第59話
肩が断続的に上下し、心臓が破裂しそうな程急激に動いている。
呼吸をするのも辛い。足や腰が鉛の様に重かった。
わずかな時間で剣峰アンガナルバを登り切った代償を、エルはその小柄な少年の体で受けていた。喘ぐ様に続ける息吹に時折風鳴りの様な音が加わった。過呼吸に陥り苦しそうに咽びながら、意識が遠のきそうになるのを必死に繋ぎ止めていたのである。
山頂からやや下った円状の窪地にある火口は、大分昔に休止したのか熱はなく、逆に高地のせいで肌寒さを感じるくらいだ。雲の上の高山にいるせいで空気も薄い。
ともすれば疲労から地面に這いつくばりそうになるのを強靭な精神で堪え、何度も何度も呼吸を繰り返しながら無理やりにでも歩き体を解した。ある程度息も整ったら立ち止まり、神の御業、外気修練法で心身を癒していく。
火口に辿り着くまでに体力や気力を著しく消耗していた。ただでさえ険しい急角度の山道に加え、行く手を遮る魔物達の襲撃を幾度も受けたのだ。急成長を遂げたエルといえでも損耗は激しく、疲労困憊になっていたのである。
大気中に存在する力を取り込み、肉体の傷や疲れ、そして底を尽きそうな精神力を回復させていく。武神シルバから授かった神の御業は非常に優れている。あの筆舌に尽くし難い味の回復薬や精神回復薬をがぶ飲みせずとも、ただ静かに佇み周囲からエネルギーを取り込むだけで疲労や傷を癒せるのだ。
重かった体も徐々に軽くなってきた。もう少し経てばすぐにでも闘えそうだが、今から連戦に次ぐ連戦をしなければならない。完全回復するまでエルは黙して動かず、彫像の様に佇立したのであった。
それからしばしの後、快癒したエルは情報誌を取出すと読みだした。これから闘う守護者達の情報を得るためだ。本来なら修行のために何の知識も得ずに闘いたい所であるが、今はそんな事はいっていられない。マリナの命が掛っているのだ。自分の我を通して間に合わなかったら、それこそ目も当てられない。
武神シルバは試練として3日以内に守護者を定められた数を倒せとおっしゃった。正確な数は教えてもらえなかったが、神の課した試練である。おそらく褒美のレアモンスターと闘う時間を勘案しても、今のエルの実力で3日掛けてぎりぎり倒せるかどうかの数を指定しているに違いない。
必然、1体にあまり時間を掛けるわけにはいかない。苦戦などもってのほかだ。自分の矜持も修行も二の次だ。ただ試練を達成するために、守護者の弱点を付き倒し続ける機械と化すのだ。いや、化さねばならない。
エルの失敗は大切な親友の悲しみと隣人の死を意味する。ハス病の末期症状に陥ったマリナには特効薬が必要で、薬には67階層のレアモンスターの落とす素材を入手する必要がある。リリの母親であるマリナに残された時間は、ドウェル医師の診断によればあと3日。それまでに誰かが出現率の低い魔物を狩って材料を手に入れる確率は無きに等しいだろう。また、大商人エピタフが伝手を使って八方手を尽くしてくれているが、あまりに時間がなさ過ぎる。
つまり今となっては、エルが神の試練を達成し薬の材料を手に入れる方法しかマリナの助かる道はないのである。全てはエルの行動に掛っているのだ。
頼りない自分の小さな双肩に、他人の命が乗っている。
エルは思わず身震いした。冒険者は命懸けの職業だ。弱いものが死に強いものだけが生き残る、そんな弱肉強食の世界に身を置かねばならないのだ。闘いが好きで英雄を夢見ている自分の命だったら、何の寸借も無しに掛けてこられた。
だが今はそうではない。絶対死ぬことはできないし、必ずレアモンスターを倒し材料を持ち帰らなければならない。
他人の命の何と重いことか。それがお世話になった知人の命であれば尚更だ。
僕が本当にマリナさんを助けることができるだろうか?
自然と身が強張り弱気になりそうになるのを慌てて頬を叩き、自分で自分で叱咤した。
ここで怖気づいてどうすると。今までお世話になった恩返しをするんじゃなかったのかと。そして、涙に濡れ悲嘆に暮れるリリの姿が見たいのかと。
リリの泣き叫ぶ情景が脳裏に浮かぶ。
マリナが倒れ伏した傍で可愛らしい顔歪め、悲しい声を上げ続けるリリの姿。
あんな姿はもうこれ以上見たくない。わずかな時間でも見続ける事は我慢できない。
リリには太陽の様に輝いて無邪気に笑っている姿が似合うのだ。そんな微笑ましく若々しい生気に満ち溢れた少女と語らい、笑い合うのがエルは大好きなのだ。
今まで何の気なしにずっと続くと信じていた幸せな日常。
そんな掛替えのない当たり前の日々を取り戻すのは他の誰でもない。
そう、エル自身なのだ。
いつのまにか体の硬さはとれ、心は熱く燃え盛っていた。
勝つ確率が低い?レアモンスターには10に1つしか勝てない?
