第58話
剣峰アンガナルバ。
神々の迷宮の40階層そのものといっていいほど巨大で、麓から眺めれば遥か上、頂きに雲がかかっているほどの高さを誇る峻険な山である。山のすそ野は広く、山はほぼ円錐に近い理想的な形をしている。その姿は見るものに畏敬を抱かせずにいられない、実に調和のとれた数学的美しさを内包していた。
ただし、その美はあくまで遠目から観賞した場合である。比較的緩やかな山麓を登ったら急激に斜度が上がり、冒険者の行く手を阻むのだ。まるで大地から剣が突き出した様な傾斜の激しい雄大な姿から剣峰と名付けられたこの山は、幾多の冒険者が果敢に挑むも数多の命を散らした難所なのである。
山巓にある41階層への転移陣に至るためには、登るだけでも並大抵の労力では済まない。しかも、登山しながら強力な魔物の相手もしなければならないのだ。頂きに到着するころにはまる1日掛かる場合さえある。50以下の下位冒険者が挑む中でも屈指の難度を誇る長大な迷宮が40階層、剣峰アンガナルバなのである。
そんな険しい山の麓、40階層への転移陣にエルは降り立っていた。
武神シルバに与えられた試練は、3日の内に定められた回数守護者を倒さねばならない。倒せなければそこで終わりである。レアモンスターと闘うことはできず、ドウェル医師に薬の材料を渡すことができない。その結果は予想するだけでも嫌だが、親友の家族に不幸が訪れることになるのだ。
そんな不幸な結末はお呼びじゃない。絶対に皆で笑いあえる未来を手繰り寄せてみせると、エルはすでに猛り昂ぶり全身から黒と白の気を迸らせていた。
さてこの40階層の最初のステージ、山裾に緩やかに広がる森林地帯は39階層と同様に、森の中を冒険者が並んで通れるほどの横幅の広い林道が存在する。ただし道は曲がりくねっており、ただでさえ広い山麓を踏破するのに、さらに余計に時間が掛かってしまう一因になっている。
森の中は魔物の住み処である。そんな中に不用意に侵入すれば、左右からの奇襲に注意するだけでいい林道と異なり、前後左右、さらに頭上からの攻撃まで警戒しなければならない。冒険者稼業は命を賭けるが、極力危険は排除し安全性を高めて無難な道を選択するのが鉄則である。どれだけ用心してもし足りない。ほんの些細な失敗が自分や仲間の命に直結するからである。だから林道を外れる様な行為は、余程の事情がない限りありえないのだ。
だが、今のエルの境遇ではそんな事はいっていられない。時間こそが最も貴重でどんな財貨にも勝るのだ。
エルは迷わず林道を外れ、森の中に踏み入った。そして遥か彼方に仰ぎ見る剣峰目指して一直線に走り出したのである。
幸いなことに木々の密集度合はそこまで密ではない。人間の冒険者よりはるかに巨大な大型な魔物が動けるだけのスペースが、まるで計算されて創られたかのように間隔を置かれ、木々や背の高い草などが繁茂している。
小柄な少年であるエルにとって、その間隙をぬって走り続けるのはさして難しくなかった。黒と白の入り混じった混沌の気を足に纏わせて地を蹴り、時には太い木の幹を蹴って大きく跳躍しながら一路剣峰を目指した。
エルの身体能力は並ではない。都市に住まう一般市民とは隔絶した力を有するのはもちろんのこと、峻烈な修行や魔物との闘争に明け暮れたその実力は、もはや3つ星ではランク詐欺としか思えないほどの領域に達していた。
それに加えて、39階層での食人大鬼の村での凶悪な鬼達との1ヶ月にも及ぶ過酷な闘争の日々によって、少年の心身は飛躍といっていいほどの大幅な成長を遂げたのである。その力は5つ星の冒険者と比較したとしても遜色がないほどである。
そんなエルが得手としてるは、気を用いた高速移動術を主体として高速戦闘である。食人大鬼の村の大立ち回りや逃げ回る闘い方によって、ただでさえ高い持久力に輪をかけて磨きが掛かったいる。
