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資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第20章-第25章

 

 

第二十章

 



これほど明確な最終合意に到達した以上、この関係がますます親密なものに発展するのは当然だった。宗教的な教育を受けたにもかかわらず、アイリーンは明らかに自分の気質の犠牲者だった。社会通念的な宗教観や信仰はアイリーンを支配できなかった。過去九年から十年の間にアイリーンの心の中で、自分の恋人はこうあるべきという理想が徐々に形成されていた。その男性は、強く、ハンサムで、指導者で、成功していて、澄んだ目を持ち、健康で血色がよく、ある程度自然な状態で理解と共感が得られる――自分の人生の理想と一致する相手でなくてはならなかった。これまで彼女に近づいた若い男性は大勢いた。おそらく理想に最も近いと認識したのは、セント・ティモシー教会のデビッド神父だった。当然、彼は聖職者であり独身の誓いを立てていた。二人の間で言葉は一切交わされなかったが、アイリーンが相手を意識したように相手も彼女を意識した。そしてフランク・クーパーウッドが現れた。彼が現れて接点を持つようになると徐々に彼女の心で理想の人として認識された。惑星が太陽に引き寄せられるように彼女は引き寄せられた。


ちょうどこの時期に有力なライバルが登場していたとしら、どうなっていたかは疑問である。場合によっては、こういう性質の感情や関係は、もちろん、壊れて駆逐されたかもしれない。個人の性格は、ある程度修正や変更が効くかもしれないが、それには十分な力がなくてはならない。恐怖は大きな抑止力である――精神的な恐怖がない場合は、物質的な損失への恐怖である――しかし富と地位はしばしばこの恐怖を打ち破る傾向がある。財力をもってすれば陰謀を企てるのはとても簡単だからだ。アイリーンには精神的な恐怖がまったくなかった。クーパーウッドには霊だとか宗教的な感情がなかった。クーパーウッドはこの少女を見て、どうすれば彼女と恋愛を楽しみ、自分の現状に波風を立てないようにして、世間を欺くことができるだろうと考えた。確かに彼は彼女を愛していた。


仕事の関係で頻繁にバトラー家を訪問する必要があり、そのたびにアイリーンに会った。クーパーウッドが初めて来たときは、アイリーンは何とか滑り込むように前に出て彼の手を握り、人目を盗んで素早く鮮烈なキスをした。またあるときは、彼の帰り際に、客間のドアにかかるカーテンの陰から急に現れた。


「あなた!」


その声は穏やかで甘えていた。クーパーウッドは振り向きざまに、二階の父親の部屋の方に向かって警告するようにうなずいてみせた。


アイリーンがその場で片手を伸ばすと、クーパーウッドはすぐ前に踏み出した。ウエストに手を滑らすと、すかさずアイリーンの両腕が首に抱きついた。


「会いたくてたまらなかった」


「私もだ。何とかするよ。考えているところなんだ」


クーパーウッドは相手の腕を振りほどいて外に出た。アイリーンは窓に駆け寄り、彼を見送った。自宅が数ブロックしか離れていなかったので通りを西に向かって歩いていた。アイリーンはその肩幅の広さとバランスのとれた体を見た。とても元気のいい、きびきびした足取りだった。ああ、この人だわ! 彼はあたしのフランクよ。アイリーンはすでに彼のことをそんな風に考えていた。それからピアノに向かい、夕食まで物思いにふけりながら演奏した。


フランク・クーパーウッドは裕福だったので、その機略縦横な頭脳を持ってすれば、方法や手段を提案するのはとても簡単だった。若い頃はいかがわしい界隈を遊び回り、その後も何かにつけて真っ当な道を踏み外していただけに、不品行な遊び方をたくさん習得していた。当時、人口五十万以上のフィラデルフィアには衆人環視の目から用意周到にかなり守られたこれといた特徴のないホテルや、対価を払えば予約が取れる昔からある住宅風の民家があった。そして、新生活を始めるための安全対策は――クーパーウッドに、もはやわからないことはなかった。そういうことは何でも知っていた。注意を怠らないことが肝心だった。急激に影響力のある著名人になりつつあったから注意しなければならなかった。アイリーンはもちろん漠然とした意識はあったが、自分の情熱の行き着く先までは考えなかった。この愛情が導く究極の運命をはっきりとはわかっていなかった。求めたのは愛――優しくなでられるとか愛撫されること――であり、実はその先を考えていなかった。この線に沿って先を考えることは、ネズミが薄暗い片隅の真っ暗な穴から頭を出しかすかな物音で慌てて退散するのと同じだった。そして、とにかく、クーパーウッドに関することはすべてがいいことになった。クーパーウッドがちゃんと自分を愛しているとまだ本当は思っていなくて、いずれそうなるだろうと思っていた。自分が相手の妻の権利を侵害しようとしていることをわかっていなかった。自分がそんなことをするとは考えもしなかった。フランクが自分のことを、アイリーンを愛しても、クーパーウッド夫人を傷つけることにはならないとも考えた。


どうすればこの気質と欲望をうまく説明できるだろう? 人生はその都度それと向き合うしかない。そういうものはなくならない。そして、人間という小さな生物の外側の自然の大きな穏やかな動きは、彼女があまり関係しないことを示すだろう。我々は、刑務所、病気、失敗、挫折という形で多くの罰を目にする。しかしその昔からの風潮が目に見えて減らないことも目にする。人がやり遂げようとする不思議な意志と力の外側に法は存在しないのだろうか? もしないのであれば、そろそろ我々みんながそれをわかってもいい頃だ。そのとき我々は現状の追認をするかもしれない。しかし神の定めという愚かな幻想はなくなるだろう。民の声が神の声なのだ。


他でも逢瀬を重ねた。大きな恐怖を抱くこともなく、致命的なリスクをはらんでいるとも考えずに、アイリーンの情熱が十分に高まって承諾した瞬間に、二人はすぐにすてきな時間を過ごすようになった。誰も見る者がいないときに盗んだ自宅での何でもないひとときから、事態は市内とは限らない密会へと発展した。クーパーウッドはのぼせ上がったり、仕事をおろそかにしたりするタイプの人間ではなかった。現に、かなり思いがけない展開になったこの関係を考えれば考えるほど、自分の仕事の時間と判断に支障をきたしてはいけないと決意を深めるようになった。とにかく、仕事は九時から三時まで集中しなければならない。五時半まで稼ぎに集中すればいいのだが、三時半から五時半か六時までの午後の何時間かを休んでも、誰も気にする者はいなかった。アイリーンはほぼ毎日午後一人で元気な鹿毛の二頭立て馬車か、父親がボルチモアの有名な馬喰から買ってくれた馬に乗るのが習慣だった。クーパーウッドも馬車や馬に乗れたので、ウィサヒコンやスカークル街道の遠く離れた場所で待ち合わせることも難しくはなかった。新しく整備された公園がたくさんあった。そこならまるで森の奥のように邪魔が入らなかった。誰かに出くわす可能性は常にあるが、もっともらしい説明も常に可能だった。あるいは何もしない。そうやって出くわしても、普通は何も疑われないものだ。


そうやってしばらく逢瀬は続いたが、単純な最終形態とは程遠いやり方の恋人同士が普通に行ういちゃいちゃに過ぎなかった。春めく緑の木々の下で一緒にする楽しい乗馬はのどかだった。クーパーウッドは、この新たな欲望が色づく中で、これまで経験したことがなかったまさに自分が思い描くような人生の喜びに目覚めた。初めてノースフロント・ストリートの私邸を訪問した若かりし頃のリリアンはすてきだった。あの頃彼は言葉で言えないほど自分は幸せだと思ったが、もう十年も前のことあり、すっかり忘れていた。それ以来、大恋愛も目立った関係もなかった。なのに今、新しい大仕事が活況を呈している真っ只中に、突然アイリーンが現れた。若い肉体と精神を持ち、情熱的な幻影を抱いていた。いつ見てもわかるが、大胆なくせに、彼が関係している打算的で残酷な世界をちっともわかっていなかった。父親は彼女が欲しがるおもちゃを惜しみなく与えた。母親と兄弟は甘やかした。特に母親はそうだった。妹からは慕われていた。アイリーンが過ちを犯すとは誰も一瞬たりとも想像しなかった。結局、分別がありすぎる上に、世の中に出たいという気持ちが強すぎたのだ。幸せな人生が目の前に開けているのに――どこかの結婚に理想的な満足できる恋人とすぐにでも楽しい恋愛ができるだろうに、どうしこんなことをしなければならないのだろう? 


「アイリーン、あなたが結婚したらここで楽しく過ごしましょ」母親はよく言っていた。「この家はその時に直しましょ。その前にやらなければね。エディに直してもらわないと、でなきゃお母さんが自分でやっちゃうわ。心配しないでね」


「ええ――でも、やっぱり今やってほしいわ」アイリーンは答えた。


バトラーはよくがさつな愛情の込もった態度で娘の肩を陽気に叩いて「おい、彼氏は見つかったか?」とか「お前に会いたくて外をうろついてるんじゃないか?」と尋ねた。


もし「いない」と言えば父親はすかさず言い返す。「まあ、いずれ現れるさ、心配するな――生憎な。お前がいなくなのは御免だよ! いたければずっとここにいていいし、いつでも戻れるってことを忘れるな」


アイリーンはこういう冷やかしをほとんど相手にしなかった。父親を愛していたが、こんなのはみんな普通の反応だった。それは彼女の生活のありふれたことだった。うれしいことではあったが、それほど大きな意味はなかった。


しかし近頃は、春の木陰でどれほど熱心にクーパーウッドにその身をゆだねたことだろう! 今はただ相手が愛撫して話しかけるだけだったから、迫りつつあるあの完全屈服に気がつきもしなかった。クーパーウッドは少し自分の身を案じていた。自分の自由が増えるのは当然に思えたが、相手に公平を期するために、二人の愛がどんな事態をかかえかねないかをアイリーンに話し始めた。彼女はどうだろう? わかっているのだろうか? ここに来て初めてアイリーンは少し戸惑い怖くなった。ある日の午後、黒い乗馬服を着て、赤みを帯びたブロンドの上に山高のシルクの乗馬帽をちょこんと乗せてクーパーウッドの前に立ち、話を聞く間、短い鞭で乗馬スカートを叩き、迷って考えていた。クーパーウッドは尋ねた。きみはわかっているのか、自分が何をしているのか? 自分たちがどこに向かって流れているのか? 自分が本当にそんなに私を愛しているのか? を。二頭の馬は、大通りからも、二人がたどり着いた急流の土手からも数十ヤード離れた雑木林に繋がれていた。アイリーンは馬が見えるか試そうとしていた。それは見せかけだった。目は全然気にしていなかった。考えていたのは、クーパーウッドのこと、その乗馬服のかっこよさ、この瞬間のすばらしさだった。彼の馬はとてもすてきなまだらのポニーだった。葉が十分に生育して、緑の透けたレースのようだった。まるで緑色にきらめくアラス織り越しにその向こうや後方の森をのぞいているようだった。波打ち際では灰色の石にすでにうっすり苔が生えてキラキラし、気の早い小鳥――コマドリ、クロウタドリ、ミソサザイ――がさえずっていた。


「お嬢さん」クーパーウッドは言った。「きみは全部わかっているのかい? こうやって私と一緒に来て自分がしていることがどういうことなのか、ちゃんとわかっているのい?」


「わかってるつもりよ」


アイリーンはブーツを叩いて地面を見た。それから木々の間から青空を見上げた。


「こっちを向いてごらん」


「いやよ」


「いいから向くんだ。聞きたいことがある」


「よしてよ、フランク、おねがい。できないってば」


「ほら、見るくらいできるだろ」


「できないわ」


クーパーウッドが手をつかんだのでアイリーンは後ずさりしたが、またすぐ前に出た。


「さあ、私の目を見るんだ」


「できないわ」


「こっちを見て」


「できないわよ。あたしにそんなこと言わないで。ちゃんと答えるわよ、でもあなたを見るのはいや」


クーパーウッドの手がこっそり頬にふれて優しくなでた。肩をさするとアイリーンは頭をもたせ掛かけた。


「とても美しいよ」クーパーウッドはついに言った。「きみを諦められないんだ。自分がとるべき行動はわかってる。きみもそうだと思う。でも諦めきれないんだ。どうしても、きみが必要なんだ。この結末が表ざたになれば、私もきみも大変なことになる。わかるよね?」


「はい」


「きみの兄さんたちのことは良く知らないが、なかなかしっかりした人たちとお見受けした。きみを大切に思っている」


「そのとおりよ」これにうぬぼれが反応してほんのり赤く染まった。


「おそらく私を殺したがるでしょう。これだけでも即座にね。もし――まあ、いつか何か起きたら、兄さんたちならどうすると思う?」


クーパーウッドはアイリーンのかわいい顔を見つめながら待った。


「でも何も起きないわ。これ以上進む必要はないもの」


「アイリーン!」


「あなたを相手にする気はないわ。聞くまでもないでしょ。無理だもの」


「アイリーン! 本心かい?」


「わからないわよ。あたしに聞かないでよ、フランク」


「このまま終われないだろ? わかってるはずだ。これで終わりじゃない。ねえ、もし――」不義密会の全容を、冷静に、淡々と説明した。「一つの例外、偶然の発覚を除けば完全に安全なんだ。偶然もありうるよ。もちろん、そのときは後片付けが大変だ。クーパーウッド夫人は私に離婚を切り出さない。理由がないからね。もし私の希望する形で片がつけば――百万ドルを稼いだら――今すぐやめてもかまわないんだ。一生働く考えはないからね。三十五歳で引退しようといつも計画を立てている。その頃には十分な蓄えができてるしね。そしたら旅に出たい。もうあとほんの数年の辛抱だ。もしきみが自由――ご両親が亡くなったら」――アイリーンは不思議と現実的な意見にひるまなかった。「話は違ってくる」


クーパーウッドは間をおいた。アイリーンはずっと水面を見下ろして考えていた。彼と一緒の洋上のヨット、どこかの宮殿、二人っきりの世界に思考は向かっていた。半分閉じた目はこの幸せな世界を見ていた。そして彼の話を聞きながらうっとりしていた。


「ここが出口なら首でもくくるよ。でもきみを愛してるんだ!」クーパーウッドは相手を抱き寄せた。「愛してるよ――愛してる!」


「わかったわ」アイリーンは懸命に答えた。「あたしを愛してね。あたし、怖くないわ」


「北十番街で家を手に入れた」馬のところに行って乗るときにようやくクーパーウッドは切り出した。「家具はまだだが、すぐにそろえる。管理する女には目鼻がついた」


「どんな人?」


「五十近い面白い未亡人だよ。ものわかりのいい人だよ――魅力的で、人生経験が豊富なんだ。広告で見つけたんだ。準備ができたら午後にでも訪ねて行って場所を見てみればいい。気軽に会えばいいんだ。どうだい?」


アイリーンは何も答えず考えながら馬に乗った。クーパーウッドの考えはストレートで現実的だった。


「どうかな? それなら大丈夫だろ。相手を確認していいんだ。どうせ向こうは文句を言える立場じゃない。だろう?」


「準備ができたら知らせてよ」アイリーンはとうとう言ってしまった。






 

 

第二十一章

 



情熱とは気まぐれだ! とらえどころがなく! 危険である! 果たしてその祭壇に供えられぬ犠牲とは何なのか! すぐにこのクーパーウッドが言っていた普通よりはましな住宅は、密会に有効な手段になるためだけに用意された。この家は、最近夫に先立たれたらしい未亡人に管理された。これなら変に場違いな感じもなく、アイリーンが立ち寄れた。この環境でこの状況なら、無謀で理屈に合わない愛情と情熱に支配された彼女に向かって、恋人に全身全霊を捧げろと説得するのは難しくなかった。ある意味で、愛には救いの要素もあった。本当に他の誰よりもアイリーンはこの男性を求めていた。他の人に向ける思いや感情はなかった。どういうわけか、アイリーンの頭は自分と彼がずっと一緒にいるかもしれない未来の幻影に向かっていた。クーパーウッド夫人が死ぬかもしれない。あるいは三十五歳で百万ドルを築いていたら、彼が自分と駆け落ちするかもしれない。何らかの形で何らかの調整はなされるだろう。天は自分にこの男性をくれた。アイリーンは彼に全幅の信頼を置いた。災いが降りかかることのないように自分がきみの面倒を見ると彼が言ったときアイリーンは全面的に相手を信じた。こういう罪は告解の決まり文句なのに。


不思議なことに、妙な理屈があったもので、キリスト教世界では昔からある求愛の期間と結婚生活以外に愛は存在しないと信じられるようになった。一生かけて一つの愛をまっとうするがキリスト教の考え方であり、この水路だか鋳型に全世界を押し込めようと努力してきた。異教徒の思想にこんな信条はなかった。先人たちは些細な理由でも離婚を申請できると唱えた。原始時代には一時的な育児の期間を過ぎてまで二人の結びつける仕組みはなかったらしい。双方の共感と理解の上に成り立つのなら、現代の家庭が最も理想的な仕組みであることに疑いを抱く必要はない。だからといって、これは必ずしもハッピーエンドを迎える幸運に恵まれなかったすべての愛を非難するものではない。人生はどんな型にもはめることはできない。そうした試みはすぐにでも放棄したほうがいい。運よく生涯添い遂げられる相思相愛の伴侶に巡り会えた人は、自らを祝福して、それに値する人間になるよう励むがいい。祝福されなかった者が社会から爪弾きにされるのは一応もっともな理由がある。それに、人間の意思や理論がどうあろうと、化学や物理が作用する基本的事実は変わらない。類は友を呼ぶ。性格が変われば人間関係も変わる。教義が心を縛る者もいれば恐怖が縛る者もいる。しかし、人生で化学と物理の比重が大きい者や、教義も恐怖も効かない者は常に存在する。社会は恐ろしさのあまり両手を挙げてしまうが、いつの時代でもヘレン、メッサリナ、デュ・バリー、ポンパドゥール、マンテノン、ネル・グウィンたちは繁栄して、私たちが自分たちの生活と折り合いをつけているものよりも自由な関係の基準を教えてくれる。


この二人は互いに切っても切れない絆で結ばれているのを感じた。クーパーウッドはいったん相手を理解するようになると、残りの人生を一緒に幸せに暮らしていける相手を見つけたと思った。アイリーンは若さと自信と希望に満ち溢れ、うろたえなかった。互いに連絡を取り合うようになってから数か月間、クーパーウッドは暇さえあればアイリーンと妻を比較してきた。これまではぼんやりで通っていたかもしれない不満が今や確実に現実になりつつあった。それでも子供たちはクーパーウッドを喜ばせたし、幸せな家庭だった。リリアンは粘液質になりすっかり痩せてしまったが、まだきれいだった。この数年、クーパーウッドは妻に十分満足していた。しかしここにきて妻に対する不満が大きくなり始めた。リリアンはアイリーンとは似ていなかった――若くない、活気がない、人生の常識を学ばなかったようには見えない。クーパーウッドは普段小言を言うタイプではなかったが、それでも最近は時々言うようになった。始まりは、妻の容姿についての質問だった――女性が憤慨、落胆するような苛立たしいささいな質問だった。どうしてドレスの色に近い藤色の帽子を買わなかったのか? どうしてもっと外出しないのか? 運動するといいよ。どうしてこうしない、ああしない? クーパーウッドは自分で言っておきながらほとんど気づかなかった。しかしリリアンは違った。言外の意味――本音――に気づいて立腹した。


「ああ、どうして――どうして?」ある日リリアンは素っ気なく言い返した。「どうしてあなたはそんなにたくさん質問するの? もうあまり私を好きじゃないからよ。だからよ。私にはわかるわ」


クーパーウッドはこの切り返しに驚いて身を引いた。最近の発言以外には思い当たる節はなかったが絶対の自信はなかった。妻を苛立たせたことをほんの少しだけ反省して謝った。