上等じゃないか。必敗するわけではないのなのだから、実戦でその1を手繰り寄せればいいだけだ。ただ何時もの様に絶対諦めず、闘志を燃やして勝利への道筋を探し、闘って闘って闘い続ければいいのだ。
何十体だろうと守護者達を打ち倒し、強敵のレアモンスターだろうと狩ってみせるとエルは瞳に炎が宿した。
空いた片手をきつく握りしめると情報誌を魔法の小袋に仕舞い込み、魔方陣に向かって歩き出すのだった。
黒褐色の土と大小様々な鉱石で溢れ返る火口を、転移陣に向かって真っ直ぐに歩む。ある程度の距離まで近付くとエルの溢れんばかりの闘志に呼応するかのように、巨大な影が地から浮かび上がってきた。
金属的な輝きを全身から放つ巨大な四足の魔物、魔宝獣である。今まで見たどんな魔物より大きく、無数の煌きを放つ多種多様な魔鉱で身体ができている、まさに山のごとき巨体の守護者である。魔宝の名の由来はもちろんこの多彩な光を放つ魔鉱からである。落し物も大量の魔鉱が得られる。中でも希少な落とし物の暗黒輝石や陽光輝石は、4つ星以上の冒険者の武器や防具に用いられ高額で取引される。倒せば希少な魔鉱が大量に手に入ることから魔宝獣と名付けられているのである。
体に一切の毛はなく相貌も似ている獣はいない。あえて言えば牛と狼の中間に近いだろうか。その考えもあくまでエルの主観であって、実際には様々な獣に少しずつ似ていて、それ故に特徴が無くよくわからない凡庸な顔になっているといった所だ。
魔宝獣が地響きを立てエルに近付いてくる。
少年の心には火が付いており心の赴くままに攻撃を仕掛けたかったが、じっと我慢し魔物の出方を窺っていた。いわゆる様子見をしているわけだ。
では何故少しの時間も惜しいこの時に見に徹しているかというと、敢えて1戦目を捨ててでも相手の攻撃を見切る積りだからである。情報誌を見て守護者の攻撃方法や奥の手も理解しているが、それはあくまで知識として得たに過ぎない。
万言よりも一戦の覚えという言葉がある。
いくら事前に情報を得てわかった気でいても、実際に闘って見なくてはわからない。見ると聞くでは大違いなのだ。血を流し傷つき体感し覚えたことこそが、実戦では金言にも勝る宝だという教えなのである。
今のエルはこの魔物の繰り出すであろう技は大凡わかっている。それを体に覚えこませ反応できるようにし、情報と現実の齟齬を無くす事で対策を完了し、2戦目以降を迅速に終わらせるために傍観しているというわけだ。
鉱物そのものでできている魔宝獣の超重量の巨体が、一歩毎に大音と振動を起こしながら迫ってくる。
近付いてみるとその異様さがよくわかる。まるで山だ。ありえないほど大き過ぎる巨体。メタリックの滑らかな光沢を放ちながら動く金属の巨塊。
生物は自分より巨大なものに本能的に恐怖を抱く。大きいというだけで畏怖するのだ。
では、目の前のこの巨獣ではどうだろうか。比べるのも馬鹿らしいくらいまで差のある大きさ。一般人であったなら見ただけでパニックになるか、あまりの恐怖に固まって動けなるかのどちらかであろう。
しかし、エルにはそのどちらもあてはまらない。ただ静かに己の内に闘志を燃やし、守護者の一挙一動さえ逃すまいと注視していたのである。
ゆっくりと巨獣の右前足が振り上がると、エルと圧殺せんと振り下ろされた。
早い。
足が持ち上がるまでは遅く感じたが、重力も手伝って落ちてくる速度はかなりのものだ。しかもこの魔物の足の大きさなら、人間を数人まとめて潰せるのに十分なほどの広さを持っている。加えて重量が違い過ぎる。当たれば人間など簡単にひき肉だ。
エルは両足に力を入れ側面に大きく飛び退いた。
巨大な塊が少年の直ぐ傍を通り過ぎると硬い鉱物交じりの地面と衝突し、轟音を響かせクレーターを作り上げる。
加えて周囲に振動が伝わり、間近で避けたエルが跳ね上げられそうなほど激しく揺れた。こう地面がゆれると転ばないのに気を付けねばならず、動くに動けない。事前に情報を得ていたが、ただの前足の叩き付けのはずなのに、広範囲への凄まじい攻撃とゆれである。
揺れが治まったと思ったらすでに魔宝獣は既に攻撃準備を整えている。返しの左足が高みから落ちてくる。
