第65話
何か冷たいものが優しく顔を撫でていく。
とても気持ちが良い。
このままずっと撫でてもらいたいなどと考えている内に、意識が段々とはっきりしてきた。うっすらと目を開けると、心配そうな顔をしながらリリが濡れた布をエルの額に置いた所だった。
「エル!?目が覚めたのね。よかった」
「ここは?僕は確かマリナさんの寝室で……」
「エルの部屋よ。お父さんに運んでもらったの。エルが倒れてからもう3日も経っているのよ。本当に心配したんだから」
どうやらあの餓竜との死闘から、もう3日も過ぎているらしい。肉体的な損傷は回復薬のおかげでほとんどなかったが、精も根も尽き果て数日ほど目を覚まさずに寝込んでいたようだ。
薬の材料をドウェル医師に届けた所までは覚えているが、その後どうなったのかわからない。はっと寝具から身を起こした。
「マリナさんは?マリナさんの病気はどうなった?」
「いきなり起き上がっちゃだめよ。何日も高熱が出ていたんだから、まだ無理しないで休んでいて。お母さんの事は心配ないわ。エルのおかげでちゃんと病気は治ったわ」
「本当かい?それならよかった」
「3日前は死人みたいな青い顏してたくせに、今は嘘みたいにピンピンしてるの。病人だったんだから徐々に体を慣らして体力をつけて行きましょうって先生に言われてるのに聞かないんだから……」
可愛い顏をやや渋面にして文句を言っているが、その実隠しきれない喜びが見え隠れしている。マリナが元気になった事が余程嬉しいのだろう。
そんなリリにつられて、エルも自然と笑顔になった。
「はははっ。マリナさんも今まで満足に動けなかった分、動きたくて仕方ないんじゃないかな?」
「そうなのっ。体に付いてた重りが取れた感じだわーなんて言って、宿の仕事をするって聞かないんだから。また倒れたらどうするつもりなのかしら」
「病み上がりなら少しずつ体を動かしていった方がいいよね。うっ……」
「エル!?」
鈍痛を覚え話を中断すると、頭に手を当てた。確かにリリが言う通りまだ熱があるらしい。体を起こしただけなのに、まだ弱っているせいかひどく疲れる。肉体が休息を欲しがっているみたいだ。
そんなエルを心配そうにリリが見つめ、肩に手を置いてくる。
「エルはまだ治ってないんだから、今はゆっくり寝てちょうだい。元気になってからやりたい事をすればいいんだから。ねっ?」
「そうだね。安心したしもう一眠りする事にするよ」
リリがエルの体を支えながらゆっくり後ろに倒し寝台に横たえた。自分だけでも体を倒すぐらいはできたが、リリの優しい気遣いが嬉しくつい口角が吊り上った。
枕に頭を預け目を閉じたエルの頭に、リリが塗れた布を置きながら優しく声を掛けた。
「おやすみ、エル。時々見に来るから、お腹が空いたり何かして欲しい事があったら、遠慮せずに言ってね?」
「ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
何の憂いも無くなり、リリに見守られながらひどく安心した気分になると、エルはすぐに深い眠りに落ちるのだった。
それから2日、わざわざ料理を2階の部屋に運んできてくれたり、何度も濡れ布を変えてくれたりと、甲斐甲斐しく世話してくれるリリの献身もあって、疲労もすっかりとれエルの体調は完璧といって状態にまで回復した。
エルとしては仕事の合間をぬって1日に何度も部屋を訪れてくれるリリに、逆に申し訳ない気持ちになったくらいである。
だがリリとしたらエルは母の命の恩人というだけでなく、薬も手に入らずもう無理かと絶望しかけたその時に、厳しい代償まで支払い命を賭して恐ろしい竜に立ち向かってくれたヒーローなのだ。そんなエルが自分達のせいで疲弊しきって寝込んだのだ。看病するのは当然の行為であった。
