第1章-第10章
資本家
セオドア・ドライサー
第一章
フランク・アルガーノン・クーパーウッドが生まれたフィラデルフィアは、人口二十五万を超える都市だった。そこには、きれいな公園や有名な建物があり、歴史を偲ばせるものがあふれていた。電報、電話、運送会社、遠洋汽船、手紙の市内配達など、後に我々や彼が知ることになる多くのものは、当時は存在しなかった。郵便切手も書留の手紙もなかった。路面鉄道は登場していなかったが、その代わりに、乗合馬車がたくさん走っていた。もっと長距離の、ゆっくりと発達を遂げている鉄道網は、まだほどんどが運河で結ばれていた。
フランクが生まれたとき、クーパーウッドの父親は銀行員だった。しかし十年後、その少年がとても思慮深い活発な目をすでに世界に向け始めていた頃、ヘンリー・ワージントン・クーパーウッド氏は、銀行頭取の死去とそれに伴う他の役員たちの昇進で、出世した出納係が空けてくれた地位を引き継いだ。彼にとっては年俸三千五百ドルという破格の給料だった。嬉しそうに妻に打ち明けると、すぐにボタンウッド・ストリート二一番地から、ニューマーケット・ストリート一二四番地に引っ越しを決めた。そこには現在の二階建ての家とは対照的な三階建ての立派なレンガ造りの家があり、周囲の環境もぐんとよくなった。いつかもっといいところに住む日が来るかもしれないが、今はこれで十分だった。感謝の気持ちでいっぱいだった。
ヘンリー・ワージントン・クーパーウッドは、自分が見たものしか信じない男で、今の自分――つまりは銀行家、もしくは将来の銀行家――に満足している男だった。このとき、彼は重要な人物だった――背が高く、痩せた、尋問人のような、いかにも事務員といった感じで――立派なきれいに短く刈り揃えた頬髯が耳たぶのあたりまで伸びていた。上唇は滑らかで、奇妙なくらい長く、鼻は長くまっすぐで、顎は尖り気味だった。眉毛はふさふさで、ぼんやりした灰緑色の目を引き立て、髪は短く、滑らかで、きれいに分けてあった。いつもフロックコート――当時の金融界で流行っていたもの――を着て、シルクハットをかぶっていた。手と爪はいつも清潔だった。彼の態度は厳格と言われたかもしれないが、実際のところ、禁欲的というよりは洗練されていた。
出世して社会的地位と財産を築きたかったので、話す相手や話し仲間には非常に気を遣った。表明したい御大層な政治的意見を持ち合わせてはいなかったが、自分が悪人と見られるのと同じくらい、過激だとか人気のない政治的社会的発言をしてしまうことを恐れた。廃止と存続とに意見が割れて不穏な空気だったが、奴隷制には賛成でも反対でもなかった。資本金と、あの奇妙なもの、魅力的な人柄――他人の信頼を勝ち取る能力――さえあったら、鉄道から巨万の富が築けると彼は心から信じていた。当時の大きな問題の一つだったが、アンドリュー・ジャクソンがニコラス・ビドルと合衆国銀行に反対するのは間違っていると確信していた。そして、回り回って彼の銀行にも絶えずやって来て――当然、割引されて、利益を得て――待ちわびる借り手に再び渡されて出ていく山猫通貨の乱入にはやきもきしていた。彼の銀行はフィラデルフィア第三ナショナル銀行で、フィラデルフィアのど真ん中、当時の実質的な全米金融界の中心地――三番街――にあり、銀行のオーナーたちは副業に仲介業をしていた。当時、大小さまざまな州立銀行は、不安定な未知の資産をもとに事実上規制を受けずに銀行券を発行し、驚くほどの速さで破綻や営業停止に陥るという病気にかかっていた。現状をすべて把握することが、クーパーウッド氏の地位に要求されることだった。その結果、彼は警戒心の塊になってしまった。残念なことに、彼は、どんな分野でも大成功に必要な二つのもの――魅力と先見の明――が大きく欠けていた。ほどほどに成功する者にはなりえたが、すごい資本家になる運命ではなかった。
クーパーウッド夫人は信心深い気質の、明るい茶色い髪と澄んだ茶色い目をした小柄な女性だった。昔はとても魅力的だったのに、やけにとりすました無味乾燥な人になってしまい、母親らしく三人の息子と一人の娘の世話をとても真剣にやくようになった。長男のフランクを頭とする兄弟は、夫人にとってかなりの悩みの種だった。いつも街のあちこちに遠征しては、おそらく悪ガキとつるみ、見たり聞いたりすべきでないことを見聞きしていた。
齢十歳にしてフランク・クーパーウッドは天性のリーダーだった。デイ・スクールでもその後のセントラル・ハイ・スクールでも、どんな場合でも間違いなく信頼できる常識人だと思われた。勇敢で反抗的な、たくましい少年だった。人生が始まったばかりの頃から、経済や政治について知りたがり、書物には無関心だった。清潔で、ひょろっとした、かっこいい少年で、晴れやかな、輪郭のはっきりした、利発な顔をしていた。目は大きく澄んだ灰色で、額は広く、 髪は短く剛毛でこげ茶色だった。利発で、すばしっこく、自立心が旺盛で、知的な答えをひたすら求めていつまででも質問していた。痛みや苦しみとは無縁で、食事はおいしそうにとり、鉄の棒で弟たちを支配した。「来いよ、ジョー!」「急げ、エド!」こうした命令は荒っぽくはないが常に自信満々で発せられ、ジョーとエドがやって来た。弟たちは最初からフランクを主人と仰ぎ、兄の言うことに熱心に耳を傾けた。
フランクはずっと考え込んできた――他の事実と同じように自分を驚かせてきたある事実――自分が入り込んだもの――この人生――が、どのように構成されているのか、彼にはわからなかった。すべての人々は、どうやってこの世界にやってきたのだろう? 人々はここで何をしているのだろう? いったい誰が始めたのだろう? 母親はアダムとイブの話をしてくれたが、彼は信じなかった。自宅からそう遠くないところに魚市場があった。銀行にいる父親に会いに行く途中や、放課後弟たちを遠征に連れ出すときに、店の前にあるある水槽を見るのが好きだった。そこにはデラウェア湾の漁師に持ち込まれた海の生き物の変わり種が飼われていた。そこで一度タツノオトシゴ――どこか馬に似た奇妙な小さな海生動物――を見た。また別の機会には、ベンジャミン・フランクリンの発見が説明していた電気ウナギを見た。ある日、水槽に入れられたイカとロブスターを見て、この両者に関係する悲劇を目撃した。この悲劇は生涯彼の心に残り、かなり理路整然と物事を解き明かしてくれた。暇な見物人の話によれば、どうせイカが餌食になるのだから、ロブスターには全然餌が与えられなかった。ロブスターは透明なガラスの水槽の底の、黄色い砂の上にいて、何も見ていないように見えた――ビーズのような黒い目が見ている方角はわからなかったが――明らかにイカの体から離れることはなかった。このイカは、まるで豚の脂身か翡翠によく似た白い蝋のような質感で、魚雷のように動き回った。しかしその動きは敵の目から決して逃れられないらしくて、追っ手の執拗なハサミに削り取られて体の一部が少しずつなくなり始めた。ロブスターはイカがぼんやり夢を見ていると見るやそこへ弩のように跳ぶが、警戒していたイカは逃げ出すと同時に墨を雲のように出して、相手の背後へと行方をくらました。しかし毎回無事に逃げおおせるわけではなかった。胴体か尾っぽの小さな部分が、底にいる怪物のハサミに残されることがよくあった。このドラマに魅せられて、クーパーウッド少年は毎日見物しに来た。
ある朝などは、鼻をガラスに押し付けんばかりにして水槽の前に立っていた。イカは部分的に残っているだけで、墨袋は今まで以上に空っぽだった。明らかに攻撃態勢とってロブスターは水槽の片隅に陣取っていた。
少年は死闘に魅せられながら、できる限り長くその場に留まった。この分ではおそらく一時間か一日もすればイカは死ぬかもしれない。ロブスターに殺されるかもしれない。ロブスターはイカを食べてしまうだろう。クーパーウッドは隅に潜む緑がかった銅色の始末屋をもう一度見て思った。いつになるのだろう。今夜かもしれないな。今夜また来よう。
その夜、フランクは戻ってきた。ほおら! 予想通りのことが起きていた。水槽のまわりに小さな人だかりがあった。ロブスターは片隅にいた。彼の目の前でイカが真っ二つにされて、その一部が食べられた。
「ついにやったな」ある見物人が言った。「俺が一時間前にここに立っていたら、飛びあがって、つかまえたよ。イカはへとへとで、速く動けなかった。後ろへ下がったんだが、ロブスターはその動きを読んでたな。もうずっと前から相手の動きを把握してて今日仕留めたってわけだ」
フランクはただ見ているしかなかった。これを見逃したとは失態もいいところだ。殺されたイカを見ているうちに、ほんのちょっぴりイカが気の毒になった。それから勝者を見詰めた。
「こうなるしかなかったんだろうな」彼は自分に言い聞かせた。「あのイカがすばしっこくなかったからだ」とこれを理解した。
「あのイカじゃあのロブスターを殺せっこなかったんだ――なにしろ武器がなかったからな。ロブスターはイカを殺せた――ちゃんと武器があったからだ。イカには餌が何もなかったが、ロブスターには餌になるイカがいた。結果はどうだった? 他にどんな結末がありえたんだ? イカに勝ち目はなかったんだ」早足で家路を急ぐ間に、とうとう結論を出した。
この出来事は彼に強烈な印象を与えた。このことは、これまで彼を散々悩ませてきたあの謎「この世がどう構成されているのか?」に、大雑把な答えを出した。生き物は互いに食い合って生きている――ということだった。ロブスターはイカなどを食べて生きている。では、ロブスターを食べるのは何だろう? もちろん、人間だ! 確かに、そのとおりだ! では、人間を食べるものは何だろう? フランクは自分に問いかけた。他の人間か? 野生の動物だって人間を食べる。インディアンや人食い人種だっている。嵐や事故でやられてしまう人だっている。人間を食いものにする人間がピンと来なかった。 しかし人は殺し合いをする。戦争、路上の喧嘩、暴動などはどうだろう? 暴動なら一度見たことがあった。学校から帰る途中、暴徒がパブリック・レジャーのビルを襲撃したのだ。父親がその理由を説明してくれた。奴隷問題だった。そうだ! 確かに人間は人間を食いものにしている。奴隷を見てみろ。あれだって人間だ。最近の騒ぎはみんなそれが原因だった。他の人間――黒人――を殺す人間がいる。
フランクは自分の解答にすっかり満足して家路についた。
「母さん!」家に入ると叫んだ「とうとう仕留めたんだよ!」
「仕留めたって誰がよ? 何が何をしたんだい?」母親は驚いて尋ねた。「手を洗っておいで」
「前に母さんと父さんに話したロブスターがイカを仕留めたのさ」
「おや、大変だこと、それのどこが面白いのさ? さっさと手を洗ってらっしゃい」
「だって、そういうのはめったに見られないんだよ。見たことないもん」フランクは裏庭に出て行った。そこには蛇口と物が置ける小さな台のついた柱があり その上にピカピカのブリキの鍋と水の入ったバケツが置いてあった。そこで、フランクは顔と両手を洗った。
「ねえ、お父さん」後で父親にも言った。「あのイカなんだけどさ?」
「ああ」
「死んじゃったんだ。ロブスターが仕留めたんだよ」
父親は読みものをつづけた。「そりゃ残念だな」気のない返事だった。
しかし、フランクは何日も何週間も、このことや自分が放り込まれた人生について考えた。彼はすでに、自分はこの世界で何になるべきだろうか、どうやって渡っていくべきだろうか、と熟慮を重ねていた。父親がお金を数えるのを見て、自分には銀行業が向いていると確信した。そして三番街、父親の会社があるところが、彼には世界で一番きれいで魅力的な通りであるように思えた。
第二章
フランク・アルガーノン・クーパーウッド少年は、快適で幸せな家庭生活と呼ばれてもいいものを何年も過ごして成長した。人生の最初の十年を過ごしたボタンウッド・ストリートは、子供の暮らしに快適な場所だった。そこはほとんどが二、三階建ての赤いレンガ造りの小さな家で、小さな白い大理石の階段が玄関まで続いていて、細長くて白い大理石が玄関ドアと窓の枠を縁取っていた。街路樹がたくさんあり、大きな丸い石畳の道路は雨に打たれて明るくきれいだった。歩道は赤いレンガで、いつも湿ってひんやりしていた。裏には庭があって、木や芝生があり、時には花が植えられていた。敷地はほとんどが奥行き百フィートで、家の玄関側が正面の舗道に接していたため、裏に快適な空間が残った。
クーパーウッド家の両親は、子供と一緒に幸せに楽しく暮らすという自然の流れに乗れないほど痩せても枯れてもいなかった。だからこの家族は、フランクが生まれてから子供が四人になるまで二、三年ごとに増えていき、フランクが十歳になってニューマーケット・ストリートの家に引っ越す準備ができたときには、実に面白いものになっていた。地位が上がるにつれて人脈が増えていき、ヘンリー・ワージントン・クーパーウッドは次第に一廉の人物になっていった。銀行と取引がある一段と裕福な商人をすでに大勢知っていたし、行員として他の銀行を訪問する必要があったために、合衆国銀行、ドレクセル銀行、エドワード銀行などとも親しくなり好意的に受け止められるようになった。ブローカーたちは、彼がとても健全な会社の代表であることを知っていた。彼は精神的に優れているとは思われなかったが、最も確かな信頼できる人物として知られていた。
クーパーウッド少年は確かに父親のこの進歩を分かち合っていた。土曜日はよく銀行に来ることを許されたので、その折に銀行の仲介部門で手形が手際よく交換される様子を目を皿のようにして見守った。さまざまな種類のお金はどこから来るのか、どうして割引が要求されて受け取られるのか、行員は受け取ったお金をどう処理するのか、などを知りたがった。父親は息子が興味を持ってくれるのに気を良くし、年端も行かぬ――十歳から十五歳の――子供でも国の金融事情の幅広い知識が身につくように――州立銀行とは何か、国立銀行とは何か、ブローカーはどんなことをするのか、株とは何か、どうして価値が変動するのかについて――喜んで説明した。フランクは、交換手段として貨幣がどのような意味を持つのか、どのようにしてすべての価値が金という基本的価値によって計算されるのか、をはっきりと理解し始めた。フランクは本能的に資本家だった。人間の感情や繊細さが詩人には普通であるように、その偉大な技術に関係するすべての知識は、彼にとっては普通だった。この交換の手段の金は彼の関心を大きく呼び覚ました。父親が採掘の仕方を説明すると、金山を所有する夢を見てしまい目が覚めたときには欲しくなった。同じように株式と債券にも興味がわき、株や債券の中には、その紙に書かれた価値がないものもあれば、額面を遥かに超えた価値があるものもあることを学んだ。
「なあ、せがれ」ある日、父親は息子に言った。「この界隈じゃ、こういった束は、そうそうお目にかかれないぞ」父親は、十万ドルの融資のために、額面の三分の二で担保として預けられたイギリス東インド会社の一連の株式の話をした。フィラデルフィアの大物が、手持ちの現金が欲しくて抵当に入れたのだ。クーパーウッド少年は物珍しそうに見て「たいした値打ちはなさそうですね」と言った。
「ちょうど額面の四倍の価値だ」父親は茶化すように言った。
フランクはもう一度見直して「イギリス東インド会社」と読み上げた。「十ポンド――それだと約五十ドル」
「四十八ドル三十五セントだ」父親は素っ気なく言った。「うちにこれだけのものがあったら、あくせく働かんですむな。そいつには汚れがほとんどないだろう。あまり使い回しされていないからだ。おそらく、今までに担保に使われたことはあるまい」
クーパーウッド少年はしばらくしてそれを返したが、金融の大がかりな派生効果を痛感せずにはいられなかった。東インド会社とは何だろう? 何の仕事をしているのだろう? 父親は息子に話してやった。
