あたしのせいなのに。あたし、知ってるのよ。でも、お父さんが彼を傷つけることはないわ。お父さんにはできっこないから! 彼はお父さんが考えてるよりも大きくて立派なの。長い目で見ればお父さんが彼を傷つけることはないわ。また立ち上がるもの。お父さんはあたしのことで罰したいんでしょうけど、彼は平気よ。とにかく、あたしは彼と結婚するわ。愛してますから。あたしは彼を待って結婚します。お父さんは自分の好きにすればいいわよ。さあ、どうぞ!」
「お前はあいつと結婚するつもりなのか?」バトラーは困惑し、さらに驚いて尋ねた。「あいつを待って結婚するだと? お前はあいつを妻子から引き離すつもりか。あいつが曲がりなりにも男なら、お前と遊び歩いたりせずに、この瞬間も家族のもとにいるだろうよ。なのに結婚するって? お前はお父さんやお母さんや家族の者に恥をかかせる気か? よくもお前はお父さんに向かってこんなことが言えるな、お前を育て、面倒を見て、一人前にしてやったこのお父さんに? お父さんと、気の毒な働き詰めのお母さんが、毎年毎年お前のために計画や予定を立ててこなかったら、お前はどうなっていただろうね? お前はお父さんなんかよりも賢いはずだ。お前は、お父さんや、お前に何だかんだと吹き込みたがる他の奴なんかよりも、世の中を知っている。お父さんはお前を立派なレディに育てあげたのに、こんなことになるなんて。お父さんにはわからないわ、と言われたり、お前が愛してる相手が囚人になる男で、それも泥棒、横領犯、破産者、うそつき、盗人――」
「お父さん!」アイリーンは決然と叫んだ。「そんなふうに言うなら、お父さんの話は聞かないわよ。あの人はお父さんが言うような人じゃありません。あたし、ここにはいられないわ」アイリーンはドアに向かったが、バトラーはすかさず飛び出して引き止めた。バトラーの顔が一瞬、怒りで赤くなって腫れた。
「だが、まだあいつとは決着がついてない」バトラーは続けた。娘が退去したがるのを無視して、直接話しかけた――娘にだって他の人と同じくらい私を理解する能力はある、とこのときは確信していた。「必ずあいつをやっつけてやる。この国には法律があるんだ。私はそれをあいつに適用させる。まともな家庭に忍び込んで、親から子供を奪えるかどうかをあいつに思い知らせてやる」
バトラーは息が切れたのでしばらく話すのをやめた。アイリーンはじっと目を凝らた。顔はこわばり真っ青だった。父がこれほど愚かになれるとは。クーパーウッドや彼の考え方に比べると、父は時代遅れだ。あたしは自分から喜んで行ったのに、父は誰かが家に忍び込んであたしを父から奪ったなどと言えてしまう人なのだ。馬鹿馬鹿しい! なのに、どうして議論するの? ここでこんな風に父と議論して何の成果があるかしら? そしてしばらく、アイリーンはそれ以上何も言わなかった――ただ見ているだけだった。しかしバトラーは決してあきらめなかった。彼はこのとき、精一杯自分を抑えようとしていたが、感情がひどく高ぶっていた。
「言い過ぎたよ、娘」言いたいことが娘にあったとしても少ししかないだろう、と確信するとすぐにバトラーは穏やかに話を再開した。「お父さんは怒りで我を忘れかけているんだな。お前を呼んだときに、話すつもりでいたのはこれじゃなかったのに。他の考えがあったんだよ。もしかしたら、お前はしばらくヨーロッパに行って音楽を勉強したいんじゃないかと考えたんでな。今のお前は全然お前らしくない。お前には休息が必要だ。しばらく遠くに行くのがいいだろう。向こうですてきなひと時が過ごせるんだぞ。お前さえよければノラが一緒に行ってもいいんだ、それとお前の先生だったシスター・コンスタンティナもな。シスターならお前に異論はあるまい?」
少し新しい形にするためにシスター・コンスタンティナと音楽まで投入した、このヨーロッパ旅行に再び話が及ぶと、アイリーンはつんと頭を反らせて、今度は内心半笑いだった。ここでこんな話を持ち出す父のやり方は、まったく馬鹿げている――実に芸がない。ましてやクーパーウッドさんとあたしを非難し、父の持っているすべての材料を使って脅した直後にするなんて。娘が相手だと全然駆け引きをしないのかしら? 本当に滑稽すぎる! しかしアイリーンはここでまた自分を抑えた。もうこの種の議論はすべて無駄だとわかったし感じてもいたからだ。
「そんな話、しないでほしいわ、お父さん」説明を聞いて態度を和らげながら、アイリーンは始めた。「あたしは今ヨーロッパには行きたくありません。フィラデルフィアを離れたくないのよ。お父さんがあたしを行かせたがってるのは知ってるけど、今行くなんて考えたくないわ。無理ね」
バトラーの表情は再び曇った。娘のこうした抵抗に何の意味があるんだ? この問題で、この私を――自分の父親を――やりこめよう、と本当に思ってるのだろうか? できるはずがない! しかし、バトラーはできるだけ声を和らげながら、実に穏やかに続けた。「でも、これはお前にとって、とてもいいことだろ、アイリーン。お前だってきっとここにいつづけようとは思えないはずだ、あん――」バトラーは「あんなことがあった後じゃ」と言いそうになって口を閉ざした。娘がこのことにとても敏感なのを知っていたからだ。娘を追い詰めた自分の行為が、娘が憤りを感じているのがわかるほど父としての礼儀を欠いたことは知っていたし、ある意味では当然だった。それでも、娘の罪よりも大きなものはあるだろうか? 「あんな過ちを犯した後じゃ」バトラーは話をしめくくった。「お前だってきっとここにいたくなくなるだろうしな。お前だってあんなこと続けたいとは思わんだろう――大罪を犯してるんだからな。あれは神と人の法に反してるんだ」
バトラーは、アイリーンに罪の意識――精神的な観点から見た自分の罪の重大さ――が芽生えることを期待した――しかしアイリーンにはこれがまったくわからなかった。
「お父さんはあたしを理解してないわ」しまいには絶望して叫んだ。「お父さんには理解できないのよ。あたしにはあたしの考えがあり、お父さんにはお父さんの考えがあるのよ。今さら、お父さんに理解してもらえるとは思ってないから。知りたければ言うけど、あたしはもうカトリック教会を信じてません、だからそういうことなの」
アイリーンは言ったそばから、これは言うんじゃなかったと思った。つい口が滑ってしまった。バトラーの顔に何とも言いようがない悲しい絶望の表情が浮かんだ。
「お前はカトリックの教えを信じてないのか?」バトラーは尋ねた。
「ええ、鵜呑みにはしてないわ――お父さんのようにはね」
バトラーは首を振った。
「魂まで損なわれるとはな!」バトラーは答えた。「娘よ、何か恐しいことがお前の身に起こったのは明らかだ。この男がお前を堕落させたのだ、肉体も魂もな。何とかしなければならない。お父さんはお前に手荒なまねはしたくないが、お前はフィラデルフィアを離れないといけないよ。ここにはいられないからな。お父さんは許さない。お前はヨーロッパに行ってもいいし、あるいはニューオリンズのおばさんのところでもいい。でもね、お前はどこかよそへ行かなくてはいけないんだ。お父さんはお前をここにおいてはおけないよ――危険すぎるからな。これは確実に露見する。次は新聞がそれを取り上げるだろう。お前はまだ若い。人生はこれからなんだ。お父さんはお前の魂が心配だ。でも、お前は若いんだから、生きている限り、正気に戻るかもしれない。厳しくするのはお父さんの役目であり、お前と教会に対するお父さんの義務だ。お前はこの生活をやめないといけないよ。あの男とはわかれなければならない。もう二度とあいつに会ってはならない。お父さんは許さない。あいつはろくでなしだ。お前と結婚するつもりなどありはしない。それに、結婚したところで、それは神と人間に背く罪になるんだからな。いかん、いかん! 絶対にだ! あの男は破産者で、悪党で、泥棒だ。あんなのと一緒になったら、お前はすぐに世界一不幸な女になってしまうぞ。あいつはお前にだって誠実ではいないだろう。絶対に誠実でいるはずがない。そういうタイプじゃないからな」バトラーは心底むかついて、いったん話をやめた。「お前はここを離れなければならない。これだけは言わせてくれ。お父さんはお前のためを思って言うんだ。そうしてほしい。お父さんは心からお前を一番に思っている。お前のことは愛しているが、お前は行かなくてはならないんだ。お前が行くのを見送るのは残念だよ――お父さんだって、お前にはここにいてほしいんだから。誰よりも残念に思ってるが、お前は行かなければならない。お母さんには全部が自然に普通に見えるようにしないといけないけど、お前は行かなければ駄目だ――わかったか? お前はそうしなければならないんだ」
バトラーはいったん話をやめて、ボサボサの眉毛の下からアイリーンを悲しげではあるがしっかりと見た。アイリーンは父がこれを本気で言っていることを知った。これは父の最も厳粛な、最も信仰心に満ちた表情だった。しかしアイリーンは答えなかった。答えられなかった。これが何の役に立つのかしら? ただ一つ確かなのは、自分が行かないことだった。彼女はこれを知っていた――だから青ざめて緊張してそこに立っていた。
「さあ、お前が欲しい服をみんな買ってあげよう」娘の本当の気持ちをまったく理解しないまま、バトラーは続けた。「とにかく好きなように着飾るといい。どこへ行きたいか言ってごらん。でも準備はするんだぞ」
「でも、あたしは行かないわよ、お父さん」とうとうアイリーンは同じくらい厳粛に、同じくらい決然と答えた。「あたしは行きません! フィラデルフィアを離れません」
「お父さんがこれだけお前のためを思って頼み事をしているのに、お前はわざと逆らおうというのではあるまいな?」
「ええ、そのつもりよ」アイリーンは決然と答えた。「あたしは行きません! あいにくだけど、行きませんから!」
「本気なんだな?」バトラーは悲しげだが厳粛に尋ねた。
「ええ、本気よ」アイリーンは厳粛に答えた。
「それじゃ、お父さんは自分に何ができるかを確かめないとならないな」老人は答えた。「お前がどんな人間であれ私の娘であることに変わりはない。私は自分の厳粛な義務だとわかっていることをやりもしないで、お前が破滅し堕落するのを見たくはないんだ。もう二、三日お前に考える時間をやろう。しかしお前は行かねばならないからな。それで終わりにしなさい。この国にはまだ法律がある。法に従わない者に対しては、できることがあるんだ。今回お父さんはお前を見つけた――そうするのがどれほど辛かったか。もしお前がお父さんに逆らおうとすれば、また見つけるまでのことだ。お前は生活態度を改めないといけないよ。お父さんは、お前のこの状態をつづけさせるわけにはいかないんだ。もう分かっただろう。これが最後の言葉だ。あの男と別れろ。そうすれば好きなものが何でも手に入るんだ。お前はお父さんの娘だ――お前を幸せにするためなら、お父さんはこの世の中の自分にできることを何だってするぞ。なのに、どうして駄目なんだ? 子供たち以外に、お父さんに何の生きがいがあるっていうんだ? 何年も働いて計画を立ててきたのは、お前や他の子供たちのためなんだぞ。だから、いい子になっておくれ。年を取ったお父さんのことを、愛してくれるだろ? お父さんは赤ん坊だったお前をこの腕であやしたんだぞ、アイリーン。お父さんは、お前がまだこの両手に収まるほどの大きさもなかったときからお前を見守ってきたんだ。お前にとって、いいお父さんであり続けてきたんだ――お前だってそれは否定できまい。お前がこれまでに見てきたよその娘さんたちをごらん。その人たちの中に、お前が持っている以上のものを持ってる者がいたか? この件に関してはお父さんに逆らわないでおくれ。お父さんはお前が逆らわないって信じてるよ。お前が逆らうはずはないからな。お前はお父さんのことを愛してるだろ、えっ――そうだろ?」バトラーの声は弱くなった。目には涙があふれていた。