それに、後でライネルや宿に訪れたアルド神官に聞いた所、本来ならエルが勝てる相手ではなかったそうだ。むしろ勝てたのは奇跡に近いとまで言われ、もしエルが死でいたらと想像するだけで心が張り裂けそうになり、泣きそうになった。
そんな無謀な行為をしてでも、あの時は自分しか助けられる者がいないからと、日頃の恩返しだからと悲壮な覚悟をその胸の内に隠し、笑顔でリリ達に手を差し伸べてくれたのだ。
これに惚れるなという方が逆に無茶である。
リリの心の中にあった淡い蕾は完全に開花し、艶やかな大輪の華を咲き誇らせていた。エルとの出会いからゆっくりと育んできた恋心が花開いたのである。
傷付き臥せったエルを看護するするが嬉しく、できる事なら何でもしてあげたかった。ただ頻繁に世話し過ぎて、マリナから病人の気に障るから良くないと窘められたほどである。しかし、ベッドで暇を持て余していたエルの話し相手をするのを止められず、怒られつつも足繁くエルの部屋に足を運んでしまったのだった。
看護の甲斐もあったのかはわからないが、順調に回復したエルを宿の外の大通りにまで出向いて笑顔で送り出すと、リリは珍しく腕まくりをして気合い入れた。
今夜催されるマリナの快気祝いと、エルの4つ星への昇格祝いの準備をするためだ。マリナの病気がすっかり快方しても、すぐにお祝いをしなかったのはひとえに恩人のエルが寝込んでいたためだ。
本人は遠慮せずにやってくれと言ったが、エルの居ない祝宴を開くのはリリは大反対であったし、シェーバもマリナ自身もリリの意見に賛成したせいで開催が遅れたのである。命の恩人が臥せっているのにお祝いをするなど、そんな道理に悖る行為はできるはずがなかったし、なによりエルと共に喜びを分かち合いたかったからだ。
それでエルが元気になるまで延期となり、どうせなら昇格祝いも兼ねて盛大な宴を開こうという事になったのである。
この日のためシェーバは大枚を叩いて高級な食材を大量に購入し、朝から入念に仕込みを行っている。マリナも何年も病を患っていたのが嘘の様に、朝から精力的に動き宿の清掃を行っている。
リリも大好きなエルのために自分にできる事をしようと決めると、急いで宿の中に戻るのだった。
一方のすっかり回復しきったエルはというと、まずは協会の受付に赴き事後報告を済ませていた。いつもお世話になっているセレーナに戦利品の買取と4つ星への昇格、そして報告が遅れた理由を説明したのである。
原則として迷宮探索後は、その日の内に受付で探索の報告と戦利品の買取を行わなければならないからだ。
これは偽証や詐欺行為を防止する上で必要な取り決まりであり、破れば罰則も設けられている厳しいものだ。
ただエルの場合は、馴染みの守衛に迷宮都市帰還時に言伝を頼んでおり、かつ人命救助のために時間がなかった事から例外措置を受けられ罰は受けずに済んだ。毎日迷宮に潜り善良で優良な冒険者として、守衛や受付嬢との信頼を築き規則をきちんと守ってきた結果であった。
ただし例外はあくまで例外という事であり、次回も罰を与えずにいられる保障もないので、緊急時以外は極力避けてくれと苦言を呈されもした。
罰則が規則の上だけの存在となり有名無実化すれば、ひいては冒険者のモラルの低下につながる。厳しい法によって冒険者を律する事で、この都市の秩序は保たれているのだ。違反者には罰が与える必要であるし、近隣諸国による共同統治という何かあれば政情が激変する様な、そんな不安定さをこの都市は抱えているのだ。不安の種は早期に摘み、何処からも介入されない健全な都市の運営が行わなければばらないのだ。