自宅でも金融にまつわる投資話や冒険談をずいぶん耳にした。一つは、ヴァージニア出身の牛肉の相場師スティームバーガーという面白そうな人物で、大金が簡単に借りられることに期待して当時のフィラデルフィアに惹きつけられた話だった。父親の話によると、スティームバーガーは、ニコラス・ビドル、ラードナー、他の合衆国銀行関係者とつながっていたか、少なくとも親しくて、要求すればほとんど全額をその銀行から調達できるらしかった。ヴァージニア、オハイオ、その他の州で行った彼の牛の買い付け活動は大がかりで、事実上、東部の各都市に牛肉を供給する事業を完全に独占するほどだった。ずば抜けた大男で、父親が言うには何となく顔が豚似で、山高のビーバーハットをかぶり、大きな胸と腹まで余裕でかくれる長いフロックコートを着ていた。牛肉の価格を一ポンドあたり三十セントにまで吊り上げて、小売店や消費者全員の反発まで買った。これがもとで一躍有名になった。よくクーパーウッドの銀行の仲介部門に、十二か月後に十万ドルから二十万ドルになるもの――千ドル、五千ドル、一万ドルの額面の合衆国銀行の一覧払手形――を持ってやって来た。合衆国銀行にはあらかじめ全額を記載した四か月期日の手形を渡しておいて、額面よりも十から十二パーセント安い値段で現金化するのである。スティームバーガーは、第三ナショナル銀行の仲介部門の窓口から、支払いを行った各州の、つまりヴァージニア、オハイオ、西ペンシルヴァニアの額面通りの銀行券を一括して受け取ることになる。第三ナショナル銀行はまず最初の取引で四、五パーセントの利益を得ることができ、そして西部の銀行券を割り引くので、その分でも利益をあげることができた。
父親はもう一人の話もしてくれた。フランシス・J・グルンドというワシントンの有名な新聞記者で、ロビイストでもある人物だった。彼はあらゆる種類の秘密、特に金融法関係を掘り出す才能があった。上院下院はもちろん大統領や閣僚の秘密まで彼には筒抜けのようだった。グルンドは数年前から一、二名のブローカーを通じて、さまざまな種類のテキサス州債や公債を大量に買い付けていた。メキシコからの独立を目指して奮闘中だったテキサス共和国は、さまざまな債券や証書を発行し、その額は一千万ドルから一千五百万ドルにも及んでいた。その後、テキサスを合衆国の州にする計画に関連して、この古い債務の返済に充てるために、合衆国側が五百万ドルを拠出するという法案が可決された。グルンドは、このことも、この債務の中には他のものは減額されるのに特殊な発行条件のせいで、全額支払われるものがあることも知っていた。そして、話を聞きつけてひと儲けしようとこの古い証書を買い始めた部外者を脅すために、一度会期でわざとというか事前に示し合わせて法案が不成立になることになった。グルンドはこの事実を第三ナショナル銀行に知らせた。当然、その情報は出納係のクーパーウッドのもとに入った。彼は妻にその話をした。するとまわりまわって息子が聞きつけた。息子の澄んだ大きな目はキラキラした。父がどうして立場を利用して自分のためにテキサスの債券を買わないのか不思議だった。父親の話では、グルンドとおそらく他にも三、四人がそれぞれ十万ドル以上儲けていた。これは厳密には合法ではない、と彼は考えたようだったが、それでも、これも合法だった。なぜ、こういう内部情報が報われてはいけないのだろう? いずれにせよ、父親は正直過ぎるし用心深過ぎるとフランクはつくづく思った。大人になったら、ブローカーか資本家か銀行家になって、こういうことをやろうと自分に言い聞かせた。
ちょうどこの頃、クーパーウッド家にそれまで家族の生活に登場したことのない伯父が現れた。伯父はクーパーウッド夫人の兄で、名前はセネカ・デイビス――がっしりして、調子がよく、身長は五フィート十インチ、大きくて丸い体、丸くてつるつるの禿頭、色艶のいい赤ら顔、青い目で、わずかばかりの髪は砂色だった。花柄のベスト、明るい色のフロックコート、(かなり裕福な男性に)定番のシルクハットという出で立ちで、当時主流だった基準からすれば極めて立派な服装だった。フランクはたちまち伯父に夢中になった。伯父はキューバの農園主で、今でも現地に大きな牧場を所有していて、キューバの生活――暴動、待ち伏せ、自分の農園内での鉈を使った切り合いなど――の話をしてくれた。伯父はインドの珍しいものをひとそろえ一緒に持ってきた。言うまでもなく何不自由しない財産があって奴隷が数名いた――一人はマニュエルといい、背が高く痩せこけた黒人で、いつも付きっきりの、いわば身の回りの世話係だった。伯父は農園から粗糖を船でフィラデルフィアのサザーク港に運んだ。フランクはこの伯父を気に入った。元気で、楽しくして、このどこか物静かで慎ましい家庭からするとかなりがさつに飄々と、人生を送っていたからだ。
「やあ、ナンシー・アラベラ」ある日曜日の午後、到着早々クーパーウッド夫人に告げると伯父は予期せぬ前触れのない出現に驚く家族を喜びの中に放り込んだ。「お前は一インチも成長しとらんな! この兄貴と結婚したら、お前はてっきり実の兄貴みたいに太っちまうと思ったんだがな。だが、どうだい! 誓って言うが、五ポンドと増えとらんだろ」伯父が母親のウエストをつかんで上下に揺さぶったので、母親がこんなに馴れ馴れしく扱われたのをこれまで見たことがなかった子供たちはひどく動揺した。
ヘンリー・クーパーウッドは、このかなり裕福な親戚の到着にものすごく興味を持ち歓迎した。十二年前に結婚したときはセネカ・デイビスのことをあまり気にかけていなかった。
「このひ弱な青白い顔のフィラデルフィアっ子たちを見てみろ。キューバのうちの牧場に来て日焼けさせるといい。そうすればこの蝋みたいな顔はなくなっちまうぞ」そしてセネカは今年五歳のアンナ・アデレードの頬をつねった。「いやあ、ヘンリー、ここは実にいいところだな」そして値踏みするような目つきで、かなりありふれた三階建ての家のリビングを見た。
広さは幅二十、奥行き二十四ほどで、仕上げはイミテーションの桜材、家具は新しいシェラトンのリビング用のセットで、古風な趣があった。ヘンリーが出納係になったのを機に、一家はピアノを手に入れた――当時は贅沢品で――ヨーロッパから取り寄せた。大きくなったらアンナ・アデレードに弾き方を覚えさせるつもりだった。部屋には珍しい装飾品も少しあった――まず、ガスのシャンデリア、ガラスの金魚鉢、きれいに磨き上げられた珍しい貝殻、そして花のかごを持った大理石のキューピッド。季節は夏で、窓は開け放たれ、外の木々は緑色の枝を伸び伸びと広げ、気持ちのいいはっきりとした影をレンガの歩道に落としていた。セネカ伯父さんは裏庭をぶらついた。
「いやあ、ここはなかなか快適だな」大きなニレの木に目をとめ、庭の一部がレンガで舗装され、レンガ塀に囲まれ、その側面をツタがよじ登っているのを見ながら口にした。「ハンモックはどこだ? 夏なのに、ここにハンモックを吊るさんのか? サンペドロのベランダには六つも七つも吊るしてあるぞ」
「ご近所の手前そんなこと考えたことなかったけど、名案ね」クーパーウッド夫人は賛成した。「ヘンリーに一つお願いしないとね」
「ホテルのトランクの中に二つか三つあるから、黒人どもに吊るさせよう。朝のうちにマニュエルに取りに行かせるとしよう」
セネカはツタをひっぱり、エドワードの耳をひねり、次男のジョセフに命じて、インディアンの斧を持って来させ、家の中に戻っていった。
「この子は見どころがあるな」しばらくするとセネカはフランクの肩に手をのせて言った。「フルネームは何とつけたんだい、ヘンリー?」
「フランク・アルガーノンです」
「ほお、わたしの名前をつけてくれたのか。この子は見どころがあるな。キューバに来て農場主になるのはどうだ、坊や?」
「なりたいとは思いません」長男は答えた。
「ほお、率直な物言いだな。なんで嫌なんだ?」
「農場についてよく知らないだけで、他に理由はありません」
「どんなことなら知ってるんだ?」
少年は賢く微笑んだ。「多くのことは知りません」
「じゃ、何に関心があるんだ?」
「お金です!」
「はあ! 血は争えんな、え? そいつは父親譲りってものだろ、え? それじゃ、血統書付きだな。しかも一人前の口をきいてる! こりゃあ、先が楽しみだな。ナンシー、お前はここで資本家を育てているんだぞ! 話し方が堂に入ってる」
今度はフランクを入念に見た。そのたくましい若い体には本物の力があった――それは間違いなかった。その大きく澄んだグレーの瞳は知性に満ちていた。多くのことを示しながら何も明らかにしなかった。
「賢い子だ!」セネカは義兄弟のヘンリーに言った。「態度が気に入った。お前さんはいい家族をもったな」
ヘンリー・クーパーウッドは乾いた笑みを浮かべた。もしこの男がフランクを気に入ったのなら、この子のためにいろいろなことをしてくれるかもしれない。最後にはこの子にいくらか財産を残してくれるかもしれない。身寄りのない金持ちなのだから。
セネカ伯父さんは頻繁に家に来るようになった――一緒に来る黒人のボディガードのマニュエルは英語とスペイン語が両方話せたので子供たちをびっくりさせた。セネカ伯父さんはどんどんフランクに興味を持つようになった。
「あの子が自分のやりたいことを見つけられる年齢になったら、それを手伝ってあげようと思うんだ」ある日、セネカは妹に言った。妹はとても感謝した。フランクに勉強について話をしたところ、本だとか強制的にやらされる勉強のほとんどが好きでないことがわかった。文法は大嫌いで、文学はくだらない。ラテン語は使い道がありません。歴史は――そうですね、かなり興味があります。
「僕は簿記と算数が好きなんです」フランクは言った。「学校なんかやめて仕事につきたいです。それがぼくのやりたいことです」
「おまえはまだ、若いんだぞ、坊や」伯父は言った。「一体いつくなんだ? 十四歳か?」
「十三歳です」
「じゃ、十六歳までは学校を離れられんぞ。いられるんなら、十七か十八歳まではいたほうがいい。いたところで何の害にもならない。二度と子供には戻れないんだからな」
「ぼくは子供でいたくありません。仕事につきたいんです」
「先走っちゃいかんな、坊や。どうせすぐに大人になっちまうんだ。お前は銀行家になりたいんだろう」
「はい、なりたいです!」
「そうだな、その時が来て、万事が順調で、お前が自己管理できていて、それでもまだやりたいというのなら、仕事を始めるのを手助けしてあげよう。もし私がお前で銀行員になるつもりだったら、まず、どこかのいい穀物仲介業者のところで一年ぐらい過ごすな。そういうところはいい経験が積めるんだ。必要な知識をたくさん学べるだろうよ。そして、その間、健康に気をつけてできる限りのことを学ぶんだぞ。私がどこにいようと、お前が知らせてさえくれれば、お前がどう自分を管理してきたかをチェックして手紙を書くからな」
セネカ伯父さんは、少年に十ドル金貨を渡して銀行口座をつくらせた。無理もない話だが、そこに欠かすことのできない、この活気に満ちた、一人前の、立派な少年のおかげで、伯父さんはクーパーウッドの家族全体が前よりもずっと好きになった。
第三章
クーパーウッド少年が最初に仕事を始めたのは十三歳のときだった。ある日、輸入卸売業者が立ち並ぶフロント・ストリートを歩いていると、食品卸売業者の店先に競売の旗がかかっているのが目につき、店内から競売人の声が聞こえてきた。「この特別なジャワコーヒー一箱は全部で二十二袋入りだ。今、市場では一袋が七ドル三十二セントの卸売価格で売れているんだが、さあ、いくらで買いますか? さあ、おいくらだ? おいくらだい? 箱単位で願いますよ。おいくらかな?」
「十八ドル」とりあえず値段をつけようと、入口近くに立っていた商人が値をつけた。フランクは立ち止まった。
「二十二!」別の商人が声をかけた。
「三十!」と三人目。「三十五!」四人目があって、そんな調子で七十五ドルまで上昇したが、それでも価値の半分以下だった。
「七十五の値段がつきましたよ! 七十五です!」競売人は声を大きくして言った。「他にいませんか? 一回目の確認、七十五。さあ、八十の声はありますか? 二回目、七十五」――競売人は掛け声をやめて、片手を大げさにかざした。それからその手を、もう片方の手のひらにピシャリと打ち下ろして――「サイラス・グレゴリーさんに七十五ドルで売れました。こいつをメモしておいてくれよ、ジェリー」横にいた赤毛でそばかす顔の事務員に声をかけた。それから、食品主要品目の別の商品に目を向けた――今度はデンプン、七バレルだった。
クーパーウッド少年は素早く計算していた。競売人が言ったとおりに、もしコーヒーが公開市場で一袋あたり七ドル三十二セントの価値があって、この買い手が七十五ドルでこのコーヒーを手に入れたとしたら、買い手はその時点で八十六ドル四セント儲けたことになる。但し、買い手が小売で売った場合に利益がそうなるという話であることは言うまでもない。記憶によれば、母親は一ポンドあたり二十八セント支払っていた。少年は本を小脇に抱えて近づき、このやり取りをじっと見ていた。すぐに知れたが、デンプンの価値は一バレルが十ドルであり、それは六ドルにしかならなかった。酢の樽が三分の一の値段で買い叩かれた。自分も値段をつけられたらいいのにと思い始めたが、お金を持っていなかった。小銭しかなかった。競売人は自分のすぐ目と鼻の先に少年が立っていることに気がついた。少年の表情が、反応しない――固まっている――のが印象的だった。
「さて、今度はカスチール石鹸の掘り出し物だよ――しかも七ケースもある――石鹸について詳しい方ならご存知のように、今一つ十四セントで売れてる代物だ。この石鹸は、今この瞬間どこででも一ケースあたり十一ドル七十五セントはするからね。さあ、おいくらだ? さあ、おいくらだ? いくらで買ってくれるかな?」男は競売人特有のいつもの調子で、無駄に力んだ早口でまくし立てた。しかしクーパーウッドはそれほど影響されなかった。とっくに独りでさっさと計算にとりかかっていた。十一ドル七十五セントで七ケースあるなら、しめて八十二ドル二十五セントになる。そしてその半額は――その半額は――。
「十二ドル」競り手が声をあげた。
「十五」二人目が競った。
「二十」三人目が声をあげた。
「二十五」四人目。
それから一ドル刻みになった。カスチール石鹸はあまり生活必需品ではないからだ。「二十六」「二十七」「二十八」「二十九」声がやんだ。「三十」クーパーウッド少年は決めつけるように言った。
短い細面の痩せ型で、もじゃもじゃ頭の鋭い目をした競売人は、怪訝そうにまさかと思いつつも何も言わずに少年を見た。どういうわけか、男は無意識のうちにその少年の異様な目にのまれた。理由はわからないが、この競り値はおそらく有効で、この少年はお金を持っているとこのときは感じた。雑貨屋の子供かもしれない。
「三十の値がつきました! 三十! この極上のカスチール石鹸に三十の値がつきました。極上品ですよ。一個十四セントはする代物だ。三十一はありませんか? どなたか三十一でいかがですか? 三十一はいませんか?」
「三十一」声があがった。
「三十二」クーパーウッドは受けて立った。同じ過程が繰り返された。
「三十二の値がつきました! 三十二の値がつきましたよ! 三十二の値がつきましたよ! どなたか三十三でいかがですか? 上質の石鹸ですよ。上質のカスチール石鹸が七ケース。どなたか三十三の人はいますか?」
クーパーウッド少年の頭脳は活動していた。手もとにお金はなかった。しかし自分の父親は第三ナショナル銀行の出納係である。身元保証人に父親を使えばいいのだ。石鹸は全部、家族が使っている雑貨屋に売れるだろう、きっと。もし駄目なら他の雑貨屋に売ればいい。この石鹸がこの値段なら欲しがる人は他にもいる。やらぬ手はないだろう?