バトラーは話すのをやめて、大きな茶色いごつごつした手をアイリーンの腕に置いた。アイリーンは父の嘆願を聞いて動じないわけではなかった――実際、多少軟化していた――そこに絶望があったからだ。アイリーンはクーパーウッドをあきらめられなかった。彼女の父親はまったく理解してくれなかった。愛がどういうものなのかを知らないからだ。間違いなく、彼は娘がしたような恋愛をしたことがなかった。
バトラーが訴える間、アイリーンは無言のまま立っていた。
「そうしたいわよ、お父さん」とうとうアイリーンは優しく穏やかに言った。「本当よ。あたしはお父さんを愛してますから。ええ、愛してるわよ。あたしだってお父さんを喜ばせたいわよ。でもね、これは駄目――できないわ! あたしはフランク・クーパーウッドを愛しているの。お父さんにはわからないのよ――まったくわかってないわ!」
クーパーウッドの名前が再び出てくると、バトラーの口もとがこわばった。娘がのぼせあがっていることが見て取れた――慎重に計算された頼み事は失敗したのだ。だから、何か別の方法を考えなければならない。
「そうか、わかった」アイリーンが背を向けると、最後にバトラーは悲しそうに、とても悲しそうに言った。「お前がそういう気なら、そうすればいい。だが、お前は否応なく行かなければならないんだ。他に道はないんだからな。あることを神に願うよ」
アイリーンはとても厳粛な面持ちで出て行き、バトラーは自分の机のところに行き腰を下ろした。「何という事態だ!」バトラーは独り言を言った。「厄介なことだ!」
第三十八章
アイリーンが直面した状況はまさに試練だった。生まれ持った勇気と決断力が小さな少女だったら弱音を吐いてくじけていただろう。いろいろな社交上の人脈があり、知り合いがいたにもかかわらず、こういう緊急事態にアイリーンが駆け込める相手は多くなかった。詮索もせずに自分を長期間かくまってくれそうな相手はなかなか思いつかなかった。とても仲がいい同年代の若い女性は既婚・未婚に関係なくたくさんいたが、本当に親密な人は少なかった。一時的な避難先に本当になるかもしれないと頭に浮かんだ唯一の相手は、メアリー・キャリガンだけだった。友人の間では「マミー」の方がよく知られている彼女は、 アイリーンと同じ学校に通った仲で、今は地元の学校で教師をしている。
キャリガン家は、母親のキャサリン・キャリガン夫人、仕立て屋をしている未亡人――曳家だった夫は十年くらい前に壁の崩落で死亡――と、二十三歳の娘のマミーの二人暮らしだった。二人は十五番街近くのチェリー・ストリートにある小さな二階建てのレンガ造りの家に住んでいた。キャリガン夫人はあまり立派な仕立て屋ではなかった。少なくとも、今高い地位にいるバトラー家が贔屓にするほど立派ではなかった。アイリーンが時々、ギンガムの部屋着や下着やかわいい化粧着を買ったり、チェスナット・ストリートの超一流の店で仕立てられたもっと大切な服の直しを頼みにそこに行くくらいだった。彼女がこの家を訪れた大きな理由は、キャリガン家の前途がもっとずっと洋々だったころ、マミーと一緒にセント・アガサに通っていたからだ。マミーは近くの公立学校の六年生の担任教師として月に四十ドルを稼ぎ、キャリガン夫人は一日平均して約二ドル――時にはそれに達しないこともあった。住まいは持ち家で抵当の類はなく、中の家具は月収約八十ドルという二人分を合わせた収入の規模をうかがわせた。
マミー・キャリガンは美人ではなかった。昔の母親の容貌に到底及ばなかった。キャリガン夫人は五十歳でもふっくらして明るく陽気でユーモアたっぷりなのに、マミーは精神面も感情面もかなり鈍感だった。マミーは真面目な性格だった――何よりもまず環境のせいでそうなったのかもしれない。全然生き生きとしておらず色気もほとんどなかった。しかし親切で、正直で、真面目で、善良なカトリック教徒だった。大勢の人々を世の中から締め出してしまう、あの不思議なほど極端に内向きな美徳――義務感を持っていた。マミー・キャリガンにとって義務(子供の頃から聞いて実践してきた説法や教えを日々守ること)は極めて重要なことであり、慰めと安らぎの大元だった。奇妙で不確実な世界の中でマミーの支えになるのは、教会に対する義務、学校に対する義務、母親に対する義務、友人に対する義務などだった。母親はよくマミーのために、もっと義務感が薄れて、肉体的な魅力が増して、男性がこの娘を好きになってくれればいいのに、と願っていた。
母親が裁縫師なのに、マミーの服は決しておしゃれでも魅力的でもなかった――もし服がおしゃれだったら、自分らしくないと彼女は感じただろう。靴はかなり大きめでサイズが合っておらず、スカートは素材は良いのに、見た感じのデザインが悪く、腰から足もとにだらんと垂れ下がっていた。この頃、カラーの「ジャージ」なるものが流行り始めた。体にぴったりとフィットするので、スタイルのいい人が着ると見栄えがよかった。気の毒なマミー・キャリガン! そのときの流行でマミーもこれを着るはめになったが、この服をすばらしく見せるほど彼女は腕も胸も発育を遂げていなかった。選ぶ帽子はいつも長い羽根が一本ついたパンケーキのようなものだが、どういうわけか羽根は髪にも顔にもぴったり合う位置がないようだった。ほとんどいつも少し疲れているように見えたが、肉体的疲労というよりは、退屈していたからだ。マミーの人生には本当に魅力的なものがほとんどなく、アイリーン・バトラーは紛れもなく彼女の人生のロマンスの最重要要素だった。
マミーの母親のとても楽しい社交的な性格、貧しくて小さくてもとても清潔な家をこの親子が持っていること、アイリーンがピアノを弾いて二人を楽しませることができたこと、キャリガン夫人が自分のためにする仕事に愛情深い関心を注いでくれたことは、アイリーンが抱くキャリガン家の魅力の重要部分を構成した。他のことからの避難場所として時々そこに行くこともあった。それにマミー・キャリガンは文学の好みが合う上に、とてもよく理解して関心を持っていたからだ。不思議なことに、アイリーンが好きな本はマミーも好きだった――『ジェーン・エア』、『ケネリム・チリングリー』、『トリコトリン』、『オレンジのリボンを結んで』。マミーは時折アイリーンにこの性質を持つ最新の作品を薦めてくれた。アイリーンはマミーの判断力の良さに気づいて感心せざるを得なかった。
この窮地にいるアイリーンが思いついたのがこのキャリガン家だった。もし父が本当に優しくなくなって、ひとまず家を出なければならなくなったら、キャリガン家に行けばいい。あそこなら何も言わずに、あたしを受け入れてくれるだろう。あの二人ならバトラー家の他のメンバーにあまり知られていないから、あたしがそこへ行ったことを家族が疑うことはない。チェリー・ストリートのあの人目につかない場所であればたやすく姿を消せて、何週間でも姿を見られたり消息を聞かれたりずに済むかもしれない。キャリガン家の人たちがバトラー家のさまざまな人たちと同じように、道から外れた人生を送る傾向がアイリーンにあることを少しも疑っていなかったのは、興味深い事実である。したがって、もしアイリーンの家出が実現したとしても、他の何よりも気まぐれで感情の抑制が効かないせいにされただろう。
また、バトラー家に関して言えば、アイリーンが家族を必要とする以上に、家族にアイリーンが必要だった。家族が適度な団欒を保つにはアイリーンの表情の明るさが必要であり、もしアイリーンがいなくなったら、すぐには乗り越えられない明確な溝が生じてしまうだろう。
例えばバトラーは、幼い娘が晴れて美しい女性に成長したのを見届けた。娘が学校や修道院に通い、ピアノを習うのを見てきた――バトラーにすれば大きなことをやりとげて感無量だった。またバトラーは、娘の態度が変わってとても派手になり、一見、人生についての知識が広がったようであり、少なくとも彼にとって印象的になったのを見てきた。いろいろな物事についての娘の生意気で独断的な考え方は、バトラーにとって少なくとも聞く価値があった。アイリーンはオーエンやカラムよりも本や美術についての知識が豊富で、社交のマナーのセンスは申し分なかった。朝昼晩の食事のテーブルについたとき――アイリーンはいつもバトラーにとって魅力的な存在だった。自分がアイリーンを育て上げたのだ――バトラーはひとりで得意がった。私がお金を出したから娘はこんなに立派になったんだ。今後も続けていく。二流の成り上がり者に娘の人生を台無しにされてたまるものか。バトラーはずっと娘の面倒を見るつもりだった――夫が破産しても娘に影響が及ばないように、法を駆使してたくさんのお金を残すつもりだった。「今夜のお前は魅力的なレディだと思うぞ」がバトラーの口癖の一つで「どうだ、我々も立派なもんだな!」と言うこともあった。テーブルではほぼ決まってアイリーンがバトラーの隣に座って、父に気を遣った。これを父が望んだからだ。何年も前、彼女が子供だった頃から、バトラーは食事の時にアイリーンを自分の隣に座らせていた。
母親も彼女を溺愛し、カラムとオーエンは兄弟にふさわしい態度で接した。だから、アイリーンはこれまで少なくとも、受け取った分に見合う美しさに利息をつけてお返ししていた。家族はみんなそれをそう感じていた。アイリーンが一日二日、家を留守にすると、家が暗く思えた――食事はおいしくなくなった。彼女が戻ると、みんなは再び幸せを取り戻して明るくなった。
アイリーンは一応これをはっきり理解していた。無理強いされたくない旅行を避けるために、家を出てひとり暮らしを始めようと考えるようになった今、アイリーンが勇気を出せたのは主に、家族にとって自分は大事な存在であるというこの強い自覚が根底にあったからだ。アイリーンは父親が言ったことを考え直して、すぐに行動を起こさなければならないと決断した。翌朝、父親が出かけた後、アイリーンは外出の支度を整え、マミーが昼食で家にいそうな正午頃にキャリガン家に立ち寄ることにした。そのときに、さりげなくこの問題を持ち出すつもりだった。もし先方に異論がなければ、そこに行くつもりだった。こんな大変な目に遭っているのに、どうしてクーパーウッドは二人でどこか知らない場所に行こうと言ってくれないのか、時々不思議に思うことがあった。しかし、彼のことだから自分に何ができるかは彼が一番よく知っているに違いないとも感じた。クーパーウッドの増え続けるトラブルはアイリーンを滅入らせた。
着いたとき、キャリガン夫人はひとりっきりで、アイリーンを見て喜んだ。その日の世間話を交わした後、アイリーンは自分の用件をどう切り出していいかよくわからないまま、ピアノで悲しいメロディーを奏でた。
「まったく、上手に弾くもんだね、アイリーン」すっかり感傷に浸っていたキャリガン夫人は感想を述べた。「私はあなたの演奏を聞くのが大好きなんだよ。もっとちょいちょい会いに来てくれればいいのに。近頃はめったに来てくれないね」