森をひたすら駆け抜けている今も時々魔物に遭遇するが、追い縋る魔物に一瞥もくれず走り去った。比較的足の遅い食人大鬼、大きすぎる巨体が森での移動を邪魔する棘豹竜はもちろん、機敏な動きが特徴の刃尾白貂であっても、今のエルには追い付けない。走り去る小さな人間を補足しようとしても、あっという間に距離を離され見る間にその姿が遠ざかっていくのだ。気を運用したエルの移動術は、俊敏な魔物をもってしも全く追い付けなかったのである。
脇目も振らず剣峰を目指して疾駆するエルは無駄な動きを能う限り減らし、植物を避ける動作も最小限にしてほぼ一直線に走り続けた。
肺が新鮮な空気を要求して暴れだし心臓が早鐘を打つ。気力も常時使用しているのでどんどん消費され減っていく。
だが、エルは歩みを止めない。苦しくても無理矢理手足を動かし駆け続けた。
途中で遭遇する魔物達を歯牙にもかけず置き去りにして、ただただ前に進み深い森を走破するのであった。
そしてようやくすそ野の森を抜けると、目の前に圧倒されそうなほど高い大きな山が姿を現した。急激な傾斜のせいで峰を見上げるだけで首が痛い。ここから山巓に辿り着くのがまた一苦労だ。いやっ、ここからが本番だ。
エルは一端立ち止まると、大きく深呼吸を繰り返し始めた。新鮮な空気を大量に吸い込みながら、神の御業、外気修練法も同時に行い周囲の大気からエネルギーを取り込み心身を癒していく。
体力を回復させながら目の前に立ち塞がるかのような、巨大な山を見上げた。
山腹からの木々はまばらになり、上に行くほど少なくなっていく。中腹を越え山頂近くになれば木は無くなり、小さな草花しか見えない。それらの高山植物も数は少なく、ほとんどが岩石に地表を覆われているのが山巓部分だ。山麓を越えれば植物の存在は少なくなり、鉱石だらけでメタリックな様相であることも、剣峰の名の一因になっているのである。
ここから山頂の転移陣を目指す場合、魔物との戦闘も考慮して比較的平らで戦闘もし易い山道を登るのが常道である。ただし、山道は山の周囲を螺旋状を描きながらゆっくり頂上に向かっているので、登頂までの時間は余計に掛かってしまう。それでも安全を考えるならば、緩やかに上に向かう山道を進むのが当たり前である。
ただし時が経てば経つほど、試練達成の可能性は下がっていく。
今のエルには安全に時間を掛けて進む余裕などはどこにもないのだ。
外気修練法のおかげですっかり疲れも癒え、呼吸も整ったエルは一度目を閉じた。そしてかっと見開いた瞳に決意の炎を宿らせると、頂きに向けてただ真っ直ぐに駆け出した。
勾配の激しい登りのおかげで、一歩踏み出す毎に足に負担が掛かる。加えて土だけではなく岩や砂利も多いので、走り辛さに拍車を掛けていた。注意して走らねば転倒する慮もある。
それに加えて木々が少なく見晴らしが良好になったことで、魔物に発見され襲われるケースが増大した。森でなら気付かれなかった遠くからでも発見され向かってこられたのである。
中でも面倒だったのが棘豹竜だ。亜竜を含めた竜族は、総じて体力やスタミナが他の種族に比べて非常に高いが、特にこの竜は俊敏性も兼ね備えているので厄介極まりない。森でなら無数にある大木のおかげで逃げ切るのもさして難しくなかったが、見晴らしの良い山間部ではその巨体を遮るものは何もない。しかもこの亜竜は狩猟本能が強く、狙った獲物を執念深く追い続ける習性を持っていたのである。
普通に走るだけならエルの方が早い。さしもの亜竜も追いつくのが不可能なほど離されれば、さすがに諦めて別の獲物にターゲットを変更するだろう。
しかし、途中で別の魔物に襲撃され手間取れば話は変わってくる。蛇の様に執拗に追跡してきた亜竜に追い付かれ、戦闘を余儀なくされるのだ。
突然、上から大量の岩石が降ってきた。
これにはエルも足を止めざるを得ない。両手をクロスさせて顔を覆うようにして守り、気を解体変化させ硬化させた気の鎧、纏鎧で全身を防御した。その甲斐あって大小様々な無数の岩がエルに中っても、ほとんど痛痒を感じずに弾き返せたのだ。
だが、エルを攻撃した岩はあろうことか生きているかのように飛び跳ね、再び襲い掛かってきたのである!!
