第35章-第41章
第三十五章
時間が経つにつれてバトラーは、娘に対する自分の義務についての戸惑いがどんどん大きくなり、進もうにも進めなくなっていた。娘のこそこそした態度と明らかに父親を避たがっている様子から、何らかの形で娘がまだクーパーウッドと会っていることと、このままだと社会的立場を失墜しかねない事態が持ち上がることを確信した。クーパーウッド夫人のところに行って、夫人から夫に圧力をかけてもらおうと一度は思ったが、後になってそれでは駄目だろうと判断した。アイリーンがクーパーウッドと密会している確証がまだなかった。それにクーパーウッド夫人が夫の背信を知らないかもしれなかった。クーパーウッド本人に会いに行って脅そうとも考えたが、それはそれでやるのが難しいし、他の例でもそうだが証拠がなかった。興信所に頼むのもはばかられたし、他の家族の者にも打ち明けたくなかった。一度、北十番街九三一番地の近所まで出かけて行ってその家をさがしがてら探ってみたが、ほとんど成果はなかった。そこは貸家で、クーパーウッドはすでにそことの関係を断っていた。
そしてついにバトラーはアイリーンをどこか遠くへ誘い出す計画を思いついた――ボストンとかニューオリンズ、そこなら妻の妹が住んでいた。それは手の込んだ仕事だった。こういう問題になるとバトラーは必ずしも名人ではなかったが、やることにした。バトラーはニューオーリンズにいる妻の妹宛てに密かに手紙を書いた。自分から聞いたとは一切明かさずに妻に手紙を書いて、アイリーンが遊びに来ることを許してもらえないかと頼み、同時にアイリーンに招待状を書いてくれるように頼んだのだが、その手紙を破り捨てた。少ししてから、モレンハウワー夫人と三人の娘、キャロライン、フェリシア、アルタが十二月の初めにヨーロッパに行き、パリ、リヴィエラ、ローマを訪れることを偶然知った。そこでバトラーは、自分の妻は自分から離れないだろうけど娘たちは行くべきだと口実をつけて、ノラとアイリーン、あるいはアイリーンだけを誘うに自分の妻を説得してはもらえないか、とモレンハウワー夫人に頼むことに決めた。これならしばらくアイリーンを遠ざけておけるだろう。六か月もいなくなるのだ。モレンハウワーはもちろん喜んで協力してくれた。両家はかなり仲がよかった。モレンハウワー夫人は快諾した――喜んだといっても政治的配慮である――そして招待された。ノラは大喜びした。ヨーロッパ見物がしたくてこういうチャンスをいつも待ち望んでいた。アイリーンはモレンハウワー夫人が自分を招待してくれたことがうれしかった。数年前なら、すんなり応じたことだろう。しかし今では、困った横槍が入った、クーパーウッドとの関係を邪魔する小さな障害がまた増えた、としか感じなかった。ある晩、ディナーの席でバトラー夫人から出された提案にアイリーンはさっそく冷水を浴びせた。夫人は自分の夫がこの問題に関与していることを知らなかったが、その日の午後にモレンハウワー夫人の訪問を受け、そのときに招待されたのだった。
「あちらさんはね、お父さんさえよければ、あなたたち二人にも来てもらいたがっているのよ」母親は自分からも勧めた。「あなたたち、すてきなひと時を過ごすことになるわね。パリとリヴィエラに行くんですってよ」
「まあ、すてき!」ノラは叫んだ。「私、ずっとパリへ行きたかったの。あなたもでしょ、アイリーン? すてきじゃなくって?」
「あたしは行きたいとは思わないわ」アイリーンは答えた。アイリーンは最初から興味を示して妥協する気はなかった。「冬になるのに着るものがないもの。また次の機会のお楽しみということにしておきます」
「ええっ、アイリーン・バトラー!」ノラは叫んだ。「どうしてよ! いつか冬の外国に行きたいって何度も言ってたじゃない。せっかくそのチャンスが来たのよ――それに服なんか向こうで作ってもらえばいいでしょ」
「現地では買えないの?」バトラー夫人は尋ねた。「それに、こっちでだってまだ二、三週間あるわよ」
「ガイドを兼ねた相談役として男手は要りませんかね?」カラムが口を挟んだ。
「そういう役目でしたら僕がお役にたてるかもしれません」オーエンがさりげなく言った。
「お母さんじゃ、わかりませんよ」バトラー夫人は笑顔で口いっぱいほおばりながら答えた。「あちらさんに聞かなきゃ駄目でしょ」
アイリーンはねばった。行きたくなかったのだ。急すぎるとか、ああ言えばこう言い、こう言えばああ言った。ちょうどその時バトラーが現れてテーブルの上座についた。すべてを知っているくせに、そう見えないように苦心していた。
「反対しませんよね、エドワード?」夫人は提案のあらましを説明しながら尋ねた。
「反対だぞ!」バトラーの返事はいかにもそれらしいが、無理にはしゃごうとしていた。「自分のためならそういきたいところだな――反対は。しばらくお前たちみんなを締め出せたらせいせいするかもしれん」
「よくそんなこと言うわ!」夫人は言った。「ひとりで暮らすなんてあなたの手には負えませんよ」
「ひとりぼっちじゃないさ」バトラーは答えた。「この街には私を歓迎してくれる場所はいくらでもある――大きなお世話だ」
「そして、私がいなかったらあなたが歓迎されないところだって、いくらでもありますからね。言っときますけど」バトラー夫人がにこやかに切り返した。
「確かに真実を誇張してるってわけでもないな」バトラーは優しく答えた。
アイリーンは譲らなかった。ノラと母親が二人がかりでいくら説得しても何の効果もなかった。バトラーは自分の計画が失敗したのをかなり不満げに見ていたが、あきらめなかった。モレンハウワー家の招待を受けるように娘を説得できる見込みはないと最終的に確信したバトラーは、しばらくしてから探偵を雇うことにした。
当時、探偵で名高いウィリアム・A・ピンカートンとその事務所の評判はすごかった。この男は貧困から一連の浮沈を経て、その独特で、しかも多くの人が眉をひそめる職業のトップに立った。しかしこうした辛い助けを必要とする人には、この男のとても有名で明らかに愛国的な南北戦争とアブラハム・リンカーンとのつながりは強みになった。ピンカートンは、いや彼の役目は波乱の在任期間中、大統領官邸でリンカーンを守ることだった。会社の業務を行うオフィスは、フィラデルフィア、ワシントン、ニューヨークはもちろんのこと、その他各地にあった。バトラーはフィラデルフィアでも看板をよく見かけたが、地元のオフィスに行くのは気が進まなかった。いったんこうしようと腹をくくると、バトラーは本社があるニューヨークへ行くことにした。
バトラーはある日、いつものようにちょっと仕事を言い訳にしてニューヨークへ向かった。――列車で約五時間かかり――二時に到着した。バトラーはロウワー・ブロードウェイのオフィスで責任者に面会を求めた。相手は五十歳の大柄なデブと言っていい重たそうな体の男で、目はグレイ、白髪頭で、顔はふっくらしているが鋭くて抜け目なかった。話をする間に、指が太くて短い手が漫然と机を叩いた。バトラーにはそれが異様に派手に映ったが、焦げ茶色のウールのスーツを着て、大きなU字型のダイヤのピンをつけていた。バトラーはいつも保守的な灰色の服だった。
この名士の前に案内されるとバトラーは「初めまして」と言った――男の名前はマーチンソン――ギルバート・マーチンソン――アメリカ人とアイルランド人の血を引いていた。マーチンソンは会釈して、バトラーを鋭く観察し、すぐに力のある男、そしておそらくは地位のある男だと見抜いた。それから立ち上がって椅子をすすめた。
「おかけください」マーチンソンはとても毛深い眉毛の下から年老いたアイルランド人を観察しながら言った。「どういったご用件でしょうか?」
「あなたが責任者ですね?」バトラーは鋭く探りを入れる目で相手を見ながら改まって尋ねた。
「はい」マーチンソンは簡潔に答えた。「私がここの責任者です」
「この店を経営しているピンカートンさんは――今はこちらにいらっしゃらないのですか?」バトラーは念のため尋ねた。「悪気はないのですが、もしよければピンカートンさんと個人的にお話がしたいのです」
「ピンカートンは今シカゴにいます」マーチンソン氏は答えた。「一週間か十日は戻らないと思います。ですが、ピンカートン同様にどうぞ安心して私にお話ください。私がここの最高責任者です。ですが、その判断はご自分でなさるのが一番ですね」
バトラーは目の前の男を値踏みしながら、しばらく黙ってじっと考え込んだ。「あなたはご家族がおありですか?」バトラーは唐突に尋ねた。
「はい、結婚しております」マーチンソンは真面目に答えた。「妻と二人の子供がいます」
マーチンソンは長年の経験から、これは息子か娘か妻といった家族の不祥事に違いないと思った。こういう相談は少なくなかった。
「ピンカートンさん御本人とお話したかったのですが、あなたが責任者だとおっしゃるなら――」バトラーは口ごもった。
「私がそうです」マーチンソンは答えた。「ピンカートンに話すのと同じように自由にお話ください。私のプライベート・オフィスへいらっしゃいませんか? そこの方がくつろいでお話できるでしょう」
マーチンソンはブロードウェイを見下ろす二つの窓がある隣の部屋に案内した。重みがあって茶色いきれいに磨かれた長方形のテーブルが一つ、革張りの椅子が四脚、北軍が勝利を飾った南北戦争の戦いの絵が何枚かあった。バトラーは迷いながらあとに続いた。アイリーンのことを誰かに打ち明けるのが嫌でたまらなかった。この期に及んでも自分がやろうとしていることに自信が持てなかった。心の中で思ったように、こういう人たちを見てみたかった。そのうえで自分がやりたいことを決めるつもりだった。窓のところへ行って通りを見下ろすと、そこには乗合馬車を始めとしたあらゆる種類の乗り物の見事な渦巻きがあった。マーチンソン氏は静かにドアを閉めた。
「では、ご用の向きをおうかがいしましょうか、あなたの」マーチンソン氏はいったん話をやめた。こうしてちょっとしたきっかけを与えてバトラーの本名を引き出そうと思ったが――「うまくいく」ことが多いのだが――今回は名前が出てこなかった。バトラーも抜かりはなかった。
「果たしてこれを相談したいのか自分でもあまり自信がありません」老人はまじめに言った。「うまくいかなかったら悪くなるかどうかもわからないんです。知りたいことがありましてね――知っておくべきことが――でも、それが私のとても個人的な問題なものですから――」 バトラーはいったん話をやめて考え、その間にマーチンソン氏を見ながら相手の出方をさぐった。マーチンソンは相手の尋常ではない精神状態を理解していた。こういう例を数多く見ていた。
「最初に言わせてもらいますが、ええと――」
「スキャンロン」バトラーはすらすら言った。「とでも呼んでください、もし名前を呼びたいのでしたら。本名はとりあえず伏せておきます」
「スキャンロンさん」マーチンソンは気にせず続けた。「それが本名であろうがなかろうがこちらは別に構いません。どんな状況でも――あなたが知りたがっている内容にもよりますが――こちらはあなたの本名を知る必要はないかもしれないと申し上げるつもりでした。あなたの私的な事情に関しては、あなたが誰にも口外しなかったのと同じように、私たちは厳守します。私たちの仕事は信頼の上に成り立っています。決して裏切ることはありません。裏切るもんですか。男も女も勤続三十年以上のベテランぞろいです。正当な理由がない限り誰もやめさせませんし、理由をつけてやめさせねばならなそうな人間を選ぶこともありません。ピンカートンは人を見る目があるんです。そう考える人間は他にもいますからね。私たちは毎年、全米各地で一万件を超える個々の案件を手がけています。私たちは必要な範囲でしか案件には取り組みません。顧客が求めるものだけを見つけるように心がけます。必要もないのにひとさまの事情を詮索したりはしません。あなたが知りたいことが私たちでは調べられないと判断したら、真っ先にその旨をお伝えします。多くの案件が着手する前に、このオフィスのこの場で却下されるんですよ。あなたの案件だってそうなるかもしれません。ただ依頼を受けるだけが目的で仕事がほしいのではありませんから、率直にそう申し上げておきます。私たちは公共政策に関わる問題や、小さな迫害のようなものには一切関与しません――事件の当事者にはならないということです。これで内容はおわかりいただけたでしょう。あなたは世間ってものをわかっているお方だとお見受けしますし、私もそうありたいと思ってます。うちのような組織が、誰かの信頼を裏切ると思いますか?」マーチンソンは自分の言ったことがちゃんと伝わったかを確認するために、いったん話をやめてバトラーを見た。
「そうは思えません」バトラーは言った。「おっしゃるとおりです。ですが、あなただって自分の個人的な事を白日の下にさらすのは容易ではないでしょう」老人は悲しげにつけ加えた。
双方、押し黙った。
「どうやら」バトラーは最後に言った。「あなたは信頼できそうだ。いろいろ助言していただきたい。代償は十分に払いたいと思います。調べるのはあまり難しいことではありません。私の住んでいるところにいるある男が、ある女と付き合っているかどうかと、その場所が知りたい。そういうことは簡単に探し出せると思うのですが――いかがでしょうか?」
「お安い御用ですな」マーチンソンは答えた。「そういうことは年中やっています。あなたが話しやすくなるためにも、ちょっとお手伝いできるか確認させてください、スキャンロンさん。きっと、あなただって自分に役立つ以上のことは話したくはないでしょう。私たちも絶対に必要なこと以外はあなたに話してもらいたくありません。もちろん、街の名前はうかがわねばなりません。それと男性もしくは女性のいずれかの名前も必要です。でも、それを言いたくないのであれば、両方である必要はありません。もし片方の名前――たとえば男性の名前――それと女性の特徴――正確なのを――あるいは写真でもいただければ、しばらくしてから、あなたが知りたがっていることを正確にお伝えできることがあります。もちろん、いつだって情報が多いに越したことはありません。そこのところはおまかせします。多かろうが少なかろうが、あなたの好きなように話してください。私たちがあなたのために最善を尽くすことと、後であなたが満足することは保証します」
マーチンソンは和やかに微笑んだ。
「では、本題に入ります」バトラーはようやく思い切って言ったものの、多くの心残りがあった。「あなたには正直に言いましょう。私の名前はスキャンロンではありません。バトラーです。フィラデルフィアに住んでいます。男というのはそこにいます。クーパーウッドという名前の銀行家です――フランク・A・クーパーウッド――」
「ちょっとお待ちください」マーチンソンはポケットから大きなメモ帳と鉛筆をひっぱり出しながら言った。「ひかえます。つづりは?」
バトラーは説明した。
「はい、それから」
「会社が三番街にあります――フランク・A・クーパーウッド商会――場所なら誰でも教えてくれますよ。最近破産したばかりなんです」
「ああ、あいつか」マーチンソンは口を挟んだ。「聞いたことがある。そちらで市の横領事件か何かにかかわっているんでしたね。うちのフィラデルフィアの支店に行かなかったのは、うちの地元の人間にこの件を知られたくなかったからですな。そうじゃありませんか?」
「それがその男で、理由はお察しのとおりです」バトラーは言った。「このことはフィラデルフィアで知られたくないんです。だから、ここにいるんです。この男の住まいはジラード・ストリート――十九の三十七です。そこも行けばわかります」
「わかりました」マーチンソン氏は了解した。
「まあ、私が知りたいのはこの男のことです――それとある女性、というか若い娘です」老人は口をつぐみ、アイリーンをこの件に巻き込まねばならないことにたじろいだ。バトラーはそのことがほとんど考えられなかった――それだけアイリーンのことが好きだった。ずっと誇りだった。バトラーの心でクーパーウッドに対する暗い悶々とした怒りが燃えた。
「お身内の方――なのでしょうね」マーチンソンは気を利かせて言った。「これ以上は話さなくてもいいですよ――何なら特徴だけ教えてください。それを元に着手できるかもしれませんからね」マーチンソンは自分がここで相手にしているのがそれ相応の年をとった立派な一市民であることと、この男がひどく悩んでもいることをはっきり理解した。バトラーの深刻な思い詰めた表情がそれを物語った。「私には率直に言っていいんですよ、バトラーさん」マーチンソンはつけ加えた。「理解していると思いますから。私たちはただ、あなたを助けるのに必要な情報が欲しいだけなんです、それ以上ではありません」
「はい」老人は憮然として言った。「身内の者です。実は私の娘なんです。あなたは良識ある誠実なお方だとお見受けします。私はその子の父親なんです。娘を傷つけるようなことは一切したくありません。娘を救うために苦しんでいます。私が欲しいのはこの男についてです」バトラーは突然大きな拳を力強く握りしめた。
二人の娘を持つマーチンソンは先が案じられるその動作を見守った。
「お気持ちはお察しします、バトラーさん」マーチンソンは言った。「私も人の親ですからね。あなたのために全力を尽くします。お嬢さんの正確な特徴を教えていただくか、うちの人間をあなたの自宅か会社に、もちろん偶然を装ってですが、確認に行かせることができれば、二人が定期的に会っているかどうかをすぐに報告できると思います。知りたいのはそれだけですか?」
「それだけです」バトラーは厳しい顔で言った。
「まあ、時間はかかりませんよ、バトラーさん――運が良ければ三、四日――一週間か十日、まあ二週間もあれば判明するでしょう。最初の数日で証拠がつかめない場合は、どれくらいの期間、相手を監視してほしいかによりますね」
「どれだけ時間がかかろうとも知りたい」バトラーは苦々しく答えた。「突き止めるのに一か月でも二か月でも三か月かかってもいいから知りたい。知りたいんだ」きっぱりと乱暴にこう言うと老人は立ち上がった。「良識のない人間は送らんでくださいよ――たっぷり備えた人をお願いします。もしいるのなら父親である人にしてほしい――そして口外しないだけの良識を持った人をね――若い奴じゃなく」
「わかりました、バトラーさん」マーチンソンは答えた。「お任せください。うちのベテランを当てますから。信頼できる者です。口外したりしませんよ。そこのところは信頼して大丈夫です。まずは一人だけをこの件に担当させましょう。気に入るかどうかをあなた自身が確認できるようにね。私からはその者に何も言わずにおきます。あなたから話してみてください。その者を気に入ればお話ください。後はその者がやりますから。その上で増援が必要なら増援を派遣します。ご自宅の住所は?」
バトラーは伝えた。
「では、今までのことは何も話さないのですね?」
「一切ね――お約束します」
「それで、その人はいつ頃来るのですか?」
「ご都合がよければ明日にでも。今夜派遣できる者もいますよ。今ここにいませんが。いれば、あなたと話をしてもらうんですがね。やっぱり、その者には私から話をして、すべてを説明しておきましょう。あなたは何の心配もいりませんよ。彼が手がければ、お嬢さんの名誉は傷つきません」
「ご親切にありがとうございます」バトラーはとても慎重に態度をほんの少しだけ柔らげて言った。「すっかりお世話になりました。ご厚情痛み入ります。謝礼は存分にいたします」
「そのお気遣いは無用ですよ、バトラーさん」マーチンソンは答えた。「うちの会社は何事も通常料金で提供でいいんです」
マーチンソンはバトラーをドアまで案内した。老人は出て行った。このことでバトラーはとても落ち込んでいた――情けなくて仕方がなかった。自分の娘のアイリーンの素行調査を探偵に頼まねばならないなんて!