競売人は様子を見た。
「三十二、一回目! 三十三はありますか? 三十二、二回目! 三十三の声はありますか? 三十二、三回目ですよ! 石鹸が七ケースです。この上のお値段はありますか? 一、二、三回目! この上の値段はありますか?」――男の手がまたあがった――「それではこちらの――?」男は身を乗り出して、競り落とした少年の顔をもの問いたげにのぞき込んだ。
「フランク・クーパーウッド、第三ナショナル銀行の出納係の息子です」少年ははっきり答えた。
「いいでしょう」男はじっと見据えて言った。
「ぼくが銀行へ行ってお金をもらってくるまで待ってもらえますか?」
「ああ、長くはだめだよ。一時間でもどってこなければ、再度競りにかけちゃうからね」
クーパーウッド少年は返事もせず、大急ぎで駆け出した。まずは母親の行きつけの雑貨屋である。店は自分の家と同じブロックにあった。
店の入口から三十フィート手前でスピードを落とし、何食わぬ顔で中に入り、カスチール石鹸を探した。あった。同じ種類のものが箱に入って陳列されていた。自分の石鹸とそっくりだった。
「これ一個いくらですか? ダルリンプルさん」フランクは尋ねた。
「十六セントだね」店主は答えた。
「ぼくがこれと同じもの七箱を六十二ドルで売ることができたら、引き取ってもらえますか?」
「同じ石鹸をかい?」
「そうです」
ダルリンプル氏は、ちょっと計算した。
「ああ、引き取ってもいいな」ダルリンプルは慎重に答えた。
「今日の支払いでもいいですか?」
「その分の手形を切るよ。石鹸はどこにあるんだい?」
ダルリンプルはご近所の息子のこの思いがけない提案に戸惑い、いささか驚いた。彼はクーパーウッド氏をよく知っていた――フランクのことも。
「今日運んでくれば、引き取ってもらえますか?」
「ああ、引き取るよ」ダルリンプルは答えた。「石鹸屋を始める気かい?」
「いいえ、でもその石鹸を安く入手できるところを知ってるんです」
少年はまた急いで出て行き、父親の銀行に駆けつけた。閉店時刻は過ぎていたが、入り方を知っていた。父親ならよろこんで三十ドルを用立ててくれるとわかっていた。その金を一日借りたいだけだった。
「何があったんだ、フランク?」息子が息を切らせて顔を真っ赤にして現れたので、父親はデスクから顔をあげて尋ねた。
「三十二ドル貸してほしいんです! 貸してくれますか?」
「それは、かまわんが、それを何に使うんだ?」
「石鹸――カスチール石鹸を七箱――買いたいんです。入手先と売却先はわかってます。ダルリンプルさんが引き取ってくれるんです。すでに六十二ドルで話がついています。それを三十二ドルで入手できるんです。お金を用立ててくれますか? すぐに引き返して、競売人に払わねばならないんです」
父親は微笑んだ。これは息子が自分に見せてくれた最も商売人らしい態度だった。十三歳の少年にしては、とても鋭い上に抜かりがなかった。
「フランク」父親は紙幣のある引出しに手を伸ばしながら言った。「お前はすでに資本家になりつつあるな? これで損をしない自信があるんだな? 自分のしていることがわかっているんだな?」
「お父さん、そのお金を僕に持たせてくれませんか?」フランクはお願いした。「すぐに結果をお見せします。ただ僕にそのお金を持たせるだけです。ぼくなら大丈夫です」
獲物を嗅ぎつけた若い猟犬のようだった。父親は息子の訴えに抵抗できなかった。
「では、フランク」父親は答えた。「お前を信じるよ」そして第三ナショナル銀行発行の五ドル札六枚と一ドル札二枚を数えた。「さあどうぞ」
フランクは手短に礼を言って建物を出ると全速力で競売場に駆け戻った。中に入ったときは、砂糖が競売にかけられていた。彼は競売の事務員のところへ行った。
「あの石鹸の代金を払いたいのですが」フランクは申し出た。
「今?」
「はい、領収書をもらえますか?」
「ああ」
「配達してくれるんですか?」
「いや、配達はしない。二十四時間以内に引き取らないといけないよ」
その問題は大したことではなかった。
「わかりました」と言って購入証の紙をポケットにしまった。
競売人は、フランクが出ていくのを見守った。三十分後、運び屋――仕事目当てで堤防や波止場を根城にしている手の空いた人――と一緒に戻ってきた。
フランクは男と契約して石鹸の配達を六十セントで請け負わせていた。さらに三十分後には、積荷をおろす前に外に出てきて問題の箱を見て驚くダルリンプル氏の店の前にいた。もし何らかの理由で段取りどおりにいかなかったら、箱は自宅に運んでもらう予定になっていた。初めての大仕事だったのに、ガラスのように冷ややかだった。
「そうだね」ダルリンプル氏は反射的に白髪頭をかいて言った。「確かに同じ石鹸だ。引き取るよ。約束だからね。どこで手に入れたんだい、フランク?」
「ビクソムの競売です」フランクは正直に堂々と答えた。
ダルリンプル氏は運び屋に石鹸を運ばせた。 そして――今回は仲介人が子供だったから――一応所定の手続きを済ませてから、三十日期日の手形を振り出して渡した。
フランクはお礼を言って手形をポケットにしまった。他の人がやっているのを見たとおりに、父親の銀行に戻って割り引いてもらい、それで父親に返済して自分の利益を現金で得ることにした。普通ならいついかなる日でも営業時間外に取り扱いされるはずはなかった。しかし、お父さんならぼくの件を例外にしてくれるだろう。
フランクは口笛を吹きながら急いで戻った。息子がやって来ると父親は顔を上げてにっこりした。
「フランク、首尾はどうだ?」父親は尋ねた。
「三十日期日の手形をもらってきました」フランクはダルリンプル氏がくれた手形を出した。「ぼくのためにそれを割り引いてもらってもいいですか? お父さんはそこから三十二ドルを受け取ってください」
父親はそれをじっくりと調べた。「六十二ドルだね!」と言った。「ダルリンプルさんか! これなら大丈夫だ! よろしい、お引き受けしましょう。十パーセントの負担がかかりますよ」と冗談めかして言った。「しかし持ってた方がよくないか? 三十二ドルは月末までお前に貸しておくよ」
「ああ、駄目です」息子は言った。「割り引いてお父さんのお金は受け取ってください。ぼくはぼくの分が欲しいんです」
父親はその事務的な割り切り方を微笑ましく思った。「よかろう、明日処理しよう。どんなふうにやったのか話してくれよ」そして息子は父親に語った。
その夜七時にフランクの母親がその話を聞き、やがてセネカ伯父さんの耳にも入った。
「私が何と言ったか覚えてるか、クーパーウッド?」セネカ伯父さんは尋ねた。「しっかりした子だよ、あの子は。見守ってやることだな」
クーパーウッド夫人は夕食の席で不思議なものでも見るように我が子を見た。これがついこの間までこの胸で育てた我が子なのかしら? 確かに、この子は急速に成長しているんだわ。
「ねえ、フランク、ちょいちょいそうやってうまくいくといいわね」母親は言った。
「ぼくもそう思います、お母さん」あたりさわりのない返事をした。
しかし、競売は毎日見つかるものではなかったし、行きつけの雑貨屋にしても、こういう取引はある程度の期間内で一回しか応じてくれなかった。しかしクーパーウッド少年は最初からお金の稼ぎ方を心得ていた。少年新聞の購読者を集めたり、新型アイススケートの販売を仲介したりした。問屋で夏の麦わら帽子を買うために一度近所の子供たちを集めて組合を結成したこともあった。貯金をすればお金持ちになれるという考え方はしなかった。お金はケチケチしないで使った方がいい、何だかんだでうまくいくものだ、という考え方を彼は最初から持っていた。
女の子に興味を持ち始めたのは、この年齢か、もう少し早い時期だった。彼は最初から、女性の中の美しい人を見つける鋭い目を持っていた。見た目がよくて魅力的だったので、気になる女性をその気にさせるのは難しいことではなかった。フランクの気を引いたか、フランクに惹きつけれたかした最初の少女は、通りのもっと先に住む十二歳のペイシェンス・バロウだった。黒髪とぱっちりした黒い目は彼女の持ち味で、背中にかわいいおさげ髪を垂らし、きゃしゃな体にぴったりの、きゃしゃな足と足首をしていた。クエーカー教徒の両親を持つクエーカー教徒の娘で、しとやかな小さい縁なし帽をかぶっていた。しかし、性格は活発だったので、この自立していて、自分のことは自分でできてしまう、率直な物言いの少年のことが好きだった。ある日、何度か視線を交わしてから、笑顔を浮かべて、生まれつきあった勇気を振り絞ってフランクは言った。「きみ、うちの先に住んでるんだよね?」
「そうよ」少女は少し動揺して答えた――これは通学鞄が小刻みに揺れたことで明らかになった――「一の四十一番に住んでるわ」
「家は知ってるよ」フランクは言った。「入っていくのを見かけたことがあるからね。うちの妹と同じ学校だよね? きみはペイシェンス・バロウじゃないかい?」フランクは男の子たちが少女の名前を呼ぶのを聞いたことがあった。「そうよ。どうして知ってるの?」
「ああ、聞いたことがあるんだ」フランクは微笑んだ。「見かけたこともね。きみ、リコリス菓子好き?」
フランクはコートの中を探って、当時売られていた新しいスティック菓子を数本を取り出した。
「ありがとう」少女は笑顔で言って一本取った。
「あまり美味しくないかな。ずっと持ち歩いてたんだ。別の日ならタフィーもあったんだけどね」
「あら、いけるわよ」少女は先端を噛みながら言った。
「ぼくの妹のアンナ・クーパーウッドって知らないかな?」自己紹介がてら話を戻した。「きみよりも学年が一つ下なんだけど、もしかしたら見たことがあるかもしれないと思ってね」
「知ってると思うわ。学校から帰るとこを見たことがあるから」
「ぼくはあそこに住んでるんだ」まるで相手が知らないかのように、そっちに寄りながら指をさして打ち明けた。「今度からこの辺で会えるよね」
「あなた、ルース・メリアムを知ってるかしら?」フランクが自宅のドアに続く石畳の道路に差しかかったところで、少女は尋ねた。
「いや、何で?」
「今度の火曜日にパーティーを開くのよ」少女が言い出した言葉は何気なく聞こえるが、そう聞こえるだけだった。
「その娘のうちはどこ?」
「二十八番地よ」
「行きたいな」別れ際にフランクは熱い気持ちをぶちまけた。
「多分、誘ってくれるわよ」二人の距離が広がるにつれて勇気が出てきたのか、少女はそれに応えた。「私が頼んでおくから」
「ありがとう」フランクは微笑んだ。
そして少女はうれしそうに走り出した。
フランクは笑顔で相手を見送った。とても可愛らしかった。無性に彼女にキスをしたくなった。そしてルース・メリアムのパーティーで起こるかもしれないことが、目の前に鮮明に浮かび上がった。
これは初恋というか幼恋のひとつでしかなかったが、その後数々の出来事がごちゃごちゃする中でも時々心をつかんで離さなかった。ペイシェンス・バロウは、フランクが他の少女を見つけるまで何度となくこっそりキスされた。彼女をはじめとするその通りの子供たちは、冬の夜は雪の中に遊びに出かけるし、日が短くなるころは日が暮れてから自宅のドアの前でだらだらと過ごした。そんなときに彼女を捕まえてキスするのも、パーティーで馬鹿話をするのも、とても簡単だった。そして、ドーラ・フィトラーとは、彼が十六歳で相手が十四歳のとき、マージョリー・スタッフォードとは、彼が十七歳で相手が十五歳のときに出会った。ドラ・フィトラーはブルネット。マージョリー・スタッフォードは夜明けのように美しく、真っ赤な頬、青みがかった灰色の目、亜麻色の髪で、ウズラのようにふっくらしていた。
学校をやめようと決めたのは、十七歳の時だった。卒業はしなかった。ハイスクールを三年で終えただけだが十分に得るものは得ていた。十三歳の時から頭の中はずっと金融のことで一杯だった。それは、彼が三番街で見たそのままの形だった。時々、ちょっとした小遣い稼ぎをするためにできる臨時の仕事があった。セネカ伯父さんがサザークの製糖桟橋で計量士の助手をやらせてくれた。ここで三百ポンドの袋がアメリカ政府の検査官監視のもとで計量されて政府の保税倉庫に入れられた。緊急時に父親の手伝いをするように言われ、対価が支払われた。ダルリンプル氏と取り決めをして土曜日に店の手伝いをした。しかしフランクが十五歳になって間もなく、父親が銀行の出納係になって年間四千ドルの収入を受け取るようになる頃には、フランクがもうこんな平凡な仕事をやっていられないのは自ずとわかることだった。
ちょうどその頃、再びフィラデルフィアに戻ったセネカ伯父さんが前よりも太った横柄な態度である日フランクに言った。
「さて、フランク、もし準備ができているんなら、お前にいい仕事口があるだがな。最初の一年間は給料が入らないが、お前がきちんと自分のやることを注意してれば、やめるときに、そこはおそらくいい土産をお前にくれるだろうよ。二番街のヘンリー・ウォーターマン商会を知ってるか?」
「場所は知ってます」
「実は、お前に簿記係の仕事をくれると言うんだ。あそこは一種のブローカーだ――穀物と仲介を扱う仕事だよ。そっち方面の仕事につきたいんだろ。学校をやめたら、ウォーターマンさんに会いに行くんだ――私の紹介だと言え。そうすればお前に合う仕事を世話してくれると思う。お前の成長ぶりを見せてくれ」
セネカ伯父さんは裕福なおかげで貧しい野心的なフィラデルフィアの社交界の未亡人の関心を引き、今は結婚していた。思えば、このおかげでクーパーウッド家の人脈は大きく広がった。ヘンリー・クーパーウッドは家族と一緒に、かなり遠くのノースフロント・ストリートに引っ越す計画を立てていた。当時そこは川の美しい景色を一望し、魅力的な住居が建設されつつあった。南北戦争前のこの時代、年収四千ドルは相当なものだった。ヘンリーは慎重で手堅い投資を心がけていた。用心深い保守的な規則正しい行動から、いつの日かこの銀行の副頭取、ことによったら頭取になれるかもしれないと順当に期待された。
フランクをウォーターマン商会で働かせようというセネカ伯父さんの申し出は、フランクが正しいスタートを切るにはちょうどいい話に思えた。六月のある日、南二番街七十四番地にある会社に出向くと、フランクはヘンリー・ウォーターマン・シニア氏に心から歓迎された。じきに判明したが、ヘンリー・ウォーターマン・ジュニアという二十五歳の青年と、ジョージ・ウォーターマンという五十歳の信頼できる内勤の弟がいた。ヘンリー・ウォーターマン・シニアは五十五歳の男性で、内から外まで会社全体の責任者だった。必要とあらば近隣の地域を回って顧客に会い、弟が調整できない場合には詰めの協議に入り、彼の同僚や雇い人が執り行う新しい事業の提案や助言を行った。見た目には粘液質――背が低く、太っていて、目の周りに皺があり、かなりお腹が出ていて、首から顔にかけて赤く、ほんの少し出目だが、抜け目がなく、親切で、人当たりのいい、機転が利く男だった。持ち前の常識的な発想と人当たりの良い性格を拠り所にして、ここで健全で順調な事業を築いていた。年を重ねて力が増していたので、もし息子がこの事業に完全に適していれば、息子の心からの協力を喜んで歓迎していただろう。
しかしそうではなかった。息子は父親のように庶民的でもなく、頭の回転が速いわけでもなく、やっている仕事に満足しているわけでもなく、実はこの仕事を嫌っていた。もしこの仕事が息子に任されていたら、とっくに消滅していただろう。父親は先行きを案じて悲観した。この事業に興味を持ってくれて、これまでされてきたのと同じ精神で仕事をして、息子を追い出そうとしない若者が土壇場になって現れることを期待していた。
そんな時にセネカ・デイビスの口利きでクーパーウッド青年が現れた。彼は青年を品定めするように見た。確かに、この青年ならいけるかもしれないと思った。どこか気楽で彼には余裕が感じられる。ちっとも取り乱したり動揺してはいないようだ。彼の話によると、穀物や仲介業について詳しくはありませんが、帳簿のつけ方なら知っています。こういうことに関心があるので、やってみたいんです。
「あいつを気に入ったよ」翌朝出頭する指示をもらってフランクが出ていくと、さっそくヘンリー・ウォーターマンは弟に打ち明けた。「見どころがある。ここには一日に大勢の人がやってくるが、あいつが一番清潔で、活発で、生き生きしてる」
「そうですね」ジョージは言った。相手よりもかなり痩せこけ、ちょっぴり背が高い男は、黒いぼやけた黙想しているような目をしていて、禿げた頭の卵形の白い部分と妙に対照的な茶色っぽい黒髪は、薄くなり、成長力が大幅になくなっていた。「ええ、いい青年です。父親が自分の銀行で雇わないのが不思議だ」
「まあ、父親にもできないのかもしれない。所詮、一介の出納係にすぎんからな」兄は言った。
「そうですね」
「まあ、うちで試してみるさ。私は彼がものになる方に賭けるがね。そんな感じがする若者だ」
ヘンリーは立ち上がり、正面口から歩いて出て二番街の様子を見に行った。東側のビル群の壁――彼のビルもその一部――のせいで東からの日差しを遮られた冷たい石畳や、やかましい荷車や荷馬車や、忙しく行き交う人混みを眺めていると気晴らしになった。その向こう側のビルも見た――三階建て、四階建てで、ほとんどが灰色の石造りで、人が大勢いる――自分が最初からこういう恵まれた地域に店を構えたことを運命に感謝した。ここを買ったときに、もっと大きな土地にしておくんだったな。
「あのクーパーウッド少年が私の望むような一人前の男になってくれればいいんだが」ヘンリーは物思いにふけるように言った。「あいつがいれば私は毎日あまり走り回らなくて済むようになるかもしれない」
不思議なことに、ほんの三、四分少年と話しただけなのに、こんなに目覚ましい効率の向上を感じたのである。うまくいくと何かが彼に語りかけた。
第四章
この頃のフランク・クーパーウッドの風貌は、控えめに言っても魅力的で申し分なかった。身長は五フィート十インチくらい。頭は大きくて形がよく、外観は明らかに商売向きで、さわやかな焦げ茶色の髪にびっしり覆われ、角張った肩とがっしりした胴体に据え付けられていた。すでにその目には微妙な年頃がもたらす表情が宿っていた。不可解で目を見ても何も読み取ることはできなかった。足取りは軽やかで、自信に満ち、弾むように歩いた。人生は彼にひどい衝撃を与えず、手荒な起こし方もしなかった。病気や苦痛に悩まされたり、いかなる種類の困窮も強いられたことがなかった。自分よりも裕福な人たちを見て、ただ金持ちになりたいと思った。家族は尊敬され、父親は高い地位にいた。誰にも何の負い目もなかった。一度、銀行で小額の手形の支払いを遅らせてしまったところ、父親は彼が絶対に忘れられないほど大騒ぎした。「自分の手形を不渡りにするくらいなら、いっそ平身低頭で臨んだ方がましだ」老紳士は言った。このことは、これほど厳しく強調される必要がないもの――信用の重要性――を彼の心にしっかりと植えつけた。その後は彼の手形が自分の過失で不渡りや期日遅延を起こすことはなかった。
