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資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
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第20章-第25章

 

第二十章

 


これほど明確な最終合意に到達した以上、この関係がますます親密なものに発展するのは当然だった。信心深い躾を受けたにもかかわらず、アイリーンは明らかに自分の気質の犠牲者だった。世の中で幅を利かせている宗教観や信仰はアイリーンを支配できなかった。過去九年から十年の間にアイリーンの心の中では、自分の恋人はこうあるべきという理想が徐々に形成されていた。その男性は、強く、ハンサムで、率直で、成功していて、澄んだ目を持ち、健康で血色がよく、一定の生まれながらの理解力があって共感できて、自分の生き方に会う生き方を愛する人であるべきだった。これまで多くの若い男性が彼女に近づいてきた。おそらく理想に最も近い形で現れたのは、セント・ティモシー教会のデビッド神父だった。当然、彼は司祭であり独身の誓いを立てていた。二人の間で言葉は一切交わされなかったが、アイリーンが相手を意識したように相手も彼女を意識した。次にフランク・クーパーウッドが現れた。彼が現れて接触するようになると、心の中で彼が理想の人物としてゆっくりと組み立てられた。惑星が太陽に引き寄せられるように、彼女は引き寄せられた。


ちょうどこの時期に有力なライバルが出現していたら、どうなっていたかわからない。こういう性質の感情や関係だって、もちろん、時には破壊、撲滅される。個人の性格は、ある程度修正や変更が可能かもしれないが、力が十分でなければならない。恐怖は大きな抑止力である――精神的恐怖がない場合は、物質的損失を被るという恐怖――富と地位は往々にしてこの不安を打ち消しがちである。財力があれば陰謀を企てるのはとても簡単だ。アイリーンには精神的な恐怖がまったくなく、クーパーウッドには霊だとか宗教的な感情がなかった。彼はこの少女を見て、どうすればうまく世間を欺いて、彼女と恋愛を楽しみ、自分の現状に波風を立てないようにできるだろうと考えた。確かに彼は彼女を愛していた。


仕事で頻繁にバトラー家を訪問する必要があり、そのたびにアイリーンに会った。クーパーウッドが初めて来たとき、アイリーンはそっと前に出て彼の手を握り、人目を盗んで素早く鮮烈なキスをした。またあるときは、彼が帰るときに、客間のドアにかかるカーテンの陰から突然現れた。


「あなた!」


その声は穏やかで誘いをかけていた。クーパーウッドは振り返って、二階の父親の部屋の方に向かって警告がてらうなずいてみせた。


アイリーンがそこに立ったまま片手を差し出すと、クーパーウッドはすぐに前に踏み出した。彼がそっとウエストに手をまわす間に、アイリーンの両腕がすかさず彼の首に抱きついた。


「会いたくてたまらなかったわ」


「私もだ。何とかするよ。考えているところなんだ」


クーパーウッドは彼女の腕を振りほどいて外に出た。アイリーンは窓に駆け寄って、彼を見送った。自宅が数ブロックしか離れていなかったので通りを西に歩いていた。アイリーンは肩幅の広さとバランスのとれた体を見た。クーパーウッドはとても元気よく、きびきびと歩いた。ああ、これでこそ男性だわ! あなたはあたしのフランクよ。アイリーンはすでに彼のことをそんな風に考えていた。それからピアノに向かって、物思いにふけりながら夕食まで演奏しつづけた。


フランク・クーパーウッドは裕福だったので、やりくり上手の頭脳が、方法や手段を提案するのはとても簡単だった。若い頃いかがわしい場所を遊び回り、その後も時折まっすぐの狭い道を踏み外して、道徳に反する興味本位の娯楽をたくさん学んでいたからだ。当時、人口五十万人以上の都市だったフィラデルフィアには、人が通えて、慎重に、人目につかないようにちゃんと守られている、これといった特徴のないホテルや、お金を支払えば予約がとれる、昔からある住宅のような特徴を持つ家があった。そして、新しい人生を始めるにあたっての安全対策は、もはやクーパーウッドにとって謎ではなかった。彼はこういうことを万事心得ていた。注意するに越したことはない。かなり急速に影響力のある有名人になりつつあったから、用心しなければならなかった。漠然としたものは除くが、やはり、アイリーンは自分の情熱の行く末を意識していなかった。彼女にはこの愛情の導く運命がはっきりわかっていなかった。彼女が求めたのは愛だった――優しくなでられること、愛撫されることだった――それ以上のことまで本当は考えていなかった。この線に沿って先を考えるなら、薄暗い片隅の暗い穴から頭を見せて、ちょっと物音を聞いただけで慌てて引っ込むネズミだ。とにかく、クーパーウッドに関することはすべてがすばらしいことになるだろう。愛すべくして彼はあたしを愛している、とまでは本当は思っていなかったが、愛するようにはなるだろう。自分が彼の妻の権利を不当に干渉したがっていることが彼女にはわからなかった。その自覚がなかったのだから。フランクがあたし――アイリーン――を愛したとしても、それが奥さんを傷つけることにはならないわ。


気質や欲望のこういう微妙な特徴は、どう説明すればいいだろう? 人生はいたるところでこういうものと向き合わねばならない。こういうものはなくならない。そして、人間という小さな有機体の外側にある自然の大きくて穏やかな動きは、彼女など大して関係ないことを示すだろう。我々は、刑務所、病気、破産、破滅といった形で多くの罰を目にする。しかしこの古い傾向が目に見えて減っていないことも目にする。個人がやり遂げようとする微妙な意志と力の外に、法則はないのだろうか? なくても、そろそろ、我々はそれをすべて知ってもいい頃だ。そうなれば、我々は自分たちのやっている行動を認めるかもしれないし、神の定めといった愚かな幻想はなくなるだろう。民の声が神の声なのだから。


こうして逢瀬はつづいた。彼女の情熱が次第に高まり、ひどく恐れるでもなく、伴う致命的な危険も顧みず、言いなりになりそうなのを確信させた瞬間に、二人はすぐにすてきな時間を過ごすようになった。見とがめるものがまわりに誰もいないときにこっそり過ごした自宅でのひとときから、市の境界を越えての密会に進展した。クーパーウッドはのぼせ上がって、仕事をおろそかにするタイプの人間ではなかった。現に、このかなり思いがけない愛情の発展を考えれば考えるほど、これを放置して仕事の時間と判断力に支障をしたさせてはならないと気を引き締めた。とにかく、事務所は九時から三時まで、彼の注意をめいっぱい要求した。彼は五時半まで事務所に利益をもたらすことができた。しかし、三時半から五時半か六時までの午後の数時間を休み時間に割いてである。これほど賢い人は誰もいないだろう。午後はほぼ毎日ひとりで元気な鹿毛の二頭立て馬車を運転するか、父がボルチモアの有名な馬商人から買った馬に乗るのがアイリーンの習慣だった。クーパーウッドも馬車や馬を扱えたので、ウィサヒコンやスカークル街道の遠くに待ち合わせ場所を設定するのも難しくなかった。新しく整備された公園には、森の奥のように邪魔の入らない場所がたくさんあった。誰かに出くわす可能性は常にあったが、いつだってもっともらしい説明をすることができた。いや、こうして出くわすことがあっても、普通は何も疑われたりしないのだから、何でもないことだった。


こうやって、しばらくは愛情が育まれた。単純な、最終形態とはほど遠い恋人同士が普通に行ういちゃつきだった。近づいてくる春の緑の木々の下を一緒に仲良く乗馬を楽しむのはのどかだった。クーパーウッドはこの新たな欲望に顔を赤らめながら、これまでに経験したことがなかった、自分が空想したような、人生の喜びに目がさめた。彼が初めてノースフロント・ストリートの彼女の家を訪問した若かった頃のリリアンはすてきだった。あの頃彼は言葉で言えないほど自分は幸せだと思ったが、あれから十年近くたってしまうと、すっかり忘れていた。それからは大恋愛もこれといった情事もなかった。それなのに、新しい大仕事が活況を呈しているさなかに、突然、アイリーンが現れた。若い肉体と精神を持ち、情熱的な幻想を抱いていた。クーパーウッドはずっとわかっていたが、アイリーンは大胆なくせに、彼が関係する打算的で残酷な世界についてはほとんど知らなかった。父親は彼女が欲しがるおもちゃを惜しみなく与えた。母親と兄弟は彼女を甘やかした、特に母親は。妹からは慕われていた。アイリーンが何か過ちを犯すとは、誰も一瞬も想像しなかった。彼女はあまりにも思慮深く、結局のところ熱心すぎて世の中では成功できなかった。自分の前には幸せな人生が開けているのに――近い将来、結婚に適した満足できる恋人とすてきな恋愛結婚だってできるだろうに、どうして彼女はこんなことをしなければならないのだろう? 


「アイリーン、結婚したら、私たち、ここで楽しく過ごしましょう」母親はよく彼女に言っていた。「もしそれまでに直さなければ、家はその時に直しましょ。エディに直してもらわないと、でなきゃお母さんが自分でやっちゃうわ。心配いりませんよ」


「ええ――でも、やっぱり今やってほしいわ」アイリーンは答えた。


バトラーはよく、がさつな、愛情の込もった態度で、娘の肩を陽気に叩いて「おい、彼氏はもう見つかったのか?」とか「お前に会いたくて外をうろうろしてるんじゃないか?」と尋ねた。


もし娘が否定しようものなら、父親はすかさず言い返す。「まあ、いずれ現れるさ、心配するな――運が悪いんだ。お父さんはお前がいなくなのは嫌だな! いたければ、ずっとここにいていいし、いつでも戻れるってことを忘れるな」


アイリーンはこういう冷やかしをほとんど相手にしなかった。父親を愛していたが、これはみんな当たり前のことだった。これは彼女の生活のありふれたことで、うれしいことではあったが、それほど重要なことではなかった。


しかし近頃は、春の木々の下で、どれほど熱心にクーパーウッドにその身をゆだねていただろう! 彼女は、やがてそうなるあの完全屈服に全然気づいていなかった。何しろ、彼は今はただ愛撫して話しかけるだけだったからだ。クーパーウッドは少し自分に自信がなかった。自分に自由が増えるのは至極当然に思えたが、彼女に公平を期すために、二人の愛が意味するものはどういうものかを彼女に話し始めた。きみはどうなの? わかっているのかな? ここに来て初めてアイリーンは少し戸惑い、怖くなった。ある日の午後、黒い乗馬服を着て、赤みを帯びたブロンドの上に山高のシルクの乗馬帽をちょこんと乗せてクーパーウッドの前に立ち、話を聞く間、短い鞭で乗馬スカートを叩き、迷いながら考えていた。彼はアイリーンに、自分が何をしているのかわかっているのかい、と尋ねた。二人がどこに向かっているのか? きみは本当にそんなに私のことを愛しているのかい、と。二頭の馬は、幹線道路からも、二人がたどり着いた急流の土手からも数十ヤード離れた雑木林に繋がれていた。アイリーンは馬が見えるかどうか確かめようとしていた。それは見せかけで、目には興味のかけらもなかった。考えていたのは、クーパーウッドのことと、彼の乗馬服のかっこよさと、この瞬間のすばらしさだった。彼の馬はとてもすてきなまだらのポニーだった。木々の葉は十分に生育し、緑色の透けたレースのようで、まるで緑色にきらめくアラス織り越しにその向こうや後方の森をのぞいているみたいだ。打ち寄せる水がきらきらするあたりは、灰色の石にすでに薄っすら苔が生え、気の早い小鳥――コマドリ、クロウタドリ、ミソサザイ――がさえずっていた。


「お嬢さん」クーパーウッドは言った。「きみはこういうことを全部わかっているのかい? こうやって私と一緒に来ているときに自分が何をやっているのか、ちゃんとわかっているのかい?」


「わかってるつもりよ」


アイリーンはブーツを踏み鳴らして地面を見た。それから木々の間から青空を見上げた。


「こっちを向いてごらん」


「いやよ」


「いいから向くんだ。きみに聞きたいことがある」


「やめてよ、フランク、おねがい。あたしにはできないわ」


「ほら、見るくらいできるだろ」


「できないわ」


クーパーウッドが手をつかんだのでアイリーンは後ずさりしたが、またすぐ前に出た。


「さあ、私の目を見るんだ」


「できないわ」


「こっちを見て」


「できないわよ。あたしにそんなこと言わないで。ちゃんと答えるわよ、でもあなたを見るのはいや」


クーパーウッドの手がこっそり頬にふれて優しくなでた。肩をさすると、アイリーンは彼に頭をもたせ掛かけた。


「とても美しいよ」クーパーウッドはついに言った。「きみを諦められないんだ。自分がどう振る舞うべきかは心得ている。きみもわかっていると思う。でも、諦めきれないんだ。どうしても、きみが必要なんだ。もしこれが露見したら、私もきみも大変なことになる。わかるよね?」


「はい」


「きみの兄さんたちのことは良く知らないが、なかなかしっかりした人たちとお見受けした。きみのことをすごく大切に思っていますね」


「ええ、そうよ」これを聞いて彼女の虚栄心は少し高まった。


「おそらく私を殺したがるでしょう。これだけのことでも即座にね。もし――いつか何か起きたら、兄さんたちはどうすると思いますか?」


クーパーウッドはアイリーンのかわいい顔を見つめながら待った。


「でも何も起きないわよ。あたしたちはこれ以上進む必要がないから」


「アイリーン!」


「あなたのことを考えるつもりはないわ。聞くまでもないでしょ。無理だもの」


「アイリーン! 本心かい?」


「わからないわよ。あたしに聞かないでよ、フランク」


「こんな終わり方はできないだろ? わかっているよね。これで終わりじゃない。いいかい、もし――」彼は不義密会についてひと通り、冷静に、淡々と説明した。「きみは絶対に安全なんだよ、ただひとつ、偶然の発覚を除けばね。そういうことだってありえるわけだ。もちろん、そのときは解決すべき問題がたくさん出てくる。クーパーウッド夫人は絶対に離婚しないだろう。そうする理由がないからね。もし私が望む形で決着がつけば――百万ドルを稼いだら――今すぐやめてもかまわないんだ。一生働く考えはないからね。三十五歳でやめようといつも計画を立てている。その頃には十分な蓄えができてるだろうから。それから旅行もしたい。もうあとほんの数年のことだ。もしきみが自由だったら――ご両親が亡くなっていたら」――不思議にも、アイリーンはこの現実的なたとえに顔をしかめなかった。「話は違ってくる」


クーパーウッドは間をおいた。アイリーンは思案しながらまだ下流の水面を見つめていた。彼と一緒の洋上のヨット、どこかの宮殿――二人っきりでいることに思いは駆け巡っていた。半分閉じた目はこの幸せな世界を見ていた。そして彼の話を聞きながらうっとりしていた。


「ここから抜け出す道がわかれば死んでもいい。きみを愛してるからね!」クーパーウッドは彼女を抱き寄せた。「愛してるよ――愛してる!」


「わかったわ」アイリーンは激しく答えた。「お願いするわ。あたし、怖くない」


「北十番街に家を借りたんだ」馬のところまで行って乗るときに、ようやくクーパーウッドは切り出した。「家具はまだだが、すぐにそろえる。管理する女性にも心当たりがある」


「どんな人?」


「五十近い興味深い未亡人だよ。とても頭がよくて――魅力的で、人生経験が豊富なんだ。広告で見つけた。準備ができたら、午後にでも訪ねて場所を見てみればいい。気軽に会えばいいんだ。どうかな?」


アイリーンは何も答えず、考えながら馬に乗った。クーパーウッドは単刀直入で、考え方が実用的だった。


「どうかな? これなら大丈夫だろ。自分で相手を見ればいいんだし。いずれにしても、いやな人じゃない。どうかな?」


「準備ができたら知らせてよ」アイリーンが最後に言ったのはこれだけだった。


 

 

第二十一章

 


情熱は気まぐれで! 微妙で! 危なっかしい! 何もわざわざそんな祭壇に生贄を捧げなくてもいいだろうに! すぐに、このクーパーウッドが言っていた平均より上の住宅は、満足できる隠れ家という結果を出すだけのために準備が整えられた。この家は、最近夫に先立たれたらしい未亡人に管理された。ここなら場違いな印象を与えずに、アイリーンが立ち寄ることができた。こういう環境、こういう状況でなら、無謀で無思慮な愛情と情熱に支配された彼女に向かって、恋人にすべてを捧げろと説得するのは難しくなかった。アイリーンは本当に他の誰よりもこの男性を求めていたから、一応、愛という救いの要素はあった。他の誰にも思いや感情を抱いていなかった。アイリーンの考えは、どういうわけか自分と彼がずっと一緒にいるかもしれない未来図に向かっていた。クーパーウッド夫人が死ぬかもしれないし、彼が三十五歳で百万ドルを築いたら、あたしと駆け落ちするかもしれない。何らかの形で何らかの調整がされるわ。天があたしにこの男性を与えてくれたのよ。アイリーンは疑いもせず彼を信頼した。きみに災いが降りかからないように私がきみの面倒を見る、と彼が言ったときアイリーンは全面的に彼を信じた。こういう罪は告解でよくあることなのに。


キリスト教世界のある微妙な理論によって、求愛と結婚という慣習的な過程以外に愛は存在しないと信じられるようになったのは、奇妙な事実である。一生かけて一つの愛をまっとうする、がキリスト教の考え方で、この水路だか鋳型に全世界を押し込めようと努力していた。異教徒の思想にはこういう信条はない。先人たちは些細な理由で離縁状を書いていたし、太古の世界では自然は一時的な育児期間を過ぎた後まで二人を結びつけようとはしなかったらしい。二人の互いの共感と理解に基づくなら、現代の家庭が最も理想的な体系であることに疑いを抱く必要はない。だからといって、この事実をもって、必ずしもハッピーエンドを見つけるほど幸運ではなかったすべての愛を非難すべきではない。人生はいかなる鋳型にも押し込めることはできないし、そういう試みはすぐにやめた方がいい。一生添い遂げられる仲睦まじい伴侶を見つけるほど幸運な人は、自分たちを祝福して、それに値する人になるよう励むべきである。恵まれなかった人は、社会ののけ者と書き記されても、ある程度は仕方がない。それに、人間の意志に関係なく、理論があろうがなかろうが、化学や物理の基本的事実は変わらない。類は友を呼ぶ。性格が変われば人間関係も変わる。教義が心を縛る者もいれば、恐怖が縛る者もいる。しかし、人生の化学的物理的要因が大きく、教義も恐怖も効かない者は常に存在する。社会が怖がって手をあげても、ヘレン、メッサリナ、デュ・バリー、ポンパドゥール、マンテノン、ネル・グウィンのような者はいつの時代にもいて栄え、私たちが自分たちの生活に一致させられるものより、自由な人間関係の基準を示している。


この二人は言葉では表しきれないほど互いに結ばれているのを感じた。クーパーウッドはいったん彼女を理解すると、残りの人生を一緒に幸せに暮らしていける相手を見つけたと思った。アイリーンはとても若く、自信と希望に満ち溢れ、うろたえない人だった。互いに連絡を取り合うようになってから数か月間、彼はずっとアイリーンと妻を比較していた。実は、彼の不満はこれまでぼんやりという程度だったかもしれないが、今や確実に現実のものになりつつあった。それでも子供たちはクーパーウッドを喜ばせ、家庭はすばらしかった。リリアンは粘液質で今は痩せているが、まだ所帯じみていなかった。これまで何年もずっと妻に十分満足していたが、ここにきて妻に対する不満が大きくなり始めた。リリアンはアイリーンと違って、若くも活発でもなく、人生の当たり前のことを学んでいないわけではなかった。彼は普段、愚痴っぽい人間ではなかったが、それでも近頃は時々そうなりがちだった。発端は妻の容姿についての質問だ――とても些細なことだが、それでも女性を怒らせ落胆させる苛立たしいささいな質問。何でドレスの色に近い藤色の帽子を買わなかったんだい? 何でもっと外出しないんだい? 運動すると体にいいよ。何でこうしない、何でああしない? 彼は自分がやっていることにほとんど気づかなかったが、リリアンは気がついた。言葉の裏にあるもの――本当の意味――を感じ取って憤慨した。