第三十六章
その翌日、バトラーのオフィスを訪れたのは、ひときわ背が高く、やせて骨張った、髪と目が黒くて血色の悪い、のっぽで異様に真面目くさった男だった。面長の顔は革のようにカサカサで、まるで鷹のようだった。バトラーと一時間以上打ち合わせをしてから帰った。男はその晩の夕食時にバトラーの自宅を訪れ、バトラーの部屋に通される合間に、策を弄してアイリーンを確認した。バトラーはアイリーンを呼び寄せると、その姿がよく見えるように玄関の片側のかなり端っこに立った。探偵は、冬に備えてすでに掛けられた厚手のカーテンの陰に立ち、通りを眺めているふりをしていた。
「今朝、誰かシシーに乗ったか?」バトラーは大好きな家族の馬のことをアイリーンに尋ねた。探偵の姿が見られた場合、バトラーの計画では馬の売買にやって来た馬主という印象を与えることになっていた。探偵の名前はジョナス・アルダーソンといい、いかにも馬の商人という風貌だった。
「さあ、乗ってないと思うわ、お父さん」アイリーンは答えた。「あたしは乗ってません。確かめてみるわ」
「いや、いいよ。明日お前が乗るか知りたかったんだ」
「お父さんか使うなら乗らないわ。あたしはジェリーの方がいいから」
「よし、それじゃ、厩舎に入れといてくれ」バトラーは静かにドアを閉めた。アイリーンはすぐに馬の商談だと判断した。事前に相談しないで父親が自分の愛馬を処分することはないとわかっていたから、アイリーンはそれ以上このことを考えなかった。
アイリーンがいなくなるとアルダーソンは前に出て来て用件が済んだ旨を告げた。「これで知りたいことはみんなわかりました。何かわかれば数日中にお知らせします」
アルダーソンは帰った。三十六時間のうちにクーパーウッドの自宅とオフィス、バトラーの家、クーパーウッドの弁護士ハーパー・シュテーガーのオフィス、クーパーウッドとアイリーンはそれぞれ密かに完全監視下に置かれた。最初は六人でやっていたが、南六番街にある二番目の密会場所が発見されると最終的に七人になった。探偵は全員、ニューヨークのメンバーだった。アルダーソンは一週間ですべてをつかんだ。アイリーンとクーパーウッドが何かそれらしい待ち合わせをしたのを発見した場合、バトラーが望めばアイリーンがそこにいるうちにバトラーが直行して直にアイリーンに会えるように知らせを受ける、とアルダーソンとバトラーの間で取り決めがなされていた。バトラーにクーパーウッドを殺すつもりはなかった――アルダーソンは、少なくとも自分がいる前では殺さないだろうと見ていた。しかし激しい非難を浴びせて相手を床に倒しアイリーンを追い出すくらいのことはするだろう。これでもうクーパーウッドと付き合っているかいないかについて、アイリーンは嘘をつけなくなる。今後どうなるか、どうならないかは、アイリーンにはわからない。バトラーは自分の言い分をアイリーンに押しつけるだろう。自分から更生すればいいが、そうならなければバトラーは更生施設へ送り込むだろう。妹に、他の立派な子女に、アイリーンが及ぼす影響を考えてのことだ――わかった上でこんなことをしているのだから! アイリーンはこの後ヨーロッパか、あるいはバトラーが行かせると決めたところへ行くことになるだろう。
自分の行動計画を実行するには、バトラーはアルダーソンに信じてもらう必要があった。探偵はクーパーウッドの身柄は守るという自分の立場を明らかにした。
「ぶん殴るだとか暴力沙汰は一切許しませんよ」最初の話し合いのときにアルダーソンはバトラーに言った。「それは違法ですからね。いざとなったらこっちは捜索令状をとって立ち入ることができるんです。私なら、あなたがこの件と関わっていることを誰にも知られずにそれを入手できますよ。ニューヨークから女の子を探しに来たことにすればいいんですから。でも、あなたは私の部下と一緒に立ち入らねばなりません。もめ事はご法度なんです。ちゃんと娘さんの身柄は確保できますよ――我々が連れ出しますから。何でしたら相手の男もね。でも我々がやるとなると、あなたは相手を何かで訴えなくてはなりません。それから近所の人に見られる危険があります。それだとあなたが野次馬を集めてしまわないとも限りません」バトラーはこのことをかなり不安視した。これは人目を引くという大きな危険をはらんでいた。それでもバトラーはつきとめたかった。できることならアイリーンを怖がらせたかった――徹底的に改心させたかった。
一週間もしないうちにアルダーソンは、アイリーンとクーパーウッドが個人宅らしいところを訪れていることをつかんだ。それ以外のものではなかった。南六番街にあるこの家はただの逢い引き場所だった。しかしここはその点にかけて、この類の平均的な施設より優れていた。赤レンガに白い石の縁取りがしてある四階建ての家で、十八ほどあるすべての部屋は派手だがきれいに家具まで備え付けてあった。ここの常連はかなり排他的で、人の紹介で女主人の知り合いになった人しか入れなかった。これが、この世界の不義密通に不可欠なプライバシーを保証した。当事者のどちらかが知られていれば「約束がある」と告げるだけでちゃんと個室に通された。クーパーウッドは以前からこの場所を知っていた。北十番街の家を手放す必要が生じたときに、ここで会おうとアイリーンに指示しておいた。
家の特徴を聞いてアルダーソンは、こういう場所に踏み込んで誰かを探すのは非常に困難だとバトラーに伝えた。しかも入手困難な捜査権が絡んでいた。その商売が地域社会の倫理観に反している多くの場合は、力ずくで入るのが手っ取り早かった。しかし時々部屋の主の猛反発にあうことがあった。今回はその事例かもしれなかった。そういう反発を避ける唯一の確かな手段は、そこを経営する女主人に打ち明けて十分な報酬を払い大人しくさせることだった。「しかし今回はそれをお勧めしません」アルダーソンはバトラーに言った。 「この女はあなたがお探しの男に特に好意的だと思うからです。危険でも奇襲をかける方がいいかもしれない」アルダーソンは説明した。そのためには、リーダーの他に少なくとも三名――おそらく四名――の男が必要になる。呼び鈴に反応してドアが開いて一人が玄関に突入できたら、他の者はすぐに現れて一緒に入り、リーダーを支える。次に必要なのは迅速な家探し――すみやかにすべてのドアを開ける。もし使用人がいたら、何らかの方法で制圧して黙らせねばならない。お金で解決することもあれば、力ずくでやり遂げることもあった。次は、使用人に扮した探偵の一人が、ドアを一つ一つそっと叩く――バトラーと他の者は待機している――顔が見えたら確認、見えない場合は状況に応じて対応をとる。ドアが開かず部屋が空でない場合は、最終的に力ずくということもありえた。この家は頑丈な一つの建物で、安全に守られた正面と裏口のドア以外に逃げ道はなかった。大胆な発想の計画だった。これだけのことをするのに、アイリーンを連れ出すことの秘密は守られねばならないのだ。
これを聞いたときバトラーはこの恐ろしい手段に不安を覚えた。その家に行くのはやめて、自分は知っているんだ、お前は言い逃れできないぞと言って娘と話をするだけにしようかと一度は思った。その上で、ヨーロッパへ行くか更生施設へ行くかを選択させるのだ。しかしアイリーンに素の獣性を感じたのと、彼自身の本質的な荒っぽさとが、最終的にバトラーにその別の方法をとらせた。バトラーはアルダーソンに計画を完璧にして、アイリーンかクーパーウッドがその家に入るのを見たら、すぐに知らせるよう命じた。そのときは自ら現地に乗りつけて、探偵たちの助けを借りてアイリーンと対面するつもりだった。
愛情の観点からも、バトラーが持っていたかもしれない矯正方針から見ても、これは愚かな企てであり、獣のような所業だった。暴力からいい結果は生まれない。しかしバトラーにはそれがわからなかった。バトラーはアイリーンを脅し、ショック療法で自分が犯している罪の大きさをわからせたかったのだ。決定が下されてから丸一週間待った。やきもきして神経がすり減ったある日の午後、山場が訪れた。クーパーウッドはすでに起訴され、今は裁判を待っているところだった。アイリーンは、父親がクーパーウッドをどう思っているかについての自分の考えを時々クーパーウッドに伝えていた。もちろん、アイリーンはこの証拠をバトラーから直接入手したわけではなかった――バトラーはアイリーンに完全に秘密を保ったから、どれだけ容赦なくバトラーがクーパーウッドの最終的な破滅を企てていたかをアイリーンは知らなかった――しかし打ち明けられた話の断片をオーエンがカラムに打ち明け、次にカラムが何の考えもなくアイリーンに打ち明けた。まず、アイリーンはこうして新しい地方検事候補のこと――その検事がとりそうな態度――の情報をつかんだ。その人はバトラーの自宅やオフィスによくやって来た。オーエンがカラムに言った話からすると、オーエンはシャノンがクーパーウッドを「ぶち込む」ために全力を尽くすつもりでいると考えていた――つまり、バトラーはそう考えているということだった。
次にアイリーンは、父親がクーパーウッドの事業再開を望んでいないこと――許されていいとは感じていないこと――をつかんだ。ある朝バトラーは、クーパーウッドの法廷闘争の新聞記事を見たついでに「社会があいつを締め出せばいいんだがなあ」とオーエンに言った。するとオーエンはカラムに、どうしてこの老人はこんなに辛辣なんだろうと尋ねた。二人の息子にはそれが理解できなかった。クーパーウッドはこういうことのすべてと、それ以上のこと――自分を裁くことになるペイダーソン判事のことや、判事がバトラーの友人であること――それからステーネルは刑期の上限で収監されるかもしれないが、その後すぐに恩赦を受けるであろうことも聞いた。
明らかにクーパーウッドはあまり怖がってはいなかった。有罪になっても自分には知事に恩赦を働きかける有力な財界の友人がいるし、いずれにせよ、自分を有罪にするだけの証拠はないと考えていることをアイリーンに告げた。クーパーウッドは、世間の騒ぎとアイリーンの父親の影響力のせいで、政治的に責任をなすりつけられただけに過ぎなかった。バトラーが二人に関する手紙を受け取って以来、クーパーウッドはバトラーに目の敵にされていた。それ以外の何物でもなかった。「きみのお父さんさえいなかったら」クーパーウッドは言った。「こんな起訴はすぐに取り消せたんだ。モレンハウワーもシンプソンも、私に個人な恨みはないんだからね、絶対。彼らは私にフィラデルフィアの路面鉄道事業から手を引かせたがっている。もちろん最初はステーネルの立場を有利にしたかったんだろう。でも、それにしても、きみのお父さんが敵対さえしなかったら彼らだってここまで私を犠牲にすることはなかっただろう。きみのお父さんはこのシャノンや小物の政治家を抱えて自分のやりたいこともやらせてるんだ。それがまた問題なんだよ。彼らは続けなければならないわけだからね」
「ええ、わかってるわ」アイリーンは答えた。「あたしのせいよ、みんな、あたしのせいだわ。もしあたしのことと、父が疑うことがなかったら、父はすぐにあなたを助けたでしょうね。あのね、時々、あたし思うんだけど、あたしってずっとあなたに迷惑かけっぱなしよね。どうしたらいいかわかんないわ。もしそれがあなたのためになるんなら、あたししばらくあなたに会わないつもりなんだけど、だからってそれが今さら何の役に立つのかわからないわ。でも愛してるのよ、愛してるわ、フランク! あたし、あなたのためなら何だってする。世間がどう思おうが、どう言おうが構わないわ。愛してるわ」
「まあ、そう思ってるだけだよ」クーパーウッドは冗談めかして答えた。「じきに冷めるさ。他にも人はいるからね」
「他にもですって!」アイリーンは憤慨と軽蔑を込めて繰り返した。「あなたのあとには誰もいないわよ。あたしは一人いればいいの、あたしのフランクがね。あなたがあたしを捨てたら、あたしは地獄へ行くわ。見てらっしゃい」
「そんなこと言うもんじゃない、アイリーン」クーパーウッドはイライラしてきた。「そんな話は聞きたくないな。きみはそんなことしやしないよ。私だって愛してるさ。私がきみを捨てないことくらいわかってるだろう。いっそ、私を捨てた方がきみのためにはなるがね」
「何てこと言うの!」アイリーンは叫んだ。「あなたを捨てるだなんて! そんなことってある? でも、あなたがあたしを捨てたら、さっき言ったとおりにするわ。誓います」
「そんなこと言うもんじゃない。馬鹿なこと言うなよ」
「誓うわ。愛にかけて誓います。あなたの成功にかけて誓います――それがあたし自身の幸せなんですもの。あたしは言ったとおりのことをするわ。地獄へ行くの」
クーパーウッドは起き上がった。自分が呼び起こしてしまったこの根深い情熱が今になって少し怖くなった。危険なものだった。それがどこへ続くのかクーパーウッドにもわからなかった。
十一月の冴えない午後、張り込み中の探偵からアイリーンとクーパーウッドが南六番街の家にいると手筈どおりに報告を受けたアルダーソンは、バトラーのオフィスに急行しバトラーを誘って駆けつけた。しかしバトラーはこの期に及んでも、まさかそんなところで自分の娘を見つけることになることが信じられなかった。恥ずかしくもあり、恐ろしくもあった。娘に何を言えばいいんだろう? どう叱ればいいんだろう? クーパーウッドのことはどうしようか? 考える間、バトラーの大きな手は震えた。二人は急遽、目的地まで二、三軒のところに乗りつけた。そこへ通りの向かいで見張っていた二人目の探偵が近づいた。バトラーとアルダーソンは乗り物から降りて一緒にドアに近づいた。間もなく午後四時半になろうとしていた。家の一室で、コートとベストを脱いだクーパーウッドがアイリーンの悩みを聞いていた。
そのとき二人が座っていた部屋は、当時流行った割りと陳腐な贅沢感の典型だった。家具メーカーが家具の 「セット」を一般向けに市場に出した場合そのほとんどが、どんな方向性であれちゃんと高級感を出そうとすると、ルイ時代のどれかの模倣になってしまう。カーテンは決まって重く、だいだいが錦織で、赤であることが珍しくない。カーペットは色調の高い豊かな花柄で、厚手のベルベットのような毛羽がある。どんな材質の木で作られていようが家具はどれも重くて、花の模様があって、動かすのが大変だった。この部屋には、ウォールナット材の重厚なベッドと、それに合わせた洗面台と寝室用のタンスと衣装収納があった。洗面台の上には金のフレームの大きな四角い鏡が掛けられ、壁には風景や数名の裸体を扱った粗末な版画が、金の額縁に収まってかかっていた。金メッキの椅子はピンクと白の花柄の錦織が張られて、ピカピカの真鍮の鋲が打たれていた。カーペットはブリュッセル製の厚手のもので、色は淡いクリーム色とピンクで、花と大きな青い植木鉢が装飾として織り込まれていた。全体的には明るくて豪華で少し古臭い感じがした。
「あたし、時々、怖くてたまらなくなるのよ」アイリーンは言った。「父があたしたちを見張ってるかもしれないでしょ。もし父があたしたちを見つけたらどうしようって悩んでばかりいるわ。これじゃ言い逃れできないでしょ?」
「確かにできないね」クーパーウッドは絶対にアイリーンの魅力的な誘いに反応し損ねなかった。こんなにも愛らしくてすべすべの腕、ふくよかで優雅に先細りしてゆく喉と首、 頭に後光が差すような赤みを帯びたブロンド、きらめく大きな目をしているのだ。充実した女性のすばらしい力強さがアイリーンの持ち味だった――道を外れ、片寄りがあり、夢見がちだが、絶妙だった。「でもそのときが来るまで、その橋は渡らない方がいいよ」クーパーウッドは続けた。「私だってしばらくはこういうことを続けない方がいいと考えてはいたんだ。あんな手紙が来るくらいだから当分ひかえるべきだね」
クーパーウッドは、アイリーンが髪を整えながら立っている化粧台のところへやって来た。