フランクは、ウォーターマン商会史上の最も有能な社員であることがわかった。手始めに、解雇されたトーマス・トリックスラーに代わって簿記係の補佐をやらせたところ、二週間してジョージは言った。「クーパーウッドを簿記係の責任者にしたらどうだろう? 彼ならあのサンプソンがこれから習得する以上のことを、あっという間に身に着けちまうぞ」
「よし、為替をやらせよう、ジョージ。でも、そう騒ぎなさんな。どうせいつまでも簿記係でいるわけじゃない。少ししたら彼が私に代わってこの為替の処理をできないか見てみたいんだ」
かなり複雑ではあったが、ウォーターマン商会の簿記はフランクにとって子供の遊びであり、かつての上司サンプソン氏が驚くほど、いとも簡単に迅速にやってのけた。
「なあ、あいつは」 サンプソンはクーパーウッドの仕事を見た初日に他の社員に言った。「威勢がよすぎるな。今にひどいへまをやらかすぞ。俺はああいう手合いを知っているんだ。信用取引や為替の集中日が来るまで少し待っててみ」しかしサンプソン氏が楽しみに待っていたひどいへまは起きなかった。一週間もしないうちに、クーパーウッドはウォーターマン兄弟と同じくらい――いや、それ以上に――一ドルに至るまで財務状況を知ることになった。利益はどのような配分になっているのか、一番大きな仕事をしたのはどの部門なのか、出来の良い農産物と悪い農産物を送っているのは誰なのか、を把握した――一年間の価格変動でそれがわかった。自分を納得させるために、不審な点を確かめながら、元帳の特定の勘定科目をさかのぼった。簿記はフランクに、一つの記録、会社が活動している証、以外の関心を起こさせなかった。彼は自分がこの仕事を長く続けないことを知っていた。何か他のことが起こるだろう。彼は穀物仲介業がどいうものなのか――その細部に至るまで――すぐに理解した。要点がわかった。欠けていたのは、委託された商品のもっと大がかりな売り出し活動――荷主や買主とのもっと迅速な連絡――まわりの委託業者とのもっと良好な業務契約――であり、それがなかったために、この会社というか社の顧客は大きな損失を被っていた。一人が上昇もしくは安定した値動きを見越して、船一艘か貨車一台分の果物か野菜を出荷したとする。しかし他の十人が同時に同じことをするか、他の仲介業者が果物や野菜でだぶつき、それらを適切な時間内に処分する方法がなかったら、価格は下落するしかない。その特別な荷物は毎日運ばれていた。大量の荷物を処分している外まわりの人間になった方が、自分はこの会社のためにもっと役に立てそうだとすぐに思いついたが、あまりはやいうちから余計なことを言うのはやめにした。どうせ事態はすぐに収まるのだから。
ヘンリーとジョージのウォーターマン兄弟は、フランクの会計処理に大満足だった。彼がいるだけで安心するのだ。フランクはさっそくジョージの注意をある勘定科目の状況に向けさせて、取り除くか廃止できるかもしれないと提案した。これはジョージを大喜びさせた。この若者の知恵を使って自分の仕事を減らす方法がわかったジョージは、同時に彼との楽しい親交を育んでいた。
ヘンリーはフランクを外で試す気になった。手持ちの在庫で注文をさばくことは毎回できることではなく、誰かが街か取引所に行って買い付けをしなければならず、普段はこれをヘンリーがやっていた。ある朝、運送状を見て、小麦粉の過剰と穀物の不足がわかると――最初にそれに気づいたのはフランクだが――ヘンリー・ウォーターマンはフランクをオフィスに呼んで言った。
「フランク、うちが直面しているこの事態を、街に出てどう対処できるか、きみにも考えてほしいんだ。明日までに小麦粉がだぶつくだろう。保管料を払ってはいられないし、うちにある注文ではさばき切れない。穀物は不足しているんだ。きみならどこかのブローカーに小麦粉を引き取ってもらって、ここにある注文を満たすだけの穀物を調達できるんじゃないか」
「やってみたいですね」フランクは言った。
フランクは帳簿でいろいろな仲介業者の所在を知っていた。地元の商人たちの取引所や、こういう品物を扱うさまざまな仲介屋が、何を扱うかも知っていた。これこそ彼がやりたかった仕事だ――こういう性質の取引上の問題を調整する仕事だ。また外の空気に触れて、一軒一軒回るのは楽しかった。デスクワークや書類の作成や帳簿の精査はご免だった。数年後に言ったように、彼の頭脳が彼の仕事部屋だった。フランクは小麦粉の市況を頭に入れながら、主だった仲介屋を急いで回り、もし供給過剰が見込まれなかったら買われそうなレートで余剰分を売りに出した。上質小麦粉六百バレルを即時引き渡しで(即時とは四十八時間)買いたい者はいるだろうか? 一バレル九ドルという値引きなしで提示したところ買手はいなかった。小分けにして提示したところ、こっちで一口あっちで一口と応じる者がいた。約一時間で二百バレルの一口を除いてすべて片付いた。この一口は、自分の会社とは取引がないジェンダーマンという有名な相場師に一括で提示することに決めた。カールした白髪、ゴツゴツしている割にふっくらしている顔、肉付きのいい瞼から抜け目なく覗く小さな目をした大男が、クーパーウッドが入って来るのを興味深そうに見た。
「名前は何だい、若いの?」木の椅子にもたれながら男は尋ねた。
「クーパーウッドです」
「ウォーターマン商会で働いてるのか? 実績がいるんだろう。だからここにきたのか?」
クーパーウッドは微笑んだだけだった。
「じゃ、俺が小麦粉を引き取ってやろう。そいつが必要なんでな。請求書をまわしてくれ」
クーパーウッドは飛び出した。自分の会社と取引があるウォールナット・ストリートの仲介業者に直行し、必要な穀物を実勢レートで競り落とさせて、それから会社にもどった。
「ほお」報告するとヘンリー・ウォーターマンは言った。「仕事が早いな。ジェンダーマン老人に直接二百バレル売ったのか? 大したものだ。あの人はうちの顧客名簿にないだろう?」
「ございません」
「ないと思ったよ。外回りでこういう仕事が出来るのなら、いつまでも簿記をやらせておくことはないな」
その後、フランクは時が経つにつれて仲介業者界隈や取引所(農産物取引所)でおなじみの人物になった。雇い主のために帳尻を合わせ、必要な商品を急に必要になった分だけ仕入れ、新しい顧客を勧誘し、意外なところで余分な在庫を処分して過剰を解消した。ウォーターマン兄弟はフランクのこういう才能に驚いた。彼には、話をよく聞いてもらい、親しくなって、新しい世界に紹介されるという不思議な才能があった。ウォーターマン商会の古い活動分野に新しい生命が流れ始めた。顧客の満足度は高まった。ジョージはフランクを地方に派遣して商売を広げようと思い立ち、これは最終的に実行された。
クリスマスが近づくとヘンリーはジョージに言った。 「クーパーウッドに景気よくプレゼントしてやらんといかんな。何の給料ももらってないんだから。五百ドルでどうだろう?」
「かなりの額だが、頃合いを見れば、あいつにはそれくらいの価値はあると思う。確かに我々の期待したことにすべて応えてくれた。それ以上の働きだ。この仕事に向いてるんだな」
「彼はそのことで何か言ってたか? 満足しているかどうか、彼が口にするのを聞いたことがあるかい?」
「結構気にいってると思いますよ。あなただってわたしと同じくらい見ているでしょう」
「じゃ、五百ドルにしよう。あいつなら先々この仕事で悪いパートナーになることもないだろうからな。仕事のコツがちゃんとわかってるんだ。我々二人から一言添えて五百ドルをおくるとしよう」
クリスマスの前夜、クーパーウッドが運送状や委託証に目を通して、割り込んでくる休日に備えて万全を期していると、ジョージ・ウォーターマンがデスクにやってきた。
「精が出るな」燃え盛るガス灯の下に立ち、とても満足そうに元気な従業員を見ながら声をかけた。
まだ夕方の早い時間で、正面の窓の外で雪がまだら模様を作っていた。
「あと少しで終わります」クーパーウッドは微笑んだ。
「兄も私も、この六か月の間にきみがここで手掛けた仕事ぶりに、とても満足している。何か感謝したくて、五百ドルくらいが妥当だと考えた。一月一日からは週給三十ドルを支払うつもりだ」
「どうもありがとうございます」フランクは言った。「そこまでのものを期待してはいませんでした。これはいい条件ですね。知りたかったことをここで随分学ぶことができました」
「ああ、そんなことは言わなくていい。きみがそれを身につけたことはわかっている。好きなだけうちにいてくれていいんだ。きみが一緒にいてくれると我々もうれしいよ」
クーパーウッドは心から穏やかに微笑んだ。こうして認められて、とてもいい気分だった。英国製ツイードの仕立てのいい服を着た姿は明るく晴れやかだった。
その晩、帰り道に、この仕事の本質について考えた。この贈り物をもらって給料の約束を取り付けたにもかかわらず、あそこに長く留まるつもりがないことはわかっていた。確かに、彼らは感謝していた。しかしそのくらいは当然ではないだろうか? クーパーウッドは自分が有能なことを知っていた。自分がやれば物事はスムーズに進んだ。自分が事務職の人間だとは一度も考えたことがなかった。そういう人たちは自分のために働くべき存在であり、働くことになるのである。彼の態度には野蛮さがなく、運命に対する怒もなく、無闇に失敗を恐れなかった。彼が仕えているこの二人の男は、すでに彼の目には役柄以上のものではなかった――大事なのは彼らの仕事そのものだった。まるで年長者が子供を見るような目で、彼らの弱点や欠点を見て取ることができた。
その晩の夕食を済ませてガールフレンドのマージョリー・スタッフォードを訪ねて行く前に、五百ドルの贈り物と給料をもらう約束のことを父親に告げた。
「そりゃ、すごいな」父親は言った。「お前は私が思った以上に順調にやっているな。じゃあ、そこでやっていくわけだな」
「いいえ、そのつもりはありません。来年中には辞めると思います」
「どうしてだ?」
「必ずしもぼくがやりたい仕事じゃないからです。いい仕事ですが、ぼくとしてはブローカーをやってみたいんです。それに魅力を感じます」
「先方に伝えないのは後ろめたいと思わないか?」
「思いませんね。向こうは僕のことが必要なんです」その間中ずっと、鏡で身だしなみをチェックして、ネクタイを直し、コートを整えていた。
「母さんには伝えたか?」
「いえ、これから言うつもりです」
母親のいるダイニングルームへ行き、その小さな体に腕をまわしながら言った。「どう思う、母さん?」
「え、何がだい?」母親は優しく息子の目をのぞき込んで尋ねた。
「今夜、五百ドルもらったんだ。そして来年から週給が三十ドルになるんだ。クリスマスに何がほしい?」
「まあ、いいじゃない! すてきじゃないの! みなさんに気に入ってもらえたんだわ。一人前になりかけているものね?」
「クリスマスに何がほしい?」
「いらないわよ。何もいりません。私には子供たちがいるもの」
フランクは微笑んだ。「わかったよ。じゃ、何もいらないんだね」
しかし、母は息子が何か買ってくれる気でいるのがわかった。
フランクは外に出て、ドアのところで立ち止まって、ふざけて妹のウエストをつかみ、夜中には帰ると言って、マージョリーの家に急いだ。ショーに連れて行く約束をしていたからだ。
「今年のクリスマスは、何でもほしいものあげるよ、マーギィ」薄暗い照明の廊下でキスしたあと、フランクは尋ねた。「今夜五百ドル手に入れたんだ」
マージョリーはたった十五歳の無邪気な少女で、狡猾でもしたたかでもなかった。
「あら、何もいらないわよ」
「あげなくていいの?」ウエストをしっかり抱きしめて再び口にキスをしながら尋ねた。
世の中がこうやってうまくいって、こういう楽しい時間を過ごせるのはいいことだった。
第五章
翌年十月、十八歳を約半年過ぎた頃、クーパーウッドはウォーターマン商会が扱う穀物仲介業の仕事に見切りをつけて、同社との関係を絶ち、銀行と証券のティグ商会に入社することにした。
クーパーウッドとティグ商会との出会いは、ウォーターマン商会の外回りの仕事を普通にこなしていて巡ってきた。ティグは初っ端からこの利口な若い外回りに強い関心を抱いた。
「そっちの景気はどうだい?」とか「最近、借用証書をもらうことが随分増えたみたいだが?」と和やかに尋ねたりした。
不穏な国内情勢、有価証券の過剰なまでの増加、奴隷制問題などのせいで、厳しい時代を迎えそうだった。そしてティグは――自分でも理由はわからなかったが――この青年とならこのすべてについて対話をするだけの価値はあると確信した。彼は本当なら知っている年齢ではなかったのに、それでも知っていた。
「まあ、うちの方はそこそこうまくいってますよ、おかげさまで、ティグさん」クーパーウッドは答えた。
「それにしても」ある朝、ティグはクーパーウッドに言った。「この奴隷問題が収まらなかったら大変なことになるな」
ペンシルベニア州の法律は、たとえ国内の他の地域へ移動中に過ぎなかったとしても、州内に連れ込まれた黒人には自由の権利を与えたため、キューバから来た人の持ち物だった黒人奴隷が誘拐されて自由の身になった。そしてそれがもとで大騒ぎになった。数名の逮捕者が出て新聞が盛んにそれを論じていた。
「南部がこれを黙って見過ごすとは思わん。我々の商売にも支障が出ているんだから、他でも同じことが起きているに違いない。これじゃ確実に連邦脱退だな、それも近いうちに」ティグはほんの少しアイルランド訛をにじませて話した。
「そうなると思います」クーパーウッドは静かに言った。「私の判断だって、これは収まりっこないですよ。あの黒人にこれほど大騒ぎする価値などない。なのに黒人のために扇動を続ける奴らがいる――感情的な連中はいつもこんなことばかりするんだ。他にやることがないんですね。おかげで南部との取引に支障が出ている」
「同感だよ。みんなもそう言ってるしな」
クーパーウッドが青年が出て行ったので、ティグは新しい客の方を向いた。しかし改めてこの青年はティグに、うまくは言えないが、金融の問題に関して健全で深い考えを持っている印象を与えた。「もしあの若いのが仕事を欲しがったら、採用してやるか」ティグは思った。
ある日、ついに彼は切り出した。「取引所でうちの場立ちをやってみるというのはどうだ? うちは若手が一人要るんだよ。社員が一人やめるんでな」
「やってみたいです」クーパーウッドは笑顔でとてもうれしそうに答えた。「いつか自分から言い出そうと思っていたんですよ」
「じゃあ、そっちの準備ができて転職できるんなら、席は空いてるからな。いつ来てくれても構わんよ」
「社のほうに、きちんと話をつけなければなりませんので」クーパーウッドは静かに言った。「一、二週間猶予願えますか?」
「構わんよ。そのくらいどうってことはない。仕事の整理がつき次第すぐに来てくれ。そちらの雇い主に迷惑をかけたくはないからな」
フランクがウォーターマン商会をやめたのは、それからわずか二週間後のことだった。新しい前途に興味を抱きはしたが全然動揺しなかった。ジョージ・ウォーターマンの落胆は大きく、ヘンリー・ウォーターマンはこの退職に実際に苛立った。
「てっきり、きみはこの仕事を気に入っているんだと思ってたよ」この決断をクーパーウッドに告げられると、彼は力強く叫んだ。「給料が問題なのか?」
「いえ、とんでもないです、ウォーターマンさん。本格的な証券の仕事を始めたいだけです」
「それじゃあ、仕方がないな。残念だよ。私だってきみが一番やりたいことと違うことをやらせたくはない。きみのことだから自分のしていることはわかっていることだろう。でも、ジョージと私は少ししたらきみにここの権利を渡そうと話がまとまりかけていたのにね。それがこうして荷物をまとめていなくなるとは。何てことだ、この仕事は儲かるのに」
「わかってます」クーパーウッドは微笑んだ。「でも、私には向いてません。別の計画を考えてますから。私は穀物仲介業者になるつもりはないんです」 ヘンリー・ウォーターマンは、この分野での成功が明らかなのに、どうして彼が関心を示さないのか、よく理解できなかった。彼が仕事から抜けた影響が心配だった。
転職してすぐにクーパーウッドは、この新しい仕事の方があらゆる面で自分に合っていると確信した――やはり、同じくらい簡単なのに儲けが多かった。まず、ティグ商会はウォーターマン商会と違って南三番街六十六番地の立派な緑灰色の石造りのビルにあった。そこは当時もその後何年も金融街の中心だった。国内でも国際的にも重要で評判の高い大企業がすぐ近くにあった。ドレクセル商会、エドワード・クラーク商会、第三ナショナル銀行、第一ナショナル銀行、証券取引所などの似たような施設が軒を連ねた。たくさんの中小の銀行や証券会社もその周辺にあった。この会社の社長であり頭脳でもあるエドワード・ティグはボストン出身のアイルランド人で、その保守的な街で繁盛して成功した移民の息子だった。ここで投機的な人生を始めるためにフィラデルフィアにやってきたのだ。「確かにここは我々のような目が覚めている人間にはうってつけの場所だ」彼は軽いアイルランド訛りのある声で友人たちに言った。ティグは自分のことを目がぱっちり覚めていると考えていた。中肉中背で、やや若白髪があり、闘争心と自立心が旺盛でありながら、陽気で人当たりがいい応対をした。短い白髪交じりの口髭で上唇が飾られていた。
「まいったな」ここに来て間もない頃ティグは言った。「ペンシルベニアの人間っていうは債券を発行できるものには決して金を出さないな」その当時、ペンシルベニアの信用は、ついでに言うとフィラデルフィアの信用は、街が裕福だったにもかかわらず、とても低かった。「戦争にでもなったら、ペンシルベニアの人間はこぞって食事代にも手形を切って歩き回ることだろうよ。もし長生きさえできれば、私はペンシルベニアの手形と債券を買い漁って金持ちになれるぞ。あいつらだっていつかは払ってくれると思うが、まったく、やつらときたら死ぬほど遅いからな! 州政府が今私に負っている利息を払う前に、私の方が死んでしまうよ」