「ええ、とても忙しかったんです、キャリガンさん」アイリーンは答えた。「この秋はやることがたくさんあって来られなかっただけですわ。家族があたしをヨーロッパへ行かせたがっているんですけど、あたしは行きたくないんです。ああ!」アイリーンはため息をつき、悲しくもロマンチックな曲のしらべに合わせて流れるようにひき始めた。ドアが開いてマミーが入って来た。アイリーンを見て平凡な表情が明るくなった。
「まあ、アイリーン・バトラー!」マミーは叫んだ。「どういう風の吹き回しかしら? ずいぶんとご無沙汰だったじゃない?」
アイリーンは立ち上がってキスを交わした。「ずっとすごく忙しかったのよ、マミー。ちょうどあなたのお母さんとその話をしてたとこだわ。あなたこそどうなの? お仕事は順調?」
マミーはさっそく自分を悩ませているいくつかの学校の問題点――クラスの規模が拡大していることと期待される仕事の量――について話をした。キャリガン夫人が食事の支度をする間、マミーは自分の部屋に行き、アイリーンはその後を追った。
マミーが鏡の前で髪を整える間、アイリーンは考え込むような面持ちで相手を見た。
「今日はどうしたの、アイリーン?」マミーは尋ねた。「あなた、何だかその――」マミーは話すのをやめて、もう一度ちらっと見た。
「あたし、どう見える?」アイリーンは尋ねた。
「うーん、迷ってるっていうか、何かに悩んでるみたい。あなたがそんな顔をするのをこれまで見たことなかったわ。どうしたのよ?」
「別に、何でもないわ」アイリーンは答えた。「ちょっと考え事をしてただけよ」アイリーンは小さな庭に面した窓のひとつに行き、ここで長期間暮らすことに耐えられるかを考えていた。家はとても小さいし、家具はとても質素だ。
「今日のあなたは何か変よ、アイリーン」マミーはそばまで来て、顔をのぞき込んで言った。「全然あなたらしくないもの」
「考えていることがあるんだけど」アイリーンは答えた。「それが心配なのよ。どうしたらいいかわからなくて――それが問題なの」
「一体、どんなことなのよ?」マミーは言った。「あなたがこんな風になるなんて、私、これまで見たことないもの。私にも言えないの? 何なのよ?」
「ええ、無理な気がする――とにかく今はね」アイリーンは間をおいて「あなたのお母さんは反対するかしら」と突然尋ねた。「もしあたしがここに来て少しの間滞在するとしたら? ある事情があってしばらく家を出たいのよ」
「まあ、アイリーン・バトラー、何ですって!」友は叫んだ。「反対ですって! 母は喜ぶってば、それに私もよ。ねえ――うちに来ればいいじゃない? でも、何でまた家を出たくなったの?」
「それはあなたにも言えないの――とにかく、今はまだ。あなたにというより、あなたのお母さんにかな。だって、お母さんがどう思うか、心配だもの」アイリーンは答えた。「でも、とにかく、今はまだ聞かないで。あたし、考えたいの。ねえ! でも、あなたさえよければ、あたしはここに来たいんだけど。あなたからお母さんに話してくれない、それとも、あたしから話す?」
「あら、私がやるわよ」この異例の展開に驚きながらマミーは言った。「でも、そんなことするなんて馬鹿げてるわ。言う前から母の返事はわかってるもの。あなたにだってわかるでしょ。あなたは荷物をもって、来るだけでいいのよ。それだけでいいわ。母は何も言わないし、何も聞かないわよ。わかってるでしょ――もしあなたが望まないのならね」マミーはこの考えにすっかり興奮して、顔を輝かせた。アイリーンと一緒にいたくてたまらなかったからだ。
アイリーンは真剣な眼差しでマミーを見た。どうしてマミーが――彼女も母親も――これほど夢中になるのかよくわかっていた。二人とも、あたしの存在が自分たちの世界を明るくすることを望んでいるのだ。「でも、二人とも、あたしがここにいることは誰にも言っちゃ駄目よ、いい? 誰にも知られたくないのよ――特に、うちの家族の者には絶対にね。理由はあるのよ、ちゃんとしたのが。でも、それがどういうものなのかは、あなたにも言えないのよ――とにかく今は駄目なの。誰にも言わないって約束してくれるわよね」
「もちろんよ」マミーは意気込んで答えた。「でもずっと家に帰らないってわけじゃないんでしょ?」 マミーは詮索しながら真面目に締めくくった。
「さあ、わからないわ。どうするかは自分でもまだわかってないから。今はただ、しばらく家を出ていたいってことしかわからないわ――それだけよ」アイリーンは話をやめた。マミーは呆気にとられて彼女の前に立っていた。
「何にしても」友人は答えた。「驚きって尽きないものね、アイリーン? でも、あなたがここにいるなんて、とてもすてきだわ。母は大喜びするわよ。もちろん、あなたが望まないなら、私たちは誰にも話さないわ。どうせここにはほとんど人は来ないし、もし来ても、あなたが会う必要はないでしょ。私の隣のこの大きな部屋を使えばいいわ。ねえ、それってすてきじゃない? うれしいったらないわ」この若い学校教師の気分は最高に盛り上った。「じゃ、さっそく母に話してみない?」
アイリーンは今でもこれを実行すべきか確信が持てずにいたのでためらいがあったが、結局二人は一緒に下へ降りた。アイリーンは階段の下が近づくにつれて少しぐずぐずした。マミーは母親のところに飛び込んで言った。「ねえ、お母さん、すてきじゃない? アイリーンが来てしばらく私たちと一緒に暮らすのよ。誰にも知られたくないんですって。すぐ来るのよ」キャリガン夫人は砂糖の容器を片手に持ったまま振り向いて、驚きながらも笑顔でアイリーンに探りを入れた。すぐに、どうしてアイリーンがここに来たがらなければいけないのか――なぜ家を出たいのか――気になった。一方で、キャリガン夫人のアイリーンへの感情はとても強かったので、この考えに大喜びして、大いに興味をそそられた。別に構うまい? かの有名なエドワード・バトラーの娘は自分のことは自分で管理できる成人女性ではないか。重要な一族の名誉ある一員としてもちろん歓迎すればいい。どんな事情であれアイリーンが来たがっていると思うことは、キャリガン家にとってとても名誉なことだった。
「どういうわけであなたのご両親があなたを行かせることができるのか私にはわからないけど、あなたはいたいだけここにいていいんだからね、何ならずっといてくれてもいいんだよ」キャリガン夫人は歓迎の気持ちを込めて微笑んだ。アイリーン・バトラーがここに来ることを許してほしいと願い出るなんて! 母親がこれを言ったときの親身な理解ある態度と、マミーの熱意に、アイリーンは安堵のため息をついた。自分がいることでキャリガン家にかかる費用のことが頭に浮かんだ。
「来るとなれば、もちろん費用はお支払いします」アイリーンはキャリガン夫人に言った。
「水くさいわね、アイリーン・バトラー!」マミーが叫んだ。「そんなこと、しなくていいんだから。私のお客さまとしてここに来て私と一緒に暮らせばいいのよ」
「そうはいかないわ! お金を払えないんじゃ、来ないわよ」アイリーンは答えた。「そのくらいのことは、させてくれなきゃだめよ」キャリガン家に自分を養う余裕がないのはわかっていた。
「まあ、とにかく、今その話をするのはよしましょう」キャリガン夫人は答えた。「好きなときに来て、好きなだけいてくれていいんだからね。きれいなナプキンをとってちょうだい、マミー」アイリーンは残って昼食をごちそうになり、その後すぐにクーパーウッドとの約束を果たすために立ち去り、大きな問題が片付いたことに満足していた。これで道は開けた。来たければ、ここに来ることができる。必要なものを少しそろえるか、何も持たずに来るか、それだけの問題だった。もしかしたらフランクが何かを提案するかもしれない。
一方、クーパーウッドは密会場所の不幸な発覚以降、アイリーンと連絡をとる努力を何もせずに彼女からの手紙を待っていた。手紙は間もなく届いた。それはいつもと同じ、長ったらしい、楽観的て、愛情に満ちた、反抗的で退屈な文章で、その中に、自分に起こったすべての出来事と、家出についての現在の計画が書いてあった。最後の話は少なからずクーパーウッドを戸惑わせ、悩ませた。
家族に囲まれ、賢く、大切にされるアイリーンと、社会に出てクーパーウッドを頼るアイリーンとでは、状況が違う。自分が受け入れ準備を整える前にアイリーンが家を出て行かざるを得なくなるとは、想像したことがなかった。もし今そんなことをしたら、厄介な事態を引き起こすかもしれない。それでもアイリーンのことが好きで、大好きだから、アイリーンを幸せにするためなら何でもするつもりだ。もし最終的に刑務所に行かなければ、今でもアイリーンをきちんと養うことはできる。たとえ行ったとしてもアイリーンのために何とかやりくりできるかもしれない。しかし、自分の運命がどうなるかはっきりとわかるまで家にいるようアイリーンを説得できればそれに越したことはない。何が起きても、それなりの時間が経てば、いつかはこうした厄介な問題から解放されて、またうまくやっていける、と彼は信じて疑わなかった。その場合、離婚が成立すればアイリーンと結婚したい。結婚しなくても、とにかく、アイリーンを一緒に連れて行くのだから、この考え方でいくと、今アイリーンが家族と縁を切っても、同じかもしれない。しかし現在の複雑な状況――バトラーが行うであろう捜索――を考えると、これは危険かもしれない。バトラーが公然と誘拐罪で訴えてくる可能性さえある。従って、アイリーンには家にとどまってもらい、当分の間会ったり連絡を取り合うのをやめ、海外に行くことさえ説得しようと決めた。アイリーンが戻ってくるまでには自分の状況はよくなっているだろうし、アイリーンもそうだろう――こういう場合は常識に従うべきだ。
これをすべて頭に入れて、アイリーンが手紙で言ってきた待ち合わせの約束を守ることにした。しかしそれでも実行するのは少し危険な気がした。
「本当にそんなところで暮らしたいの?」キャリガン家の家庭環境の説明を聞いた後でクーパーウッドは尋ねた。「かなり貧しそうに聞こえるんだけど」
「ええ、でも、あたしはあの人たちのことが大好きなのよ」アイリーンは答えた。
「それと、その人たちがきみのことを口外しないって自信があるのかい?」
「ええ、絶対よ! 絶対しないわ!」
「ならいい」クーパーウッドは締めくくった。「きみは自分が何をしているのかをわかっているんだね。きみの意思に反する助言はしたくない。私がきみだったら、お父さんの言う通りにして、しばらくここを離れるけどね。その頃にはお父さんだって立ち直っているだろう。それに、私はずっとここにいるんだ。時々きみに手紙を書けるし、きみだって私に書けるだろ」
クーパーウッドがこれを言ったとたん、アイリーンの表情が曇った。アイリーンのクーパーウッドに対する愛情はとても大きかったので、長い別れをほんの少し匂わしただけで、ナイフで刺されたような衝撃があった。あたしのフランクがここにいて困っている――おそらく裁判にかけられるのに、あたしがその場にいないなんて! 絶対に嫌よ! こんなこと言うなんてどういうつもりかしら? あたしがフランクを愛しているほどフランクはあたしを愛していないのかしら? この人はあたしのことを本当に愛しているのかしら? アイリーンは自分に問いかけた。二人をもっと近づける行動をとろうとしているまさにそのときに、フランクったらあたしを捨てるつもりかしら? アイリーンの目が曇った。ひどく傷ついたのだ。