そのためには、市民とは隔絶した力を有する冒険者を絶対的な法によって取締り、秩序を乱す者を許してはならないのである。
エルも例外規定に当て嵌まらなければ、罰則を与えられたであろう事は間違いないだろうし、それ故の苦言であろう。
違反が重なれば都市外退去という重い罰を下される事もあるので、気を付けねばならないと改めて自分の行動に注意が必要だと気を引き締めると協会を辞するのだった。
その後は武神流の修練場で、鈍った体の鍛錬に時間を費やした。アルド神官には、事前に報告もせず真竜と闘うという無謀な行為をした事を叱責されもしたが、良く生きて帰ったと、隣人を助けるために尽力した事は素晴らしいと称賛されもした。
今回は緊急を要したので無茶をしたのもしょうがない面もあるが、弟子が死地に赴いたのを後で聞くのは正直生きた心地がしなかったと、次回からは私でも義兄でも頼れるものに頼れと言われれば胸がつまり、頭を下げ謝罪の言葉を口にする以外できなくなってしまった。
自分の事をこんなにも心配してくれる師匠や仲間達がいるのだと再確認すると、目頭も熱くなり言葉も上手く紡げなくなったのである。
反省した後はヴォリクスとの激闘や、闘いの中で改良したり編み出した技を披露したりした。
技を見て、しばらく言葉を発せられなくなるほど驚き仰天したアルドには、逆に何か落ち度でもあったのかと勘違いしたりもしたが、硬直が解けた後に褒めちぎられたので問題はないだろうと判断し、そのまま他の技の修練に移った。
昼過ぎには肉体も技の切れも本調子に戻り、アルドからいくつか指摘や手解き
を受けすっかり熱が入ってしまい、危うく宴会の刻限に間に合わなくなりそうになってしまった。修行好きも時と場合は考えて行うべきだという、典型的な失敗事例である。
本日の主役が遅れてはまずいと、アルドと2人大通りを慌てて疾走し宿に戻るのだった。
金の雄羊亭に駆け込むともうすでに準備はできており、多くの冒険者達が1階の酒場に一堂に会していた。シェーバがマリナの病の快気祝いという事で、宿に泊まっている冒険者には宴会参加は無料だと告知していた事もあり、宿泊客はほぼ全員いるのではないかと思える大人数だ。中には見たこともない冒険者などもいる。
エル達が酒場に入ると歓声や遅刻を揶揄した声が上がり、中央のテーブルに促された。
そこにはリリ達家族やライネル達が着席しており、近くにアリーシャ達やオルド達のパーティも居るようだ。リリに手を取られて案内されマリナの横に立つと飲み物を渡され、全員が杯を持って立ち上がった。
乾杯の音頭は珍しい事に普段は寡黙なシェーバであった。
「今日は妻の病の全快と、恩人であるエルの昇格祝に集まってくれてありがとう。今日の飲み食いは全て俺の奢りだ。盛大に2人を祝ってくれ。それじゃあ、乾杯!!」
「「「乾杯!!」」」
簡潔な乾杯の合図に皆唱和すると、杯を掲げ祝杯をあげ合った。
その後はあちこちから歓声が巻き起こり無礼講である。立ったまま競うようにエール酒を一気飲みする者達もいた。空いた杯を隅のテーブルに事前に準備してあった酒杯に交換すると、美味しそうに呷り歓談を始めている。
その様子を見るとすぐにシェーバは厨房に引っ込んでしまった。おそらく食器を片付けたり、次の料理の準備をする積りなのだろう。
マリナもエルの横でリリと楽しそうにおしゃべりしながら1杯目だけ開けると、すぐに立ち上がリリと2人で給仕に向かうようだ。
必然、主役はエルだけということになる。
「リリ、それにマリナさんもせっかく主役なのに仕事に戻るんですか?」
「いいのいいの。今は仕事ができるのが嬉しくてしかたないのよ。手が空いたらまた戻ってくるから、エルくんはそのまま楽しんでいてね」