それは事実だった。州と市の財政状態は最悪だった。州も市も十分に裕福だった。しかしどちらの場合も公金をせしめようという陰謀が多くて、何か新しい仕事が企てられると、その資金を調達するために必ず債券が発行された。こうした債券、いわゆる権利書は六パーセントの利息を保証した。しかし市または州の財務官は時と場合にもよるが、利払い時に支払いをする代わりに、その証書に提示日のスタンプを押すことがあった。するとその時点でその権利書は、元の額面の金額だけでなくその時点での利息分も負担するのだ。言い換えると時間をかけて複利にされていた。しかしこれは資金を調達したい人の役には立たなかった。何しろ担保にしようにも市場価格の七十パーセント以上では抵当にできなかったからだ。だから額面ではなく九十パーセントで売られていた。抵当で流れた分を買うなり受け取るなりしても、随分待たねばならなかった。また、そのほとんどの最終支払いの段階で裁量が物を言った。財務官は特定の権利証が〝友人〟の手にあると知ったときだけしか、これこれの権利書――自分が知る特定の権利書――が償還される、と公表しないからだ。
当時、アメリカの金融システムは、混沌に近いものから、もっと秩序立ったものへとゆっくりと変わり始めたばかりだった。ニコラス・ビドルが創設した合衆国銀行は一八四一年に完全に消滅し、それに取って代わる金の保管場所の機能を持つ合衆国財務省が一八四六年に誕生した。しかしそれでもまだたくさんの山猫銀行があり、その数ときたら普通の交換所の取り扱い職員を、支払能力のある銀行とない銀行に精通した歩く百科事典にするほどだった。それでも事態は徐々に進歩していた。電信のおかげでニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアの間だけでなく、フィラデルフィアの地元の証券会社と地元の証券取引所との間でも、株式市場の時価が把握できるようになっていた。つまり、短い専用回線が導入されたのである。通信はより早く、より自由になり、日々向上した。
東西南北に鉄道が敷かれた。まだ株価表示機も電話もなかった。つい最近ニューヨークで清算機関が考案されたが、フィラデルフィアではまだ導入されていなかった。清算機関の代わりに、銀行と証券会社の間をメッセンジャーが走って、通帳の帳合と手形の交換は毎日、金貨の移送は週に一度、行われた。安定した自国通貨がなかったため、未払残高の清算に受け付けられるものは金貨しかなかったからである。取引所で一日の業務の終わりを告げる鐘が鳴ると、ロンドンのシステムを借用した〝清算屋〟なる若手の一団が部屋の中央に集まり、輪になって当日のさまざまな取引を比較したり集計したりして、自然に相殺される特定の会社間の売買をすべて排除した。担当者は長い帳簿を持ち運び「デラウェア&メリーランドがビューモント商会に売却」「デルウェア&メリーランドがティグに売却」などと取引内容を読み上げた。これにり各社の会計処理が簡素化でき、商取引がさらに迅速、活発になった。
取引所の会員権が一口二千ドルで売り出された。取引所の会員たちは、取引を十時から三時の間に制限する規則を可決し(それまでは朝から夜中までいつでもよかった)、それ以前続いていた過酷なやり方はやめてブローカーが取引を続けられるレートを定めた。従わない者には厳しい罰則が定められた。言い換えれば、立派な取引所が出来上がりつつあった。エドワード・ティグは他のブローカーたちと一緒に、前途に大きな未来が待っているのを感じた。
第六章
この頃までにクーパーウッド家は川に面したノースフロント・ストリートに、もっと大きくてもっと趣のある調度品をそろえた新しい家に落ち着いた。家は四階建てで、通りに二十五フィート面していて、庭はなかった。
一家はここでささやかなもてなしを始めた。ヘンリー・クーパーウッドが出納係に昇進するまでに出会ったさまざまな業界の代表者たちが時々会いにやって来た。取り立ててすごい面々ではなかったがヘンリーと同じくらい成功している人たちが大勢いた――彼の銀行と取引がある中小企業の社長、繊維や皮革や食料雑貨(卸売り)や穀物を扱う業者だった。子供たちは自分たちの付き合いを持つようになっていた。クーパーウッド夫人は教会の関係で時々午後のお茶会やパーティーを開くことがあった。そのときでさえクーパーウッドは女性に親切であろうとして、愛想よく馬鹿げた態度をとって妻が招待した人たちに挨拶した。真面目くさって威厳を保ち、多くを語らずに挨拶できるのであれば、クーパーウッドにとってさほど苦にならなかった。時には歌い、場合によっては少し踊ることもあって、非公式ながら、以前よりは「ディナーの付き合い」がかなり増えた。
フランクの関心を強く引いたセンプル夫人との出会いは、この家で新しい生活を始めた最初の年にあった。彼女の夫は三番街に近いチェスナット・ストリートにしゃれた靴屋を構えていて、同じ通りの先に二軒目を開く計画を立てていた。
出会いのきっかけはセンプル邸への夕方の訪問だった。センプルは当時世に出始めていた新しい交通手段――すなわち路面鉄道――について、ヘンリー・クーパーウッドと話をしたがっていた。ノース・ペンシルベニア鉄道が作った試験的な路線は、ウィロウ・ストリートからフロント・ロードに沿ってジャーマンタウン・ロードに至る一マイル半の路線と、そこから様々な通りを経て、当時コホクシンク車庫と呼ばれていた場所まで操業していた。いずれこの移動手段が、現在繁華街を混雑させて通行不能にしている何百台もの乗合馬車を駆逐するかもしれないと考えられた。クーパーウッド青年は最初から大きな関心を寄せていた。とにかく、彼の関心は鉄道輸送全体に及んだが、特にこの局面が最も魅力的であり、すでに幅広い論議を巻き起こしていた。クーパーウッドは他の人たちと一緒になってそれを見に行った。全長十四フィート、幅七フィート、高さがほぼ同じという、鉄の小さな車輪で走る奇妙だが興味深い新型車両は、乗合馬車よりも静かで乗りやすいと大好評だった。アルフレッド・センプルは、もし議会から運営権を獲得できたら五番街と六番街を走ることになる別の計画中の鉄道に投資しようと密かに考えていた。
ヘンリー・クーパーウッドは、これが将来有望なのはわかったが、その資金がどうやって調達されるかまではまだわからなかった。フランクは、運営権の獲得に成功したら、ティグ商会はこの五番街=六番街線会社の新株販売代理店になるべきだと信じていた。会社がすでに設立され、将来の運営権に対して大量の株式が発行され、株式は最終的な額面価格百ドルに対して五ドルで販売される、ことはわかっていた。それを大量に取得できる十分な資金が自分にあればいいのにと思った。
その一方で、リリアン・センプルが彼の関心をつかんで離さなかった。この年齢のフランクを引き付けたのが彼女の何だったかを言うのは難しい。感情面でも知性面でもその他の面でも、リリアンは本当はフランクに合わなかった。女性や少女と付き合った経験がないわけではなかったし、マージョリー・スタッフォードとはまだずるずる関係が続いていた。しかし、リリアン・センプルが既婚者で、彼は合理的な関心を彼女に抱くことだってできたにもかかわらず、彼女は賢くて健全には見えなくても、価値があるようには見えたのだ。フランクが十九歳であるのに対し、リリアンは二十四歳だが、考え方も容姿もまだ若くてフランクと同じ歳に見えた。リリアンはフランクより少し背が高かった――フランクはもうピークだった(五フィート十一インチ半)。――それに彼女は上背がある割にスタイルがよくて、体つきも顔立ちも芸術的だった。心にはある種の無意識な平穏が宿っていたが、それは個性の強さというよりは理解力の欠如から生じていた。髪は乾燥した西洋胡桃の色で、ふさふさと豊かであり、顔色は蝋――クリーム色の蝋――唇はかすかなピンクで、目は相手が見る角度の光の加減によって灰色から青へ、灰色から茶色に変化した。手は細くて形がよく、鼻筋が通っていて、顔は美しくほっそりしていた。華やかさや活気はないが、穏やかで、本人は気づかなくても彫像を思わせるところがあった。クーパーウッドはその姿に心を奪われた。彼女の美しさはこのときの彼の美意識に合致した。いとおしい、と思った――優雅で、気品があった。もし妻を選べるのなら、娶りたいのはこういうタイプの女性だった。
今のところ、クーパーウッドの女性に対する判断は、知的であるというよりは気まぐれだった。富や名声や支配欲にとりつかれていた彼は、立場や世間体などへの気兼ねに抑えられはしなくても、まどわされたのだ。それでも、不器量な女は彼にとって何の意味もなかった。そして情熱的な女性は大きな意味があった。男性ばかりか女性の間でも、献身的な人について家族がいろいろ論じるのを耳にした――女性は夫や子供もしくはその両方のために骨を折って奴隷のように働くもの、重大局面や決定的瞬間に親戚や友人に譲歩するもの――理由はそうするのが正しくて親切だから――などといわれるが、どういうわけか、こういう話は彼には魅力的ではなかった。人間は――たとえ女性であっても――正直なところ、率直に言って、利己的であると考える方が好きだった。理由は彼にも言えなかった。人間が愚かに見えた。あるいは、精一杯見積もっても、あらゆる状況で何をしたらいいのかも、どうやって自分を守ったらいいのかも知らない、とても不運な人たちといったところだった。道徳が盛んに語られ、美徳や良識がもてはやされ、七番目の戒めを破った者や破ったと噂される者に対して正義感から憎悪する手がやたらと振りあげられた。クーパーウッドはこんな話を真に受けなかった。すでに密かに何度も破っていた。他の若者もそうだった。それでも街娼や娼館の女たちにはいささか胸糞悪さを覚えた。こういう関係には、あまりにも淫らで罪深い要素が多すぎた。しばらくは、その評判の悪い館の偽りのきらびやかさが魅力的だった。何しろあの豪華さにはある種の力があった――一概に豪華だった。赤いビロードの家具、赤い派手なカーテン、粗末だがけばけばしい額縁の絵画、そして何よりも、屈強な体か色っぽい虚弱体質の女たちが(彼の母親が言うには)男を食い物にするためにそこに住んでいた。彼女たちの肉体の強さ、魂の情欲、愛情か気立ての良さを見せつけて次々に男を受け入れられるという事実は、彼を驚かせ、やがてうんざりさせた。結局、彼女たちは要領が悪いのだ。あそこでは思考が活性化する余地がない。思えば、彼女たちにやれることといったら、結局これひとつしかないのだ。翌朝の虚脱感と、ひたすら眠ることと実入りを考えるだけがせめてもの救いになるときの、いろんな物のつまらない残りカスを心に思い浮かべた。そしてこの年齢でありながら、一度ならず首を傾げた。彼はもっと親密で、微妙な、個別の、個人的関係がほしかった。
そこにリリアン・センプルが登場したが、彼女はクーパーウッドにとって理想の影に過ぎなかった。しかし、リリアンは彼の女性観をある程度はっきりさせた。リリアンの体は、彼がこれまでに娼館で出会った他の女たち――社会通念に逆らう粗野で恥知らずな連中――ほど精力的でも動物的でもなかった。だからこそクーパーウッドはリリアンを好きになった。そして、新たに乗り出した仕事で、閃光のように過ぎ去る慌ただしい日々をよそに、リリアンのことばかり考えていた。彼がこのとき身を置いたこの証券取引所の世界は、今なら旧式に見えるだろうが、クーパーウッドにとってはものすごく魅力的だった。ドック・ストリートと三番街にある彼が向かった部屋には、ブローカーとその代理人と事務員が百五十人ほど集まっていて、芸術的と呼べるものがまったくなかった――四階建てビルの二階から屋根まで届こうという、縦横六十フィートの正方形の部屋だった。しかし彼にはこれが印象的だった。窓は高く幅が狭くて、大きな文字盤の時計が、階段から入って来る部屋の西側の入口を向いていた。電信機一式とそれとセットの机と椅子が北東の角を占拠していた。取引所が始まった頃は床に椅子が並んでいて、そこにブローカーが座り、いろいろな銘柄の注文が彼らに出された。その後、取引所の歴史が進むうちに、椅子は撤去されて、要所要所に特定の銘柄の取引場所を示す標識や床表示が導入された。そのまわりに興味を持つ者が集まって取引を行った。三階のホールから扉を開けると、小さくて粗末な設備の来客席があった。西側の壁の大きな黒板は、ニューヨークやボストンから電信で送られてくる最新の株価を伝えた。部屋の中央で三柱門のような柵が、公式記録係の机と椅子を囲んていた。西側の三階から始まっているとても小さなギャラリー席は、何か特別な発表があるときに理事会の事務方に場所を提供した。南西の角に部屋があって、議長の報告書や年次概要はそこに移され、いろいろな種類の特定の株式が保管されていて、会員が利用できる場所を示すさまざまな標示があった。
クーパーウッド青年は、ブローカーとしてもブローカーの代理人もしくは補佐としても、まったく認められなかっただろう。しかしティグは彼を必要と感じ、とても役に立つと信じて、取引所の会員権を買い与え――その費用二千ドルを負債として計上し、表向きはパートナーに組み入れた。フロアに人員を置くために、こういう形でパートナーを装うのは取引所の規則に反していたが、ブローカーたちはそれをやっていた。小さなパートナーとか場立ちの補佐として知られる連中は〝小銭稼ぎ〟とか〝二ドルブローカー〟と揶揄された。常に小口の注文ばかり求めて、手数料欲しさに誰のための売買でもやりたがり、当然、自分の仕事の成果を会社に報告していた。クーパーウッドは彼に本来備わっている長所とは関係なく、最初はそんな連中と一緒くたにされ、ティグ商会の正規の場立ちのアーサー・リバースの指揮下に置かれた。
リバースは三十五歳の非常に力強い男で、立派な服装、立派な体格だった。表情が硬く、滑らかで平らな彫りの顔を飾るのは、短くて黒い口髭と、きれいな黒ではっきり墨を入れられた眉毛だった。髪は額の真ん中の変なところを起点にして分けてあって、顎がかすかに魅力的に割れていた。声は穏やか、態度はおとなしく控えめで、両方ともこの証券とトレーディングの世界の内外で、礼儀作法に則って抑制された。クーパーウッドは最初、どうしてリバースがティグのために働かなくてはならないのか不思議だった――同じくらい有能に見えた――後で知ったのだが、彼は会社の人間だった。ティグはまとめて幅広く握手をするのが役割で、リバーズは場立ちと外まわりだった。
フランクはすぐ気づいたが、株価が上昇したり下落したりする理由を正確に把握しようとしても無駄だった。ティグに教わったように、もちろん、よく言われる理由はいくつかあったが、それが常に当てになるわけではなかった。
「確かに、どんなことでも市場を作りもすれば壊しもする」――ティグはかすかなアイルランド訛りをにじませて説明した――「銀行の破綻から、いとこの婆さんが風邪をひいたという噂までな。実に変わった世界なんだ、クーパーウッド。誰にも説明できないんだ。お前が説明できない株の暴落を、私はいくつも見てきた――誰にも説明できないさ。暴落の理由を見つけるなんてできっこないからな。同じように値上がりだって見てきたぞ。証券取引所の噂にはまいっちまうよ! 噂は悪魔だってぶっ叩くからな。もし平時に値下がりしていれば、誰かが持ち高を減らしているか、誰かが市場を操作しているんだ。もし値上がりしていれば――景気がよくなったか、誰かが買っているに違いない――確実にな。それ以上のことは――とりあえず、リバースに頼んでやり方を教わることだ。私のためにもしくじるんじゃないぞ。しくじりはうちの会社じゃ大罪だからな」ティグは、たとえ善意からだとしても、意地悪くこれに微笑んだ。
クーパーウッドは理解した――これ以上は誰にもわからなかった。このとらえどころのない世界は彼には魅力的だった。彼の性に合っていた。
噂、噂、噂だらけだった――鉄道や路面鉄道の大型プロジェクト、土地開発、政府による関税改正、フランスとトルコの戦争、ロシアやアイルランドの飢饉など、きりがなかった。まだ最初の大西洋ケーブルは敷設されていなかった。あらゆる種類の海外ニュースは遅いしお粗末だった。それでもこの分野には、サイラス・フィールド、ウィリアム・H・バンダービルト、F・X・ドレクセルといった財界の大物がいて、すばらしい仕事をしていた。彼らの活躍と、彼らに関係する噂は大きな影響を及ぼした。
フランクはすぐに業界の専門用語を全て身につけた。〝買い方〟とは今後の上昇を見越して買う人である。もしその者が株の〝銘柄〟を〝大量に買い込んで〟いれば〝買い持ち〟していると言われ〝利食う〟ために売却する。もし証拠金が枯渇すると〝強制決済〟されてしまう。〝売り方〟とは往々にして、値下がりを見越して自分が持っていない株を売る者である。その下がったところで買いを入れて、先に売っておいた分を決済すればいいのである。自分が持っていないものを売ったときは〝空売り〟である。そして売った分を決済するために、もしくは価格が下落せず上昇した場合にさらなる損失から身を守るためにに買うのは〝買い戻し〟である。引き渡すために借りた株や、要求された株の返済をしようにも買えないとわかったときは〝買い占め〟をくらっている。そのとき、自分や他の〝空売り〟した者たちは、事実上売った相手に決められた値段で決済することを余儀なくされる。
クーパーウッドは最初、若手のやたらと秘密にしたがる賢しげな態度に微笑んだ。彼らは本当に愚かなくらい疑り深かった。もっと老練な者はみんな腹の底が読めなかった。無関心や半信半疑を装ってはいるが特定の餌を狙う魚のようだった。パクっと食われてチャンスはなくなった。ほしかったものを、他の誰かがものにしてしまった。全員が小さなノートを持っていた。「やったぜ、いただき!」を意味する独特な目の細め方、姿勢、動作を全員が持っていた。時々、売るか買うか決めかねているように見えることがあったが――彼らはお互いをよく知っていた――腹は決まっていた。マーケットが何らかの理由で活況を呈せば、軟調で商いが薄いときよりも、ブローカーと代理人の人数は増える傾向があった。十時に取引開始の鐘が鳴り、株の銘柄なり複数の銘柄に顕著な上昇なり下落の動きがあれば、かなり活気のある場面を目撃することになる。五十人から百人ほどの男たちが、叫び、身振り手振りを交え、一見目的もなくもみ合い、提示したかされたかした株取引を有利に進めようと頑張っていた。
「P&W五百株を八分の五ドルで」誰か――リバース、クーパーウッド、他のブローカー――が声をあげる。