「まあ、何てこと言うのよ!」アイリーンは叫んだ。「あたしが今フィラデルフィアを離れるつもりがないのをあなたは知ってるでしょ。まさかあたしがあなたから離れるとは思ってないわよね」
クーパーウッドはすべてがとてもはっきりとわかった。ありすぎるほど洞察力があったから、わからないはずがなかった。クーパーウッドはアイリーンのことが大好きだった。ああ、何てことだ、たとえどんなことがあったって、彼女の気持ちを傷つけるようなことはしないぞ! と思った。
「アイリーン」クーパーウッドは彼女の目を見てすかさず言った。「わかってないな。きみは自分のやりたいことをやればいい。きみは私と一緒にいるためにこれを計画したんだろ。じゃあ、すぐにでも実行することだ。もう、私のことや、私が言ったことを考えるな。私はただ、そんなことをすれば私たち二人の問題を悪化させるかもしれないと考えただけなんだ。でもそうならないと信じるよ。きみは、お父さんがきみのことをとても愛してるから、家出をすればお父さんが考えを改めると思うんだね。いいね、そうしよう。でも、私たちはとても慎重でいないといけないんだ――きみも私もね――本当にそうしないと駄目なんだ。事態は深刻になりつつあるからね。きみが家出をすれば、お父さんは誘拐罪で私を告訴するよ――世間に真相を明かして、これに関するすべてを話したら、私たちは二人とも深刻なことになる――私と同じくらいきみも大変だよ。そうなったら私の有罪は確実なんだ。他に何もなくても、それだけで決まりさ。そのときはどうするんだい? 当分は頻繁に私に会おうとしない方がいい――やむを得ないとき以外は会わない方がいいんだ。お父さんがあの手紙を受け取ったときに、私たちが常識を働かせてやめておけば、こんなことにはならなかった。でも、こうなった以上は、できるかぎり賢く振る舞わなければならない、わからないかい? だから、よく考えるんだ。そして自分が一番いいと思ったことをするんだ。そしたら私に手紙を書いてくれ。きみが何をしようと私の方はそれでいい――わかったかい?」クーパーウッドはアイリーンを引き寄せ、キスをして「先立つものが、ないんじゃないか?」と上手に締めくくった。
アイリーンはクーパーウッドがたった今言ったことに深く心を動かされたが、少し考え、それでも自分の方針が一番いいと確信した。父はあたしを溺愛している。あたしに傷がつくことを公然とはしないだろう。だからあたしを利用してクーパーウッドを攻撃することはない。今もフランクに説明したけど、おそらく、父は戻って来いとあたしに頼み込むわ。これを聞いていたクーパーウッドは譲歩せざるを得なくなった。何で議論する必要があるんだ? いずれにしても、彼女が私から離れることはないのだ。
クーパーウッドはアイリーンと知り合って初めてポケットに手を入れ、札束を取り出し、「ここに二百ドルある」と言った。「会うか、きみからの連絡を聞くまでの分だ。きみが必要なものは何でも私が用意する。もう私がきみを愛していないなんて考えないでくれ。私が愛していることは知ってるだろ。きみに夢中なんだから」
アイリーンは、そんなにたくさん必要ない――本当に全然必要ない――家に多少はあるんだからと断ったが、クーパーウッドはそれを退けた。彼女にお金が欠かせないことを知っているからだ。
「何も言わなくていい」クーパーウッドは言った。「きみに必要なものはわかっている」アイリーンは両親から時々まとまった額のお金をもらい慣れていたから、これを何とも思わなかった。フランクは彼女をとても愛していたので、二人の間はすべてがうまくいった。アイリーンは気持ちを和らげ、二人は手紙のやり取りについて話し合い、自前の連絡係を使うのが一番安全だという結論に達した。クーパーウッドの煮え切らない態度のせいで失意のどん底に落とされていたアイリーンだったが、最後に二人が別れるときには、再び有頂天になっていた。アイリーンは、クーパーウッドが自分を愛していることを確信すると笑顔で立ち去った。あたしには頼れるフランクがいる――父に思い知らせてやる。クーパーウッドは首を振り、アイリーンを目で見送った。アイリーンは余計な重荷だが、彼女を手放すなど絶対にできない。こんなに彼女を大切にしているときに、この愛情という幻想からベールをはぎとって、彼女をとても惨めな気持ちにさせられるだろうか? できない。すでにやったことの外に、自分にできることは本当に何もない。結局、そんなに悪い結果にはならないかもしれない、と考えた。バトラーがちょっとでも調べる気になれば、アイリーンが自分のところに駆け込まなかったことは判明するのだ。いかなる場合であれ、致命的な結末からこの状況を救うために常識的対応をとる必要が生じたら、こっちはアイリーンの居場所についての情報をバトラー家に密かに知らせてしまえばいい。それでこの件に自分はほとんど関係してないことが伝わるし、バトラー家はアイリーンにもう一度家に戻ってくるよう説得を試みることができる。良い結果が出るかもしれない――こればかりはわからない。問題が生じたら対処しよう。クーパーウッドは急いで事務所に戻り、アイリーンは計画を実行に移すことに決めて自宅へ戻った。父親はアイリーンに決断する時間を少し与えていた――おそらくはもっと時間をくれるかもしれない――しかしアイリーンは待つつもりはなかった。いつも何でも自分の願いがかなえられてきたので、どうして今回は思い通りにならないのか理解できなかった。時刻は五時頃。アイリーンは家族全員がくつろいで食卓につく七時頃まで待って、それからそっと抜け出すつもりだった。
しかし家に到着すると、行動を延期しなければならない予期せぬ理由に迎えられた。シュタインメッツ夫妻の来訪である――夫の方は有名な技師で、バトラーが手がけた仕事の多くの図面を描いた人だった。その日は感謝祭の前日だった。夫妻はアイリーンとノラをウエストチェスターの新居に二週間滞在してほしいと熱心に誘ってくれた――アイリーンはその建物の魅力を散々聞いていた。夫妻はものすごく感じのいい人たちで――比較的若くて興味深い友人たちに囲まれていた。アイリーンは家出を延期して出かけることにした。父親は最高に優しかった。シュタインメッツ夫妻が来て招待してくれたおかげで、アイリーンばかりではなくバトラーまでずいぶん安心することができた。ウエストチェスターはフィラデルフィアから四十マイル離れていたから、アイリーンがそこにいる間にクーパーウッドに会おうとする可能性は少ないからだ。
アイリーンは状況が変わったことをクーパーウッドに伝えて出発した。クーパーウッドは安堵のため息をつき、これでこの嵐は完全に過ぎ去ったとそのときは思った。
第三十九章
その一方で、クーパーウッドの裁判の日が近づいていた。事実のいかんにかかわらず、自分を有罪にしようとする企てが進行している印象をクーパーウッドは抱いていた。この窮地から抜け出す方法は見つからなかった。すべてを捨てて永久にフィラデルフィアを去るしかなく、これは不可能だった。自分の将来を守り、金融界の友人をつなぎとめる唯一の方法は、できるだけ早く裁判を受けることだった。そして敗れた場合は将来再起するのを彼らが手伝ってくれると信じることだった。不公平な裁判になる可能性をシュテーガーと話し合ったが、シュテーガーはそれほど大きな問題だとは考えていないようだった。そもそも陪審員は誰かに簡単に買収されたりしない。次に、ほとんどの裁判官は政治的な対立を抱えていても誠実であり、彼らの党派的な偏向は、判決や意見に影響を及ぼすほど踏み込まず、その偏向にしても概してそれほど大きくはなかった。この裁判を担当することになる四季裁判所の判事ウィルバー・ペイダーソンは、ガチガチの党指名候補者で、モレンハウワー、シンプソン、バトラーには恩義があった。しかしシュテーガーがこれまでに聞いた限りでは誠実な人物だった。
「私には理解できませんね」シュテーガーは言った。「州全体に及ぼす影響が狙いでないなら、どうしてあの連中はあなたをこんなにも罰したがるんですかね。選挙は終わったんです。ステナーは有罪になっても、まあ、有罪でしょうが、彼を釈放させようという動きが今あると聞いてます。彼を裁判にかけないわけにはいきませんからね。収監されても一年以上、せいぜい二、三年ってとこでしょうし、もしそうなっても、刑期の半分か、それ以下で恩赦が与えられるでしょう。あなたが有罪になっても同じことになります。あなたは入れっぱなしで、ステナーだけを出すわけにはいきませんからね。でも、そこまではいきません――私の言うことを信じてください。陪審の前で勝つか、州最高裁判所で有罪判決を覆すか、確実にどちらかです。あそこの五人の判事は、こんな馬鹿げた考えを支持しませんよ」
シュテーガーは自分が言ったことを本当に信じており、クーパーウッドは喜んだ。この若い弁護士はこれまで彼のどの案件でも素晴らしい成果を上げていた。それでも、バトラーに追い詰められていると思うとクーパーウッドはいい気がしなかった。これは重大な問題なのに、シュテーガーはそのことにまったく気づいていなかった。クーパーウッドは自分の弁護士が楽観的に保証するのを聞いても、このことを完全に忘れることはできなかった。
実際に裁判が始まると、人口六十万人のこの都市の住民のほとんどが〝興奮〟した。クーパーウッド家の女性たちは誰も法廷に来ていなかった。新聞が取り上げるような家族の目立つ行動は起こすべきではない、とクーパーウッドが主張したからだ。父親は証人として必要になるかもしれないので来ることになっていた。アイリーンは前日の午後に手紙を書いて、ウェストチェスターから戻ってきたことと、幸運を祈っていますと伝えてきた。クーパーウッドがどうなるのかが知りたくてたまらなかったので、これ以上離れたままでいることができずに、戻ってきていた――クーパーウッドが望まなかったので、法廷に行くためではなかった。良くも悪くも彼の運命が決まるときにできるだけ近くにいたかったからだ。勝てば駆け寄って祝福し、負ければ慰めてあげたかった。自分が戻れば父親との衝突を招くだろうとは感じたが、これは仕方がなかった。
クーパーウッド夫人の立場は極めて異常だった。リリアンはフランクが求めていないことを知っていても、もっともらしい愛情と優しさを形式的に装わなければならなかった。クーパーウッドは、妻がアイリーンのことを知っていると今では本能的に感じていた。クーパーウッドはただ、リリアンの前でこの問題をすべて明らかにする適切な時期を待っているだけだった。この運命の朝リリアンは玄関先で、この数年ですっかり定着したやや形式的なやり方で、夫に腕をまわした。夫の苦境を痛感していたのに、一瞬キスができなかった。クーパーウッドもキスしたくなかったが、それを態度には出さなかった。しかしリリアンはキスをしてつけ加えた。「うまくいくことを願ってます」
「そんな心配は必要ないよ、リリアン」クーパーウッドは明るく答えた。「私なら大丈夫だ」
階段を駆け下り、ジラード・ストリートに出て、かつて自分が利用していた路線まで行って車両に乗り込んだ。クーパーウッドはアイリーンのことや、彼女がどれほど強く自分に思いを寄せているか、今の自分の結婚生活は何とむなしいものか、良識を備えた陪審に当たるだろうか、などを考えていた。もしそうでなかったら――そうでなかったら――今日は決定的な一日になる!