「きみはとてもかわいいお転婆娘だね」と言って、アイリーンを抱き寄せてかわいい口にキスをし、「楽園のこちら側には、きみ以上にいとしい人はいないよ」と耳元でささやいた。
こんなやり取りが起きている間に、バトラーともう一人の探偵は見えないところから出て来て家の玄関の片側まで進んだ。すると先頭にいたアルダーソンが呼び鈴を鳴らした。黒人の使用人が現れた。
「デイビス夫人はいるかな?」アルダーソンは切り盛りしている女主人の名前を出して穏やかに尋ねた。「会いたいんだ」
「どうぞ」メイドは疑いもせずにそう言うと右側の応接室にうながした。アルダーソンは柔らかくてつばの広い帽子を脱いで中に入った。メイドが二階に上がると、直ちに玄関に戻ってバトラーと二人の探偵を招き入れた。四人は見とがめられることなく応接室に入った。こういう女性を最近はこう呼ぶらしいが、しばらくして「マダム」が現れた。背が高く、色白で、たくましく、見た目も全然悪くなかった。水色の目と愛想のいい笑顔の持ち主だった。警察との長い付き合いと、幼少期の性的虐待が彼女を用心深い女にしてしまい、世間が自分をどんな目に遭わせるのだろうと少し恐れていた。この特殊な生計の立て方は違法だった。だからといって自分でどうにかできる他の実用的な知識はなかった。どんな職業であれ苦労している商売人ならそうであるように、この女も警察や一般市民と平和につき合いたいと願っていた。ゆったりとした青い花柄のネグリジェだか部屋着を前が開くように着て、青いリボンで結び、その下の高価な下着を少しのぞかせていた。大きなオパールの指輪が左手の中指を飾り、鮮やかなブルーのトルコ石が耳からぶらさがっり、履物はブロンズのバックルのついた黄色いシルクのスリッパだった。この応接室の特徴といえる金の花柄の壁紙や、青とクリーム色のブリュッセルカーペットや、寄りかかる裸婦を描いた重そうな金のフレームの彫版や、床から天井まである金のフレームの大きな鏡は、必ずしもこの女の容姿に合わなくもなかった。言うまでもないが、バトラーはこのみだらな雰囲気に心底ショックを受けた。そしてこのひどいところに自分の娘がいるはずのなのだ。
アルダーソンは探偵の一人に、その女性の背後に回れ――つまり女性とドアの間に割り込め――と指示した。男はそのとおりにした。
「お騒がせしてすいませんね、デイビスさん」アルダーソンは言った。「我々はこの家にいるカップルを探してるんだ。家出娘を追ってましてね。別に騒ぎを起こしたいんじゃないだ――ただその娘を捕まえて連れて行きたいだけだよ」デイビス夫人は青ざめて口を開けた。「だから、騒いだり叫んだりしないことだ、さもないと我々がやめさせなきゃならなくなるからね。この家はうちの者が完全に取り囲んでる。誰も抜け出せんよ。クーパーウッドって名前の奴に心当たりがありますか?」
見方によっては幸いなことだが、デイビス夫人は、特に神経質でも喧嘩っ早いタイプでもなかった。割と理性的だった。このフィラデルフィアでは警察とのつながりはなかったから、これでは摘発されてしまう。叫んでどんな得があるだろう? 夫人は考えた。ここは包囲されている。今この家にはクーパーウッドとアイリーンを救える者は誰もいない。クーパーウッドの名前もアイリーンの名前も知らなかった。夫人にとって二人はモンタギュー夫妻だった。
「そんな名前の人は知らないね」夫人は神経質に答えた。
「ここに赤毛の娘は来てませんか?」アルダーソンの部下の一人が尋ねた。「それと、灰色のスーツを着た明るい茶色の口髭の男は? 二人は三十分前にここに入ったんだ。覚えてるだろう?」
「この家には一組しかいないよ。でもね、それがあんたたちのお目当ての人かどうかは知らないね。何なら降りて来るように頼んできますよ。騒ぎは御免だからね。ああ、物騒だこと」
「別に騒ぎなんか起こさんよ」アルダーソンは答えた。「そっちが起こさなきゃね。ただ静かにしててくれればいいんだ。こっちは娘に会って連れ出したいだけなんだから。そうすりゃ、あとはそのままだよ。どの部屋にいるだい?」
「二階の奥の二つ目さ。私の案内はいらないのかい? その方が手っ取り早いだろ。ノックして呼び出してやるよ」
「いや、こっちでやる。そこにいてくれ。そっちが面倒にかかわることはないだろう。そこにいてくれるだけでいい」アルダーソンは突っぱねた。
アルダーソンはバトラーに合図した。しかしこの恐ろしい仕事に乗り出したバトラーは、自分は間違えたと考えていた。クーパーウッドを殺す気がないのなら、無理やり押し入って娘を連れ出して何の役に立つんだ? 娘をここに来させれば、それで十分だ。その時点で娘は、父がすべてを知ったことを知るのだから。とにかく人前でクーパーウッドと喧嘩したくはない、と今ようやく考えがまとまった。バトラーは怖かった。自分で自分が怖かった。
「その女を行かせよう」バトラーはあくまでデイビス夫人にこだわって強く言った。「しかし見張りはつける。降りて私のところに来るように女の子に言うんだ」
デイビス夫人はとっさにこれが家族の悲劇であることを悟り、悩みながらも穏便に抜け出せれば幸いだと思い、すぐにアルダーソンとその背後にぴったりくっついた部下たちと連れ立って二階に上がった。クーパーウッドとアイリーンのいる部屋のドアにたどり着くと夫人は軽くノックした。その時アイリーンとクーパーウッドは大きな肘掛椅子に座っていた。最初のノックでアイリーンは顔色を変えて跳び上がるように立った。いつもなら気にならないのに、この日はなぜか胸騒ぎがした。クーパーウッドの目がたちまち険しくなった。
「神経質になることはない」クーパーウッドは言った。「きっとメイドだよ。私が出る」
クーパーウッドは出かかったがアイリーンがとめた。「待って」と言い、多少安心したのか、アイリーンはクローゼットへ行き、部屋着を取り出してそれをまとった。そうするうちに、またノックがあった。それからアイリーンはドアのところへ行ってほんの少しだけ開けた。
「モンタギューさん」デイビス夫人は明らかに緊張した不自然な声をあげた。 「あなたに会いたいという男性が下に来てるんです」
「男性があたしに会いたいって!」アイリーンは驚いて顔を青くしなが叫んだ。「本当なの?」
「はい、お目にかかりたいそうです。他にもお連れの方が数名います。多分、お身内の方だと思います」
クーパーウッドと同じようにアイリーンは、いったい何が起こったのかを瞬時に理解した。バトラーかクーパーウッド夫人が自分たちを尾行していたのだ――おそらく自分の父親だろう。このときクーパーウッドは、自分ではなくアイリーンを守るために何をすべきかを考えた。こんなときでさえ彼は、決して自分ばかりを心配するのではなかった。女性に対しては義侠心が厚いので恐れたりしなかった。バトラーが自分を殺したがっている可能性がないとは言えなかったが、そんなことでクーパーウッドはたじろがなかった。現にそんなことは考えなかった。それに武装もしていなかった。
「私が服を着て降りるよ」アイリーンの青ざめた顔を見てクーパーウッドは言った。「きみはここにいなさい。とにかく心配するな――私がこの場を切り抜けるからね――さあ、心配するのはおよし。これは私の問題なんだ。私がきみをここに連れ込んだんだ。だから私がここから連れ出してあけるからね」クーパーウッドは帽子とコートを取りに行き「きみも支度をしなさい。だけど私を先に行かせるんだ」と言いながら支度した。
ドアが閉まるが早いかアイリーンはピリピリしながらも素早く服を着始めた。アイリーンの頭脳は高速で動く機械のように活動していた。相手は本当に自分の父親だろうかと考えていた。ひょっとしたら違うのではないか。別のモンタギュー夫人が――本物が、いるのかもしれない。仮に父親だったら――自分のためを思い、今までは家族に内緒にし、秘密にしてくれたのに。父は自分を愛している――とアイリーンはわかっていた。こういう場合は、その子が愛され大事にされ甘やかされてきたか、そうではなかったかで全然違う。アイリーンは愛され大事にされ甘やかされてきた。アイリーンは、自分の父親が自分や他の誰かに暴力的なことをするとは考えられなかった。でも、父親と向き合うことは――父親の目をのぞき込むことは、とても難しかった。父親を正確に思い出したとき、悪あがきしたかいがあったのか、何をすべきかがわかった。
「駄目よ、フランク」アイリーンは興奮しながら小声で言った。「もし父なら私を行かせた方がいいわよ。父にどう話せばいいか、あたし、わかってるから。父はあたしには何も言わないわ。あなたはここにいて。怖くないってば――本当よ、怖くないもの。用があれば、こっちから呼ぶわ」
クーパーウッドは近づいてアイリーンのかわいい顎に両手を添えて、真剣にその目をのぞき込んだ。
「怖がっちゃ駄目だからね」クーパーウッドは言った。「じゃ、そうしよう。もし相手がお父さんなら、きみは一緒に帰ればいい。向こうはきみにも私にも何もしないと思うよ。もしお父さんだったら、会社の方に手紙をくれ。私はそっちにいる。私で何か役に立てるなら力になるからね。私たちなら何とかできるさ。これは説明したって無駄なんだ。何も言わなくていい」
クーパーウッドは上着とコートを着て、手に帽子を持って立っていた。アイリーンはほぼ支度が済んでいた。背中で服を留める赤い流行りの色のボタンの列で手こずっていた。クーパーウッドは手を貸した。アイリーンの支度が、帽子から手袋まですべて整うとクーパーウッドは言った。
「やはり私が先に行く。確認したい」
「駄目だってば、お願い、フランク」アイリーンは果敢に食い下がった。「あたしにまかせて、どうせ父だから。他に誰がいるのよ?」さっきアイリーンはてっきり父親が二人の兄を連れてきたのだと思ったが、今はそう思わなかった。父親ならそんなことはしないとわかっていた。「あなたはあたしが呼んだら来ればいいのよ」アイリーンは続けた。「どうせ何も起こらないわよ。父のことはわかってるんだから。あたしには何もしないわ。あなたが行けば父を怒らすだけよ。あたしにまかせて。あなたはこの部屋の中にいて。あたしが呼ばなければ、大丈夫ってことよ。いい?」
アイリーンはかわいい両手を肩に置いた。クーパーウッドはこの問題を慎重に検討した。「わかったよ、でも階段のところまでは一緒に行く」
二人はドアのところへ行き、クーパーウッドが開けた。外にはアルダーソンと他に探偵が二人いて、デイビス夫人が五フィートくらい離れたところに立っていた。
「おまたせ」クーパーウッドは堂々たる態度でアルダーソンを見ながら言った。
「こちらのご婦人に会いたがっている紳士が下にいるんだ」アルダーソンが言った。「親父さんだと思うがね」小声でつけ加えた。
クーパーウッドはアイリーンに道を譲った。アイリーンは、居並ぶ男たちと、こんなさらし者なったことに憤慨して通り過ぎた。アイリーンの勇気は完全に回復していた。今は、父親が自分を人前で見世物にしようとしたかと思うと腹が立った。クーパーウッドはその後に続いた。
「お前さんはすぐに降りん方がいいと思うぞ」アルダーソンは知ったふうな口をきいて警告した。「いるのは娘の親父さんだ。あの娘、バトラーっていうんだろ? 向こうはお前さんのことは娘ほど歓迎しないぞ」
それでもクーパーウッドは聞き耳を立てながら階段の降り口に向かってゆっくりと歩いた。
「どうしてこんなところにまで来るのよ、お父さん?」アイリーンが尋ねる声が聞こえた。
バトラーの返事は聞こえなかった。しかしバトラーがどれだけ娘を愛しているかを知っていたからもう安心だった。
父親に会ってアイリーンは、今度はじっとにらみつけて非難を表そうとした。しかし、ぼさぼさの眉毛の下にあるバトラーの底深い灰色の目は疲労と絶望の重さを示していた。それは怒りと反抗心に満ちたアイリーンでさえも人前では見せられないほどのものだった。これはあまりにも悲し過ぎる出来事だった。
「まさかこんなところでお前を見つけるとは思いもしなかった」バトラーは言った。「もっと自分を大切にしようと考えてくれると思ってたよ」バトラーは声が詰まって話をやめた。
「誰と一緒にいるのかもわかってるんだ」バトラーは悲しそうに首を振りながら話を続けた。「犬野郎め! いまにやっつけてやる! 人を雇ってずっとお前たちを見張らせてたんだからな。ああ、こんな恥ずかしい日はない! 屈辱の日だ! さあ、お前は私と一緒にうちに帰るんだ」
「ちょっと、お父さん」アイリーンは始めた。「人を雇ってあたしを見張らせてたですって。あたしはてっきり――」見たことがないほど苦しそうに、それでいて毅然と父親が手をかざしたものだからアイリーンは話すのをやめた。
「そんなことはいい! そんなことはいいんだ!」白髪眉毛の下から見たことがないほど悲しそうな顔でにらみながら父親は言った。「我慢できん! つべこべ言うな! もうこんな所にいるのはごめんだ。奴なんかいい! お前は私とうちへ帰るんだ」
アイリーンにはわかった。父が言っているのはクーパーウッドのことだった。こればかりはアイリーンでも怖かった。
「支度はできてます」アイリーンは不安そうに答えた。
老人は失意に沈んで先にたった。この時の苦しみは一生忘れることはないだろうとバトラーは思った。
第三十七章
バトラーは怒り、思いっきりこの資本家をとっちめてやると覚悟したにもかかわらず、アイリーンのとった態度のせいで、自分が二十四時間前と同じ人間だとは到底信じられなくなるほどの動揺と衝撃を受けた。娘は悪びれた様子もなく反抗的だった。自分の罪の重さと向き合えば娘は完全に縮み上がるものだと期待していた。それどころか、ひとまず無事にあの家を出た後で、自分が娘の中に自分のものとは比較にならないほどの闘志を呼び覚ましたことに気がついて絶望した。アイリーンにもバトラー自身やオーエンの気概がある程度あったのだ。アイリーンは――自家用車ではない――小型車の中で父親の横に座っていた。バトラーはそれに乗って娘を自宅へ連れ帰るところだった。アイリーンの顔は考えが変わるたびに赤くなったり青くなったりを繰り返し、今や、父は明らかに自分を罠にかけたのだという見地を築き上げ、クーパーウッドと自分の愛と自分の全体的な立場をはっきりさせようと腹をくくった。父親の考えが今さら自分にどう関係するのだろうと自分に問いかけた。自分がいる状況はこうだ。自分はクーパーウッドを愛している。父親の目に自分は永久に恥として映る。これが今さらどう変わりようがあるのだろう? 父は親心とはいえ親馬鹿に陥り、娘を監視し、他の男たち――見知らぬ人、探偵、クーパーウッド――の前でさらし者にしたのだ。この先、自分は父親にどんな本物の愛情を抱けるのだろう? アイリーンからすれば、父親は過ちを犯たのである。父親は愚かで卑劣なことをした。たとえ娘の行為がどれほどひどかろうと正当化できなかった。こんなやり方で娘のところに押しかけて、他の男たち――下品な探偵たち――の前で、娘の魂からベールをはぎ取って、何を成し遂げられるのだろう? ああ、寝室から応接室まで歩いたときのあの辛さときたら! アイリーンはこのことで父親を許すつもりはなかった――絶対、絶対、絶対に許さなかった! 父は今、父に対するあたしの愛を殺した――アイリーンはそう感じていた。これからこの二人の間で始まるのは死闘だった。車内で――いっときの完全な沈黙が続く中――アイリーンの両手は闘志満々で握ったり開いたりした。爪は手のひらを切り、口は硬く閉じた。
未熟な反発が実際に価値ある成果を生むかは誰にもわからない。それは、人間の構成物に元々備わっているようなので、かなり効力を持っていそうである。この人生という見世物はそればかりであり、そのことを科学的に証明することもできそうである。しかしそう言われそれが証明されたとして、何の価値があるのだろう? その見世物の価値とは何だろう? そして、アイリーンと父親の間で演じられたこのようなシーンに、何の価値があるのだろう?