「その五百、四分の三でどうだ」という答えが他の誰かから返ってくる。相手は、その値段で株を売る注文を持っている者か、あとでもっと安い値段でその株を手に入れ、注文をこなし、その上で少しでも儲けようと思い、空売りをしたがっている者だ。その数字での株の供給量が多ければ、リバーズはおそらく八分の五で競りを続ける。一方、需要が高まっていることに気がつけば、それを得るためにおそらく四分の三ドルでも支払うかもしれない。もしベテランのトレーダーたちが、リバーズが大量の買い注文を抱えていると信じたら、少し高い値段で彼に売りつけられると信じて、リバースが四分の三で買ってしまう前にその株を買おうとする。ベテランのトレーダーはもちろん心理学に長けていた。彼らの成功は、ティグのような大物相場師を代表するブローカーが、自分の注文をさばき切らないうちに、マーケットに影響を与えて、儲けを出して、言わば〝買って売り抜ける〟ことができるチャンスを自分たちに与えてくれるほど大きな注文を抱えているかどうかを見極める才能にかかっていた。まるで敵の爪から獲物をひったくる隙をうかがう鷹のようだった。
四人、五人、十人、十五人、二十人、三十人、四十人、五十人が、時にはその場の全員が、売るなり買うなりして、特定の銘柄の上昇に便乗しようとすることがあった。そういう場合の活況と喧騒は耳を聾するほどだった。一定の人数は別の銘柄を取引していたかもしれないが、その大半はひとつの特別な銘柄に便乗するために、自分たちが手がけていたものを放り出した。進行中の出来事の全貌を知って、特定の上昇なり下落に便乗しようと逸る若手のブローカーや社員の中には、体を機敏に動かして、あっちこっち駆けずり回り、興奮のあまり指をかざして説明する者がいた。肩の上から、腕の下から、歪んだ顔が突き出された。わざとなのか無意識なのか、どんな滑稽なしかめっ面でも浮かぶがままだった。特定の人間が、利益を出せる値段で売買の意思表示をすると、そこへ向かって押し寄せる腕や顔や肩とで、それこそ窒息させられるほどの目に遭うことが時々あった。若いクーパーウッドには、最初これがとてもすばらしいものに見えた――この物理的な面がである――何しろ彼は人間らしい存在と活動が好きだった。しかし少しすると、自分がその一部である、ひとつの絵もしくはドラマ的状況としての物の感覚が薄れて、自分の前の問題の複雑さをより明確に感じるようになった。彼がすぐに理解したように、株の売買は、芸術であり、精神的感動だった。疑うこと、直感、感じること――これらはずっと働かせておくべきことだった。
やがて彼は自問した。お金を儲ける人とは、どういう人だろう――株式ブローカーだろうか? いやちがう。中にはお金を稼いでいる人もいるが、彼にもすぐにわかったように、彼らは、風下にたむろして腹をすかせ、油断している魚を捕まえたくて仕方がない多くのカモメやウミツバメのようなものだ。その背後には別の男たちがいる。抜け目ないアイデアと得体のしれない財源を持つ男たちだ。これらの株式が代表する企業や資産を持つ莫大な資産家、鉄道を計画して建設し、鉱山を開発し、貿易会社を作り、巨大な工場を建てた人たちだ。彼らはブローカーや他の代理人を使って取引所で売買を行う。しかしこの売買は実在する事実――鉱山、鉄道、小麦の収穫、製粉所など――に必ず関連して起こるもので、常に関連していた。すみやかに資産を現金化するためのただの売却や、投資として保有するための購入でないものはすべて純然たるギャンブルであり、彼らはギャンブラーだった。自分はギャンブラーの代理人にすぎない。これはこのときにはもう悩ましいことではなくなっていた。自分が何者であるか、これはもう全然謎ではなかったからだ。ウォーターマン商会のときと同じように、彼はこの男たちを抜け目なく査定して判断した。ある者は弱い、ある者は愚か、ある者は賢い、ある者は鈍い、しかしほぼ全員、了見が狭いか、知恵が足らなかった。なぜなら、彼らは代理人、道具、ギャンラーだからだ。人間は、本物の人間は、代理人や、道具や、ギャンラー――自分のためか他人のために行動する者――であってはならない。私はそういう人間を使わなければならないのだ。本物の人間――資本家――は決して道具ではない。道具を使うのだ。創造して導く人なのだ。
齢十九、二十、二十一にしてクーパーウッドははっきりと、とてもはっきりとこのすべてがわかっていた。しかし、まだこれについて何かをする準備はできていなかった。しかし彼は自分の時代が来ることを確信していた。
第七章
一方で、センプル夫人への思いは密かに不思議なほど高まっていた。センプル邸への招待状を受け取ったときクーパーウッドは大喜びで受け入れた。センプル邸は彼の自宅からそう遠くないノースフロント・ストリートの、現在では九五六号として知られるあたりにあった。夏は青々とした葉と蔓がいっぱいで、南側の壁を飾る小さなポーチは、川のすてきな景色を一望した。すべての窓とドアは上部が小さな窓ガラスのルネットになっていた。この家のインテリアはクーパーウッドの趣味には合わなかった。少なくとも家具は新品の良いものではあったが、芸術的感銘を受けなかった。絵は――まあ、ただの絵に過ぎず、取り立てて言うほどの本はなく――聖書、流行りの小説が少しと、それよりは重みのある歴史書が数冊、親戚からもらった本の形をしただけの古びたガラクタの寄せ集めだった。陶磁器はよかった――模様が繊細で。絨毯と壁紙は色調が高すぎた。そんな調子だった。それでもリリアン・センプルの個性には何らかの価値があった。彼女は本当に見ていて楽しく、どこで立っても座っても絵になった。
子供はいなかった――これは夫婦生活のあり方が問題で彼女とは関係なかった。何しろリリアンは子供を欲しがっていた。彼女は一員であるウィギン家に行くことを除けば、社交的な生活では目立った経験がなかった――親戚や近所の友人を訪ねる程度だった。旧姓リリアン・ウィギンには兄二人と姉が一人いて、この当時はみんなフィラデルフィアに住んで結婚していて、リリアンは結婚生活を順調に送っていると考えた。
どの時期であろうとリリアンがセンプル氏を熱烈に愛していたとは言えなかった。晴れて結婚したとはいえ、センプル氏はどんな女性の中にも目立った情熱をかき立てることができるタイプの男性ではなかった。実務的で、几帳面で、規律正しい人だった。センプル氏の靴屋はいい店だった――流行を反映しているスタイルのものが充実していて、清潔と心地のいい明るさと言えるものの模範だった。彼は話になると、靴づくりのことや、木型やスタイルの発達について話すのが大好きだった。既製品――ある程度まで機械が作るもの――が徐々に実力を発揮してきていた。こういうものを供給する他にも、彼は手作りの靴職人を雇って、個別に寸法を測るオーダーメイドで顧客を満足させていた。
センプル夫人は少しは本を読むが――たかが知れていた。時々座って何やら物思いに耽った様子で考え込む癖があったが、別に深い考えに基づいてはいなかった。しかし彼女の体には気になる美しさがあって、それが彼女に、まるでアンティークの花瓶に描かれた人物か、ギリシャの合唱団から出てきた人のような印象を与えた。クーパーウッドがリリアンを見たのは紛れもなくこの観点からだった。彼は最初からリリアンから目を離せすことができなかった。一応、リリアンはこれに気づいてはいたが、別に重視しなかった。どこまでも慣習的で、自分の人生が夫の人生と永遠に結ばれたことに今や満足している彼女は、堅苦しい静かな生活に落ち着いていた。
最初リリアンはフランクが訪ねてきてもあまり話さなかった。彼女は丁寧に応対してくれたが、会話の負担は夫に降り掛かった。クーパーウッドは時々変化しているリリアンの顔の表情を観察した。もしリリアンに少しでも霊感があったなら何かを感じたに違いない。幸い、彼女にそんなものはなかった。センプルは楽しそうにフランクに話しかけた。というのも、第一にフランクは経済力のある重要人物になりつつあり、愛想がよくて、取り入るような態度だったのと、第二にセンプルはもっと金持ちになりたかった。そして、どういうわけか、センプルにはフランクがその方面で先を行く代表に思えたからだ。ある春の夜、ポーチに座って雑談したことがあった――大して重要な話題は何もなく――奴隷制度、路面鉄道、暴落――当時の、一八五七年の暴落――西部の開拓について話した。センプルは証券取引所のことを何でも知りたがった。フランクは本当は知りたくなかったが、そのお返しに靴の商売のことを尋ね、その間ずっと、さりげなくセンプル夫人を眺めた。態度が穏やかで、魅力的で、楽しそうにしている、と思った。夫人はお茶とケーキを持ってきてくれた。少しすると蚊をさけるため室内にはいり、夫人がピアノをひいてくれた。十時にフランクはおいとました。
それからは、一年かそこらだが、クーパーウッドはセンプルから靴を購入した。時折、チェスナット・ストリートの店にも立ち寄ってひとときを交換した。センプルは、運営権を取得して大きな盛り上がりを見せている五番街=六番街鉄道の株式を買うのは得策かとクーパーウッドの意見を求めた。クーパーウッドは最善の判断を伝えた。これが儲かるのは確実だった。彼は一株五ドルで百株を購入済みだったし、センプルにもそうするように勧めた。しかし彼はセンプル個人には興味がなかった。あまり頻繁には会わなかったが、センプル夫人のことが好きだったのだ。
一年くらいしてセンプルが亡くなった。これは早すぎる死、偶発的な、ある意味では取るに足らないエピソードの一つだったが、それでも最も身近な関係者たちにとっては物憂いなりに劇的だった。秋が終わる頃、センプルは風邪で胸を患った。足を濡らしたとか、じめじめする日にオーバーを着ないで外出したのがよく原因にされる発病のひとつだった。センプル夫人が自宅で養生するように言っても、仕事に行くと言って聞かなかった。センプルは彼なりに意志の強い人で、うるさくて手に負えないというのではなく、静かで表面に出さないだけだった。仕事が彼を駆り立て、もうじき五万ドルくらいの資産家になる自分の姿を見ていた。その矢先にこの風邪――九日間肺炎――を患って死んでしまった。靴屋は数日店を閉め、自宅は弔問客と教会関係者でいっぱいになった。葬儀があって、所属していたカロウヒル長老教会で埋葬式が行われて、センプルは埋葬された。センプル夫人は号泣した。死のショックは大きくて、しばらく鬱状態が続いた。兄のデビッド・ウィギンが当面妹に代わって靴屋を引き継いだ。遺言はなかったが、靴屋の売却を含む最終的な調整で、全財産を妻が相続する権利に誰も異議を唱えなかったので、リリアンは一万八千ドル以上を受け取り、フロント・ストリートの家に住み続け、魅力的な気になる未亡人と目された。
この事態の進展中に、まだ二十歳だったクーパーウッド青年が静かに現れた。闘病中も見舞いに訪れ、葬儀にも参列した。兄のデビッド・ウィギンが靴屋を畳むのを手伝った。葬儀の後、一、二度顔を出し、その後はしばらく鳴りを潜めたが、五か月後に再び現れ、その後は一週間や十日といった一定の間隔をあけて訪ねるようになった。
ここでもなお、クーパーウッドがセンプル夫人に何を見たかを説明するのは難しい。蝋のような質感の彼女のかわいらしさが彼を魅了し、おそらく彼女の無関心が彼の闘争心をかき立てたのかもしれない。わけもわからないまま、しきりに情熱的に彼女を求めた。理性的に彼女のことを考えられなくなり、彼女のことは誰にもあまり話さなかった。フランクがリリアンに会いに行くのを家族は知っていたが、クーパーウッド家では、フランクの精神面の力に対する深い尊敬の念が育っていた。彼は温厚で、明るく、ほとんどいつも陽気で、話に夢中になりすぎず、明らかに成功していた。誰もが、今、彼が稼いでいることを知っていた。週給は五十ドル、すぐにもっともらえるようになる自信があった。三年前に西フィラデルフィアで購入した土地の数箇所が著しく値上がりしていた。保有中の路面鉄道株は、新設された鉄道会社の五十株、百株、百五十株が追加されて、厳しい時代だったにもかかわらず、一株が五ドルから十、十五、二十五ドルへと徐々に上昇中で、すべて額面まで行くのが確実だった。金融街で気に入られ、将来は成功すると確信していた。証券会社の状況を分析して、株式ギャンブラーにはなりたくないという結論に到達していた。代わりに手形を割り引く仕事を考えていた。これはとても儲けが大きくて、資本さえあればリスクがない仕事だと考えたからだ。自分の仕事や父親の人脈を通じて、クーパーウッドは大勢の人たち――商人、銀行家、貿易商――と知り合っていた。そういう人たちの仕事を、あるいはその一部を任せてもらえることはわかっていた。ドレクセル商会やクラーク商会の人間とは親しいし、新進気鋭の銀行家ジェイ・クックは個人的な友人なのだ。
その一方でクーパーウッドはセンプル夫人を訪問し、訪問すればするほどどんどん好きになった。二人の間ですばらしい考えが交換されることはなかったが、クーパーウッドは自分がしたいときに、慰めになる社交を行う方法を手に入れたのだった。彼女の身内でさえ賛成するほど聡明に仕事の問題で彼女に助言を与えた。彼はとても思いやりがあり、物静かで、元気づけてくれ、すべてがちゃんと理解できるまで何度も説明してくれるものだから、リリアンはフランクのことが好きになった。まるでそれが自分の問題であるかのように、彼女の問題を考え、安全で確実なものにしようとしているのが、彼女にも見てとれた。
「あなたってとても親切ね、フランク」ある晩、彼女は言った。「とても感謝してるのよ。あなたがいなかったら、どうしていいかわからなかったわ」
彼女は、子供のように無邪気に自分に向けられたハンサムな相手の顔を見た。
「とんでもない。大したことじゃありませんよ。好きでやってるんです。やれなかったら、その方が幸せじゃなかったでしょうね」
彼の目には異様な何とも言えない光――かすかな光ではないもの――があった。彼女はフランクに暖かみを感じ、共感を覚え、自分が彼を頼れることにすっかり満足していた。
「まあ、それでもとても感謝しているんですよ。あなたにはずっとよくしてもらってますもの。もしよければ、また日曜日に、でなければ、夕方いつでもいらしてね。私は家にいますから」
そうやってセンプル夫人を訪問している間にキューバでセネカ伯父さんが亡くなり、フランクに一万五千ドルを残してくれた。このお金のおかげで彼が自由にできる資産は二万五千ドル近くになり、その使い道も正確にわかっていた。センプルが亡くなった後で恐慌が起こり、証券業がいかに不安定なものなのかを、彼にとてもはっきりと教えてくれた。本当にものすごい不景気があった。全く存在しないと言っていいほど現金がなくなった。どこへいっても先が見えない通商・金融情勢に恐れをなした資本は、銀行、金庫、やかん、ストッキングなどの隠れ家に引っ込んでしまった。国が没落していくようだった。南部との戦争、連邦離脱が遠くの方にぼんやりと見えていた。国民全体がピリピリしていた。人々はお金を手に入れるために、持ち株を株式市場で投げ売りした。ティグは社員を三名解雇した。あらゆる手段で経費を削減し、自分の持ち株を守るために自分の預金をすべて使い果たした。家も土地も――すべてを――抵当に入れた。若手のクーパーウッドは何度も仲介役を務め、株券の束をいろいろな銀行に持ち込み、それで集められる分を手に入れた。
「お前の父親の銀行が、こいつで一万五千ドル貸してくれないか確認してくれ」ある日、ティグはフィラデルフィア&ウィルミントン社の株券の束を出してフランクに言った。フランクは、昔、父親がそれを優良株と話すのを聞いたことがあった。
「これなら大丈夫のはずなんだ」株券の束を見せられて、ヘンリー・クーパーウッドは怪訝そうに言った。「違うときだったら、これでいい。しかし、金融がかなり逼迫していてな。うちも近頃じゃ、自分の責任を果たすのがものすごく大変なんだ。キューゲルさんに話してみるよ」キューゲル氏は頭取だった。
話し合いは延々と続いた――随分待たされた。父親が戻ってきて、融資ができるかどうかはっきりしないと告げた。当時、お金に担保としてつけられていた八パーセントは、需要を考えれば低い金利で、キューゲル氏は十パーセントならコールローンに応じられた。フランクは雇い主のもとに戻った。報告を受けてティグは怒り出した。
「なんてこった、町中の金がなくなってしまったのか?」ティグは食ってかかった。「こんな利率を要求するなんてべらぼうだ! 腹に据えかねる。でも、まあ、そいつをもっていって現金にしてくれ。これじゃあ、どうにもならん!」
フランクは戻って「十パーセント払うそうです」と静かに言った。
ティグは即時引出し特約つきで一万五千ドルを振り込んでもらい、その場で総額一万五千ドルの小切手を切って、ジラード・ナショナル銀行の不足分を補った。そして事なきを得た。
この間ずっと、クーパーウッド青年はこういう金融の複雑な問題を興味深く見守っていた。それが自分に直結する利益に影響を及ぼす場合を除いて、奴隷問題、連邦離脱の話、総論的な国の進歩だとか衰退などに動じなかった。クーパーウッドは安定した資本家になりたかった。しかし証券業界の内情を知った今、自分がその中にとどまりたいという確信がもてなかった。この恐慌によって引き起こされた状況からすると、株でギャンブルをするのはとても危険に思えたからだ。たくさんのブローカーが破産した。彼らが苦悶の表情でティグのもとに駆け込み、特定の取引を取り消してほしいと頼み込むのを目の当たりにした。家庭にまで累が及ぶ、と泣き言を言っていた。彼らは一文無しになって、妻子は路頭に迷うのだろう。
ちなみに、この恐慌は、自分が本当にやりたいことをフランクに一層確信させただけだった――自由になる金を手に入れた今、自分で商売を始めるつもりだった。小口で経営に参加しないかというティグの申し出さえフランクをその気にさせられなかった。
「いい仕事だとは思いますが」と断りながら説明した。「私は自分で手形割引の仕事を始めたいんです。この株ってやつが信用できなくて。この業界で現場を任されるよりも自分で小さな仕事を手がけたくなりましてね」
「しかしおまえはまだ随分若いんだぞ、フランク」雇い主は説得した。「自分のために働く時間はたくさんあるだろう」結局、フランクはティグともリバースとも別れた。「あいつは頭の切れる若者なんだがな」ティグは残念そうに言った。
「自分の足跡を残すでしょうね」リバースは答えた。「あの年齢であれだけのやり手は見たことないですよ」
第八章