三番街とマーケット・ストリートの交差点で下車して事務所に急いだ。シュテーガーはすでにそこにいた。「さて、ハーパー」クーパーウッドは勇ましく言った。「いよいよ、今日だね」
この裁判が行われる四季裁判所第一部は、六番街とチェスナット・ストリートにある有名な独立記念館にあった。当時そこはそれ以前の一世紀と同じように、地元の行政と司法の中心地だった。建物は赤レンガ造りの低い二階建てで、中央に、オランダやイギリスの古い様式を受け継いた四角形と円と八角形が組み合わされた白い木造の塔があった。この建物は中央棟と左右に広がる二つのT字型の翼棟で構成され、上が楕円形の小さくて古風な窓とドアには、コロニアル建築として知られる様式を愛する者には好まれる、たくさんの板ガラスがはめこまれたサッシが取り付けられていた。この建物と、建物の裏側からウォルナット・ストリートに向かって伸びる(現在は取り壊されている)州議事堂庁舎群と呼ばれる増築部分に、市長、警察署長、市財務官の執務室、議会の会議室、市のその他の重要な行政機関の執務室、増え続ける刑事事件の審理を行う四季裁判所の四つの支部が置かれていた。後にブロード・ストリートとマーケット・ストリートの交差点に完成する巨大な市庁舎は、当時は建築中だった。
そこそこ広い法廷を改善しようとして、黒いクルミ材の高い台が設けられて、その上に黒いクルミ材の大きな机が配置され、その後ろに裁判官が座るという試みがなされたが、あまり成功していなかった。机も陪審員席も手すりも、全体的につくりが大き過ぎたので、全体の印象はバランスが悪いというものだった。黒いクルミ材の備品にはクリーム色の壁が合うと考えられたのだが、歳月と埃がその組み合せを陰気にしてしまった。裁判官の机の上に立っている、細長くて過剰な装飾のガス灯のブラケットと、天井の中央から吊るされた一本の振り子式のシャンデリアを除けば、絵画や装飾品の類は一切なかった。太った廷吏と裁判所職員たちは、労力を必要としない仕事を維持することにしか関心がなく、場の雰囲気に何も色を添えていなかった。この裁判が開かれたこの法廷の二人の廷吏は、どちらが裁判官に水の入ったコップを渡すかで毎時間争っていた。ひとりは、太った、融通の利かない、埃っぽい執事のように、更衣室への行き来の際、裁判官を先導する。彼の役目は裁判官が入廷するときに「裁判官が入廷します、帽子をとって皆さんご起立ください」と大声で呼ぶことだった。一方で、着席した裁判官の左側に立っていたもうひとりの廷吏は、陪審席と証人席との間で、個々の構成員に対する集団社会の義務について述べた美しい威厳に満ちた声明を、何を言っているのかまったく分からない調子で朗読する。それは「静粛に、静粛に、静粛に!」で始まって「正当な言い分のある者は前へ来れば、聞き届けられるものとします」で終わる。しかし、ここでそれを重視する者はない。慣習と無関心のせいで、これはただのつぶやきに成り下がるからだ。三人目の廷吏は陪審室のドアを守っていた。このほかに、小柄で、青白い蝋燭のような肌、水で薄めたミルク色の生気ない目、豚の油肉色の薄い髪と顎鬚をした、どう見てもアメリカ化し明らかに老いぼれている中国の官僚のような法廷書記官――それと法廷速記官がいた。
ウィルバー・ペイダーソン判事はやせたニシンのような男で、クーパーウッドが大陪審に起訴されたときに予審判事として最初からこの事件を担当し、クーパーウッドを今期のこの裁判にかけた張本人であり、判事としては特に興味深いタイプだった。あまりにもやせ衰え、血の気がなかったので、これらの特徴だけでも人目を引いていた。彼は技術的には法律に精通していたが、実は人生のことになると、書かれた法を超えて精神へと進み、さらには賢明な判事なら誰もが知っているようにすべての法の無力にしてしまう、物事のあの微妙な化学反応というやつを全然意識していなかった。細い学者風の体と、縮れた白髪と、考えに深みのない魚のような青灰色の目と、形はいいのに印象が薄い顔を見れば誰でも、彼には想像力がない、と言えただろうが、彼がそれを信じることはなかった――それどころか法廷侮辱罪で相手に罰金を科しただろう。小さなチャンスを慎重に集め、わずかな利点をことごとく磨き上げ、党の声に唯々諾々と耳を傾け、岩盤勢力の命令にできる限り従うことで、今の地位にたどり着いた。地位といってもあまり高い地位ではない。年収はたったの六千ドルで、彼のちっぽけな名声は、地元の弁護士と判事の狭い世界を超えて広がることはなかった。しかし、職務にあたっているとか、これこれの判決を下した、と日々引用される自分の名前を見ることは、彼にとって大きな満足だった。こういうものが私を世の中の重要人物にするんだと思った。「見ろ、私は他の人間とは違うだろ」とたびたび考えることがあり、これが彼を慰めた。大事件が自分の予定表に載ると、非常に大喜びした。そして、さまざまな訴訟当事者や弁護士を前にして王座に着くときは、いつも大物気分だった。時々、人生の微妙な機微が実に限定的な彼の知性を混乱させることがあるが、そういう場合にはいつでも法律の条文がある。本当に思考する力のある人間が何を決定したかを見つけ出すには判例集を調べればいい。それに、どこの弁護士もとてもずる賢い。彼らは、有利なものだろうが不利なものだろうが、法律の条文を裁判官の目の前に提示して判断をあおぐのだ。「裁判長、マサチューセッツ州改定判例集第三十二巻の何ページ何行目の、アランデル対バナーマン訴訟を見ればおわかりでしょうが」といったやりとりが法廷内で何度あっただろう? ほとんどの場合、残されている判断の余地はあまりない。そして、法の神聖さが大きな旗のように掲げられ、それを受けてこの現職の誇りは高められるのだ。
シュテーガーが指摘したように、ペイダーソンは不公平な裁判官と見なすには無理がある。彼は党派色の強い裁判官だった――原則的にというよりはむしろ信念を持つ共和党員で、自分が現職でいつづけていることに対して与党の幹部会に恩義を感じ、党の繁栄と自分の主人たちの私的な利益のために、自分が合理的にできると考えたことは何でも進んで熱心にやっていた。ほとんどの人は、自分が良心と呼ぶものの仕組みをあまり深く掘り下げては見ない。調べるにしても、倫理や道徳の絡まった糸を解きほぐす術のないことが頻繁にありすぎる。時代の世論がどうであれ、巨大な利益の重圧が何を求めようが、人はそれを良心に基づいて信じるのだ。その後ある人が「企業的寄りの裁判官」という言葉を作ったが、そういう人は大勢いるのだ。
ペイダーソンもそのひとりで、富と権力をかなり崇拝していた。ペイダーソンにとって、バトラーやモレンハウワーやシンプソンは大物だった――とても大きな権力を持っているので常に正しいと当然のように確信していた。クーパーウッドとステナーの横領事件についてはかねてから耳にしていた。ベイダーソンは、いろいろな大物政治家との付き合いを通じてこの状況を正確に把握していた。党の指導者たちの読みどおり、クーパーウッドの悪知恵のせいで党はとても苦しい立場に立たされた。彼がステナーに道をあやまらせたからだ――普通の市財務官が踏み外すよりも大幅に――ステナーはこの計画を最初に始めた者としてまず有罪であるが、クーパーウッドは想像力豊かにステナーをこれほど悲惨な結末に導いたのだから、それを上回る罪だった。さらに、党は責任を押し付けられる相手を必要としていた――ペイダーソンには最初からこれで十分だった。もちろん、党が選挙に勝って、それほど大きなダメージを受けなかったのが明らかなのに、なぜクーパーウッドが依然としてこれほど慎重に訴訟手続きに含まれるのかベイダーソンにはまったくわからなかったが、彼を許さない何か正当な理由を指導者たちが持っているからだと信じるだけの信念は持っていた。各方面から話を聞いて、バトラーがクーパーウッドに何か個人的な恨みを抱いていることを知ったが、それが何かを正確に知っている者はいないようだった。大方の印象は、クーパーウッドがバトラーを何かの不健全な金融取引に巻き込んだというものだった。いずれにせよ、党のためと、危険な部下たちに健全な教訓を与えるために、この数件の起訴がそのまま進められることになったと広く理解された。道徳的な影響を社会に与えるために、クーパーウッドはステナーと同様に厳しく罰せられることになった。党と裁判所が全面的に正しく見えるように、ステナーは彼の罪に対して最高刑を宣告されることになった。その先は知事の慈悲に委ねられ、知事が望み、党指導者が望めば、ステナーのために状況を緩和することができる。一般大衆の愚かな頭は、四季裁判所のいろいろな判事というのは、寄宿学校に閉じ込められた少女のように、人生からかけ離れた平和な世界にいて、政治の隠れた世界で何が起きているのかを知らないと思っていた。しかし彼らは十分に知っていたし、自分たちの地位と権威の継続がどこから来るのかを特によく知っていたので、当然感謝していた。
第四十章
クーパーウッドが父親とシュテーガーと一緒に、実にさわやかに、颯爽と(抜け目のない資本家、実業家らしい風貌で)混み合う法廷に現れると、みんなが目を凝らした。そのほとんどの人が、こういう男に有罪を期待するのは無理があると考えた。間違いなく有罪だ、しかし、間違いなく、法の網をくぐり抜ける手段も持っている。傍聴人には彼の弁護士のハーパー・シュテーガーがとても抜け目なく狡猾に見えた。とても寒い日だった。二人とも最新流行の濃い青灰色のオーバーコートを着ていた。クーパーウッドは天気がいいと、小さな花飾りをボタンホールにつけるのだが、この日は何もつけなかった。しかし、ネクタイはラベンダー色の重厚で印象的なシルクで、澄んだ緑色の大きなエメラルドがあしらわれていた。懐中時計の極細の鎖を身につけているだけで、他に飾りの類は何もなかった。いつもは颯爽としているのに控えめで、気立てがよく、それでいて有能で、自助自立の人に見えた。今日ほどそう見えたことはなかった。