「別にそんなこといいわよ」リリアンは答えた。「気にしてないから。でもあなたは昔のようには私に注意を払ってないわよね。今のあなたは明けても暮れてもずっと仕事ばかりだもの。仕事から頭を離せないんでしょ」


クーパーウッドは安堵のため息をついた。今のところ妻は疑っていなかった。


しかし、少ししてアイリーンとどんどん心が通い合うようになると、妻が疑おうが疑うまいがあまり気にならなくなった。状況のいろいろな展開を考えているうちに、疑ってくれるならその方がいいと時折思うようになった。現に、妻は争いを好むタイプではなかった。妻の性格をいろいろと考えた結果、最初想像したほど、ある種の最終的な再調整にあまり抵抗しないかもしれないと今では判断した。離婚にだって応じるかもしれない。欲望と夢は彼の中でさえ、彼の頭脳で普段はじき出す正常値と違う計算を行っていた。


いや、この問題は、バトラー家ほど自分の家では大きくないと今もクーパーウッドは思っていた。エドワード・マリア・バトラーとの関係は非常に親密なものになっていた。今も膨大な量の有価証券の取り扱いについて絶えずバトラーに助言していた。バトラーは、ペンシルベニア石炭会社、デラウェア&ハドソン運河、モリス&エセックス運河、リーディング鉄道などの株を保有していた。老紳士の関心が、フィラデルフィアの地元の路面鉄道の問題に向かったので、他の有価証券をできるだけ有利な条件で売り払い、その資金を地元の鉄道に再投資することになった。バトラーはモレンハウワーとシンプソンが同じことをしていることを知っていた。彼らは地元の重要問題には優れた判断力をもっていた。クーパーウッドと同じようにバトラーは、この分野の地元の状況をしっかり掌握すれば、最後にはモレンハウワーやシンプソンと提携できるという考えを持っていた。そうなればこの合併した鉄道会社に有利な政治的立法措置がとても簡単にとれる。運営権でも既存の運営会社に必要な延長線でも追加ができた。他の分野の優良株の換金と、思いがけずに売りに出た地元の路面鉄道株を集めることがクーパーウッドの仕事だった。バトラーは息子のオーエンとカラムを通じて、新路線の計画の立案や運営権の獲得に奔走し、必要な法案を成立させるのに十分な影響力を得るために、当然、大量の株式や現金を犠牲にしていた。この問題がいいことずくめなのは他の連中も承知しているとわかっているので、これは簡単ではなかった。おかげで、ここが利益の出る大きな泉であると知ったクーパーウッドは、乗り遅れないように自分の分を確保することができた――まとまった量を買いながらも、バトラーやモレンハウワーなどにはその一部が渡っただけだった。要するに、できれば自分のために働きたかったので、彼はバトラーや他の誰かのためには熱心に働かなかった。


これに関連するが、実態は背後にいたストロビク、ウィクロフト、ハーモンの代表に過ぎないジョージ・W・ステーネルが持ちかけた計画にはクーパーウッドが付け入る隙があった。ステーネルの計画は、金利二パーセントで市の公金から彼に金を貸すか、彼(保身のために絶対に必要だった代理人)が手数料を全額放棄し無償でその分のフロント・ストリートの北ペンシルバニア鉄道を引き継ぐかだった。この路線は全長が一マイル半と短く、運営権の期間も短かったため、あまりうまくいっておらず、評価も高くはなかった。操作技術代としてクーパーウッドはその株式の適正な分け前――二十パーセントを受け取ることになった。ストロビクとウィクロフトは事が順調に運びさえすれば、その株式を大量に確保できる相手を知っていた。そのときの計画は、この借りた公金で運営期間と路線そのものを延長するというものだった。その後で再び大量の株式を発行し、それを贔屓の銀行の担保に入れて、元金を市に返済し、その鉄道から得た利益を自分たちでいただく寸法だった。このせいでさまざまな人たちの間に株式が四散してしまい、せっかく考えて苦労したのに、比較的小さな分け前しか手元に残らないことを除けば、クーパーウッドとしては何も困らなかった。


クーパーウッドはこれに便乗することにした。そして、この頃までに彼の金融のモラルは特殊で独特な性格を持つようになっていた。取るとか儲ける行為がそのものずばり盗みと見なされる場面で、誰かが誰から何かを盗むことが賢明である、とは彼でも考えなかった。それは賢明ではない――危険である――だから間違いであった。取るとか儲けるという形で行うものが、議論や疑惑を招く状況はとても多かった。少なくとも彼の中で道徳は、空模様ではないにしても、条件次第で変化した。ここフィラデルフィアでは(あくまで政治的にであって一般的にはそうではないが)、市財務官は元金をそっくりそのまま返す限り、無利子で市の公金を使えるのが伝統だった。公金と市財務官は、蜂蜜の詰まった巣箱と女王蜂のようなもので、その周りには雄蜂――政治家――が利益にあやかろうと群がった。このステーネルとの取引でまずかったのは、ステーネルとストロビクの実質的な上司であるバトラー、モレンハウワー、シンプソンの誰もこのことを知らなかったことである。ステーネルとその背後の連中は彼を使って私利私欲で動いていた。上の実力者がこれを聞きつけたら、彼らは遠ざけられるかもしれない。クーパーウッドはこれを考えなければならなかった。しかし、もし彼がステーネルや他の地元の有力者との有利な取引を断れば、他の銀行家やブローカーが喜んで取引するだろうから、自分が損をすることになっていた。それに、バトラー、モレンハウワー、シンプソンがこの先聞きつけるとは限らなかった。


これに関連して、彼も時々乗る十七番街=十九番街鉄道というもう一つの路線があった。もし資金さえ調達できれば、こっちの方がはるかに面白いことが考えられる気がした。最初は資本金五十万ドルだったが、改善費用に二十五万ドルの一連の社債が追加され、会社はその利息の支払いにとても苦労していた。株式の大部分は小口投資家に分散していて、それを集めて彼が社長か会長になるには、全部で二十五万ドル必要だった。しかし、いったん就任すれば、この株式で好きなように議決して、父親の銀行に入れられるだけ担保に入れて、さらに株を発行してそれを使って議員に賄賂をおくり、路線延長の問題や、買収による設備の追加、労働契約による補填など他のチャンスをつかめるのだ。この「賄賂」という言葉は、ここでは淡々とアメリカ流に使われているが、賄賂といえば誰もが州議会に連想するからである。テレンス・レイリハン――服装も態度も一流の小柄で顔の黒いアイルランド人――ハリスバーグの金融関係者の代表――は五百万ドルの公債が印刷された後でクーパーウッドのところへやってきて、お金かそれと同等の換金可能な有価証券がなければ州都では何もできないと言ったことがあった。手持ちの議決権や影響力を委ねたとしてもそれぞれの大物議員の面倒を見なければならなかった。もしクーパーウッドに何か手がけたい計画があるなら、いつでも相談に乗るとレイリハンは言ってくれていた。クーパーウッドはこの十七番街=十九番街鉄道計画を何度も考えたが、進んで取り組みたい確信が自分にあると感じたことはなかった。他の方面で負う義務がとても大きかったからである。しかしそこに誘惑があるものだからクーパーウッドは思案に思案を重ねた。


北ペンシルバニア鉄道買収資金を融資するステーネルの計画は、この十七番街=十九番街鉄道の夢を一段と有望に見せた。クーパーウッドは市の財政のために絶えず市債証書の発行状況を監視していた。マーケットが下落しているときにはそれを守るために大量に買い、上昇しているときは慎重になりながら大量に売っていた。これを行うためにはそれを可能にする巨額の自由に使える資金を持たねばならなかった。彼は、自分のすべての有価証券の評価額に影響を及ぼし融資の返済を招く結果になる何らかのマーケットの崩壊を常に恐れていた。嵐は見当たらなかった。合理的に何かが起こりそうな気配は見当たらなかった。しかし過ぎたる背伸びはしたくなかった。今のところ、この市の公金十五万ドルを使って、この十七番街=十九番街鉄道の問題に取り組んだとしても、背伸びをし過ぎることにはなりそうもなかった。だとすれば、この新しい計画に使う資金を、他の事業関連の融資としてもっとステーネルから引き出せないだろうか? しかし、もし何かが起こったら――


「フランク」その日の仕事が一段落して、午後四時を回ってオフィスに入るときにステーネルは言った。クーパーウッドとステーネルの関係は「フランク」と「ジョージ」と呼び合う時代に入って随分経過していた。「こっちが望めば入手できるように北ペンシルバニアの件はお膳立てができたとストロビクは思ってる。見つけた大株主はコルトンという名前です――アイク・コルトンではなくフェルディナンドですって。どうです、名前は?」ステーネルはしたり顔で和やかに微笑んだ。


幸運と無関心のおかげで市財務官になれてからというもの、彼の状況はかなり変わっていた。就任以来、服装は大幅に改善し、態度はかなりご機嫌や自信や落ち着きをうかがわせていたから、以前の彼を知る者が見たとしても彼だとは気づかなかっただろう。昔の神経質な目の動きはほぼなくなった。以前は落ち着きがなかったのに必要に迫られて出てきたのか、安らぎの印象がそれに取って代わっていた。大きな足は、良質のつま先が四角いソフトレザーの靴に収まり、がっしりした胸と太い脚は、茶色がかった灰色の生地の格好いいスーツのおかげで何だか見映えがよくなった。今、首を囲むのは低い白のウィングカラーと茶色のシルクのネクタイである。広い胸は大きくなったお腹を中心に少し下に伸びて、重そうな金の鎖が飾られていて、白いカフスには特大のルビーがあしらわれた大きな金のカフスボタンがあった。血色がよく、明らかに栄養が行き渡っていた。実際、とても順調にいっていた。


南九番街の粗末な二階建て木造家屋から、スプリングガーデン・ストリートにある三階建てで広さが三倍もある、とても快適なレンガ造りの家に引っ越していた。妻には知り合いが数名できた――他の政治家の奥さんだった。子供たちは、昔だったら到底かなわなかったハイスクールに通っていた。やがて高騰するかもしれない安い不動産を今、市内各地で十四、五か所持っていた。また、南フィラデルフィア鋳造会社とアメリカン・ビーフ&ポーク社の匿名パートナーでもあった。この二つのペーパーカンパニーの主な業務は、市から受注した契約を、与えられた命令を忠実にこなし、多くを語らず質問もしない謙虚な肉屋と鋳物屋に下請けに出すことだった。


「まあ、変わった名前だ」クーパーウッドは平然と言った。「じゃあ、そいつが持ち主ですか? あの鉄道ができたところで儲かるとは思わない。短すぎるよ。もう三マイル伸ばしてケンジントン地区まで乗り入れないとね」


「そのとおり」ステーネルはぼんやり言った。


「ストロビクは、コルトンが株をいくらで売りたがってるか言いましたか?」


「六十八ドルだと思う」


「今の市場レートだね。欲張りじゃないんだな? ジョージ、そのレートでいくと――」――クーパーウッドはコルトンが持っている株の口数をもとに素早く計算した――「彼一人を辞めさせるのに十二万ドルかかる。それだけではすまない。ジャッジ・キッチン、ジョセフ・ジマーマン、ドノバン上院議員だっている」――州の上院議員の名前をあげながら「手に入れてもこいつにはかなりまとまった額を払い続けることになるな。線路の延長にはもっと費用がかかるだろう。かかり過ぎだと思うな」


クーパーウッドは、自分が夢見る十七番街=十九番街鉄道とこの鉄道を合併させたらどんなに楽だろうと考えながら、しばらくしてからこれを踏まえた意見を添えた。


「ねえ、ジョージ、どうしてストロビクとハーモンとウィクロフトを通して自分の計画を実行するんですか? 三、四人ではなく、私とあなただけでこういうことを何とか扱えませんか? 計画はその方がはるかに儲かると思うんですが」


「そうだよ、そうなんだ!」ステーネルは叫んだ。丸い目がかなりやるせなく訴えかけるような感じでクーパーウッドを見すえた。ステーネルはクーパーウッドを好きになり、財務面と同様に精神面でもできる限り近づきたいと常々思っていた。「そのことは私だって考えたさ。だけどね、彼らは私なんかよりもこういう問題にかけてははるかに経験があるんだよ、フランク。彼らの方がキャリアが長いからね。私は彼らほどにはこういうことに詳しくないんだ」


クーパーウッドは顔では同調したが腹の中では笑っていた。


「その辺は心配いりませんよ、ジョージ」クーパーウッドは穏やかに自信満々で続けた。「あなたと私は彼ら以上に多くのことを知ってるしやれるんですよ。いいですか、今やってる鉄道買収だってそうですよ、ジョージ。ウィクロフト、ストロビク、ハーモンと一緒にやるよりも、あなたと私とでやる方がうまくやれますよ。彼らは問題の解決に何も貢献していないし、お金を出しているわけでもない。出しているのはあなたですからね。彼らがやっているのは、議会と評議会を通過させることに同意しているだけで、議会に関する限り、他の誰よりも――たとえば私以上に何かができるわけでもありません。すべてはレイリハンと調整にかかってます。とにかく一定の金額を彼に渡して仕事を任せるんです。この町にはストロビクと同じように評議会に働きかけできる人間が他にもいますから」クーパーウッドは(自分の鉄道会社を手に入れたら)バトラーと交渉して、影響力を行使してもらおうと考えていた。それでストロビク一味はおとなしくなるだろう。「私は北ペンシルバニア線の買収計画を変更しろと頼んでいるんじゃありませんよ。あなたにそんなことはできませんからね。でも、他にもいろいろな会社があるんです。将来、あなたと私とでどこか一社、一緒に手がけられないか考えてみてはどうでしょう? あなたならもっと上手にやりますよ。私もね。私たちでここまでこの市債の計画だってうまくやってきたじゃないですか?」


確かに、彼らは極めて順調にやりとげた。もっと上の権力者がやってくれたことを除けば、ステーネルの新居、土地、銀行口座、立派な服、生活の変化と快適な実感は、クーパーウッドの見事な市債証書の相場操作によるところが大きかった。一回につき二十万の発行がすでに四回あった。クーパーウッドは、ある時は「買い方」、ある時は「売り方」として行動しながらこの証書を約三百万ドル分売買していた。ステーネルは今や十五万ドルの資産家だった。


「この街に、私が知っている路線があります。もし適切な処置が施されれば、立派な利益を生む財産になるはずです」クーパーウッドは思いを巡らせるように続けた。「ただ、この北ペンシルバニア鉄道と同じで長さが足りません。サービスエリアの規模が十分じゃないんです。延長しないとなりません。でももしあなたと私がそれを買収すれば、最終的にこの北ペンシルバニア鉄道か他の会社と一緒に一つの会社として機能させられるかもしれません。そうすれば役員やオフィスやたくさんのものが節約できます。いつだって購買力が大きい方が儲かるんです」


クーパーウッドは話をやめて、立派な小さい硬材のオフィスの窓から外を眺め、将来のことを考えていた。その窓からは、以前は住居だった別のオフィスビルの裏庭以外のものは何も見えなかった。何かの草が少し生えていた。隣の土地からここを隔てている赤い壁と古風なレンガの塀は、どこかニューマーケット・ストリートの古い家を思わせた。セネカ叔父さんが、ポルトガルの黒人の使用人を連れてキューバの商人としてよく来ていたところだ。こうしてここに座って裏庭を眺めているとその姿が目に浮かんだ。


「なら」ステーネルは餌に食いつき野心を燃やしながら尋ねた。「それを手に入れたらどうだろう――あなたと私とで? お金の問題は私が解決できるとして、いくらくらいかかるんでしょう?」


クーパーウッドは再び腹の中で微笑んだ。


「正確なところはわかりません」しばらくしてから言った。「もっと慎重に調べたいですね。一つ困っているのは、私が市の大金をそのままお預かりしていることです。ほら、あなたの市債取引にあてる資金の二十万ドルがあるでしょ。それに、この新しい計画にはさらに二、三十万ドルかかるでしょうから、もしそれがなくなりでもしたら――」


クーパーウッドはあの説明のつかない株の暴落のこと――国民の気質が大きく関係するくせに、国の基本的条件とはあまり関係がないあの変なアメリカの鬱病――を考えていた。「この北ペンシルバニア線の買収が終わって片がつけば――」


クーパーウッドは顎をなでて、すてきなシルクの肌触りの口髭を引っ張った。


「これ以上は聞かないでくださいね、ジョージ」ステーネルがどの路線かを考え始めているのを見届けてようやくクーパーウッドは言った。「くれぐれも他言無用ですよ。事実を正確に把握したいんです。それからお話しますよ。この件はもう少ししたら、北ペンシルバニアの計画が進んだら、あなたと私とでやれると思いますよ。今すぐやれと言われても、直ちに取りかかっていいものなのかはっきりしません。でも静かにしていれば、そのうちわかりますよ」クーパーウッドはデスクの方を向いた。ステーネルは立ち上がった。


「行動する準備ができたと思ったら、いくらでも預けるからね、フランク」ステーネルは叫んだ。本当に儲かる話があったらクーパーウッドはいつでも自分(ステーネル)を頼れるのだから、これを実行するのはさほど不安はないと考えた。有能ですばらしいクーパーウッドが、二人を金持ちにしてくれるのだからいいじゃないか? 「スターズに言えば彼が小切手を送ります。ストロビクは、すぐにでも行動を起こすべきだと考えてましたよ」


「そのつもりですよ、ジョージ」クーパーウッドは自信たっぷりに答えた。「きっとうまくいきます。私に任せてください」


ステーネルはたくましい足を蹴ってズボンを伸ばし、手を差し出した。この新しい計画を考えながら通りを歩いた。確かに、クーパーウッドは絶好調で、とても用心深かったから、クーパーウッドと一緒にうまくやれていたら彼は金持ちになっただろう。新しい家、この美しい銀行、高まりつつある名声、おまけにバトラーたちとうまくやっているものだから、ステーネルは彼にかなり畏敬の念を抱くようになった。別の鉄道会社だって! 二人でそこと北ペンシルバニア鉄道を支配するのだ! このままいけば大物になるかもしれない――本当になるかもしれない――この自分が、ジョージ・W・ステーネルが、かつて取るに足らない不動産と保険の代理人だった者が。ステーネルは考えながら通りを歩いた。しかし市民の義務の重要性だとか、自分が犯している社会倫理の本質については、存在したことがなかったのだから全く考えなかった。






 

 

第二十二章

 



その後の一年半の間にクーパーウッドがステーネル、ストロビク、バトラー、ヴァン・ノストランド州財務官、ハリスバーグのいわゆる「利権屋」の代表レイリハン州上院議員、この紳士たちと親しいさまざまな銀行のためにやった仕事は、膨大で機密性を要するものだった。ステーネル、ストロビク、ウィクロフト、ハーモン、そして自分のために、北ペンシルバニア鉄道株を買い付けて、クーパーウッドは支配株の五分の一を持つ株主になった。クーパーウッドとステーネルは共同で十七番街=十九番街鉄道の買収を行い、同時に株のギャンブルにのめり込んだ。


もうじき三十四歳になる一八七一年の夏までに、クーパーウッドは推定約二百万ドルの銀行業と五十万ドルになろうという個人資産を持ち、他の諸条件が同じなら、どのアメリカ人にも負けない富を手にするはずだった。市は財務官――依然としてステーネル氏――を通してクーパーウッドに五十万ドル近くを預けていた。州はヴァン・ノストランド州財務官を通して二十万ドルをクーパーウッドに預託していた。ボーデは五万ドル相当を路面鉄道株につぎ込んでいた。レイリハンも同額だった。ちょっとした人数の政治家とその取り巻きが、いろいろな金額で彼の帳簿に載っていた。そして、エドワード・マリア・バトラーの分として時には証拠金を十万ドルも預けることがあった。彼の銀行からの借入金はいろいろな有価証券が担保なので日々変化するが、七、八十万ドルに及んだ。キラキラ光る蜘蛛の巣にいる蜘蛛が、自分の糸を知りつくし、張り巡らし、動かしてみるように、クーパーウッドは自分の周囲に豪華絢爛な人脈のネットワークを張り巡らしてそこに陣取り、細かいことのすべてにまで目を光らせていた。


