表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
資本家  作者: ドライサーの小説の翻訳作品です
10/59

第10章

 

 新婚旅行から帰ってから二人が築いた家庭の雰囲気は、クーパーウッド夫人がセンプル夫人として送った以前の生活の特徴よりも随分趣味がよくなった。少なくとも当分はノースフロント・ストリートにある彼女の家に住むことに決めた。そのときの芸術を積極的に取り入れたクーパーウッドは、婚約直後から家具や装飾のセンス、というかそれがないのが嫌で、何がふさわしいかについては、自分の考えにもっと合うようにさせてほしいと提案していた。成人に成長するまでの歳月の間に、彼は本能的に、芸術的なものや洗練されたものについて正常な考えができるようになっていた。自分の家よりも格調が高くて調和のとれた家を数多く見ていた。より洗練され選び抜かれた上流の生活を目指すおおよそのトレンドを見たり感銘を受けたりせずに、フィラデルフィアを歩いたりドライブすることなどできない。立派で高価な家がどんどん建てられていた。花を植えようと試みられている前庭の芝生が、地元では人気を博していた。ティグ家、リー家、アーサー・リヴァース家などの屋敷で、それなりに立派な美術品――ブロンズ像、大理石の彫刻、掛け軸、絵画、時計、敷物など――を見かけたことがあった。

 

 このときは、割りと平凡な家でも割りと安い費用で、魅力的なものに変えることができるように彼には思えた。たとえばダイニングルームは、ベランダの奥の平らな側壁にある飾りっ気のない二つの窓から、南の芝生と何本かの木々と灌木を越えて、センプル家の土地の終わりと隣りの土地の始まりとを隔てるフェンスが見えるが、あれなどはもっとずっと魅力的にできるはずだ。あのフェンス――先の尖った灰色の柵――は取っ払ってその跡を生け垣にすればいい。ダイニングとリビングを仕切る壁を壊して、代わりに何か素敵な掛け物を吊るしてもいい。張出し窓を作って、今ある二つの縦長の窓と取り替えてもいい――張出し部は、床までさげて、回転式の菱形の鉛の窓枠を使って芝生の上に開くようにしよう。どこから集めたかもわからないようなこのみすぼらしいこれといった特徴のない家具――一部はセンプル家とウィギンズ家から受け継いだもので、一部は買ったもの――はみんな、捨てるか売るかして、もっといいもの、もっと調和のとれたものを取り入れればいい。彼はエルスワースという名の若者を知っていた。地元の学校を新たに卒業した建築家で、クーパーウッドは興味深い親交を結んでいた――気質の、数ある説明のできない性向のひとつだった。ウィルトン・エルスワースは心底芸術家だった。物静かで、瞑想家で、洗練されていた。当時建設中だった、エルスワースがひどいとこき下ろした、チェスナット・ストリートのあるビルに対する品評がきっかけで、二人はアメリカにおける芸術全般もしくはその欠如について議論するようになった。そして、エルスワースこそが、自分の装飾のイメージを精密に実現できる人物だと思い当たった。この若者を勧めるとリリアンはおとなしく賛成し、家をどう改装すればいいかについてのクーパーウッドの考えにも賛成した。

 

 二人が新婚旅行に出かけている間に、エルスワースは家具込みで三千ドルという見積もりで改修工事に着手した。二人が戻ってからも三週間近く完成しなかったが、終わってみれば割りと新しい家になっていた。ダイニングルームの張出し部は、フランクの希望どおり、芝生を覆うように低い位置まで下がり、窓は菱形の鉛の窓枠になって、真鍮の棒を軸にして回転した。リビングとダイニングはスライドドアで仕切られたが、目的は、この空間にノルマンディーの結婚式の風景を描いたシルクの掛け物を吊るすことだった。ダイニングにはオールド・イングリッシュ・オーク、リビングとベッドルームにはチッペンデールとシェラトンを模倣したアメリカの木材が使われた。あちこちに単純な水彩画が掛けられ、ホスマーやパワーズのブロンズ像、今は忘れられた彫刻家ポッターの大理石のヴィーナス、他の美術品があった――特筆すべきものは何もなかった。感じのいい、ふさわしい色合いの敷物が床を覆った。クーパーウッド夫人は、アメリカにはないヨーロッパの自由な雰囲気を伝えるヴィーナスの裸体に衝撃を受けたが何も言わなかった。すべてが調和していて心を慰めてくれた。リリアンは自分に判断が下せるとは思わなかった。フランクは彼女よりもはるかにこういうものに精通していた。それから、メイド一人とすべてを取り仕切る男一人を雇入れ、小規模ながら人をもてなす計画が始められた。