車内にいる間、二人の間の凄惨な争い以外のものは老人の目に入らなかった。この争いは果たしてどんな決着を迎えるのだろう? アイリーンに対してバトラーに何ができるだろう? 二人はこの恐ろしい悲劇から抜け出して遠ざかっているところだった。おまけに、アイリーンは一言もしゃべらなかった! アイリーンは父親がそこに来た理由さえも尋ねなかった! 相手を罠でとらえる行為そのものが失敗したいま、バトラーはどうやってその相手を従わせるというのだろう? バトラーの策略は身柄の確保は成功したが完全に心をつかまえ損ねていた。自宅につくとアイリーンは降りた。バトラーは困惑の度合いが強すぎて今はこれ以上進めたくなくなり会社へ戻った。それから外に出て歩いた――彼にとっては異例なことだった。何年もそんなことを――歩きながら考えることを――してこなかった。開いているカトリックの教会まで来ると中に入って啓示を求めて祈った。室内の薄暗さと、聖杯置き場の前をずっと照らし続ける明かりと、蝋燭を立てた高く白い祭壇とが、荒ぶる気持ちを和らげてくれた。
しばらくして教会を出ると自宅に戻った。アイリーンはディナーの席に現れず、バトラーは食事が喉を通らなかった。自分の部屋にこもってドアを閉め――考えて考えて考え抜いた。忌まわしい屋敷にアイリーンがいる恐ろしい光景が頭の中で燃えあがった。クーパーウッドが娘をあんなところに連れ込んだのだ――我が子アイリーンを、自分と妻のいとしい子を。自分の祈りや不安や、娘の抵抗や、状況の悩ましさとは関係なしに、娘はこんなことをやめなければならない、しばらく離れていなければならない、あの男をあきらめなければならない。その間に、法律があの男をちゃんと始末するはずだ。どのみち、クーパーウッドは刑務所へ行くのだ――行くのが相応しい人物がいるとすればあいつだ。打つべき手が一つも残っていないことをバトラーは確認するつもりだった。もし必要なら個人の問題にするつもりだった。やらねばならないのは、法曹界に自分の意向を知らしめておくことだ。陪審を買収することはできなかった。それだと犯罪になってしまう。しかしこの事件が正式に本格的に起訴されることは確認できた。もしクーパーウッドが有罪になったらそれこそ天罰というものだ。あいつの金融仲間が訴えたくらいでは救えないのだ。下級裁判所と上級裁判所の判事たちは、どっちにいい顔をすればいいかを心得ていた。判事なんてものはその時の最高権力者の意見に迎合するのである。そしてバトラーは確実に影響を与えることができた。一方、アイリーンは自分が変な立場にいることを考えていた。帰り道こそ無言だったが、アイリーンは父親との対話が迫っていることを知っていた。話をつけなければならなかった。父親は自分をどこかに行かせたいのだろう。きっと、何らかの形でヨーロッパ旅行を蒸し返すだろう――今はアイリーンは、モレンハウワー夫人の招待が罠だと疑っていた。自分が行くかどうかを決めねばならなかった。裁判にかけられようとしているときに、自分はクーパーウッドのもとを離れるつもりかしら? アイリーンは行かないことに決めた。クーパーウッドの身に何が起きるのかを見届けたかった。まずは家を出よう――誰か親戚か友人、何なら知らない人のところでもいいから駆け込んで、かくまってもらうのだ。お金なら多少あった――少しはあった。父親はいつだって自分にはとても気前がよかったのだ。着るものを少し持って行方をくらませればいい。しばらく家出をすれば、喜んで迎えをよこすだろう。母は半狂乱、ノラとカラムとオーエンは驚きと心配でどうしたらいいかわからなくなり、父は――目に見えるようだった。もしかしたら、これで父はわかってくれるかもかもしれない。どれだけ情動的で気分屋でも、自分はこの家の誇りであり、注目の的なのだ、とアイリーンはわかっていた。
六番街の家でひどいさらし者にされた数日後に、父親が部屋へ来るように呼びつけたときアイリーンが進んでいた方向はこれだった。バトラーはアイリーンと内々で話をしたかったから、娘が家にいることに期待して、その日の午後早く仕事から帰ってきた。運良くアイリーンは家にいた。アイリーンはこの数日、外に出る気にならなかった――厄介なことが起きそうな予感がして出られなかった。探偵がいるにもかかわらず、翌日の午後ウィスコンシンで会いたい、とクーパーウッドに手紙を書いたばかりだった。どうしても会わなければならなかった。父親は何もしなかったと知らせはしたが、何かをしようとしているとアイリーンは確信していた。その件でクーパーウッドに相談したかったのだ。
「お父さんはな、お前のことと、この問題をどうすべきかをずっと考えてたんだ、アイリーン」二人っきりで自宅の「仕事部屋」にこもったとたんに、父親は何の前置きもなく話し始めた。「もしかしたらお前は破滅への道を歩んでるんだぞ。お前の不滅の魂を思うと、お父さんは震えてしまうんだ。手遅れになる前に、お父さんはお前のためになることをしたいんだよ、アイリーン。このひと月以上ずっと自分を責めてたんだ。そして考えたよ。ひょっとして、お父さんが何かをしてしまったのか、それとも、し忘れたせいだろうか、はたまた、お父さんかお母さんのせいで、お前が今日みたいになってしまったんだろうか、ってな。言うまでもなかろうが、お父さんは罪の意識に苛まれているんだ。だから、今日はお前にこんな悲しい姿をさらしている。お父さんは二度と世間さまに顔向けできないよ。ああ、恥だ――恥ずかしいったらない! あんなものを見るために生きてきたとはな!」
「でも、お父さん」神と教会と家族と母親と父親への義務に関する長ったらしい説教を聞かねばならないのかと考えて、少し取り乱しながらアイリーンは立ち向かった。そういうことがみんなそれなりには重要だとはわかっていたが、クーパーウッドと彼の視点がアイリーンに新たな人生観を与えていた。二人は、家族の問題――両親、子供、夫、妻、兄弟、姉妹――について、ありとあらゆる視点から話し合っていた。クーパーウッドの放任主義的態度はアイリーンの考え方に浸透し完全に染め上げてしまった。彼の冷淡で直情的な「自分で自分を満足させる」という態度を通してアイリーンは物事を見るようになった。クーパーウッドは、人と人との間に生じて、喧嘩や口論や対立や別れを生む小さな性格の違いを残念に思ったが、こればかりはどうすることもできなかった。人はみんな成長する。人の視点はいろいろな割合で変化した――だから変わるのだ。モラルは、持っている人は持っているが、持っていない人は持っていない。説明のしようがないのだ。クーパーウッドは、肉体関係が悪いと全然思わなかった。互いに合意した者たちの間でなら無害で気持ちのいいものだった。クーパーウッドの腕の中にいるアイリーンは、未婚でありながらクーパーウッドに愛され、クーパーウッドもアイリーンに愛されたが、生きている女性の誰よりも善良で純粋だった――ほとんどの女性よりもはるかに純粋だった。人は、特定の社会秩序や理論や物事の枠組みの中に自分を見出した。社会で成功するには、反発を招かないためには、自分の道を平坦にするためには、物事を簡単にするためには、無用な非難を避けるためには、それらしい見え方をする――表向きは従っているようにする――必要があった。それ以外のことはする必要がなかった。破産してはならないし、逮捕などもってのほかだった。もしそうなら、黙って戦い、何も言わないことだ。それこそクーパーウッドが現在自分の金融取引の問題で取り組んでいることだった。いずれ自分たちが逮捕されるときに、そうしようと準備していたことだった。今話を聞くアイリーンの心を染めていたのはこういうものだった。
「でもね、お父さん」アイリーンは反論した。「あたし、クーパーウッドさんを愛してるの。結婚したも同然なのよ。いつかクーパーウッド夫人と離婚すればあたしと結婚するんだもの。お父さんは事情がわかってないのよ。彼はあたしのことが大好きだし、あたしは彼を愛しているわ。彼にはあたしが必要なのよ」
バトラーは変な理解できないものを見る目で娘を見た。「離婚と言ったな」バトラーはカトリック教会とこのことに関係する教会の教義について考えながら始めた。「あいつは妻子と別れるつもりなのか――お前のために? あいつがお前を必要としているだと?」バトラーは皮肉をこめて付け加えた。「じゃあ、奥さんや子供たちはどうなんだ? 家族にはあいつが必要なんじゃないのか? どうなんだ?」
アイリーンは不敵に頭を反らせた。「それはそうだけどさ」そして繰り返した。「お父さんにわからないのよ」
バトラーは自分の耳が信じられなかった。今まで生きてきたがこんな話は聞いたことがなかった。驚きであり衝撃であった。バトラーは政治やビジネスならどんなことにも精通していたが恋愛の問題は手に負えなかった。それについては何も知らないからだ。まさか、自分の娘がこんなことを言うなんて、しかもカトリックの娘なんだぞ! クーパーウッド自身の権謀術数に長けた堕落した頭脳が出処でなければ、娘がどこでそんな考えを身につけたのか、バトラーにはわからなかった。
「お前はいつからそんな考えを持つようになったんだ?」突然バトラーは冷静に真面目に尋ねた。「どこでそんなことを習った? この家の中では絶対にそんな話は聞かなかったはずだぞ。まるで気が変になったかのような口ぶりだな」
「ねえ、くだらない話はよしてよ、お父さん」どうせこんなことを父親に言っても無駄だと思いながらアイリーンは怒りで燃え上がった。「あたしはもう子供じゃないんだから。二十四歳なのよ。お父さんにはわからないんだわ。クーパーウッドさんはね、奥さんのことが好きじゃないのよ。さっさと離婚して、あたしと結婚するつもりなんだから。あたしは彼を愛してる。そして彼はあたしを愛してる。それだけのことよ」
「ほお、そうなのか?」バトラーはどんなことをしてでもこの娘を正気に戻そうと固く決意して尋ねた。「それじゃ、お前は奥さんや子供たちのことは何も考えてないんだな? それどころか、あいつが刑務所に行こうがお前には関係ないんだな。囚人服を着ることになってもお前は同じようにあいつを愛するって言うんだな――多分それでは済むまいがな」(人間的に言えば、この老人は少し皮肉っぽくなったときに本領を発揮した)「そうなれば、お前はそんなあいつを迎えることになるんだぞ」
アイリーンは一気に猛然と燃え上がった。「ええ、知ってるわ」そして冷笑し「それってお父さんの差し金じゃないの。お父さんがやってることくらい、あたし、お見通しなんだから。フランクだって知ってるわ。お父さんは彼がやってもいないのに何かの罪をきせて、刑務所に送り込もうとしてるんじゃない――すべては、あたしのせいなのに。わかってるのよ。でも、お父さんが彼を傷つけることはありませんから。お父さんにはできっこないわ! 彼はお父さんが考えてるよりも大きくて立派なのよ。長い目で見ればお父さんが彼を傷つけることはないわ。また立ち上がるもの。お父さんはあたしのことで罰したいんでしょうけど、彼は平気よ。とにかく、あたしは彼と結婚します。愛してますから。あたしは彼を待って結婚します。お父さんはご自分のしたいようにすればいいわ。さあ、どうぞ!」
「あいつと結婚する?」バトラーは困惑し、さらに驚いて尋ねた。「あいつを待って結婚するだと? お前はあいつを妻子から引き離すつもりか。あいつが曲がりなりにも男なら、お前とほっつき歩いたりせずにこの場は現状維持だろうよ。なのに結婚するって? お前はお父さんやお母さんや家族の顔に泥を塗る気か? この期に及んでよくこんなことが親に言えるな、お前を育て、大事にして、散々面倒をみてきたこの私に向かって? お父さんと、気の毒な働き詰めのお母さんが、毎年毎年お前のためを思って計画や予定を立ててこなかったら、お前はどうなっていただろうね? お前はお父さんなんかよりもずっと賢いはずだ。お前はな、お父さんや、お前に何だかんだと吹き込みたがる他の奴なんかよりも世の中を知ってるんだ。お父さんはお前を一人前の女性に育てたんだぞ。なのに、これがその仕打ちか。わからないことは言わんでくれ。お前が愛してるっていうのは、囚人になろうって奴だぞ、泥棒で、横領犯、破産者、うそつき、盗人――」
「お父さん!」アイリーンは断固として叫んだ。「そんなふうに言うなら聞かないから。あの人はお父さんが言うような人じゃありません。あたし、出て行くわ」アイリーンはドアに向かったが、バトラーはすかさず飛び出し足止めした。その瞬間バトラーの顔は怒りで紅潮して腫れ上がった。
「だが、あいつとはまだ決着がついてない」バトラーは続けた。娘が出て行きたがるのを無視して率直に話しかけた――他の者が自分をわかってくれるように娘だってわかってくれるとこの時は信じていた。「必ずあいつをやっつけてやる。この国には法律があるんだ。それをあいつに課すまでだ。善良な家庭に忍び込んで親から子供を奪えるかどうかをあいつにわからせてやる」
バトラーは息が苦しくなって少し話すのを休んだ。アイリーンは顔をこわばらせ真っ青になって見つめた。まさか父親がここまで馬鹿になれるとは。父親はクーパーウッドとも彼の考え方とも対照的であり、昔気質もいいところだった。あたしは自分から好きで行ったのに、誰かがよその家に忍び込んで父親から奪ったなどと言えてしまう人なのだ。馬鹿馬鹿しい! なのに、どうして言い争うの? こんな風にここで父と言い争ったところで何の成果があるかしら? そしてしばらくアイリーンはそれ以上何も言わなかった――ただ見ているだけだった。バトラーは決して終わらなかった。本人は今、精一杯自分を抑えようとしていたが、態度は大荒れだった。
「言い過ぎたな、娘よ」あったとしても娘には大して言うことはあるまいと確信するやバトラーは穏やかに話を再開した。「お父さんは怒りで抑えが効かなくなっているな。来てくれと頼んだときは、こんな話などするつもりじゃなかった。他の考えがあったんだよ。しばらくヨーロッパに行って音楽を勉強したいんじゃないかと考えたものでな。今のお前は本来のお前じゃない。休息が必要なんだよ。しばらく遠くに行くのがいいだろう。向こうですてきなひと時が過ごせるんだぞ。お前さえよければノラが一緒に行ってもいいんだ、それとお前の先生だったシスター・コンスタンティナもな。シスターならお前に異論はあるまい?」
シスター・コンスタンティナと音楽まで投入して少し新鮮味を加えたこのヨーロッパ旅行の話が蒸し返されたとたん、アイリーンはつんとしてみせた。今度は内心半笑いだった。父親のやり方はまったく馬鹿げていた――本当に芸がない。今さらこんな話を持ち出すなんて。しかもよりによってクーパーウッドと自分を散々非難して、知り得たあらゆることを脅かしたあとでするなんて。娘が相手だと駆け引きをしないのかしら? おかしいにも程がある! しかしアイリーンはここでまた自分を抑えた。もうこの種の議論はすべて無駄だと見ていたし感じてもいたからだ。
「そんな話、しないでちょうだい、お父さん」説明を受けて態度を軟化させながらアイリーンは始めた。「あたしは今ヨーロッパに行きたくないわ。フィラデルフィアを離れたくないのよ。お父さんがあたしを行かせたいのはわかるけど、今は行くなんて考えたくないわ。無理ね」
バトラーの額は再び曇った。こうまで抵抗して娘はどうしたいんだ? まさかこの問題で、この私に――自分の父親に――打ち勝とうとでも思ってるのだろうか? そんなことはあるまい! できるだけ声を和らげながら、そして実際に穏やかにバトラーは続けた。「でもな、お前のためにはとてもいいことだろ、アイリーン。お前だってきっとここにいられるとは思っていまい、あん――」バトラーは「あんなことがあった後じゃ」と言いそうになって口を閉ざした。娘がこのことにとても敏感だとわかっていたからだ。娘を追い詰めた自分の行為は父親といえど礼儀を欠いていた。娘が憤りを感じているのはわかったし、ある意味では当然だった。それにしても、娘の罪よりも大きなものがあるだろうか? 「あんな」バトラーは収まりをつけた。「きっとここにいたくなくなるような過ちを犯した後じゃな。お前だってこのままで――大罪を犯したままでいたくはないだろう。神と人の法に背くことだからな」
バトラーは、アイリーンに罪の意識――精神的な観点から見た自分の罪の重さ――が芽生えることを期待した――しかしアイリーンはそんなものに目もくれなかった。
「お父さんにはあたしのことがわからないのよ」語尾にかけて絶望をあらわにして叫んだ。「お父さんには理解できないのよ。あたしにはあたしの考えがあり、お父さんにはお父さんの考えがあるの。今さら、お父さんにわかってもらえるとは思ってないから。知りたければ言うけど、あたしはもうカトリック教会を信じてませんから、わかった」
アイリーンは言ったそばから、これは言うんじゃなかったと思った。つい口が滑ってしまった。バトラーの顔が何とも言えない悲しい絶望の表情になった。
「お前はカトリックの教えを信じないのか?」バトラーは尋ねた。
「ええ、必ずしもね――お父さんのようには信じてないわ」
バトラーは首を振った。
「魂まで損なわれたのだ!」バトラーは答えた。「これで、お父さん、わかったぞ、恐るべきことがお前の身に起こったのだ。あいつがお前を滅ぼしたのだ、肉体も魂もな。何とかしないといけない。お父さんはお前に手荒なまねはしたくないが、お前はフィラデルフィアを離れないといけないよ。ここにはいられないからな。お父さんは許さんぞ。ヨーロッパへ行ったっていいし、あるいはニューオリンズのおばさんのところでもいい。だけどね、お前はどこかよそへ行かなくてはならない。お父さんはお前をここにおいておけないんだ――危険すぎるからな。きっとばれてしまう。次は新聞が嗅ぎ付けるぞ。お前はまだ若い。前途洋々なんだ。お父さんはお前の魂が心配だ。でも、お前は若いし元気なんだから、正気に戻るかもしれない。厳しくするのがお父さんの務めだ。お前と教会に対するお父さんの義務だ。お前はこんな生活はやめないといけない。お前はあの男から離れないといけない。もう金輪際あいつに会っちゃだめだ。お父さんが許さない。あいつは悪党だ。お前と結婚する気なんてないんだぞ。結婚したところでそれは神と人間に背く罪になるんだ。いかん、いかん! 絶対にだ! あいつは破産者で、ろくでなしで、盗人だ。あいつと一緒になったら、お前はたちまち世界一不幸な女になるんだぞ。あいつはな、お前にだって誠実であるもんか。あるわけがない、誠実でいられるもんか。そういう奴じゃないんだからな」バトラーは心の底まで苦しくなって一休みした。「お前はここにいちゃいけないんだ。これだけは言わせてくれ。心からのお願いだ。そうしてくれ。お父さんは心からお前を一番に思っている。お前のことは愛しているが仕方ないんだ。お前がいなくなったら残念だよ――お父さんだって、お前にはここにいてほしいんだから。誰よりも残念に思うよ。だけどそうしなくちゃいけないんだ。お母さんには全部が自然に普通に見えるようにしないと駄目だからね。でもお前は行かなくちゃ駄目だよ――わかったか? そうしなくてはならないんだ」