彼が他の何よりも信じて専念したのは、路面鉄道株の操作を行い、特に十七番街=十九番街鉄道を実際に支配することだった。十七番街=十九番街鉄道の株価が低迷したときに、クーパーウッドはステーネルの銀行預金を前借りして自分とステーネルのために何とかこの株式の五十一パーセントを手に入れることができた。そのおかげでこの会社を好きなように利用できるようになった。しかし、これをやり遂げるにあたって彼は後の金融界で言われることになる非常に「独特な」手段に訴えて、この株式を自分の言い値で手に入れた。代理人を通じて、支払うべき利息の不払いを理由に損害賠償請求訴訟を起したのである。金で人を雇いそいつに株を少し渡し、管財人による管理が適切かどうかを判定してもらうために会社の帳簿を調査するよう記録裁判所へ要請がなされ、それと同時に三、五、七、十ポイント安い値段で売りを浴びせて株式市場を攻撃したものだから、おびえた株主が保有株を市場に放出した。銀行はこの鉄道会社を危険と判断し、同社に関係する融資の返済を求めた。父親の銀行はここの大株主の一人に融資をしていた。当然その分は即座に返済を求められた。それから代理人を経由して複数の大株主に接触がとられて支援の声がかけられた。株は四十ドルで取り上げられた。誰も自分たちの災難の原因を突き止めらず、そうではないのに会社が不振なんだと想像した。放っておけばよかったのだ。お金はすぐに準備ができて、クーパーウッドとステーネルは共同で五十一パーセントを支配した。しかし北ペンシルベニア鉄道のときと同じで、クーパーウッドは実際に自分が五十一パーセント、ステーネルが二十五パーセント以上になるように、少数株主の持ち株を静かに買い集めていた。


すぐにクーパーウッドはずっと温めてきた夢を実現するチャンスが来たと見て興奮した。北ペンシルバニア鉄道と合併して会社を再編成し、それまで一株だったところへ三株発行して、支配権に影響しないすべての分を一般向けに売りさばき、確保した資金で別の鉄道会社の株を買う。そしてその会社も同じように活気づいたところで売られる。後に自分たちが大きくなるために彼らは、アメリカの自然な発展の他のもっと大きな舞台に登場するわけだが、クーパーウッドはそんな初期の大胆な相場師の一人だった。


この最初の合併に関連して彼は、二つの鉄道の合併が近いという噂を広め、路線延長の認可を議会に訴え、印象的な目論見書ともっと後で年次報告書を作成し、膨れ上がる資金をありったけ使って証券取引所でその株を高騰させるつもりだった。問題は、株をマーケットに出して――自分の五十万ドルを維持しつつ――これほどの大量発行分(五十万ドル以上)を売りさばくには、それを扱う巨額の資金が必要なことだった。こういう場合、株の持ち主はただマーケットに出て大量の架空の買い付けを行い、これで架空の需要を作り出すだけでは終わらない。いったんこの架空の需要が世間を欺いた上で大量の株式を売りさばいたのであれば、自分の持ち株をすべて処分しない限りは、自分で値を支えざるを得ない。例えば、今回のように五千株を売却し、五千株を保有する場合、発行済みの五千株の公開価格が一定水準以下にならないように気をつけねばならない。そうしないと自分の持ち株の価値までそれにつられて下がってしまうからだ。また、ほとんどの場合そうだが、その個人の株式が他の事業の資金繰りとして銀行や信託会社の担保に入っていた場合、公開市場でその価値が下がれば、銀行は自分の融資を保護するために多額の保証金を要求するか、融資を完全に引き上げてしまう。それは、彼の仕事が失敗し、たちまち破産するかもしれないという意味だった。クーパーウッドはすでにこの市債のマーケットでこの難しい操作を行っていた。債券の価格は日々変動した。主にその値動きで利益を出していたので変動は望んでやまないものだった。


しかし、この二つ目の大仕事はそれだけでも十分に面白かったが、警戒を二重にしなければならなくなることを意味した。株が高値で売れれば、市財務官から借りた金は返済できるだろうが、先見の明と、将来性の転換と、抜け目ない目論見書と報告書の作成から生まれたこの自分の持ち株は、額面かそれ以下にしかならないだろう。他の鉄道会社に投資する資金は手に入ることになっている。そのすべての財務まで監督することになるかもしれない。その場合は何百万という額になるだろう。これこそがこの男の先見性と目の付け所の鋭さを示すものだが、彼は抜け目なく、自分の鉄道に延長だか追加を行うする組織だか会社を別に作った。つまり、ある通りに二、三マイルの線路がああって、同じ通りでさらに二、三マイル延長したい場合、この延長した部分を既存の会社に含めるのではなく、別の会社を作って追加した二、三マイルの通行権を管理するのである。そしてこの会社の資本金をいくらと設定して、その建設と設備をまかなうための株式や債券を発行して操作する。これが済んだら、その子会社を親会社に取り込み、それを行うために親会社の株式や社債を増発して、もちろんその社債を一般向けに売り出す。彼の下で働く弟たちも、多くの取引から派生する様々な影響をわかってはおらず、黙って命令を実行した。時々、ジョセフは当惑してエドワードに言った。「まあ、状況はフランクがわかってると思うよ」


その一方で、規律を大いに誇示したかったので、現在のすべての義務が速やかに果たされていることを確認することに細心の注意を払い、さらには取り越し苦労さえするほどだった。評判と地位ほど貴重なものはない。彼の先読み、用心深さ、手際のよさは、銀行家たちに好評で、これまで会った中で最も健全で、最も抜け目のない男の一人であると見なされた。


しかし一八七一年の春から夏にかけてクーパーウッドは、まさか危険な状態にいるとは考えもしなかったので、実はかなり背伸びをしていた。大成功していたので、以前よりも手広く――気軽に――投資をするようになっていた。徐々に、そして何よりも自分を過信して、父親まで路面鉄道の投機に参加させてしまい、第三ナショナル銀行の資金を使って借入金の一部を負担させ、急に金が必要な時に資金を提供してもらえるようにした。最初、父親は少し神経質になり疑っていた。しかし時間が経っても結果は利益だけだったので、だんだん大胆になって自信がついてきた。


「フランク」父親はメガネ越しに見ながら言った。「少し事を急ぎ過ぎてやしないか? 最近、借入金が随分たまってるだろう」


「ぼくの資産からすればこれまでと変わりませんよ、お父さん。大金を借りないと大きな仕事はできません。お父さんだって、ぼく同様にご存知でしょう」


「無論、承知してる、しかし――あのグリーン=コーツ鉄道だが――あそこにかなり肩入れしてるんじゃないか?」


「そんなことはありません。あそこの内情はわかってます。結局に株価は上がるにきまってます。だから買いあがります。もし必要なら、ぼくの他の鉄道会社にくっつけますよ」


クーパーウッドは我が子を見つめた。こんなに傲慢で大胆な相場師はいなかった。


「ぼくのことなら心配いりませんよ、お父さん。何でしたら、ぼくへの融資を引き上げてください。ぼくの株なら他の銀行でも融資してくれますから。ぼくはお父さんの銀行が儲かるところを見たいんです」


これで、ヘンリー・クーパーウッドは納得した。こう言われると言い返せなかった。彼の銀行はフランクに多額の融資をしていたが、他行より多いわけではなかった。そして、息子の会社につぎ込んでいた大量の株式については、いざというときには、いつ手を引くかを教えてもらうことになっていた。フランクの弟たちも副業でお金を稼ぐために、同じように手伝いをさせられていた。彼らの利益も今やフランクの利益と切っても切れなくなっていた。


金回りがよくなると、クーパーウッドは生活水準とでもいうべきものもとても謳歌するようになった。フィラデルフィアの若い美術商たちは、彼の芸術的志向と富の拡大を聞きつけると、家具、タペストリー、敷物、美術品、絵画を――最初はアメリカ、後には外国の巨匠に限定して――提案しながら追い回すようになった。自宅も父親の家もこういう面では充実していなかった。それなら北十番街に別の家があるのだからこっちを美しくしたいと考えた。アイリーンはいつも自宅の現状に不満を抱いていた。自分の憧れを説明する才能はなかったが、立派な環境を欲しがる気持ちはずっとアイリーンの基本だった。しかし、二人が密会を続けているこの場所だけは美しくなければなかった。クーパーウッドと同じようにアイリーンもこれを強く望んだ。だから、そこはクーパーウッド邸の部屋のいくつかよりも調度品の質が高く、まさに宝庫だった。クーパーウッドはここで、中世の祭壇の敷布や敷物やタペストリーなどの貴重品を集め始めた。チペンデール、シェラトン、ヘッペルホワイトなど――イタリア・ルネッサンスとフランスのルイ王朝色が加味された――ジョージ王朝風の家具を買いそろえた。磁器、彫像、ギリシャの花瓶、日本の象牙や根付の美しいコレクションなどの一品の数々を学んだ。地元の美術品輸入業者ケーブル&グレイ社の経営者フレッチャー・グレイが、十四世紀に織られたタペストリーの件で訪れた。グレイは熱烈なファンであり、会うが早いかその美術品に対する自分の抑えられてはいるが燃えるような愛情をクーパーウッドに伝えた。


「青磁の陰影ひとつとっても十五段階あるんですよ、クーパーウッドさん」グレイは解説した。「敷物にだって少なくとも、七つの流派や時代があります――ペルシャ、アルメニア、アラビア、フランドル、近代ポーランド、ハンガリーなどです。もしそこにいらしたら、完全なものを――つまり代表的ということですが――ある時代かすべての時代のコレクションを入手したくてたまらなくなるでしょう。美しいんですよ。私もそのうちのいくつかはこの目で見ましたし、その他のものは本で見ました」


「あなたの話を聞くと考えが改まります、フレッチャー」クーパーウッドは答えた。「あなたや芸術を相手にしてたら身が持ちませんよ。このとおり、私はそういう性分だと思いますから。あなたやエルスワースやゴードン・ストライク」――絵画に強い関心を持つ別の若者――「の中にいたら私は完全に破滅してしまう。ストライクは立派な意見を持ってましてね、私に『ちゃんと』した形で始めろって言うんです――『ちゃんと』っていうのは『適切に』っていう意味で使ってますが――芸術のそれぞれの流派や時代を適切に説明できる希少な貴重品をできる限り集めさせたがるんです。名画というのは価値が上がっていって、今、数十万で手に入るものが、やがて数百万になるって言うんです。彼なんかは私をアメリカの絵画にかかわらせたがらないですね」


「そのとおりです」グレイは声高に言った。「別の芸術愛好家を褒めても私の仕事の足しにはなりませんが。でも、それには大金がかかるでしょうな」


「そう大したことはありません。少なくとも全部一度にやるわけじゃあません。当然、数年がかりでしょうね。ストレイクの考えでは、異なる時代の名画を今いつくか手に入れて、もし後で同じ時期のもっといいものが出たら買い換えて飾っておけばいいそうです」


外見は穏やかでもその内面は貪欲だった。最初は富が唯一の目的だったように思えたが、そこに女性の美が加えられた。今ようやく、芸術のための芸術――バラ色の夜明けの最初のかすかな輝き――が彼を照らし始めた。そして、女性の美しさに、生活の美しさ――物質的背景の美しさ――を加えることがいかに必要であるかを――実際問題として偉大な美しさの唯一の背景は偉大な芸術であることをわかり始めていた。この少女、アイリーン・バトラー、そのありのままの若さと輝きは、クーパーウッドにその格の違いを感じさせ、かつて彼の中には存在したことがなかったそれを求める欲を同程度に生み出していた。気質と気質が向き合うときのこういう微妙な反応を定義づけすることは不可能である。なぜなら、自分を惹きつけるものに自分がどの程度影響されるかなど誰にもわからないのだから。こんな恋愛など、透明な水に加えられた一滴の色素か、微妙な化学式に組み込まれた異質の化学作用よりも少し大きいか小さいかでしかないのは明らかだった。


つまり、アイリーン・バトラーは未熟なりに、本人は確かな力を持っていた。その性格は、自分を取り巻くぱっとしない環境に対する反発という一面が、ほとんど不合理なほど激しかった。考えてみればバトラー家に生まれた彼女は長い間このような平凡で味気ない幻想や環境の犠牲者であり、被験者だった。ところが今、クーパーウッドに出会い、精神的に従属することによって、以前には全然想像もしなかった資産家や上流階級の洗練された生活のすばらしい局面の数々を身をもって学びつつあった。例えば、フランク・クーパーウッドのような男性の妻として将来社会に出られたらどんなにすばらしいだろう。彼が本性を現したのは何時間も親密な接触を続けた後であり、説明も指示もとても明確だったために、彼の考えは見事で才気縦横だと感じないわけにいかなかった。裕福で優雅な生活を送り、将来社会的地位を持つすばらしい夢だった。そして、まさに、彼女は彼のもので、彼は彼女のものだった。アイリーンはこのすべてがうれしいだけでなく、誇らしさのあまり時々我を忘れそうになった。


同時に、(下品な事情通からは「残飯拾い」と心無い言われ方をされた)元生ゴミ回収の請負業者という父親の地元での評判と、自宅の家の物が野暮ったくて美的センスがないのを正そうとしたむなしい努力と、名門と上流社会の最後の聖域としてはるかかなたに見つけた敷居の高い門をこの先も通ることを許されない絶望感は、こんなに若いアイリーンの中に、今の家庭環境に対する凄まじい反感を育ててしまった。クーパーウッド邸に比べてこの家ときたら! 大切なのに無学な父親! そして今、この偉大な男性が、自分の恋人が、この自分を愛し、自分の中に未来の妻を見てくれている。ああ、神さま、失敗しませんように! 最初アイリーンはクーパーウッド家を通じて、自分がいる立場よりも上の人間、若い男女――特に男性――自分の美貌と有望な前途があれば手の届きそうな人たち――に少しでも会えればいいと期待していたが、これは当てが外れた。フランク・クーパーウッドが芸術愛好家で富を築きつつあったにもかかわらず、クーパーウッド家自体がまだ中枢メンバーに入ってはいなかった。実際のところは、現在受けている微妙な事前審査は別としても、その道のりは遠かった。


それでも、アイリーンは本能的にクーパーウッドの中に出口を――扉を――見出した。そしてそれと同じように、何となく手が届きそうな荘厳華麗な未来を見出した。この男性は、今夢見ているもの以上になる――アイリーンはそう感じた。この男性の中には、漠然とした認識できない形ではあったが、アイリーンが自分のために計画できるどんなものよりも優れた、すごく美しいものを実現してしまう力があった。アイリーンが欲しいのは、豪華なもの、壮麗なもの、社会的地位だった。自分がもしこの男性を手に入れたら、それらは自分のものになる。明らかに越えられない邪魔な壁があった。しかしアイリーンもクーパーウッドも弱虫ではなかった。二人は最初から心を一つにして二頭の豹のように走っていた。アイリーンの考えは、雑で、中途半端で、伝えきれていなかったが、それでも二人の本気度と飾らぬ本音は同じでクーパーウッドのものとかなり一致していた。


「うちの父は、どうしたらいいのかわからないんだと思うわ」ある日アイリーンはクーパーウッドに言った。「別に父の落ち度じゃないけど、父にはそれができないのよ。自分にはできないとわかってて、あたしがそれを知ってることもわかってるのよ。何年間もあたしはあの古い家から出て行こうって頼んだわ。自分でそうすべきなのはわかっているくせに、それでもどうにもならないのよ」


アイリーンは話をやめて、正面から澄み切った元気な目でクーパーウッドを見た。クーパーウッドはその顔立ちのメダルの模様のようなメリハリ――滑らかなギリシャ風の立体感――が好きだった。


「心配しなくていい」クーパーウッドは答えた。「すべては後で調整しよう。今はまだ出口が見えないけど、リリアンに打ち明けるのが一番いいと思う。そして他に打つ手がないかを確かめるんだ。私としては子供たちが困らないようにきちんとしたい。私なら十分に養えるからね。リリアンが自分から私を解放する気になっても全然驚かないよ。リリアンはきっと世間に知られたくはないだろうからね」


クーパーウッドはリリアンの子供たちへの愛情を、打算的に、男の感覚で考えていた。


アイリーンは、澄んだ、懐疑的な、納得できない目で相手を見た。必ずしも同情しないわけではなかったが、ある意味でこの問題はアイリーンにあまり重要だと響かなかった。クーパーウッド夫人のアイリーンに対する態度は友好的ではなかった。それは見解が相違うだけで、何か根拠があるわけではなかった。クーパーウッド夫人にすれば、どうして女の子があんなに頭が高くて偉そうな態度をとれるのか理解できなかったし、アイリーンにすれば、どうすればリリアン・クーパーウッドのように鈍くさくて無気力でいられるのか理解できなかった。人生は、乗馬、馬車、ダンス、お出かけのためにあった。気取ったり、冗談を言ったり、冷やかしたり、色目をつかうためにあるのだ。クーパーウッドのような若くて力強い男性の妻であるこの女が、五歳年上で二人の子供の母親だからといって、ロマンチックで興奮さめやらぬ楽しい人生がまるですべて終わったかのように振る舞うのを見るのは、アイリーンには到底耐えられなかった。リリアンがフランクにふさわしくないのは当然で、フランクが自分のような若い女性を必要とするのは当然だった。運命は必ずやフランクを自分にくれるだろう。そのとき二人はどんなすてきな生活を送るのだろう! 


