第73話
拳が空を切り裂き、激しい連蹴りが唸りを上げて少年に迫る。
まさに疾風と形容するのが相応しいレナードの変幻自在の連撃を、エルは獣の如き貌で嗤いながら対処していった。
多くの攻撃を受けたり捌いたり、あるいは躱したりしたが、攻撃の軌道が予期せずに変化したり追尾する奥義、幻影闘舞に完全には回避を免れず次第に傷付いていった。
ただし、レナードは己の最も得意とする速さに主眼を置き重点的に鍛えてきたのか格上のエルと同等に近い速度を誇っていたが、攻撃や気の練りが甘く力を制限しているエルが顔にもらっても血を流す程度に済んだ。
といっても攻撃を貰う回数が増えれば別だ。
レナードも自身の打撃が弱い事が承知しているのか、人体の弱点が集中している顔狙いの攻撃が多く、徐々に拳や肘、蹴撃を貰う内にエルの顔は腫れ上がりだくだくと血を流し始めたのである。
少年は見る間に痛ましい姿に変貌を遂げていったが、その実芯には響かず表層を削り取るような攻撃であったせいか、エル自身はあまり痛みを感じていなかった。
レナードの攻撃は威力こそ格上を相手取るには不足がちであったが、その眼にも止まらぬ連撃は相手の心を挫く作用があった。
凄まじい速さで回避する事もできず何度も何度も攻撃を当てられ、かといってこちらの攻撃は雲を掴む様に当らない。次第に瞼が腫れ上がり姿を追えなくなっていくにしたがって、恐怖を助長し心を折れさすのだ。
勝てないと……。
レナードとしても本来なら気で強化した高速の連撃で速やかに少年を打倒する心算であったが、思いのほか守りが強固で倒し切る事ができなったのである。
その結果、先述したとおり同等クラスの敵を倒すのに用いる戦術、第一に相手の心を攻める闘いに至ったのである。
幻影闘舞を繰り出してから一度も相手の攻撃をもらわず、逆に少年はこちらの攻撃を一方的に当てられる状況を作り出せていた。
レナードの常勝パターンに嵌った形である。
もはやこうなったらレナードを捉える事は不可能で、少年もすぐに膝を折り屈する事になるはずだと、青年は己の勝利を夢想し口角を吊り上げた。
しかし悲しいかな、レナードは自分が相手にしている者が誰なのかを知らなかった。
自身の腕や足を食い千切られ絶大な痛みに絶叫しようと、はたまた死に瀕しようという絶望的な状況に陥ってもなお心が折れる所か逆に自分の窮地を愉しむかのように、より一層闘志を燃え上がらせ喜々として闘い続ける闘いそのものを至上の喜びとする少年を相手にしていたのだ。
この程度の軽傷ではエルの心を折るなど夢のまた夢の事である。
しかも、師の言葉から手加減して神の御業を行使していなかったが、外気修練法を用いればこの程度の傷など立所に癒えてしまう程度のものであった。
むしろレナードから攻撃を受ける度にエルの嗤い顔は濃くなり、少年の心の炎に薪をくべる結果にしかならなかったのだ。
幾度攻撃を受けようと折れる所か俄然猛威を増して反撃してくる少年の姿に、いつしか青年は言い知れぬ恐怖を抱いていた。
「何だ!?何なんだ、お前は!!」
大声を上げ恐れを振り払うかのようにレナードは果敢に攻撃を敢行した。
ただ残念な事に青年の上段突きは余計な力が入り、ほんの僅かにだが硬直し軌道が読めてしまった。
そんな隙を、精神が高揚し集中力が増大している少年が見逃すわけがなかったのだ。
剛牙受け
少年の童顔に迫る突きを、前方に掲げた左拳に高速で気を一点集中して受けたのである。
いや、この場合は受けたという表現では語弊がある。正しくはレナードの拳を迎撃したのだ。それもエルの剛力と気を合わせた凶悪な拳でだ。
前腕部を側面から叩かれ腕を逸らされた時のレナードの痛みは、筆舌に尽くし難い程であった。気で守りを固めていたはずなのに、まるで無意味だといわんばかりに少年の前腕の振りだけの軽い迎撃で、肉を裂き骨を砕かれたかの様な激痛を味わったのだ。
しかも痛みで一瞬動きの止まったレナードにエルは追撃の手を休めず、下方から空へ突き上げる様な突き蹴りを放った。
慌ててレナードは気の移動術を駆使し後方に下がろうとしたが間に合わない。何とか両腕を交差して受ける事だけには成功したが、少年の黒と白の入り混じった不可思議な気を纏った蹴りは、その威力も尋常ではなかった。
青年の防御など歯牙にもかけない強烈な一撃によって、遥か天空にまで打ち上げられたのである。余りの威力にレナードは息が詰まり呼吸ができなくなり、意識も飛びそうになったほどだ。
しばらく後、地面に叩き付けられた衝撃で目を覚めたが、全身を打つ痛みに苦しみもがく羽目になった。まるで竜か何かの巨大な魔物に跳ね飛ばされた時と同じ様な感覚である。
こんな幼い少年が自分を一撃で……?