バトラーはボサボサの眉毛の下から悲しそうではあるがしっかりとアイリーンを見すえていったん話をやめた。父は本気だとアイリーンは知った。それは父の一番厳しい、一番神聖な表情だった。しかしアイリーンは返事をしなかった。できなかった。それが何の役に立つのだろう? 答えるつもりはなかった。わかりきったことだった――だからアイリーンは青ざめて緊張してそこに立っていた。
「そうだ、お前が欲しい服をみんな買ってあげよう」娘の本当の心がまったくつかみきれていないバトラーは続けた。「とにかく好きなように決めていいから。どこへ行きたいか言ってごらん。でもちゃんと準備するんだぞ」
「でも、あたし行かないわよ、お父さん」とうとうアイリーンは同じくらい厳しく、同じくらい毅然と答えた。「あたしは行きません! フィラデルフィアを離れません」
「お父さんがこれだけお前に自分のためになることをしろと頼んでるのに、わざと逆らおうっていうんじゃないよな?」
「断じてお断りよ」アイリーンははっきり答えた。「あたしは行きません! ごめんなさいね、でも行きません!」
「本気なんだな?」バトラーは悲しくも険しい顔で尋ねた。
「ええ、本気よ」アイリーンは厳しい顔で返した。
「それじゃ、お父さんは自分がやれることをやるしかないな」老人は答えた。「お前がどうであれ私の娘であることに変わりはないんだ。私は自分の厳粛な義務を果たしもしないでお前が破滅し堕落するのを見たくはないんだ。二、三日お前に考える時間をやろう。しかしお前は行かねばならないからな。それで終わりにしなさい。この国には依然として法があるんだ。法を守らない者に対してやれることはあるんだぞ。今回お父さんはお前を見つけた――それをするのがどれほど辛かったか。もしお前がお父さんに背こうとしても、また見つけるまでのことだ。お前は態度を改めないといけないよ。お父さんはな、お前をこんな状態にしておくわけにはいかないんだ。わかるな。これが最後の言葉だ。あいつと別れろ。そうすれば何でも好きなものが手に入るんだ。お前はお父さんの娘だ――お前を幸せにするためなら、お父さんはこの世の中の自分にできることを何だってするぞ。なのに、どうして駄目なんだ? 子供たち以外に、お父さんは何のために生きなくてはならないんだ? 何年も働き続けて計画を立ててきたのは、お前や他の子供たちのためなんだぞ。だから、いい子になっておくれ。年を取ったお父さんのこと、愛してくれるだろ? お父さんは赤ん坊だったお前をこの腕であやしたんだぞ、アイリーン。お父さんはお前がまだこの二つの手の中に収まるほどの大きさもなかったときからお前を見守り続けてきたんだ。お前にとって、いいお父さんであり続けてきたんだ――お前だってそれは否定できまい。よその娘さんたちをごらん。その中の誰がお前以上のものを、お前が持っていないものを、持ってるんだ? この件に関してはお父さんに逆らわないでおくれ。お前ならそうしてくれると信じてる。逆らえるはずがないもの。お前はお父さんのこと愛してるだろ、えっ――そうだろ?」バトラーの声は弱くなった。目には涙があふれていた。
バトラーは話すのをやめて、大きな茶色いごつごつした手をアイリーンの腕に置いた。こればかりはどうすることもできなかったから、アイリーンはぴくりともせずに父親の訴えを聞いていた――実は多少軟化した。アイリーンはクーパーウッドをあきらめられなかった。ただ父親は理解しなかった。愛がどういうものなのかを知らないからだ。間違いなく父親は娘がしたような恋愛を経験してこなかった。
バトラーが訴える間、アイリーンは無言のまま立っていた。
「そうしたいわよ、お父さん」とうとうアイリーンは優しく穏やかに言った。「本当よ。あたしはお父さんを愛してますから。ええ、愛してるわよ。お父さんには喜んでほしいわ。でもね、これは駄目――できないわ! あたしはフランク・クーパーウッドを愛してます。お父さんにはわからないのよ――まったくわかってないわ!」
クーパーウッドの名前が再び出てくると、バトラーの口がこわばった。娘はのぼせあがっている――せっかく慎重に計算した訴えは失敗した、ことがバトラーにはわかった。だから、何か別の方法を考えなければならなかった。
「そうか、わかった」アイリーンが背を向ける間にバトラーはようやく悲しそうに、実に悲しそうに言った。「お前がその気なら、そうすればいい。どうせ否応なく行かねばならないんだ。他の道はありえんからな。あることを神に祈ってるよ」
アイリーンは堂々と出て行った。バトラーは自分の机のところへ行って座った。「何てざまだ!」バトラーは独り言を言った。「厄介なことだ!」
第三十八章
アイリーンに立ちはだかった状況はまさに試練だった。生まれつき持ち合わせた勇気と決断力が小さい少女だったら弱音を吐いてくじけていただろう。つきあいも知り合いも多彩だったが、こういう緊急事態にアイリーンが駆け込める相手は多くなかった。余計な詮索をしないで長期間自分をかくまってくれそうな相手はなかなか思いつかなかった。同年代で自分に好意的な若い女性は既婚者にも未婚者にもたくさんいたが、本当に親密な間柄の人間は少なかった。本当に一時的な避難場所になるかもしれないと唯一頭に浮かんだのは、メアリー・キャリガンだけだった。友人の間で「マミー」でお馴染みの彼女は、 アイリーンとは同じ学校に通った仲で、今は地元の学校で教師をしていた。
キャリガン家は母子家庭だった。母親のキャサリン・キャリガン夫人は仕立て屋の未亡人で、引越し業者だった夫は十年くらい前に壁の崩落で死亡し、娘のマミーは二十三歳だった。二人は十五番街近くのチェリー・ストリートにある小さな二階建てのレンガ造りの家に住んでいた。キャリガン夫人はあまり良い仕立て屋ではなかった。少なくとも今高い地位にいるバトラー家が贔屓にするほど立派ではなかった。アイリーンは時々そこに行って、ギンガムのホームドレスや下着やかわいい化粧着を買ったり、チェスナット・ストリートの超一流の店で作ってもらったもっと大切な服を直してもらったりした。キャリガン家の前途がもっとずっと明るかったころに、セント・アガサでマミーと同級生だったことが大きな理由だが、アイリーンはこの家に来たことがあった。マミーは近くの公立学校の六年生のクラスの教師として月に四十ドルを稼ぎ、キャリガン夫人は一日平均して約二ドル――時にはそれに達しないこともあった。住まいは持ち家で抵当の類はなく、中の家具は月に約八十ドルという二人の収入を合わせた額が知れる代物だった。
マミー・キャリガンはきれいではなかった。目の前の母親にも到底及ばなかった。キャリガン夫人は五十歳でもふっくらして明るく陽気でユーモアたっぷりなのに、マミーは思考力も感じ方もかなり鈍かった。マミーは真面目人間だった――何よりもまず環境のせいでそうなったのかもしれない。何しろ全然明るくなく色気もなかった。しかし親切で、正直で、真面目で、立派なカトリック教徒だった。大勢の人々を世の中から締め出してしまう、あの妙に内向的過ぎる美徳――義務感を持っていた。マミー・キャリガンにとって義務(子供の頃から聞いて実践してきた説法や教えを日々守ること)は最も大事なことであり、慰めと安心の大元だった。おかしな当てにならない世界でマミーの支えになるのは、教会への義務、学校への義務、母親への義務、友人への義務などだった。もっと義務が減って肉体的な魅力が増えて、男性が好きになってくれればいいのに、と母親はよくマミーのためにお願いした。
母親が仕立て屋だったのに、マミーの服は全然おしゃれでも魅力的でもなかった――もしあっても自分には似合わないと感じただろう。靴はかなり大きめでサイズが合っておらず、スカートは素材が良いのに、見た目のデザインが悪く、腰から足にかけてだらんとぶらさがってた。カラーの「ジャージ」が流行り始めたのはちょうどこの頃で、体にぴったりとフィットするだけにスタイルのいい人が着る分にはいいものだった。気の毒なマミー・キャリガン! 時代に流されてマミーもこれを着るはめになった。しかし腕も胸もこの服にふさわしい発育を遂げていなかった。長い羽根が一つついたパンケーキのような帽子をいつも選んでかぶるのだが、どういうわけか髪にも顔にもぴったり合う位置がないようだった。ほとんどいつも少し疲れているように見えた。しかし退屈はしているが体は疲れていなかった。マミーの人生には魅力と呼べるものがとても少なかった。その中でアイリーン・バトラーは紛れもなくロマンスにかけては最大の要素だった。
マミーの母親がとても楽しい社交家だったことや、この親子が貧乏でちっぽけでも清らかな家庭を築いていたことや、アイリーンがピアノを弾いて二人を楽しませることができたことや、キャリガン夫人がアイリーンのためにした仕事に愛情と関心を注いだことが大きな要因で、アイリーンはキャリガン家は魅力的だと思った。時には他のことから逃れたくてそこへ行くこともあった。それにマミー・キャリガンは文学で話が合うしとても造詣が深かった。不思議なことに、アイリーンが好きな本はマミーも好きだった――『ジェーン・エア』、『ケネリム・チリングリィ』、『トリコトリン』、『オレンジリボンのちょうネクタイ』。マミーは時折アイリーンにこの傾向の最新作を薦めてくれた。アイリーンはマミーのセンスの良さに気づいて感心せざるを得なかった。
この窮地にアイリーンが思いついたのがこのキャリガン家だった。もし父親が本当に手に負えなくなってひとまず家を出なければならなくなったら、キャリガン家に行けばいいのだ。あそこなら何も言わずに自分を受け入れてくれるだろう。あそこなら家族の他のメンバーがあまり知らないから自分がそこへ行ったと疑うことはない。すぐにでもチェリー・ストリートの秘密の場所に姿を消して、何週間か音信不通でいるのがいいかもしれない。思えばおかしなことだが、キャリガン家もバトラー家も、アイリーンがまさかこんな突拍子もないことを仕出かす人だとは思わなかった。だから、アイリーンが家出をするとしたら、腹立ちまぎれで気まぐれを起こしたからに他ならない。
また、バトラー家に関して言えば、アイリーンが家族を必要とする以上に、家族の方がアイリーンを必要とした。家族がちゃんと団欒を保つにはアイリーンの明るい笑顔が必要だった。もしアイリーンがいなくなったら、たちまち越えられないはっきりした溝が生まれるだろう。
例えばバトラーは、幼い娘が晴れて美しい女性に成長したのを見届けた。学校や修道院に通い、ピアノを弾けるようになったのを見れば――バトラーは大きな達成感を覚えた。またバトラーの目には、娘の態度は変わった、とても派手になった、人生についての知識も広がったようだ、少なくともバトラーには印象的なものになった、と映った。いろいろな物事に関する娘の生意気で独断的な考え方は、少なくともバトラーにとっては傾聴に値するものだった。アイリーンはオーエンやカラムよりも本や美術に詳しく、社交にかけては非の打ち所がなかった。朝昼晩と食卓に現れるが――アイリーンはいつバトラーが見てもチャーミングだった。この手でアイリーンを作り上げたのだ――バトラーは一人で得意になった。バトラーはアイリーンにお金をかけてこんなに立派にしたのだ。今後も続けるつもりだった。二流の成り上がり者に娘の人生を台無しにされてたまるものか。バトラーはずっと娘の面倒を見るつもりだった――夫が失敗しても娘に影響が及ばないように、法律に則った形でたくさんのお金を残すつもりだった。「今夜のお前はすてきだな」がバトラーの口癖の一つで「どうだ、我々も立派なもんだ!」と言うこともあった。食卓ではアイリーンは決まってバトラーの隣に座って父に気を遣った。それはバトラーが望んだことだった。子供の頃からずっとバトラーは食事の時にアイリーンを横に座らせていた。
母親もアイリーンを溺愛した。カラムとオーエンは兄らしく適度に接していた。だから、これまでアイリーンは少なくとも、受け取った金額相当の美しさに利息をつけてお返ししていた。家族はみんなそれをそう感じていた。アイリーンが一日二日、家を留守にすると、家が暗くなった――食事がおいしくなくなった。戻ればまたみんなは幸せで明るくなった。
アイリーンは一応このことをはっきりとわかっていた。無理強いされたくない旅行を避けるために家出をしてひとり暮らしを始めようと思ったときに、アイリーンが思い切れたのは、家族にとって自分は大事な存在だという意識が強かったことが大きな原因だった。アイリーンは父親が言ったことを思い返して、すぐに行動を起こさなければならないと決断した。翌朝、父親が出かけた後でアイリーンは外出用の支度をして、マミーが昼食で家にいそうな正午頃を狙ってキャリガン家に立ち寄ることにした。そのときに、さりげなくこの問題を持ち出すつもりだった。もし先方に異論がなければアイリーンはそこに行くつもりだった。アイリーンは時々、クーパーウッドはこんな大変な目に遭っているのに、どうして二人でどこか未知の場所に行こうと言ってくれないのか不思議に思うことがあった。しかし彼のことだから彼に何ができるかは彼が一番よく知っているに違いないとも感じた。クーパーウッドの増え続けるトラブルはアイリーンをがっかりさせた。
着いたときにはキャリガン夫人ひとりしかいなかった。夫人はアイリーンを見て喜んだ。その日の世間話を交わした後、アイリーンは自分の用件をどう切り出していいかよくわからないまま、ピアノに向かって湿っぽい曲を弾いた。
「まったく、上手に弾くもんだね、アイリーン」すっかり感傷に浸っていたキャリガン夫人は言った。「私はあなたの演奏を聞くのが大好きなのよ。もっとちょいちょい会いに来てくれればいいのに。ここんとこ、すっかりお見限りじゃないかい」
「ええ、とても忙しかったんです、キャリガンさん」アイリーンは答えた。「この秋はやることが山ほどあって来られなかっただけですわ。家族があたしをヨーロッパへ行かせたがっているんですけど、あたし、行きたくないんです。ああ!」アイリーンはため息をついて、悲しい恋心のにじむ旋律を演奏で振りまいた。ドアが開いてマミーが入って来た。アイリーンを見て平凡な表情が明るくなった。
「まあ、アイリーン・バトラー!」マミーは叫んだ。「どういう風の吹き回しかしら? ずいぶんとご無沙汰だったじゃない?」
アイリーンは立ち上がってキスを交わした。「ずっと忙しかったのよ、マミー。ちょうどあなたのお母さんとその話をしてたとこだわ。あなたこそどうなの? お仕事は順調?」
マミーはさっそく自分を悩ませている学校の問題――クラスが大きくなる一方で仕事が増えること――を話した。キャリガン夫人が食事の支度をする間、マミーは自分の部屋に行き、アイリーンもあとに続いた。
マミーが鏡の前で髪を整える間、アイリーンは物思いにふけった表情で相手を見つめた。
「今日はどうしたの、アイリーン?」マミーは尋ねた。「あなた、何だかその――」マミーは手をとめて、もう一度ちらっと見た。
「どう見えるかしら?」アイリーンは尋ねた。
「うーん、迷ってるっていうか、何かに悩んでるみたい。あなたがそんな顔をするのをこれまで見たことなかったわ。どうしたのよ?」
「別に、何でもないわよ」アイリーンは答えた。「ちょっと考え事をしてただけよ」アイリーンは小さな庭に面した窓辺に行って、ここでの暮らしにずっと耐えられるかを考えていた。家はとても小さいし、家具といっても至って単純なものばかりだった。
「今日のあなたは何か変よ、アイリーン」マミーはそばまで来て、顔をのぞき込んだ。「全然あなたらしくないもの」
「考えていることがあるんだけど」アイリーンは答えた。「それがまた悩みの種なのよ。どうしたらいいかわからない――それが問題なのよね」
「一体、どんなことなのよ?」マミーは言った。「あなたがこんな風になるなんて、私、これまで見たことないもの。私にも言えないことなの? 何なのよ?」
「ええ、駄目だわ――とにかく今はね」アイリーンは間をおいて「あなたのお母さんは反対するかしら」と突然尋ねた。「もしあたしがここに来て少しの間滞在するとしたら? ある事情があってしばらく家を出たいのよ」
「まあ、アイリーン・バトラー、何ですって!」友は叫んだ。「反対どころか! 母は喜ぶってば、私もよ。でも――あなたこそここで平気かしら? でも、何で家出なんかする気になったの?」
「それだけは言えないの――とにかく、今はまだ。あなただけじゃなく、お母さんにもね。お母さんがどうお考えになるか、あたし心配だわ」アイリーンは答えた。「でも、とにかく、あなたは質問しちゃだめよ。あたしは考えたいの。ねえ! でも、あなたさえよければ、あたしはここへ来たいのよ。あなたからお母さんに話してくれない、それとも、あたしからする?」
「あら、私にまかせなさいよ」この異例の展開に驚きながらマミーは言った。「でも、そんなことするのは馬鹿げてるわ。私が言わなくったって母はお見通しよ。あなただってわかってるでしょ。あなたは荷物をもって来るだけでいいのよ。それだけでね。母は何も言わないし、何も聞かないわよ。わかってるでしょ。――あなたが望まないのならね」マミーはそう考えるそばからすっかり興奮していた。アイリーンと暮らしたくてたまらなかった。
アイリーンはマミーをまじまじと見た。どうしてマミーが――母親もろとも――こうも夢中になるのかよくわかっていた。二人ともアイリーンが来てくれて自分たちの世界を明るくしてくれることを望んでいた。「でも、二人とも、あたしがここにいることは誰にも言っちゃ駄目よ、いい? 誰にも知られたくないのよ――特に、うちの家族の者には絶対にね。事情があるの、ちゃんとした事情よ。でも、それがどういうものなのかは、あなたにも言えないわ――とにかく今は駄目なの。誰にも言わないって約束してくれるわよね」