今度は足に気を纏わせすと、一気に魔物目掛けて直進した。
高速で巨獣の懐に潜り込み左足から距離もあけると振動も大分弱まる。エルの気の移動術ならば、足を留められる振動の範囲から余裕をもって逃げられるようだ。
さて、懐に潜り込んだわけであるが、エルはあえて攻撃を仕掛けなかった。すぐに次の攻撃が来ることをわかっていたからだ。
そう、巨体を生かした全身での押し潰しである。
エルの上から魔鉱の塊の様な大きな大きな体が降ってくる。事前に知っていなければ攻撃してしまい、圧殺されたかもしれない超重量ののし掛かりだ。
自分の視界を埋め尽した黒い空が落ちてくるかのような攻撃を、疾歩で巨獣の足の間をすり抜け回避した。
直後、轟音が鳴り響いた。
山そのものといってもいい巨体と固い鉱石を含有した地面の衝突である。鼓膜が破れそうな大きな音と共に大地が震え、守護者の側面に脱したばかりのエルをゆさぶった。凄まじい振動だ。至近距離ではまるで地震起きたと錯覚するほどのゆれである。
といっても、揺れたのはほんの数秒のことだ。しかも攻撃を仕掛けたため、巨獣は地面に足を折り曲げた態勢になっている。すぐに起き上がることはできない大きな隙が生じてしまっている。今ならこちらのやりたい放題だ。思う存分拳を叩き込める。
魔宝獣の無防備な横っ腹に、エルは得意の武人拳の中段突きを叩き込んだ!!
拳が衝突した瞬間、何か固いものを殴った感触が伝わる。見た目からわかっていたことだが、様々な魔鉱でできた守護者の体は非常に固く、同クラスの冒険者による戦鎚の叩き付けなどはるかに凌駕するエルの攻撃をもってしても、拳が少々めり込んだ程度の成果しか得られなかった。この守護者の体積比からいったら極軽微な損傷といったところだろう。
この魔獣はその体重から防御できない攻撃と固すぎる体から、壁役殺し、あるいは前衛泣かせの異名を取る攻防に優れた守護者なのである。加えて、この魔物に痛覚はなく胸の内奥に隠された核を破壊するまで、足をもごうが顔を壊そうが動き続ける難敵でもあるのだ。
推奨されるのは後衛の大威力の魔法で一気に核を砕くこと。電撃の魔法は通り易く核は脆いので、武器でその固すぎる魔鉱の皮膚を砕くよりは短時間に討伐できるのである。あるいは、赤虎族の戦士アリーシャならば、大火力でもって魔鉱を溶かし尽くす事も可能だろう。
ではエルの場合ならどうだろうか。接近戦主体のエルだが気による遠距離攻撃もできないわけではない。ただし体術に気を乗せた方が威力も大きいので、時間を掛けたくないエルとしたら、必然的に近接戦闘を取る以外の選択肢は無くなる。加えて、相手に触れさえできれば内部に衝撃や気を浸透させて破壊する、発剄や気による内部破壊の技も可能だ。あるいは武人拳の突きでも十分に魔鉱を破壊できることもわかったので、一点集中で攻撃し続けて皮膚を破り核を粉砕する事もできるだろう。まあ修行としての観点なら非常に有用だが、時間の事を考慮すれば今回は明らめるしかない。
ようやく巨獣が立ち上がった。さて次の攻撃は何だろうか。エルに比して体が大き過ぎるというのは、俊敏な武闘家の少年を相手にするのは分が悪すぎた。
山の様な体がゆっくり回転する間に、エルは体の下をすり抜け反対側の側面に回り込んでしまったのだ。その間に攻撃することも忘れない。すれ違い様に何千年物大木もかくやという太い後足に徹気拳を打ち込んだのだ。
数瞬後、今攻撃されたかのように足が内側から爆ぜた。
魔鉱でできていて非常に固いというは一見すると利点ばかりに思われるが、同時に欠点も内包しているのである。鉱物や金属などはその構造から全方位において固いというわけではない。結晶のある特定の方位によっては脆く壊れやすいのだ。加えて、密度が高く重く詰まっているということは、逆に考えれば逃げ場がないということでもある。気の衝撃波が内部で荒れ狂った場合、衝撃を逸らすこともできずあらゆる方位からダメージを負うことになるのだ。