巨礫生物
40階層にて初めて現れる無数の岩の集合体の魔物である。この魔物は体の何処かに核を持ち、それを破壊しない限り死なないという特性を有していた。
もちろん初遭遇であり、この魔物に対して何の情報も得ていないエルにはそんな事はわからない。エルに向かって飛んでくる岩を武人拳で何度も砕くが、また飛び掛かってくるので戸惑っていた。
動き続ける岩に手古摺っている内に、後方から大きな足音が迫ってくる。それも1つではない。
振り返ったエルが見たものは、血走った目で走り来る3体の棘豹竜の姿であった。斜面の急な勾配など無かったかのように、異常に発達した前足を駆使して高速で接近してくる。
こうなってはもはや逃げる事は叶わない。交戦するしかない。相変わらずエルの周りを飛び交う岩を捌きながら、不本意ながら亜竜達との闘いに突入した。
といっても、棘豹竜とは38~39階層で嫌という程闘っており、独自の対処法も確立している。亜竜の奥の手である広範囲の衝撃波、疾風爆弾に注意しさえすれば、たとえ数体相手取ったとしてももはや苦戦する相手ではないのだ。
しかも今は倒す必要はない。エルを追って来れないほどのダメージを与えればそれでいいのだ。
人間を串刺しにできそうな大きな棘のついた斑色の異形の前足が、エルを圧殺せんと叩き付けられた。
中れば人間など簡単にミンチにできそうな一撃だが、少年には掠りもしない。急勾配に居てさえ動きに遅滞なく前足を紙一重で側面に移動して躱すと、横から大きな音を発て地面を陥没させた前足を裏拳で殴り付けたのである。
力を入れず軽く振ったように見える裏拳が、その実脅威的な力を秘めていた。
人間の大男の何十倍の体重を持つ亜竜が、拳が中った前足を起点に回転し宙を舞ったのである。体重差など心身を成長させた上位の冒険者クラスになれば、いとも簡単にひっくり返せるのだ。
エルは宙に浮かぶ棘豹竜を右足で蹴り飛ばし、こちら目掛けて駆けてくる亜竜に向けて吹き飛ばした。
亜竜も驚いただろう。まさか大岩の如き巨体が高速で飛来するなど予想も付かなかったに違いない。
避ける間もなく亜竜同士が衝突し、その後重なるようにして斜面を落下していく。傾斜の激しい斜面のせいで一度転がり落ちれば、亜竜の体重も相まって止まれない。見る間に遠ざかり、姿が小さくなっていった。
そして残りの1体であるが、眼前の小柄の少年の実力をようやく悟ったのか、行き成り奥の手を繰り出そうと大きく息を吸い込みながら近付いてくる。初戦闘では甘く見て大きな痛手を負った不可視の衝撃波、疾風爆弾である。
だが悲しいかな、たとえ棘豹竜の必殺の奥の手だとしても、不意を突かれさえしなければ状況に応じて幾通りも対策を取れる程度の技に成り下がっていたのだ。
防御もできるし、エルの移動力なら回避も可能だ。あるいは逆に迎え撃ち、亜竜の必殺技を阻止する事だってできるのだ。
エルの右手に混沌の気が圧倒的速度で収束していく。
相変わらずエルにぶつかってくる岩石など眼中にないとばかりに無視し、体のあちこちに打撲や軽い出血を負っても全く気にしない。大口を開け迫る亜竜の迎撃準備に注力したのである。
エルとの距離もあと数歩という所で竜が急停止した。口腔に溜めた魔力を衝撃波に変換し破壊を振り撒かんと発射体勢に移行する。
今しも広範囲に不可視の衝撃を放とうとした瞬間、全力の攻撃のために無防備になる瞬間がエルの待ち望んだ反撃の機会であった。一瞬の内に振り抜かれた右腕の軌跡に沿って、半弧状の混沌の気の刃が亜竜の喉に高速で飛来したのだ。