「もちろんよ」マミーは意気込んで答えた。「でも永久に家を出たままってわけじゃないんでしょ?」 マミーは詮索ついでにことの重大性を考えながら締めくくった。
「さあ、わからないわ。自分でもこの先どうするつもりなのか、まだわからないのよ。わかっているのは、今はただしばらく家を出たい、ってことだわ――それだけよ」アイリーンは話をやめた。マミーは口をぽかんと開けたまま前に立っていた。
「まったくもって」友人は答えた。「不思議なことってなくならないものね、アイリーン? でも、あなたを我が家へ迎えるなんてすてきだわ。母は大喜びよ。もちろん、あなたが望まないなら、私たちは誰にも口外しないわ。ここに人が来ることなんてほとんどないんだから。それに来たとしてもあなたが会う必要はないでしょ。私の隣のこの大きな部屋を使うといいわ。ねえ、それならいいんじゃない? こんなにうれしいことってないわ」この若い学校教師の気分は断然盛り上った。「じゃ、さっそく母に話してみない?」
アイリーンは躊躇した。この期に及んでも、こんなことをしていいのか自信がなかった。しかし結局二人は一緒に下へ降りた。下の階が近くなるとアイリーンは後ろで少しぐずぐずした。マミーは一気に母親に向かって行った。「ねえ、お母さん、すてきじゃない? アイリーンがしばらく私たちと一緒に暮らすのよ。誰にも知られたくないんですって。すぐ来るのよ」キャリガン夫人は砂糖の容器を片手に持ったまま振り向いて、驚いてはいるが笑顔でアイリーンの様子をうかがった。関心はすぐに、どうしてアイリーンはここに来たいのか――なぜ家を出たいのか――に移った。それでも、アイリーンへの思い入れが大きかったので、それを考えただけで知りたくてわくわくした。別に構うまい? かの有名なエドワード・バトラーの娘だったら立派な女性であり、自分のことは自分でできるのではないか。もちろん、立派な家族の栄えある一員として歓迎すればいい。どんな事情があるにせよアイリーンが来たがるのは、キャリガン家にとってはとてもありがたい話だった。
「果たしてあなたのご両親があなたを手放すか私にはわからないけどさ、あなたはいたいだけここにいていいんだからね、何ならずっといてくれてもいいんだよ」キャリガン夫人は微笑んで歓迎を表した。アイリーン・バトラーがここに来ることを許してあげようという思いの表れだった! これを言ったときの心温まる理解を示した態度と、マミーの熱意に、アイリーンは安堵のため息をついた。キャリガン家への滞在費の問題が頭に浮かんだ。
「来るとなったら、もちろん費用はお支払いします」アイリーンはキャリガン夫人に言った。
「何言ってんのよ、アイリーン・バトラー!」マミーが叫んだ。「そんなこと、しなくていいんだから。私のお客さまとしてここに来て私と一緒に暮らせばいいのよ」
「そうはいかないわ! お支払いできないんじゃ来ないわ」アイリーンは答えた。「そのくらいのことは、させてくれなきゃだめよ」キャリガン家に自分を養う余裕がないのはわかっていた。
「まあ、とにかく、今そんな話をしなくったっていいじゃない」キャリガン夫人は答えた。「来たいときに来て、好きなだけいてくれていいんだからね。きれいなナプキンをとってちょうだい、マミー」アイリーンは残ってランチをごちそうになり、すぐその後でクーパーウッドとの約束を果たすためにお暇し、大きな問題が片付いたことに満足していた。これで前途は開けた。いざとなったら、ここに来ればよかった。必要なものを少しそろえるか、何も持たずに来るか、という問題に過ぎなかった。おそらくフランクなら何か提案があるだろう。
不幸な密会場所の発覚以来クーパーウッドはアイリーンと連絡をとる努力をせずにアイリーンからの手紙を待っていたが、それが届くまでに時間はかからなかった。そして、いつもと同じ、長ったらしい、楽観的で、愛情を書き綴った、威勢のいい話の中に、自分に起こったすべての出来事と、家出をする今の計画が書いてあった。最後の話は少なからずクーパーウッドを戸惑わせ、悩ませた。
家族に大事にされ、おしゃれで、ちやほやされるアイリーンと、社会に出てクーパーウッドを頼るアイリーンなら想定していた。まさか自分の受け入れ態勢が整う前にアイリーンが家を出て行かざるを得なくなるとは、クーパーウッドは想像したことがなかった。もし今アイリーンが家を出たら、考えたくもない混乱を巻き起こすかもしれない。それでもアイリーンのことが好きだから、大好きだから、アイリーンを幸せにするためなら何でもするつもりだった。もし最終的に刑務所へ行かなければ、今でもちゃんとアイリーンを養うことはできるし、たとえ行ったとしてもアイリーンのために何とかできるかもしれない。しかし、こっちの運命がどうなるかはっきりとわかるまで家にいろとアイリーンを説得できればそれに越したことはない。何が起ころうとも、それなりの時間が経てば、いつかはこうした複雑な事情から解放されて、またうまくやっていけるとクーパーウッドは信じて疑わなかった。その場合でも、もし離婚さえできればアイリーンと結婚したかった。結婚していなくても、とにかくクーパーウッドはアイリーンを一緒に連れて行くつもりだった。そう考えれば、今アイリーンが家族と縁を切ったとしても、同じかもしれない。しかし現在の複雑な状況――つまりバトラーが探すことを考えると――これは危険かもしれない。バトラーが誘拐で公然と訴えてくるかもしれないからだ。そこでクーパーウッドは、アイリーンを説得して、家にとどまり、当分の間会ったり連絡するのをやめ、なんなら海外に行ってもらうことに決めた。アイリーンが戻ってくるまでには自分の状況はよくなっているだろうし、アイリーンもそうだろう――これに関しては、常識が通用するはずだ。
これをすべて踏まえた上で、クーパーウッドはアイリーンが手紙で言ってきた約束を守ろうとした。しかしそれでも行動するのは少し危険な気がした。
「本当にそんなところで暮らしたいの?」キャリガン家の家庭環境の話を聞いた後でクーパーウッドは尋ねた。「かなり貧しそうに聞こえたんだけどね」
「ええ、でもとてもいい人たちなのよ」アイリーンは答えた。
「それと、その人たちがきみのことを口外しないって自信があるのかい?」
「ええ、絶対よ! 絶対しないわ!」
「ならいい」クーパーウッドは締めくくった。「自分のやってることはわかってるだろうからね。きみの意思に反してとやかく言うのはよそう。私がきみだったら、お父さんの言う通りにして、しばらくよそへ行くけどね。そうすればお父さんは一段落するだろうし、どうせ私はずっとここにいるんだ。たまにはきみに手紙を書けるし、きみだって私に書けるんだよ」
そうクーパーウッドが言ったとたんに、アイリーンの表情が曇った。クーパーウッドに対するアイリーンの愛情はとても大きかったので、別れにつながることをほんの少しでも匂わすことは、ナイフを突き刺したも同じだった。あたしのフランクがここにいて困っている――おそらく裁判にかけられる、それなのに自分がいないだなんて! あってはならないことだ! こんなこと言うなんてどういうつもりかしら? あたしがフランクを愛しているほどフランクはあたしを愛していないのかしら? 本当にあたしのことを愛しているのかしら? アイリーンは自分に問いかけた。二人の仲をさらに近づけようとあたしが頑張っているのに、フランクったらあたしを見捨てる気かしら? ひどく傷ついたのでアイリーンの目に暗雲が垂れこめた。
「何てこと言うのよ!」アイリーンは叫んだ。あたしが今フィラデルフィアを離れるわけにはいかないことくらい知ってるでしょ。まさかあたしがあなたと別れる気でいるとは思ってないわよね」
クーパーウッドはすべてがはっきりとわかった。賢いからわからないはずがなかった。クーパーウッドはアイリーンのことが大好きだった。神さま、絶対に彼女の気持ちを傷つけません! と思った。
「アイリーン」クーパーウッドは相手の目を見てすかさず言った。「わかってないな。きみは自分のやりたいことをやればいいんだよ。私と一緒にいるためにこれを計画したんだね。じゃあすぐに実行することだ。もう、私のことや、私が言ったことを考えるな。私はただ、そんなことをすれば私たち二人の問題を悪化させるかもしれないと考えただけなんだ。でもそうならないことがわかったよ。きみは、お父さんがきみを溺愛してるから、きみが家出をすればお父さんが考えを改めると思うんだね。いいね、そうしよう。でもね、私たちはとても慎重に振る舞わないといけないんだ――きみも私もね――絶対にそうしないと駄目だからね。これは大ごとになるんだから。もしきみが家出をすれば、お父さんは誘拐で私を告訴するんだよ――世間を信用させて、この件を全部ぶちまけるんだ。私たちは二人とも大変なことになるだろ――私はもちろん、きみもだ、だってそうなったら私の有罪は確実なんだからね。他に何もなくても、それだけで決まりさ。そうなったらどうするんだい? 今は頻繁に私に会おうとしないほうがいい――無理してまで頻繁に会うことはない。お父さんがあの手紙を受け取ったときに常識を働かせてやめておけば、こんなことにならなかった。でもなった以上は、できるかぎり賢明に振る舞わないといけないんだ、わからないかい? ね、よく考えるんだ。一番いいと思ったことをするんだ。そしたら私に手紙を書いてくれ。きみがすることは何だって私がついてるからね――いいね?」クーパーウッドはアイリーンを引き寄せてキスをして「先立つものが、ないんじゃないか?」と上手に切り上げた。
アイリーンはクーパーウッドにいろいろ言われて深く心を動かされて少し考えたが、それでも自分が行動するのが一番だと確信した。父は自分を溺愛している。公然と自分を傷つけることはないだろう。だから自分を巻き添えにしてクーパーウッドを攻撃することはない。それどころか、今もフランクに説明したが、父は戻って来いと自分に頼み込むだろう。そして話を聞いて譲歩せざるを得ない。どうだろう? とにかく、クーパーウッドと離れ離れになるつもりはなかった。
アイリーンのことがわかって初めてポケットに手をやって札束を取り出し、「とりあえず二百ドルある」と、クーパーウッドは言った。「あとは会うなり話を聞くなりしてからだ。要るものは何でも用意する。もう私がきみを愛してないなんて考えるな。私の気持ちはわかっているだろう。きみに夢中なんだ」
アイリーンは、そんなにたくさん必要ない――本当に必要ない――家に多少はあるんだからと断ったが、クーパーウッドはとりあわなかった。金が要るのはわかりきっていた。
「余計なことは言わなくていい」クーパーウッドは言った。「このぐらいは要るぞ」アイリーンは時々両親から何不自由しない金額をもらい慣れていたから、そういうことは何も考えなかった。フランクはアイリーンを愛していた。それだけで二人の間がすべてうまくいくほどだった。アイリーンは機嫌を直した。連絡手段の問題を話し合って、人知れず使者をたてるのが一番安全だという結論に達した。アイリーンはクーパーウッドのはっきりしない態度に深く沈んでいたが、今では再び元気を取り戻していた。クーパーウッドが自分を愛していると納得すると笑顔で立ち去った。あたしには頼れるフランクがいる――アイリーンは父親に教えてやるつもりだった。クーパーウッドはアイリーンのあとを目で追いながら首を振った。アイリーンが余計な重荷になっていたが、絶対にあきらめられなかった。自分がこんなにアイリーンを大事にしているのに、この愛情の幻想からベールをはがしてアイリーンに惨めな思いをさせるのか? させるものか。すでにやったこと以外にクーパーウッドにできることは何もなかった。考えてみれば、結局そんなにひどいことにはならないかもしれない。バトラーが調べる気になれば、アイリーンが自分のところに駆け込まなかったことははっきりするのだ。最悪の事態を避けるためには、常識を働かせる必要が生じたらいつでもアイリーンの居場所がバトラー家に密かに伝わるようにしておけばいいのだ。そうすれば自分がこの件とはほとんど関係ないことがわかるし、向こうはもう一度家に帰るようにアイリーンを説得できるのだ。うまくいくかもしれない――こればかりは誰にもわからなかった。出たとこ勝負でいくつもりだった。クーパーウッドはさっさとオフィスに戻った。アイリーンは計画を実行することに決めて自宅へ戻った。父親はアイリーンに決断する時間を少し与えてくれた――おそらく時間はのびるだろう――しかしアイリーンはぐずぐずするつもりはなかった。いつも何でも思い通りになっていたから、今回に限ってそうならない理由は見い出せなかった。時刻は五時頃。アイリーンは家族全員が食卓でくつろぐ七時頃まで待ってそれから抜け出すつもりだった。
しかし帰宅してみると、実行を中止しなければならない思いがけない理由が待ち構えていた。何と、シュタインメッツ夫妻がいた――夫の方はバトラーが手がけた仕事の多くの図面を描いた有名な技師だった。その日は感謝祭の前日だった。夫妻はアイリーンとノラをウエストチェスターの新居に二週間ほど滞在するよう熱心に誘ってくれた――アイリーンはその建物の魅力をたっぷりと聞いていた。ものすごく感じのいい人たちだった――比較的若くて興味深い友人たちに囲まれていた。アイリーンは家出を延期して出かけることに決めた。父親はすっかり元気を取り戻した。シュタインメッツ夫妻が来て招待してくれたおかげで、アイリーンばかりではなくバトラーまでかなり肩の力が抜けた。ウエストチェスターはフィラデルフィアから四十マイルも離れていたから、アイリーンが現地でクーパーウッドに会おうとする可能性はなかった。
アイリーンは事情が変わったことをクーパーウッドに伝えて旅立った。クーパーウッドはこれでこの嵐はやんだと思いながら安堵のため息をついた。
第三十九章
その一方で、クーパーウッドの裁判の日が近づいていた。事実がそれを証明しようがしまいが自分を有罪にしようとする企てがある印象をクーパーウッドは持っていた。この窮地を脱するには、すべてを捨ててフィラデルフィアを去るしかなかったが、それは無理だった。自分の将来を守り、金融仲間をつなぎとめる唯一の方法は、できるだけ早く裁判を受けることだった。そして敗れた場合は将来再起するために彼らを信じて支援を仰ぐしかなかった。不公平な裁判になる可能性をシュテーガーに相談してみたが、シュテーガーはその点をあまり考えていないようだった。そもそも陪審はそう簡単に誰かに買収されるものではない。次に、ほとんどの裁判官は政治的立場が違っても正直であり、その判決や意見に党の意向が働くようなことはない。だいたいそんなことは今までなかった。この裁判を担当することになる四季裁判所のウィルバー・ペイダーソン判事は確かに党が任命した人物で、モレンハウワー、シンプソン、バトラーには恩義があった。しかしシュテーガーがこれまでに聞いた限りでは正直者だった。
シュテーガーは言った。「国全体に影響を与えるわけでもないのに、どうしてこの連中があなたをこんなに罰したがるのか理解できませんね。選挙は終わったんです。有罪になっても、まああいつは有罪でしょうが、ステーネルを釈放しようという動きが今あるんです。向こうだってあいつのことは裁判にかけなくてはなりませんからね。どうせ一年、まあ二、三年もくらうことはないでしょう。それにくらったって刑期の半分か、そこまでいかないうちに恩赦で出されるでしょう。あなたが有罪になっても同じことになります。あなただけ閉じ込めてステーネルを出すわけにはいきませんからね。でも、そこまではいきません――信じてください。陪審の前で勝ちますよ。でなければ州最高裁判所で有罪判決を覆します、確実に。あそこの五人の判事なら、こんな馬鹿げた考え方を支持しないでしょう」
実際にシュテーガーは自分が言ったことを信じていた。クーパーウッドは喜んだ。この若い弁護士はこれまで彼のどの案件でも素晴らしい成果を上げてくれた。それでも、バトラーが追及の手をゆるめないと思うとクーパーウッドはいい気がしなかった。それは重大な問題だった。なのにシュテーガーはそのことをまったく知らなかった。顧問弁護士の楽観的な請け合いを聞いてもクーパーウッドはそのことを忘れられなかった。
裁判が実際に始まると、人口六十万人のこの都市の住民のほとんどが「興奮」した。クーパーウッド家の女性陣は誰も傍聴しに来なかった。家族が顔を出して新聞のコメントを誘っても仕方がないとクーパーウッドが言ったからだ。父親は証人として必要かもしれないので来ていた。アイリーンは前日の午後に手紙を書いて、ウェストチェスターから戻ってきたことと、幸運を祈っていますと伝えてきた。クーパーウッドがどうなるのかが気になってたまらなくなり、これ以上離れたままでいることができず、戻ってきていた。クーパーウッドが望まなかったので法廷には行かなかったが、彼の運命が良くも悪くも決まるときにはできるだけ近くにいたかった。勝てば駆け寄って祝福し、負ければ慰めてあげたかった。自分が戻れば父親と衝突しそうだと感じたが仕方がなかった。
クーパーウッド夫人の立場は極めて異常だった。夫が求めていないことを知ってもなお、リリアンは見せかけの愛情と優しさを形式的につくろい通さねばならなかった。クーパーウッドは、妻がアイリーンのことを知っていると今では本能的に感じていた。クーパーウッドはただ、リリアンの前でこの問題をすべて明らかにする適切な時期を待っているだけだった。この運命の朝リリアンは玄関先で、この数年ですっかり定着したやや形式的な態度で夫に腕をまわした。夫が大変な立場にいるとよくわかっていたのに、一瞬キスができなかった。クーパーウッドもキスしたくはなかったがそんな態度は見せなかった。しかしリリアンはキスをしてつけ加えた。「うまくいくことを願ってます」
「そんな心配はしなくても大丈夫だよ、リリアン」クーパーウッドは元気よく答えた。「私なら大丈夫だから」
階段を駆け下りると、ジラード・ストリートに出て、かつての自分の路線まで行って乗り込んだ。クーパーウッドはアイリーンのことや、彼女がどれほど強く自分に思いを寄せているか、今の自分の結婚生活は何とむなしいものか、分別のある陪審に巡り合うだろうか、などを考えていた。もし巡り合わなかったら――巡り合わなかったら――今日は正念場だ!