「忙しいのは初めのうちだけだと思うわ。エルにもいっぱい美味しい物持って来てあげるから楽しみにしててね」
そういうと仲良さそうに2人は連れだって厨房に行ってしまった。
これでいいのか、僕だけが主役の宴になってしまうのではと悩んでいると誰かが近付いてきた。
ライネルにアルドだ。エルを囲むようにして立ち、まずはエルへの賛辞を述べた。
「エル、おめでとう。これで4つ星の冒険者だな。俺も鼻が高いぜ」
「おめでとうエル。あっという間に4つ星まで登りつめたな。まあエルなら、5つ星になるのもそう時間は掛かるまい」
「義兄さん、それにアルド神官も。2人ともありがとうございます」
「しかしもう4つ星か、俺達はようやく36階層に行けるようになった所だっていうのに、また差が開いたな」
「ふっ、愚兄とエルとでは差が開くのは当然であろう。まさか実力差に気付かんほどの愚昧なのか?」
「ふんっ、ヘボ神官も言うじゃねえか。エルは餓竜のしかも名持ちを倒したんだ。お前もうかうかしてられねえじゃねえのか?弟子よりも弱い師匠です、なんてなっ!!」
「なにをっ!!」
エルを脇にそのまま2人は睨み合いに突入してしまう。恒例の口喧嘩である。まあ、殴り合いにまで発展しないし、何だかんだでお互いの事は尊敬しているので、表面的に険悪なだけではあるが……。
それにしても、よくまあ毎度毎度新しい悪口を考えて罵り合えるものである。ある意味、相手の事をよく観察しているともいえるがどうなんだろうと考えていると、横から静止の声が掛かった。
「はいはい、2人は相変わらず仲が良いんだから。でもエルのお祝いの席でまで仲の良さを披露しなくていいのよ」
「エミリー!?俺はこんな奴と仲良くなんてないぜっ」
「そうだ、誤解しないでもらいたいものだ」
「ふふっ、そうやって張り合うように否定する姿もそっくりですよ」
「クリスさん」
「エルくん、おめでとうございます。エルくんの昇格は、お姉さんもうれしですよ」
「ありがとうございます」
「でも、今回の様な無理はあまりしないでくださいね。心配で心配で仕方なかったんですよ」
「そうよ。シェーバさんから事情を聞いた時は、気が気じゃなかったんだから」
「心配をお掛けしてすいませんでした。僕も他の安全な選択肢があったなら、そちらを採ったんですが……」
エルの言葉に何とも言えない空気が周囲に巻き起こる。ライネルもアルドも睨み合いを止め、エルの方に向き直った。
「まあ今回のはなあ、エルが神に願い出なければマリナさんは助からなかったわけだしな」
「それに、シルバ様からエル1人で闘う誓約を課せられたのだ。例え我々が事情を知ったとしても、できる事などほとんど無かったであろうな。だが、だからといって何も知らずにいるというのは悲しいものだ」
「その通りよ。エルくんが死ぬかもしれない試練を受けたなんて、出発した後に聞くのはもう勘弁してほしいわ。それに、みんなで知恵を出し合って協力し合えばできる事もあるかもしれないんだから。今度からは相談してね」
「はい、次からはみなさんに相談させてもらいます。アルド神官からも自分か義兄などの頼れる人に相談しろって、さっき言われましたからし」
「ばっ!?エル、何も今言わなくても言いのだっ」
アルドはエルの台詞を慌てて遮ろうとするが時すでに遅し。ライネル達の事を信頼していると暴露されて狼狽気味である。
逆にライネルの方はというと、にやにやと勝ち誇ったような顔になった。
「ふーん……」
「何だ?何か文句があるのか?」
「いいや、何もないぜ。罵詈雑言しか聞いた事は無かったが、案外信頼してくれているようでうれしいぜ」