「ねえ、フランク」アイリーンは声を大にして繰り返した。「何とかできないかしら。あたしたちにできると思う?」


「思うか、だって? できるに決まってるさ。ただの時間の問題だよ。こっちがはっきり言ってしまえば、向こうは私がそのままにしておくとは思わないさ。きみこそ自分の問題をどうするのか、よく考えることだ。もしきみのお父さんかお兄さんが私を疑ったら、それ以上ひどいものはない爆発がこの街で起こるだろうからね。私を殺さなかったら、私の金融取引のすべてで闘いを挑んでくるさ。きみは自分の行動について慎重に考えているかい?」


「いつも考えているわよ。何があっても全て否定してやるわ。あたしが否定すれば向こうは証明できないんだから。時間はかかってもどうせ私はあなたのもとへたどり着くのよ」


この時、二人は十番街の家にいた。無我夢中でいる女の愛情たっぷりの指でアイリーンは相手の頬をなでた。


「あなたのためなら何だってするわ」アイリーンは明言した。「必要なら、あなたのために死んでもいい。あたしはそのくらいあなたを愛してるわ」


「でもね、アイリーン、危険なんかないんだよ。きみはそんなことをする必要はない。だけど用心はするんだよ」






 

 

第二十三章

 



そして、共感と理解の絆が弱まるどころかより強くなったこの秘密の関係が数年続いたあとで嵐がやってきた。突然の襲来、青天の霹靂、個人の意図や意志ではどうにもならないものだった。それは遠方の火事以外の何物でもなかった――一八七一年十月七日のシカゴ大火である。この火災はシカゴの広大な商業地区を焼き尽くし、瞬く間に、連鎖的に、アメリカの他の各都市に短期間ではあったがたちの悪い金融恐慌を引き起こした。火事は土曜日に始まり、翌週の水曜日まで衰える気配もなく燃え続け、銀行、商業施設、港湾設備、広大な範囲に及ぶ土地建物を破壊した。最大の被害は自ずと保険会社に降りかかった。たちまち、多くの会社が――その大半が――店を閉めた。おかげでシカゴの商人だけでなく、シカゴと取引があった他の都市のメーカーや卸売業者までこのあおりを食らった。また、東部の資本家の多くが、とても深刻な損失を被った。彼らは、シカゴがすでにこの大陸のすべての都市と肩を並べていたビジネス用途や住居用途の立派な建物の一部を、過去何年間も所有していたり、それに高額の抵当権を設定していた。交通機関は混乱した。ウォール街、フィラデルフィアの三番街、ボストンのステート・ストリートの鋭い嗅覚は報道が始まった段階で即座に事態の深刻さを察知した。取引所が閉まった後の土曜日と日曜日は何の対応も取りようがなかった。第一報が遅すぎたのだ。しかし月曜日になると詳細が一気に入ってきた。鉄道株、国債、市街線株、その他のあらゆる種類の株式や債券を持つ者が現金を調達するためにそれらをマーケットに放出し始めた。銀行は当然、融資の返済を求めた。その結果、二年前のウォール街のブラックフライデーに匹敵する株の暴落が発生した。


火事が発生したとき、クーパーウッド親子は町を留守にしていた。数名の友人――銀行家――と一緒に、融資対象の地元の蒸気鉄道の延長案のルートを下見しに出ていた。馬車でルートの大部分を走り、日曜日の夕方遅くなってフィラデルフィアに戻る途中で「号外」を売り歩く新聞配達の叫び声が耳に届いた。


「おーい! 号外だ! 号外だ! シカゴ大火の全貌だよ!」


「おーい! 号外だ! 号外だ! シカゴが焼け落ちた! 号外だ! 号外だよ!」


その叫び声は長ったらしく、不吉で、悲愴感が漂っていた。わびしい日曜日の午後の夕闇の中、安息日の瞑想と祈りのために街が静まり返っているかに見える頃、木々の葉や空気に漂う年のうつろいの気配と共に、人は何か重く暗いものを感じとった。


「おい、君」クーパーウッドは耳を澄ませながら、新聞の束を小脇に抱えて角を曲がろうとする少年のみすぼらしい服装の不格好な姿を見つけると声をかけた。「何だって? シカゴが燃えているって!」


新聞に手を伸ばしながら、父親と他のメンバーに思わせぶりな顔を向け、それから見出しをちらっと見てその最悪さを悟った。 

 


     シカゴ全焼 

 


昨夜、商業地区で発生した火災、鎮火の目処立たず。銀行、商業施設、公共設備、倒壊。直通電信、本日三時より不通。災害終息の気配なし。 

 


「かなり深刻なようだ」クーパーウッドは連れの仲間には冷静に、自分の目と声に冷たい毅然とした力を込めながら言った。その少し後で、父親に言った。「銀行と証券会社が一致団結しない限りパニックになりますね」


自分が負っている債務について、迅速に、鮮やかに、知恵を振り絞って、考えていた。父親の銀行は、十万ドル相当の路面鉄道株を六十パーセントで、五万ドル相当の市債を七十パーセントで預かっていた。父親は、これらの株の市場操作を行う分の現金を四万ドル以上負担していた。ドレクセル銀行は十万ドルの債権者として帳簿に載っていた。よほど慈悲深くない限り、この融資は返済を求められるだろう。慈悲深いなんてことはあり得ないのだ。ジェイ・クック商会もまた十五万ドルの債権者だった。彼らも返済を求めるだろう。四つの小さな銀行と三つの証券会社に対しては、五万ドル以下の債務者だった。市財務官は五十万ドル近くかかわっていた。それが露見すればスキャンダルになる。州財務官とは二十万ドルだった。百ドルから五千ドル、一万ドルという小口の口座も何百とあった。パニックは預金の引き出しや融資の返済だけでなく、株の大暴落を引き起こすだろう。どうしたら、自分の有価証券を現金化できるだろう?――それが問題だ。財産がなくなって自分が破滅するような大幅安で売らないためには、どうすればいいのだろう? 


我が身の窮地に打ちのめされ慌てて立ち去る友人たちに手を振って別れを告げる一方で、クーパーウッドはてきぱきと考えた。


「お父さんは帰った方がいいでしょう。ぼくは電報を打ちますから」(電話はまだ発明されていなかった)「それが済んだらこの件を一緒に考えましょう。どうも雲行きが怪しくなってきたようです。話し合いが済むまでは誰にも何も言わないでくださいね。そのときに、どうすればいいかを決めましょう」


ヘンリー・クーパーウッドは混乱し困った様子ですでに頬髯をむしっていた。息子と深く関わっていただけに、息子が破産したら自分はどうなるのだろうと熟慮していた。怖くなって今は顔色が少し悪かった。息子に便宜を図るために、すでにいろいろな点で無理をしていたのだ。もしフランクが明日、銀行が十五万ドルに対して行う返済請求に即座に応じられなかったら、その件の責任と不名誉は自分がかぶることになるのだ。


その一方で、息子は、市財務官との関係で自分が今置かれている複雑な立場と、自分一人ではマーケットを支え切れない事実をじっくり考えていた。本来なら自分を助けてくれる立場にいる人たちまで、今は自分と同じ困った状態になっていた。全体として不利な点が多かった。ドレクセル商会は鉄道株に力を入れていた――それを担保にして多額の貸し付けを行っていた。ジェイ・クック商会はノーザン・パシフィック鉄道を後押ししていた――事実上単独でその大陸横断鉄道建設に全力を注いでいた。当然、その株を保有していたから、難しい状況にあった。第一声で彼らは自分たちの投機的性質の高い保有株を守るために最も手堅い有価証券――国債など――を投げ売りするだろう。売り方はそこに目をつける。売り方は徹底的に空売りを浴びせて売り叩く。しかしクーパーウッドはそれをするつもりはなかった。たちまち自滅してしまうからだ。彼に必要なのは時間だった。三日でも一週間でも十日でも、時間さえ稼げれば――この嵐は必ず吹きやむのだ。


クーパーウッドを一番悩ませていたのは、ステーネルに託された五十万ドルの問題だった。秋の選挙が迫っていた。ステーネルは二期務めていたが再選を目指すことになった。市の財政に関わるスキャンダルは大打撃になる。そうなれば、ステーネルのキャリアは完全に終わってしまう――刑務所に送られる可能性がかなり高い。共和党が勝つチャンスをつぶしかねなかった。それに大いに関係していたとして確実にクーパーウッドを巻き込むだろう。そうなったら、彼は考慮に入れなくてはならない政治家をかかえることになる。もしクーパーウッドが重圧に耐えきれずに破産したら、政治家たちが大事にしていた市の路面鉄道の領域に彼が借りた市の金で侵入しようとしていた事実や、この借入金の問題が市議選という犠牲を払わせかねない事実が、すべて明るみに出てしまうからだ。政治家たちがそのすべてを大目に見ることはないだろう。彼が二パーセントの金利で借りたとか(そのほとんどは保身のためにその種の保護条項がかけられていた)、ステーナーの代理人として借りたとか、言えたとしても言うだけ無駄だろう。そういうものは、外の世界の素人には通用するかもしれないが、政治家に鵜呑みにされることは絶対にないからだ。彼らは誰よりも物知りだった。


しかしこの状況にはクーパーウッドを勇気づけるもう一つの局面があった。それは彼が市の政治全体がどう動いているのかを知っていることだった。こういう危機の中では、どんな政治家が偉そうに構えて、横柄で強気な物言いをしても無駄だった。大なり小なり政治家はすべて、市の権益で何かしらの利益を得ていた。クーパーウッドの知るところでは、バトラー、モレンハウワー、シンプソンは、請負業で金を儲けていた。――役得と見られるかもしれないが合法だった。また、土地税、水利税などの税金の形で徴収された巨額の金からも利益を得ていた。――そういう金は、市の公金の合法的な預け先としていろいろな連中に指定されたいろいろな銀行に預けられた。銀行は好意で市の公金を金庫に保管し、利息も払わずに、今度はそれを投資に回した――誰のためになるのだろう? 自分が厚遇されていたのだからクーパーウッドはつける文句がなかった。しかしこういう人たちが市の恩恵をすべて独占できるとは到底思えなかった。クーパーウッドはモレンハウワーやシンプソンを個人的は知らなかったが、彼らがバトラーと同じように、自分の市債の市場操作で金を儲けたことは知っていた。また、バトラーはクーパーウッドと親密だった。こういう窮地に立った彼が、最悪の事態になったらバトラーに洗いざらい打ち明けて自分は助けてもられると考えたのも無理はなかった。ステーネルの協力で密かに乗り切れない場合はこうしようとクーパーウッドは腹をくくった。


まずはただちにステーネルの家に行き、三、四十万ドルの追加融資を頼もうと決めた。ステーネルはいつもとても扱いやすかった。今回は、五十万ドルの不足金を出したことを公表しないことが、いかに重要であるかがわかればいいのだ。これからクーパーウッドはできるだけ多くの手を打たねばならなった。でも、どこで打つのか? 銀行や信託会社の社長や、大株主の市場仲買人などにはあたってみなければならない。それから、バトラーから預かっている運用資金が十万ドルあった。この請負業者の老人なら、それをそのまま残しておくように説き伏せられるかもしれない。クーパーウッドは急いで自宅に戻り、馬車を確保すると、ステーネル邸へ駆けつけた。


ところが、とても困ったことに、ステーネルは外出中だった――鴨狩りや釣りをしに友人たちと一緒にチェサピークに出かけて数日戻って来そうもないことが判明した。どこかの小さな町の奥の湿地帯にいるのだ。クーパーウッドは、最寄りの局に至急電報を打ち、さらに念のために同じ近所の他の数か所の局にも打って、すぐ戻るように要請した。しかし、ステーネルが間に合うように戻るかは定かではなく、そうなったらどうしようとしばらくはひどく困惑して考えが決まらなかった。どこからか、すぐに援助を受けなければならなくなりかけていた。


突然、妙案が浮んだ。バトラー、モレンハウワー、シンプソンはは地元の路面鉄道株を保有していた。この状況を持ちこたえて、自分たちの利益を守るためには団結しなければならない。彼らならドレクセル商会やクック商会などの大手の銀行家に会って、マーケットを支えるように促すことができる。買い方の集団を組織することによって、事態を総合的に強化することができ、もしそうなれば、彼らの支持を隠れ蓑にして、窮地を脱する分を売り抜けて、空売りして一儲け――丸儲け――さえさせてもらえるかもしれない。これはもっと大きな状況にふさわしい名案だった。そして唯一の欠点は実現性が必ずしも確実ではないことだった。


クーパーウッドは即刻バトラーのところへ行くことにした。唯一気がかりだったのは、これで自分とステーネルの企てを明かさざるを得なくなることだった。再び馬車に乗り、急いでバトラー邸へと走らせた。


到着したとき、その名高い請負業者は食事中だった。バトラーは号外を叫ぶ声を聞いてはいなかった。当然、火事の意味もまだ理解していなかった。使用人がクーパーウッドの来訪を告げると、バトラーは笑顔で玄関に現れた。


「中に来て一緒にどうです? ちょうど軽い夕食を取ってる最中なんだ。コーヒーかお茶でも飲んでください――さあ」


「いえ」クーパーウッドは答えた。「今夜は無理です。急ぎの仕事が多すぎましてね。ほんの少しだけお時間をください。また出かけるんです。そう長くお引き止めはしません」


「ほあ、そういう事情なら、さっそくうかがおう」バトラーはナプキンを置きにダイニングルームに戻った。同じように食事をしていたアイリーンはクーパーウッドの声を聞いて、会うチャンスをうかがった。夜分こんな時間に父に会いにくるとは何事だろうと考えた。すぐにはテーブルを離れられなかったが、彼が帰る前に会いたかった。この迫り来る嵐を前にしてもクーパーウッドは妻や他いろいろなことを考えながら、アイリーンのことを考えていた。もし自分の仕事がドサッと倒れたら、関係者に迷惑がかかる。惨事もこの最初の雲行きでは、事態がどう終息するかまではわからなかった。必死に考えはしても狼狽はしなかった。生まれつき均整のとれた顔に品のいいありがちな皺が寄った。目は冷めた鋼鉄のようにこわばっていた。


「さて」戻ってくるなりバトラーは声をあげた。その表情は、今あるこの世界と明らかに良好な関係であることを表していた。「今夜はどうしました? 悪い知らせでないといいが。良すぎるほどの一日だったからね」


「あまり深刻なことは何もないと自分では願ってますが」クーパーウッドは答えた。「とにかく、数分でいいからお話したいんです。上のお部屋に行った方がいいんじゃないですか?」


「そう言おうとしていたところだ」バトラーは答えた。「葉巻も向こうだしな」


二人は応接室から階段に向かった。バトラーが先にたってのぼると、ダイニングからアイリーンがシルクの凝ったドレス姿で出てきた。立派な髪は、首の付け根から額のラインまでが古風で趣のある渦状にまとめられて、赤みを帯びた金色の王冠を作り出していた。顔はつややかで、露出した腕と肩はイブニングドレスの暗い赤に映えて白く輝いた。アイリーンは悪い予感がした。


「あら、クーパーウッドさん、いらっしゃい」アイリーンは父親が二階に上がる途中で出てきて手を差し出しながら声をかけた。クーパーウッドと一言でも交わしたくてわざと足止めした。この大胆な行動は他の人たちに気兼ねしたためだった。


「どうしたの、あなた?」父親が話の聞こえないところにまで行ってしまうと、すかさずアイリーンは小声で言った。「心配事でもありそうな顔ね」


「大事にならないといいんだがね」クーパーウッドは言った。「シカゴが炎上中なんだ。明日は大騒ぎになるよ。私はきみのお父さんと話をしないといけないんだ」


クーパーウッドが手を引っ込めてバトラーの後を追って二階に上がるまでに、アイリーンは同情と悲嘆の込もった「まあ」を言う暇しかなかった。相手の腕をぎゅっと握ってから、応接室を抜けて客間まで行った。クーパーウッドの顔がこれほど厳しい不安げな思案に暮れる表情を浮かべているのを見たことがなかったものだから、アイリーンは座って考え込んでしまった。彼の顔はまるで良質の白い蝋のように動きがなく、冷ややかだった。そして深みがあって漠然としていて、何を考えているのかを読めないあの目だった! シカゴが燃えている。彼がどうなるというのだろう? 余程の大きな関係があるのだろうか? クーパーウッドは自分のことを詳しく話したことがなかった。アイリーンにしてもクーパーウッド夫人とさほど変わらず、完全に理解することはなかっただろう。それでも、自分のフランクにかかわることだから、自分には切っても切れない縁に見えるものでその相手と結ばれていたから、アイリーンは心配だった。


文豪以外の文学作品は、愛人に対し、男性の魂を食い物にして喜ぶ狡猾で計算高い魅惑的女性というイメージしか読者に与えなかった。当時のジャーナリズムや道徳のパンフレットを書いていた者たちは、それ一辺倒と言っていいくらいむきになってその風潮を育んでいるようだった。神による人生の検閲制度が確立し、その執行の手続きがガチガチの保守派の手に委ねられてしまったようだった。それでも、打算とは無縁な男女の関係は他にもあるのだ。そのほとんどに下心や悪意はない。自分の愛情に支配され深い愛情にのめり込んだその普通の女性は、犠牲的な思考――与えたいという欲求――を除くと、子供と同じで何もできない。その女性だって変わることはあるかもしれない――何とかの怒りは地獄にもないともいうのだから。しかし、犠牲的、従順、細やかな気遣いは、しばしば愛人の際立った特徴である。そしてこれは、愛人の弁護をする場合に数々の障害を引き起こす、やたら正当性にこだわる成立した夫婦関係とは対照的な態度である。男性であれ女性であれ、人間の気質はこの無欲で犠牲的な特徴の前にひれ伏し、敬意を払わずにはいられない。それは、人生の大きな差と言っていい。それは、芸術を決定づけるもの、つまり偉大な絵画や偉大な建築物や偉大な彫刻や偉大な装飾の最初の特徴である精神の大きさ――それ自体や美しさを自由に惜しみなく与えること、と関係しているようだった。だからこそ、アイリーンのこの特別な心のあり方には重要な意味がある。


バトラーの後に続いて二階の部屋に入ったとき、この協力関係のすべての問題点がクーパーウッドを悩ませた。


「さあ、かけたまえ。ちょっとどうかな? あなたはやらんのだったな。今、思い出したよ。まあ、とくかく一服させてもらう。さて、今夜はどういったご用なんですか?」


遠くの方で、密集した住宅地に向かう声がかすかに聞こえた。


「号外だ! 号外だ! シカゴ大火のすべてが載ってるよ! シカゴが燃えてるよ!」


「あの件ですよ」声に耳を傾けながらクーパーウッドは答えた。「あのニュースはご存知ですか?」


「いや、何を叫んどるんだ?」


「シカゴで大火災があったんです」


「ほお」相変わらず事の重要性を理解しないままバトラーは答えた。


「シカゴのビジネス街が燃えているんですよ、バトラーさん」クーパーウッドはおどろおどろしく続けた。「それで、明日はこっちの金融にも混乱が出ると思うんです。そのことでおうかがいしました。あなたの投資した分はどうでしょう? かなり巻き込まれますよね?」


クーパーウッドの表情から、バトラーは突然何かとても悪いことが起きているのだと察した。大きな革の椅子にもたれながら、大きな手を上げて、口と顎を覆った。大きな指の関節と、分厚い軟骨性の鼻の上で、もじゃもじゃ眉毛の大きな目が光った。白髪の剛毛が頭全体に短く均等にあって、ぴんと立っていた。


「そういうことか」バトラーは言った。「明日の心配をしてるんですな。ご自分の方はどうなんです?」


「この町の金融関係が正気を失ったり無茶をしなければ、全部かなりいい状態だと思います。明日、いや今夜のうちに、うんと常識を働かさないとなりません。我々が本物のパニックに直面しているのはおわかりでしょう。バトラーさん、それをご承知おきください。長くは続かないかもしれないが、その間はひどいことになるでしょう。明日は寄り付きで株価が十から十五ポイントは下がるでしょう。何らかの救済措置が講しられない限り、自分の身を守るために銀行は融資の返済を求めるでしょう。救済措置なんて一人でできることではありませんから、何人かが団結しなければなりません。あなたとシンプソンさんとモレンハウワーさんならそれができるかもしれない――つまり、連携してマーケットを下支えするよう大手銀行関係者を説得できれば可能になります。地元の路面鉄道――マーケット全体が売り崩されるでしょう。支え切れなければ底が抜けてしまいます。あなたがそういう銘柄を保有していることは常々存じ上げてましたから、あなたやモレンハウワーさんや他の方々が行動をお望みかと思いました。そうしないと、正直言いまして、私はかなり大変なことになってしまうんです。この局面に一人で向かうほど私は強くありませんので」


ステーネルに関するすべての事実関係をどう伝えるべきか、クーパーウッドは思案していた。


「うーん、それはかなりまずいな」バトラーは冷静にじっくり考えながら言った。彼は自分自身の問題を考えていた。パニックは彼にとってもいいことではなかったが、バトラーは絶望的な状況にはいなかった。破産はありえなかった。多少は損をするかもしれないが、大きな損失にはならない――対策を講じることができなくてもだ。それでも損はしたくなかった。


「どうしてあなたが困るんですか?」バトラーは気になって尋ねた。地元の路面鉄道株の底が抜けるとクーパーウッドに深刻な影響を及ぼす、とはどういうことだろうと考えていた。「あなたが保有しているわけでもないでしょうに?」バトラーはつけ加えた。


嘘をつくか真実を打ち明けるか、ここが正念場だった。この土壇場でクーパーウッドは文字通り嘘をつく危険を冒すことを恐れた。バトラーの納得づくの支持を得られなかったら破産するかもしれない。そして破産すれば、どうせ真実は明らかになるのだ。