この時期クーパーウッドの世界はバラ色だった。恋をしていて、新たな事業を始める自分のお金があった。着実に値上がりを続けている路面鉄道株を使って、市場価格の七十パーセントで資金を調達することができた。必要なら自分の土地に抵当権を設定して、それで資金を得ることができた。ジラード・ナショナル銀行と金銭的な関係を構築した――そこのデービソン頭取が彼を気に入ってくれた――クーパーウッドはいつかその銀行から融資を受けるつもりだった。求めたのは適切な投資だった――確実で、早く儲けを出せるものだった。地域に枝を伸ばすように急速に発展を続けている路面鉄道会社は将来素晴らしい利益を生むかもしれないと見ていた。
この頃、クーパーウッドは馬と馬車を購入した――見つけられた限りで最も魅力的な馬と乗り物――費用は合わせて五百ドル――そしてセンプル夫人を誘って一緒にドライブした。夫人は初回こそ辞退したが、以降は承諾した。クーパーウッドは、自分の成功と将来性、一万五千ドルの大金が転がり込んだことや、手形の割引の仕事を始めるつもりでいることを彼女に打ち明けた。彼女は彼の父親が第三ナショナル銀行の副頭取の地位を継承しそうなことを知っていたし、クーパーウッド家に好感を持っていた。今では、ここに単なる友情以上のものがあることに気づき始めていた。このかつての少年は一人の男性となり、自分のもとに通い続けている。よくよく考えてみれば馬鹿げた話だ――年上の女性、未亡人、静かで控えめな性格――しかし、この若者の純粋で静かな決然たる力が、彼女の伝統的価値観で思いとどまらせられないのは明らかだった。
クーパーウッドは彼女のこととなると、品行に関する高尚な理論で自分を欺かなかった。相手が美しくて、自分が抗えない精神的、肉体的魅力を持っている、これだけわかっていれば十分だった。そういう形で彼をつかんで離さない女性は他にはいなかった。同時に他の女性を好きになれないとか、なるべきではない、という考えはクーパーウッドには決して起こらなかった。家庭の神聖さについてのどうでもいい話はたくさんあったが、そんなものはアヒルの羽から水がこぼれ落ちるように、彼の精神世界から転がり落ちた。彼女にお金があることはちゃんとわかっていたが、それが目当てではなく、自分ならそれを彼女のためになるように使えると感じていた。彼は彼女の肉体がほしかったのだ。やがて持つであろう子供たちに、鋭い原始的な興味を感じたし、彼女に自分を激しく愛させて、以前の生活の記憶を追い払うことができるかを確かめたかった。変な野望があったものだ。変な倒錯と言ってもいいかもしれない。
懸念と不安があったにもかかわらず、リリアン・センプルは彼の気遣いや関心を受け入れた。やはり自分でも知らないうちに彼に惹かれていた。ある晩、寝るときに化粧台の前でたたずんで、顔と露出した首と腕に目をやった。とてもきれいだった。独特な陰影のある長い髪を見ているうちに妙な気持ちになった。若いクーパーウッドのことを考え、それから故センプル氏の面影や世間の意見の影響力と求められる品位が頭をかすめるとひやりとして恥ずかしくなった。
「どうしてこう頻繁にいらっしゃるの?」明くる晩クーパーウッドが立ち寄るとリリアンは尋ねた。
「ほお、わかりませんか?」説明をかねた表情で相手を見すえて答えた。
「ええ」
「本当にわかりませんか?」
「まあ、あなたが主人と懇意だったことは知っています。その妻として私とも仲良くしてくれるものだといつも思ってました。でも、もう主人は亡くなりましたわ」
「でも、あなたはここにいる」クーパーウッドは答えた。
「私がここにいるから?」
「ええ、ぼくはあなたのことが好きなんです。あなたと一緒にいたいんです。あなたはぼくのことをそんな風に好きではありませんか?」
「あら、そんなこと考えたこともなかったわ。あなたは随分年下ですもの。私の方が五歳も年上なのよ」
「歳の差はありますね、確かに」クーパーウッドは答えた。「そんなことは問題じゃない。別のことでは、ぼくの方があなたよりも十五歳は年上です。見ようによっては、あなたがこの先学ぼうと期待できる以上にぼくの方が人生について知っています――そう思いませんか?」クーパーウッドは穏やかに説き伏せるように付け加えた。
「まあ、確かにそうね。でも、私だってあなたの知らないことをたくさん知ってるわ」リリアンはかわいい歯を見せながら優しく笑った。
夕暮れ時、二人はサイドポーチにいた。二人の目の前には川が流れていた。
「ええ、でも、それはあなたが女性だからですよ。女性の視点を正確にとらえるなんて男性に期待できませんからね。でも、ぼくはこの世の中の現実的な問題について話をしているんです。そういうことでは、あなたはぼくほど年が上ってわけじゃありません」
「だから何だっていうの?」
「何でもありません。ぼくが会いに来る理由をあなたが尋ねたから、理由を答えたまでです。一応ね」
クーパーウッドはまた黙り込んで水面を見詰めた。
リリアンは相手を見た。ゆっくりと大きくなっているその凛々しい肉体は、もうすっかり大人だった。ぱっちりした澄んだ大きな何を考えているかわからない目のせいで、顔にはまるで子供みたいな表情が浮かんでいた。それが隠す深さをリリアンは見当すらつけられなかった。頬はピンク、手は大きくはないが、筋肉質で力強かった。リリアンの青白く、頼りない、ひ弱そうな体は、これだけ距離があっても、彼から生き生きとしたエネルギーを引き出した。
「あまり頻繁に私に会いに来るべきじゃないわ。世間ってそういうのをよく思わないんだから」リリアンは思い切って、よそよそしい大人の女性らしい態度――もともと彼にとっていた態度――をとった。
「世間ね」クーパーウッドは言った。「世間なんて気にしないでください。世間の考えなんてあなたの気持ち次第ですよ。ぼくにそんなよそよそしい態度をとらないでほしいですね」
「どうしてよ?」
「あなたのことが好きだからです」
「でも、私を好きになってはいけないわ。間違ってるもの。どうせあなたとは結婚できないのよ。あなたは若すぎるし、私の方が随分年上だもの」
「そんなこと言わないでください!」クーパーウッドは高圧的に言った。「何の問題もないんですから。ぼくと結婚してほしい。ぼくの気持ちはわかってますよね。何時頃がいいですか?」
「ああ、馬鹿馬鹿しい! こんな話、聞いたことがないわ!」リリアンは声を張り上げた。「そんなこと絶対ないわ、フランク。ありえないわよ!」
「どうしてありえないんですか?」彼は尋ねた。
「だって――私の方が年上だから。世間はそういうのを変に思うわ。まだひとりになって充分時間が経ってないし」
「別に、充分時間が経ってなくったっていいでしょ!」クーパーウッドはイライラして声を荒げた。「あなたのよくないのはそこだ――あなたは世間がどう思うかばかり気にしてる。世間があなたの人生を決めるんじゃない。世間がぼくの人生を決めるんじゃないんです。自分を第一に考えましょう。あなたにはあなたが決めるあなたの人生がある。あなたは他人の考えに、あなたのしたいことの邪魔をさせる気ですか?」
「でも、私はしたくないわ」リリアンは微笑んだ。
彼は立ち上がって、リリアンのところまで来て目をのぞき込んだ。
「そうよね?」リリアンはいぶかしがって恐る恐る尋ねた。
クーパーウッドはただ相手を見ていた。
「そうよね?」リリアンは一層取り乱して尋ねた。
かがんで腕をつかもうとした。しかし、リリアンは立ち上がった。
「もう私に近づかないでね」リリアンはきっぱりと言い放った。「私は家に入るけど金輪際あなたのことは入れません。ああ、怖い! あなたはどうかしてるわ! あなたは私に関心を持っちゃいけないのよ」
リリアンは決意のほどを示した。クーパーウッドは思いとどまった。しかし、一時的なものに過ぎなかった。彼は何度も通い詰めた。それからある晩のこと、蚊のせいで家の中に入ったときに、リリアンが、もう会いに来るのはやめにしないといけないわ、あなたの心づかいは人目につくし、恥ずかしい思いをするのは私なのよ、とはっきり告げると、彼は必死で抵抗するリリアンを抱きしめた。
「ねえ、場所柄をわきまえて!」リリアンは声を張り上げた。「言ったでしょ! 馬鹿げてるわよ! キスなんかしないで! どうしたらそんなまねができるの! ねえってば!」
リリアンは振りほどいて離れると、近くの階段を駆けあがって自分の部室まで行った。クーパーウッドはすかさず後を追いかけた。リリアンはドアを押さえたが、彼は無理やり開けてまた彼女を捕まえた。足もとから彼女の体を持ち上げて、抱きかかえるようにして横にした。
「ああ、よくもこんなまねができるわね!」リリアンは叫んだ。「もう金輪際あなたとは口をききませんからね。今すぐ私をおろさなかったら、二度とここには来させないわ。おろしてよ!」
「おろしますよ」彼は言った。「おろします」と同時にリリアンの顔を引き寄せてキスをした。ものすごく気持ちが高ぶり興奮した。
リリアンが体をよじって抵抗をつづける間に、彼は再び階段からリビングへ彼女を運びおろして、しっかり両腕に抱きしめたまま、大きな肘掛け椅子に座り込んだ。
「ああ!」リリアンは溜息をついた。彼が離すのを拒むと、彼の肩にぐったり倒れ込んだ。やがてリリアンは相手の顔に宿った固い決意と、強烈な魅力にひかれて、笑みをもらした。「もしあなたと結婚したら、私はどう説明すればいいの?」リリアンは弱々しく尋ねた。「あなたのお父さんに! あなたのお母さんによ!」
「あなたが説明する必要はない。ぼくがする。それに、ぼくの家族のことは心配しなくていい。家族の者は気にしませんから」
「でも、うちの家族はするわ」リリアンはひるんだ。
「家族の心配なんてするもんじゃない。ぼくはあなたの家族と結婚するわけじゃない。あなたと結婚するんだ。ぼくたちには独立してやっていける財産がある」
リリアンは悪あがきを再開した。しかし彼はキスで追い打ちをかけた。彼の愛撫にはとどめを刺す説得力があった。センプル氏はこういう情熱を見せたことがなかった。彼はリリアンの中に、これまでそこに存在したことがなかった感情の力を呼び覚ました。リリアンはそれに恐れをなし、恥ずかしくなった。
「一か月したら結婚してくれる?」リリアンがためらうと、クーパーウッドは陽気に尋ねた。
「だからしませんって!」リリアンはピリピリして叫んだ。「何考えてんのよ! どうして聞くのよ?」
「別にかまわないじゃないですか? ぼくらはどうせ最後には結婚するんだ」他の環境においたら、どれだけリリアンを魅力的に見せられるだろうと考えていた。リリアンといい自分の家族といい、生き方ってものをわかっていないのだ。
「でも、ひと月じゃ駄目よ。もう少し待って。しばらくしてからなら結婚するわ――自分が私を求めているのかを、あなたがちゃんとわかってからよ」
彼はリリアンを強く抱きしめて「わからせてあげる」と言った。
「やめて。痛いわよ」
「それじゃどうでしょう? 二か月後では?」
「絶対に駄目よ」
「三か月?」
「まあ、いいかもね」
「これについては、かもね、は無しだ。ぼくらは結婚するんだ」
「でも、あなたはまだ子供じゃない」
「ぼくの心配はしなくていい。どれほどの子供か今にわかる」
彼は突然リリアンに新世界の扉を開け放ったようだった。そしてリリアンは、自分はこれまで実は生きていなかったのだと実感した。この男は、これまで自分の夫が想像したことがないような、もっと大きくて、もっと強い何かの象徴だった。若いのに、恐ろしくて、抗えなかった。
「じゃ、三か月したらね」彼が腕の中で心地よく揺らす間に、リリアンはささやいた。
第九章
クーパーウッドは南三番街六十四番地に小さな事務所を構えて手形の仲介業を始めた。うれしいことに、前の仕事の太客が自分を覚えていてくれたことにさっそく気がついた。現金を欲しがっていると見込んだ会社を訪ねて、先方の手形か、手数料六パーセント分の利益がのった証書の換金を持ちかけ、次にその証書を安全な投資を歓迎する人に、わずかな手数料をとって売るのである。ある時は父親が、またある時は他の人が、いつどうやるかを教えて助けてくれることもあった。両者の間を取り持つだけで、取引総額の四、五パーセントを稼ぐことができた。一年目はすべて経費を計上した上で六千ドルの利益をあげることができた。大した額ではなかったが、将来大きな利益をもたらすと信じる別の方法で、さらに増やしつづけていた。
フロント・ストリートにまだよちよち歩きの最初の路面鉄道の線路が敷かれるまで、フィラデルフィアの街はデコボコの硬い石畳の上をガタガタと走る何百台もの弾まない乗合馬車がひしめいていた。この頃、ニューヨークではジョン・スティーブンソンの考案により、複線化が実現していた。そして当初からすばらし利益をあげていた(行きに走る通りと、帰りに走る通りが違う)五番街六番街線以外にも多くの路線が提案されるか進行中だった。街は鉄道が運河に代わったのを見ることになったように、路面鉄道が乗合馬車に代わるのを見たがっていた。もちろん、反対もあった。こういう場合には常につきもので、独占の可能性を叫ぶ声があがった。不満を抱き、敗退した乗合馬車のオーナーと御者たちは声高にののしった。
クーパーウッドは路面鉄道の将来性を絶対視していた。この信念に支えられて、自分がつぎ込めるだけのものをすべて、新会社が新たに発行する株式につぎ込んだ。可能であるなら常に内部にいたかったが、路面鉄道のときは、これが少し難しかった。鉄道が始まったとき、彼はとても若かったので、物の数に数えられるほどの出資者がまだ整ってはいなかったのだ。つい最近開業したばかりの五番街=六番街鉄道は一日に六百ドル稼いでいた。二番街と三番街、レースとヴァイン、スプルースとパイン、グリーンとコーツ、十番街と十一番街などに敷設されることになったように、(ウォルナットとチェスナットを走る)西フィラデルフィア鉄道の計画も持ち上がった。これらは州議会に影響力を持つ一部の有力な資本家たちに計画・支援され、市民の猛反対があったにもかかわらず、運営権を獲得した。汚職が取り沙汰された。道路は貴重であり、会社は一マイルにつき千ドルの道路税を支払うべきであると議論がなされた。しかし、どういうわけか、すばらしい助成金まで承認され、五番街=六番街鉄道の利益を聞きつけた人たちがしきりに投資したがった。クーパーウッドもその中のひとりで、二番街=三番街鉄道が建設されるとそれに投資し、ウォルナット=チェスナット・ストリート鉄道にも投資した。いつか自分の手で一社経営してみたいと漠然と夢を抱くようになったが、自分の仕事が大盛況は程遠かったので、どう対処すればいいのか、まだ正確なところはわかっていなかった。
この仕事を始めたばかりだというのに、クーパーウッドはセンプル夫人と結婚した。彼は何も望まなかったし、花嫁になる側も世間の目を気にして神経質になっていたので、これについての大きな催しは何もなかった。家族は手放しで喜ばなかった。相手が年を取りすぎている、前途有望なフランクならもっといい結婚ができたはずだ、と両親は考えた。妹のアンナはセンプル夫人が何かをたくらんでいると想像したが、もちろん、事実ではなかった。弟のジョセフとエドワードは関心を示したが、センプル夫人が美人でそこそこお金持ちだったので、自分たちが実際に考えたことに自信はなかった。
フランクとリリアンがカロウヒル・ストリートの第一長老教会の祭壇にあがったのは、十月のある暖かい日のことだった。クリーム色のレースのトレーリングドレス――何か月もかけて作ったもの――を着た花嫁がものすごく美しく見えたのでフランクは満足だった。参列者は、彼の両親、セネカ・デイビス夫人、ウィギン家、弟、妹、友人数名だった。彼はこの案に少し難色を示したが、リリアンがこれを望んだのだ。結婚式には黒いブロードクロスで臨み、背筋を伸ばして姿勢良く立っていた――リリアンが望んだからだ。しかし、式後は旅行に適したしゃれたビジネススーツに着替えた。二週間のニューヨークとボストンへの旅行のために仕事は片づけてあった。ニューヨーク行きの午後の列車に乗ったが到着までに五時間かかった。何時間も見せかけの態度をつくろい、公然と無関心を装ったあとで、ニューヨークのアスター・ハウスでようやく二人きりになると、彼はリリアンを抱きしめた。
「ああ、あなたを独り占めできるだなんて最高の気分だ」と叫んだ。
リリアンは、彼が称讃してやまない、あのにこやかなじれったい受け身の姿勢で、彼の熱い気持ちに向き合った。しかし、今回ばかりは、はっきりと伝わる欲望でしっかり染まっていた。自分が彼女に、この美しい顔に、この愛らしい腕に、この滑らかな青白い体に、飽きることは絶対にないと思った。彼らはまるで二人の子供のようだった。いちゃいちゃして、ドライブに出かけ、食事をして、景色を見て回った。クーパーウッドは両方の都市の金融街を訪ねてみたかった。ニューヨークもボストンも彼には商業の堅調な街として魅力的だった。ニューヨークを見たとき、いっそフィラデルフィアを離れようかとも考えたが、今はそこで、リリアンと、やがてできるかもしれないクーパーウッド家の子供と一緒に幸せになろうと思った。一生懸命に働いてお金を稼ぐことにしよう。僕の資産と妻の分が僕の自由になれば、僕はあっという間にものすごい金持ちになるかもしれない。
第十章
新婚旅行から帰ってから二人が築いた家庭の雰囲気は、クーパーウッド夫人がセンプル夫人として送った以前の生活の特徴よりも随分趣味がよくなった。少なくとも当分はノースフロント・ストリートにある彼女の家に住むことに決めた。そのときの芸術を積極的に取り入れたクーパーウッドは、婚約直後から家具や装飾のセンス、というかそれがないのが嫌で、何がふさわしいかについては、自分の考えにもっと合うようにさせてほしいと提案していた。成人に成長するまでの歳月の間に、彼は本能的に、芸術的なものや洗練されたものについて正常な考えができるようになっていた。自分の家よりも格調が高くて調和のとれた家を数多く見ていた。より洗練され選び抜かれた上流の生活を目指すおおよそのトレンドを見たり感銘を受けたりせずに、フィラデルフィアを歩いたりドライブすることなどできない。立派で高価な家がどんどん建てられていた。花を植えようと試みられている前庭の芝生が、地元では人気を博していた。ティグ家、リー家、アーサー・リバーズ家などの屋敷で、それなりに立派な美術品――ブロンズ像、大理石の彫刻、掛け軸、絵画、時計、敷物など――を見かけたことがあった。