「本当に愚兄であったのなら、エルがなんと反対しても排除している所だ。まあ、お前がエルに良い影響を与えているのは確かだからな。だが勘違いするなよ。今は信頼しているのであって、今後エルのためにならんと判断したら制裁してくれるからなっ」
「はいはい、精々エルの義兄に相応しい態度を取るようにしますよ。俺もエルの師匠として努力しているあんたを嫌いじゃないぜ」
「ふんっ……」
「はいはい、それじゃあまだ話したい事は沢山あるけど、エルくんをお祝いしたい人はいっぱいいる様だから、とりあえず今はこんな所にしておきましょう」
「しょうがねえな。エル、また後でな」
「うむ、また後でな」
「それじゃあ、またお姉さんと遊びましょうね」
「はい、みなさん。また後で話しましょう」
ライネル達が離れていくと、多くの冒険者がエルの元に詰めかけ賛辞を述べた。誰も彼も我が事の様に喜び、祝ってくれる。賑やかで楽しい場の雰囲気も手伝って、エルもなんとかお礼を述べる事ができた。
訪れた冒険者達の中には、そのうち知った顔も現れる。オルド達だ。最近は一緒に冒険する機会はあまりないが、それでも星なしの冒険者時代にお世話になった、知識量も豊富で安全管理の上手な冒険者達だ。冒険者のランクこそ低いが、彼等から学んだ事は多い。
「俺達が間誤付いてる間に、坊主は4つ星とは恐れ入ったぜ。すげえ冒険者になったもんだ。ライネルの旦那の眼も確かだったってこったな」
「本当にびっくりするほどの成長だね。僕達と8階層で狂猪狩りをしたのは、まだ半年前のはずなんだけどね」
「おめでとう。もう俺達じゃあ逆立ちしても勝てないな。」
「ありがとうございます。これもみなさんに魔物との闘い方や、迷宮を探索する上で必要な事を教えてもらったからですよ」
「へっ、言うようになったじゃねえか。だが悪くねえな」
「うん、こそばゆいけど悪い気はしないね」
エルの感謝の言葉に、祝いに来たはずのオルド達が逆に照れてしまったようだ。そんな彼らの姿を見て、エルの心の中に温かいものが溢れる。自分は多くの人たちのおかげで成長したんだなと、改めて実感したのだ。
「後が詰まっているからもう行くが、その気持ちをもっと偉くなっても忘れるなよ」
「それじゃあ、エルくんまたね」
「じゃあな」
「みなさん、ありがとうございます。今の気持ちを大切にします」
「おうっ、じゃあな」
颯爽と去って行くオルド達にエルは深々と頭を下げるのだった。
その後も、次から次にエルの前を冒険者達が訪れた。シェーバの大判振舞いによって何十人もの人がこの宴に参加しており、マリナが居ない今エルに集中したのである。
まだ人付き合いが苦手な所があるエルとしたら、さすがにこれだけ多くの人と話すと気疲れもしてしまう。
ようやく流れもきれた後は、思わず椅子に座りこんでしまったほどだ。
だがしかし、そんなエルを狙う存在がいた。
「エル~」
「うわっ!?」
いきなり背後から誰かが猫撫で声で抱き着いてきたのだ。若く張りのある豊かな双胸にエルの頭が半分ほど埋没してしまう。その状態でやたら甲斐甲斐しく頭を撫でてくる。何度か味わったことのある感覚だ。
赤面しつつも自分を抱きしめるのが誰だか当たりが付いた。自分をこれだけかまい、スキンシップを取る人物は限られている。
「アリーシャさん、びっくりしたじゃないですか」
「聞いたわよ。あたし達も闘ったことのない真竜と闘ったんだって?」
「星が3つ以上上の魔物の闘うなんて、よくそんな事できたな。赤虎族の俺達だってそこまでしないぜ」
「あんまり無謀な事はしないでくれ。君が倒れればアリーシャは悲しむだろうし、僕たちも悲しいからね」
「そうよー、今回は何とかなったけど、危険な賭けはできるだけしないのが冒険者の鉄則よ」