 

 結婚生活の初期を思い返せば、この新しい状況がフランクにもたらした微妙な変化が一番よくわかるだろう。結婚という(くびき)を受け入れたすべての人たちと同じように、彼も自分を取り巻く環境に、ある程度影響された。まず、彼の性格のいくつかの特徴から、人は彼が高い社会的地位と重要性を持つ市民になるように声をかけられた者だと想像しただろう。理想的な家庭人に見えた。夕方になると、交通がやかましくて、人が先を急ぐ、混雑したダウンタウンを離れて、妻のもとに帰ることがうれしかった。ここで彼は、自分が人生の中のいい境遇に置かれ、肉体的にも幸せであることを実感できた。キャンドルを飾ったディナーの食卓(フランクの考案)、淡いブルーかグリーンのトレーリングドレスを着るリリアン――そういう色をまとった彼女が好きだった、たっぷりくべた薪が燃えている大きな暖炉、自分の腕に抱かれて心地よさそうなリリアン、といった思いが彼の大人げない想像力をつかんではなさなかった。前にも述べたように、彼は本にはまったく関心がなかったが、人生、絵画、木々、肉体的な触れ合いにはあった――こういうものは、抜け目のない、すでにしっかりつかみかけている金融的な打算の裏で、彼を支えた。豊かで、楽しく、充実した人生を送るために――彼のすべてがそれを必要とした。

 

 年の差があったにもかかわらず、この頃クーパーウッド夫人はフランクにぴったりの伴侶に見えた。いったん目が覚めても、彼女はしばらくの間、まとわりつき、よく反応し、夢見心地でいた。フランクもリリアンも赤ん坊が欲しかった。少しすると、おめでたがリリアンから彼にささやかれた。リリアンは、これまで授からなかったのは自分のせいだと半分思い込んでいたので、そうではなかったことが証明され、むしろ驚いて喜んだ。これは新たな可能性を開いた――彼女が不安を抱くことがない輝かしい未来に見えた。彼は自分の複製という発想が好きだった。いかにも欲深い考え方だった。何日も、何週間も、何か月も、何年も、少なくとも最初の四、五年、彼は毎晩帰宅し、庭を散歩し、妻とドライブに出かけ、友人をディナーに招き、自分がこれからやろうとしていることを、妻に説明するように話すことに、とても満足していた。金の流れの複雑さはリリアンには理解できなかったし、彼も苦労してまでそれをわからせようとはしなかった。

 

 しかし、愛、かわいらしい体、唇、静かな物腰――このすべての魅力が結びつき、子供を二人――四年で二人――授かった。最初に生まれたフランク・ジュニアを膝に乗せて、そのぽっちゃりした足や、キラキラしている目、ほとんど形のない、まだ蕾のような口を見ながら、子供がこの世に生まれてくる過程を不思議に思った。精子に始まり、女性でも不慣れな妊娠期間、病気や出産の危険性など、これに関連することには考えることが多かった。フランク・ジュニアが生まれるとき、クーパーウッド夫人が怖がったものだから、彼は大変なひと時を過ごした。彼女の肉体の美しさが損なわれるのを恐れ――彼女を失う危険に気をもんだ。そして子供が生まれる日にドアの外に立ったときは、実際に初めて不安な気持ちを耐え忍んだ。それほどではなかった――クーパーウッドは自分のことは自分で何とかするし、何とでもしてしまうから。それでも心配だったので、死や、二人の現在の状態が終わってしまうとか、いろいろ考えた。そして、あのつんざくような悲痛な叫び声の後で、すべてうまくいきましたと声をかけられて、新生児との対面が許された。この経験は、クーパーウッドの物事に対する考え方を広げ、人生に対する判断をさらに手堅いものにした。化粧板の下には材木があるように、物事の表面の下には悲劇が潜んでいるという、あの昔の信念が強化された。息子のフランク、そしてその後の青い目で金髪の娘のリリアンは、彼の想像力をしばらく膨らませた。結局、家庭という考え方には大きな意味があった。そうやって暮らしが成り立っている。適切な形で――その礎が家庭だ。