その結果が、先ほどの様に内から爆発したように足の鉱石がはじけ飛んだというわけだ。それでも大木の幹のような足が大きく削った程度で、痛みを感じないこの守護者なら問題なく動けるだろう。といっても、同じ場所に徹気拳をもう数発打ち込めば足が砕けるに違いない。
エル相手に動き遅いということは致命的だ。しかも弱点も持っているなら尚更だ。もはや勝敗は決したといっていいだろう。
ただし、まだ見ていない技がある。今後の闘いも考えて見ておきたいところだ。エルがそう思いながら追撃を加えようとした時、巨獣が全身をゆすった。
すると、体のあちこちから鉱石が飛び出してきたのである。
しかも狙いを付けていないのが、あちこちに石が飛散している。おそらく早すぎるエルを捉えるために、全方位への攻撃として肉体からの鉱石飛ばしを行ったのだろう。
エルよりも巨大な魔鉱がいくつも飛んで来た。
数が多く無作為な攻撃なので、回避し続けるのも大変だ。飛び跳ねて回避しつつ、どうしても無理なものについては気を込めた籠手で打ち払い、逸らすことで対処した。
いくつかはもらってしまったが耐えられない事はない。
今度はこちらの番だとばかりに襲い掛かった。狙いはもちろん一部破壊した後足である。右掌に気を纏わせつつ高速の踏み込み、大地を砕く震脚からの発剄を放った!!
気の力で攻撃力を何倍にも高めた発剄、猛武掌はその凶悪な力をいかんなく発揮し、見事後足のすね部分を完全に破壊しきったのである。
魔宝獣の巨体が傾き倒れこんだ。3つ足で立ち上がるのも苦労するだろう。どこにでも好き勝手に攻撃できる。
エルが自分の前に落ちてきた胴体に攻撃しようとした刹那、巨体が激しく震えた。
きた!!最後の奥の手だ。
エルは急制動を掛け全力で後に退避した。
そのエルを追う様に全身から無数の巨大な円錐状の針が、高速で突き出てきた。人間の腹などに大穴を開けられるのに、十分なほどの大きさな針だ。
魔鉱剣山
一度出したらしばらく出す事のできない、全方位に鋭利で巨大な針で攻撃する、文字通り魔宝獣のとっておきの技だ。
至近距離でやられたなら、エルでも防ぐ事は難しかっただろう。下手したら致命傷を受けていた可能性も否めない。
だが、奥の手を繰り出すまでの予備動作は分かり易く、逃げる事は事前に知っていればしそれほど難しくない。
エルは高速で飛び退くことで針の攻撃範囲から無傷で逃れることができたのである。
虚しく空を切った針がゆっくりと引っ込んでいく。自身の肉体を変形させ大技を繰り出した巨獣は好機を逃し、最大の隙を曝す羽目になったのである。敵の攻撃は全て見た。もはや手心を加えた攻撃をする必要もない。勝負を決する時が今なのだ。
後退から一転、一機に魔獣との距離を詰めると走る勢いのまま、両掌を巨獣の隙だらけの側腹に突き出した!!
双掌徹気
両手から放った突きが当たると同時に気を送り込み、内部から破壊する技である。両手で徹気拳を行う凶悪な攻撃である。
しかもエルの攻撃はそこで終わらない。
突きを放ち終わったら直ぐ様一歩後に後退し、再度高速で踏み込んだのである。前足を軸に高速で体を回転させ背を向ける。そして回転の力を減じさせず。むしろ相乗効果の様に高め合うように回る最中に後足で震脚し、気で覆われた背中を爆発的に前方に突き出させる。
全ての力を結集し向上させ、巨獣に触れた瞬間に解き放つ。
破竜靠
アルド神官により授けられた、全身を用いた最大級の破壊力を持つ新技が今放たれたのである。
気の力も相まったその力は如何ほどか?
答えはすぐに出た。
先に双掌徹気によって内部に浸透した気に強力な発剄の衝撃波が加わり、轟音と共に守護者に甚大な破壊を齎したのだ。
大量の魔鉱が飛び散り、横腹からは大分距離があるはずの核も無事では済まされずに、周囲を守っていた魔鉱と共に砕け散ったのである。
核を破壊された守護者はもう動かない。
エルの勝利である。
魔宝獣が魔素になり迷宮に還ったのを見届けると、構えを解き大きく息を吐き出した。
情報誌を見たおかげで完勝といってもよい。しかも、相手の攻撃は全て見てからの勝利である。次からはもっと時間を短縮して倒せるだろう。
確かな手応えを感じながらエルは戦利品を拾うと、魔法陣に入り41階層に転移するのだった。