「すべてお話した方がいいかもしれません、バトラーさん」クーパーウッドはこの老人の情にすがり、バトラーが高く買っているあのさわやかな自信に満ちた態度で相手を見ながら言った。バトラーは時々我が子に感じるような誇りをクーパーウッドに感じることがあった。この男が今あるのは自分が力になってやったからだと感じるのである。


「実は、私は路面鉄道株を買い付けておりました。ですか正確には自分のためにではありません。私はこれから、とんでもないことをしようとしています。ですが自分ではどうにもなりません。もしやらなければ、あなたや、私が迷惑をかけたくない大勢の方々に迷惑をかけることになります。秋の選挙結果をあなたは当然気にしていることと思います。実は、私はステーネルさんとそのご友人の株をたくさん抱えているんです。全部が全部、州の金庫から出たかはわかりませんが、大部分はそうだと思います。私が破産した場合、ステーネルさんや共和党やあなたの関係者がどうなるかが目に見えてます。そもそも、ステーネルさんがご自分の意志でこれを始めたとは思いません――私にもみなさんと同じくらいの責任はあると思ってます――ですがこれは他のことから発展したものなんです。ご存知のように、私はステーネルさんに代わって市債の問題を担当しておりました。するとそこへ彼のご友人の数名が、彼らに代わって路面鉄道への投資をするように持ちかけてまいりました。それ以来ずっと続いてます。私自身もステーネルさんから二パーセントでかなりの金額を借りました。実は、最初にそうやって取引の費用が捻出されたんです。今、私は誰かに責任転嫁をしたいのではありません。責任は私のところへ帰ってくるでしょうから私は受け止めるつもりです。そうでもしなかったら、もし私が破産すれば、ステーネルさんが責任を問われ、それが政権に跳ね返るでしょうから。もちろん、私だって破産などしたくはありませんが、私の行いには弁解の余地がありません。このパニックは別としても、私は人生でこれほど恵まれた状態でいたことがありません。私ではお力添えなしにはこの嵐を乗り切ることができません。そこでお力添えいただけないものか、相談にうかがったわけです。もし切り抜けましたなら、市から出たお金は、元通りお返しするとお約束します。ステーネルさんは町にはおりません、いれば私と一緒にこちらへうかがったのですが」


クーパーウッドはステーネルを連れてくることに関しては真っ赤な嘘をついていたし、少しずつとか自分の都合のいい形にならない限り、市にお金を返すつもりなどまったくなかった。しかし彼の言葉は聞こえがよく、とても潔さそうな印象を与えた。


「ステーネルがあなたと一緒に投資に使った金額はどのくらいなんだ?」バトラーは尋ねた。この不思議な展開に少し困惑した。これでクーパーウッドとステーネルを見る目が変わった。


「およそ五十万ドルです」クーパーウッドは答えた。


老人は姿勢を正した。「そんな大金なのか?」


「だいたいです――ぶれるとしても少しです。その辺は定かではありません」


この請負業者の老人は、共和党と自分の請負業関係に及ぶ影響を考えながら、この点に関してクーパーウッドが言わねばならないことをすべて厳粛に聞き入った。クーパーウッドのことは好きだったが、言っている内容は無茶苦茶だった――無茶な上に聞きたいことが山ほどあった。バトラーは考えることも動くことも遅かったが、考えてやるときは十分な成果があった。バトラーはフィラデルフィアの路面鉄道株にかなりの金額を投資していた――おそらく八十万ドルに及んだだろう。モレンハウワーはおそらくそれ以上だった。シンプソン議員の保有量が多いか少ないかはバトラーにはわからなかったが、上院議員は相当持っていますと過去にクーパーウッドが話してくれたことがあった。彼らの持ち株のほとんどは、クーパーウッドの場合と同じで、融資の担保としていろいろな銀行にあり、その融資は別の投資に使われた。この三人の中にはクーパーウッドほどひどい状態の者はいなかったが、こういう融資を返済しろと言われるのは、ありがたくも気分がいいものでもなかった。損失が出ないわけではなかったが、身を守ろうとして早まった行動を取らない限り、大した困難を抱えずに切り抜けられるのはわかっていた。


もしステーネルの関与した額が七万五千ドルから十万ドルくらいだとクーパーウッドが言っていたら、バトラーはそこまで深くは考えなかっただろう。そのくらいなら何とかなったかもしれないからだ。しかし五十万ドルとなると話は違う! 


「そりゃあ、大金だ」バトラーはステーネルのとんでもないずうずうしさに呆れながら言ったが、その時点ではそれをクーパーウッドの巧妙な策略と見破ることはできなかった。「それじゃ考えないといかんな。朝からパニックになるのなら、おちおちしてはおれんぞ。マーケットを支えたら、あなたはどれだけ助かるんだ?」


「随分助かります」クーパーウッドは答えた。「もちろん、他の方法で資金を調達しなければなりませんが。うちであなたの十万ドルをお預かりしてますが、すぐにでもお入用になりそうですか?」


「なるかもしれん」バトラーは言った。


「それを手放したら重症を負ってしまうほど、私には欠かせないものになりそうです」クーパーウッドはつけ加えた。「それでも氷山の一角に過ぎません。もしあなたとシンプソン上院議員とモレンハウワーさんが一緒に――あなたがたは路面鉄道株の大株主ですから――ドレクセルさんとクックさんに会えば、この問題がかなり扱いやすくなるように物事を決められるはずです。融資の返済を求められなければ私は大丈夫です。そしてマーケットが過剰に暴落しなければ私の融資が返済を求められることはありません。もし暴落すれば、私の有価証券はすべて価値がさがりますから、私では持ちこたえられません」


バトラー老人は立ち上がった。「とんでもないことになったな。あなたがステーネルとそんな風に終わらんことを願うよ。体裁が悪いったらないし、作ろうとしても作れるもんじゃないぞ。だが大変は大変だ」バトラーは不機嫌な顔で付け加えた。「それでも、私にできることはしよう。あまり約束はできんが、私はずっとあなたに目をかけてきたんだ、やむをえないとき以外は今さら手のひらを返すようなことはせんよ。しかし残念だな――とっても。それにこの町の事を動かしているのは私だけではないんだ」同時にバトラーは、こうすることで自分の首を守っていたとはいえ、こんな風に自分や市議選の心配までしてくれるとはクーパーウッドは実に見上げたものだと考えていた。バトラーは自分にできることをするつもりだった。


「私の状況がどうなるかわかるまで一日か二日、ステーネルと市の公金の問題を伏せたままにしておくことはできますか?」クーパーウッドは慎重に提案した。


「それは約束できんな」バトラーは答えた。「私は自分にできる精一杯のことをしなければならん。問題を放ったらかして自分の手に負えないようにするつもりはないからな――そっちは任せてくれ」バトラーは、クーパーウッドが失敗した場合、ステーネルの犯罪の影響はどうすれば払拭できるかを考えていた。


「オーエン!」


バトラーはドアのところへ行くと開けながら手すりの向こうにまで届くように叫んだ。


「はい、お父さん」


「ダンに馬車の支度をして玄関に回すように言ってくれ。お前も帽子と上着を用意しろ。私と一緒に来てほしい」


「わかりました。お父さん」


バトラーは戻って来た。


「さて、ティーポットの中でちっぽけな嵐が始まるのかな? シカゴが燃え始め、このフィラデルフィアで私は心配をせにゃならん。やれやれ――」クーパーウッドは立ち上がってドアに向かった。「それで、あなたはどこへ行くんですか?」


「帰ります。私に会いにくる人が何人かいますので。でもよろしければ、後でこちらに戻ってきますが」


「ああ、いいとも」バトラーは答えた。「いずれにせよ、私は真夜中には戻っとる。まあ、気をつけて。後でまたな。結果はそのときに話すとしよう」


バトラーは何かを取りに部屋へ戻った。クーパーウッドはひとりで階段を降りた。応接間の入り口の掛け物からアイリーンがこっちへ来てと合図した。


「何事もなければいいんだけれど」アイリーンはクーパーウッドの深刻な目をのぞき込んで心配した。


恋愛にかまけてはいられないとクーパーウッドは感じた。


「大丈夫」クーパーウッドは冷淡そのもので言った。「そういうことにはならないと思う」


「フランク、こんなことでずっとあたしを放ったらかしにしないでよ。しないわよね? あたし、あなたをとっても愛してるんだから」


「まさか、しないとも!」クーパーウッドは真顔ですかさず答えたが、心はどこかへいっていた。


「そんなはずないだろ! そんなこともわからないのかい?」クーパーウッドはキスしかけたが物音がしたので思いとどまった。「しっ!」


クーパーウッドがドアに向かうと、アイリーンは一途に心配する目で相手を見送った。


あたしのフランクに何かあったらどうしよう? 何があるっていうの? あたしはどうしたらいいのかしら? アイリーンはそんな調子で悩み続けた。どうすればフランクを助けられるかしら? あたしに何ができるかしら? クーパーウッドの顔色はとても悪かった――緊張しているように見えた。






 

 

第二十四章

 



クーパーウッドの現在の状況を考えるにあたって、当時のフィラデルフィアの共和党情勢と、ジョージ・W・ステーネル、エドワード・マリア・バトラー、ヘンリー・A・モレンハウワー、マーク・シンプソン上院議員などの人間関係を簡単に記さねばならない。すでに見てきたように、バトラーはクーパーウッドに普通に肩入れし好意的だった。ステーネルはクーパーウッドの道具だった。モレンハウワーとシンプソン上院議員は、市政の支配権を巡ってバトラーとしのぎを削っていた。シンプソンは、州議会の与党、共和党の代表者で、新しい選挙法の制定、市の許認可の改正、政務調査の開始など、必要であれば市を監督できる立場にあった。彼は多くの有力な新聞社、企業、銀行を自分の意のままにしていた。モレンハウウーは、ドイツ系と一部のアメリカ人と数社の安定した大企業の代表であり、とても堅実で尊敬できる人物だった。三人とも政界の実力者で、有能で、危険だった。後者の二人は、バトラーの影響力、特にアイルランド系に対する影響力を頼りにしていた。一定数の区長とカトリック系の政治家と一般信徒は、まるで彼が教会そのものの一部であるかのようにバトラーに忠実だった。バトラーはこの信奉者たちへ、保護、影響力、援助、そして幅広い善意で報いた。市はモレンハウワーとシンプソンを経由してバトラーに、道路の舗装、橋、高架橋、下水道などの契約という形で手厚い返礼をした。バトラーがこういう契約を得るためには、彼が受益者であり指導者でもある共和党の運営が適度に健全であり続けなければならなかった。同時に、モレンハウワーやシンプソンとは違って、党の健全な運営はバトラーのあずかり知らぬことであり、ステーネルを指名したのもバトラーではなかった。ステーネルは他の誰をさておいてもモレンハウワーに直接責任を負っていた。


バトラーは息子と馬車に乗り込むときに、このことを考え、とても悩んでいた。



「さっきクーパーウッドが来てな」バトラーはオーエンに言った。オーエンは最近急に金融のことがきちんとわかるようになってきた。父親ほどの魅力はなかったが、すでに政治や社会のことでは抜け目なくなっていた。「話によると、かなり切羽詰まっているらしい。あれが聞こえるか?」遠くで「号外! 号外!」と叫ぶ声がするとバトラーは続けた。「シカゴが燃えているそうだ。明日は証券取引所が大騒ぎになるぞ。うちはいろんな銀行にたくさんの路面鉄道株を担保に入れてある。余裕がないように見えたら銀行は融資を返済しろと言ってくるからな。朝一番にそっちの手当てをしないといけない。クーパーウッドは私の十万ドルを預かっているが、それをそのままにしておいてほしがっている。それにステーネルの分もあるという話だ」


「ステーネル?」オーエンは気になって尋ねた。「あいつが株をやってたんですか?」オーエンはつい最近ステーネルと他のメンバーの噂を小耳に挟んでいたが、それを信用せず、父親にもまだ伝えていなかった。「クーパーウッドはあいつの金をどのくらい持ってるんですか?」オーエンは尋ねた。


バトラーは考えたあげくに「相当な額だ」と言った。「あろうことか、それが大金でな――五十万ドルくらいだそうだ。それが表沙汰になれば大騒ぎになってしまうと考えているところなんだ」


「へえ!」オーエンは驚いて叫んだ。「五十万ドルも! それで、お父さん! ステーネルが五十万ドルも持ち出したってことですか? まさか、あいつがそんな器用なまねをするとは思ってもいなかったな。五十万ドルか! ばれたら大騒ぎでしょうね」


「いいから、落ち着けって!」バトラーは懸命にこの問題のあらゆる局面を整理しながら答えた。「どういう状況だったのか、こっちもまだ正確なことがわからないんだ。あいつだって、そんなにとるつもりはなかったのかもしれん。まだ大丈夫かもしれないんだ。金は投資に回ったんだからな。クーパーウッドだってまだ破産したわけじゃない。金は戻るかもしれん。今、出すべき結論は、あいつを救うために何らかの手が打てるかどうかだ。もしあいつが本当のことを言ってるのなら――あいつが嘘をつくとは知らなかったが――朝のうちに路面鉄道株が大崩れしなければこの場を切り抜けられるそうだ。私はヘンリー・モレンハウワーとマーク・シンプソンに会いに行くところだ。二人も同じ立場だからな。クーパーウッドは私に、銀行家を集めてマーケットを支えられないか確認してもらいたいと言うんだ。買い支えて株価を維持すれば我々が自分の融資を守れると考えたわけだな」


オーエンは頭の中でクーパーウッドのことを――自分のわかる範囲で――素早く考えた。あんな銀行家はさっさと消えちまえばいいと強く感じた。この窮地はクーパーウッドのへまであってステーネルのへまではない――とも感じた。父親がそれに気づかないで憤慨しないのが不思議だった。


「これがどういうことか、おわかりでしょ、お父さん」しばらくしてからオーエンは大袈裟に言った。「クーパーウッドはステーネルの金を使って株を買い、穴から出られなくなったんですよ。この火事がなければ、あいつは逃げ切れたんだ。だけど今、お父さんとシンプソンさんとモレンハウワーさんと他の人たちに、自分を引き上げてもらいたがってるわけですよ。あいつはいい奴だし、僕だって結構気に入ってます。でもあいつの言うとおりにしたらお父さんは馬鹿を見ますよ。すでに自分のものである資産以上のものを抱えているんですからね。先日、フロント・ストリート鉄道と、グリーン=コーツ鉄道のほとんどをあいつが所有し、十七番街=十九番街鉄道はあいつとステーネルのものと聞きました。僕はそれを信じませんでした。そのことをお父さんに聞こうとずっと思ってたんです。クーパーウッドはどの場合も自分の支配株をどこかに隠し持ってるんだと思います。ステーネルは単なる駒にすぎません。あいつが自在に動かしているんですよ」


オーエンの目は、ここぞとばかりに、敵愾心に燃えた。クーパーウッドは、処罰され、売り飛ばされて、オーエンが一旗揚げたがっていた路面鉄道事業から追い出されるべきだった。


「なるほどな」バトラーはしわがれた声で厳かに言った。「私は常々あの若者を切れ者だと思っていたが、まさかここまで切れるとは思わなかった。こんなのは、あいつのゲームなんだろう。お前こそなかなか鋭いじゃないか? まあ、よく考えればそっちのけりはつけられる。しかしな、これはそれだけでは済まないんだ。共和党を忘れてはいけない。我々の繁栄は、共和党の繁栄と共にあるんだからな」――バトラーは一旦話をやめて息子を見た。「もしクーパーウッドが破産して、そのお金を取り戻せなかったら――」バトラーは語尾を濁した。「私を悩ませているのはステーネルと市の公金の問題なんだ。その件に何らかの決着がつかなかったら、今度の秋は党もうちの請負業も大変なことになるかもしれん。十一月に選挙を控えていることを忘れんことだ。あの十万ドルだって回収した方がいいのかを考えてるとこなんだ。朝になって融資を返済するとなったら相当な金が必要だろうからな」


人の心というのは不思議なもので、ようやく今になって、この状況の本当の問題点がバトラーにわかり始めてきた。バトラーはクーパーウッドを前にして、この青年の人柄とこの青年が自分の窮状と自分の要望を言い出したときの鮮やかな発表の仕方にすっかり影響されてしまい、この状況に対する自分自身の関係のすべての局面を検討するために立ち止まらなかった。この涼しい夜の空気の中で、もともと野心家でクーパーウッドに全然思い入れのないオーエンと話をしていてバトラーはすっかり正気に戻り、物事の本質が見え始めていた。クーパーウッドが市の財政と共和党と、ついでに言うと自分の私的な権益に大きなダメージを与えたことをバトラーは認めなければならなかった。それでもバトラーはクーパーウッドのことが好きだった。決して彼を見捨てるつもりはなかった。バトラーは党と自分を守るのと同じくらいクーパーウッドを救うために、モレンハウワーとシンプソンに会いに行くところだった。それでも不祥事には違いなかった。バトラーはそれが気に入らず――憤慨した。あの若造め! あいつは相当したたかだと考えねばなるまいな。それでもバトラーはこの期に及んでもクーパーウッドのことが好きで、もしこの若者を救う手立てが何かあるならば、何とかして救ってやるべきだと感じていた。もし他のメンバーが承知すればクーパーウッドが要求したように、最後の最後まで自分の十万ドルは預けたままにしておくかもしれなかった。


「ねえ、お父さん」しばらくしてオーエンが言った。「どうしてお父さんがモレンハウワーやシンプソン以上に心配する必要があるのか僕にはわかりませんね。もしあなたがた三人があいつを助けたいというのなら助けてもいいでしょうけど、どうしても僕にはそうまでする理由がわかりませんね。事前にこれが発覚したら選挙に悪影響が出るくらい僕にもわかりますが、それまでにはもみ消せるんじゃないですか? とにかく、こんな選挙よりもお父さんの路面鉄道株の方が重要です。だって、もし路面鉄道株を手に入れる見通しが立てられれば、もう選挙の心配なんかする必要はないわけでしょ。朝のうちに十万ドルを引き上げて、それを自分の株式の下落分にあてることですよ。それでクーパーウッドは破産するかもしれないが、別にお父さんが困ることじゃないでしょう。お父さんはマーケットに乗り込んでいってあいつの株を買えばいいんです。あいつの方からやってきて株をお父さんに渡しても僕は驚きませんよ。モレンハウワーとシンプソンに頼んでステーネルを脅してもらい、あいつにクーパーウッドへこれ以上金を貸させないようにすべきですよ。そうしないと、クーパーウッドはあいつんとこに駆け込んで、もう一度借りてしまいますよ。ステーネルは今ずっと遠くにいます。もしクーパーウッドが売らなければ、それはそれでいいでしょう。どうせ破産するでしょうから。そのときにお父さんはマーケットで他のみんながするように手に入れればいいんです。あいつは売ると思いますよ。お父さんはステーネルの五十万ドルの心配をする立場じゃないでしょう。誰もあいつにそんなものを借りろと頼んでないんだから。自分の面倒は自分で見させればいい。党にはダメージを与えるかもしれないが、そっちは後で考えればいい。お父さんとモレンハウワーなら選挙が終わるまでそれに触れるなと新聞に手を回せるでしょ」


「まあ、落ち着けって!」請負業者の老人が言うとすればせいぜいこれくらいだった。バトラーは真剣に考えていた。






 

 

第二十五章

 