「ああ、何で――何で?」ある日ぶっきらぼうに言い返した。「何であなたは質問ばかりするの? あなたはもうあまり私を気にかけていないでしょ、だからよ。私にはわかるわ」


クーパーウッドはこの反撃に驚いてのけぞった。これは彼の最近の発言以外に何も根拠もなかったが絶対の自信はなかった。妻を苛立たせたことをほんの少しだけ反省して謝った。


「別にそんなこといいわよ」リリアンは答えた。「気にしてないから。でも、あなたは昔ほどあまり配慮をしなくなったって気づいたの。今のあなたは明けても暮れてもずっと仕事だもの。仕事から頭を離せないんでしょ」


クーパーウッドは安堵のため息をついた。今のところ妻は疑っていなかった。


しかし、少ししてアイリーンとどんどん心が通い合うようになると、妻が疑おうが疑うまいがあまり気にならなくなった。状況のいろいろな展開を考えているうちに、妻が疑うならその方がいいと時折考えるようになった。現に、彼女は争いを好んで闘うタイプではない。妻の性格をいろいろ考えた結果、最初想像したほど、ある種の最終的な再調整にあまり抵抗しないかもしれないと今は判断した。離婚に応じるかもしれない。欲望と夢は彼の中でさえ、彼の頭脳が普段はじき出す正常値とは違う結果を弾き出していた。


いや、この問題は、バトラー家では大ごとでも、自分の家ではそれほどではない、と彼はこのとき自分に言い聞かせた。エドワード・マリア・バトラーとの関係はとても親密になっていた。今でも絶えず有価証券の取り扱いについてバトラーに助言していて、その量は膨大だった。バトラーは、ペンシルベニア石炭会社、デラウェア&ハドソン運河、モリス&エセックス運河、リーディング鉄道などの株式を保有していた。関心がフィラデルフィアの地元の路面鉄道の問題に広がると、老紳士は他の有価証券をできるだけ有利な条件で売却して、その資金を地元の鉄道に再投資することに決めた。バトラーはモレンハウワーとシンプソンが同じことをしているのを知っていた。彼らは地元の重要な問題に優れた判断力を持っていた。クーパーウッドと同様にバトラーは、この分野の地元の情勢を十分に支配すれば、最終的にモレンハウワーやシンプソンと提携できるという考えを持っていた。そうなれば、合併した鉄道に有利な政治的な法令を通すのはとても簡単にできる。運営権でも既存の運営権に必要な延長でも追加できる。他の分野の発行済み株式の換金と、地元の路面鉄道の端株を集めることがクーパーウッドの仕事だった。バトラーは息子のオーエンとカラムを通じて、新しい路線の立案や運営権の獲得に奔走し、必要な法案を成立させるのに十分な影響力を得るために、当然、大量の株式や現金を犠牲にしていた。他の人たちもこの問題のいろいろな利点がどういうものかを知っていたので、これは簡単ではなかった。このおかげで、ここが大きな利益の源泉なのを知ったクーパーウッドは、早めに自分の分を確保できた――まとまった量を買いつけ、バトラーやモレンハウワーなどにはその一部しか渡らなかった。要するに、できれば自分のために働きたかったので、彼はバトラーや他の誰かのためには熱心に働かなかった。


これに関して、背後にいるストロビク、ウィクロフト、ハーモンを事実上代表しているジョージ・W・ステーネルが提案した計画には、クーパーウッドの付け入る隙があった。ステーネルの計画は、金利二パーセントで市の公金から彼に金を貸すか、彼(保身のために絶対に必要な代理人)が手数料全額を放棄するなら無償にして、その分でフロント・ストリートの北ペンシルベニア鉄道を引き継ぐかだった。この路線は全長が一マイル半と短く、運営権の期間も短かったため、あまり順調ではなく、評価もそう高くなかった。操作技術料としてクーパーウッドはその株式の適正な分け前――二十パーセントを受け取ることになった。ストロビクとウィクロフトは工作が成功すれば、株式を大量に確保できる相手を知っていた。彼らの計画は、この借りた公金で運営権と路線そのものを延長して、その後で再び大量の株式を発行し、それを贔屓の銀行の担保に入れて、元金を市に返済し、その鉄道から得た利益を自分たちでいただくというものだった。このせいでいろいろな個人の間にまで株式が散らばり、せっかく考えて苦労したのに、割と少ししか株式が手元に残らないことを除けば、クーパーウッドはこれに全然困らなかった。


クーパーウッドはチャンスがあればつけ込んだ。そして、この頃までに彼の金融のモラルは、特殊で局所的な性格を持つようになっていた。彼は、取得するとか儲ける行為がそのまま盗みと見なされる場面では、誰かが誰から何かを盗むことが賢明だとは考えなかった。それは賢明でなく――危険である――だから間違いである。取得するとか儲けるという形の行為が、議論や疑惑を招く状況はとても多かった。少なくとも彼の中で道徳は、気候ほどでないにしても、条件次第で変化した。ここフィラデルフィアでは、市財務官は元金をそっくりそのまま返せば、市の公金を無利子で使えるのが伝統だった(政治的にであって一般的にはそうではない)。公金と市財務官は、蜂蜜の詰まった巣箱と女王蜂のようなもので、その周りには雄蜂――政治家――が利益にあやかろうと群がった。このステーネルとの取引で不都合な点は、ステーネルとストロビクの実質的な上司であるバトラー、モレンハウワー、シンプソンの誰もこの件を知らないことだった。ステーネルと彼の背後の黒幕は彼を使って自分たちのために行動していた。上の実力者がこれを聞きつけたら、彼らは遠ざけられるかもしれない。これについては考えなければならなかった。しかし、もし彼がステーネルや地元の問題で影響力を持つ他の人との有利な取引を断れば、他の銀行家やブローカーが喜んで応じるだろうから、自分が損をすることになる。それに、バトラー、モレンハウワー、シンプソンがこの先聞きつけるとは限らなかった。


これに関連して、彼も時々乗る十七番街=十九番街鉄道というもう一つの路線があった。もし資金を調達できるなら、こっちの方がはるかに考え甲斐があると感じた。ここは最初、資本金五十万ドルだったが、改善用に一連の社債二十五万ドルが追加され、その利息の支払いに会社はとても苦労していた。株式の大部分は小口投資家に分散していて、彼がそれを集めて社長か代表取締役になるには、全部で二十五万ドル必要だった。しかし、いったん就任してしまえば、この株式で好きなように議決する一方で、株を父親の銀行に担保に入れ、得られるだけの金を手に入れ、さらに株を発行し、それを使って議員に賄賂をおくり、路線延長の問題や、買収による追加、業務提携による補完など他のチャンスをつかむことができる。「賄賂」という言葉が、ここではこうして事務的にアメリカ流に使われるが、州議会が関係すると賄賂はみんなが考えるからである。テレンス・レイリハン――服装も態度も一流の小柄で顔の黒いアイルランド人――ハリスバーグの金融関係者の代表――は五百万ドルの公債が印刷された後クーパーウッドのところにきて言った。お金かそれと同等の換金可能な有価証券がなければ、州都では何もできない。どの有力議員でも、議決票か影響力を行使するとなれば、見返りは欠かせない。もしあなた、クーパーウッドに何か手がけたい計画があるなら、いつでも相談に乗る、とレイリハンは言ってくれた。クーパーウッドはこの十七番街=十九番街鉄道計画を何度も考えたが、進んで取り組みたいと確信に至ったことはなかった。他の方面での義務がとても大きかったからである。しかし誘惑するものがあったから、クーパーウッドは思案を重ねた。


彼に金を貸し、北ペンシルベニア鉄道の取引を操作するステーネルの計画は、この十七番街=十九番街鉄道の夢を一段と有望視させた。クーパーウッドは市の財政のために絶えず市債証書の流れを監視していた。マーケットが下落しているときにはそれを守るために大量に買い、上昇しているときは慎重になりながら大量に売却した。これを行うにはこれを可能にする巨額の自由な資金を持たねばならなかった。彼は、自分のすべての有価証券の評価額に影響して、融資の返済を招く結果になる、何らかのマーケットの崩壊を常に恐れていた。嵐は見当たらなかった。合理的には何かが起こるとは思えなかったが、過度な背伸びはしたくなかった。今のところ、この市の公金十五万ドルを使って、この十七番街=十九番街鉄道の問題に取り組んだとしても、背伸びをし過ぎることにはなりそうもなかった。だとすれば、この新しい計画に使う分を、他の事業関連の融資としてステーネルからもっと引き出せないだろうか? しかし、もし何かが起こったら――


「フランク」その日の仕事が一段落した午後四時を回って事務所に入るとき、ステーネルは言った。クーパーウッドとステーネルの関係は「フランク」と「ジョージ」と呼び合う時代に入って随分たっていた。「こっちが望めば受け入れ可能なくらいあの北ペンシルベニアの件は準備ができたとストロビクは思っている。筆頭株主はコルトンという名前の男だと判明した――アイク・コルトンではなくフェルディナンドですって。どうです、名前は?」ステーネルはしたり顔で和やかに微笑んだ。


幸運と無関心のせいで市財務官になってから、彼の状況はかなり変わっていた。就任後は服装がぐんと良くなって、態度がかなり好感と自信と落ち着きを見せたから、以前の彼を知る者が見たら彼だとはわからなかっただろう。昔の神経質な目の泳ぎはほぼなくなり、以前は落ち着きがなかったのに必要に迫られて生まれたのか、ゆとりがそれに取って代わった。大きな足は、良質のつま先が四角いソフトレザーの靴に収まり、がっしりした胸と太い脚は、茶色がかった灰色の生地の仕立てのいいスーツのおかげで多少見映えがよく、首にはこのとき低い白のウィングカラーと茶色のシルクのネクタイが巻かれていた。絶えず大きくなっているお腹のあたりで少し下に広がる豊かな胸には、重そうな金の鎖が飾られ、白い袖口には特大のルビーがあしらわれた大きな金のカフスボタンがあった。血色がよく、明らかに栄養が行き渡っていた。実際、彼はとても順調にいっていた。


南九番街の粗末な二階建ての木造家屋から、スプリングガーデン・ストリートにある三階建てで広さが三倍もある、とても快適なレンガ造りの家に引っ越していた。妻には知り合いが数名できた――他の政治家の妻たちだ。子供たちは、昔なら到底望むべくもなかったハイスクールに通っていた。やがて高騰するかもしれない安い不動産を今、市内各地で十四、五か所持っていた。また、南フィラデルフィア鋳造会社とアメリカン・ビーフ&ポーク社の経営に口出ししない共同経営者でもあった。この二つの書類上の会社の主な業務は、市から受注した契約を、与えられた命令を忠実にこなして多くを語らず質問もしない、謙虚な肉屋と鋳物屋に下請けさせることだった。


「ふーん、変わった名前だな」クーパーウッドは無表情で言った。「じゃあ、そいつが持ち主ですか? あの鉄道が計画されたとき、私は採算がとれると思わなかった。短すぎる。もう三マイル伸ばしてケンジントン地区に乗り入れないとね」


「まったくだ」ステーネルはぼんやり言った。


「ストロビクは、コルトンが株をいくらで売りたがってると言いましたか?」


「六十八ドルだと思う」


「今の市場レートか。欲張りじゃないんだな? ジョージ、そのレートでいくと」――クーパーウッドはコルトンが持っている株の口数をもとに素早く計算した――「彼ひとりを降ろすのに十二万ドルかかる。それだけではすまない。ジャッジ・キッチン、ジョセフ・ジマーマン、ドノバン上院議員だっている」――州の上院議員の名前をあげた。「これを手に入れても、かなりの金額を払い続けることになる。線路の延長にはさらに費用がかかるのだから。かかり過ぎだと思うな」


クーパーウッドは、自分が夢見る十七番街=十九番街鉄道とこの鉄道を合併させたらどんなに楽だろうと考え、しばらくしてからこれを踏まえて付け加えた。


「ねえ、ジョージ、どうしてストロビクとハーモンとウィクロフトを通して自分の計画を実行するんですか? 三、四人じゃなく、私とあなただけでこういうことを何とかできませんか? 計画はその方がはるかに儲かると思うんですが」


「そうだよ、そうなるよ!」ステーネルは叫んだ。丸い目がかなり頼りなく訴えかけるようにクーパーウッドを見すえた。彼はクーパーウッドのことが好きで、財務面と同じように精神的にも近づけたらなあといつも願っていた。「そのことは私だって考えたさ。だけど、彼らは私なんかよりもこういう問題にかけてははるかに経験豊富なんだ、フランク。長年この手の仕事をしてきたからね。私は彼らほどはこういうことに詳しくないんだ」


クーパーウッドは顔では同調したが腹の中で笑った。


「そんな心配はいりませんよ、ジョージ」クーパーウッドは穏やかに打ち明けるように続けた。「あなたと私が一緒なら、彼ら以上のことを知ってるしやれるんです。いいですか、あなたが今やってる鉄道の件がそうです、ジョージ。あなたと私なら、ウィクロフト、ストロビク、ハーモンと一緒にやるのと同じくらい、それ以上に、うまく扱えます。彼らは問題の解決に知恵を出すわけでなし、お金を出しているわけでもない。出しているのはあなたですからね。彼らがやってるのは、議会や評議会で審議することに同意するだけで、議会に関する限り、他の誰かより――たとえば私以上に何かができるわけでもない。これはレイリハンと準備すればいい、とにかく、この仕事をする人に一定のお金を提供するだけのことです。この町にはストロビクと同じように評議会に働きかけることができる人間は他にもいますから」クーパーウッドは(自分の鉄道会社を支配下に置いたら)バトラーと交渉して、影響力を行使してもらおうと考えていた。これでストロビクたちはおとなしくなるだろう。「私はあなたに北ペンシルベニア線の買収計画を変更しろと頼んでるんじゃありませんよ。それじゃうまくやれません。でも、他にもいろんなものがあるんです。将来、あなたと私とで何かひと仕事、一緒にやれないか考えてみてはどうですか? あなたの立場はぐんとよくなりますよ、私もね。私たちはこれまでこの市債の仕事でうまくやってきたじゃないですか?」


確かに、彼らは極めて順調にやりとげた。もっと上の権力者がやったことを除けば、ステーネルの新居、土地、銀行口座、いい服、生活の変化と快適感は主にクーパーウッドが市債の市場をうまく操作したおかげだった。一回二十万ドルの発行がすでに四回あった。クーパーウッドは、ある時は〝買い方〟、ある時は〝売り方〟として行動し、この証書を約三百万ドル分売買していた。ステーネルは今や十五万ドルの資産家だった。


「この街には、もし適切に運営されれば、立派な利益を生む資産になりそうな、私の知る路線があります」クーパーウッドは思いを巡らせるように続けた。「ただ、この北ペンシルベニア鉄道と同じで、長さが足りません。営業している地域があまり広くないんです。延長されるべきですが、もしあなたと私がそれを入手できれば、最終的にこの北ペンシルベニア鉄道か他の会社と一緒に一つの会社として運営できるかもしれません。そうすれば役員、事務所、たくさんのものが節約できます。購買力が高まれば必ず儲けは出ます」


クーパーウッドは話をやめて、立派なこじんまりした硬材の事務所の窓から外を眺め、将来に考えを巡らせた。窓からは、かつては住宅だった別のオフィスビルの裏庭以外のものは何も見えなかった。そこには草がかろうじて生えていた。隣の敷地からここを隔てる赤い壁と古風なレンガ塀は、何だかニューマーケット・ストリートの古い家を思わせた。セネカ叔父さんが、ポルトガルの黒人の使用人を従えてキューバの貿易商としてよく来たところだ。こうしてここに座って裏庭を眺めていると、その姿が目に浮かんだ。


「なら」ステーネルは餌に食いつき野心を燃やしながら尋ねた。「それを手に入れたらどうだろう――あなたと私とで? お金の問題は私が解決できるとして、いくらくらいかかるんでしょう?」


クーパーウッドは再び腹の中で微笑んだ。


「正確なところはわかりません」しばらくしてから言った。「もっと慎重に調べたいですね。一つ問題なのは、このとおり、私が市の金を大量に抱えてることです。ほら、あなたの市債取引でできた二十万ドルがあるでしょ。それに、この新しい計画にはさらに二、三十万ドルかかる。もしそれがふっとんだら――」


クーパーウッドはあの説明のつかない株の暴落――国民の気質は大きく関係するのに、国の基本的状況はほとんど関係ないあの変なアメリカの落ち込み――を考えていた。「この北ペンシルベニア線買収が済んで一緒にしてしまえば――」


クーパーウッドは顎をなでて、立派で滑らかな口髭を引っ張った。


「これについてはこれ以上聞かないでください、ジョージ」ステーネルがどの路線かを考え始めたのを見てクーパーウッドは最後に言った。「くれぐれも他言無用ですよ。事実を正確に把握したいんです。それから話しますよ。もう少しして、北ペンシルベニアの計画が動き出したら、あなたと私とでこれをやれると思います。今は立て込んでいるので、直ちに着手していいものか自分でも確信がありませんが、あなたは静観しててください。そのうちわかります」彼は机の方を向き、ステーネルは立ち上がった。


「フランク、行動する準備ができたとあなたが思った瞬間に、私はお望みの金額を預けます」ステーネルは叫んだ。この先本当に儲かる話があったら、クーパーウッドはいつでも自分(ステーネル)を頼れるのだから、これをやるにあたって彼はそれほど心配していない、くらいの考えでいた。有能ですばらしいクーパーウッドが、二人を金持ちにしてくれるのだからいいじゃないか? 「スターズに言えば彼が小切手を送ります。ストロビクは、すぐにでも行動を起こすべきだと考えてましたよ」


「そのつもりですよ、ジョージ」クーパーウッドは自信たっぷりに答えた。「きっとうまくいきます。私に任せてください」


ステーネルは太い足を蹴ってズボンを伸ばし、手を差し出した。この新しい計画を考えながら、通りをぶらついた。確かに、クーパーウッドは絶好調で、とても用心深かったから、クーパーウッドと一緒にうまくやれたら、自分は金持ちになるだろう。新しい家と、この美しい銀行と、高まりつつある名声と、バトラーたちとの微妙な関係はステーネルに、彼に対するかなりの畏怖の念を抱かせた。しかも、もう一路線! 二人でそこと北ペンシルベニア鉄道を支配するのだ! このままいけば大物になるかもしれない――本当になるかもしれない――この自分が、ジョージ・W・ステーネルが、かつては取るに足らない不動産と保険の代理人だった者が。ステーネルは考えながら通りをぶらついた。しかし市民の義務の重要性だとか、自分が犯している社会的な倫理の本質については、まるでそれらが存在したことがなったかのように、何も考えていなかった。



 

 

第二十二章

 


その後の一年半の間にクーパーウッドが、ステーネル、ストロビク、バトラー、ヴァン・ノストランド州財務官、ハリスバーグのいわゆる〝利権屋〟の代表レイリハン州上院議員、この紳士たちと親しいさまざまな銀行のために行った業務は、膨大で機密性を要するものだった。彼はステーネル、ストロビク、ウィクロフト、ハーモン、そして自分のために、北ペンシルベニア鉄道株を買い付け、これにより支配権株式の五分の一を持つ株主になった。クーパーウッドとステーネルは共同で十七番街=十九番街鉄道を買収し、それに伴う株のギャンブルにのめり込んだ。


じきに三十四歳になる一八七一年の夏までに、クーパーウッドは推定およそ二百万ドルの銀行業務と総額およそ五十万ドルの個人資産を持っていて、他の諸条件が同じなら、どのアメリカ人にも匹敵しうる富を手にする見込みだった。市は市財務官――依然としてステーネル氏――を通してクーパーウッドに約五十万ドル預けていた。州はヴァン・ノストランド州財務官を通して二十万ドルを帳簿に計上しつづけた。ボーデは路面鉄道株で五万ドル規模の投機を行っていた。レイリハンも同額だった。ちょっとした人数の政治家と政治家の取り巻きが、いろいろな金額で彼の帳簿に名を連ねていた。そして、エドワード・マリア・バトラーのために、時には証拠金で十万ドルを抱えることもあった。銀行からの彼の借入金は、担保に入れられたいろいろな有価証券が日々変動するので、七十万ドルにも八十万ドルにもなった。キラキラ光る蜘蛛の巣にいる蜘蛛が、巣のどの糸のこともわかっていて、張り巡らせ、テストを済ませてあるように、クーパーウッドは、豪華絢爛な人脈のネットワークを周囲に巡らせて、自分を巻き込み、細かいことのすべてを観察していたのだ。