 

 この歳月の中にあった大きな変化が、どれくらい微妙かをあまさず示すことはできない――変化はとてもゆるやかであり、柔らかい水が打ち寄せるのと同じで目立たなかった。かなりの――元手が少なかったことを考えれば巨万の――富が、その後の五年で追加された。彼は金融界で、取引相手が増えるにつれて、着実に拡大を続けている金融界きっての最も微妙な人物の幾人かをかなり親密に知るようになった。ティグ商会時代や取引所で働いていた頃、大勢の興味深い人物が指摘されて彼に教えられた――〝政治から何かを生み出そうとしている〟いろいろなランクの州や市の役人たちとか、ドレクセル商会やクラーク商会さらにはティグ商会にまで会いに、時々ワシントンからフィラデルフィアにやって来る国の要人たちだ。彼が学んだところによれば、この人たちは、特定の銘柄や取引のタイミングに影響を与えるのが確実な、法律や経済の変化に関する内報や事前情報を持っていた。昔、ティグ商会で、若い事務員がクーパーウッドの袖をひっぱったことがあった。

 

「ティグに会いに来たあの男が見えるか?」

 

「はい」

 

「マータっていう市の財務官だ。あいつは何もしないけど役得だよな。あれだけの大金をみんな投資にまわすんだ。しかも元金以外は何の責任も負わなくて利益はあいつのところへ行っちまうんだ」

 

 クーパーウッドは理解した。市や州の役人は皆、投機をしていた。市や州の公金を、公認代理人や州の指定預託機関として、特定の銀行やブローカーに預ける習慣があった。銀行は――役人個人以外に――利息を払わなかった。銀行は役人の密命を受けてその金を特定のブローカーに貸し付け、ブローカーはそれを「確実な勝ち目」に投資した。そのお金は、時間の一部を銀行家が、もう一部をブローカーが自由に使い、役人は利益をあげて、ブローカーはたっぷり手数料を受け取った。フィラデルフィアには、市長、議会の一部の議員、財務官、警察署長、公共事業局長などからなる政治グループがあった。よくある〝持ちつ持たれつ〟というやつだ。クーパーウッドは最初これをかなり汚いやり口だと考えたが、大勢が手っ取り早く金持ちになっていたし、誰も気にしてはいないようだった。新聞はいつも市民の愛国心や誇りを謳っていたが、こういうことに関しては一言も書かなかった。それに、これをやる人たちは権力者で尊敬されていた。

 

 手形の発行と支払いの業務で、クーパーウッドをとても信頼できる仲介者と見なした会社は数多くあり、その輪は絶えず広がっていた。どこに行けばお金が手に入るのか、彼はすぐにわかってしまうようだった。提案には即座に議論することなく応じられるように、最初から二万ドルの現金を手元に置いておくことを原則とした。そのため、そうでなかったら一見できないようなことでも「ええ、もちろん、できますとも」と言い切れることがよくあった。取引所で特定の株の取引を扱うつもりはないかと尋ねられることもあった。クーパーウッドは会員ではなく、最初は扱うつもりはなかったが、今では気が変わって、フィラデルフィアだけでなく、ニューヨークの会員権も購入した。クーパーウッドがさまざまな手形の発行を手がけてきた衣料雑貨商のジョセフ・ジマーマンという人物が、自分のために路面鉄道株の取引を引き受けないかと持ちかけた。これが、彼が株取引に戻るきっかけだった。

 