「カーンさん。それにディムさんにイーニャさんも。すいません、反省してます。こんな無茶はもうしないように気を付けます」
エルを心から心配してくれる彼等の言葉に、真摯な態度で反省を示す。
ただ、アリーシャの胸に頭を埋められいる状態であったので、あまり格好良いものではなかったが……。
むしろエルが真剣であればあるほど、滑稽に見えてならなかった。
思わずカーン達は大笑いしてしまう。そんな彼等の態度にエルは拗ねてしまう。
「こっちは真面目なのに、なにも笑わなくてもいいじゃないですか」
「はははっ。いやっ、すまんすまん。アリーシャの胸の中で本気で反省されてもなあ」
「エルくんは悪くないんだけど、アリーシャとセットで見ると可笑しくて仕方ないのよ」
「もう離れてくださいよ。アリーシャさんのおかげで笑われてしまったじゃないですか!!」
「ええ~、嫌よ。せっかく久しぶりにエルを堪能してるんだから、周りの事はほっときなさいよ」
「アリーシャさーん……」
どうあっても離れようとしないアリーシャに、エルが情けない声を出した。
こうなっては満足するまで梃子でも動かないのが、猫みたいで奔放なアリーシャである。ほどなくして好きにさせるしかないとエルの方が根負けし、結局はアリーシャの胸に包まれながらカーン達と会話するのであった。
しばらく後、ようやく満足してアリーシャ達が去って行くと力尽きた様にテーブルに突っ伏してしまう。
そんなエルの左腕にちょっとした痛みが走る。
顔を上げると、ふくれっ面のリリが腕を抓っているのがわかった。
「エルったらだらしない顔して、見ていて恥ずかしかったわ」
「いっ、いや、アリーシャさんが離してくれなかったんだよ。何度言っても聞かないし、僕じゃあどうにもできない事リリも知ってるだろう?」
焦って弁明しても、リリはまだプリプリ怒っていた。
本当は姉貴分が弟をからかっているだけで、それ以上のことは何もありはしないのは、リリとしてもわかっていた。過度な触れ合いは止めてもらいたかったが、アリーシャが初めてできた弟分であるエルに異常に執着している事も知っていたので、普段なら軽いお小言で済ませた所だ。
だが、自分の恋心を自覚した今となっては、エルが他の女性の胸の中にいるのが我慢できず、ついきつい対応をしてしまったというわけである。
心の制御も儘ならない自分に自嘲気味にため息を付くと、首を振り気持ちを一新するとエルにとっておきの品を差し出した。
平皿の上に湯気が立つ状態で盛り付けられた分厚い肉のステーキに、赤い飲み物である。
「これは?」
「本日のメインディッシュ、エルだけの特製よ。まだお腹が空いてるんでしょ。冷めないうちに食べて」
「それじゃあいただきます。これはっ!?ククの実のジュースじゃないのか」
まずはとばかりに、赤い飲料を飲んだエルが感嘆の声を上げた。慣れしたんだククの実のジュースだと思っていたが、酸味も少なくすっきりとした味わいでのどごしも爽やかだ。
「ククの実とキーリの実のブレンドジュースよ。美味しいでしょ?」
「ありがとう、リリ。すごく美味しいよ。それならこのステーキも何か仕掛けがしてあるんだね。楽しみだなー」
もう待ちきれないとばかりにエルが分厚い肉の塊をフォークとナイフで切り分けていく。そしてソースに絡めると、一気に口に放り込み咀嚼し始めた。
口に入れた途端に、濃厚でありながらも肉と良く合った絶品のソースに舌を巻き、続いて噛む度にはらはらと解けるあまりにも柔らかい肉に脳だけでなく身体
も驚いた。そして、それらが混然一体となり飲み込んだ時の美味さといったら、言葉では表現できないほどである。一口食べただけで、その旨さに呆けたように陶酔してしまった。