彼の持論であり、彼が他の何よりも心血を注いで臨んだのは、路面鉄道株の操作で、特に十七番街=十九番街鉄道を実際に支配することだった。彼はステーネルによって銀行に預けられた自分への前渡し金を使って、十七番街=十九番街鉄道の株価が低迷したときに、自分とステーネルのために株式の五十一パーセントを何とか取得したので、そのおかげでこの会社を好きなように利用することができた。しかし、これをやり遂げるにあたって彼は後の金融界で言われることになる、とても〝独特な〟手段に訴え、自分の評価額でこの株式を手に入れた。代理人を通じてこの会社に対し、支払い利息の不払いを理由に損害賠償請求訴訟を起したのである。金で雇った人に株を少し握らせて、管財人の適性を判定するために会社の帳簿を調査するよう記録裁判所に申請させ、同時に株式市場を攻撃して三、五、七、十ポイント安で売り込み、怯えた株主の持ち株を市場に放出させた。どの銀行もこの鉄道会社はリスクが高いと判断し、関連する融資の返済を求めた。父親の銀行はここの大株主の一人に融資をしていたので、当然、これも直ちに返済が求められた。それから、代理人を通して、複数の大株主に話が持ちかけられ、救済の手が差し伸べられた。株は四十ドルで引き取られた。彼らは自分たちの苦境の原因を突き止められず、この鉄道は条件が悪いんだと想像したが、そうではなかった。手放したほうがいいな。お金はすぐに用意されるんだし。そして、クーパーウッドとステーネルは共同で五十一パーセントを支配した。しかし北ペンシルベニア鉄道のときと同ように、クーパーウッドは小さな少数株主の持ち株すべてをひそかに買い集め、自分は実際に五十一パーセント、ステーネルは二十五パーセント以上になった。


これは彼を興奮させた。すぐに、長年温めてきた夢を実現させるチャンスだと思った――この会社を北ペンシルベニア鉄道と合併させて再編成し、それまで一株だったところへ三株発行し、支配権分以外の全部を一般向けに売りさばき、確保した資金で別の鉄道会社の株を買う、そして、これがにわかに活気づくと、同じように売られる。要するに彼は初期の大胆な相場師の一人だった。彼らはのちに自分の勢力拡大のために、アメリカの自然な発展の、これまでとは違うもっと大きな局面をつかみとることになる。


この最初の合併に関連して彼は、二つの鉄道の合併が近いという噂を広め、路線延長の認可を議会に訴え、人の注意を引く目論見書、その後で年次報告書を作成し、増えつづける自分の資金の許す限り証券取引所で株価を高騰させるつもりだった。問題は、ひと相場作って――その間に自分の分の五十万ドルを維持したまま――彼ほどの大量発行分(五十万ドル以上)を売り抜けるには、相場が操縦できるくらいの莫大な資金が必要なことだった。こういう場合、社主は市場に出て大量の架空の買い付けを行い、そうやって架空の需要を作り出すことを余儀なくされるだけではなく、いったんこの架空の需要が大衆を欺いて、大量の株式を売りさばくことができても、自分の持ち株をすべて処分しない限りは、これを支えざるを得ない。例えば、今回のように五千株売却して、五千株保有する場合、発行済みの五千株の公開価格が一定水準以下にならないように注意しなければならない。そうしないと自分の持ち株の価値までそれにつられて下がってしまうからだ。また、ほとんどの場合そうだが、自己保有株式が他の事業の資金繰りとして銀行や信託会社の担保に入っていた場合、公開市場での価値が下がれば、銀行は自分の融資を守るために多額の保証金か、融資の完全返済を要求する。これは彼の仕事の破綻を意味し、彼はたちどころに破産するかもしれない。彼はすでにこの市債の取引でこういう難しい操作を行っていて、債券の価格は日々変動した。彼は主に値動きで利益を出していたので変動は願ってもないものだった。


しかし、この二つ目の負担は十分に興味深かったが、二倍用心深くならねばならないことを意味した。株が高値で売れれば、市財務官から借りた金は返済できるだろうが、先見の明に端を発し、将来性を資本に組み入れ、抜け目のない目論見書と報告書を作成して生まれたこの彼自身の持ち株は、額面価値かそれ以下になってしまう。他の鉄道会社に投資する資金を手に入れたいのだ。全体の財務を管理してしまえばいいのかもしれない。そうなった場合、彼の資産は何百万ドルにもなる。この男の先見性と巧妙さがわかる、実行した抜け目ないことは、自分の鉄道に対して行う延長や追加分用の別の組織や会社を作ったことだった。つまり、ある通りに二、三マイルの線路があって、同じ通りでさらに二、三マイル延長したい場合、この延長した部分を既存の会社に含めるのではなく、別の会社を作って追加した二、三マイルの通行権を管理するのである。そしてこの会社の資本金をいくらと設定し、建設と設備費用をまかなう株式と債券を発行して操作する。これが済んだら、その子会社を親会社に取り込み、それを行うために親会社の株式と社債をさらに発行し、やはり、これらの社債を一般向けに売却する。彼の下で働く弟たちでさえ、多くの取引から派生する様々な影響をわかってはおらず、黙って命令を実行した。時々、ジョセフは困惑してエドワードに言った。「まあ、フランクのことだから自分のことはわかってると思うよ」


その一方で、規則性を誇示したかったので、進行中の義務がすべてすみやかに果たされ、事前に対処さえされていることを見届けるために、細心の注意を払った。評判と地位ほど貴重なものはない。彼の先見性、用心深さ、迅速さは、銀行家たちに好評で、これまで会った中で最も健全で、最も抜け目のない人物の一人であると見なされた。


しかし一八七一年の春から夏にかけてクーパーウッドは、どんな原因のどんな想定できる危険にもさらされていなかったし、実際には思いっきり背伸びをしていた。大成功に味を占め、以前よりも伸び伸びと――気軽に――金融の冒険に乗り出していた。自分に自信があったことが大きな理由だが、徐々に父親まで路面鉄道投機に参加させ、第三ナショナル銀行の資金を借入金の一部に充て、緊急の活動資金が必要になったときに投資金を提供してもらえるようにした。最初、父親は少し神経質で懐疑的だったが、時間が経っても利益以外は何も生まなかったので、大胆になり自信を深めた。


「フランク」父親はメガネ越しに見ながら言った。「少し事を急ぎ過ぎてやしないか? 最近、借入金が随分たまってるだろう」


「ぼくの資産を考えれば、これまでにやったことと変わりませんよ、お父さん。大金を借りないと大きな取引はできません。お父さんだって、ぼく同様にご存知でしょう」


「無論、承知してる、しかし――あのグリーン=コーツ鉄道だが――あそこにかなり肩入れしてるんじゃないか?」


「そんなことはありません。あそこの内情はわかってます。最終的に株価は上がるはずです。強気でいきますよ。もし必要なら、ぼくの他の鉄道会社にくっつけますから」


クーパーウッドは我が子を見つめた。これほど大胆不敵な相場師はこれまでいなかった。


「ぼくのことなら心配いりませんよ、お父さん。何でしたら、ぼくへの融資を引き上げてください。ぼくの株なら他の銀行でも融資してくれますから。ぼくはお父さんの銀行が儲かるところを見たいんです」


これで、ヘンリー・クーパーウッドは納得した。こう言われると言い返せなかった。彼の銀行はフランクに多額の融資をしていたが、他行より多いわけではなかった。そして、彼が抱えている息子の会社の大量の株式については、避けられないことが判明したら、いつ手放すべきかを教えてもらえるはずだった。フランクの弟たちも副業でお金を稼ぐために同じように援助されていた。彼らの利益も今やフランクの利益と結びついて切っても切れない関係だった。


しかし、経済面の機会が増えていくにつれてクーパーウッドは、生活水準と呼んでいいかもしれないものにも、金を惜しまなくなっていた。フィラデルフィアの若い美術商たちは、彼が美術品好きで羽振りが良いことを聞きつけると、家具、タペストリー、敷物、美術品、絵画を――最初はアメリカ、やがて外国の巨匠の作品ばかりを――提案しながら追い回すようになった。彼の家も父親の家もこういう面が充実していなかった。そこで北十番街にも別の家があるから、こっちを美しくしたいと考えた。アイリーンはいつも自宅の現状に不満を抱いていた。自分の憧れを説明する才能はなかったが、格調高い環境への愛着はアイリーンの基本的な憧れだった。二人が密会しているこの場所は美しくあらねばならない。クーパーウッドと同じようにアイリーンもこれを強く望んだ。だから、そこは紛れもない宝の山になり、クーパーウッド邸の部屋のいくつかよりも調度品の質が高かった。彼はここで、中世の祭壇の敷布や敷物やタペストリーなど珍しいものを集め始めた。家具はジョージ王朝風もの――イタリア・ルネッサンスとフランスのルイ王朝色が加味されたチペンデール、シェラトン、ヘッペルホワイトの組み合せ――を買った。磁器、彫像、ギリシャの花瓶、日本の象牙や根付の美しいコレクションなどの好例を学んだ。地元の美術品輸入業者ケーブル&グレイ社の経営者フレッチャー・グレイが、十四世紀に織られたタペストリーの件で彼を訪ねた。グレイは熱烈な愛好家で、会うが早いか、美術品に対する自分の抑えられてはいるが燃えるような愛情の一端をクーパーウッドに伝えた。


「青磁の陰影ひとつとっても時代は五十あるんです、クーパーウッドさん」グレイは解説した。「敷物には少なくとも七つの流派というか時代があります――ペルシャ、アルメニア、アラビア、フランドル、近代ポーランド、ハンガリーなどです。もしこれを始めて、特定の一時代か全時代の完璧な――つまり代表作の――コレクションを完成させたらすばらしいものになりますよ。美しいですからね。私は実物をいくつかこの目で見たことがあります、他は本で読んだ知識ですが」


「あなたは私を改宗させる気ですね、フレッチャー」クーパーウッドは答えた。「あなたや芸術を相手にしてたら私は破滅してしまいますよ。このとおり、私はそういう気質だと思います。あなたやエルスワースやゴードン・ストライク」――絵画に強い関心を持つ別の若者――「の中にいたら私は完全に破滅してしまう。ストライクはすばらしい考えを持ってますね。私に〝正しく〟始めろって言うんです――〝正しく〟っていうのは〝適切に〟っていう意味で使ってますが」と解説し――「どれひとつとっても適切に説明がつく、芸術のそれぞれの流派や時代の希少な珍しいものの代表作を、できる限り集めさせたがるんです。名画というのは価値が上がっていくものであり、今、数十万で手に入るものが、やがて数百万になるって言うんです。彼などは私をアメリカの美術品にかかわらせたがりません」


「そのとおりですよ」グレイは叫んだ。「他の美術商を褒めても私の仕事の足しにはなりませんが。でも、それにはかなり金がかかります」


「そう大したことにはなりませんよ。少なくとも一度に全部やるわけじゃありません。当然、数年がかりでしょうね。ストレイクの考えでは、異なる時代の優れた作品を今いくつか手に入れて、同じ分野のもっといい作品が現れたら後で取り換えればいいそうです」


外見は穏やかでも、彼の心は大きな探究心を帯びていた。最初は富が唯一の目的のように思えていたが、そこに女性の美しさが加えられた。今ようやく、芸術のための芸術――バラ色の夜明けの最初のかすかな輝き――が彼を照らし始めた。そして、女性の美しさに、生活の美しさ――物質的な背景の美しさ――を加えることがいかに必要か――実際問題として偉大な美しさの背景には偉大な芸術しかないことを、彼はわかり始めていた。この少女、アイリーン・バトラー、彼女の未熟な若さと輝きは、これまで彼の中にこれと同じ規模で存在したことがなかった、ひと際目立つものに対する感覚とその必要性を芽生えさせていた。気質に対する気質の反応という微妙なものは明確にできない。自分を惹きつけるものに、自分がどの程度影響されるかなど誰にもわからないからだ。こういう恋愛が、透明な水に加えられた一滴の色素、あるいは微妙な化学処理に入れられた異質の化学薬品、以下でないかせいぜいその程度なのはとっくにわかっていた。


つまり、アイリーン・バトラーは粗野であったにもかかわらず、自ずと確かな力を持っていた。彼女の性質、ある意味で自分を取り巻く見た目の悪い環境への反発は、不合理なまでに野心的と言ってもいいほどだった。思えば、バトラー家で生を受けてこの方、彼女はこういう平凡で非芸術的な幻想と環境の犠牲者であり、その主体だった。しかし、クーパーウッドに出会って精神的に従属したため、以前ならまったく考えもしなかった、資産家的でありながら上流社会的でもある洗練された数多くのすばらしい局面を今は学んでいた。例えば、フランク・クーパーウッドのような男性の妻として将来社交界で活躍できたらどんなにすばらしいだろう。親密な関係を持って何時間もしてから彼が明らかにした、彼の考え方のすばらしさと知略は、説明や教え方がとても明確だったので、彼女でも理解しそこなうことはなかった。彼の金融、芸術、将来的に社交界を見すえた夢はすばらしい。そして、ああ、まさに、あたしは彼のもので、彼はあたしのものよ。アイリーンはこのすべての栄光と歓喜に時々我を忘れるほどだった。


同時に、(下品な事情通からは〝残飯集め〟と心無い言われ方をされた)元生ゴミ回収請負業者としての父親の地元での評判と、自宅の物質的俗悪と芸術的無秩序の状態を是正しようという無駄な努力と、確立された尊敬と社会的栄達の最終聖域として遥か彼方に彼女が認識していたあの立派な門をこの先くぐることを許されない絶望は、こんなに若いうちから彼女の中に、現状の家庭環境に対する凄まじい反感を育てていた。クーパーウッド邸に比べてこの家ときたら! 大切なのに無学な父親! そして、この偉大な男性、あたしの恋人が今、わざわざあたしを愛し――あたしの中に未来の妻を見てくれた。ああ、神さま、これが失われませんように! 最初アイリーンはクーパーウッド家を通じて、数名の人たち、若い男女――特に男性――自分よりも高い地位にいて――自分の美貌と将来の富がこの身を託すことになる相手――に出会うことを期待していたが、あてが外れた。フランク・クーパーウッドは芸術愛好家で裕福になりつづけていたが、クーパーウッド家自体はまだ中枢メンバーではなかった。彼らが受けている微妙な予備的な配慮を除けば、彼らも遠いところにいたのだ。


それでも、本能的にアイリーンはクーパーウッドの中に突破口――扉――を見出した。そしてそれと同じように、うっすらとした、迫りつつある壮大にして芸術性に富んだ未来を。この男性は、彼が今夢見ている以上の高みにのぼるだろう――アイリーンはそう感じた。この男性の中には、漠然とした認識できない形で、偉大な芸術が実在している。これはあたしが自力で計画できるどんなものよりもすばらしい。豪華なもの、壮麗なもの、社会的地位が欲しい。もしあたしがこの男性を手に入れたら、これらはあたしのものになる。行く手には、どうやら、越えられない壁があったが、アイリーンもクーパーウッドも弱い性格ではなかった。二人は最初から二頭の豹のように意気投合した。アイリーンの考えは、雑で、よくまとまっておらず、半分しか語られなかったが、それでもその力強さとあからさまな率直さは同じで、ある程度彼の考えに一致した。


「うちの父は、どうしたらいいのかわからないんだと思うわ」ある日アイリーンはクーパーウッドに言った。「別に父の落ち度じゃないけど、父にはそれができないのよ。自分にはできないとわかってて、あたしがそれを知ってることもわかってるの。あたしは何年もの間、父にはあの古い家から出て行ってほしかったわ。父だって自分がそうすべきなのはわかってるのよ。でも、それでさえ、大した効果はないんだわ」


アイリーンは話をやめ、まっすぐに、はっきりと、力強く彼を見すえた。クーパーウッドは彼女の顔立ちのメダルのようなメリハリ――滑らかなギリシャ風の造形――が好きだった。


「気にしなくていい」クーパーウッドは答えた。「すべては後で調整しよう。今はこの出口が見えないけど、いつかリリアンに打ち明けるのが一番いいと思う。そして他に計画が立てられないか確かめるんだ。私としては子供たちが困らないようにきちんとしたい。私なら十分に養えるからね。リリアンが進んで私と別れたがっても全然驚かないよ。きっと世間には知られたくないだろうからね」


クーパーウッドはリリアンの子供への愛情を、実際的な立場から、男性の感覚で考えていた。


アイリーンは、はっきり見通し、訝しがっている、確信を抱けない目で彼を見た。必ずしも同情しないわけではなかったが、ある意味でこの状況は、大きな同情が必要なものとしてアイリーンには映らなかった。クーパーウッド夫人のアイリーンに対する態度は友好的ではなかった。これは二人の考え方が違うという以外に何の根拠もなかった。クーパーウッド夫人には、どうすれば女の子があんなに顔をあげて堂々として〝気取った〟態度でいられるのか理解できなかったし、アイリーンには、どうすればリリアン・クーパーウッドのようにだらだらと無気力でいられるのか理解できなかった。人生は、乗馬、馬車、ダンス、出かけるためにある。気取ったり、冗談を言ったり、からかったり、色目をつかうためにあるのだ。クーパーウッドのような若くて力強い男性の妻であるこの女が、五歳年上で二児の母だからといって、ロマンチックで興奮さめやらぬ楽しい人生がすべて終わったかのように振る舞うのを見るのは、アイリーンには到底耐えられなかった。やはり、リリアンはフランクにふさわしくない。やはり、フランクはあたしのような若い女性を必要としている。運命はきっと彼をあたしに授けてくれる。そのとき二人はどんなすてきな生活を送るのかしら! 