ヘンリー・A・モレンハウワーの邸宅はその当時、バトラーが住んでいた場所とほぼ同じくらい新しい市内の一角にあった。場所はサウスブロード・ストリートで、最近建てられたばかりの立派な図書館の近くにあった。当時の新興富裕層によくもてはやされた雄大な家だった――黄色いレンガと白い石造りの四階建てで、すぐに特定できる建築様式はなかったがそのたたずまいは魅力がないわけではなかった。広いベランダに続くゆったりしたステップの先には装飾の限りを尽くした扉があって、その扉の両脇には細い窓が備え付けてあり、かなり魅力的な形の淡い青のすてきな植木鉢が左右を飾っていた。中は二十もの部屋に分かれ、当時の住宅向けの最も高価な羽目板と寄木細工が施されていた。立派な大広間、広々とした客間だかリビング、少なく見ても三十フィート四方のオーク材の羽目板張りのダイニングルームがあり、二階にはモレンハウワーの野心的な三人娘たちの才能に捧げられた音楽室、家主専用の書斎とプライベートオフィス、妻用の寝室と浴室、温室があった。


モレンハウワーは自他ともに認める重要人物だった。彼の金融と政治に対する判断は極めて鋭かった。ドイツ人というかドイツ系のアメリカ人だったが、いかにもアメリカ人という印象の人物だった。背が高く、体重があり、切れ者で、冷酷だった。大きな胸と広い肩は、見る角度によってまん丸にも面長にも見えるバランスが抜群の頭部を支えた。前頭骨は、鼻の上に突き出して下向きのカーブを描き、鋭い詮索力の熱い眼差しに箔をつけるように張り出していた。そして、その下の鼻と口と顎と、滑らかで硬い頬は、彼がこの世で何が欲しいのかをよく知っていて邪魔や障害を物ともせずそれを手に入れられる実力者の印象を強くした。大きな顔は印象的で造作がよかった。親睦が深まるにつれ、エドワード・マリア・バトラーとは親友になり、マーク・シンプソンとの向き合い方は、虎が虎に向けるのと同じように真摯だった。モレンハウワーは能力を重んじた。公平な勝負であれば公平な態度で臨んだが、そうでないときは、その狡猾さの届く範囲は容易に測れなかった。


この日曜日の夕方、エドワード・バトラー親子が到着したとき、この街の三分の一の利益を代表するこの名士は二人の来訪を予想していなかった。書斎で本を読みながら、娘がピアノを弾くのを聞いていた。妻と残る二人の娘は教会に出かけていた。すっかり家庭人になりきっていた。それでも日曜日の夜は、政治の世界のどんな話し合いにもうってつけの時間だったから、誰かが、あるいは大物の仲間が来るかもしれないという思いがないわけではなかった。使用人を兼ねた執事がバトラー親子の来訪を告げたとき、モレンハウワーはとても喜んだ。


「いらっしゃい」モレンハウワーは手を差し出しながら和やかにバトラーに挨拶した。「よく来てくれました。オーエンも! ご機嫌いかがかな、オーエン? お飲み物は何がいいかな、それとタバコは? 何かご用がおありなんでしょ。ジョン」――と使用人に――「お二人に何かおもちして。キャロラインのビアノを聞いてたところなんですよ。でもあなたがたに驚いたんで当分出て来ないでしょう」


バトラーのために椅子を用意して、オーエンにはテーブルの向かいの席を促した。すぐに使用人が、凝ったデザインの銀の盆に、様々な年代のウィスキーとワインと葉巻をたっぷり載せて戻ってきた。オーエンはタバコも酒もやらない新しいタイプの若い資本家だった。父親は適度に両方ともたしなんだ。


「ここは快適なところですね」自分が来るに至った肝心の用件をお首にも出さずにバトラーは言った。「あなたなら日曜の夕方、自宅にいても不思議じゃありませんからね。街に新しい出来事でもありますか?」


「私の知る限りでは特に何も」モレンハウワーは穏やかに答えた。「物事は至って順調にいっているようです。あなただって我々が心配しなきゃならないことなどご存知ないでしょう?」


「それがあるんです」用意してもらったブランデー・ソーダの残りを飲み干しながらバトラーは言った。「一つ。夕刊はご覧になってませんか?」


「ええ、見てませんな」モレンハウワーは姿勢を正して言った。「一つあるんですか? どういうものなんです?」


「外でもありません――シカゴが燃えているんです。どうやら明日ここでもちょっとした金融の嵐が起きそうです」


「まさか! 知りませんでしたよ。新聞に出てるんですね? それで――火事は大きいんですか?」


「街が焼け落ちているそうです」かなり興味を抱いたこの著名な政治家の顔を観察していたオーエンが口を挟んだ。


「そりゃ、一大事だ。人をやって新聞を買ってこさせないと。ジョン!」と叫ぶと、男の使用人が現れた。「どこかで新聞が手に入らないか見て来るんだ」使用人は姿を消した。「あなたはそれが我々にどう関係するとお考えなのですか?」モレンハウワーはバトラーに向き直って言った。


「実は、それに関係して、さっきまで知らなかった事実が一つが出てきました。ある連中が考えているよりも事態が好転しない限り、我々の選んだステーネルが自分の不始末で金を戻せなくなりそうなんです」バトラーは冷静に持ち出した。「そういうのは選挙前にいい影響を与えないのではありませんか?」鋭い灰色のアイルランド人の目がモレンハウワーの目をのぞき込むと、相手も見返した。


「それをどこでつかんだんですか?」モレンハウワー氏は冷淡に問いかけた。「計画的に大金を使い込んだというのではないのでしょ? 一体いくら使ったんです――ご存知なんですか?」


「相当な額です」バトラーは静かに答えた。「五十万ドル近くだと承知しております。ただまだ使い込んだとまでは言えませんね。失う危険はありますが」


「五十万ドル!」モレンハウワーは驚きながらも、依然としていつもの冷静さを保ったままで叫んだ。「まさか! こんなことがいつから続いていたんですか? 何にそんな大金を使っていたんですか?」


「大金を融資したんです――約五十万ドルほどを三番街のクーパーウッドって若いのにね、あの市債を扱っていた奴ですよ。二人であちこちに投資してたんです――主に路面鉄道の買収にね」(路面鉄道の話が出たところでモレンハウワーの無表情な顔がかろうじて気づく程度の変化を経験した)「クーパーウッドによれば、この火事のせいで朝からパニックになるのは確実で、相当援助してもらわないと、どうやって持ちこたえたらいいのか自分でもわからんそうです。もし彼が持ちこたえられなかったら、市の金庫から五十万ドルが不足したままで戻せなくなる。ステーネルが町にいないものだから、クーパーウッドは、何とかならないものかを確認しに私のところへ来たというわけです。実は、彼は過去に私のために少し仕事をしたことがありましてね。そこで私なら今、彼を助けられるかもしれない――つまり、私があなたと上院議員を説得して私と一緒に大手の銀行家に会って、朝のマーケットを支えて助けてもらえるかもしれない、と考えたわけです。そうしないと彼は破産してしまう。そのスキャンダルで我々が選挙で不利になると思ったわけです。何かの駆け引きをしているのではなく――ただ、できることなら自分の身を守りたいのと、私に――いや我々に、助けてもらってきちんと不始末の片を付けたいようです」バトラーは話をやめた。


ずる賢く胸の内を見せないモレンハウワーは、この予想外の展開に全然動じていないようだった。同時に、ステーネルにそれほどのことができるとか金融の才能があると考えたことがなかったので、少し感動して興味が湧いた。つまり、自分の財務官が自分の知らないうちに金を使い込んでいて、今に起訴される危険な状態でいる! クーパーウッドのことは市債を扱うために雇われた担当者だと間接的に知っているだけだった。市債を操作して利益を出すほどの男だった。明らかに、この銀行家がステーネルを丸め込んで、その金を路面鉄道株のために使ったのだ! それなら、この男とステーネルは自分たちでかなりの株を保有しているに違いない。これでモレンハウワーの関心は大きくなった。


「五十万ドルか!」バトラーが話を終えるとモレンハウワーは繰り返した。「そいつはかなりの大金だ。ただマーケットを支えるだけでクーパーウッドを救えるなら、そうするものいいかもしれない。しかしもしすごいパニックだったら、我々が全力を尽くしたところで大した助けにはならんでしょう。もし彼が陥ったのがとても深刻な状態で、大暴落が迫っているのなら、それを救うためには、我々が単にマーケットを支えるよりももっと大きな措置が必要でしょう。前にそういうのを経験したことがありますよ。彼の債務内容はご存知ないのですか?」


「知りません」バトラーは言った。


「金の無心はしませんでしたか?」


「乗り切れるかどうかを見極めるまで、私の十万ドルはそのままにしておいてほしいと言いました」


「ステーネルは本当に町を離れているのですか?」モレンハウワーはもともと疑り深かった。


「クーパーウッドはそう言ってます。人を派遣して探し出すことならできます」


モレンハウワーはこの状況の様々な側面を考えていた。マーケットを支えることで、クーパーウッドと共和党と子飼いの財務官を救えるならそれに越したことはない。同時に、ステーネルが五十万ドルを市の金庫に戻して、持っている株を誰かに――できれば自分に――モレンハウワーに――譲らざるを得ないように仕向けられるかもしれない。しかしそうなるとバトラーも考慮しなければならない。彼がほしがらないわけがない。モレンハウワーはバトラーとの話し合いで、うまくいった場合はクーパーウッドが五十万ドル返済することに同意したことを知った。いろいろな路面鉄道株のことは問い詰められていなかった。しかし、それでクーパーウッドが救われるという保証は誰がするのだろう? それに、お金を集めることはできるのだろうか? お金は集まるだろうか? もし助かったら、彼はステーネルにお金を返すだろうか? もし、彼が現金を要求したとして、こんな時に誰が彼に貸すだろうか――大恐慌が迫っているというときに? 彼はどんな担保を差し出せるのだろう? その一方で、しかるべきところから圧力をかけて、彼の――彼とステーネルの――路面鉄道株のすべてを捨て値で引き渡さざるを得ないようにできるかもしれない。もし自分(モレンハウワー)がそれらを手に入れられるのなら、選挙の勝敗を特に気にすることはないだろう。モレンハウワーはオーエンと同じように、この秋の選挙は負けないと思っていた。いつものとおり、買収すればいいのだ。この使い込みは――クーパーウッドが破産するとステーネルの融資はそういうことになるのだが――十分な期間隠蔽できて勝ちに持ち込めるとモレンハウワーは考えた。今こんなことを考える間も、個人的には、ステーネルを脅してクーパーウッドへの追加融資を断らせ、クーパーウッドの路面鉄道株を、この問題で手を組むみんなと――シンプソンやバトラーたちと――山分けしたくなった。フィラデルフィアの将来の富の大きな源泉の一つはこういう鉄道会社にあった。しかし当面は、選挙で党を救うことに関心があるふりをしなければならなかった。


「上院議員のことは言えないが、確かにそうですな」モレンハウワーは考え込むように話を続けた。「議員のお考えまではわかりませんがね。私自身は、もしそれで何らかの成果が出るのなら、株価を維持するためにやれる手を打つのは大賛成です。自分の借り入れを守るためにも、自然にそうなりますからね。私が思いますに、我々が検討すべきことは、クーパーウッドさんが破産した場合、選挙が終わるまで発覚をいかにして防ぐかですよ。だって、我々がどれだけマーケットを支えても支えきれる保証はまったくないわけですからね」


「確かにありませんな」バトラーは厳かに答えた。


オーエンは、クーパーウッドの迫りくる破滅がはっきり見えると思った。そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。男性の使用人が出払っていたので、メイドがシンプソン上院議員の名前を告げた。


「噂をすれば影ですな」モレンハウワーは言った。「お通ししろ。議員のお考えをうかがえますな」


「では、僕はそろそろ席を外した方がいいですね」オーエンは父親に申し出た。「キャロラインさんを見つけられれば、歌でも聞かせてくれるでしょう。では、僕は待機してますよ、お父さん」オーエンは付け加えた。


モレンハウワーは笑顔で送り出した。オーエンが退出するとシンプソン上院議員が入って来た。


いくら面白いタイプの人間を排出するペンシルベニア州でもマーク・シンプソン上院議員ほど面白いタイプの人間は見当たらなかった。今、温かく迎えてくれて握手を交わした二人の男のどちらとも対照的で、体に大きな特徴はなかった。モレンハウワーが六フィート、バトラーが五フィート十一インチ半なのに対し、五フィート九インチと小柄で、顔はすべすべで顎がなかった。他の二人と比べても、この顔立ちは顕著だった。目はバトラーの目のように素直でも、モレンハウワーの目のように反抗的でもなかったが、その繊細さはどちらとも比べものにならなかった。深く奇妙な窪んだ洞窟のような目は、暗い穴から顔を出した猫のように相手を見つめ、猫科の動物の特徴といえるあらゆる狡猾さを示していた。細くて低い白の額には、変なモップのような黒髪が垂れ下がり、不健康であるように見える青白い肌は、そういう印象を与えたかもしれない。しかしそれにもかかわらず、ここに宿っていたのは人を支配する奇妙なしぶとい実行力だった――希望と利益を使った欲望のあおり方を知る奸智があり、自分にノーと言った人に報いる冷酷さがあった。見かけどおりの静かな男だった。握手は弱々しく気持ちがこもっておらず、笑顔はうすっぺらで少しうつろだったが、両の目がすべての欠点に成り代わっていつも話をしていた。


「こんばんは、マーク、奇遇だね」バトラーは挨拶した。


「調子はどうだい、エドワード?」静かな返事があった。


「お疲れの様子はありませんね、上院議員。お飲み物いかがです?」


「今夜はいいよ、ヘンリー」シンプソンは答えた。「長居してはいられないんだ。帰る途中で寄っただけだから。家内がカバナフのところにいるもんだから、迎えに行くんで立ち寄ったまでだよ」


「ちょうどいいところにいらっしゃいましたよ、上院議員」客を座らせてから自分も腰を下ろしながらモレンハウワーは切り出した。「最後にお会いしたあとで持ち上がったちょっとした政治の問題を、ここにいるバトラーが話していたところなんですよ。シカゴの火災の件はお聞き及びだと思いますが?」


「ああ、カバナフが、ちょうど言ってたよ。実に深刻そうだね。午前中、マーケットは大きく下落するだろうな」


「私なら驚きませんがね」モレンハウワーはそっけなく言った。


「新聞が来ましたね」使用人のジョンが手に新聞をかかえて通りからやって来るとバトラーが言った。モレンハウワーがそれを受け取り、みんなの前に広げた。それはこの地方で発行された「号外」の最新号で、シカゴの大火災は前日の出火以来、時間の経過とともに悪化の一途をたどっている、とかなりインパクトのある大きな記事が載っていた。


「うーん、確かにひどいな」シンプソンは言った。「シカゴにはお悔やみ申し上げる。あそこには友人がいっぱいいるんだ。見かけほどひどくないという知らせを聞けるといいな」


この男の物言いはかなり大袈裟で、どんな状況でもそれをやめなかった。


「バトラーが私に話してくれた問題は、ある意味ではこれと関係があるんです」モレンハウワーは続けた。「市の財務官が二パーセントの金利をとって金を貸す習慣があるのをご存知ですね?」


「知ってるが?」シンプソンは聞き返すように言った。


「実は、ステーネルの奴が市の巨額の金を三番街のクーパーウッドという若いのに貸し出したようなんです、市債を手がけていた担当者です」


「何だと!」シンプソンは驚いたという態度をとりながら言った。「大した額じゃないんだろ?」上院議員はバトラーやモレンハウワーと同じように、同じ出どころから市のいろいろな指定預金機関になされた割安な融資によってたんまり儲けていた。


「ステーネルは五十万ドルも融資したようです。万が一、クーパーウッドがこの嵐を乗り切れなかったら、ステーネルはその分の穴を開けてしまいます。そうなると国民に訴える十一月の選挙にあまり良い印象を与えないのではありませんか? クーパーウッドはこのバトラーさんの十万ドルも預かっています。それで今夜彼はバトラーさんに会いに来たんです。我々の力で何とかできないかをバトラーさんに確かめてほしい一心でね。もし駄目なら」――片手を思わせぶりに振った――「まあ、破産するかもしれません」


シンプソンは華奢な手で変に大きな口をさすって「五十万ドルも何に使ってたんだ?」と尋ねた。


「まあ、若いのがちょっとした副業でもしてたに違いありません」バトラーは楽しそうに言った。「一つは、路面鉄道を買収してたんだと思います」バトラーはベストの袖ぐりに親指を突っ込んだ。モレンハウワーもシンプソンも薄ら笑いを浮かべた。


「そういうことです」モレンハウワーは言った。シンプソン上院議員はただ自分が考えた物事を深く掘り下げた。


よりによってこんな危機が起こりそうなときに、誰がこんな提案を政治家のグループに持ちかけてもどうしようもないだろうとシンプソンも考えていた。もし自分とバトラーとモレンハウワーが手を組んで、相手が路面鉄道株を譲渡するのを見返りにしてクーパーウッドの保護を約束できるのなら、話はまったく違ってくると考えた。この場合、黙って市の公金融資をそのままにして、それを維持できるだけのお金をさらに出しさえすれば事はとても簡単にいく。しかし、まず保有している株をクーパーウッドに手放すよう仕向けられるか、第二にバトラーかモレンハウワーが自分、つまりシンプソンとこういう取引に応じるか、シンプソンは確信が持てなかった。見たところ、バトラーはクーパーウッドに吉報を告げるために、ここに来たようだ。モレンハウワーと自分は口にこそ出さないが競合している。一緒に政治活動はしていたが、基本的に経済活動の行き着く先は別々だった。モレンハウワーとバトラー以外の誰であれ、特定の投資活動での連携はなかった。それに、どうみてもクーパーウッドは馬鹿ではなかった。ステーネルと同罪なのではなく、ステーネルがクーパーウッドに融資をしていたのだ。上院議員は、ひらめいた問題解決の妙案を仲間に切り出すべきかどうかを考えたが、やめにした。実際、モレンハウワーは油断も隙もない相手だったから、この種の仕事は一緒にやれなかった。絶好のチャンスではあったが危険だった。独りでやった方が得策だった。当面、自分たちは、できるのであればクーパーウッドに五十万ドルを返済してもらうようにステーネルに要求すべきだ。できなければ、必要なら党のためにステーネルを犠牲にすればいい。持ち主の状況の知れたクーパーウッドの株式は、ちょっとした株取引をする格好の機会を自分のブローカーたちに提供してくれるとシンプソンは考えた。クーパーウッドの状況についての噂を広めて、それから彼の株式を――二束三文で――引き取ろうと申し出てもいい。バトラーのところへ行ったのがクーパーウッドの運の尽きだった。


「まあ」長い沈黙の後で上院議員は口を開いた。「クーパーウッド君の境遇は同情できるし、彼が路面鉄道を買収したからといって決して責めるわけじゃないが、この危機的状況下で、彼のために何がしてやれるのか私にはさっぱりわからない。みなさんがどうかはわからないが、確かなのは、私は今、そうしたくても、他人のために火中の栗を拾える状態ではありません。党に危険が及ぶから身銭を切ってでも彼を救おうと我々が感じるかどうかにすべてはかかってますな」


身銭を切る話になったとたんにモレンハウワーは顔をしかめて「私はあまりクーパーウッドさんのお役には立てないな」と、ため息をついた。


「まいったな」バトラーはユーモアたっぷりに言った。「どうやら十万ドルは引き上げた方がよさそうだ。朝一番に取り掛かるとしよう」この時になると、シンプソンもモレンハウワーもさっき見せた薄笑い一つ浮かべようとしなかった。思慮深い厳しい表情しか見えなかった。


「しかし、この市の公金の問題は少し考慮しないといかんな」シンプソン上院議員は場の雰囲気が少し落ち着いてから言った。「もしクーパーウッド君が破産して市が巨額の損失を被ったら、我々へのダメージは決して少なくない。どこの鉄道会社なんですか、この男は特に関わっていたのは?」シンプソンは後から思いついたように付け加えた。