このときは、割りと平凡な家でも割りと安い費用で、魅力的なものに変えることができるように彼には思えた。たとえばダイニングルームは、ベランダの奥の平らな側壁にある飾りっ気のない二つの窓から、南の芝生と何本かの木々と灌木を越えて、センプル家の土地の終わりと隣りの土地の始まりとを隔てるフェンスが見えるが、あれなどはもっとずっと魅力的にできるはずだ。あのフェンス――先の尖った灰色の柵――は取っ払ってその跡を生け垣にすればいい。ダイニングとリビングを仕切る壁を壊して、代わりに何か素敵な掛け物を吊るしてもいい。張出し窓を作って、今ある二つの縦長の窓と取り替えてもいい――張出し部は、床までさげて、回転式の菱形の鉛の窓枠を使って芝生の上に開くようにしよう。どこから集めたかもわからないようなこのみすぼらしいこれといった特徴のない家具――一部はセンプル家とウィギンズ家から受け継いだもので、一部は買ったもの――はみんな、捨てるか売るかして、もっといいもの、もっと調和のとれたものを取り入れればいい。彼はエルスワースという名の若者を知っていた。地元の学校を新たに卒業した建築家で、クーパーウッドは興味深い親交を結んでいた――気質の、数ある説明のできない性向のひとつだった。ウィルトン・エルスワースは心底芸術家だった。物静かで、瞑想家で、洗練されていた。当時建設中だった、エルスワースがひどいとこき下ろした、チェスナット・ストリートのあるビルに対する品評がきっかけで、二人はアメリカにおける芸術全般もしくはその欠如について議論するようになった。そして、エルスワースこそが、自分の装飾のイメージを精密に実現できる人物だと思い当たった。この若者を勧めるとリリアンはおとなしく賛成し、家をどう改装すればいいかについてのクーパーウッドの考えにも賛成した。
二人が新婚旅行に出かけている間に、エルスワースは家具込みで三千ドルという見積もりで改修工事に着手した。二人が戻ってからも三週間近く完成しなかったが、終わってみれば割りと新しい家になっていた。ダイニングルームの張出し部は、フランクの希望どおり、芝生を覆うように低い位置まで下がり、窓は菱形の鉛の窓枠になって、真鍮の棒を軸にして回転した。リビングとダイニングはスライドドアで仕切られたが、目的は、この空間にノルマンディーの結婚式の風景を描いたシルクの掛け物を吊るすことだった。ダイニングにはオールド・イングリッシュ・オーク、リビングとベッドルームにはチッペンデールとシェラトンを模倣したアメリカの木材が使われた。あちこちに単純な水彩画が掛けられ、ホスマーやパワーズのブロンズ像、今は忘れられた彫刻家ポッターの大理石のヴィーナス、他の美術品があった――特筆すべきものは何もなかった。感じのいい、ふさわしい色合いの敷物が床を覆った。クーパーウッド夫人は、アメリカにはないヨーロッパの自由な雰囲気を伝えるヴィーナスの裸体に衝撃を受けたが何も言わなかった。すべてが調和していて心を慰めてくれた。リリアンは自分に判断が下せるとは思わなかった。フランクは彼女よりもはるかにこういうものに精通していた。それから、メイド一人とすべてを取り仕切る男一人を雇入れ、小規模ながら人をもてなす計画が始められた。
結婚生活の初期を思い返せば、この新しい状況がフランクにもたらした微妙な変化が一番よくわかるだろう。結婚という軛を受け入れたすべての人たちと同じように、彼も自分を取り巻く環境に、ある程度影響された。まず、彼の性格のいくつかの特徴から、人は彼が高い社会的地位と重要性を持つ市民になるように声をかけられた者だと想像しただろう。理想的な家庭人に見えた。夕方になると、交通がやかましくて、人が先を急ぐ、混雑したダウンタウンを離れて、妻のもとに帰ることがうれしかった。ここで彼は、自分が人生の中のいい境遇に置かれ、肉体的にも幸せであることを実感できた。キャンドルを飾ったディナーの食卓(フランクの考案)、淡いブルーかグリーンのトレーリングドレスを着るリリアン――そういう色をまとった彼女が好きだった、たっぷりくべた薪が燃えている大きな暖炉、自分の腕に抱かれて心地よさそうなリリアン、といった思いが彼の大人げない想像力をつかんではなさなかった。前にも述べたように、彼は本にはまったく関心がなかったが、人生、絵画、木々、肉体的な触れ合いにはあった――こういうものは、抜け目のない、すでにしっかりつかみかけている金融的な打算の裏で、彼を支えた。豊かで、楽しく、充実した人生を送るために――彼のすべてがそれを必要とした。
年の差があったにもかかわらず、この頃クーパーウッド夫人はフランクにぴったりの伴侶に見えた。いったん目が覚めても、彼女はしばらくの間、まとわりつき、よく反応し、夢見心地でいた。フランクもリリアンも赤ん坊が欲しかった。少しすると、おめでたがリリアンから彼にささやかれた。リリアンは、これまで授からなかったのは自分のせいだと半分思い込んでいたので、そうではなかったことが証明され、むしろ驚いて喜んだ。これは新たな可能性を開いた――彼女が不安を抱くことがない輝かしい未来に見えた。彼は自分の複製という発想が好きだった。いかにも欲深い考え方だった。何日も、何週間も、何か月も、何年も、少なくとも最初の四、五年、彼は毎晩帰宅し、庭を散歩し、妻とドライブに出かけ、友人をディナーに招き、自分がこれからやろうとしていることを、妻に説明するように話すことに、とても満足していた。金の流れの複雑さはリリアンには理解できなかったし、彼も苦労してまでそれをわからせようとはしなかった。
しかし、愛、かわいらしい体、唇、静かな物腰――このすべての魅力が結びつき、子供を二人――四年で二人――授かった。最初に生まれたフランク・ジュニアを膝に乗せて、そのぽっちゃりした足や、キラキラしている目、ほとんど形のない、まだ蕾のような口を見ながら、子供がこの世に生まれてくる過程を不思議に思った。精子に始まり、女性でも不慣れな妊娠期間、病気や出産の危険性など、これに関連することには考えることが多かった。フランク・ジュニアが生まれるとき、クーパーウッド夫人が怖がったものだから、彼は大変なひと時を過ごした。彼女の肉体の美しさが損なわれるのを恐れ――彼女を失う危険に気をもんだ。そして子供が生まれる日にドアの外に立ったときは、実際に初めて不安な気持ちを耐え忍んだ。それほどではなかった――クーパーウッドは自分のことは自分で何とかするし、何とでもしてしまうから。それでも心配だったので、死や、二人の現在の状態が終わってしまうとか、いろいろ考えた。そして、あのつんざくような悲痛な叫び声の後で、すべてうまくいきましたと声をかけられて、新生児との対面が許された。この経験は、クーパーウッドの物事に対する考え方を広げ、人生に対する判断をさらに手堅いものにした。化粧板の下には材木があるように、物事の表面の下には悲劇が潜んでいるという、あの昔の信念が強化された。息子のフランク、そしてその後の青い目で金髪の娘のリリアンは、彼の想像力をしばらく膨らませた。結局、家庭という考え方には大きな意味があった。そうやって暮らしが成り立っている。適切な形で――その礎が家庭だ。
この歳月の中にあった大きな変化が、どれくらい微妙かをあまさず示すことはできない――変化はとてもゆるやかであり、柔らかい水が打ち寄せるのと同じで目立たなかった。かなりの――元手が少なかったことを考えれば巨万の――富が、その後の五年で追加された。彼は金融界で、取引相手が増えるにつれて、着実に拡大を続けている金融界きっての最も微妙な人物の幾人かをかなり親密に知るようになった。ティグ商会時代や取引所で働いていた頃、大勢の興味深い人物が指摘されて彼に教えられた――〝政治から何かを生み出そうとしている〟いろいろなランクの州や市の役人たちとか、ドレクセル商会やクラーク商会さらにはティグ商会にまで会いに、時々ワシントンからフィラデルフィアにやって来る国の要人たちだ。彼が学んだところによれば、この人たちは、特定の銘柄や取引のタイミングに影響を与えるのが確実な、法律や経済の変化に関する内報や事前情報を持っていた。昔、ティグ商会で、若い事務員がクーパーウッドの袖をひっぱったことがあった。
「ティグに会いに来たあの男が見えるか?」
「はい」
「マータっていう市の財務官だ。あいつは何もしないけど役得だよな。あれだけの大金をみんな投資にまわすんだ。しかも元金以外は何の責任も負わなくて利益はあいつのところへ行っちまうんだ」
クーパーウッドは理解した。市や州の役人は皆、投機をしていた。市や州の公金を、公認代理人や州の指定預託機関として、特定の銀行やブローカーに預ける習慣があった。銀行は――役人個人以外に――利息を払わなかった。銀行は役人の密命を受けてその金を特定のブローカーに貸し付け、ブローカーはそれを「確実な勝ち目」に投資した。そのお金は、時間の一部を銀行家が、もう一部をブローカーが自由に使い、役人は利益をあげて、ブローカーはたっぷり手数料を受け取った。フィラデルフィアには、市長、議会の一部の議員、財務官、警察署長、公共事業局長などからなる政治グループがあった。よくある〝持ちつ持たれつ〟というやつだ。クーパーウッドは最初これをかなり汚いやり口だと考えたが、大勢が手っ取り早く金持ちになっていたし、誰も気にしてはいないようだった。新聞はいつも市民の愛国心や誇りを謳っていたが、こういうことに関しては一言も書かなかった。それに、これをやる人たちは権力者で尊敬されていた。
手形の発行と支払いの業務で、クーパーウッドをとても信頼できる仲介者と見なした会社は数多くあり、その輪は絶えず広がっていた。どこに行けばお金が手に入るのか、彼はすぐにわかってしまうようだった。提案には即座に議論することなく応じられるように、最初から二万ドルの現金を手元に置いておくことを原則とした。そのため、そうでなかったら一見できないようなことでも「ええ、もちろん、できますとも」と言い切れることがよくあった。取引所で特定の株の取引を扱うつもりはないかと尋ねられることもあった。クーパーウッドは会員ではなく、最初は扱うつもりはなかったが、今では気が変わって、フィラデルフィアだけでなく、ニューヨークの会員権も購入した。クーパーウッドがさまざまな手形の発行を手がけてきた衣料雑貨商のジョセフ・ジマーマンという人物が、自分のために路面鉄道株の取引を引き受けないかと持ちかけた。これが、彼が株取引に戻るきっかけだった。
その一方で、家族の生活は変化していた――向上していた、前よりも立派に、安心できるものになった、と言ってもよかったかもしれない。例えば、夫人は時々、クーパーウッドが調整したように、自分の対人関係に微妙な調整を加えざるを得なかった。センプル氏が生きていた頃に、社会的な付き合いがあったのは、主に商人――小売りや小さな卸売業者――とても少ない人数だった。自分が所属している教会の第一長老派の女性たちの中にも、夫人と親しい者はいた。彼女とセンプル氏が参加していた教会のお茶会や親睦会があったし、夫の親族や自分の身内を義理で訪ねることもあった。クーパーウッド家や、ウォーターマン家、数は少なくてもそういう格上の一族は極めて例外だった。今や、すべてが変わってしまった。若いクーパーウッドは妻の身内にあまり気を遣わなかったし、センプル家は彼女の二度目の、しかも彼らにとってはとんでもない結婚のせいで疎遠になった。彼自身の家族は、愛情の絆と、相互の繁栄によって親密な関係が築かれた。しかしそれ以上に、彼は本当に重要な人物たちを自分に引き寄せていた。銀行家、投資家、顧客、見込みのある客たちを商談のためではなく――彼はそういう考え方を嫌った――社交のために自宅に連れてきた。スカークルにもウィサヒコンにもその他のところにも、日曜日にドライブで行ける人気があって食事のとれる場所があった。クーパーウッド夫妻が頻繁に車で出かけたのは、セネカ・デイビス夫人、キッチン判事、知り合いの弁護士アンドリュー・シャープレス、顧問弁護士のハーパー・シュテーガーの家だった。クーパーウッドは天性の人たらしだった。これらの男性も女性も誰ひとりとして彼の腹の底を疑わなかった――彼は考えて、考えて、考えていたが、そうしながらも人生を楽しんでいた。
クーパーウッドが若い頃から純粋に傾倒した最たるもののひとつが絵画だった。彼は自然をこよなく愛したが、どういうわけか、理由はわからなかったが、私たちが個々の人間を通して法律や政治の考えを身につけるのと同じで、人は誰か解釈者の個性を通すことで自然を一番よく理解できる、と考えた。どちらにしても、クーパーウッド夫人はちっとも興味がなかった。夫に同行して展覧会に行っても、フランクは少し変わっているとずっと思いつづけていた。クーパーウッドは妻を愛していたから、妻にもこういうものに知的関心を持たせようとした。しかしリリアンは少しはそういうふりをしたが、本当はわからなかったし、興味も持てなかった。彼女に無理なのは歴然としていた。
子供たちは夫人の時間を大幅に奪った。しかし、クーパーウッドはこれを気にかけなかった。リリアンがこれほど献身的であることは、彼には喜びであり、とても価値あることだった。同時に、彼女の無気力な態度、あいまいな微笑み、そして時々見える無関心さ、といった主に絶対的な安心感から生まれたものも彼を引きつけた。リリアンはあまりにも彼とは違っていた! リリアンは一度目の結婚――心変わりなどありえない厳粛なこと――とまったく同じように、二度目の結婚をした。しかし、クーパーウッドの方は、少なくとも経済的にはすべてが変わったように見え、とてもたくさんの突然でほとんど聞いたことがない変化ばかりの世界で、忙しく動き回っていた。時々、思索的なまなざしで彼女を見始めた――彼女のことが好きだったから批判的にではなく――彼女の人柄を見極めようという姿勢だった。知り合ってもう五年以上たっていた。自分はリリアンついて何を知っているのだろう? 若さの勢いが――最初の数年間は――随分たくさんのことを補っていた。しかし、無事に彼女を手に入れた今は……。
この時期にゆっくり近づいてきたものがあった。そして、ついに布告された南北戦争には、とても大きな興奮が伴ったので、ほとんどすべての当時の人たちの心はそれ一色で染められた。ひどいものだった。それから、集会があった。国民全体の、扇動的なものが、そして暴動、ジョン・ブラウンの亡骸の事件、イリノイ州スプリングフィールドからフィラデルフィア経由で、就任宣誓をするためにワシントンに向かっていた偉大な平民リンカーンの到着、ブルランの戦い、ヴィクスバーグの戦い、ゲティスバーグの戦い、などなど。クーパーウッドは当時まだ二十五歳の、冷静沈着な、意志の強い青年で、奴隷運動は人権という点では正しいかもしれないが――間違いなく正しいかった――商業にとっては危険極まりないと考えた。北部の勝利を期待したが、彼や他の金融業者にとっては苦難がつづくかもしれなかった。彼は戦いたいとは思わなかった。個人が戦うことが愚かしく思えた。他の人たちは戦うかもしれない――撃たれるために我が身を差し出そうとする、かわいそうな、思慮の浅い、未熟な者が大勢いた。しかし彼らは命令されるか、撃ち殺されることにしか向いていない連中だった。クーパーウッドにとって、自分の人生は、自分と自分の家族と自分の個人的利益のためのものだった。ある日、静かな脇道の一つで、労働者たちが仕事から帰宅する頃、青い軍服を着た小さな募兵隊が、連邦旗を掲げ、太鼓を叩き、横笛を吹き、熱狂に包まれて行進してくるのを見たのを思い出した。その目的はもちろん、これまで無関心だったり迷っていた市民に強い印象を与えて、その者が心の均衡や利己心を失い、妻、両親、家庭、子供などすべてを忘れ、国の大きな急務しか目に入らず、隊列の後ろについて入隊するくらいにまで気持ちを高ぶらせることだった。バケツを振りながら、明らかに自分の一日の仕事がこのような結末を迎えるとは考えてもいない、ひとりの労働者が、募兵隊が近づくと立ち止まって耳を傾け、隊がさらに近づくと躊躇し、通り過ぎると、目に不安だか迷いの独特な色を浮かべて隊の後ろにつき、入隊登録所へ堂々と行進していくのを見かけた。この男を捕まえたものは何だったのだろう、とフランクは自分に問いかけた。どうしてあんなにあっさり屈したのだろう? あの男は行くつもりなどなかったのに。男の顔は仕事の油と泥で汚れていた――鋳物の職人か機械工で、年齢は二十五歳くらいに見えた。フランクは、その小隊が通りの外れで角を曲がって、木々の下に見えなくなるのを見送った。
この巷の戦意の高まりは奇妙だった。彼には人々が、太鼓と笛の音以外は何も聞きたがらず、銃の形をした冷たい鋼鉄を肩に担いで前線に向かう途中で今通り過ぎていく何千人もの軍隊以外は何も見たがらす、戦争の話と戦争の噂を聞きたがっているように思えた。それが体が震えるほどの感情であることは間違いないが、偉大であっても、何の役にも立たなかった。それが意味するのは自己犠牲である。彼にはそれが理解できなかった。行ったところで撃たれるかもしれないにのに、そのとき、気高い感情はどうなってしまうのだろう? 自分はむしろお金を儲けて、現在の政治、社会、経済の問題を正したい。募兵隊に付き従った哀れな愚か者――いや、愚か者ではない、そう呼ぶのはよそう――哀れなお調子者の労働者――ああ、天よ、その者を憐れみたまえ! 彼ら全員を憐れみたまえ! 彼らは自分たちのやっていることが、本当にわかっていないのだ。
ある日、クーパーウッドはリンカーンを見た――背が高く、よろよろと歩く男だった。長くて、骨ばっていて、不格好だったが、ものすごく印象的だった。二月下旬の、じめじめして寒い、足もとがぬかるんでいる朝、偉大な戦争大統領は、緊張はしていたが断ち切られてはならない絆について、厳粛な宣言をちょうど終えたところだった。あの有名な自由発祥の地、独立記念館の入口を出るとき、悲しげで物思いに沈んでいるような静けさが顔に宿っていた。クーパーウッドは、参謀長、地元の高官、警察関係者、興味や共感を示している一般市民の面々に囲まれて出て、リンカーンが出て来るのをじっと見た。その妙に荒削りな面構えを観察していると、この男の偉大さと威厳が伝わってきた。
「本物の男だ」クーパーウッドは思った。「すばらしい気質だ」身振りのひとつひとつがすごい迫力で伝わってきた。リンカーンが乗り物に乗り込むのを見ながら思った。「あれが木を切る名人の田舎の弁護士か。運命がこの危機に偉大な人物を選んだのだ」
リンカーンの顔は何日もクーパーウッドにつきまとった。戦争中何度もあの異様な容姿を思い出さずにはいられなかった。幸運にも自分が世界の本当に偉大な人物の一人にお目にかかることができたのは、疑いの余地がないように思えた。戦争と政治的手腕は彼とは無縁だったが、それらが――時として――どれほど重要であるかはわかっていた。