「ねえ、フランク」アイリーンは繰り返し彼に叫んだ。「そうなったらいいわね。あたしたちにできると思う?」


「思うか、だって? できるに決まってるさ。こんなのはただの時間の問題にすぎない。私がこの問題をはっきり妻に伝えれば、妻は私が家庭に留まるとは思わないさ。きみこそ自分の身の振り方を、よく考えることだ。もしきみのお父さんかお兄さんが私を疑ったら、最悪、 この町で一波乱あるだろうからね。私を殺さなかったら、私の金融取引のすべてで闘いを挑んでくるさ。きみは自分がやっていることを慎重に考えているかい?」


「いつも考えてるわよ。何があっても全部否定するわ。あたしが否定すれば、向こうは証明できないんだから。時間はかかっても、どうせ私はあなたのもとへたどり着くのよ」


この時、二人は十番街の家にいた。恋焦がれる女の愛情のこもった指でアイリーンは彼の頬をなでた。


「あなたのためならあたし何でもする」アイリーンは宣言した。「必要なら、あなたのために死んでもいい。あたしはそのくらいあなたを愛してるの」


「でもね、危険なんかありゃしないよ。きみがそんなことをする必要はないだろうね。だけど用心はするんだよ」



 

 

第二十三章



そして、共感と理解の絆が弱まるどころか一層強くなっていったこの秘密の関係が始まって数年後に、嵐が襲来した。予期せぬ勃発、青天の霹靂であり、個人の意図や意志はまったく関係がなかった。これは火事以外の何物でもなかった。遠くの火事――一八七一年十月七日のシカゴ大火。これはその都市――その広大な商業地区を焼け野原にして、瞬く間に、ことのついでに、アメリカの他の各都市に短期間だったが、たちの悪い金融恐慌を引き起こした。土曜日に始まった火事は、翌週の水曜日まで衰える気配もなく燃え続け、銀行、商業施設、港湾設備、広大な範囲に及ぶ土地建物を破壊した。最大の損失を被ったのは、やはり保険会社で、たちまち、多くの会社が――大半が――店を閉めた。これが損失を投げ返し、シカゴの商人だけでなく、シカゴと取引があった他の都市の製造業者や卸売業者まであおりを受けた。また、シカゴがすでにこの大陸のすべての都市と張り合うほどになっていた商業用や住宅用の豪華な建物を、過去何年も所有もしくは多額の抵当権を設定していた、東部の資本家の多くもかなり悲惨な損失を被った。交通機関は混乱をきたし、ウォール街、フィラデルフィアの三番街、ボストンのステート・ストリートの鋭い嗅覚は、初期の報道ですぐに事態の深刻さを察知した。取引所が閉まった後の土曜日と日曜日は何もできなかった。第一報が遅すぎたのだ。しかし、月曜日に続報がどんどん入ってきた。鉄道株、国債、路面鉄道株、その他のあらゆる種類の株式と債券を持つ者は、現金を調達するためにそれらを市場に放出し始めた。銀行は当然、融資の返済を要求した。その結果、二年前のウォール街のブラックフライデーに匹敵する株の暴落が発生した。


火事が発生したとき、クーパーウッド親子は町を出ていた。数名の友人――銀行家――と一緒に、融資対象の地元の蒸気鉄道の延長案のルートを下見に行っていた。馬車でルートの大部分を走り、日曜日の夕方遅くフィラデルフィアに戻る途中で、「号外」を売り歩く新聞配達の叫び声が耳に届いた。


「おーい! 号外だ! 号外だ! シカゴ大火の全貌だよ!」


「おーい! 号外だ! 号外だ! シカゴが焼け落ちた! 号外だ! 号外だよ!」


叫び声は長々と引き伸ばされ、不吉で、悲愴感があった。街が安息日の瞑想か祈りで静まり返ってしまったような、わびしい日曜日の午後の夕闇の中にいると、木の葉や空気に漂う年の瀬のようなあの気配と一緒に、人は何かぞっとする陰鬱なものを感じた。


「おい、君」クーパーウッドはこれを聞くと、新聞の束を小脇に抱えて角を曲がろうとする少年のみすぼらしい服が合ってないのを目にとめながら、声をかけた。「何だって? シカゴが燃えているって!」


新聞に手を伸ばし、重々しい態度で父親と他のメンバーを見て、それから見出しをちらっと見て事態が最悪なのを悟った。


     シカゴ全焼 


昨夜、商業地区で発生した火災、鎮火の目処立たず。銀行、商業施設、公共設備、廃墟と化す。直通電信、本日三時より不通。災害の終息、見通せず。 



「かなり深刻なようだ」クーパーウッドは自分の連れに冷静に言った。冷たい圧倒的な力が彼の目と声に入り込んだ。その少し後で、父親に言った。「銀行と証券会社が一致団結しない限りパニックになりますね」


自分の突出した債務について、迅速に、鮮やかに、ありったけの知恵を絞って、考えていた。父親の銀行は、十万ドル分の路面鉄道株を評価額の六十パーセント、五万ドル分の市債を七十パーセント、で預かっている。父親は、これらの株式の市場操作をまかなっている現金を四万ドル以上出資してくれた。ドレクセル銀行は十万ドルの債権者として帳簿に載っている。よほど慈悲深くない限り、この融資は返済を求められるだろう。慈悲深いなんてことはあり得ないからだ。ジェイ・クック商会もまた十五万ドルの債権者だ。彼らも返済を求めるだろう。四つの小さな銀行と三つの証券会社に、五万ドル以下の債務がある。市財務官は五十万ドル近く関わっていて、これが露見すればスキャンダルに発展する。州財務官の分は二十万ドルだ。小口の口座が数百あって、金額は百ドルから五千ドル、一万ドルの範囲だ。パニックは預金の引き出しや融資の返済だけでなく、株の大暴落を引き起こすだろう。どうすれば、自分の有価証券を現金化できるだろう?――これが問題だ。財産が吹き飛ばされ、自分が破滅するほどの大幅安で売らずに済ますには、どうすればいいだろう? 


クーパーウッドはてきぱき考えた。その一方で、我が身の窮地に愕然として慌てて立ち去る友人たちに手を振って別れを告げた。


「お父さんは帰った方がいいでしょう。ぼくは電報を打ってきます」(電話はまだ発明されていなかった。)「すぐに帰ります。この件を一緒に考えましょう。どうも雲行きが怪しくなってきたようです。話し合いが済むまでは誰にも何も言わないでくださいね。そのときに、どうすればいいかを決めましょう」


ヘンリー・クーパーウッドは混乱し困った様子で、すでに頬髯をむしっていた。息子と深く関わっていたため、息子が破産したら自分はどうなるのだろうと考え込んでいた。息子に便宜を図るために、すでに仕事でいろいろと無理をしていたので、怖くなって、今は顔色が少し悪かった。もしフランクが明日、銀行がしなければならなくなるかもしれない十五万ドルの返済請求に速やかに応じられなかったら、その責任と不名誉は自分がかぶることになるのだ。


その一方で、彼の息子は、市財務官との関係で自分が今置かれている複雑な立場と、自分一人では市場を支え切れない事実をじっくり考えていた。自分を助ける立場にいたはずの人たちまで、今や自分と同じくらいひどく困っている。状況全体が不都合なことばかりだ。ドレクセル商会は鉄道株を急騰させていた――それを担保に多額の融資をしていた。ジェイ・クック商会はノーザン・パシフィック鉄道を後押ししていた――事実上単独でその大陸横断鉄道の建設に全力を注いでいた。もちろん、この株を長期保有していたから、微妙な立場にいる。第一声で彼らは自分たちの投機的な持ち株を守るために、最も手堅い有価証券――国債など――を投げ売りするだろう。売り方はそこに目をつける。やつらは叩きまくるだろう。流れに乗って全部空売りしてくるはずだ。しかし、こっちはそれをするわけにはいかない。たちまち自滅するからだ。必要なのは時間だ。時間を――三日、一週間、十日――稼げさえすれば、この嵐は必ず吹きやむだろう。


クーパーウッドを一番悩ませていたのは、ステーネルに投資を託された五十万ドルの問題だった。秋の選挙が迫っていた。ステーネルは二期務めていたが、再選を目指していた。市の財政に関わるスキャンダルは大打撃になる。そうなれば、ステーネルの公職のキャリアは完全に終わってしまう――刑務所送りになる可能性がかなり高い。共和党勝利のチャンスをつぶしかねない。これに大きく関係していたとして、確実にこっちまで巻き込むだろう。そうなったら、対策を考えなくてはならない政治家をかかえることになる。もし切羽詰まって破産したら、政治家たちが神聖視していた市の路面鉄道の領域に、借りた市の金で私が侵入しようとしていた事実や、この借り入れの問題が市議会選挙で政治家にツケを払わせることになりそうな事実が、すべて明るみに出てしまう。政治家がこのすべてを大目に見ることはないだろう。私は金利二パーセントで借りていたとか(このほとんどには自分を守るためにそういった予防線が張ってあった)、ステーネルの代理人として行動していただけだとか、言えたとしても言うだけ無駄だろう。これは、外の世界の世間知らずには通用するかもしれないが、政治家に鵜呑みにされることはない。政治家はそういう連中と違って物知りなのだ。


しかし、この状況にはクーパーウッドを勇気づけるもう一つの側面があった。彼は、市政全般がどういうふうに機能しているかを知っていた。こういう危機では、どんな政治家がどれほど偉そうな態度で、横柄に、権柄ずくな物言いをしても無駄である。大なり小なり政治家はすべて、市の特権で何かしら利益を得ていた。彼の知るところでは、バトラー、モレンハウワー、シンプソンは、さまざまな契約で金を儲けていた――役得と見られるかもしれないが合法だった。また、土地の税や水の税といった税金の形で徴収された巨額の金からも利益を得ていた――こういう金は、市の公金の正規の預託先としてこれらの人たちに指定されたいろいろな銀行に預けられた。銀行は親切にも市の公金を金庫に保管し、利息を一切払わず、それから投資に回した――誰のためになるのだろう? クーパーウッドには文句のつけようがなかった。いい扱いをされていたからだ。しかしこういう人だちだって市の利益をすべて独占できるとは予想できなかった。彼はモレンハウワーやシンプソンを個人的には知らなかったが、彼らがバトラーと同じように、彼がやった市債の市場操作で金を儲けたことは知っていた。それに、バトラーはクーパーウッドに極めて友好的だった。この危機に際して、最悪の事態になっても、自分ならバトラーに洗いざらい打ち明ければ助けてもられる、と彼が考えたのも無理はなかった。ステーネルの助けで密かに乗り切れない場合はこれでいこう、とクーパーウッドは腹を決めた。


まずは、ただちにステーネルの家に行き、三、四十万ドルの追加融資を頼むことにした。ステーネルはいつもとても扱いやすかった。今回の場合、五十万ドルの不足を公にしないことが、いかに重要かわかるだろう。それから、できるだけ多くの金を手に入れなければならない。でも、どこで調達すればいいんだ? 銀行や信託会社の社長、大手の株式仲買業者などに面会しなければならないな。それから、バトラーから預かっている借入金が十万ドルある。この請負業者の老人なら、これをそのままにしておくように説き伏せられるかもしれない。クーパーウッドは急いで自宅に戻り、馬車を確保すると、ステーネル邸へ駆けつけた。


ところが、ほとほど困った狼狽する事態が判明した。ステーネルは町にいなかった――鴨狩りや釣りをしに友人たちと一緒にチェサピークに出かけていて、数日戻って来そうもなかった。どこかの小さな町の奥の湿地帯にいるのだ。クーパーウッドは、最寄りの局に至急電報を打ち、さらに念のために近隣の数か所の他の局にも打って、すぐ戻るように要請した。しかし、ステーネルが間に合うように戻るかは定かではなく、ひどく困惑してしまい、次の一手がどうなるかしばらく決まらなかった。どこからか、すぐにでも支援を受けなければならない。


突然、妙案が浮んだ。バトラー、モレンハウワー、シンプソンは地元の路面鉄道株を保有していた。この状況を持ちこたえて、自分たちの利益を守るためには団結しなければならない。彼らならドレクセル商会やクック商会などの大物銀行家に会って、市場を支えるように働きかけることができる。買い支えのグループを作って、事態を全体的に強化できる。もしそうなれば、彼らの下支えに隠れて、自分がこの場を切り抜けるのに十分な量を売って、さらに空売りして、ひと儲け――丸儲け――させてもらえるかもしれない。これは名案だ。もっと大きな立場が得られるかも。唯一の欠点は実現性が必ずしも確実ではないことだ。


クーパーウッドはすぐにバトラーのところへ行くことにした。唯一の気がかりは、これで自分とステーネルの企てを明かさざるを得なくなることだ。再び馬車に乗り、急いでバトラー邸へと走らせた。


到着したとき、高名な請負業者は食事中だった。バトラーは号外の叫び声を聞いてはいなかったし、当然、火事の意味もまだ理解していなかった。使用人がクーパーウッドの来訪を告げると、バトラーは玄関に行き笑顔で迎えた。


「中に入って一緒にどうです? ちょうど軽い夕食を取ってる最中なんだ。コーヒーかお茶でも飲んでください――さあ」


「いえ」クーパーウッドは答えた。「今夜はそうもしていられません。立て込んでいましてね。ほんの少しだけお時間をください。私はまた出かけなくてはなりません。そう長くはお引き止めしません」


「まあ、そういう事情なら、さっそくうかがおうか」バトラーはナプキンを置きにダイニングルームに戻った。同じように食事をしていたアイリーンは、クーパーウッドの声を聞いて、会うチャンスをうかがった。夜分こんな時間に父に会いにくるとは何事だろうと考えた。すぐにはテーブルを離れられなかったが、彼が帰る前に会いたかった。この迫り来る嵐に直面してもなお、クーパーウッドは妻や他のいろいろなことを考えながら、アイリーンのことを考えていた。もし自分の仕事がいっぺんにつぶれたら、自分に関わった人たちまで大変なことになる。惨事もこの最初の雲行きの段階では、事態がどうなるかはわからなかった。彼はこれについて必死に考えたが、パニックに陥ることはなかった。生まれつき均整のとれた顔に、品のいい古典的な皺が刻まれ、目は冷めた鋼鉄のように険しかった。


「さて」戻ってくるなりバトラーは声をあげた。彼の表情は、今あるこの世界と明らかに良好な関係であることを表していた。「今夜はどうしました? 悪い知らせでないといいが。良すぎるほどの一日だったからね」


「あまり深刻なことではないと自分では願ってますが」クーパーウッドは答えた。「とにかく、数分でいいからお話したいんです。上のお部屋に行った方がよろしくはありませんか?」


「ちょうどそう言おうとしていたところだ」バトラーは答えた。「葉巻も上だしな」


二人は応接室から階段に向かった。バトラーが先にたってのぼると、シルクのフルフルを着たアイリーンがダイニングからやってきた。彼女の立派な髪は、首の付け根から額のラインにかけて、古風で趣のある渦状にまとめられて、赤みを帯びた金色の王冠を作り出していた。顔は色つやがよく、露出した腕と肩はイブニングドレスの暗い赤に映えて白く輝いた。アイリーンは何か悪い予感がした。


「あら、クーパーウッドさん、いらっしゃい」アイリーンは、父親が二階に上がるところへ出てきて手を差し出しながら声をかけた。クーパーウッドと一言でも交わしたくて慎重に足止めした。この大胆な行動は他の人たちに向けたものだった。


「どうしたの、あなた?」父親の物音が聞こえなくなるとすぐにアイリーンはささやいた。「心配事でもありそうな顔ね」


「大したことにならないといいんだがね」クーパーウッドは言った。「シカゴが炎上中なんだ。明日は大変なことになるよ。私はきみのお父さんと話をしなきゃいけないんだ」


クーパーウッドが手を引っ込めてバトラーの後を追って二階に上がるまでに、アイリーンは同情と悲嘆を込めて「まあ」と言う時間しかなかった。アイリーンは彼の腕を握ってから、応接室を抜けて客間に行った。これほど厳しく、不安げに、考え込む表情がクーパーウッドの顔に浮かぶのを見たことがなかったから、アイリーンは座って考え込んだ。彼の顔は良質の白い蝋のように穏やかで、冷たかった。そして深みがあって漠然としていて、何を考えているのか読めない目だった! シカゴが燃えている。彼がどうなるというのだろう? よほど大きく関わっているのかしら? クーパーウッドは彼女に自分のことを詳しく話したことがなかった。アイリーンにしてもクーパーウッド夫人とさほど変わらず、完全に理解することはなかっただろう。それでも、アイリーンは心配だった。何しろ、これは彼女のフランクの問題であり、しかも彼女は、切っても切れない縁だと彼女には思えるもので、彼と結ばれているのだから。


文学は文豪を除くと、愛人について、男性の魂を食い物にして喜ぶ狡猾で計算高い魅惑の女というイメージしか読者に与えなかった。当時のジャーナリズムや道徳を唱える冊子の作成者たちは、まるで党派的な熱をあげてこれを育てているらしい。人生への検閲が神によって確立され、その執行が完全な保守派の手に委ねられてしまったようだ。しかし、意識的な打算とは縁がない、別の形の男女の関係は存在する。そのほとんどに下心や悪意はない。愛情に支配され、恋愛の深みにはまった平均的な女性は、犠牲的な思考――与えたいという欲求――を除くと、子供以上のことはできないし、この状態がつづく限り、これしかできない。女性が変わるかもしれない――女性が裏切られたときほど怖いものはない、ともいうから――しかし、犠牲的、従順、思いやりのある態度は、しばしば愛人の際立った特徴である。そして、愛人を擁護するときにたくさんの傷を負わせるのは、成立した結婚の貪欲な正当性とは対照的な紛れもないこの態度である。男性であれ女性であれ、人間の気質はこの無欲で犠牲的な特徴の前にひれ伏して、敬意を払わずにはいられない。これは人生の大きな特質と言っていい。これは、芸術におけるあの最高の言葉、偉大な絵画や偉大な建築や偉大な彫刻や偉大な装飾から真っ先に伝わる特徴である、精神の大きさ、に関連しているようだ――つまり、それ自身、美しさを、自由に惜しみなく与えている。だからこそ、アイリーンのこの特別な雰囲気には大きな意味があった。


バトラーの後に続いて二階の部屋に入ったとき、現状の組み合わせの微妙さのすべてがクーパーウッドを悩ませていた。


「さあ、かけたまえ。何か少し飲みませんか? あなたはやらんのでしたな。今、思い出した。まあ、とにかく、葉巻でもどうぞ。さて、今夜はどういったことでお困りなんでしょう?」


遠くの方、密集した住宅街の方で、声がかすかに聞こえた。


「号外だ! 号外だ! シカゴ大火のすべてが載ってるよ! シカゴが燃えてるよ!」


「あれなんですよ」声に耳を傾けながらクーパーウッドは答えた。「あのニュースが聞こえましたか?」


「いや、何を叫んどるんだ?」


「シカゴで大火災が発生したんです」


「ほお」バトラーは答えた。まだ事の重要性を理解してはいなかった。


「シカゴのビジネス街が焼け落ちているんですよ、バトラーさん」クーパーウッドは不気味な言い回しで続けた。「それで、明日はこっちの金融にも混乱が出ると思うんです。そのことでおうかがいしました。あなたの投資した分はどうなるでしょう? かなり巻き込まれますよね?」


バトラーは突然、クーパーウッドの表情から何か変だなと思った。大きな革の椅子にもたれながら、大きな手を上げて、口と顎を覆った。大きな指の関節と、分厚い軟骨質の鼻の上で、もじゃもじゃ眉毛の大きな目が光った。灰色の剛毛は硬そうに直立して、短い同じ長さで頭全体を覆っていた。


「そういうことか」バトラーは言った。「明日の騒ぎを心配してるんですね。あなたの方こそどうなんです?」


「この町の金持ちが正気を失って暴走しなければ、概ねかなりいい状態だと思います。明日は、いや今夜でさえ、うんと良識が求められるんです。我々が本物のパニックに直面していることはおわかりでしょう。バトラーさん、このことはわかっていた方がいいのですが、これは長くは続かないかもしれません。しかし、続いてる間はひどいことになります。明日は寄り付きから株価が十から十五ポイントは下落するでしょう。何らかの対策が講じられない限り、銀行は自分の身を守るために融資の返済を要求します。これは一人でできることではありません。何人かが団結しないとならないでしょう。あなたとシンプソンさんとモレンハウワーさんなら、それができるかもしれない――つまり、連携して市場を支えるよう大手の銀行関係者を説得できれば可能になります。地元の路面鉄道、鉄道――そういったものすべてが売り崩されるでしょう。支え切れなければ底が抜けてしまいます。私はあなたがこういう銘柄を長期で保有していることをずっと知っていましたから、あなたやモレンハウワーさんや他の方々は行動を望むかもしれないと考えました。もしあなたがたが行動しないと、正直言いまして、私はかなり大変なことになってしまうんです。これにひとりで立ち向かうほど私は強くありませんので」


ステーネルに関するすべての真実をどう話すべきかについてクーパーウッドは考えていた。


「うーん、それはかなりまずいな」バトラーは、冷静に、考え込むように言った。彼は自分の問題を考えていた。パニックは自分にとっても好ましくないが、自分は絶望的な状況にいるわけではない。破産はありえなかった。多少は損をするかもしれないが、莫大な額ではない――対策を講じることができなくても。それでも損はしたくなかった。


「どうしてあなたが困るんですか?」バトラーは気になって尋ねた。地元の路面鉄道株の底が抜けると、どういうわけでクーパーウッドに深刻な影響を及ぼすのだろう、と不思議に思っていた。「あなたが保有しているわけでもあるまいし?」バトラーはつけ加えた。


嘘をつくか真実を打ち明けるか、ここが正念場だ。このジレンマの中でクーパーウッドは嘘をつくことの危険を文字通り恐れた。バトラーの理解を伴う支持を得られなかったら、自分は破産するかもしれない。いずれにせよ、破産すれば、真実は明らかになる。