クーパーウッドは即座にその場の雰囲気を読み取った。自分に異様な関心を寄せていた。彼の前にはまだ人のいない裁判官席があり、その右側に人のいない陪審席があり、その中間、傍聴席に向かって座る裁判官の左側に、彼がやがて座って証言しなければならない証人席があった。その後ろではジョン・スパークヒーバーという太った廷吏が、すでに裁判官の到着を待ち構えて立っていた。彼の仕事は、宣誓のときに証人が触れる年季の入った脂ぎった聖書を差し出すことと、証言が終わったときに「こっちに進んで」と言うことだった。廷吏は他にもいた――一人は裁判官の机の前にある柵で囲まれた空間につづく入口にいた。そこは囚人の罪状認否が行われ、弁護士が座ったり弁護したりし、被告人が席につく場所だった。もう一人は陪審員室に続く通路、さらにもう一人は一般人が入ってくる扉を警備していた。クーパーウッドは証人の中にいるステナーを観察した。ステナーは今、自分の運命に無力に怯え、誰にも恨みを向けていなかった。彼は本当に誰のことも恨んたことがなかった。今の自分の状況を見て、何よりも今はクーパーウッドの助言に従っていればよかったと思ったが、判決が下されたら、モレンハウワーや彼に代表される政界実力者たちが自分のために知事に働きかけて何かをしてくれる、とまだ信じていた。随分顔色が悪く、以前に比べるとほっそりし、繁栄の時代についたあの血色のいい肉付きはすでに失われていた。新しい灰色のスーツを着て、茶色のネクタイをしめ、髭はきれいに剃られていた。クーパーウッドの見据えるような視線に合うと、彼の目は泳ぎ、下を向き、馬鹿みたいに耳をかいた。クーパーウッドはうなずいた。
「なあ」クーパーウッドはシュテーガーに言った。「ジョージには同情するが、まったく愚かな奴だ。それでも、私は自分にできることはすべてやったんだ」
クーパーウッドは横目でステナー夫人のことも観察した――小柄で、やつれた、血色の悪い小さな女で、服装はひどいもんだった。ああいう女と結婚するのが、いかにもステナーらしい、と思った。上流社会に選ばれない、あるいはふさわしくない者同士のみすぼらしい組み合わせは、常に彼を面白がらせるわけではないが、常に興味深いものだった。もちろん、ステナー夫人はクーパーウッドにまったく好感を持っていなかった。実際に彼女は彼のことを夫を破滅させた不正の原因と見ていたからだ。今再び貧乏になり、大きな家からもっと安い住居へ引っ越すことになった。これは夫人にすれば考えるだけで不愉快だった。
しばらくしてペイダーソン判事が、人間というよりは鳩にかなり似た、小柄だががっしりした法廷係員を連れて入って来た。判事らが入廷すると、机の横でうとうとしていた廷吏のスパークヒーバーが判事の机を叩いて「ご起立願います!」とつぶやいた。傍聴人たちはすべての法廷の慣例に従い、立ち上がった。ペイダーソン判事は机の上にあるたくさんの弁論趣意書をかき分けながら、きびきびと質問し「最初の事件は何だね、プロートスさん?」と事務官に話しかけていた。
この日に扱う訴訟の長くて退屈な整理がつづき、弁護士たちのいろいろな細かい申し立てが検討される間の、法廷の光景はクーパーウッドの関心をずっとつなぎとめた。どうしても勝ちたかったし、自分をここに連れてきた不運な出来事の結果には憤慨していた。表にこそ出さなかったが、人々のやる作業があまりにも頻繁に法的に妨げられる、引き延ばしや質問や些細な言い争いを重ねて進んでいく全過程に、彼はいつも激しい苛立ちを覚えた。もしみなさんが彼に尋ねて彼が自分の考えを正確に表現したならこう言っただろう。法律とは、人間の気分と誤解から生じた霧である。それが人生という海を曇らせて、人間という商業や社会に乗り出す小舟の順風の航海を妨げる。法律とは誤解の瘴気であり、そこは人生の病が悪化し、偶然に傷ついた者が、力や偶然という上下の臼に挟まれてすり潰される場所でもある。これは奇妙で異様で興味深いが、それでいてむなしい知恵の戦いであり、そこでは無知、無能、狡猾な者、怒った人、弱い者が、他人――つまりは弁護士、自分たち気分、虚栄心、欲望、必要、に応じてもてあそんでいる者――のチェスの駒かバドミントンの羽根にされた。それは罪深くて満足に至ることがない、妨害と引き延ばしの見世物であり、人生と人間のもろさ、策略、輪縄や落とし穴やバネ式など各種の罠に関する痛ましい記録である。全盛期の彼のような強者の手にあれば、法律は剣であり盾であり、油断した者の足元に仕掛ける罠であり、追いかけてくる者の通り道に掘る落とし穴である。それは選択次第でどんなものにでもなるものだった――違法なことをする機会への扉にも、正しく見ようとする者の目に投げつける砂煙にも、真実とその実行、正義とその裁き、犯罪と処罰の間に恣意的におろされるベールにもなった。弁護士は基本的にどんな訴訟のときでも、売買される知的な傭兵だった。クーパーウッドは、弁護士たちの論理的で感情的な決まり文句を聞いて、さらに、彼らがほとんどどんなことでも根拠にして、どんな目的のためにでも、どれほど簡単に嘘をつき、盗み、言い逃れ、事実を歪曲するかを見て、面白がった。偉大な弁護士というのは、クーパーウッドと同じように、クモのように暗がりにある密に編まれた巣に潜み、油断した人間というハエが近づいてくるのを待っている、ただの偉大で無節操な知恵者に過ぎなかった。人生は、せいぜい残忍さで築かれた、暗く、非人間的な、不親切で、無情な闘いであり、法律と弁護士はその不満足な混沌全体を代表する最も卑劣な存在だった。それでもクーパーウッドは人間の病を取り除くために、他の罠や武器を使うのと同じように法律を使い、弁護士については、自分を守るために棍棒やナイフを使うのと同じようにして彼らを使った。彼はどの弁護士のことも特に尊敬しなかった――好きではあったがハーパー・シュテーガーのことさえも尊敬しなかった。彼らは使われる道具に過ぎない――ナイフ、鍵、棍棒、何でもいいが、それ以上ではない。仕事が済めば報酬が支払われてお払い箱だ――脇へ追いやられて忘れ去られた。裁判官については、大体がただの無能な法律家だ。幸運に巡り合って持ち上げられてはいるが、もし同じ立場に立たされたら、どう見ても自分たちの前で弁護する弁護士ほどの力量はない。クーパーウッドは裁判官を全然尊敬していなかった――彼らについては多くを知りすぎたからだ。クーパーウッドは彼らがどれほど追従屋で、政治的野心を持ち、政治家の手先であり、道具、日和見、政財界の大物実力者の前に敷かれている司法的な汚点をぬぐうドアマットであるかも、実力者が彼らをそうやって使うことも知っていた。裁判官は、この埃まみれの不誠実な世界のほとんどの人たちと同じで、愚か者だ。ふん! 彼の腹の底が読めない目は、すべてをわかった上で何の反応も示さなかった。唯一の安全は自分の頭脳の壮大な機知であり、それ以外にはない、と考えた。この人間世界の仕組みに、何か偉大な、あるいは本質的な美徳があることをクーパーウッドに納得させることはできなかった。彼はあまりにも多くのことを知っていた。彼は自分自身を知っていた。
ようやくいろいろな細かい未処理の申し立てをすべて片付けると、裁判官は事務官にフィラデルフィア市対フランク・A・クーパーウッド事件を呼び出すよう命じた。これははっきりした声で読み上げられた。新任の地方検事デニス・シャノンとシュテーガーの両名は同時に立ちあがった。シュテーガーとクーパーウッドは、シャノンと今入廷してペンシルベニア州原告代表として立っているストロビクと共に、裁判官席前のスペースを囲む手すりの内側の長いテーブル席に着いた。シュテーガーはあくまで効果を狙って、この起訴を退けるようペイダーソン判事に申し立てたが却下された。
この事件を審理する陪審団が速やかに選ばれた――今月任に就くために招集された人たちの通常の名簿から十二名が選出された――相手側の弁護人による忌避を受ける準備に入った。この裁判所に関する限り、陪審員の選任手続きはかなり単純なものだった。その仕組みは、中国の官僚似の事務官が、今月のこの裁判所で任につくために招集された陪審員全員――全部で約五十名ほど――の名前を聞き取り、その名前をそれぞれ個別の紙札に記入して回転式抽選器の中に入れて数回まわし、手が触れた最初の札を取り、こうして偶然を頼みとし、誰が陪審員第一号かを決定するというものだった。十二回入れた手が十二名の陪審員の名札を引き出し、名前が呼ばれた者は陪審席に着席するよう命じられた。
クーパーウッドは大きな関心を持ってこの一連の出来事を見守った。自分を裁こうとする者よりももっと重要なものがあるだろうか? 正確な判断を下すには進行が早すぎたが、中流階級の人たちという印象をかすかに受けた。しかし、特に一人の男性、鉄灰色の髪と顎鬚の、もじゃもじゃ眉毛で、黄ばんだ顔色をした、猫背の六十五歳の老人は、気性が優しくて経験豊富そうだから、特定の状況なら議論によっては自分に有利に傾くかもしれない印象をクーパーウッドに与えた。もう一人の、小柄で、鼻と顎の尖った、どこか商人風の男にはすぐに嫌悪感を覚えた。
「あの男を陪審員にする必要がないといいな」クーパーウッドは静かにシュテーガーに言った。
「する必要はありませんよ」シュテーガーは答えた。「私が忌避しますから。こういう事件では、我々に十五回の専断的忌避権があります。検察側にもありますがね」
陪審席がようやく満員になると二人の弁護士は、事務官が小さな板を持ってくるのを待った。それには選出順に――一列目は陪審員一号、二号、三号、二列目は四号、五号、六号といった具合に――並んだ十二名の陪審員の名前を記した紙札が貼ってあった。検察側弁護士には最初に陪審員たちを審査し忌避できる特権がある。シャノンは立ち上がってその板を取り、彼らの職業や専門分野、この裁判の前にこの事件を知っていたか、被告に対して好感や反感などの偏見があるかを質問し始めた。
金融について多少なりとも知識があって、この種の特殊な状況を理解できる人を見つけるのがシュテーガーとシャノン双方の仕事だった。(シュテーガーの視点から見れば)金融の嵐を乗り切るために、合理的な手段で自助努力をする人物に何らかの偏見を持つ人たちであり、(シャノンの視点から見れば)そこに少しでも何かの詭計、ごまかし、不正操作の疑いがあるのに、それに同情してしまう人たちだった。やがてシャノンとシュテーガー双方がこの陪審について自分たちで観察したように、これは、都市という大海原に投げ込まれた裁判所の網がこの種の目的のために引き上げた、社会に生息するさまざまな種類の小魚で構成されていた。その構成は主に、経営者、代理人、商人、編集者、エンジニア、建築家、毛皮商人、食料雑貨商、巡回セールスマン、作家など、この性質の裁判を担当するのに適した経験を持つあらゆる種類の働く市民だった。傑出した人物を見つけることはまれだが、厳格な常識として知られるあの興味深い資質を少なからず持つ人たちが集まることが多々あった。