三番街=マーケット駅で下車してオフィスに急いだ。シュテーガーはすでに来ていた。「さて、ハーパー」クーパーウッドは勇ましく言った。「いよいよ、今日だね」
この裁判が行われる四季裁判所第一法廷は六番街とチェスナット・ストリートにある有名な独立記念館にあった。当時そこはそれまでの百年間と同じように、地元の行政と司法の中心地だった。赤レンガ造りの低い二階建ての建物の中央には、昔のオランダやイギリスによくある四角形と円と八角形が組み合わさった白い木造の塔があった。この建物は中央棟と左右二つのT字型の翼棟で構成され、そこの上の方が楕円形の小さな古めかしい窓とドアには、コロニアル建築様式を愛する者に好まれる桟の多いサッシが使われていた。この建物と、建物の裏側からウォルナット・ストリートに向かって伸びる(現在は取り壊されている)州議事堂街と呼ばれる増築部分に、市長室、警察署長室、市財務官室、評議会室、その他の市の重要な行政機関の事務所、そして増え続ける刑事事件の訴訟を審理する四季裁判所の四つの支部が置かれていた。その後ブロード・ストリートとマーケット・ストリートに完成した巨大な市庁舎は、当時は建築中だった。
適度に広い法廷をよく見せようとして、黒いクルミ材の高い台を設けて、そこに黒いクルミ材の大きな机を配置して、その奥に裁判官が座るという試みがなされたが、あまりうまくいかなかった。机も陪審員席も手すりも、どれも大きすぎる造りだった。そういう全体の印象がバランスの悪い一因だった。クリーム色の壁は黒いクルミ材の備品に合うと考えられたが、経年劣化と埃とが組み合さってみすぼらしくなっていた。絵や装飾品の類は一切なく、あるのは裁判官席の上にある細長い苦心のたまもののガスの配管数本と、天井の中央から吊るされて揺れているシャンデリア一つだった。太った廷吏や裁判所職員は、仕事とも言えない自分の仕事をこなすことにしか関心がなく、その場の雰囲気に何ら寄与しなかった。この裁判が行われたこの法廷でも、そのうちの二人が、どちらが裁判官にコップの水を渡すかで絶えず争いを繰り広げた。でぶで堅苦しくて生気ない執事のような裁判官付きが、更衣室を往復した。その者の役目は裁判官が入廷したときに「裁判官が入廷します、帽子をとって皆さんご起立ください」と大声で呼ぶことだった。着席した裁判官の左側に立っていた二番目の廷吏が、陪審席と証人席との間で、構成員に対する集団社会の義務についての美しい高潔な文言を、全然理解できない言い回しで朗読した。それは「ご静粛に、ご静粛に、ご静粛に!」で始まって「不満のある者は近寄って聞いてください」で終わった。しかしそんなものはここで重視する者はいない。習慣と無関心が場を制して、ひそひそ声程度に静まり返った。三人目の廷吏が陪審室のドア番をしていた。このほかに、小柄で青白く、蝋燭のような色のないミルク色で水のような目と、油肉色の細い髪で、顎鬚があり、アメリカ人にはなったものの、誰の目にも明らかによぼよぼの中国の役人のようにしか見えない裁判所書記官と、速記係がいた。
ウィルバー・ペイダーソン判事はやせたニシンのような男で、クーパーウッドが大陪審に起訴されたときに予審判事として最初からこの事件を担当し、クーパーウッドを今期この裁判にかけた張本人だった。判事としては独特で興味深いタイプだった。貧乏性で血が通っていないので、こういう恵まれた連中ばかりを検挙していた。彼は法律を技術的に学んでいた。実際、人生のことになると、すべての賢明な裁判官が知っているように、あらゆる成文法を超越して、その精神や、それを超えて、すべての法を無実化してしまうあの物事の微妙で不可思議な作用をまったく意識しなかった。細い学者風の体と、縮れた白髪と、考えに深みのないとろんとした青灰色の目と、形はいいのに重みのない顔を見て、想像力がないと言う者がいるかもしれないが、それは当たらない――むしろ法廷侮辱罪ものだ。小さなチャンスを丹念に集め、少しでもうまみがあればうまく活かして、党の声に諾々と耳を傾け、染み付いた属性が命じるままにできる限り従った結果、ここまでたどり着いた。それにしてもあまり順調ではなかった。年収はたったの六千ドルで、小さな名声は地元の狭い法曹界の域を出なかった。しかし自分が果たした職務や、これこれの判決を下したとかで日常的に引用される自分の名前を見ると、彼はとても満足した。これが自分を世の中の重要な人物にしてくれると思った。「どうだ、私は他の人間とは違うだろ」と考えることがよくあり、これが彼の慰めだった。有名な事件が自分の予定表に載ると、かなり得意になった。そして、さまざまな訴訟当事者や弁護士を前にして堂々と席に着くときは、いつもとても意義深い気分になった。時々、人生の微妙な局面が実に限られた彼の知性を混乱させることがあるが、そういう場合はいつでも法律の条文があった。本当に考えた人たちが何を判断したかを知るには記録を調べればよかった。それに、どこでもそうだが弁護士はとても利口だった。善意なのか悪意なのか裁判官をあざけるように法律をひけらかした。「裁判長、マサチューセッツ州改定公判記録集第三十二巻の何ページの何行目の、アランデル対バナーマン訴訟を見ればおわかりになるでしょうが」こんなやりとりが法廷内で何度あっただろう? ほとんどの場合、残された判断は大したものではない。そして、法の尊厳が立派な旗のように掲げられ、それによってこの現職のプライドは高められた。
シュテーガーが指摘したように、ペイダーソンは公平さを欠く裁判官ではなさそうだった。ペイダーソンは党員の裁判官だった――原則というか信念を持った共和党員で、自分の任期を継続するためにも与党寄りだった。そういうわけで党の繁栄と自分の主人たちの私利私欲のために、合理的にできると自分が考えられることは何でも進んで喜んでやっていた。ほとんどの人はいわゆる良心の仕組みをわざわざ詳しく調べはしない。やるにしても、倫理やモラルの絡まった糸を解きほぐす技術がないことも多い。人はその時代の意見が何であれ、大きな利益の重みが何であれ、良心的に信じるのだ。後に「企業寄りの裁判官」という言葉を作った人がいたが、そういう者は大勢いるのだ。
ペイダーソンもそのひとりで、富と権力をかなり崇拝していた。ペイダーソンにとって、バトラーやモレンハウワーやシンプソンは大物だった――とても大きな力を持っているから常に正しいとかなり確信していた。クーパーウッドとステーネルの使い込みの事件はかねがね耳にしていた。ベイダーソンは、あっちこっちの政治通と付き合いがあって事情を知っていた。党の指導者たちの読みどおり、クーパーウッド問題で党は非常に悪い状況に追い込まれた。クーパーウッドがステーネルを脱線させた――普通の市財務官が脱線するレベルを超えていた――ステーネルはこの計画の主犯として最初から有罪だったが、クーパーウッドは想像力を駆使してステーネルをこれほど悲惨な状況に導いたのだから、それを上回る罪だった。それに、党には責任転嫁できる相手が必要だった。そもそもペイダーソンにはこれで十分だった。もちろん、選挙に勝って、党はあまり大きなダメージを受けなかったようなのに、依然としてクーパーウッドにこれほど慎重な訴訟手続きがとられているのはなぜなのかベイダーソンにはよくわからなかった。しかし指導者たちが彼を許さないのは何か正当な理由があるからだと自信を持って信じた。あっちこっちから聞いたところによると、バトラーがクーパーウッドに何か個人的な恨みを抱いていた。それが何なのかは誰も正確には知らないようだった。クーパーウッドが何か質の悪い金融取引にバトラーを巻き込んだというのが大方の見方だった。とにかく、党のためと、危なっかしい部下たちに健全な教訓を与えるために、この数件の起訴は続行することになったと一般的には理解された。道徳的な影響を社会に及ぼすためにもクーパーウッドはステーネルと同じくらい厳しく罰せられることになった。党と裁判所が公明正大に見えるように、ステーネルは自分の罪で最高刑を宣告されることになった。その先は知事の慈悲に委ねられ、知事が望めば、党指導者が望めば、ステーネルのために事態を緩和することができた。一般大衆の愚かな頭は、四季裁判所のいろいろな判事は、寄宿学校に収監された少女のように人生からかけ離れた穏やかな世界にいて、見えない政治の世界で何が起きているのか知らないと思っていた。しかし彼らは十分に知っていた。特に自分たちの任期の継続と権威がどこから来るのかを知っていたので、感謝は欠かさなかった。
第四十章
クーパーウッドが父親とシュテーガーを連れて意気揚々と (抜け目のない資本家、実業家という役柄を演じながら)混み合う法廷に入ってくると、みんなが目を凝らした。こういう男に有罪を期待するのは無理があるとそのほとんどが考えた。間違いなく有罪だが、間違いなく法の網をくぐる手段も持っている。傍聴人には顧問弁護士のハーパー・シュテーガーがとても抜け目なく狡猾に見えた。とても寒い日だった。二人とも最新のデザインの濃い青灰色のロングコートを着ていた。クーパーウッドは天気がいいと小さな花飾りをボタンホールにつけるが、この日は何もつけなかった。しかしネクタイはラベンダー色のすばらしい印象的なシルクで、澄んだ緑色の大きなエメラルドがあしらわれていた。極細の懐中時計の鎖をつけているだけで、他に飾りの類は何もつけなかった。彼はいつだって陽気なのに控えめで、気立てがいいのに、有能で、独りで充実しているようだった。今日ほどそう見えたことはなかった。
クーパーウッドは瞬時に場の雰囲気を読み取った。自分への関心が異様だった。自分の前にはまだ空席の裁判官の席があり、その右側に空の陪審席があり、その中間の、聴衆席に向かって座る裁判官の左側に、クーパーウッドがやがて座って証言しなければならない証人席があった。その後ろでは、すでにジョン・スパークヒーバーという太った廷吏が裁判官の到着を待ち構えて立っていた。彼の仕事は、証人が宣誓するときに触れる年季の入った脂ぎった聖書を差し出すことと、証言が終わったときに「こちらへどうぞ」と言うことだった。廷吏は他にもいた――一人は裁判官の机の前の柵で仕切られた、囚人の罪状認否が行われ、弁護士が座ったり抗弁し、被告人の椅子などがあるスペースに通じる出入り口に、もう一人は陪審員室に続く通路に、さらにもう一人は一般人用の出入り口を警備していた。クーパーウッドはステーネルを観察した。彼は証人の一人であり、なすすべもなく自分の運命に怯えていたがもう誰のことも恨んでいなかった。実は恨んだこともなかった。どちらかと言えば今の自分の状況を見ながらクーパーウッドの助言に従っておけばよかったと思っていた。なのに判決を受けたらモレンハウワーと彼を代表とする政界実力者たちが、自分のことで知事にかけ合ってくれるとまだ信じていた。随分顔色が悪くて、かなり痩せていた。羽振りのいい頃に増えたあの血色のよかった部分はすでに失われていた。新品の灰色のスーツを着て茶色のネクタイをしめ、髭はきれいに剃ってあった。クーパーウッドのぐらつかない視線に合うと目が泳いで下を向き馬鹿みたいに耳をかいた。クーパーウッドはうなずいた。
「ほら」クーパーウッドはシュテーガーに言った。「ジョージは気の毒だな。あいつはああいう愚か者だ。でも、私はやれるだけのことはやった」
クーパーウッドは横目でステーネル夫人のことも観察した――小柄で、やつれた、血色の悪い冴えない女で、服が馬鹿に似合っていた。いかにもステーネルが結婚しそうな女だと思った。上流社会に選ばれない、あるいは向かない惨めな夫婦は、必ずしも面白いものではなかったが、いつも気になった。ステーネル夫人はクーパーウッドを見ることはあっても、もちろん好感度はまったくなく、夫を破滅させた諸悪の根源と見ていた。また貧乏に戻ってしまい、今の大きな家からもっと安い住居へ引っ越すことになった。これは夫人からすれば考えて楽しいことではなかった。
しばらくしてペイダーソン判事が、人間というよりポーター鳩に近い、小柄だががっしりした廷吏を連れて入廷した。判事らが入廷すると、机の横でうとうとしていた廷吏のスパークヒーバーが判事の机を叩いて「ご起立願います!」とつぶやくように言った。すべての法廷の規則に従って傍聴人は立ち上がった。ペイダーソン判事は卓上にあるたくさんの弁論趣意書をかき分けながら、てきぱきと質問した。「最初の事件は何だね、プロートスさん?」判事は事務官に話しかけた。
長いだけで退屈な当日の訴訟の打ち合わせと、弁護士のいろいろな細かい申請が考慮されている間の、この法廷シーンはずっとクーパーウッドの関心をつなぎとめた。どうしても勝ちたかった。自分をここに導いた不運な出来事の結果に憤慨していた。表には出さなかったが、クーパーウッドは引延しや質問攻めや屁理屈だらけの全体の流れに毎回強い苛立ちを覚えた。そうやって合法的に人の問題があまりにも頻繁に妨げられた。もしみなさんが彼に尋ねて彼が自分の言い分を正確に表現したならこう言っただろう。法とは、人間のいっときの気分と誤解から形成された霧である。それが人生という海を曇らせて、人間という商業や社会に乗り出す小船の順風の航海を妨げる。それは誤解が生む瘴気のたまり場であり、そこでは人生が病んで膿んでいる。そこはまた偶然に傷ついた者が、力と偶然という上下の臼に挟まれてすり潰される場所でもある。何とも奇妙で異様で興味深いが、無駄な知恵比べをする場所なのだ。そこでは無知、無能、抜け目ない者、怒った人、弱者が、法律家という自分たちの気分と虚栄心と欲望と必要性に則って勝負をしている人たちのために、チェスの駒かバドミントンの羽根にされてしまう。不敬や不満や、妨害や引延しの見世物であり、人生のもろさや、人間、だますもの、罠、落とし穴、陥穽などに関する痛ましい記録なのだ。最盛期の彼のような強者の手中にあれば法は剣であり盾であり、不用心な者の足元に仕掛けられる罠であり、追手の来る道に掘る落とし穴である。使おうと思えば何にでもなる――違法行為への扉にも、正しく見ようとする者の目に投げつけられる煙幕にも、誠実と誠実な行いの間に、正義と正しい判断の間に、犯罪と処罰の間に、恣意的に下されるベールにもなった。弁護士なんてものは大体が頭脳戦の傭兵であり、売り買いされる理由は何だっていいのだ。弁護士たちのきれいごとや泣き落としの決まり文句を聞き、何を理由にしようがどんな目的のためだろうが彼らが簡単に嘘をつき、つけ入り、ごまかし、事実と違う説明をするさまを見て、クーパーウッドは面白がった。すごい弁護士というのは、自分と同じようにただすごくずる賢いだけで、蜘蛛のように暗がりの目の細かい巣に潜んで、不用心な人間という蝿が近づいてくるのを待っているだけだった。人生はせいぜい無慈悲と法律でできた暗く非人間的な無情の闘いであり、弁護士はその不完全な混沌全体を代表する最も卑しい存在だった。それでもクーパーウッドは人間の病気を取り除くために、他の罠や武器を使うのと同じように法律を使った。そして自分の身を守るために、棍棒やナイフを使うように弁護士を使った。クーパーウッドはどの弁護士のことも特に尊敬しなかった――好きではあったがハーパー・シュテーガーのことさえ尊敬していなかった。彼らは使われる道具に過ぎない――ナイフ、鍵、棍棒、何でもいいが、それ以上ではない。仕事が済めば報酬が支払われてお払い箱だ――脇へ追いやられて忘れ去られた。裁判官は大体が唯の無能な法律家だった。幸運な巡り合わせで壇上に上げられはしたが、もし同じ立場に立たされたら、どう見ても彼らには目の前で弁論を振るう弁護士ほどの力量はない。クーパーウッドは裁判官を全く尊敬しなかった――彼らを知り尽くしていた。へつらい屋で、政治的野心家で、政治家の手先か道具に過ぎず、日和見で、政財界の大物実力者が司法の汚点をぬぐうドアマットに利用した例をたくさん知っていた。裁判官はこの薄汚れたずるい世界のほとんどの人たちと同じで愚か者だった。腹の底が読めない彼の目はすべてを承知した上で何の反応も示さなかった。唯一の頼りは自分の頭脳の英知だけでありそれ以外にはないと考えた。この重大局面では、立派な、あるいは持ち前の長所があるといってもクーパーウッドを信じさせることはできなかった。そんなことは百も承知だった。クーパーウッドは自分のことをわかっていた。
裁判官はようやくいろいろな細かい申請書をやりかけにしたままどけると、事務官にフィラデルフィア市対フランク・A・クーパーウッドの訴訟の審議に入るよう命じた。はっきりとした声で発表があった。新任の地方検事デニス・シャノンとシュテーガーの両名はすぐに立ちあがった。シュテーガーとクーパーウッドは、シャノンと今しがた入廷した原告のペンシルバニア州を代表するストロビクと共に、裁判官席前の手すりで囲まれたスペース内にある長いテーブル席に着いた。駄目で元々なのは承知でシュテーガーはこの起訴を退けるようペイダーソン判事に求めたが却下された。
この事件を審議する陪審団が速やかに選ばれた。十二名がいつものようにその月の担当者名簿から選出されて、相手側の弁護人による忌避の準備に入った。この裁判に関する限り、陪審の任命はかなり簡単な作業だった。その仕組みは、中国の官僚似の事務官が今月のこの裁判所の当番で呼ばれた陪審員全員、全部で約五十名ほどの名前を聞き取り、その名前を一名ずつ個別の紙札に記入して抽選器の中に入れ、数回まわし、手が触れた最初の札を取り、当選した者を陪審員第一号に決定するというものだった。十二回入れた手が十二名の陪審員の名札を選び出し、名前を呼ばれた者は陪審席に着席するよう命じられた。
クーパーウッドはとても真剣にこの手続きを見守った。自分を裁こうとする者よりもっと重要なものがあるだろうか? 進行が早すぎて正確な判断は下せないが、中流階級の人たちという印象を少し受けた。しかし特に一人の男性、鉄灰色の髪をした顎鬚の、もじゃもじゃ眉毛で、土色の顔の、猫背の六十五歳の老人は、気性が優しくて経験豊富そうだから、特定の状況なら自分を支持するよう議論で誘導できるかもしれない印象をクーパーウッドに与えた。また、小柄で、鼻と顎が尖った、どこか商人風の男は、すぐに嫌いになった。
「あの男を陪審員にする必要はないな」クーパーウッドは静かにシュテーガーに言った。
「そういうことでしたら」シュテーガーは答えた。「忌避しましょう。こういう事件では、我々に十五回の専断的忌避権があります。検察側にもありますがね」
陪審員席がようやくいっぱいになると二人の法律家は、事務官が十二名の陪審員の名前を記した紙札を貼った小さな板を持ってくるのを待った。札は選出順に並んでいた――一列目は陪審員一号、二号、三号で二列目は四号、五号、六号といった具合である。最初に陪審員たちを審査し除外できるのは検察官の特権である。シャノンは立ち上がってその板を取り、彼らの仕事もしくは職業、この裁判の前にこの事件を知っていたか、被告人に対する好感なり反感の偏見がありはしないかを質問し始めた。
金融について多少の知識があって、この種の特殊な状況を理解できる人を探すのがシュテーガーとシャノン双方の仕事だった。除外するのは(シュテーガーの立場からすれば)合理的な手段で金融の嵐を乗り切ろうする人間の努力に対して偏見を持つ人たちであり、(シャノンの立場からすれば)何らかのごまかし、仕掛け、不正な操作を少しでも疑っているのに、そういう手段に同情する人たちだった。やがてシャノンとシュテーガー双方がこの陪審団をその目で見たように、これは、都市という大海原に投げ込まれた裁判所の地引網がこの目的のために海面に引き上げた、さまざまな社会人という小魚で構成されていた。その顔ぶれは、経営者、ブローカー、小売商、編集者、エンジニア、建築家、毛皮商人、食料雑貨商、巡回セールスマン、作家など、その経験がこの種の裁判を担当するに適った経験を有するあらゆる業種の働く市民だった。非凡な逸材を見つけることはめったになかったが、厳しい常識として知られる興味深い資質を少なからず持つ人材が集まることは多々あった。