 その一方で、家族の生活は変化していた――向上していた、前よりも立派に、安心できるものになった、と言ってもよかったかもしれない。例えば、夫人は時々、クーパーウッドが調整したように、自分の対人関係に微妙な調整を加えざるを得なかった。センプル氏が生きていた頃に、社会的な付き合いがあったのは、主に商人――小売りや小さな卸売業者――とても少ない人数だった。自分が所属している教会の第一長老派の女性たちの中にも、夫人と親しい者はいた。彼女とセンプル氏が参加していた教会のお茶会や親睦会があったし、夫の親族や自分の身内を義理で訪ねることもあった。クーパーウッド家や、ウォーターマン家、数は少なくてもそういう格上の一族は極めて例外だった。今や、すべてが変わってしまった。若いクーパーウッドは妻の身内にあまり気を遣わなかったし、センプル家は彼女の二度目の、しかも彼らにとってはとんでもない結婚のせいで疎遠になった。彼自身の家族は、愛情の絆と、相互の繁栄によって親密な関係が築かれた。しかしそれ以上に、彼は本当に重要な人物たちを自分に引き寄せていた。銀行家、投資家、顧客、見込みのある客たちを商談のためではなく――彼はそういう考え方を嫌った――社交のために自宅に連れてきた。スカークルにもウィサヒコンにもその他のところにも、日曜日にドライブで行ける人気があって食事のとれる場所があった。クーパーウッド夫妻が頻繁に車で出かけたのは、セネカ・デイビス夫人、キッチン判事、知り合いの弁護士アンドリュー・シャープレス、顧問弁護士のハーパー・シュテーガーの家だった。クーパーウッドは天性の人たらしだった。これらの男性も女性も誰ひとりとして彼の腹の底を疑わなかった――彼は考えて、考えて、考えていたが、そうしながらも人生を楽しんでいた。

 

 クーパーウッドが若い頃から純粋に傾倒した最たるもののひとつが絵画だった。彼は自然をこよなく愛したが、どういうわけか、理由はわからなかったが、私たちが個々の人間を通して法律や政治の考えを身につけるのと同じで、人は誰か解釈者の個性を通すことで自然を一番よく理解できる、と考えた。どちらにしても、クーパーウッド夫人はちっとも興味がなかった。夫に同行して展覧会に行っても、フランクは少し変わっているとずっと思いつづけていた。クーパーウッドは妻を愛していたから、妻にもこういうものに知的関心を持たせようとした。しかしリリアンは少しはそういうふりをしたが、本当はわからなかったし、興味も持てなかった。彼女に無理なのは歴然としていた。

 

 子供たちは夫人の時間を大幅に奪った。しかし、クーパーウッドはこれを気にかけなかった。リリアンがこれほど献身的であることは、彼には喜びであり、とても価値あることだった。同時に、彼女の無気力な態度、あいまいな微笑み、そして時々見える無関心さ、といった主に絶対的な安心感から生まれたものも彼を引きつけた。リリアンはあまりにも彼とは違っていた! リリアンは一度目の結婚――心変わりなどありえない厳粛なこと――とまったく同じように、二度目の結婚をした。しかし、クーパーウッドの方は、少なくとも経済的にはすべてが変わったように見え、とてもたくさんの突然でほとんど聞いたことがない変化ばかりの世界で、忙しく動き回っていた。時々、思索的なまなざしで彼女を見始めた――彼女のことが好きだったから批判的にではなく――彼女の人柄を見極めようという姿勢だった。知り合ってもう五年以上たっていた。自分はリリアンついて何を知っているのだろう? 若さの勢いが――最初の数年間は――随分たくさんのことを補っていた。しかし、無事に彼女を手に入れた今は……。

 