「これについて、洗いざらい打ち明けた方がいいかもしれません、バトラーさん」クーパーウッドはこの老人の情にすがり、バトラーが高く買っている、あのさわやかな自信に満ちた態度で相手を見て言った。バトラーは時々自分の息子たちに感じるような誇りをクーパーウッドに感じることがあった。彼は自分が助けて、この男を今いる地位につけてやったと感じていた。


「実は、私は路面鉄道株を買い付けていました。でも、正確には自分のためにではありません。私はこれから、自分がやるべきではないと思うことをやるつもりですが、仕方がありません。もしやらないと、あなたや、私が迷惑をかけたくない大勢の方々に迷惑をかけてしまいますから。私は、あなたが当然、秋の選挙の結果に関心を持っていることを知っています。実は、私はステーネルさんと彼の友人のために大量の株を抱えているのです。すべての資金が市の金庫から出ているのかは知りませんが、その大部分はそうだと思います。私が破産した場合、ステーネルさんや共和党やあなたの関係者がどういうことになるか私にもわかります。私はステーネルさんが最初から独断でこれを始めたとは思いません――私にもみなさんと同じくらいの責任はあると思います――でも、これは他のことから波及したんです。ご存知のように、私はステーネルさんのために、市債の問題を担当していました。やがて、彼の友人の数名が、自分たちのために路面鉄道に投資するよう私に持ちかけたんです。それ以来、私はずっと続けています。個人的に私がかなりの金額をステーネルさんから二パーセントで借りてです。実は、最初はそうやって取引費用が捻出されたんです。今、私は誰かに責任を転嫁したいのではありません。責任は私に帰しますから、落ち着くところに落ち着かせるつもりです。ただ、もし私が破産すると、ステーネルさんが責任を問われ、それが政権に跳ね返ります。もちろん、私だって破産などしたくはありませんが、私の行いには弁解の余地がありません。このパニックを除けば、私は人生でこれほど恵まれた状態にいたことがありません。私ではお力添えなしで、この嵐を乗り切れません。そこでご尽力願えないものか、知りたかったのです。もし切り抜けたら、市から出たお金は、元のところに戻すと約束します。ステーネルさんは町を離れているんです。いれば一緒にこちらへ連れて来たのですが」


クーパーウッドはステーネルを連れてくることに関して完全に嘘をついていた。それに、少しずつとか自分の都合のいい方法にならない限り、市に金を返すつもりなどまったくなかった。しかし彼の言葉は聞こえがよく、とても公正そうな印象を与えた。


「ステーネルがあなたと一緒に投資に使った額はどれくらいなんだ?」バトラーは尋ねた。この不思議な展開に少し困惑した。これはクーパーウッドとステーネルを見る目を変えるものだった。


「およそ五十万ドルです」クーパーウッドは答えた。


老人は姿勢を正した。「そんな大金なのか?」


「だいたいです――その少し上か下、どちらにぶれるかははっきりわかりません」


この請負業者の老人は、共和党と自分の請負契約の利益に与える影響を考えながら、この点に関するクーパーウッドの弁明をすべて厳粛に聞きとった。クーパーウッドのことは好きだったが、言っている内容は乱暴だった――乱暴で、頼み事が多かった。バトラーはゆっくり考えて、ゆっくり行動する男だったが、彼が考えると十分に成果はあった。バトラーはフィラデルフィアの路面鉄道株にかなりの金額を投資していた――おそらく八十万ドルに及んだかもしれない。モレンハウワーはおそらくそれ以上だ。シンプソン議員の保有量が多いか少ないかはバトラーにはわからなかったが、上院議員は相当持っています、と過去にクーパーウッドが話してくれたことがあった。彼らの持ち株のほとんどは、クーパーウッドの場合と同じで、借入金の担保としていろいろな銀行にあり、借入金は別の投資に使われた。この三人の中にはクーパーウッドほどひどい状態の者はいなかったが、こういう借入金を返済を求められるのは、好ましくも気分がいいものでもなかった。損失が出ないわけではなかったが、身を守ろうとして早まった行動を取らない限り、自分たちが大きな問題を抱えずに切り抜けられるのはわかっていた。


もしクーパーウッドがステーネルの関与した額を七万五千ドルから十万ドルの範囲で言っていたら、バトラーはこれをそれほど大事だとは考えなかっただろう。それなら調整がついたかもしれない。しかし五十万ドルとなると話は違う! 


「そいつは大金だな」バトラーは言った。ステーネルの驚くほどの大胆さについては考えたが、この時点ではこれをクーパーウッドの抜け目ない策略と結びつけてはいなかった。「そうなると考えないといかんな。朝からパニックになるのなら、おちおちしてはおれんぞ。市場を支えたら、あなたはどれだけ助かるんだ?」


「随分助かります」クーパーウッドは答えた。「もちろん、他の方法で資金を調達しなければなりませんが。私はあなたの十万ドルをお預かりしています。すぐにでもお入用でしょうか?」


「そうなるかもしれん」バトラーは言った。


「それを手放したら深刻な傷を負うほど、どうしても欠かせないものになりそうです」クーパーウッドはつけ加えた。「それでも数ある問題のひとつに過ぎません。もしあなたとシンプソン上院議員とモレンハウワーさんが協力して――あなたがたは路面鉄道株の大株主ですから――ドレクセルさんとクックさんに会えば、いろいろな事をまとめることができて、問題はかなり扱いやすくなるでしょう。融資の返済を要求されなければ私は大丈夫です。市場が大暴落しなければ私の融資が返済を求められることはないでしょう。もし暴落すれば、私の有価証券はすべて価値がさがりますから、私では持ちこたえられません」


バトラー老人は立ち上がった。「とんでもないことになったな。ステーネルとそんな風に付き合わなきゃよかったんだ。体裁が悪いし、取り繕えるもんじゃないぞ。こいつはまずい、まずいことになった」バトラーは不機嫌な様子で付け加えた。「それでも、私にできることはしよう。大した約束はできんが、私はずっとあなたを好ましく思ってきたんだ。やむをえないとき以外は今さら見捨てたりはせんよ。しかし、すまんな――ほんとに。この町で物事を動かしているのは私だけじゃないんだ」同時にバトラーは、こうすることで自分の首を守っているとはいえ、自分の問題や市議会選挙のことをこうして事前に知らせたのはクーパーウッドが道義をわきまえているからだ、と考えていた。バトラーは自分にできることをするつもりだった。


「私がどうなるかわかるまで一日か二日、ステーネルと市の公金の問題を伏せたままにしておいてはくれませんか?」クーパーウッドは用心深く提案した。


「それは約束できんな」バトラーは答えた。「私は自分にできる精一杯のことをしなければならないんだ。これ以上自分の手に負えない事態にするつもりはない――任せたまえ」もしクーパーウッドが破産したら、ステーネルの犯罪の影響をどうすれば乗り越えられるかをバトラーは考えていた。


「オーエン!」


バトラーはドアのところへ行って、開けながら、手すり越しに声をかけた。


「はい、お父さん」


「軽装馬車の支度をして玄関に回すようダンに言ってくれ。お前も帽子と上着を用意しろ。私と一緒に来てほしい」


「はい、お父さん」


バトラーは戻って来た。


「確かに、つまらんことでひと波乱ありそうだな? シカゴが燃え始め、このフィラデルフィアで私は心配をせにゃならん。やれやれ――」ここでクーパーウッドが立ち上がり、ドアに向かった。「それで、あなたはどこに行くんですか?」


「家に帰ります。私に会いにくる人が何人かいますので。でもよろしければ、後でこちらに戻ってきますが」


「ああ、いいとも」バトラーは答えた。「いずれにせよ、私は真夜中にはここにいる。まあ、気をつけて。後でまたな。結果はそのときに話すよ」


バトラーは何か用があって部屋へ戻り、クーパーウッドはひとりで階段を降りた。応接間の入り口の掛け物からアイリーンがこっちへ来てと合図した。


「大したことじゃなければいいんだけれど」アイリーンはクーパーウッドの厳粛な目をのぞき込んで同情した。


恋愛にかまけている場合ではない、とクーパーウッドは感じた。


「何でもない」クーパーウッドは冷たく言った。「そうはならないと思う」


「フランク、このことであたしをずっと放ったらかしにしないでよ。しないわよね? あたし、あなたをとっても愛してるんだから」


「まさか、しないとも!」クーパーウッドは真剣に、すばやく、それでいてうわの空で答えた。


「そんなはずないだろ! そんなこともわからないのかい?」クーパーウッドはキスしかけたが物音がしたので思いとどまった。「しっ!」


クーパーウッドがドアに向かい、アイリーンは一途な同情の目で彼を見送った。


あたしのフランクに何かあったらどうしよう? もし何かがあるとしたら、何かしら? あたしはどうしたらいいのかしら? アイリーンはこんな調子で悩んでいた。フランクを助けるために、あたしは何をすればいいのかしら、何ができるかしら? 彼の顔色はとても悪く――緊張しているように見えた。


 

 

第二十四章



クーパーウッドの実際の状態を前もって示すためにも、当時のフィラデルフィアの共和党の情勢や、ジョージ・W・ステーネル、エドワード・マリア・バトラー、ヘンリー・A・モレンハウワー、マーク・シンプソン上院議員などとの関係は、ここで簡単に述べられねばならないだろう。すでに見てきたように、バトラーは普段からクーパーウッドと関わりがあって関係は良好だった。ステーネルはクーパーウッドの道具だった。モレンハウワーとシンプソン上院議員は、市政の主導権を狙うバトラーの強力なライバルだった。シンプソンは、州議会の与党、共和党の代表者で、新しい選挙法の制定、市の許認可の変更、政務調査の開始など、必要であれば市を監督できる立場にいた。たくさんの有力な新聞社、企業、銀行を自分の意のままに従えていた。モレンハウウーは、ドイツ系と一部のアメリカ人と安定した大企業数社の代表であり、とても堅実で尊敬できる人物だった。三人はみんな政界の実力者で、有能で、危険だった。後者二人は、バトラーの影響力、特にアイルランド系に対する影響力を頼りにしていた。一定数の区長とカトリック系の政治家と一般信徒は、まるで彼が教会の一部であるかのようにバトラーに忠実だった。バトラーはこういう支持者たちに、保護、影響力、援助、そして幅広い善意で報いた。モレンハウワーとシンプソンを経由して市はバトラーに、道路の舗装、橋、高架橋、下水道などの契約という形でたっぷり報いた。バトラーがこういう契約をとるためには、彼が受益者であり指導者でもある共和党の運営がそこそこ健全であり続ねばならなかった。とはいっても、党の健全な運営の継続はモレンハウワーやシンプソンほどバトラーには必要ではなく、ステーネルを指名したのもバトラーではなかった。ステーネルは他の誰よりもモレンハウワーに直接責任を負っていた。


バトラーは息子と馬車に乗り込むときに、このことを考え、とても悩んでいた。


「さっきクーパーウッドが来てな」バトラーはオーエンに言った。オーエンは最近急速に金融のことがきちんとわかるようになってきた。父親ほどの魅力はなかったが、すでに政治や社交にかけては抜け目ない人物だった。「話によると、かなり切羽詰まっているらしい。あれが聞こえるか?」遠くで「号外! 号外!」と声が叫んでいる間にバトラーは続けた。「シカゴが燃えているそうだ。明日は証券取引所が大騒ぎになるぞ。うちはいろんな銀行にたくさんの路面鉄道株を担保に入れてある。きちんとしてるように見えないと、融資を返済しろと言ってくるからな。朝一番にそっちの対応をしないといけない。クーパーウッドは私の十万ドルを預かっているが、それをそのままにしておいてほしがっている。それにステーネルの分もあるという話だ」


「ステーネル?」オーエンは気になって尋ねた。「あいつが株をやってたんですか?」オーエンはつい最近ステーネルと他のメンバーの噂を小耳に挟んでいたが、それを信用せず、父親にもまだ伝えていなかった。「クーパーウッドはあいつの金をどのくらい持ってるんですか?」オーエンは尋ねた。


バトラーは考えたあげく最終的に「残念なことに、相当な額だ」と言った。「実際問題、これが大金でな――五十万ドルくらいだそうだ。もしそれが知られたら大騒ぎになる、と考えているところなんだ」


「へえ!」オーエンは驚いて叫んだ。「五十万ドルも! それで、お父さん! ステーネルが五十万ドルも持ち出したってことですか? まさか、あいつがそんなことをするほど器用だとは思いもしなかったな。五十万ドルか! ばれたら大騒ぎでしょうね」


「ひとまず、落ち着けって!」バトラーは全力で状況のあらゆる局面を想定しながら答えた。「どういう状況だったのか、こっちもまだ正確なことがわからないんだ。あいつだって、そんなに使うつもりはなかったのかもしれん。まだ大丈夫かもしれないんだ。金は投資に回ったんだからな。クーパーウッドだってまだ破産したわけじゃない。巻き返すかもしれん。今、決めねばならないのは、あいつを救うために何らかの手が打てるかどうかだ。もしあいつが本当のことを言ってるのなら――あいつが嘘をつくとは思っとらんが――朝のうちに路面鉄道株が大暴落しなければこれを切り抜けられるそうだ。私はヘンリー・モレンハウワーとマーク・シンプソンに会いに行くところなんだよ。これは二人にも関係するからな。クーパーウッドは私に、銀行家を集めて市場を支えられないか確認してもらいたいと言うんだ。介入して買い支えて株価を維持すれば、我々が自分の融資を守れると考えたわけだな」


オーエンは頭の中でクーパーウッドの事情を――自分の知る限りで――素早く考えた。あの銀行家は駆逐されるべきだと強く感じた。この窮地はクーパーウッドのへまであってステーネルのへまではない――とも感じた。父親がそれに気づかないで憤慨しないのが不思議だった。


「これがどういうことか、おわかりでしょ、お父さん」しばらくしてからオーエンは大袈裟に言った。「クーパーウッドはステーネルの金を使って株を買い、どつぼにはまったんですよ。この火事がなければ、あいつは逃げ切れたんだ。だけど今、お父さんとシンプソンさんとモレンハウワーさんと他の人たちに、自分を引き上げてもらいたがってるわけですよ。あいつはいい奴だし、僕だって結構気に入ってます。でもあいつの言うとおりにしたら、お父さんは馬鹿を見ますよ。すでに自分のもの以上のものを持ってるわけですから。先日、フロント・ストリート鉄道と、グリーン=コーツ鉄道のほとんどをあいつが所有し、十七番街=十九番街鉄道はあいつとステーネルのものだと聞きました。でも、僕はそれを信じませんでした。そのことをお父さんに聞こうと思ってたんです。クーパーウッドはどの場合も自分で過半数を押さてどこかに隠し持ってるんだと思います。ステーネルはただの駒にすぎません。あいつがステーネルを自在に動かしているんですよ」


オーエンの目が貪欲に対抗意識を燃やして輝いた。クーパーウッドなど、処罰され、売り飛ばされて、オーエンが成功したかった路面鉄道事業から追い出されるべきなのだ。


「なるほどな」バトラーはしわがれた声で厳かに言った。「私はいつもあの若者を切れ者だと思っていたが、まさかここまで切れるとは思わなかった。そうか、これはあいつの策略か。お前もなかなか鋭いじゃないか? まあ、ちゃんと考えれば、そっちは解決できる。しかしな、これはそれだけでは済まないんだ。共和党を忘れてはいけない。私たちの繁栄は、共和党の繁栄と共にあるんだからな」――バトラーは一旦話をやめて息子を見た。「もしクーパーウッドが破産して、その金を戻せなかったら――」バトラーは語尾を濁した。「私を悩ませているのはステーネルと市の公金の問題なんだ。こっちをどうにかしないと、今度の秋に党が大変なことになるかもしれない。それとうちの請負契約の一部がな。十一月に選挙があるってことを忘れんことだ。十万ドルを返してもらうべきか私は迷ってるんだ。朝のうちに自分の融資に対応するのにだって、かなりの金が必要になるだろうからな」


これは心理学の興味深い問題である。この状況の本当の問題点がバトラーがわかり始めてきたのは、このときだった。バトラーはクーパーウッドの前で、この青年の個性、彼の用件の魅力的な切り出し方、みずからの彼への贔屓目(ひいきめ)とにすっかり影響されてしまい、自分とこの事態との関係のあらゆる局面を考えるために、立ち止まらなかったのだ。涼しい夜の空気の中で、もともと野心家であり、クーパーウッドのことになると情けをかけて考えることのないオーエンと話をしているうちに、バトラーはすっかり正気に戻って、物事を正しい光に照らして見始めていた。クーパーウッドが市の財政と共和党と、ついでに言うと自分の私的な権益に大きなダメージを与えたことをバトラーは認めなければならなかった。それでも彼はクーパーウッドのことが好きだった。決して彼を見捨てるつもりはなかった。バトラーは党と自分のためにそうするのと同じくらいクーパーウッドを救うために、モレンハウワーとシンプソンに会いに行くところだった。それでも不祥事には違いない。バトラーはそれが気に入らず――憤慨した。あの若造め! まさかこれほどずる賢いとはな。それでもバトラーはこの期に及んでもなお、クーパーウッドのことが好きで、もし何かでこの若者を救えるなら、何とか救ってやるべきだと感じていた。もし他のメンバーが好意的だったら、クーパーウッドの要望どおりに、最後の最後まで自分の十万ドルは預けたままにしておいてもいい。


「ねえ、お父さん」しばらくしてオーエンが言った。「どうしてお父さんがモレンハウワーやシンプソン以上に心配する必要があるのか僕にはわかりませんね。もしお父さんたち三人があいつを助けたいのなら助けられるでしょうけど、どうしても僕にはそうする理由がわからないんです。事前に発覚したらこれが選挙に悪影響を及ぼすことは僕にだってわかりますが、それまでにもみ消せるんじゃないですか? とにかく、この選挙よりもお父さんの路面鉄道株の方が重要です。だって、もし路面鉄道株を入手できる見通しを立てられれば、もう選挙の心配をする必要はないわけでしょ。朝のうちに十万ドルを引き上げて、それを自分の株式の下落分にあてることを僕はお父さんにお勧めします。これでクーパーウッドは破産するかもしれないが、別にお父さんが痛むわけではないでしょう。お父さんは市場に乗り込んでいってあいつの株を買えばいいんです。あいつの方からやってきてお父さんに株を引き取るよう頼んだとしても僕は驚きませんよ。お父さんは、モレンハウワーとシンプソンに頼んでステーネルを脅してもらい、あいつがこれ以上クーパーウッドに金を貸すことがないようにするべきです。それをしないと、クーパーウッドはあいつんとこに駆け込んで、また借りますからね。ステーネルは今ずっと遠くにいます。もしクーパーウッドが売らなければ、それはそれでいいことですよ。どうせ破産するでしょうから。そのときにお父さんは他のみんなと同じように市場で入手すればいいんです。あいつは売ると思いますよ。お父さんはステーネルの五十万ドルを心配している場合じゃありません。誰もあいつにそんなものを貸せとは頼んでないんですから。自分の面倒は自分で見させればいい。党にはダメージを与えるかもしれないが、そっちは後で考えればいいでしょ。お父さんとモレンハウワーなら、選挙が終わるまでこれを話題にするな、と新聞を押さることができるんですから」


「まあ、落ち着けって!」請負業者の老人が口にするのはこれだけだった。バトラーは懸命に考えていた。


 

 

第二十五章

 


ヘンリー・A・モレンハウワーの邸宅は、その当時バトラーが住んでいた場所とほとんど同じくらい新しい市内の一角にあった。場所はサウスブロード・ストリートで、最近建てられたばかりの立派な図書館の近くだった。当時の新しい富裕層に普通に好まれた型式の広々とした家だった――黄色いレンガと白い石造りの四階建てで、すぐに特定できる建築様式はなかったが、その建築構造に魅力がないわけではなかった。だだっ広いベランダに続く幅広の階段の先にはめいっぱい飾り立てた扉があり、扉の両脇には細い窓が連なり、左右にはかなり魅力的な形状の淡い青のすてきな植木鉢が飾られていた。中は二十もの部屋に分けられ、当時の住宅用の最も高価な羽目板と寄木細工が施されていた。立派な大広間、広々とした客間だかリビング、少なく見ても三十フィート四方のオーク材の羽目板張りのダイニングルームがあり、二階にはモレンハウワーの野心的な三人娘たちの才能に捧げられた音楽室、家主専用の書斎とプライベートオフィス、妻用の寝室と浴室、温室があった。