その間ずっとクーパーウッドは黙ってこの連中を観察していた。青白い顔で、思考の豊かそうな広い額の、元気のない手をした若い花屋なら、自分の個人的な魅力に十分影響されそうだから選ぶ価値はあるという印象を受けた。シュテーガーにそうささやいた。この金融危機のニュースを全て読んでいて、路面鉄道株で二千ドルも損をしていたので異議を唱えられた抜け目ないユダヤ人の毛皮商人がいた。赤い頬と青い目をした亜麻色の髪の、太った雑貨卸売り商人がいたが、クーパーウッドが頑固そうだと言ったので除外された。聖書による宣誓は信じないと嘘までついて御役御免を願う、やせた、身なりのいい小さな衣料品店の経営者がいた。ペイダーソン判事は厳しい目を向けながら男を退廷させた。クーパーウッドを知る者、反感を抱いていると認めた者、ガチガチの共和党員でこの犯罪に憤慨している者、ステーネルを知る者――綺麗さっぱりとふるい落とされた者は全部で約十名いた。
しかし十二時までには双方がそれなりに納得できる陪審団が選出された。
第四十一章
二時ちょうどに、デニス・シャノンは地方検事として冒頭の挨拶を始めた。シャノンはとてもわかりやすく丁寧に述べた――彼の態度はとても人を惹き付けた――ここに提示する起訴状は、陪審席とを隔てる手すりの内側の席にいるフランク・A・クーパーウッド氏を、第一に窃盗罪、第二に横領罪、第三に受託者窃盗罪、第四に特定金額の横領罪で告発するものである。具体的な金額は六万ドル、一八七一年十月九日に(同氏の指図により)同氏に渡された小切手が対象であり、代理人もしくは小切手の受託者たる同氏が(両名の間に存在し一定期間効力があったある種の協定のもとで)市財務官の命に従い、市の減債基金向けに購入した、特定数の市債の証書の代金を同氏に返済することを目的としたものである。この基金は、そうした証書が保有者の手元で満期になり、支払いのために提示された際に、その証書を引き取るためのものでる――しかし問題の小切手はその目的のために使われたことはなかった。
「さて、みなさん」シャノンはとても静かに言った。「クーパーウッドさんが問題の日に、市財務官から六万ドルを受け取ったのか受け取らなかったのかという非常に単純な問題に入る前に、彼が正直にお金を返さなかったことを理由にして、原告が彼を第一に窃盗罪、第二に横領罪、第三に受託者窃盗罪、第四に小切手に対する横領罪で告発する意図を説明させて下さい。さて、おわかりでしょうが、我々検察官が掲げたように、ここには四つの容疑があります。その理由はこうです。被告は窃盗罪と横領罪で共に有罪かもしれません。あるいは窃盗罪か横領罪の片方が有罪で、もう片方は有罪ではないかもしれません。市民を代表する地方検事が定かではないのは、被告が両方ともに有罪ではないことではなく、容疑を一つにしてしまうと証明できないかもしれないことに対してであり、双方がある意味で絡み合った犯罪を十分処罰ができるように備えたためです。こういう場合はですね、みなさん、本件で行われたように個別の訴因で容疑者を起訴するのが慣例です。さて、本件の四つの訴因は、ある程度重複し互いに補完しあっています。そして我々がその性質と特徴を説明して証拠を提示したあとがみなさんの役目なのですが、この被告はこの訴因で有罪、あの訴因で有罪、あるいは訴因の二つで、三つで、あるいは四つ全部で有罪と、みなさんが適切、正しいと思ったとおりに――つまり証拠が示すがままに、よりふさわしい形にして言っていただくことです。みなさんはご存知かもしれないし、ご存知ないかもしれませんが、窃盗というのは相手の所有物、動産などを相手に知られないように、あるいは無断で持ち去る行為です。横領とは自分が管理や運用を任されたものを、特にお金ですが、それを詐取して自分のために流用することです。一方、受託者窃盗罪とは、単に窃盗罪をより限定化したもので、物品が委託された相手、つまり代理人や受託者が、本人の所有物を本人が知らないうちに無断で持ち去る行為に限定するものです。四つ目の容疑を構成する小切手横領罪は、二つ目の容疑を厳密な形でさらに明確化したもので、ある特定の明確な目的のために振り出された小切手の金を着服することを意味します。みなさん、おわかりでしょうが、この全ての容疑はある意味では同じものなのです。相互に重複し合っています。市民は代表者の地方検事を通して、本件被告人クーパーウッド氏が四つの容疑すべてで有罪であると主張します。それでは、みなさん、この犯罪の経過に話を移すとしましょう。私個人にはそれだけで、この被告人がこの上なくずる賢い危険な思考を持つ悪徳資本家の典型だとわかるのですが、我々は数々の証拠によりみなさんにもそのことを証明したいと思います」
証拠と法廷手続きに関する規則により、ここでは検察側が事件を説明するのを中断させることが認められなかったため、シャノンは次に、クーパーウッドがどのような経緯で初めてステーネルに会ったのか、どのようにしてステーネルの信頼を勝ち取ったのか、ステーネルの金融知識がいかに乏しいかなど、自分の見解を述べ、最後に、六万ドルの小切手がクーパーウッドに渡された日のこと、窃盗罪の根拠となる小切手の受け渡しについて財務官のステーネルは何も知らなかったと主張したこと、小切手を受け取りながらクーパーウッドが減債基金のために購入したと思われる証書を横領した経緯、に話を向けた。――そして、これらすべてが被告人が問われた犯罪を構成していて、疑う余地なく被告人は有罪である、とシャノンは述べた。
「ここまで述べたこと全てについて、我々にははっきりした動かしがたい証拠があります、みなさん」シャノンは語気を荒らげて締めくくった。「これは噂だとか理論の問題ではなく、事実の問題なのです。揺るぎない当事者の証言によって、それがどのように行われたのか、みなさんに明かされます。みなさんがこの話を全て聞き終わってもなお、この男は潔白である――起訴状の訴因となる犯罪をこの男は犯さなかった――と思うのであれば、男に無罪を言い渡すのがみなさんの仕事です。逆に、我々が証言台に立たせた証人が真実を語っていると思うのであれば、この男を有罪にすること、つまり被告人に対して国民のためになる評決を見つけ出すことがみなさんの仕事です。ご静聴感謝します」
陪審員たちは体をほぐして、くつろぐ体勢をとった。その状態でしばらく休息しようかと思った。しかし、のんびりつくろいだのも束の間で、シャノンがさっそくジョージ・W・ステーネルの名前を呼んだ。ステーネルはとても顔色が悪く、完全に腑抜けになって、疲れ切った様子で急いで進み出た。証人席に座って、聖書に手をのせ、真実を語りますと宣誓する間も、その目は落ち着きがなく神経質に泳いだ。
証言を始めても、声は少し弱かった。まずは一八六六年の初旬にクーパーウッドと出会った経緯を語った――正確な日付は思い出せなかったが、市財務官一期目のことだった――当選して就任したのは一八六四年の秋だった。ステーネルは、市債が額面割れを起こしてしまい、市としては額面以外では合法的に売却できない状況に悩んでいた。誰かからクーパーウッドを推薦された――確かとは言えないがストロビク氏だと思った。こういう危機のときは銀行関係者かブローカーを雇うのが市財務官の慣例だった。ステーネルはただ過去の慣例に従っただけだった。シャノンの鋭い思考力から繰り出される的確な促しや質問を受けながら、ステーネルは説明を続けた。最初の会話はどんな性質のものだったか――クーパーウッド氏がどんなふうに、ご要望どおりにできると思いますと言ったのか、どんなふうに立ち去って計画を立てるなり、あるいは考え出すなりしたのか、どんなふうに戻って来て計画をステーネルの前で披露したのか、ステーネルはそれをよく覚えていた。シャノンの巧みな誘導のもとで、ステーネルはこの計画の内容を説明した――それは普通の人間の善良さを称賛するものではなく、彼らの智謀と技術を証明するものだった。
ステーネルとクーパーウッドの関係について多くのやり取りが交わされた後で、話は最終的に去年の十月のところまで来た。そのときには、付き合いができ、いろいろな仕事上の合意ができ、持ちつ持たれつで繁栄する関係ができたため、行き着くところまで来てしまった。説明によれば、クーパーウッドは年間数百万ドルの市債を扱って市のために売買したり一般相手に取引していただけでなく、それに加えて五十万ドル相当の市の公金を超低金利で確保しており、その金がクーパーウッドとステーネルのために、いろいろな儲かる路面鉄道事業に投資されていた。ステーネルはこの点をすべて明かしたがらなかった。しかしシャノンはどうせ後で自分がステーネル本人を横領罪で起訴することや、シュテーガーがすぐに反対尋問をかけるとわかっていたので、ステーネルをうやむやにしておくつもりはなかった。シャノンは陪審に、クーパーウッドは切れ者で油断できない奴という心証を植え付けたかったから、徐々に確実に、彼がとてもずる賢い男であることを指摘するようにした。クーパーウッドの手口の鋭い点が次々と取り上げられて適度に明かされると、時折ちらほら陪審員がクーパーウッドを見ようと振り向いた。これに気づいたクーパーウッドはできるだけ印象をよくするために、知性と理解力を備えた落ち着いた雰囲気でただステーネルを見つめるだけにした。
尋問はようやく、一八七一年十月九日の午後遅い時刻にアルバート・スターズがクーパーウッドに渡したという六万ドルの小切手の問題に移った。シャノンはステーネルに小切手の実物を見せた。今までにこれを見たことがありますか? はい。どこでですか? 十月二十日頃、ペティ地方検事の部屋でです。そのとき見たのが初めてでしたか? はい。それ以前にそれについて聞いたことがこれまでにありましたか? はい。いつですか? 十月十日です。それを初めて聞いたときの経緯と状況を、あなた自身の口からわかりやすく陪審に話していただけますか? ステーネルは居心地悪そうに椅子の上で体をよじった。話しづらかった。いくら控えめに言っても、自分の人格と道徳心の程度がこう評価されるのはうれしくはなかった。しかし再び咳払いして、人生というドラマの小さいが苦い部分を語り始めた。それは、クーパーウッドが窮地に陥って自分が破産しそうだと知ってオフィスに現れ、一括でもう三十万ドル貸してくれと頼んだというものだった。
ここでシュテーガーとシャノンの間でかなりの論戦があった。シュテーガーは、この件に関してステーネルが真っ赤な嘘をついていると見せかけたくて必死だった。ステーネルが「そう思った」とか「確か」を連発したものだからシュテーガーはそこを突いて異議を唱え、本題から論点をかなりずらした。
「異議あり!」シュテーガーは繰り返し叫んだ。「無用、無関係、無意味なので記録から削除するよう願います。証人が自分の考えを述べることなど認められておりません。検察官はよくご存知のはずです」
「裁判長」シャノンは主張した。「私は証人がわかりやすく率直に話ができるよう最善を尽くしております。それに、証人がそのようにしていることは明白だと思います」
「異議あり!」シュテーガーは大声で繰り返した。「裁判長、申し上げますが、証人がまるで正直者であるかのように取り繕って陪審の心証をゆがめる権利は地方検事にはありません。彼が証人についてどう思うかや、証人が正直者かは本件には何の関係もありません。裁判長の方から、この点をはっきり検察官に注意するよう、お願いしなくてはなりません」
「異議を認めます」ペイダーソン判事は宣言した。「検察官はもっと明快に願います」シャノンは裁判を続けた。
ステーネルの証言は、ある点が極めて重要だった。クーパーウッドが明らかにしたくなかったことはっきりさせたからだ――すなわち、クーパーウッドとステーネルがこの直前に言い争いをしたこと、クーパーウッドがこの小切手を入手した前日と当日に改めて彼にはもう金を貸さないとステーネルがクーパーウッドに明言していたこと、クーパーウッドが資金繰りでかなり絶望的な状況にあったこと、もし三十万ドル規模の援助がなされなかったらクーパーウッドは破産しそうだったこと、そのときクーパーウッドもステーネルも共に破滅しそうだったことである。ステーネルによれば、この日の午前中に減債基金向けの市債を購入するのを中止せよと指示する書簡をクーパーウッドに送っていた。クーパーウッドがステーネルの知らないところで、アルバート・スターズから六万ドルの小切手をこっそり受け取ったのは、同じ日の午後に二人が会話を交わした後だった。この後で再びステーネルはアルバートを派遣して小切手の返還を要求したが断られた。しかしクーパーウッドは翌日午後五時に会社を譲渡してしまった。そして、盗まれた小切手の元となった証書は本来あるべき減債基金になかった。これはクーパーウッドにとって都合が悪い証言だった。
これがすべてシュテーガーと、その後シュテーガーがステーネルに行った反対尋問のときのシャノンに、多くの激しい反論や異議申し立てもされずに済んだと想像するなら、大大間違いである。法廷は時々この二人の激しい論争で騒然となり、落ち着かせるために裁判長は小槌で机を叩いたり、法廷侮辱罪をちらつかせて二人を脅さざるを得なかった。実際は、ペイダーソンは激昂したが、陪審は面白がって興味津々だった。
「二人とも、これをやめなければ、双方に重い罰金を課しますよ。ここは法廷です。酒場ではありません。シュテーガーさん、ただちに私と地方検事に謝罪してほしいですね。シャノンさん、攻撃的なやり方をしないようお願いします。あなた方の態度は不快です。これでは法廷の体を成していない。双方とも、二度と警告しませんからね」
二人ともこういう場合に弁護士がするように謝罪はしたが、実態はほとんど変わらなかった。どちらの態度も気持ちもこれまで通りだった。
一連の煩わしい中断が入ったあと、シャノンはステーネルに尋ねた。「十月九日、三十万ドルの追加融資を頼みに来たとき彼はあなたに何と言いましたか? 思い出せるかぎりでいいですから彼の言葉どおりにお願いします――できれば正確に」
「異議あり!」シュテーガーは盛んに横槍を入れた。「正確な言葉はステーネル氏の記憶以外にはどこにも記録されておりません。そういうものについての彼の記憶は本件では認められません。証人が証言したのは普通の事実です」
ペイダーソン判事は冷ややかな笑みを浮かべて「異議を却下します」と答えた。
「異議あり!」シュテーガーは叫んだ。
「私が思い出せる限りでは」ステーネルは神経質に証人席の肘掛けを叩きながら答えた。「もし私が三十万ドルを渡さなければ彼は破産してしまうし、私は貧乏に逆戻りして刑務所行きだ、と言いました」
「異議あり!」シュテーガーは跳ね起きて叫んだ。「裁判長、私は検察官のこの尋問のやり方そのものに異議を唱えます。地方検事がここでこの証人の不確かな記憶から引き出そうとしている証言は、あらゆる法律と判例を無視しているし、本件の事実とも何ら明確な関係がありません。それをもって、クーパーウッド氏が自分が破産すると思ったか思わなかったかを反証することも立証することもできません。ステーネル氏はこの会話にもこの時にあったどの会話にも、一つの見解を述べるかもしれませんが、クーパーウッド氏には別の見解があります。現に両名の見解は異なっております。検察はよくやりますが、どうせ立証できないある種の主張を、陪審の心証をゆがめて受け入れやすくしようとしているのでもない限り、私にはシャノン氏の質問の意図がまったくわかりません。裁判長は証人に対して、証人が正確に覚えている事実だけを証言し、覚えていると思うものについては証言しないように警告すべきだと思います。私は、この五分でされた証言はすべて削除されてよいと考えます」
「異議を却下します」ペイダーソン判事はかなり冷淡に答えた。陪審の心証に及ぼすステーネルの証言の重みを軽くするためだけに話をしていたシュテーガーは着席した。
シャノンはもう一度ステーネルに近寄った。
「さあ、できるだけ正確に思い出してくださいね、ステーネルさん、その時クーパーウッドさんは他にどんなことを言ったのか、陪審員に話してください。確か、あなたは破滅して刑務所行きになる、で話をやめませんでしたね。その時に使われた他の言い回しはありませんでしたか?」
「私が覚えている限りでは」ステーネルは答えた。「私を脅そうとしている政界の策士がたくさんいるとか、もし私が彼に三十万ドル渡さなかったら、我々は二人とも破滅するとか、仔羊を盗んだって親羊を盗むのと同じ裁判にかけられるとか、と言いました」
「ほお!」シャノンは叫んだ。「彼はそんなことを言ったのですか?」
「はい、言いました」ステーネルは言った。
「どういうふうに言いましたか、正確には? 正確には何と言ったんですか?」シャノンは相手を興奮させて起きた事実の鮮明に思い出させようと、力を込めた人差し指をステーネルに向けて強く問いただした。
「ええ、できるだけ正確に思い出しますと、彼が言ったのは」ステーネルはぼんやりと言った。「仔羊でも一緒なら親羊を盗んで裁判にかけられた方がましだ」
「まったくです!」シャノンは陪審を巻き込むようにしてクーパーウッドを見ながら叫んだ。「私もそう思いました」
「ただの花火に過ぎません、裁判長」シュテーガーはすかさず立ち上がった。「すべてが陪審の心証に先入観を抱かせるためのものです。演技です。手持ちの証拠に限定して、自分を利するための演技をしないよう裁判長から検察官に警告願います」
傍聴人は笑った。ペイダーソン判事はそれに気づき、苦々しく顔をしかめた。「今のは異議を申し立てたつもりですか、シュテーガーさん?」ペイダーソンは尋ねた。
「そのとおりです、裁判長」シュテーガーは機転を利かせて主張した。
「異議は却下します。検察側も弁護側も表現の仕方に特に制限はありません」
シュテーガーは笑って応える用意があったが、あえて応えなかった。
クーパーウッドはこういう証言の影響力を恐れ、それを嘆かわしく思いながら、じっと哀れむようにステーネルを見た。こいつの意思が弱かったから、こいつが意気地なしだったから、こいつが臆病だったから、二人してこのざまだ!
シャノンがこの困った資料を出し終えると、シュテーガーがステーネルを尋問する番になった。しかし期待したほどうまくステーネルを活用できなかった。この問題に限って言うならステーネルは正確な真実を語っていた。その正確な真実の影響を微妙な解釈で弱めることは難しいが、時にはできることもある。シュテーガーはステーネルがクーパーウッドと長い付き合いだった理由を丹念に調べ上げて、クーパーウッドは常に利害関係のない代理人だった――ずる賢い本格的な違法事業の首謀者ではなった――と見えるようにした。やるのは大変だったが、いい印象を与えた。それでも陪審員は半信半疑で聞いていた。手っ取り早く金持ちになる絶好のチャンスを貪欲につかんだからといってクーパーウッドを罰するのは公平ではないかもしれないと陪審員は考えた。しかしこんなにはっきりした人間の強欲に潔白のベールを投げて覆ったのでは確かに意味はなかった。ようやく双方の弁護士がステーネルへの尋問をひとまず打ち切り、次にアルバート・スターズが証人席に呼ばれた。
アルバートは事務官として活躍した全盛期と同じように、細身で、感じがよく、敏捷で、かなり好感のもてる人物だった――今は少し顔色が悪かったが、その他に変わったところはなかった。なけなしの財産が助かったのはクーパーウッドのおかげだった。本来なら市が負うべきなのに、もしスターズに対し何かが本当に請求されたら自治体改革教会に、スターズの保証人たちが保身のために資産の仮差し押さえようとしていることを通報するようシュテーガーに伝えておいてくれた――そうはならなかった。その監視組織はこの問題を扱う数多くの報告書の一つを発行していた。アルバートはストロビクたちがあたふたと引き上げるさまを見て胸をなでおろした。一度はその前でむなしく泣かされはしたが、当然アルバートはクーパーウッドに感謝した。今ではこの銀行家を助けるために自分にできることは何でもしたかった。しかしもともと正直者だっただけに明確な事実以外は何も言わなかった。それはいい面もあれば悪い面もあった。
スターズは、クーパーウッドが自分は証書を購入した、自分にはその金を受け取る資格がある、ステーネルはひどく脅えている、そちらが困ることは何もない、と言っていたのを覚えていると証言した。スターズは提示された市財務官の帳簿にある備忘価格は正確であると確認し、やはり提示されたクーパーウッドの帳簿にある別の記帳もそれを裏付けるものであると確認した。自分の主席事務官がクーパーウッドに小切手を渡したと知ってステーネルが驚いたというスターズの証言は、クーパーウッドに不利なものだったが、クーパーウッドは後で自分の証言でこの影響を克服しようと思った。
これまでのところ、シュテーガーもクーパーウッドも、自分たちはかなりうまくいっている、勝訴しても驚くには当たらないと思っていた。