しかも武神流に入門してたかが半年程度の後輩が?
理解不能の事態と余りの痛みにのたうちつつも、しばらく後持ち前のプライドの高さによって気力を総動員し、何とかよろよろと立ち上がる事に成功した。
立ち上がると静かに少年に問い掛ける?
「ごほっ。お前、本当に入門して半年程度なのか?」
「はい、そうです。間違いありません」
「……、入門前に何か武術をやっていたのか?」
「村に訪れた武神流の修行者に中段突きを教えてもらい、突きの修練を10年ほど続けてきました」
エルの表情を隅々まで観察し嘘偽りが無いと判断すると、レナードは盛大にため息を吐いた。
そして納得する。どうやら先ほど聞いたアルドの言葉に嘘偽りはなく、本当にこの少年は格闘術の期待の新人だと、漸くにして己の身をもって理解したのである。いや、半年ほどでこの強さなら、武神流全体でみても将来を嘱望されていると考えてまず間違いないだろう。
出会った当初は、年若くその背恰好からも子供とそう変りない少年を、己の師が異常なほど高評したのは何かの誤りだろうと、ついには師もまだ若いのに耄碌したのかとさえ思ったほどだった。
だが、今なら分かる。
偏見で見ていたのは自分の方なのだと。師の評価こそ正しかったのだと。
少年の攻撃を受けた両手が未だに震え、猛烈に痛みを訴えてくる。
腕だけじゃない。空から墜落したせいで彼方此方がひどく痛む。
少年を見ると頬は腫れ上がり、額や頭から血を流している。外観から判断すれば、レナードの方がいくつも攻撃を加えダメージを与えたように見えなくはない。
しかし、真実は真逆である。先ほどの一連の動きを見ても、少年にはほとんど傷を与えられておらず、動きに何ら支障が出ていない事は明白だ。
一方の自分はというと呼吸を整えるのが精いっぱいであり、今攻められれば簡単に勝敗は決してしまうだろう。
本来ならここで降参を宣言してもよかった。
普段の自分なら相手の実力も判明した事だし、こんな勝負に真剣になる程ではないと、どこか冷めた気持ちで投げやりに自身の負けを言い放っただろう。
だけど、今の自分はそうではない。不思議とこの少年に負けたくないのだ。
それにこの少年になら全力を出し尽くしても問題ないと、何故かそう思えた。
加えて、レナードにしても武神流の格闘術に教えを乞うてから、かりにも6年もの年月を捧げたいう自負もあった。
このままでは終われない。結果の如何を問わず、たとえ一矢といえど報いずにはいられなかったのである。
ならば己の全てを目の前の少年にぶつけよう。レナードは覚悟を決めた瞳でエルに話し掛けた。
「エル、お前は本当にすごい奴だ。最初は正直侮っていたが、それは誤りだったとわかった。見縊っていてすまん」
「いっ、いえ。謝る程の事じゃないですよ」
「だが、この勝負は負けてやらない!!最後の一勝負だ!!」
「!?はい!!」
謝罪の言葉に戸惑っていた少年も青年の表情を見て、直ちに態度を変えた。
エルを倒してみせるという強い意志が猛禽の様な鋭い瞳に宿っていたのだ。
甘く見てはいけない。油断すれば負けるのはこちらの方だと、すぐに真剣な表情になり態勢を整えた。
そんな少年の様子を満足そうに頷くと、レナードは静かに告げた。
「いくぜ……」
言葉もそこそこに、深蒼の気を纏い高速接近からの左の前蹴りをエルの腹目掛けて放った。
左横に回避した少年に対し想定内だと、今度は首を刈る様な右肘の横降りで追撃を掛けた。
しかしエルは唸りを上げて迫る肘撃も、しゃがむ事で問題なく回避した。
だがレナードはここからが本番だとばかりに、膝を屈め全身で跳ね上がる様な左拳の下突きをしゃがむエルの顔に放ったのである。相手に躱される事を前提としつつも相手の選択肢を潰し次第に逃れられ難くする、罠に追い込む様なレナードの連撃だ。
これにはエルも焦り全身のばねを駆使して体を跳ね上げ、それでも下から追いかけてくる拳を上半身を反らす事で辛くも回避した。
その瞬間、レナードの眼光が輝いた。
長身の肉体を活かして上方から右拳を打ち下ろしてきたのである!!