モレンハウワーはかなりの重要人物であり、自分でもそう感じていた。彼の金融と政治に対する判断は極めて鋭かった。彼はドイツ人というかドイツ系アメリカ人だが、かなり印象的なアメリカ人の風采を持つ物だった。背が高く、重量があり、抜け目なくて、冷酷だった。大きな胸と広い肩が、見る角度によってまん丸にも面長にも見える抜群の比率の頭部を支えている。前頭骨は、下向きのカーブを描きながら鼻を覆うようにさがり、鋭い詮索するように見つめる燃える目の上に厳かに突き出ていた。そして、その下の鼻と口と顎と、滑らかで硬い頬は、自分がこの世で何が欲しいのかをとてもよくわかっていて、それを手に入れるのに邪魔や障害を気にしないでやり遂げられる、という印象を強くした。大きな顔で、印象的で、実にいい造形だった。親睦が深まるにつれ、彼はエドワード・マリア・バトラーの親友になり、マーク・シンプソンとの向き合い方は、虎が虎に向けるのと同じように真摯だった。モレンハウワーは能力を尊重する人で、公平な勝負であれば公平に臨むことを厭わなかったが、そうでないときには、彼の狡猾さの規模は簡単に測れなかった。


この日曜日の夕方にエドワード・バトラー親子が到着したとき、市の利益の三分の一を代表するこの名士は二人の来訪を予想していなかった。書斎で本を読みながら、娘がピアノを弾くのを聞いていた。妻と他の二人の娘は教会に出かけていた。すっかり家庭人だった。それでも、政治の世界では日曜日の夜は往々にして、話し合いにうってつけだから、名だたる同僚の誰かが訪ねてくるかもしれないと思わないわけではなかった。使用人を兼ねた執事がバトラー親子の来訪を告げると、モレンハウワーはとても喜んだ。


「いらっしゃい」モレンハウワーは手を差し出しながら和やかにバトラーに挨拶した。「お会いできて本当にうれしいですよ。オーエンも! 調子はどうだい、オーエン? 飲み物は何がいいかな、それと何を吸いますか? 何か用がおありなんでしょ。ジョン」――と使用人に――「お二人に何か見つくろって。キャロラインの演奏を聞いてたところなんですよ。でもあなたがたに恐れをなしたんで当分出て来ないでしょう」


バトラーのために椅子を用意して、オーエンにはテーブルの向かいの席を促した。すぐに使用人が、精巧なデザインの銀の盆に、様々な年代のウィスキーとワインと葉巻をたっぷり載せて戻ってきた。オーエンはタバコも酒もやらない新しいタイプの若い資本家だった。父親は適度に両方ともたしなんだ。


「ここは快適なところですね」自分をここまで来させた重要な任務についてはおくびにも出さずにバトラーは言った。「あなたなら日曜の夕方、自宅にいても不思議じゃありませんからね。街に新しい出来事でもありますか?」


「私の知る限りでは特に何もありませんね」モレンハウワーは穏やかに答えた。「物事は至って順調にいっているようです。あなただって我々が心配しなきゃならないことなどご存知ないでしょう?」


「それがあるんです」用意されていたブランデー・ソーダの残りを飲み干しながらバトラーは言った。「一つ。夕刊はご覧になっていませんか?」


「ええ、見てません」モレンハウワーは背筋を伸ばして言った。「一つあるんですか? いったい、どんな問題ですか?」


「何もありませんよ――シカゴが燃えていることを除けば。どうやら明日ここでもちょっとした金融の嵐が起きそうです」


「まさか! 知りませんでした。新聞に出てるんですね? それで――火事は大きいんですか?」


「街が焼け落ちているそうです」かなり興味を持って、この著名な政治家の顔を観察していたオーエンが口を挟んだ。


「そりゃ、一大事だ。人をやって新聞を買ってこさせないと。ジョン!」と叫ぶと、男の使用人が現れた。「どこかで新聞が手に入らないか見て来るんだ」使用人は姿を消した。「どうしてそれが我々に関わってくるとあなたはお考えなんですか?」モレンハウワーはバトラーに向き直って言った。


「実は、ついさっきまで私が知らなくて、これと一緒に出てきたことが一つあるんです。一定の人たちが思うよりも事態が好転しない限り、我々のステーネルが帳簿に穴をあけそうなんです」バトラーは冷静に持ち出した。「選挙の前に、これはあまりいい印象を与えないかもしれないのでは?」抜け目ない灰色のアイルランド人の目がモレンハウワーの目をのぞき込むと、相手も見返した。


「それをどこでつかんだんですか?」モレンハウワーは冷淡に問いかけた。「あいつが計画的に大金をとったわけではないのでしょ? いくらとったんですか――ご存知なんですか?」


「相当な額です」バトラーは静かに答えた。「五十万ドル近くだと承知してます。ただ、まだとられたとは言えません。なくなってしまう危険はありますが」


「五十万ドル!」モレンハウワーは驚きはしても、依然としていつもの冷静さを保ったまま叫んだ。「まさか! いつからこんなことになってたんですか? あいつは何にそんな大金を使っていたんですか?」


「大金を貸し付けたんです――約五十万ドルを三番街のクーパーウッドっていう若いのにね、あの市債を扱っていた奴ですよ。二人であちこちに投資して私腹を肥やしてたんです――主に路面鉄道の買収にね」(路面鉄道の話が出たところでモレンハウワーの無表情がかろうじて気づく程度だが変化した)「クーパーウッドの言い分では、この火事が朝からパニックを引き起こすのは確実で、かなり援助してもらわないと、どうやって持ちこたえたらいいのか自分でもわからんそうです。もし彼が持ちこたえられなかったら、市の金庫から五十万ドルが消えて戻せなくなる。ステーネルが町にいないものだから、クーパーウッドは、何とかできないものかを確認しに私のところへ来たというわけです。実は、彼は過去に私のためにちょっとした仕事をしたことがあって、私なら今、彼を助けられるかもしれない――つまり、私があなたと上院議員を説得して、私と一緒に大手の銀行家に会い、朝から市場を支えて助けてもらえるかもしれない、と考えたわけです。我々がそうしなければ、自分は破産、そのスキャンダルが選挙で我々の痛手になると思ったわけです。何かの駆け引きをしているのではなく――ただ自分が助かりたい、私に――できれば我々に――尻拭いをしてもらいたがっているようなんです」バトラーは話をやめた。


狡猾で自分の手の内を明かさないモレンハウワーは、この予想外の展開に全然動じていないようだった。同時に、何か特別な運営管理だか投資の才能がある者としてステーネルを考えたことがなかったので、少し心を揺さぶられて興味を持った。つまり、自分の財務官が自分の知らないうちに金を使い込んでいて、今や起訴される危機に瀕しているのだ! クーパーウッドのことは、市債を扱うために雇われた担当者として間接的に知っているだけだった。市債を自分で操作して利益を出すほどの男だ。明らかに、この銀行家がステーネルを丸め込んで、路面鉄道株のためにその金を使ったのだ! それなら、この男とステーネルはかなり私的に保有しているに違いない。これはモレンハウワーの関心をふくらませた。


「五十万ドルか!」バトラーが話を終えるとモレンハウワーは繰り返した。「これはかなり大金だ。ただ市場を支えるだけでクーパーウッドを救えるなら、そうしたっていいかもしれないが、もしひどいパニックだったら、我々があらんかぎりの手を尽くしたところで、それがどう彼の大きな助けになるのかわかりませんな。もし彼がひどい窮地に陥っていて、大暴落が迫っているのなら、彼を救うには我々がただ市場を支えるよりももっと大きな対応が必要になる。私は以前そういうのを経験したことがあるんです。彼の債務がどうものなのか、あなたはご存知ないんですね?」


「知りません」バトラーは言った。


「彼は金の無心をしなかったんですね?」


「乗り切れるかどうか見極めがつくまで、私の十万ドルはそのままにしておいてほしいと言いました」


「ステーネルは本当に町を離れているんですか?」モレンハウワーはもともと疑り深かった。


「クーパーウッドはそう言ってます。我々なら人をやって見つけ出すことができる」


モレンハウワーはこの状況の様々な側面を考えていた。市場を支えることで、クーパーウッドと共和党と子飼いの財務官を救えるなら、申し分ない。同時に、ステーネルが五十万ドルを市の金庫に戻して、彼の持ち株を誰かに――できれば自分――モレンハウワーに――譲渡せざるを得ないように仕向けられるかもしれない。しかし、ここにいるバトラーもこの問題では考慮すべき相手だ。彼がほしがらないなんてことがありえるか? モレンハウワーはバトラーと話をして、うまくいった場合クーパーウッドが五十万ドルを返済することに同意したことを知った。いろいろな路面鉄道株については掘り下げて尋ねられなかった。しかし、クーパーウッドがそれで救われると誰がどんな保証をしたんだ? それに、お金を集められるのか、いや、集める気はあるのか? それに助かったとして、彼はステーネルにお金を返すだろうか? 彼が金策に奔走しても、こんな時に――大恐慌が迫っているときに――誰が彼に貸すだろう? 彼がどんな担保を差し出せるんだ? それどころか、しかるべき方面から圧力をかければ、彼の――彼とステーネルの――すべての路面鉄道株を捨て値で手放さざるを得ないようにできるかもしれない。もし自分(モレンハウワー)がそれらを手に入れられるのなら、秋の選挙の勝敗を特に気にすることはない。オーエンと同じようにモレンハウワーは、秋の選挙は負けないと感じていた。いつものとおり、買収すればいいのだ。この使い込みは――クーパーウッドが破産するとステーネルが貸した金はそういうことになるのだが――十分な期間隠し通せれば勝てる、とモレンハウワーは考えた。今思いついたように個人的には、ステーネルを脅してクーパーウッドへの追加融資を断らせ、他のみんなの株もろとも――シンプソンとバトラーの分も含めて――クーパーウッドの路面鉄道株を売り崩す方がいい。フィラデルフィアの未来の富の大きな源泉の一つはこういう鉄道会社にあるのだから。しかし当面は、選挙で党を救うことに関心があるふりをしなければならない。


「私には上院議員を代弁することはできないが、確かにそうですね」モレンハウワーは考え込むように話を続けた。「議員がどうお考えになるかまでは私にはわかりません。私としては、もしそれで何か成果が出るのなら、株価を維持するために自分にやれることをやることにまったく異存はありません。自分の借り入れ分を守るためにも、当然、そうします。我々が検討をつづけるべきなのは、私の判断では、クーパーウッドさんが破産した場合、選挙が終わるまでどう発覚を防ぐか、ということですよ。だって、我々がどれだけ市場を支えても支えきれる保証はまったくないわけですから」


「確かにありませんな」バトラーは厳かに答えた。


オーエンは、クーパーウッドの迫りくる破滅がはっきり見えたと思った。そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。男性の使用人が不在だったので、メイドがシンプソン上院議員の名前を告げた。


「噂をすれば影ですな」モレンハウワーは言った。「お通ししろ。議員のお考えがわかりますね」


「では、僕はそろそろ席を外した方がいいですね」オーエンは父親に申し出た。「キャロラインさんを見つけられれば、歌でも聞かせてくれるでしょう。では、僕は待機してますね、お父さん」オーエンは付け加えた。


モレンハウワーは感じよく微笑みかけた。オーエンが退出するとシンプソン上院議員が入って来た。


ペンシルベニア州は興味深いタイプの人間を輩出してきたが、マーク・シンプソン上院議員以上に興味深いタイプはいなかった。今、温かく迎えて握手を交わした二人の男のどちらと比べても、肉体的な印象がなかった。彼は小柄――モレンハウワーが六フィート、バトラーが五フィート十一インチ半なのに対し――五フィート九インチで、顔はすべすべで顎がなかった。他の二人と比べて、この特徴は目についた。目はバトラーの目のように素直でも、モレンハウワーの目のように挑戦的でもなかったが、繊細さはどちらとも比べものにならなかった。深く奇妙に窪んだ洞窟のような目は、暗い穴から外をうががっている猫の目のように相手を見つめ、猫科の特徴といえるあらゆる狡猾さを連想させた。品のいい低い白の額を掃きおろしている一風変わったモップのような黒髪で、不健康のせいなのか血色の悪い青白い肌をしていた。それでもそこには人を支配する不思議な御しがたい有能な力――期待と利益とで欲望を満たす方法を知る狡猾さと、言うことを聞かない者に報いる冷酷さ――が宿っていた。彼はそういうタイプにありがちな静かな人物だった。握手は力が弱くて死んだ魚のように生気がなく、笑顔はうつろで少し無気力だが、あらゆる欠点を補う目でいつも話をしている。


「こんばんは、マーク、会えてよかった」バトラーは挨拶した。


「調子はどうだい、エドワード?」静かな返事があった。


「上院議員はお疲れではなさそうですね。お飲み物いかがです?」


「今夜はいいよ、ヘンリー」シンプソンは答えた。「長居してはいられないんだ。帰る途中で寄っただけだから。家内がカバナフのところにいるもんだから、迎えに行くんで立ち寄ったまでだよ」


「ちょうどいいところにいらっしゃいました、上院議員」客の後で自分も腰を下ろしながらモレンハウワーは切り出した。「最後にお会いしたあとで持ち上がったちょっとした政治の問題を、ここにいるバトラーが話していたところなんです。シカゴが燃えているという話はお聞き及びだと思いますが?」


「ああ、カバナフが、ちょうど言ってたな。かなり深刻なようだ。午前中は市場が大きく下落するだろうな」


「私も驚きませんね」モレンハウワーはそっけなく言った。


「新聞が来ました」使用人のジョンが新聞を手に持って通りから入って来ると、バトラーは言った。モレンハウワーはそれを受け取って、みんなの前に広げた。これはこの地方で発行された「号外」の早刷りで、シカゴの大火災が前日の出火以降、時間の経過とともに悪化の一途をたどっている、と報じるかなり印象的な特集記事が載っていた。


「うーん、確かにひどいな」シンプソンは言った。「シカゴにはお悔やみ申し上げる。あそこには友人がいっぱいいるんだ。思ってるほどひどくないという知らせを聞けるといいんだがな」


この男にはかなり大げさな物言いが染み付いていて、どんな状況でもやめなかった。


「バトラーが私に話していた問題は、一応、これに関係があるんです」モレンハウワーは続けた。「市の財務官が二パーセントの金利をとって金を貸す慣習があるのをご存知ですね?」


「知ってるが?」シンプソンは聞き返すように言った。


「実は、ステーネルが巨額の市の金を、市債を担当していた三番街のクーパーウッドという若いのに貸したようなんです」


「何だと!」シンプソンは驚いた様子で言った。「大した額じゃないんだろ?」上院議員はバトラーやモレンハウワーと同じように、同じ出どころから市のいろいろな指定預金機関になされた低利融資でたんまり儲けていた。


「ステーネルは五十万ドルも融資していたようです。万が一、クーパーウッドがこの嵐を乗り切れなかったら、ステーネルはそれだけの欠損を出すことになります。そうなると十一月に国民に投票を呼びかける相手としてはあまり体裁がよろしくないのではないでしょうか? クーパーウッドはこのバトラーの十万ドルも預かっておりまして、それで今夜バトラーに会いに来たわけです。危機を乗り切らせてくれる何かの手立てが、我々を通して講じられないか、バトラーに確かめてもらいたかったわけですな。もし駄目なら」――思わせぶりに片手を振った――「まあ、破産するかもしれません」


シンプソンは繊細な手で風変わりな大きい口をさわって「そいつらは五十万ドルで何をしていたんだ?」と尋ねた。


「まあ、若いのが副業でちょっとしたことをしてたに違いありません」バトラーは楽しそうに言った。「ひとつ例を挙げると、路面鉄道を買収してたんだと思います」バトラーはベストの袖ぐりに親指を突っ込んだ。モレンハウワーもシンプソンも薄ら笑いを浮かべた。


「そういうことです」モレンハウワーは言った。シンプソン上院議員は、ひたすら深慮遠謀を巡らせた。


彼もまた、よりによってこういう危機が迫っているときに、このような提案を政治家のグループに持ちかけるのは、誰がやったって無駄だろう、と考えていた。もし自分とバトラーとモレンハウワーが手を組んで、路面鉄道株の譲渡を見返りにクーパーウッドの保護を約束できたら、これはまったく違う問題になると思案した。この場合だと、市の公金貸付を黙って継続し、これを支えるためにもっとお金を出しさえすればとても簡単に済むことだ。しかし、第一にクーパーウッドに持ち株を譲渡させられるか、第二にバトラーにせよモレンハウワーにせよ、自分、シンプソンとこういう取引に応じるか、定かではない。どうやらバトラーはクーパーウッドの口添えをしにここに来たようだ。モレンハウワーと自分は口にこそ出さないがライバルだ。政治的には協力して活動するが、財政的には根本的に違うゴールを目指している。モレンハウワーとバトラーに限らず、特定の投資案件で同盟を結んでいるわけではない。それに、どうみてもクーパーウッドは馬鹿ではない。彼はステーネルと同等の罪を犯したわけではない。ステーネルが彼に金を貸していたというだけだ。上院議員は、ひらめいた微妙な解決策を同僚に提案すべきか考えたが、やめることにした。実際、モレンハウワーは油断も隙もない相手だから、この種の仕事は一緒にできない。絶好のチャンスではあるが危険だ。ひとりでやった方がいい。当面、自分たちは、できるのであればクーパーウッドに五十万ドルを返すよう、ステーネルを介して要求すべきだ。できなければ、必要に応じてステーネルが党のために犠牲になればいい。クーパーウッドの状況に関するこの情報があるから、彼の株式は、こちらのブローカー側のちょっとした株取引の仕事に絶好の機会を提供してくれるだろう、とシンプソンは考えた。ブローカーがクーパーウッドの状況についての噂を広め、それから彼の株式を――二束三文で――引き取ると申し出ればいいのだ。バトラーのところへ行ったのがクーパーウッドの運の尽きだ。


「まあ」長い沈黙の後で上院議員は口を開いた。「大変な状況にいるクーパーウッド君には同情できるし、やれるのなら、彼が路面鉄道を買収したからといって決して責めはしないが、この危機に際して、彼のために何ができるか私にはさっぱりわからない。みなさんのことは知らないが、私は今、そうしたくても、他人の火中の栗を拾える立場にいないのは確かです。すべては、党に危険が及ぶなら身銭を切ってでも彼を救うのは当然、と我々が感じるか次第です」


身銭を切ることに話が及んだとたんにモレンハウワーは顔をしかめて「私はあまりクーパーウッドさんのお役に立てないな」と、ため息をついた。


「まいったな」バトラーは洒落気たっぷりに言った。「どうやら十万ドルは引き上げた方がよさそうだ。朝一番で取りかかるとしよう」この時になると、シンプソンもモレンハウワーもさっき見せた薄ら笑いさえ浮かべようとしなかった。賢明にして厳しい表情を浮かべただけだった。


「しかし、この市の公金の件は」シンプソン上院議員は場の雰囲気が少し落ち着いてから言った。「少し考えないといけない。もしクーパーウッド君が破産して、市が巨額の損失を被ったら、我々へのダメージは決して少なくない。どこの鉄道会社なんですか、この男が特に関心を寄せていたのは?」シンプソンは後から思いついたように付け加えた。