 この時期にゆっくり近づいてきたものがあった。そして、ついに布告された南北戦争には、とても大きな興奮が伴ったので、ほとんどすべての当時の人たちの心はそれ一色で染められた。ひどいものだった。それから、集会があった。国民全体の、扇動的なものが、そして暴動、ジョン・ブラウンの亡骸の事件、イリノイ州スプリングフィールドからフィラデルフィア経由で、就任宣誓をするためにワシントンに向かっていた偉大な平民リンカーンの到着、ブルランの戦い、ヴィクスバーグの戦い、ゲティスバーグの戦い、などなど。クーパーウッドは当時まだ二十五歳の、冷静沈着な、意志の強い青年で、奴隷運動は人権という点では正しいかもしれないが――間違いなく正しいかった――商業にとっては危険極まりないと考えた。北部の勝利を期待したが、彼や他の金融業者にとっては苦難がつづくかもしれなかった。彼は戦いたいとは思わなかった。個人が戦うことが愚かしく思えた。他の人たちは戦うかもしれない――撃たれるために我が身を差し出そうとする、かわいそうな、思慮の浅い、未熟な者が大勢いた。しかし彼らは命令されるか、撃ち殺されることにしか向いていない連中だった。クーパーウッドにとって、自分の人生は、自分と自分の家族と自分の個人的利益のためのものだった。ある日、静かな脇道の一つで、労働者たちが仕事から帰宅する頃、青い軍服を着た小さな募兵隊が、連邦旗を掲げ、太鼓を叩き、横笛を吹き、熱狂に包まれて行進してくるのを見たのを思い出した。その目的はもちろん、これまで無関心だったり迷っていた市民に強い印象を与えて、その者が心の均衡や利己心を失い、妻、両親、家庭、子供などすべてを忘れ、国の大きな急務しか目に入らず、隊列の後ろについて入隊するくらいにまで気持ちを高ぶらせることだった。バケツを振りながら、明らかに自分の一日の仕事がこのような結末を迎えるとは考えてもいない、ひとりの労働者が、募兵隊が近づくと立ち止まって耳を傾け、隊がさらに近づくと躊躇し、通り過ぎると、目に不安だか迷いの独特な色を浮かべて隊の後ろにつき、入隊登録所へ堂々と行進していくのを見かけた。この男を捕まえたものは何だったのだろう、とフランクは自分に問いかけた。どうしてあんなにあっさり屈したのだろう? あの男は行くつもりなどなかったのに。男の顔は仕事の油と泥で汚れていた――鋳物の職人か機械工で、年齢は二十五歳くらいに見えた。フランクは、その小隊が通りの外れで角を曲がって、木々の下に見えなくなるのを見送った。

 

 この巷の戦意の高まりは奇妙だった。彼には人々が、太鼓と笛の音以外は何も聞きたがらず、銃の形をした冷たい鋼鉄を肩に担いで前線に向かう途中で今通り過ぎていく何千人もの軍隊以外は何も見たがらす、戦争の話と戦争の噂を聞きたがっているように思えた。それが体が震えるほどの感情であることは間違いないが、偉大であっても、何の役にも立たなかった。それが意味するのは自己犠牲である。彼にはそれが理解できなかった。行ったところで撃たれるかもしれないにのに、そのとき、気高い感情はどうなってしまうのだろう? 自分はむしろお金を儲けて、現在の政治、社会、経済の問題を正したい。募兵隊に付き従った哀れな愚か者――いや、愚か者ではない、そう呼ぶのはよそう――哀れなお調子者の労働者――ああ、天よ、その者を憐れみたまえ! 彼ら全員を憐れみたまえ! 彼らは自分たちのやっていることが、本当にわかっていないのだ。

 

 ある日、クーパーウッドはリンカーンを見た――背が高く、よろよろと歩く男だった。長くて、骨ばっていて、不格好だったが、ものすごく印象的だった。二月下旬の、じめじめして寒い、足もとがぬかるんでいる朝、偉大な戦争大統領は、緊張はしていたが断ち切られてはならない絆について、厳粛な宣言をちょうど終えたところだった。あの有名な自由発祥の地、独立記念館の入口を出るとき、悲しげで物思いに沈んでいるような静けさが顔に宿っていた。クーパーウッドは、参謀長、地元の高官、警察関係者、興味や共感を示している一般市民の面々に囲まれて出て、リンカーンが出て来るのをじっと見た。その妙に荒削りな面構えを観察していると、この男の偉大さと威厳が伝わってきた。

 

「本物の男だ」クーパーウッドは思った。「すばらしい気質だ」身振りのひとつひとつがすごい迫力で伝わってきた。リンカーンが乗り物に乗り込むのを見ながら思った。「あれが木を切る名人の田舎の弁護士か。運命がこの危機に偉大な人物を選んだのだ」

 

 リンカーンの顔は何日もクーパーウッドにつきまとった。戦争中何度もあの異様な容姿を思い出さずにはいられなかった。幸運にも自分が世界の本当に偉大な人物の一人にお目にかかることができたのは、疑いの余地がないように思えた。戦争と政治的手腕は彼とは無縁だったが、それらが――時として――どれほど重要であるかはわかっていた。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