「実は私も知りません」バトラーは馬車で来る途中にオーエンが話してくれたことを言いたくなかった。


モレンハウワーは言った。「クーパーウッドが破産する前に、ステーネルに金を回収させられなかったら、どうすれば我々は後の大きな迷惑を被らずに済むんですかね。もし我々が強制的に賠償させようとする素振りを見せれば、向こうは多分店をたたむでしょう。そうなってしまうと対処のしようがない。それに、ここにいる我々の友人のエドワードが自分の問題をどう処理したかを聞き届ける前にそんなことをすれば、いささか配慮に欠けることになるしな」バトラーの融資のことを言っていた。


「確かにそうだ」シンプソン上院議員は確かな政治的判断と気遣いからそう言った。


「朝のうちに十万ドルを回収します」バトラーは言った。「ご心配なく」


シンプソンは言った。「この問題が発覚しても選挙が終わるまでは極力隠し通さねばならないと思う。新聞はこれについて無いのと同じように黙っていられます。私から提案が一つある」――シンプソンは今、クーパーウッドがうまいこと集めた路面鉄道株について考えていた――「このような状況でこれ以上融資を拡大しないようにその市の財務官に釘を刺しておくことだ。あっさり丸め込まれて融資を拡大するかもしれない。ヘンリー、あなたが一言言えば、それは防げると思うのだが――」


「はい、おまかせください」モレンハウワーはもったいつけて言った。


「私が思いますに」バトラーは、この立派な市民の保護者たちに泣きついたのはクーパーウッドのミスだと考えながら、やや聞き取りにくい喋り方で言った。「寝た子を起こすなですな」


いざとなったらバトラーと彼の政治仲間が自分のために何とかしてくれるかもしれないというフランク・クーパーウッドの夢はこうして潰えた。


バトラーと別れてからクーパーウッドのエネルギーは、自分の助けになりそうな別の人を探すことに注がれた。ステーネル夫人には、ご主人から何か連絡があれば、すぐに知らせるようにと言い残しておいた。ドレクセル商会のウォルター・リー、ジェイ・クック商会のアベリー・ストーン、ジラード・ナショナル銀行のデービソン頭取を訪ねて回った。彼らの状況判断を知りたかったし、デービソン頭取とは自分の不動産と私財すべてを担保に融資の交渉がしたかった。


「わからんよ、フランク」ウォルター・リーは言った。「明日の正午まで事態がどう動くかなんてわからんよ。きみの立場がわかってよかったよ。きみはやってることをやってるんだからね――自分の財務状況を整理しておくのはいいことだ。その方が助かる。僕もできる限りのことはさせてもらうよ。でもね、上司が返済を求めるグループを決めちゃったら求めないわけにはいかないんだ、こればかりは。よく見えるようには頑張ってみるよ。シカゴが全滅したら、保険会社は――とにかく、何社かは――確実に倒産する。そのときは用心しろよ。きみだって自分の融資は全て回収するんだろう?」


「やらなきゃならないことは、もうないよ」


「まあ、そうなるだろうな、今のところ――やるんなら」


二人の男は握手を交わした。互いに気が合う仲間だった。リーはこの街の流行に敏感なグループに属す、生まれながらの社交家だったが、常識をしっかりわきまえていて世俗的な経験が豊富だった。


「今だから言うけどさ、フランク」リーは別れ際に言った。「僕は常々思ってたんだが、きみは路面鉄道株を抱えすぎだよ。乗り切れたら大したものだが、こういう大変なときは痛い目に遭うってもんだ。それと市債とで一気に儲けたんだろうけどさ」


リーは正面から長年来の友人の目を見た。二人は微笑んだ。


アベリー・ストーンとデービソン頭取とその他の面々とも同じことを繰り返した。クーパーウッドがついたときには、みんなはすでに惨事の噂を耳にしていた。明日はどうなるか、彼らにも確証はなかった。あまり見通しが明るいようには見えなかった。


そろそろモレンハウワーとシンプソンとの話し合いが終わった頃だと思い、クーパーウッドはもう一度バトラーに会いに行くことにした。クーパーウッドに何と言うべきか考えていたバトラーは妙に態度がよそよそしかった。「おお、戻ったか」クーパーウッドが現れるとバトラーは言った。


「はい、バトラーさん」


「どうもあなたの役には立てなかったようだ。残念だがな」バトラーは警戒しながら言った。「あなたの提案は難しい仕事だ。モレンハウワーは自力でマーケットを支える気らしい。あの人ならやりかねないがな。シンプソンにも守らねばならない株式がある。むろん、私だって自分の分を買うつもりでいる」


バトラーは一息ついて考えた。


「結局、どの金融関係者とも話し合いを持つまでには至らなかった」バトラーは用心しながらつけ加えた。「みんなは午前中、様子見をするようだ。でも、私があなただったら気を落とさんよ。事態がとても悪化すれば、みんなも考えを改めるかもしれない。ステーネルの件をみんなに話さなくてはならなかった。かなりひどい状態だが、みんなはあなたが乗り切って自分の問題を解決することを期待している。私もだ。私が預けた金の件は――まあ、午前中の様子を見てからだな。とりあえず大丈夫なら、そのまま預けておく。その件は改めて確認した方がいいな。私があなただったら、ステーネルからこれ以上引き出そうとするのはやめておくよ。事態はかなりひどいからね」


クーパーウッドはすぐに政治家からの援助は得られないことを知った。気になったのは、ステーネルに話が及んだことだった。すでにステーネルに連絡して――警告したのだろうか? だとすると、バトラーのところに来たのはまずかった。しかし、明日の破産する可能性を考えれば賢明だった。少なくとも今、政治家たちはこちらの実情を知っている。にっちもさっちもいかなくなったら、またバトラーのところに来ることになる――自分を助けるか助けないかは政治家次第だ。もし自分を助けず、自分が破産し、選挙に負けたら、それは向こうの責任だ。とにかく、クーパーウッドが先にステーネルに会えていたら、まさかステーネルだってこのような危機に陥ったからといって、自分で自分の首をしめる馬鹿なまねはしなかっただろう。


「どうも今夜は雲行きが悪そうですが、バトラーさん」クーパーウッドは元気に言った。「私はまだ乗り切れると思ってます。とにかく希望を持ってます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。もちろん、あなた方に助けていただけるならそれに越したことはありませんが、できないことはできませんからね。自分にやれることはたくさんあります。あなたのお金はできるだけ長く預けたままにしておいてもらいたいものです」


クーパーウッドは颯爽と出て行った。バトラーは考えた。「賢い青年なんだがな。状況が悪すぎる。しかし、彼ならそれを無事に乗り切るかもしれない」


クーパーウッドが急いで帰宅すると、父親は起きていて考え事をしていた。普通、肉親の絆とされるものの特徴である共感と理解を強くにじませてクーパーウッドは父親に語りかけた。父親のことは好きだった。父親が出世をするために重ねてきた勤勉な努力をわかっていた。少年時代に父親が愛情のこもった同情と関心を寄せてくれたことを忘れることはできなかった。株価が大幅に下落しなければ、やや見劣りするユニオン・ストリート鉄道の株を担保に第三ナショナル銀行から借りた融資は多分返せるだろう。クーパーウッドは何としてもこれだけは返さなければならなかった。しかし、自分の思惑で始まり、今やさらに二十万ドルもつぎ込んだ路面鉄道への父親の投資分は――どうすれば守れるだろう? その株式は担保に入れられ、お金は別の投資に使われていた。それらを抱えているいくつかの銀行に担保を追加しなくてはならないだろう。借金、借金、借金以外に打てる手はなかった。それらを守らなくてはならなかった。ステーネルから預託金を二、三十万ドル追加してもらえれば済むのだが。しかし、金融危機が迫る中で、そんなことをするのは犯罪行為に等しかった。すべては明日にかかっていた。


九日の月曜日は、どんよりと物悲しく始まった。クーパーウッドは最初の日差しを浴びて起き、髭を剃り、服を着て、灰緑色のパーゴラをくぐって父親の家まで行った。父親も起きていて、うろうろしていた。やはり眠れなかったのだ。白髪の眉と髪はかなりボサボサでだらしなく、頬髯は見られたものではなかった。老紳士の目には疲れがにじみ出ていて、顔色は悪かった。父親が心配しているのがクーパーウッドにはわかった。父親は、エルスワースがどこかで見つけてきたブール細工の小さな凝った書物机から顔を上げた。そこで黙々と自分の貸借対照表を作成していたのだ。クーパーウッドは苦悶の表情を浮かべた。父親が心配する様子を見に忍びなかったが、どうすることもできなかった。一緒に家を建てたときに、父親を気遣う日が永遠になくなればいいと心から願ったのだ。


「帳尻は合いましたか?」クーパーウッドは気さくに笑顔で尋ねた。できるだけ老父を元気づけたかった。


「いざというときのために、もう一度自分の資産を洗い直していたんだ――」父親が不安な顔を向けたので、フランクは再び微笑んだ。


「心配いりませんよ、お父さん。バトラーたちがマーケットを支えるように話をつけたってお話したでしょ。取引所ではリバース、ターグール、ハリー・エルティンジに売るのを手伝ってもらいます。みんな現場のベテランです。慎重に対処してくれますよ。今回はエドとジョーを頼れないんです。売り出した瞬間に、僕の状況がみんなにバレちゃいますからね。これなら、うちの関係者がマーケットを売り叩こうとしている「売り方」に見えるでしょ、でも叩き過ぎないようにしないと。十ポイント安で売りさばけば五十万ドルくらいは作れるでしょう。マーケットはそこまで下落しないかもしれません。お父さんだってこればかりはわからないでしょう。無限に下がるわけじゃないですからね。大手の保険会社がどうなるかがわかればいいんですが。朝刊はまだ来てませんかね?」


呼び鈴を鳴らそうとしたが、使用人たちがまだほとんど起きていないことを思い出して自分で玄関まで行った。印刷したてで乾ききっていないプレス紙とパブリック・レジャー紙があった。手に取って一面をちらりと見たとたんに表情が一変した。プレス紙にはシカゴの大きな黒い地図が掲載されていた。黒い部分が消失地区を示している実に痛ましいものだった。これほどはっきりと確認するようにシカゴの地図を見たことはなかった。白い部分はミシガン湖で、シカゴ川が街をほぼ均等に――北と西と南に――三分割していた。街はどこかフィラデルフィアに似て奇妙な配置だとすぐに気づいた。ビジネス街は多分二、三マイル四方で、三つの地区が接続する川の本流の南側にあり、川はそこで南西と北西の枝流が合流した後で湖に注いだ。ここは重要な中心地だが、この地図によれば全焼だった。大きな目立つ黒い活字で「シカゴ被害図」と脇に見出しがあった。焼け出された人たちの窮状、死者数、財産を失った人の数などが詳細に綴られた。東部に及ぼしうる影響の記事もあった。保険会社やメーカーはこれほどの大きな負担には応えられないかもしれない。


「何てことだ!」クーパーウッドは暗い面持ちで言った。「株なんかやるんじゃなかった。のめり込むんじゃなかった」クーパーウッドはリビングに戻り、両方の新聞に注意深く目を通した。


それから、まだ時間は早かったが、父親と一緒にオフィスに向かった。すでに十数件、キャンセルや売却の注文が待ち構えていた。そこで立っている間にもメッセンジャーがもう三通持ってきた。一通はステーネルからで、最短で十二時まで戻るという内容だった。クーパーウッドはほっとしたが悩みはまだ解消しなかった。いろいろな融資を返済するために三時までに大金が必要なのだ。一時間一時間が貴重だった。他の誰かがステーネルに会う前に、駅で会う約束をして話をしなければならなかった。明らかに、悪戦苦闘の大変な一日になりそうだった。


クーパーウッドがついたときにはもう三番街は、今回の緊急事態で呼び出された他の銀行家やブローカーでごったがえしていた。疑心暗鬼で駆け巡る人たちがいた――冷静な百人と動揺する百人を二分するのはその激しさだった。取引所は熱気を帯びていた。鐘が鳴ると、断続的な騒ぎが始まった。打算の限りを尽くしてこの場に臨んだ一団を構成する二百人の男たちが、その時の掘り出し物を処分か獲得しようと夢中でまくし立てて応酬し合う間も、その金属性の振動はまだ宙を漂っていた。利害がいろいろあり過ぎてどこで売り買いするのが一番いいのか、わからなかった。


ターグールとリバースは場の中心に陣取り、ジョセフとエドワードは外側をうろうろして、その株でそこそこの利益をあげて売れる機会をひろうよう任された。「売り方」は売り崩す覚悟だった。路面鉄道株が値を保つかどうかは、モレンハウワー、シンプソン、バトラーたちの代理人が、そのセクターでどれだけうまく支えられるかにすべてがかかっていた。前夜、バトラーが最後に言ったのは、自分たちでやれるだけのことを全力でやるということだった。あるポイントまでは買うのだろう。マーケットをどこまでも支える気なのかどうかは言おうとしなかった。バトラーはモレンハウワーとシンプソンについては保証できないし、財務状況も知らなかったからだ。


クーパーウッドは興奮が最高潮に達したところへやってきた。リバースの目に留まろうとして入口の前に立っていると、取引所の鐘が鳴って取引が中断した。ブローカーとトレーダーは全員、取引所の事務方が発表を行う小さな桟敷席の方を向いた。そこには男がいて後ろのドアは開いていた。小柄で色黒の事務員風のその男は、年齢は三十八から四十くらい、体は痩せていて顔は青白く、冒険心の欠片もなく、いかにも整然と物事を考えそうな感じだった。右手に白い紙を一枚もっていた。


「ボストンのアメリカン火災保険会社が債務不履行に陥ったことをお知らせします」鐘が再び鳴った。


すぐに新しい嵐が始まった。前よりも激しかった。月曜日の朝、一時間調べただけで、保険会社が一社潰れるなら、四、五時間、いや一日二日経ったら、どうなるのだろう? これでは、シカゴで焼け出された人たちはビジネスを再開できない。こうなると、この問題に関係するすべての融資はすでに返済を求められたか、これから求められるだろう。そして、怯えた「買い方」たちが、ノーザンパシフィック、イリノイ・セントラル、リーディング、レイクシュア、ウォバッシュなどの株を千口、五千口単位で売ろうと叫ぶ声がした。地元の路面鉄道会社全社でも、クーパーウッドの市債でも、全然下落が止まらないものだから、関係者全員が意気阻喪した。クーパーウッドは商いが止んだ中、アーサー・リバースのところへ急いだが、ろくに言えることがなかった。


「モレンハウワーとシンプソンとこの連中はあまりマーケットに参加してないようだな」クーパーウッドは暗い顔で言った。


「あいつらはニューヨークから報告を受けたんですよ」リバースは真面目に説明した。「到底支えきれませんよ。向こうじゃ、やめる寸前の保険会社が三社あるそうですから。いずれ発表があると思いますよ」


二人は大荒れの会場を抜け出して、方法と手段を検討した。ステーネルとの取り決めでクーパーウッドは、儲けを出していたいつもの仮装売買もしくは市場操作の他にも、十万ドルまで市債を買い付けることができた。これはあくまでマーケットを支えるためのものだった。クーパーウッドは今、六万ドル分購入し、これを使って自分の他の融資を守ることに決めた。ステーネルがこの代金をすぐに払うことになっているから、手持ちの現金が増えるのだ。これであっちもこっちも助かるかもしれない。とにかく、これで他の有価証券を強化すれば少なくとも捨て値よりもましなレートである程度現金化する時間稼ぎができるかもしれない。このマーケットで「空売り」という手段さえとれればいいのだが! それさえできれば、今の自分の立場は別に破産ではなかった。この危機の真っ只中で、現在負っている義務のせいでやらねばならないことが自分を破滅させるかもしれないというのに、ほんの少し状況さえ違えば大きな収穫をもたらしたかもしれない、と見ていたのがいかにもこの男らしかった。しかしクーパーウッドはその手を使えなかった。このマーケットでは両方の立場を取ることができなかった。「売り方」と「買い方」があるのに「買い方」でしかいられなかった。変な話だが事実だった。彼の腕前がここでは発揮できなかった。自宅を担保にすれば融資してくれるかもしれないある銀行家に会いに行こうと振り返ろうとしたとき、また鐘が鳴った。再び取引が中断した。アーサー・リバースは、クーパーウッドに代わって買い付けを始めた州の有価証券セクターの州債販売所から何か言いたそうに顔を向けた。ニュートン・ターグールがクーパーウッドの傍らに駆けつけた。


「もうお手上げですよ」彼は叫んだ。「このマーケットじゃ売るに売れませんよ。やりようがない。向こうは、あなたの足もとを崩しにかかってるんですから。底が抜けてます。数日すればきっと事態は好転しますよ。耐えられないんですか? かえって悪化しますよ」


広報係のいる桟敷席に目を向けた。


「ニューヨークのイースタン&ウエスタン火災保険が債務不履行に陥ったことをお知らせします」


「えーっ!」に似た低い声がわき起こった。広報係が小槌を打ち下ろして秩序を促した。


「ロチェスターのエリー火災保険が債務不履行に陥ったことをお知らせします」


再度「えーっ!」の声。


再び、小槌が鳴った。


「ニューヨークのアメリカン信託銀行が支払いを停止しました」


「えーっ!」


嵐は続いた。


「どうするつもりですか?」ターグールが尋ねた。「この嵐に立ち向かうなんて無理ですよ。売るのをやめて二、三日様子を見ることはできないんですか? 空売りすればいいでしょ?」


「ここを閉鎖すべきなんだ」クーパーウッドはぽつりと言った。「それが一番の策だろう。そうすれば何もできなくなるんだから」


自分と同じような境遇にあって、持っている影響力を使えばそれを実現できるかもしれない人たちに相談しようとクーパーウッドは先を急いだ。この下落局面でマーケットが自分たちの狙いに都合よくなったと気づいて、大儲けしている連中に訴えるのは悪い冗談だった。じゃあ、自分はどうすればいいだろう? 仕事は仕事だ。捨て値で売っても仕方がないので部下たちに中止の指示を出した。銀行が手厚い措置を施してくれるか、証券取引所が閉鎖されるか、ステーネルがただちに自分に三十万ドルを追加で預けるように仕向けられない限り、破産だった。取引所を閉鎖しましょうと提案しながら、いろいろな銀行家とブローカーを訪ねて街を奔走した。ステーネルに会おうとして十二時少し前に急いで駅に駆けつけたが、残念なことに、ステーネルは来なかった。列車に乗りそこねたようだった。クーパーウッドは何かを、何か作為的なものを感じて、市役所とステーネルの自宅へも行こうと決めた。おそらくステーネルはすでに戻っていて自分を避けようとしている。


オフィスで見つからなかったので自宅に直行した。ここでちょうど出かけようとしていた、ひどい顔色の取り乱しているステーネルに会ったのにクーパーウッドは驚かなかった。クーパーウッドの姿を見てステーネルは真っ青になった。


「あれ、こんにちは、フランク」ステーネルはおどおどして言った。「どこからお出ましだい?」


「どうしたんだよ、ジョージ?」クーパーウッドは尋ねた。「ブロード・ストリートに向かっているものだと思ったよ」


「そうだったんだけどさ」ステーネルは間抜けな返事をした。「西フィラデルフィアで降りて、服を着替えようと思ったんだよ。今日の午後はやることがまだたくさんあるからね。きみに会いに行くところだったんだよ」クーパーウッドの緊急電報を受け取っていながら、こんな対応をとるのは愚かなことだったが、若い銀行家はそれを聞き流した。