その間ずっと、クーパーウッドは静かにこの男たちを観察していた。青白い顔で、幅の広い思索的な額の、貧血気味な手をした若い花屋なら、自分の個人的な魅力に十分影響されそうだから価値があるという印象を受け、シュテーガーにそうささやいた。抜け目ないユダヤ人の毛皮商人がいたが、この恐慌のニュースをすべて読んでいて、路面鉄道株で二千ドルも損を出していたので忌避された。赤い頬と青い目をした亜麻色の髪の、がっしりした雑貨卸売り商人がいたが、彼は頑固そうだとクーパーウッドが言ったので除外された。やせて小粋な、小さな衣料品店の経営者がいたが、彼は免除されたい一心で、自分は聖書による宣誓を信じていないと偽って主張した。ペイダーソン判事は厳しい目で見つめながら男を解放した。その他にも約十人ほどいた――クーパーウッドを知る者、偏見を持っていると自ら認めた者、ガチガチの共和党員でこの犯罪に憤慨している者、ステナーを知る者――は気持ちいいほどに除外された。
しかし十二時までには、双方にとってそれなりに納得のいく陪審が選出された。
第四十一章
二時ちょうどに、デニス・シャノンは地方検事として冒頭陳述を始めた。シャノンはとても簡潔かつ丁寧に述べた――彼はとても人を惹き付ける態度の持ち主だった――ここに提示された起訴状は、陪審席の柵の内側の席にいるフランク・A・クーパーウッド氏を、第一に窃盗罪、第二に横領罪、第三に受託者による窃盗罪、第四に特定の金額――具体的な金額は六万ドル――の横領罪で告発するものである。これは一八七一年十月九日に(同氏の指示により)同氏に渡された小切手に基づくもので、これは(両名の間に存在して一定期間有効であったある種の合意のもと)市財務官の指示で、代理人もしくは小切手の受託者たる同氏が市の減債基金向けに購入した、特定数の市債証書代金を同氏に返済することを目的とするものだった。この基金は、こうした証書が保有者の手元で満期を迎え、支払いのために提示された際に、その証書を引き取るためのものである――しかし問題の小切手はその目的に使われたことがなかった。
「さて、みなさん」シャノンはとても静かに言った。「クーパーウッド被告が問題の日に、市財務官から六万ドルを受領したかしなかったかという非常に単純な問題に入る前に、彼がそれを誠実に返済をしなかったとして、原告は彼を、第一に窃盗罪、第二に横領罪、第三に受託者による窃盗罪、第四に小切手に対する横領罪で起訴しましたが、それにあたって原告が何を言わんとしているのかを私からみなさんに説明させてください。さて、このとおり、ここに我々法律家が罪状と呼ぶものが四つあります。四つある理由は次のとおりです。被告は窃盗罪と横領罪が両方同時に成立するかもしれません。あるいは窃盗罪か横領罪の片方だけが有罪で、もう片方は有罪が成立しないかもしれません。市民を代表する地方検事でも確信は持てないと言っていいでしょう。これは被告が両方の罪状で有罪ではないというのではなく、ある意味で両方の側面を持つ犯罪に対して十分な処罰を確実にするには、ひとつの罪状では証拠を提出できないかもしれないからです。こういう場合はですね、みなさん、本件で採用されたように個別の複数の罪状で被疑者を起訴するのが慣例なんです。さて、この事件の四つの罪状は、ある程度重複し互いに補完し合っています。そして我々がその性質と特徴を説明して証拠を提示したあとで、被告がいずれかの罪状で有罪にあたるかどうか、あるいは罪状のうちの二つが、三つが、あるいは四つが全部有罪と、みなさんが適切で正しいと思ったとおりに――もっとはっきり言えば、証拠が示すとおりに言うことがみなさんの義務です。みなさんはご存知かもしれないし、ご存知ないかもしれませんが、窃盗というのは他人の所有物や動産をその人が知らないうちに、あるいは同意なしに持ち去る行為です。そして横領は、自分が保管や管理を任されたものを、特にお金ですが、それを不正に自分のために流用することです。一方、受託者による窃盗罪は、単に窃盗罪をより限定的にしたもので、信頼されて物品が引き渡された相手、つまり代理人や受託者が、相手の所有物を相手が知らないうちに無断で持ち去る行為、に限定するものです。四つ目の罪状を構成する小切手に関する横領罪は、二つ目の罪状を厳密な形でさらに限定的にしたもので、ある特定の明確な目的のために振り出された小切手のお金を着服することを意味します。みなさん、おわかりでしょうが、これらすべての罪状はある意味では同じなんです。互いに重複し合っています。原告は代表者の地方検事を通して、本件被告クーパーウッド氏は四つの罪状すべてで有罪である、と主張します。それでは、みなさん、この犯罪の経過に話を移します。私個人はこの犯罪から、この被告が犯罪に手を染める資本家のタイプでも最も狡猾で危険な頭脳の持ち主であることがわかるのですが、我々は証人を通して、それをみなさんにも証明したいと思います」
ここでは証拠に関する規則と法廷手続き上、検察側が事件を説明するのを中断させることが認められなかったため、シャノンは次に、クーパーウッドがどのような経緯で初めてステナーに出会ったのか、どのように巧みに取り入ってステナーの信頼を得たのか、ステナーの金融知識がいかに乏しかったかなど、自分なりの視点から話をつづけ、最後に、六万ドルの小切手がクーパーウッドに渡された日のこと、窃盗罪の根拠となる小切手の引き渡しについてステナーは財務官として何も知らなかったと主張したこと、さらに、証書が購入されたにしても、小切手を受け取りながらクーパーウッドが減債基金のために購入されたはずの証書をどのように着服したか、に話を向けた。――そして、これらすべてが被告が告発された犯罪を構成しており、被告は疑いの余地なく有罪です、とシャノンは述べた。
「ここまで述べたことすべてについて、我々には直接的で確かな証拠があります、みなさん」シャノンは激しい口調で締めくくった。「これは噂や推測の問題ではなく、事実の問題です。揺るぎない直接証言によって、それがどのように行われたのか、みなさんに明かされます。この話をすべて聞き終わってもなおみなさんが、この男は潔白である――この男は起訴された犯罪を犯さなかった――と思うのであれば、この男に無罪を言い渡すのがみなさんの仕事です。逆に、我々が証言台に立たせる証人たちが真実を語っていると思うのであれば、この男を有罪にすることが、被告には不利でも市民の側に立った評決を下すことが、みなさんの仕事です。ご静聴ありがとうございました」
陪審員たちは体が楽になるように身じろぎして、くつろぐ姿勢をとった。その状態でしばらく休息しようと思った。しかし、彼らの怠惰なつくろぎは束の間で、シャノンがさっそくジョージ・W・ステナーの名前を呼んだ。ステナーはとても青白く、かなりぐったりし、疲れ切った様子で急いで前に出た。証人席に座って、聖書に手をのせ、真実を語りますと宣誓する間、彼の目は落ち着きなく神経質に泳いだ。
証言を始めるときも、声が少し弱かった。まず、一八六六年の初旬にクーパーウッドと出会った経緯を語った――正確な日付は思い出せなかったが、市財務官一期目のことだった――当選して就任したのは一八六四年の秋だった。ステナーは市債の状況に悩んでいた。市債が額面を下回っていて、法律上、市は額面でしか売却できなかったからだ。クーパーウッドのことは誰かから彼に推薦された――ストロビク氏だと思うが、自信はなかった。こういう危機のときに市財務官がプローカーを複数もしくは一名雇うのは慣例であり、ステナーはただ慣例に従っただけだった。シャノンの鋭い頭脳から繰り出される絶え間ない誘導と質問を受けて、最初の会話がどのような性質のものだったか、ステナーは説明を続けた――どんなふうにクーパーウッド氏が、ご要望どおりにできると思いますと言ったか、どんなふうに立ち去って、計画を立て、あるいは考え出したか、そして、どんなふうに戻って来てそれをステナーの前に提示したか、これをステナーはよく覚えていた。シャノンの巧みな誘導のもとで、ステナーはこの計画の全容を明らかにした――これは必ずしも普通の人間の誠実さを称賛するものではなく、人間の智謀と技術を証明するものだった。
ステナーとクーパーウッドの関係について多くの議論が交わされた後で、話はいよいよ前年の十月まで進んだ。この頃には、仲間づきあい、長年の仕事で成立した合意、相互利益の関係などによって、クーパーウッドが年間数百万ドルの市債を扱い、市のために売買したり、手広く取引しただけでなく、さらに、五十万ドル相当の市の公金を超低金利で確保し、これがクーパーウッドとステナーのために、いろいろな種類の収益性の高い路面鉄道事業に投資されるところまで行った、との説明がなされた。ステナーは、この点ついて、すべてを明かしたがらなかった。しかしシャノンは、後で自分がステナー本人をまさにこの横領罪で起訴することや、シュテーガーがすぐに反対尋問を行うことがわかっていたので、ステナーを曖昧なままにしておくつもりはなかった。シャノンは陪審に、クーパーウッドは抜け目なくて油断できない人物として印象づけたかったから、徐々にではあるが確実に、彼がとてもずる賢い男だとそれとなく示すことに成功した。時折、クーパーウッドの手口の抜け目ない点が次から次へと明かされ、適度につまびらかにされると、陪審員がちらほらと振り向いてクーパーウッドを見ることがあった。クーパーウッドはこれに気づくと、できるだけ好印象を与えるために、知性と理解力を備えた落ち着いた雰囲気でただステナーを見つめるだけにした。
尋問はようやく、一八七一年十月九日の午後遅く、アルバート・スターズがクーパーウッドに渡したという六万ドルの小切手の問題まで来た。シャノンはステナーに小切手の実物を見せた。あなたは今までにこれを見たことがありますか? はい。どこでですか? 十月二十日頃、ペティ地方検事の事務所でです。これを見たのはそのときが初めてですか? はい。それ以前にこれについて聞いたことがこれまでにありましたか? はい。いつですか? 十月十日です。あなたはそれを、どうやって、どういう状況で最初に聞いたのか、あなた自身の口からわかりやすく陪審に話していただけますか? ステナーは居心地悪そうに椅子の上で体をよじった。話すのはつらいことだった。いくら控えめに言っても、これは彼自身の性格と道徳心の強さについての楽しい話ではない。しかし再び咳払いして、人生というドラマのあの小さいのにつらい件を語り始めた。それは、窮地に陥り、破産寸前なのを知ったクーパーウッドが、事務所の自分のところにやって来て、一括でもう三十万ドル貸してほしいと要求したというものだった。
ちょうどここで、シュテーガーとシャノンの間でかなり言い争いがあった。この件に関してステナーが真っ赤な嘘をついているように見せかけようとシュテーガーが必死だったからだ。さらにここで、シュテーガーが異議を唱えて、話の本筋から大きく脱線させた。ステナーが「思った」とか「信じた」を連発したからた。
「異議あり!」シュテーガーは繰り返し叫んだ。「その発言は、証拠能力がなく、無関係であり、重要性がないので記録から削除するよう願います。証人が自分の考えを述べることは許されておりません。検察官はそのことをよくご存知のはずです」