「実は私も知りません」バトラーは馬車で来る途中にオーエンが話してくれたことを言う気はなかった。


モレンハウワーは言った。「このクーパーウッドという男が破産する前に、ステーネルに金を回収させられなかったら、どうすれば我々は後々大変な迷惑を被らずに済むのかわかりませんね。もし我々が賠償を迫る素振りでも見せようものなら、向こうは多分店をたたむでしょう。そうなってしまうと対処のしようがない。それに、彼が自分の問題をどう切り抜けるかを聞く前にそんなことをすれば、ここにいる我々の友人のエドワードにかなり配慮を欠くことになりませんか」彼はバトラーが貸してある金に言及した。


「確かに欠きますね」本物の政治的な判断力と感覚を持つシンプソン上院議員は言った。


「十万ドルは朝のうちに回収しますから」バトラーは言った。「ご心配なく」


シンプソンは言った。「この件について何か持ち上がったら、我々は選挙が終わるまで全力で隠し通さなければならないと思う。これについて新聞は存在しないのと同じくらいだんまりを決め込むことができる。私から提案が一つある」――シンプソンは今、クーパーウッドがうまいこと集めた路面鉄道株について考えていた――「このような状況でこれ以上融資を拡大しないように、市の財務官に注意しておかないと。あっさり丸め込まれて融資を拡大するかもしれない。ヘンリー、あなたが一言言えば、これは防げると思うのだが」


「はい、おまかせください」モレンハウワーは厳かに言った。


「私の判断にしても」この気高い市民の守護者たちに訴えるというクーパーウッドのミスについて考えながら、バトラーはかなり不明瞭に言った。「面倒なことはそっとしておくのが一番だな」


いざとなったら、バトラーと彼の政治家仲間たちが自分のために行動してくれるかもしれない、というクーパーウッドの夢はこうして潰えた。


バトラーと別れてから、クーパーウッドのエネルギーは自分を助けてくれそうな他の人を探すことに注がれた。ステーネル夫人には、もしご主人から何か連絡があったらすぐに知らせるよう言伝しておいた。ドレクセル商会のウォルター・リー、ジェイ・クック商会のアベリー・ストーン、ジラード・ナショナル銀行のデービソン頭取をさがし回った。彼らがこの状況についてどう考えているかを確認したかったのと、デービソン頭取とはすべての自分の不動産と個人資産を担保にしている融資の交渉がしたかった。


「わからんよ、フランク」ウォルター・リーは言った。「明日の正午まで事態がどう動くかなんてわからないって。きみの立場がわかったのはよかった。きみはやってることをやってるんだからうれしいよ――自分の財務の健全化を図ってるんだからね。とても助かるよ。僕もできる限りのことはさせてもらうよ。でもね、上司が融資の返済を求めるグループを決めちゃったら、要求しないわけにはいかないんだ、それが決まりだからね。内容が良く見えるようにせいぜい頑張るよ。シカゴが壊滅すれば、保険会社は――とにかく、何社かは――確実に倒産する。そのときは注意しろ。きみだって自分が貸した金は全部回収するんだろ?」


「必要な分以外はやらないよ」


「まあ、それがここのやり方だからな――この先もね」


二人は握手を交わした。二人は互いに良好な間柄だった。リーはこの街の流行に敏感なグループに属していた。生まれながらの社交界の人間で、しっかり常識をわきまえていて、世俗的な経験も豊富だった。


「今だから言うけどさ、フランク」リーは別れ際に言った。「僕は常々思ってたんだが、きみは路面鉄道株を抱えすぎだよ。乗り切れたら大したものだが、こういう大変なときは痛い目に遭うからな。それと市債とで一気に儲けたんだろうけどさ」


長年来の友人の目を直視して、二人は微笑んだ。


アベリー・ストーン、デービソン頭取、他の人たちも同じだった。クーパーウッドがついたときには、みんなはすでに災害の噂を耳にしていた。明日はどうなるか、彼らにも確証はなかった。あまり期待できそうもなかった。


そろそろモレンハウワーとシンプソンとの対面は済んだ頃だと思い、クーパーウッドはもう一度バトラーに会いに行くことにした。バトラーはクーパーウッドに何を言うべきかを考えていたが、態度によそよそしさはなかった。「おお、戻ったな」クーパーウッドが現れるとバトラーは言った。


「はい、バトラーさん」


「どうも、あなたの役には立てなかったようだ。残念だがな」バトラーは慎重に言った。「あなたが持ち込んだのは難しい仕事だ。モレンハウワーは自分の責任で市場を支えようと考えてるようだ。あの人ならやりかねないがな。シンプソンにも守らねばならない利益がある。むろん、私だって自分ために買うつもりでいる」


バトラーは考えるためにいったん話をやめた。


「結局、大手の金融の人間との話し合いの場を設けさせることはできなかった」バトラーは慎重につけ加えた。「みんなは午前中、様子を見るようだ。でも、私があなただったら気を落とさんよ。事態がとてもひどくなれば、みんなも考えを改めるかもしれない。ステーネルの件はみんなに話さなければなかった。かなりひどい状態だが、みんなはあなたが乗り切って立て直すことに期待している。私もだ。私が預けた金の件だが――まあ、午前中、様子を見よう。ある程度大丈夫なら、そのまま預けておく。その件は改めて確認してくれた方がいいな。私があなただったら、ステーネルからこれ以上金を引き出そうとするのはやめておくよ。現状でもかなりひどいからね」


クーパーウッドはすぐに、政治家からの援助は得られないとわかった。気になったのは、このステーネルへの言及だ。ステーネルにはすでに連絡――警告済みだろうか? だとすると、バトラーのところに来たのは誤った行動だった。しかし、明日、破産する可能性を考えれば賢明だった。少なくとも今、政治家たちはこっちの状況を知っている。いよいよ進退窮まったら、またバトラーのところに来ることになる――自分を助けるか助けないかは政治家たち次第だ。もし彼らが自分を助けず、自分が破産し、選挙に負けたら、それは彼らの責任だ。いずれにせよ、こっちが先にステーネルに会うことができれば、まさかステーネルだってこのような危機のさなかに自分の不利益になるような馬鹿なまねはしないだろう。


「今夜のところはお先真っ暗のようですね、バトラーさん」クーパーウッドは歯切れよく言った。「私はまだ乗り切れると思っています。とにかく、そう願っています。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。もちろん、あなた方に助けていただけるなら願ってもないことですが、できないことは仕方ありません。私にもやれることはたくさんあります。あなたができるだけ長くお金を預けたままにしておいてくれるといいのですが」


クーパーウッドは元気よく出て行き、バトラーは考え込んだ。「賢い青年なんだがな。状況が悪すぎる。しかし、あいつならこれを無事に乗り越えるかもしれない」


クーパーウッドが急いで帰宅すると、父親は起きていて考え事をしていた。肉親の絆で結ばれた人たちによくありがちな同情と理解を強くにじませて話しかけた。彼は父親のことが好きだった。出世のために重ねた父の惜しまぬ努力には同情した。少年時代に父親が愛情のこもった同情と関心を寄せてくれたことを忘れることはできなかった。株が大暴落しなかったら、多少弱含みのユニオン・ストリート鉄道株を担保にして、第三ナショナル銀行から借りていたお金は多分返せるだろう。クーパーウッドは何としてもこれだけは返さなければならなかった。しかし、彼の事業とともにふくれあがり、今ではさらに二十万ドル巻き込んでいる路面鉄道への父親の投資――どうすればこれを守れるだろう? この株は担保に取られていて、お金は他の投資に使われていた。それらを抱えているいくつかの銀行には、追加の担保を差し出さねばならないだろう。何をさておいても、借入金、借入金、借入金であり、これらを守る必要がある。追加の預入金を二、三十万ドル、ステーネルからもらえればいいのだが。しかし、資金繰りに行き詰まる事態に直面していて、そんなことをするのは犯罪行為に等しい。すべては明日にかかっていた。


九日の月曜日は、どんよりと陰鬱に始まった。クーパーウッドは朝一番の日差しとともに起床して、髭を剃り、服を着て、灰緑色のパーゴラの下を父親の家まで行った。父親も起きていて、うろうろしていた。やはり眠れなかったのだ。灰色になった眉も頭髪もかなりボサボサでだらしなく、頬髯は見られたものではない。老紳士の目には疲れがにじみ出ていて、顔色は悪かった。クーパーウッドには、父親が心配しているのがわかった。父親は、エルスワースがどこかで見つけてきたブール細工の小さな凝った書物机から顔を上げた。そこで黙々と自分の貸借対照表を作成していたのだ。クーパーウッドは顔をしかめた。父が心配しているのを見るのは嫌なのに、どうすることもできなかった。一緒に家を建てたとき彼は、父を心配する日が永遠になくなればいいと心から願っていたのだ。


「帳尻は合いましたか?」クーパーウッドは気さくに笑顔で尋ねた。できるだけ老父を元気づけたかった。


「いざというときのために、もう一度自分の資産を見直していたんだ――」父がいぶかしげに息子を見ると、フランクは再び微笑んだ。


「心配いりませんよ、お父さん。バトラーたちが市場を支えるように、僕がどうやったかは話したでしょ。取引所ではリバース、ターグール、ハリー・エルティンジに売るのを手伝ってもらいます。みんな現場のベテランです。彼らならこの難局でも慎重に対応してくれるでしょう。今回はエドとジョーを頼れないんです。売り出した瞬間に、僕の状況がみんなに知られてしまいますからね。これなら、うちの関係者は市場を売り叩こうとしている〝売り方〟に見えるでしょう、でも叩き過ぎないようにしないと。十ポイント安で売りさばけば五十万ドルくらいは作れるでしょう。マーケットはそこまで下落しないかもしれません。お父さんだってこればかりはわからないでしょう。無限に下がるわけじゃないですからね。大手の保険会社の動向がわかればいいんですが。朝刊はまだ来てませんかね?」


呼び鈴を鳴らそうとしたが、使用人たちがまだほとんど起きていないことを思い出して自分で玄関まで行った。印刷したてでまだ乾ききっていない〈プレス〉紙と〈パブリック・レジャー〉紙があった。手に取って一面をちらりと見ただけで冷静さを失った。プレス紙にはシカゴの大きな黒い地図が掲載されていた。縁起でもない代物で、黒い部分が消失地区を示していた。彼はこれまでにこれほどはっきり明確な形でシカゴの地図を見たことはなかった。白い部分はミシガン湖で、シカゴ川が街をほぼ均等に――北と西と南に――三分割していた。この街がフィラデルフィアにどこか似て奇妙な配置になっていることにすぐ気がついた。ビジネス街は多分二、三マイル四方の地域で、三つの地区が出会う川の本流の南側にあり、川はそこで南西と北西の枝流が合流した後で湖に注いでいる。ここは重要な中心地だが、この地図によれば全焼していた。大きな目立つ黒い活字で「シカゴ灰になる」と脇に見出しがあった。焼け出された人たちの窮状、死者の数、財産を失った人の数の詳細がつづいて、それから、東部に波及しかねない影響を述べていた。保険会社や製造業者は、このすべての膨大な負担に耐えられないかもしれない。


「何てこった!」クーパーウッドは憂鬱そうに言った。「株式投機なんかに手を出すんじゃなかった。のめり込むんじゃなかった」クーパーウッドはリビングに戻って、両方の記事に注意深く目を通した。


時間はまだ早かったが、それから父親と一緒に事務所に向かった。すでに十通以上のキャンセルもしくは売却の注文が彼を待っていた。そこで立っている間にメッセンジャーがさらに三通持ってきた。一通はステーネルからで、一番早い便で十二時まで戻るという内容だった。クーパーウッドはほっとしたが、悩みはまだ解消しなかった。いろいろな借入金に対応するには、三時までに大金が必要なのだ。一時間一時間が貴重だった。他の誰かがステーネルに会う前に、駅で会う約束をして話をしなければならない。明らかに、しんどくて、陰鬱で、骨の折れる一日になりそうだ。


クーパーウッドがついたときにはもう三番街は、この事態の切迫性に呼び寄せられた他の銀行家やブローカーでごったがえしていた。疑いを抱いて先を急ぐ足音が響く――冷静な百人と動揺する百人の違いを生むのはその激しさだ。取引所は熱気に包まれていた。鐘が鳴ると、断続的に騒がしくなった。打算の極限状態にあるこの地方組織を構成する二百人が、その時間の掘り出し物の処分もしくは獲得をめぐって喚き散らしている乱戦に互いに身を投じ合う間、その金属由来の振動はまだ宙を漂っていた。利害がいろいろあり過ぎて、どのセクターで売り買いするのが一番いいのか、わからなかった。


ターグールとリバースは商いの中心にとどまり、ジョセフとエドワードは外側をうろうろして、その株で合理的な利益をあげて売れる機会をつかむよう任されていた。〝売り方〟は売り崩す覚悟だった。モレンハウワー、シンプソン、バトラーたちの代理人が、どれだけうまく路面鉄道セクターで状況を支えるかに、株の堅調な地合いがつづくかどうかがかかっていた。昨夜バトラーが最後に言ったのは、自分たちがやれることを精一杯やるということだった。一定の水準までは買い集めるのだろう。バトラーは、彼らが市場を無制限に支える気かどうかを言おうとしなかった。モレンハウワーとシンプソンのことまで保証できないし、彼らの事情までバトラーは知らないからだ。


興奮が最高潮に達したとき、クーパーウッドが現れた。入口に立って、リバースの目を引こうと様子を見ていると、取引所の鐘が鳴って取引が中断した。ブローカーとトレーダーは全員、取引所の事務員が発表を行う小さな張り出し席の方を向いた。そこに男が立っていた。後ろのドアは開いていた。小柄で色黒の事務員風の男は、年齢は三十八から四十くらい、痩せた体と青白い顔が冒険的な考え方を知らない几帳面な思考を物語った。右手に白い紙切れを一枚もっていた。


「ボストンのアメリカン火災保険会社が債務不履行に陥ったことをお知らせします」再び鐘が鳴った。


すぐに新しい、さっきよりも激しさを増した嵐が始まった。月曜日の朝、一時間の調査で、保険会社が一社潰れるなら、四、五時間、いや一日二日経ったら、どうなるんだ? これは、シカゴで焼け出された人たちがビジネスを再開できないことを意味する。これは、この問題に関連する貸付金がすべて返済を求められたか、これから求められることを意味する。ノーザンパシフィック、イリノイ・セントラル、リーディング、レイクシュア、ウォバッシュの商いで、地元の路面鉄道会社のすべての商いで、さらにはクーパーウッドの市債売り場で、ずっと下落をつづける価格で千口、五千口の注文を出しつづけている怯えた〝買い方〟たちの叫び声は、関係者すべての心を砕くのに十分だった。クーパーウッドは商いがとまった隙に、アーサー・リバースのところへ急いだが、言えることは少なかった。


「モレンハウワーとシンプソンとこの連中はあまりマーケットに貢献してないようだな」クーパーウッドは深刻そうに言った。


「あいつらはニューヨークから忠告されたんですよ」リバースは真面目に説明した。「うまく支えられるはずはないんです。向こうじゃ、廃業寸前の保険会社が三社を超えるそうですから。いずれ発表されると思いますよ」


二人は波乱の立会場を離れ、方策を検討した。クーパーウッドはステーネルとの取り決めで、儲けを出していたいつもの仮装売買もしくは市場操作の他に、十万ドルまで市債を買い付けることができた。これはあくまで市場を支えねばならない場合の取り決めだった。クーパーウッドは今、六万ドル分購入し、これを使って自分の他の借入金を支えることに決めた。すぐにステーネルがこの分の代金を払って、現金を追加してくれるだろう。これなら何とかすれば助かるかもしれない。とにかく、これで他の有価証券を値固めできれば、少なくとも捨て値よりもましなレートで何かを少し現金化する時間を稼げるかもしれない。せめてこの市場で〝空売り〟という手段があったらなあ! 今の自分の立場が、それをやっても破産をまったく意味しなかったらなあ! 現在の義務のせいで必然的に自分を破滅に追い込むかもしれないものが、少し違う条件下なら、どうすれば自分に大きな収穫をもたらすことができたかを、この危機に陥っているときでさえ考えていたのが、この男らしかった。しかし自分にはこの手段が使えない。この市場では両建てができないのだ。〝売り方〟と〝買い方〟があるのに〝買い方〟でしかいられない。変な話だが事実だ。自分の凄腕はここでは役に立たないのだ。自宅を担保にすればお金を貸してくれるかもしれないある銀行家に会いに行こうと振り返ろうとしたとき、また鐘が鳴った。再び取引が停止した。アーサー・リバースが州の有価証券取扱所の席から何か言いたげな顔を彼に向けた。そこでは州債が売られ、彼はクーパーウッドのために買い取りを始めていた。ニュートン・ターグールがクーパーウッドの傍らに駆け寄った。


「あなたは流れに逆らってますよ」彼は叫んだ。「私ならこのマーケットに逆らって売ろうとはしませんけどね。無駄ですよ。向こうは、あなたの足もとを崩しにかかってるんですから。底が抜けてます。数日中にきっと事態は好転しますって。持ちこたえられないんですか? ほら、さらに厄介なのが来ましたよ」


彼は広報担当のいる張り出し席に目を向けた。


「ニューヨークのイースタン&ウエスタン火災保険が債務不履行に陥ったことをお知らせします」


「えーっ!」に似た低い声がわき起こった。広報担当が小槌を打ち下ろして秩序を促した。


「ロチェスターのエリー火災保険が債務不履行に陥ったことをお知らせします」


再度「えーっ!」の声。


再び、小槌が鳴った。


「ニューヨークのアメリカン信託銀行が支払いを停止しました」


「えーっ!」


嵐は続いた。


「どう思いますか?」ターグールが尋ねた。「この嵐に立ち向かうなんて無理ですよ。売るのをやめて二、三日持ちつづけることはできないんですか? 何で空売りしないんですか?」


「ここを閉鎖すべきなんだ」クーパーウッドはぽつりと言った。「それが一番の解決策だろう。そうすれば何もできなくなるんだから」


自分と同じような窮地にいて、持っている影響力を使えばそれを実現できるかもしれない人たちに相談しようとクーパーウッドは先を急いだ。これは、この下げ相場が自分たちの目論見に有利だとさっそく見抜いて、大儲けしている人たちに仕掛けるべき手痛い策略だ。では、自分にとっては何だろう? 仕事は仕事だ。捨て値で売っても仕方がないので、部下たちには中止を指示した。銀行がよほど自分に好意を示すか、証券取引所が閉鎖されるか、あるいはすぐにステーネルが追加の三十万ドルを自分に預けるよう仕向けられない限り、破産だ。これの実現――取引所の閉鎖――を提案しながら、いろいろな銀行家やブローカーを訪ねて街中を奔走した。ステーネルに会うために、十二時数分前に駅に急行したが、残念なことに、ステーネルは来なかった。列車に乗りそこねたようだ。クーパーウッドは何か策略の予感がしたので、市役所とステーネルの自宅にも行くことにした。おそらくステーネルはすでに戻ってきていて自分を避けようとしている。


職場で見つからなかったので、自宅に直行した。ここで、とても顔色が悪く、ひどく取り乱した様子でちょうど出てきたステーネルに出くわしてもクーパーウッドは驚かなかった。ステーネルはクーパーウッドを見て真っ青になった。


「あれ、こんにちは、フランク」ステーネルはおどおどして叫んだ。「どこから来たんだい?」


「どうしたんですか、ジョージ?」クーパーウッドは尋ねた。「ブロード・ストリートに向かっているものだと思ってましたよ」


「そうだったんだけどさ」ステーネルは間抜けな返事をした。「西フィラデルフィアで降りて、服を着替えようと思ったんだ。今日の午後はやることがまだたくさんあるからね。きみに会いに行くところだったんだよ」クーパーウッドの緊急電報を受け取った後で、この反応は愚かしかったが、この若い銀行家はそれを聞き流した。