「それでね、ジョージ」クーパーウッドは言った。「とても重要な相談があるんです。マーケットが荒れそうだと電報で伝えましたよね。大荒れなんです。一刻の猶予もありません。株価は暴落中で、私の借入金のほとんどは返済を迫られています。金利四、五パーセントで数日間三十五万ドルを貸してもらえないか、お伺いしたい。全額お返しいたします。どうしても必要なんです。もしそれがなければ私は破産します。それがどういうことかわかりますよね、ジョージ。私の資産が全て凍結されてしまうんです。あなたの路面鉄道株が私もろとも凍結されるんです。それを換金できないとなると、市から借りた私の融資がまずいことになります。あなたがお金を戻せなくなるんです。それが何を意味するかおわかりでしょ。私たちは一蓮托生なんです。あなたが無事に切り抜けるところを見届けたくても、あなたの協力なしにはできないんですよ。昨夜はバトラーのところへ行って彼のお金の件を確認しなければならなかった。私は他からお金を調達するのに精いっぱいなんです。でも、あなたが協力してくれないと、残念ながら、この件は見通しが立ちませんよ」クーパーウッドは話をやめた。クーパーウッドは相手が拒否する前に、この事態のすべてをはっきりと簡潔に説明したかった――それを相手に自分の窮地として認識させたかった。


実は、クーパーウッドが抱いていた強い疑念はまさに的中していた。ステーネルには手がまわっていた。前夜、バトラーとシンプソンが帰宅した直後にモレンハウワーは敏腕秘書のアブナー・セングスタックを呼んで派遣し、ステーネルの居場所をつきとめさせた。それからセングスタックは、ステーネルと一緒にいるストロビクに、クーパーウッドへの注意を促す長い電報を打った。公金の件が知られた。ステーネルとストロビクはウィルミントンでセングスタックと落ち合うことになった(これはクーパーウッドが先にステーネルに接触しないようにするためだった)――そして事の全貌が完全に明らかになった。起訴がちらつかされたので、これ以上お金が使われることはなくなった。もしステーネルが誰かに会いたい場合はモレンハウワーに会わなければならなくなった。ストロビクから翌日の正午に到着する予定を知らせる電報を受け取ったセングスタックは、ウィルミントンまで出向いて一行を出迎えた。まず自分の家で着替えを済ませ、それからクーパーウッドに会う前にモレンハウワーに会うという案が提示されて、ステーネルは市のビジネス街の中心部には直行せず、西フィラデルフィアで降りるという結果になった。ステーネルはひどく怯えてしまい、考える時間を欲しがった。


「無理だよ、フランク」ステーネルは泣き言を言った。「この件ではとても困ってるんだ。モレンハウワーの秘書がついさっきウィルミントンで列車を待ち伏せして、この問題で警告してきてね。ストロビクも反対してるんだ。向こうは私の貸付残高まで知ってるんだよ。きみか誰かが話したんだよね。私はモレンハウワーには逆らえないんだ。ある意味、すべて彼のおかげだからね。この地位があるのも」


「いいですか、ジョージ。こういう場合は何をするにしても、そういう政治的忠誠心で自分の判断を曇らせないことだ。あなたはとても深刻な立場にいる。私もですけどね。もし今、私と一緒に自分のために行動しなければ、あなたのために行動してくれる人は誰もいないんですよ――今もこれからも――誰もいませんよ。後になってからでは手遅れなんです。昨夜バトラーのところへ行って、私たち二人を助けるようお願いしてわかりました。向こうは全員、私たちが路面鉄道を買収した件を知っています。私たちを振り払いたいんですよ。大きな理由も小さな理由もそれなんです――それ以上でも以下でもない。こういう勝負やこういう特殊な状況というのは、食うか食われるかなんです。みんなを敵に回して自分たちを守るか、共倒れするかは自分たちにかかっているんです。私はそれを言うためにここに来たんです。モレンハウワーは今日のあなたを、あの街灯の柱ほども気にかけてはいませんよ。心配なのは、あなたが私に出した融資ではなく、その金で誰が何を手に入れたかなんです。向こうは私たちが路面鉄道を買収中なのを知っています。私たちが買収するのを望んでないんですよ。いったん私たちの手から取りあげてしまえば、向こうはあなたや私のために一日も無駄にしてはくれませんよ。それがあなたにはわからないのですか? 投資したものをすべて失ったとたんに、あなたも私もおしまいです――そして、誰もあなたや私のために政治的にもその他の形でも、手を差し伸べてはくれませんよ。そこのところを理解していただきたい、ジョージ。だってそれが真実ですから。モレンハウワーが言うから何かをやるとかやらないとかと言う前に、私が言ったことをよく考えたいでしょ」


クーパーウッドは今ステーネルの前に立って相手の目を直視し、自分の精神作用の中の活動を促す力を発揮して――最終的にそれがステーネルに与える影響がどんなに小さかろうと――自分(クーパーウッド)を救うかもしれない一歩をステーネルに歩ませようとしていた。そして、もっと興味深いのは、彼は心配していなかった。こうして目の届くところにいる限り、ステーネルはその時にその場に居合わせた相手の言いなりだったからだ。モレンハウワー氏、シンプソン氏、バトラー氏を差し置いて、できればステーネルを自分の手元に置いておこうとクーパーウッドは考えた。そして、まるで蛇が鳥を見るように相手を見つめながらその場に立ち、できればステーネルを私利私欲に走らせてしまおうと決心した。しかしステーネルはその時、手の施しようがないほどひどく怯えていた。顔はすっかり青ざめ、瞼と目のふちは腫れ上がり、手と唇は湿っていた。おお、もう穴に落ちているではないか! 


「わかってるよ、フランク」ステーネルはやけになって叫んだ。「きみの言うとおりなのは私だってわかっている。でも、もしこのお金をきみに渡したら、私と私の立場はどうなる。彼らは私に何だってできるし何だってやるんだ。私の身にもなってくれよ。きみが私に会う前にバトラーのところへ行きさえしなければよかったんだ」


「あなたが鴨撃ちに出かけていたときに、あなたに連絡を取りたい一心で、わかった場所に手当たり次第に私が電報を打っていたときに、まるで私があなたに会えたかのような言いようですね、ジョージ。私はどうすればよかったんですか? 状況に合わせるしかなかったでしょ。それに、バトラーはあんな調子だったから、てっきりもっと私に好意的だと思ったんですよ。でも、今さら私がバトラーのところへ行ったことを怒っても仕方がないでしょ、ジョージ、とにかく、今はあなたにそんな余裕はありませんよ。私たちは一蓮托生なんですから。泳ぐにしろ溺れるにしろ私たち二人だけの問題なんです――他の誰でもなく――私たちだけなんですよ――わからないんですか? 私はバトラーに要請したんですが――つまりモレンハウワーとシンプソンにマーケットを支えてもらおうとしたんですが、バトラーにはそれができなかった、あるいはやろうとしなかったんです。それどころか、売り叩いているんです。向こうには向こうの思惑があるのでしょう。私たちを振り払おうとしてるんですよ――あなたにはそれがわからないんですか? あなたと私が集めたものをすべて奪う気なんです。私たちを救うのは、あなたと私だけなんですよ、ジョージ、そのために私は今ここにいるんです。もし私に三十五万ドル――とにかく三十万ドル――貸してくれなければ――あなたと私は破滅します。私よりもあなたの方がひどいことになるんですよ、ジョージ、私はこの問題に何の関係もないんですから――とにかく法的には関係ありませんよ。でも、そういうことを言ってるんじゃないんです。私がやりたいのは、私たちを救うことなんです――向こうが何を言おうが何をしようが、私たちの残りの人生を楽に過ごせるようにすることなんです。私たち二人がそうなるためには、私の助けを借りて、あなたが力を出さねばなりません。それが、あなたにはわからないんですか? 私は自分の会社を守りたい。そうすれば、あなたを救えてあなたの名前とお金を守れるんです」これでステーネルが納得すればいいと期待しながらクーパーウッドは話をやめたが、ステーネルはまだ震えていた。


「だけど私に何ができるんだい、フランク?」ステーネルは弱音を吐いた。「モレンハウワーには逆らえないよ。そんなことをすれば私は起訴されちゃう。とにかく、向こうにはそれができるんだ。だから私にそんなことは無理なんだよ。私にそれだけの力はないんだから。もし向こうが知らなかったら、きみさえ彼らに言わなかったら、話は違ったかもしれない、でもね、こうして――」ステーネルは悄然と首を振った。灰色の目に青白い苦悩の色が満ちた。


「ジョージ」ここは厳しく言って聞かせない限り効果は出ないとようやく気づいたクーパーウッドは答えた。「私がしたことを蒸し返さないでください。私は自分がしなければならないことをしたまでです。あなたは正気と勇気を失い、ここで重大なミスを犯す危険な状態にいる。あなたがそんなミスを犯すのを私は見たくないんです。私はあなたのために市の公金五十万ドルを投資に使ってます――一部は私のためですが一部はあなたのためです。でも私よりもあなたのためにしたことなんです」――ちなみに、これは事実ではない――「なのに、あなたはここでこのような時に、自分の利益を守るかどうかで躊躇している。私にはそれが理解できない。これは危機なんです、ジョージ。株価が全セクターで暴落している――みんなの株がです。これはあなただけの問題ではない――私の問題でもない。これは火事によってもたらされたパニックなんです。だから自分で自分の身を守らない限り、生きてこのパニックを抜け出すことはできません。モレンハウワーのおかげで自分の地位が持てたとか、モレンハウワーが何をするか心配だとあなたは言いますが、自分の状況と私の状況を見れば、私が破産しない限り、向こうが何をしようと大して変わらないってことがわかるでしょう。私が破産したら、あなたはどうなりますか? 誰があなたを起訴から救うんですか? モレンハウワーか他の誰かが進み出て、あなたのために五十万ドルを市に返納してくれますか? あいつはしませんよ。モレンハウワーたちがあなたの利益を第一に考えるのであれば、どうして彼らは今日、取引所で私を助けてはくれないんですか? その理由を説明しましょう。彼らは、あなたと私の路面鉄道株が欲しいんです。後であなたが刑務所に行こうが行くまいが関係ありません。さあ、もしあなたに分別があるのなら、私の言うことに耳を傾けることです。私はずっとあなたに尽くしてきましたよね? 私のおかげで儲かったでしょ――たっぷりと。もしあなたに分別があるのなら、オフィスに行って、他の何をさておいても、とにかく三十万ドルの小切手を私宛に書いてください。それが済むまでは、誰にも会わず何もしないことです。子羊を盗んだからって、親羊を盗む以上には罰せられません。誰もあなたがその小切手を私に渡すのを妨げることはできないんです。あなたは市財務官なんですよ。それさえあれば、この窮地を脱する道筋は見えるんです。来週か再来週には全額返します――その頃にはこのパニックはきっと収まっていますから。それをそれを金庫に返して、五十万ドルの方はもう少し後で目鼻をつければいいんです。三か月かそこらで、あなたがそれを元に戻せるように私がちゃんと用意します。本当なら、私が再び足場を回復すれば十五日でできるんです。私が欲しいのは時間だけなんです。金さえ返してしまえば、あなたは株を失うことはないし、誰もあなたを困らせることはできないんです。向こうだってあなた以上にスキャンダルを起こしたくはないんですから。さあ、どうします、ジョージ? 私はあなたにやらせることができますが、モレンハウワーにはあなたがそれをするのをとめられません。あなたの人生はあなたが自分で握っているんですよ。どうしますか?」


まさに自分の血も同然の財産がなくなろうとしているのに、ステーネルは黙って考えながら馬鹿のようにそこに突っ立っていた。ステーネルは行動するのが怖かった。モレンハウワーが怖くて、クーパーウッドが怖くて、人生と自分自身のことが怖くてたまらなかった。パニックや損失について考えても、地域社会での自分の地位や政治的立場には結びつくのに、自分の財産やお金にはそれほどはっきりとは結びつかなかった。資本家的な感覚を強く発達させた人は数が少ない。人は、富の支配者であることが、社会的活動の元を解き放つものを持つことが、つまり交換の場を持つことが、どういうことなのかを知らないのだ。人はお金を欲しがるが、お金のために欲しがるのではない。人はお金で簡単に買える物が目当てでお金を欲しがるが、資本家はお金が支配するものが目当てで欲しがる――つまりお金が威厳や影響力や権力の形で表すものが欲しいのである。クーパーウッドはそういう形でお金を欲しがったが、ステーネルは違った。だからこそ、ステーネルはクーパーウッドをあっさり自分のために行動させた。それが今になってクーパーウッドが目論んでいる事の重大性をこれまで以上にはっきりとわかって怖くなった。しかもモレンハウワーはおそらく敵に回って激怒するし、クーパーウッドは破産するかもしれないし、本物の危機を前にしたステーネルは無力にさいなまれいて、理性が働かなかった。クーパーウッドの生まれながらの金融の才能をもってしても、この時のステーネルを安心させることはできなかった。この銀行家は若すぎたし新参者もいいところだった。モレンハウワーの方が年の功も財力も上だった。シンプソンもそうであり、バトラーもそうだった。この男たちは、富を持ち、ステーネルの世界での大きな力、大きな基準の象徴だった。それに、クーパーウッド自身が、自分はとても危険な状態だ――窮地に陥った、と告白したのではなかったか。この状況ではそれしかできなかったとはいえ、それはステーネルに言うには最悪の告白だった。ステーネルには危険に立ち向かう勇気などなかったのだから。


だから今、ステーネルはクーパーウッドのそばでじっと考え込んでいた――青ざめて、力が抜けてしまった。自分の利益の命綱を見極めることができず、はっきりと自信を持って全力で追い求めることができなかった――そんな状態で二人はステーネルのオフィスに向かった。クーパーウッドは直訴を続けるためにもステーネルと一緒にオフィスに入った。


「ねえ、ジョージ」クーパーウッドは真剣だった。「返事を聞かせてください。時間がないんです。無駄にする時間はありませんよ。お金を貸してください。すぐに出て行きますから。我々には時間がないんですよ。向こうの脅しに乗ってはいけません。向こうは向こうのちっぽけな勝負をしていればいい。あなたはあなたの勝負をすればいいんです」


「無理だよ、フランク」ステーネルは結局、弱音を吐いた。モレンハウワーの厳しい支配者の顔を考えると、自分の豊かな将来への希望などすぐにくじけてしまった。「考えないといけない。今すぐには無理だ。きみに会う前にちょうどストロビクが帰ったから――」


「おい、おい、ジョージ」クーパーウッドは呆れて叫んだ。「ストロビクなんかいい! あいつに何の関係があるんです? 自分のことを考えてください。自分がどうなってしまうのかを考えるんです。自分の将来ですよ――ストロビクのじゃなく――あなたはそれを考えなくてはいけません」


「わかってるけどさ、フランク」ステーネルはか弱い声でも譲らなかった。「本当に、どうしたらいいのかわからないんだ。正直言ってわかんないよ。きみだって、自分でもうまくこれを乗り切れるかわからないって言ってるじゃないか。それにあと三十万、あと三十万って。無理だよ、フランク。本当に無理なんだ。こういうのはよくないってば。それよりも、とにかく、まずモレンハウワーと話がしたい」


「おい、よくそんなことが言えるな!」軽蔑を隠しきれずに相手を見ながら、クーパーウッドは怒りを爆発させた。「じゃ、行けばいい! モレンハウワーに会えばいい! あいつの利益のために自分の喉を切る方法を教えてもらえばいい。私にあと三十万ドル貸すのは正しくないが、すでに貸した五十万ドルを守ろうともせずに放置して失うことは正しいんですね。それは正しいのですね? あなたがやろうとしているのはそういうことなんです――それを失った上に他のものまですべて失うんですよ。それがどういうことかをお話したい、ジョージ――あなたは正気を失っている。モレンハウワーからのたった一言で死ぬほど怯えている。そしてそんなもののために自分の財産も名声も地位も――すべてを危険にさらそうとしている。私が破産したらどうなるか、あなたは本当にわかっているんですか? あなたは囚人になりますよ、ジョージ。刑務所行きですよ。このモレンハウワーという男は、今はやってはいけないことをすぐにあなたに言うくせに、いったんあなたが倒れたら、絶対にあなたに手を差し伸べてはくれませんよ。でも、私ならどうです――私はあなたの力になってきたでしょ? 今まで私はあなたが満足するようにあなたの仕事を処理してきませんでしたか? 一体どうしてしまったんです? あなたは何を心配してるんですか?」


ステーネルがまた弱音を吐こうとしたとき、奥の事務室のドアが開いて、ステーネルの主席事務官のアルバート・スターズが入ってきた。ステーネルはすっかり動転してしまい実際すぐにはスターズに気が回らなかった。そこでクーパーウッドが自分から応対にあたった。


「どうしました、アルバート?」クーパーウッドは気さくに尋ねた。


「モレンハウワーさんのお使いのセングスタックさんが、ステーネルさんに会いたいと見えてます」


ステーネルはこの恐ろしい名前を聞いたとたんに葉っぱのようにしおれた。クーパーウッドはその様子を目撃した。三十万ドルを手に入れる最後の望みがこの瞬間に潰えたかもしれないと悟った。それでも、クーパーウッドはまだあきらめるつもりはなかった。


「では、ジョージ」すぐにステーネルがセングスタックに会うという指示を受けてアルバートが退室した後、クーパーウッドは言った。「状況はわかりましたよ。この男が気になって仕方ないのですね。今のあなたは自分で行動することができない――怯えきっていますからね。しばらくそっとしておくことにしましょう。でも私は戻って来ますよ。お願いだから気を引き締めてください。このままいったらどうなるのかを考えてくださいね。もしわからなければ、どういうことになるのかを私が正確に教えてあげますよ。行動すればあなたは働かずに暮らせるほどのお金持ちになれるんです。行動しなければあなたは囚人になるでしょう」


バトラーに再会する前に、街でもうひと頑張りしようと決心したクーパーウッドは、颯爽と外に出て、外で待機していた軽快な弾む馬車に飛び乗った。黄色い光沢のあるすてきな小型の車体には、黄色の革のクッションシートがあって、引くのは脚を高らかとあげる若い鹿毛の雌馬だった。そして、クーパーウッドはドアからドアへと馬を走らせ、無造作に手綱を放り投げて、銀行の階段を駆け上がり、オフィスのドアに飛び込んでいった。


しかし全然成果はなかった。どこも関心を持ち、気を遣ってはくれるが、事態は非常に不透明だった。ジラード・ナショナル銀行は一時間の猶予もくれなかった。そこの株の評価損を補うために、クーパーウッドは手持ちの一番価値ある有価証券を大量に送らなければならなかった。二時に父親から第三ナショナル銀行頭取として、十五万ドルの返済を請求しなければならないという連絡が入った。経営陣がクーパーウッドの株券に疑念を抱いたのだ。クーパーウッドはただちにその銀行に預ける五万ドルの小切手を書き、利用可能な事業資金二万五千ドルを取り崩し、ティグ商会に対して五万ドルの返済を求め、試しに手がけていたグリーン=コーツ鉄道六万株を本来の価値の三分の一で売却し、そのすべてをまとめて第三ナショナル銀行へ送り届けた。父親はある立場ではほっと胸をなでおろしたが、別の立場では悲しくてがっかりした。正午になると、自分の資産がいくらになるかを確認しに急遽外出した。そんなことをすればある意味では沽券に関わった。しかし自分の資産はもちろんのこと親心が絡んでいた。自宅を抵当に入れ、家具、馬車、土地、株式などを担保にして、現金十万ドルを調達し、自分の銀行のフランクの口座に入金した。しかしそれは、この嵐の真っ只中で風上にとても軽い錨を投げるようなものだった。フランクは、すべての融資の返済を少なくとも三、四日先に延ばしたいと考えていた。当日月曜日の午後二時、自分の現状を振り返えりながら、クーパーウッドは考えに沈んだ険しい顔で言った。「うーん、ステーネルに三十万ドル貸してもらわないと――それしかないな。そろそろバトラーに会わないと。さもないと三時前に金を返せと言ってくるぞ」


クーパーウッドは外に飛び出すと、一目散にバトラー邸へと駆けつけた。



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