「裁判長」シャノンは主張した。「私は証人がわかりやすく率直に話ができるよう最善を尽くしております。それに、証人がそのようにしていることは明白だと思います」
「異議あり!」シュテーガーは大声で繰り返した。「裁判長、証人の誠実さを誇大評価して、陪審の心証をゆがめる権利が地方検事にはないことを私は断言いたします。検察官が証人や証人の誠実さについてどう思うかは、本件には何の関係もありません。裁判長の方からこの件をはっきり検察官に注意していただけるよう、お願い申し上げます」
「異議を認めます」ペイダーソン判事は宣言した。「検察官はもっと明確に願います」そして、シャノンは立証作業を続けた。
ステナーの証言は、ある点が極めて重要だった。証言は、クーパーウッドが明かされたくなかったことをはっきりさせたからだ――すなわち、クーパーウッドとステナーがこの直前に言い争いをしたことと、ステナーがクーパーウッドにこれ以上お金を貸さないとはっきり明言していたことであり、さらにはクーパーウッドがこの小切手を入手した前日と、当日改めてステナーに、クーパーウッドが資金繰りでかなり絶望的な状況にあったことと、もし三十万ドル規模の援助がなされなかったらクーパーウッドは破産しそうだったことと、そうなればクーパーウッドもステナーも共に破滅することを伝えていたことである。ステナーによれば、ステナーはこの日の午前中に、減債基金向けの市債購入を中止せよと命じる書簡をクーパーウッドに送っていた。クーパーウッドがステナーの知らないうちに、アルバート・スターズから六万ドルの小切手をこっそり手に入れたのは、同じ日の午後に二人が会話を交わした後だった。この後でステナーは改めてアルバートを派遣して小切手の返還を要求したが断られ、翌日午後五時にクーパーウッドは会社の譲渡を行った。そして、盗まれた小切手で購入されたはずの証書は、本来あるべき減債基金になかった。これはクーパーウッドにとって不利な証言だった。
もしこのすべてが、シュテーガーによるたくさんの激しい反対意見や異議申し立てなしに行われたとか、その後シュテーガーがステナーに反対尋問をしているときに、シャノンによる同様の行動がとられることなしに行われたとか、想像する者がいたなら、その者は大きな間違いを犯している。法廷は時々この二人の激しい論戦で火花を散らしていたので、裁判長は二人を落ち着かせるために、小槌で机を叩いたり、法廷侮辱罪をちらつかせて脅さざるを得なかった。実際、ペイダーソンは激昂したが、陪審は面白がって興味津々だった。
「二人とも、いい加減にしないと、双方に重い罰金を科しますよ。ここは法廷であって酒場ではありません。シュテーガーさん、ただちに私と地方検事に謝罪してください。シャノンさん、攻撃的なやり方を控えてください。あなたの態度は不快です。そういうのは法廷にふさわしくありません。もうどちらにも警告しませんよ」
両弁護士とも、弁護士がこういう場でするように謝罪したが、実態はほとんど変わらなかった。どちらの態度も気分もそれ以前のままだった。
こうした煩わしい中断のあとで、シャノンはステナーに尋ねた。「クーパーウッドさんはそのとき、十月九日、三十万ドルの追加融資を頼みに来たとき、あなたに何を言いましたか? 思い出せるかぎりでいいですから、彼の言葉で答えてください――できれば正確に」
「異議あり!」シュテーガーは盛んに横槍を入れた。「彼の正確な言葉はステナーさんの記憶以外のどこにも記録されておりません。そういうものについての彼の記憶は、この事件の証拠としては認められません。証人はすでに事件の概要を証言しております」
ペイダーソン判事は厳しい表情で微笑んで「異議を却下します」と答えた。
「異議あり!」シュテーガーは叫んだ。
「私が思い出せる限りでは」ステナーは証人席の肘掛けを神経質に叩きながら答えた。「もし私が三十万ドルを彼に渡さなければ、彼は破産し、私は貧乏になって刑務所に行くことになる、と言いました」
「異議あり!」シュテーガーは跳び上がるように立って叫んだ。「裁判長、私は検察官のこの尋問の進め方全体に異議を申し立てます。地方検事がここでこの証人の不確かな記憶から引き出そうとしている証言は、すべての法律と判例に反しており、本件の事実とも何ら明確な関連性を持っておらず、クーパーウッドさんが自分が破産すると思ったか思わなかったかを反証することも立証することもできません。ステナーさんはこの会話、あるいはこの時にあったどの会話にも、一つの見解を述べるかもしれませんが、クーパーウッドさんには別の見解があるかもしれません。現に両名の見解は異なっております。検察が得意げに主張する割に証明することができない特定の申し立てが、陪審員の心証に偏見を抱かせようとしているものでない限り、私にはシャノン検察官のこの尋問の意図がさっぱりわかりません。証人は正確に覚えている事実だけを証言し、覚えていると思う程度のものについては証言しないよう、裁判長は証人に警告すべきだと思います。私としましては、この五分間でされた証言はすべて削除されるべきと考えます」
「異議を却下します」ペイダーソン判事はかなり冷ややかに答えた。陪審の心証に残るステナーの証言の重みを軽減するためだけに話していたシュテーガーは着席した。
シャノンは再びステナーに近づいた。
「さあ、できるだけ正確に思い出してください、ステナーさん、その時クーパーウッドさんは他にどんなことを言ったのか、陪審員に話してください。彼は絶対に、あなたは破滅して刑務所に行くことになる、で話をやめませんでしたよね。その時に使われた他の言い回しはありませんでしたか?」
「私が覚えている限りでは」ステナーは答えた。「私を脅そうとしている政治的策謀家がたくさんいるとか、もし私が彼に三十万ドル渡さなかったら、私たちは二人とも破滅するとか、仔羊を盗んで裁かれるのなら親羊を盗んで裁かれた方がましだ、と言いました」
「ほお!」シャノンは叫んだ。「彼はそんなことを言ったんですか?」
「はい、言いました」ステナーは言った。
「どういうふうに言いましたか、正確には? 正確な言葉はどういうものでしたか?」シャノンは、力強く人差し指を相手に突きつけて、何が起こったのか鮮明な記憶を引き出そうと相手に迫りながら、語気を強めて問いただした。
「ええ、できるだけ正確に思い出しますと、彼が言ったとおりに言いますと」ステナーは曖昧な態度で答えた。「仔羊を盗んで裁かれるのなら親羊を盗んで裁かれた方がましだ、です」
「やっぱりそうでしたか!」シャノンは陪審の前を通り過ぎて身を翻し、クーパーウッドを見ながら叫んだ。「私が思っていたとおりだ」
「ただの演出です、裁判長」シュテーガーはすかさず立ち上がった。「陪審員の心証に偏見を抱かせるためのものでしかありません。演技です。手持ちの証拠に限定して、自分を有利にするための演技をしないよう裁判長から検察官に警告願います」
傍聴人が微笑んだ。すると、ペイダーソン判事はそれに気づいて、厳しく眉をひそめた。「今のは異議としての申し立てですか、シュテーガーさん?」ペイダーソンは尋ねた。
「もちろんです、裁判長」シュテーガーは機転を利かせて主張した。
「異議は却下します。検察側も弁護側も、特定の型にはまった表現に限定されるものではありません」
シュテーガーには笑って応える用意もあったが、あえて応えなかった。
クーパーウッドはこういう証言の影響力を恐れ、これに忸怩たる思いでいたが、それでもステナーを哀れむように見た。この男の弱さ、この男のもろさ、この男の意気地なさが我々二人をこんな窮地に追い込んだのだ!
シャノンがこの思わしくない事実を引き出し終えると、シュテーガーがステナーを尋問する番になった。しかしステナーからは期待したほどの成果は得られなかった。この特定の問題に関して、ステナーは正確な真実を語っていた。その正確な真実の影響を解釈の仕方によって弱めるのは難しいが、時にはできることもある。シュテーガーは、クーパーウッドとのステナーの長年の関係を丹念に検証して、クーパーウッドは常に無私の代理人だった――巧妙で本当に犯罪的な企ての首謀者ではなった――ように見えるようにした。やるのは大変だったが、いい印象を与えた。それでも陪審員は懐疑的な気持ちで聞いていた。手っ取り早く金持ちになる絶好のチャンスに貪欲に飛びついたからといってクーパーウッドを罰するのは公平ではないかもしれない、と陪審員は考えたが、これほどあからさまな人間の強欲に無実のベールをかぶせるだけの価値がないのもまた確かだった。ようやく両弁護士がステナーへの尋問をひとまず終えると、次にアルバート・スターズが証言台に立った。
アルバートは事務官として活躍した全盛期と同じように、細身で、感じがよく、敏捷で、かなり好感のもてる人物だった――このときは少し顔色が悪かったが、その他に変わったところはなかった。わずかばかりの財産が救われたのはクーパーウッドのおかげだった。クーパーウッドはスターズに、もしスターズに対し本当に請求があれば――これはなかったが――財産は本来なら市に渡るべきなのに、スターズの保証人たちが自分たちの利益のために財産を差し押さえようとしている、と自治体改革教会に報告するよう助言したからだ。この監視組織はこの問題に関する数ある報告書の一つを発行していた。アルバートはストロビクたちが慌てて手を引くのを見ていい気分だった。一度は彼の前でむなしく泣かざるを得ないことがあったにせよ、当然アルバートはクーパーウッドに感謝していた。今ではこの銀行家を助けるためなら、自分にできることは何でもしたかった。しかし生来の正直な性格が邪魔をして、ありのままの事実以外は何も語ることができなかった。それは有益な面もあればそうでない面もあった。
スターズは、クーパーウッドが自分は証書を購入した、自分にはその金を受け取る権利がある、ステナーはひどく脅えている、きみに害が及ぶことは何もない、と言っていたのを覚えていると証言した。スターズは提示された市財務官の帳簿にある特定の覚書が正確であると確認し、同じように提示されたクーパーウッドの帳簿にある別の覚書もそれを裏付けるものとして確認した。自分の主席事務官がクーパーウッドに小切手を渡したと知ってステナーが驚いたというスターズの証言は、クーパーウッドに不利なものだったが、クーパーウッドは今後の自分の証言がこの影響を打ち消すことに期待をかけた。
これまでのところ、シュテーガーもクーパーウッドも、自分たちはかなり順調にいっている、この裁判に勝っても驚くには当たらないと感じていた。