「いいですか、ジョージ」クーパーウッドは言った。「とても重要な話があるんです。電報でパニックの可能性について伝えましたよね。始まったんです。一刻の猶予もありません。株価は暴落中で、私の借入金のほとんどは返済を迫られています。金利四、五パーセントで三十五万ドルを数日の間貸してもらえないか、お伺いしたい。全額お返しします。どうしても必要なんです。それがないと私は破産するかもしれない。それがどういうことかわかりますよね、ジョージ。私が持ってるお金がすべて凍結されてしまうんです。あなたの路面鉄道株が私もろとも凍結されるんです。それをあなたに現金化させることができなくなるんです。そして、市から借りた私の金までまずいことになります。あなたがお金を戻せなくなるんです。それが何を意味するかおわかりでしょ。私たちはこれを一緒にやってるんですからね。あなたが無事に切り抜けるのを見届けたいのですが、あなたが助けてくれないと私にはできません。昨夜はバトラーのところへ行って彼のお金の件を確認しなければならなかった。私は他の融資先からお金を調達するために精いっぱいがんばってるところなんです。でも、あなたが助けてくれないと、残念ながら、私にはこの件を切り抜ける見通しが立てられないんです」クーパーウッドはいったん話をやめた。クーパーウッドは相手が拒否する前に、この件のすべてをはっきりと簡潔に説明したかった――これが自分の窮地であることを相手に認識させたかった。


実は、クーパーウッドが強く抱いていた疑念はまさに的中していた。ステーネルには手がまわされていた。前夜、バトラーとシンプソンが帰宅した直後にモレンハウワーは、とても有能な秘書のアブナー・セングスタックを呼んで、ステーネルの居場所に関する確かな情報をつきとめさせた。次にセングスタックは、ステーネルと一緒にいるストロビクに長い電報を打ち、クーパーウッドに注意するよう警告を促した。公金の件は知られた。ステーネルとストロビクはウィルミントンでセングスタックと落ち合うことになった(これはクーパーウッドが先にステーネルと接触しないようにするためだった)――そして事の全貌が完全に明らかにされた。逆らえば起訴だと言われ、これ以上お金が使われることはなくなった。誰かに会いたければ、ステーネルはモレンハウワーに会わなければならなかった。セングスタックはストロビクから、翌日の正午に到着する予定であることを知らせる電報を受け取り、ウィルミントンまで出向いて彼らと会った。その結果、ステーネルは市のビジネス街の中心部には直行せず、代わりにまず服を着替えに自宅に行き、それからクーパーウッドに会う前にモレンハウワーに会うことになった。ステーネルはひどく怯え、考える時間を欲しがった。


「無理だよ、フランク」ステーネルは泣き言を言った。「この件で私はかなりまずいことになってるんだ。モレンハウワーの秘書がついさっきウィルミントンで列車を待ち伏せして、この問題で警告してきてね。ストロビクだってこれには反対するよ。向こうは私の貸付残高まで知っているんだ。きみか誰かが話したんだよね。私はモレンハウワーには逆らえないよ。ある意味、私があるのはすべて彼のおかげだからね。彼が私をこの地位につけてくれたんだ」


「いいですか、ジョージ。こういうときは何をするにしても、そういう政治的忠誠心で自分の判断力を曇らせないことだ。あなたはとても深刻な立場にいる。私もです。もし今、私と一緒に自分のために行動しなければ、あなたのために行動してくれる人は誰もいないんですよ――今もこれからも――誰もいません。後になってからでは手遅れなんです。昨夜バトラーのところへ行き、私たち二人を助けるようお願いして、それがわかりました。向こうは全員、私たちの路面鉄道買収の一件を知っています。私たちを振り落としたいんですよ。大なり小なりそれが原因です――それ以上でも以下でもない。こういう勝負、こういう特殊な状況では、食うか食われるかです。みんなを敵に回して自分たちを守るか共倒れするかは、自分たち次第なんです。私はそれを言うためにここにいます。モレンハウワーは今日のあなたを、あの街灯の柱ほども気にかけてはいませんよ。彼が気にしているのは、あなたが私に出したお金ではなく、誰がそれで何を手に入れたかなんです。向こうは私たちが路面鉄道を買収中なのを知っています。わかりませんか、向こうは私たちがそれを手に入れることを望んでません。いったん私たちの手からそれを取り上げてしまえば、あなたや私なんかのために一日だって無駄にしてくれませんよ。あなたにはそれがわからないんですか? 投資したものをすべて失ったとたんに、あなたも私もおしまいです――そして、誰もあなたや私のために政治的に、あるいはその他の手段でも、手を差し伸べてはくれませんよ。そこのところを理解してほしいんです、ジョージ。だってそれが真実ですから。モレンハウワーが言うから何かをやるとかやらないとか言う前に、あなただって私があなたに言わなくてはならないことをよく考えたいでしょ」


クーパーウッドは今ステーネルの前に立って相手の目を直視し、自分の精神的手段の相手を動かす力を使って、最終的にそれがステーネルに与える影響がどれほど少なかろうとも、自分(クーパーウッド)を救えるかもしれない一歩をステーネルに踏み出させようとした。そして、もっと興味深いのは、彼は心配していなかった。このとき彼がわかっていたように、ステーネルは、誰であろうとそのとき居合わせた相手の言いなりだった。モレンハウワー氏、シンプソン氏、バトラー氏を差し置いて、できればステーネルを自分の手中に収めておこうとクーパーウッドは考えた。そして、まるで蛇が鳥を見るように相手を見ながらその場に立って、やれるのならステーネルを私利私欲に走らせてやろうと決めた。しかしステーネルはその時、手の施しようがないほどひどく怯えていた。顔はすっかり青ざめ、まぶたと目のふちは腫れぼったく、手と唇は湿っていた。ああ、何て穴におちてしまったんだ! 


「大丈夫だと言ってくれよ、フランク」ステーネルは必死に叫んだ。「きみの言うとおりなのは私だってわかってるよ。でも、もしその金をきみに渡したら、私と私の立場はどうなる。彼らは私に何だってできるし何だってやるだろうよ。私の身にもなってくれよ。きみが私に会う前にバトラーのところへ行きさえしなければよかったんだ」


「あなたが鴨撃ちに出かけていたときに、私があなたに連絡を取りたい一心で、わかった場所に手当たり次第に電報を打っていたときに、まるで私があなたに会えたかのようですね、ジョージ。私はどうすればよかったんですか? 状況に合わせるしかなかったでしょ。それに、バトラーは実際よりももっと私に好意的だと思ったんです。でも、私がバトラーのところへ行ったことを今さら怒っても仕方がないでしょ、ジョージ、とにかく、今のあなたに怒ってる余裕はありませんよ。私たちは一蓮托生なんですから。沈むにしろ泳ぐにしろ私たち二人だけの問題なんです――他の誰でもなく――私たちだけなんですよ――わからないんですか? 私がバトラーにしてもらいたかったことは――モレンハウワーとシンプソンに市場を支えてもらうことは――バトラーにはできなかったか、やろうとしなかったんです。それどころか、売り叩いているんです。向こうには向こうの思惑があるのでしょう。私たちを振り払おうとしてるんですよ――あなたにはそれがわからないんですか? あなたと私が集めたものをすべて奪う気なんです。私たちを救えるのは、あなたと私だけなんですよ、ジョージ、だから私は今ここにいるんです。もしあなたが私に三十五万ドル――とにかく三十万ドル――渡してくれなければ、あなたと私は破滅します。私よりもあなたの方がひどいことになるんですよ、ジョージ、私はこの問題に一切関与していないんですから――とにかく法的には関係ないんです。でも、私が考えているのはそういうことじゃありません。私がやりたいのは、私たちを救うことなんです――向こうが何を言おうが何をしようが、私たちの残りの人生をすごしやすくすることなんです。私たち二人がそれを実現するためには、私が協力して、あなたが力を発揮しないとなりません。あなたにはそれがわからないんですか? 私は自分の事業を守りたい。そうすれば、あなたを救えてあなたの名前とお金を守れるんです」これがステーネルを納得させたことを期待して、クーパーウッドは話をやめたが、ステーネルはまだ震えていた。


「だけど私に何ができるんだい、フランク?」ステーネルは弱音を吐いた。「モレンハウワーには逆らえないよ。そんなことをすれば私は起訴されちゃうんだ。とにかく、向こうにはそれができるんだ。だから私にこれはできないよ。私はそんなに強くはないんだから。もし向こうが知らなかったら、きみさえ彼らに言わなかったら、話は違ったかもしれない、でもね、こうして――」ステーネルはしょんぼりと首を振った。灰色の目が青白い苦悩でいっぱいになった。


「ジョージ」ここは厳しく言って聞かせない限り効果はないとようやく気づいたクーパーウッドは答えた。「私がやったことを蒸し返さないでください。私は自分がやらなければならないことをやったまでです。あなたは理性と勇気を失い、ここで重大なミスを犯す危険な状態にいる。あなたがそういうミスを犯すところを私は見たくないんです。私はあなたのために市の公金五十万ドルを投資に使ってます――一部は私のためですが一部はあなたのためです。でも私よりもあなたのためにしたことなんです」――ちなみに、これは事実ではない――「なのに、あなたはここでこういう時に、自分の利益を守るか守らないかで躊躇している。私にはそれが理解できない。これは危機なんです、ジョージ。株価は全セクターで暴落している――みんなの株がです。これはあなただけの問題ではない――私だけでもない。これは火事によって引き起こされたパニックなんですから。だから自分で自分の身を守らない限り、生きてこのパニックを抜け出すことはできません。モレンハウワーのおかげでこの地位があるとか、モレンハウワーのすることが怖いとあなたは言いますが、自分の状況と私の状況を考えれば、私が破産しない限り、向こうが何をしようと大して違わないことはあなたにだってわかるでしょう。私が破産したら、あなたはどうなりますか? 誰があなたを起訴から救うんですか? モレンハウワーか他の誰かが進み出て、あなたのために五十万ドルを市に返納してくれますか? あいつはしませんよ。モレンハウワーたちがあなたの利益を一番に考えるのであれば、どうして彼らは今日、取引所で私を助けてくれないんですか? その理由を説明しましょう。彼らは、あなたと私の路面鉄道株が欲しいんです。後であなたが刑務所に行こうが行くまいが関係ありません。さあ、あなたが賢明なら、私の言うことを聞いてください。私はずっとあなたに忠実でしたよね? あなたは私を介して儲けましたよね――たっぷりと。ジョージ、あなたが賢明なら、オフィスに行って、他の何をさておいても、とにかく三十万ドルの小切手を私宛に書いてください。それが済むまでは、誰にも会わず何もしないことです。親羊を盗めば縛り首なんですから、子羊を盗んだところで、もはや縛り首になりようがありません。誰もあなたがその小切手を私に渡すのを妨げることはできないんです。あなたは市財務官なんですよ。これさえ手に入れば、私にはこの窮地を脱する道筋が見えるんです。これは来週か再来週には全額返します――その頃にはこのパニックはきっと収まっていますから。それを金庫に返しておいて、少しすれば五十万ドルについても見通しは立てられますよ。私なら三か月かそれ以内で、あなたがお金を返納できるように用意できます。実際、私が再起すれば十五日でやれますよ。私が欲しいのは時間だけなんです。金さえ返してしまえば、あなたは持ち株を失うことはないし、誰もあなたを困らせることはできません。向こうだってあなた以上にスキャンダルを起こしたくはないんですから。さあ、どうします、ジョージ? 私があなたに強制できないのと同じように、モレンハウワーにもあなたがこれをやるのをとめられません。あなたの人生はあなたの手の中にあるんです。どうしますか?」


自分の資産が血を流してなくなりつづけているのに、実は、ステーネルは馬鹿みたいにそこに立って考え込んでいた。ステーネルは行動するのが怖かった。モレンハウワーが怖くて、クーパーウッドが怖くて、人生や自分自身が怖くてたまらなかった。パニックや損失を考えても、自分の財産やお金にはあまり明確に結びつかないのに、地域社会での自分の社会的、政治的立場には結びつくのだ。資本家的な感覚を、強く発達させた人はあまりいない。富の支配者であることや、社会活動の源泉を解放することや、交換の媒体を持つことが、どういうことなのかを知らない。人はお金を欲しがるが、お金自体が目当てなのではない。人はお金で単純に楽に買えるものが目当てでお金を欲しがるが、資本家はお金が支配するものが目当てでお金を欲しがるのだ――威厳や影響力や権力の形でお金が象徴するものが欲しいのだ。クーパーウッドが欲しいのはそういう形でのお金だが、ステーネルは違った。だから、ステーネルはみずから進んでクーパーウッドに自分の代行をさせてしまった。そして、クーパーウッドが目論んでいる事の重大性がこれまで以上にはっきりとわかった今、彼は怖くなった。しかもモレンハウワーはおそらく反対して激怒するだろうし、クーパーウッドは破産するかもしれないし、本当の危機に立ち向かう能力が自分にはない、などが重なって理性が働かなかった。クーパーウッドの天性の金融の才能でも、この時のステーネルを安心させることはできなかった。この銀行家は若すぎるし新人もいいところだ。モレンハウワーの方が年も財力も上だった。シンプソンもバトラーもそうだ。自分の富を持つこの男たちは、ステーネルの世界の大きな力、大きな基準の象徴だった。そのうえ、クーパーウッド自身が、自分はとても危険な状態だ――切羽詰まっている、と告白したではないか。この状況ではこれしかやりようがなかったが、これはステーネルに向かって言うには最悪の告白だった。ステーネルには危険に立ち向かう勇気などまったくないのだから。


だから今、ステーネルはクーパーウッドのそばで立ち尽くして、考え込んでいた――青ざめ、脱力状態だった。自分の利益の命脈を即座に見抜けず、はっきりと確実に力強くたどることができなかった――ステーネルの事務所に向かう間はこんな調子だった。クーパーウッドは直談判を続けるためにステーネルと一緒に事務所に入った。


「ねえ、ジョージ」クーパーウッドは真剣だった。「返事を聞かせてください。時間がないんです。一刻の猶予もありません。お金を渡してください。そうすれば私はすぐにこの状態を抜け出せるんです。言っておきますが、我々には時間がない。あいつらの脅しに乗ってはいけません。あいつらはあいつらのちっぽけな勝負をしていればいい。あなたはあなたの勝負をすればいいんです」


「無理だよ、フランク」ステーネルは結局、弱音を吐いた。モレンハウワーのいかつい有無をも言わせぬ顔を思い出すと、自分の投資の行方についての彼の判断力はいったんねじ伏せられた。「考えないといけない。今すぐ実行するのは無理だ。ストロビクは、きみに会う前に帰ったばかりだし――」


「おい、おい、ジョージ」クーパーウッドは呆れて叫んだ。「ストロビクの話なんかよしてくれ! あいつに何の関係があるんです? 自分のことを考えてください。自分がどうなるかを考えるんです。自分の将来ですよ――ストロビクのじゃなく――あなたはそれを考えなくてはいけない」


「わかってるけどさ、フランク」ステーネルは弱腰でも譲らなかった。「本当に、どうしたらいいのかわからないんだ。正直言ってわかんないよ。きみは自分でも、これをうまく乗り切れるかわからないって言ってるじゃないか。それにあと三十万、あと三十万って。できないよ、フランク。本当に無理なんだ。こういうのはよくないってば。それよりも、とにかく、まずモレンハウワーと話がしたい」


「おい、よくそんなことが言えるな!」隠しきれない軽蔑を浮かべた目で相手を見ながら、クーパーウッドは怒りを爆発させた。「じゃあ、そうすればいい! モレンハウワーに会えばいい! あいつの利益にしかならない自分の喉の切り方を教えてもらえばいい。私に三十万ドルの追加融資をするのは正しくないが、すでに貸した五十万ドルを守りもせず放置して失うのは正しいんですね。それは正しいんですね? あなたがやろうとしているのはそういうことなんです――それを失って、他のすべてのものまで失うんです。私はそれがどういうことかをあなたに話したい、ジョージ――あなたは正気を失っている。モレンハウワーからたった一言言われただけで死ぬほど怯えている。そしてそんなもののために、自分の財産も名声も地位も――すべてを――危険にさらそうとしている。私が破産したらどうなるか、あなたは本当にわかっているんですか? あなたは囚人になってしまうんですよ、ジョージ。刑務所に行くんですよ。このモレンハウワーという男は、今は素早く立ち回ってあなたに禁止事項を言うくせに、いったんあなたが倒れたら、絶対にあなたに手を差し伸べてはくれませんよ。でも、私ならどうです――私はあなたの力になってきたでしょ? 今まで私はあなたが満足できるようにあなたの仕事を手がけてきたじゃありませんか? 一体どうしてしまったんです? あなたは何を恐れているんですか?」


ステーネルがまた弱音を吐こうとしたとき、外の事務室のドアが開いて、ステーネルの主席事務官のアルバート・スターズが入ってきた。ステーネルはすっかり動転してしまい、このときは本当にスターズにまで気が回らなかったが、クーパーウッドがみずから対応にあたった。


「どうしました、アルバート?」クーパーウッドは親しげに尋ねた。


「モレンハウワーさんのところからセングスタックさんが、ステーネルさんに会いに来られました」


ステーネルはこの恐ろしい名前を聞いて葉っぱのようにしおれた。クーパーウッドはそれを目撃した。三十万ドルを手に入れる最後の望みがこの瞬間に潰えたかもしれないと悟った。それでも、クーパーウッドはまだあきらめるつもりはなかった。


「では、ジョージ」ステーネルがすぐにセングスタックに会う、という指示を受けてアルバートが退室した後、クーパーウッドは言った。「事情はわかりました。この男が気になって仕方がないんですね。今のあなたでは自分のために行動するなんて無理だ――怯えきっていますから。しばらくはそっとしておきますよ。でも私は戻って来ます。お願いだから、しっかりしてください。これがどうなるのかを考えてください。もしわからなければ、どうなるのか、私が正確に教えてあげますよ。行動すればあなたは押しも押されもしない金持ちになります。行動しなければ囚人になるでしょう」


バトラーに再会する前に、街でもうひと頑張りしようと決心したクーパーウッドは、颯爽と外に出て、外で待機していた軽快なバネの効いた馬 車(ランナバウト)――脚を高らかとあげる若い鹿毛の雌馬に引かれた、座席が黄色い革のクッションの、黄色いぴかぴかのすてきな小型車――に飛び乗った。そして、クーパーウッドはドアからドアへと馬車を走らせ、無造作に手綱を放り投げ、銀行の階段を駆けのぼったり、事務所のドアに飛び込んでいった。


しかし、すべて無駄足だった。どこも関心を示し、考えてはくれたが、事態はとても不透明だった。ジラード・ナショナル銀行は一時間の猶予もくれなかった。クーパーウッドはここでの株の評価損を補うために、手持ちの一番価値のある有価証券を大量に送らなければならなかった。二時に父親から、第三ナショナル銀行頭取として十五万ドルの返済を請求しなければならない、という連絡が入った。経営陣がクーパーウッドの株に疑いを抱いたのだ。クーパーウッドはただちにその銀行にある自分の預金五万ドルを原資とした小切手を書き、利用可能な事業資金二万五千ドルを取り崩し、ティグ商会に対して五万ドルの返済を求め、試しに手がけたグリーン=コーツ鉄道六万株をその価値の三分の一で売却し、このすべてをまとめて第三ナショナル銀行へ送り届けた。父親はある立場からは大いに胸をなでおろしたが、違う立場からは悲嘆に暮れて落ち込んだ。自分の資産がどれほどのものになるかを確認するため、正午に急遽外出した。ある意味ではこれをすることによって彼は自分の評判に傷をつけていた。しかし自分の金銭的な利害はもちろん、親心が絡んでいた。自宅を抵当に入れ、家具、馬車、土地、株式などを担保にして、現金十万ドルを調達し、フランクの信用を保つために自分の銀行に預けた。しかしこれは、渦巻く嵐の中で風上にとても軽い錨を投げるようなものだった。フランクは、借入金のすべてを少なくとも三、四日延ばしてもらおうと考えていた。月曜日午後二時、自分の状況を再考しながら、クーパーウッドは思案に暮れた厳しい表情で独り言を言った。「うーん、ステーネルが三十万ドル貸してくれないとな――こうなるとそれしかない。それに、そろそろバトラーにも会わないとならない。さもないと三時前に金を返せと向こうから言ってくるぞ」


クーパーウッドは急いで外に飛び出すと、一目散にバトラー邸へと駆けつけた。



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