今までのエルの動きが予定道理だとすれば、実に良く練られた戦略である。相手の能力を想定し、最後に目的の攻撃を当てようというのだ。レナードの戦略は見習うべき素晴らしいものだ。
ただ、まだエルを甘く見ていると言わざるを得ない。
体を後ろに倒した状態であろうとエルの並外れた下半身をもってすれば、この状態から回避する事も造作もない事なのだ。ただ、幻影闘舞によって追い掛けてくる可能性は有り得た。
そこで体を一度左に飛ぶ様に見せ掛け、その反動を利用して右後方に飛んだのである。案の定レナードは幻影闘舞で攻撃を追尾させてきたが、エルの動きに一瞬惑わされ飛び退いたエルには届かずその手前で空を切った。
今度はこちらの番だとエルが突きを繰り出そうとしたが、レナードの攻撃は終わってはいなかったのだ。
なんと、空を切った拳の勢いを利用して腰を軸に斜めに回転させ、まるで上から剣で切り裂く様に回転した左踵が降ってきたのだ!!
この予想外の大技には攻勢に出ようとした少年も驚いた。
長い足を用いて長身のレナードが全身を駆使して遥か上方から踵を落としてきたのである。中背のエルからすれば、背の高い剣士が上段から切り付けてきたのと変わりない。
慌てて攻撃を中止し回避を試みる。
しかも困った事に幻影闘舞のお蔭でいつの間にか回り込んでおり、エルの左側頭部を狙っていた踵が、エルの退路となるであろう右側から襲いかかってきたのだ。
事前に退路側に移動する事で少年の動きを封じたのである。飛び退こうとしたエルはこれには切羽詰った。なんとか左側に飛びぎりぎりの所で辛くも回避できたのは、まさに行幸であろう。
だが、それさえもレナードの想定内であったのだ。
空振った足が大地を噛み砕き震脚に変わる、そしてすでに準備されて右掌が強烈な足腰の捻りも加わって高速で右側面からエルに迫ったのだ!!
あの強烈な情報からの踵の一撃も間合いを詰め、一瞬で猛武掌、発剄を繰り出すための布石だったのである。てっきり一連の流れからあの踵が本命だと思い込まされたが、それさえも真の狙いを隠すためにわざと大仰に出された虚の攻撃だったのだ。
曲芸染みた胴回しの回転蹴りが震脚に変わり、極近距離で放たれた発剄を躱す
余裕などどこにもない。
右側面から迫る右掌は受けるか逸らす、あるいは攻撃するしか少年の道はなかった。
そう、攻撃だ。
右肩付近に迫る攻撃に対し、エルはそのまま距離を詰め迎撃する事でレナードに対抗したのである。極短時間に無我夢中で強烈に踏み込み、震脚からの気で強化した肩口からの体当たりでレナードの右掌に自分からぶつかっていったのだ。
はたしてその結果は……、相打ちとはならず片方の一方的な負けとなった。
発剄同士の打ち合いは、耳の痛くなる様な大音の後に威力の弱かった者が吹き飛ばされる結果となったのである。
そう、レナードのとっておきの猛武掌もエルの纏震靠には適わず、一瞬の拮抗さえも許されずに水平に猛烈な勢いで吹き飛ばされたのだ。
軽妙な動きを第一とし気や攻撃の修練が甘いと言わざるを得ない突きによる発剄と、手加減していたとはいえ己独りを頼みとして幾多の魔物を屠り、かつ厳しい鍛錬により恐ろしい破壊力をもつ体当たりの発剄では、威力に隔絶した隔たりがあったのである。
強烈な一撃によって宙を飛ばされたレナードは気を失いながらも、どこか満足そうな笑みを浮かべるのだった。