これまでの人生の中で最高に美味な料理が、目の前にあるステーキであった。
「これは何だい?今までこんな美味しいもの食べたことがないよ」
「ふふふっ。棘豹竜のモモ肉のステーキよ」
「棘豹竜だって?あれはもっと歯応えがしっかりした肉だったと思うけど……」
「これは竜の肉の熟成肉なの。だからこんなにも柔らかくて美味しいの」
エルには知る由もなかったが、竜の肉を低温で乾燥し何ヶ月も熟成させる事で、格段に柔らかさと旨みを増したのがこの肉であった。
本来なら棘豹竜もモモ肉は赤身が多く、やや固く歯応えのあるはずだったが、長期間の熟成によってまさに別物に変貌を遂げたというわけである。
「このジュースもステーキも私が作ったものなの。ソースだけはお父さんに助けてもらったけど、本当に美味しかった?不味くない?」
「リリが作ってくれたのか!?ありがとう、すごくうれしいよ。さっきも言ったけど、この料理は今までで一番おいしいよ。いくらでも食べられそうだよ」
「まだまだ、いっぱいあるからお代わりしてね。何度でも焼いてあげるから」
「それじゃあ腹いっぱい食べさせてもらおうかな。それにしても棘豹竜って、こんなにおいしくなるんだね」
「熟成すれば棘豹竜以外でもおいしくなるわよ」
「じゃあ、なんで棘豹竜にしたんだい?」
「だって、エルはいつも自分で狩ってこれる魔物の肉を食べるでしょ?それ以上のものは注文しようとしないじゃない。それに亜竜の肉は魔素が豊富で成長を促進してくれる効果が高いし、美味しく感じるって言ってたじゃない。私はエルが喜んで食べてくれる料理を作りたかったから、棘豹竜を選んだの」
その言葉にステーキを食べる手が止まり、エルは真剣な表情になるとリリを見上げた。普段の何気ない会話からエルの嗜好や好みを把握しているからこそ、亜竜の肉を選んだというのだ。
リリだからこそ作れた、今のエルに対する最高の料理であったのだ。
そんな優しい少女の心配りが嬉しく、横に座る彼女に手を伸ばしその小さな手を握り締めた。
「ありがとうリリ。これほどうれしいことはないよ。僕は幸せだ」
「そんなっ。お礼を言うのは私達の方よ。エルのおかげで、私達家族はこうして笑い合っていられるんだから」
「リリやマリナさん、それにシェーバさんから何度も謝罪やお礼の言葉をもらったからもう十分だよ。もう気にする必要なんてないさ。僕はただ日頃の恩返しをしただけなんだから」
「ううん、いくら感謝しても足りないぐらいだわ。エルは自分の命を賭けてまで真竜と闘ってくれたんだから」
「いいや、僕の方こそこんなに嬉しいサプライズをもらって感謝しているんだよ」
「いいえ、この程度じゃ、エルへの恩は返しきれないわ」
「そんなことないさ」
「あるわよ」
お互いに見つめ合いながら、自分の方こそ了知し足りないと言い合っていると、ついには可笑しくなってどちらともなく声を出して笑い合った。
言い争ったがあくまでお互いの事を思っての事であり、嫌悪感など欠片もなく優しい気持ちに溢れていた。
エルはリリに感謝し、リリもエルに感謝した。それだけなのだ。
闘う事しかできない自分が、誰かの役に立てるのがエルにはこの上なくうれしかった。こんな自分でもお世話になった人の力になれる。
そして感謝される。些細な事で幸福を感じずにはいられない、純粋な少年であった。
これから彼の行く末はどうなるか。
それは誰にもわからない。
だが、信頼できる仲間達と共に歩めれば、きっと明るいものになるに違いない。
そんな未来を象徴するかの様に、優しい少女と歓談しながら過ごす時間は時を忘れる程小気味よく、少年の心に何時までも残る至福の一時であった。