疾風爆弾に集中していた亜竜には、自身に迫る凶刃の存在に気付けただろうか。いやっ、気付けたとしても口内に溜めた気を解き放つ寸前の竜では、回避行動を取る事すらできなかったに違いない。
研ぎ澄まされた混沌の刃が亜竜の剥き出しの喉を一切の抵抗なく両断すると、胴体から泣き別れた頭部が空中で大爆発を起こした。おそらく制御を失った魔力が暴走し爆発したのだろう。
棘豹竜の喉や顎下などは鱗も薄く防御の脆い部分であるが、それでも気刃1つで両断できたのはエルの修練の賜物である。気の武器化の修行の過程で気を形態変化させ、鋭利で、かつ硬質化させる事を学んだので、従来修めた技にも応用し斬れ味を向上させたというわけだ。
さて、最後に残ったのは動く岩の群れになるが、エルにはすぐに対処法が思い付かなかった。こんな生物を相手にした経験がなかったからだ。
とりあえず大量の気弾をばらまき距離を取ってみる事にした。
エルの気を圧縮した気弾が岩に接触すると弾け、大音と共に爆発を起こす。
その間に斜面を駆け上がり様子を観察した。
どうやら岩石達は動きを止めず、エルに向かって飛び跳ねてくるようだ。核の存在を知らないエルの当てずっぽうの攻撃では、致命傷を与えられないのは当然の結果であろう。
ただし、一度離れられたことで収穫もあった。移動速度がそれほど速くないのだ。食人大鬼程度といった所だろう。
当初は大小様々な岩に取り囲まれ、周囲から無秩序に襲い掛かられたので混乱したが、冷静になれば気で身を守ったエルに軽傷しか与えられない程度の攻撃力で動きも速くはない。ただし岩の群体生物ともいうべき存在で、倒し方がわからない。今のエルでは大量の気で全てを破壊するしか対処法が思い付かない。
ただこんな所で手を込まないて、徒に時間を浪費する事だけは避けたかった。
幸いなことにエルの足なら簡単に逃げられるだろう。
一度接敵した魔物から逃げるという、戦闘狂の少年からしたら普段ならありえない選択であるが、今は自分の矜持より優先すべきことがあるのだ。
次回にでもこの魔物にはリベンジを果そうと心に誓うと、背を向け急角度の斜面を駆け出すのであった。
その後も何度も魔物の襲撃を受けた。
早朝からで他の冒険者達の姿が少ないことも拍車を掛け、エルに魔物が集中したのである。
魔物のせいで足を止めねばならず、時間を消費させられるのに苛立ちが募った。だがその度に泣き腫らしたリリや倒れ伏すマリナの姿を思い浮かべ、なんとか激発しそうになるのを止めるのに成功すると、相手の命を取るよりエルを追って来れなくする事を念頭に置き、できるだけ短時間で逃走する事を心掛けたのである。
何度も何度も嫌という程魔物達に襲われた。
それでも親友の家族を救えるのは自分だけだと言い聞かせ、時には魔物を付き落とし、時には魔物の足を破壊し、息を荒げ激しく呼吸を繰り返しながら山を登った。
やがて木は無くなり小さな植物が点在するだけで、鉱石ばかりの場所にさしかかる。
体は重くなり、心臓も肺も自己主張を増し苦しさも増大した。
しかし、エルは少しも足を絶対に止めなかった。
決意と思いに突き動かされ、ただ只管に山頂を目指したのである。
走り走り、終には山に掛かった雲を突っ切る。
雲の中は、薄い霧の中を走るのとそう変わらない。広範囲に広がって霧が発生しているのと変わらず、視界が悪くなったというだけだ。
ただそのおかげで魔物との遭遇が減り、走る時間が長くなったのは幸いなことだ。
霞を吸い込み狂おしいほどがなり立てる心臓をなだめ、自分を叱咤して走り続けた。
魔物を回避し痛切な程空気を欲する身体に鞭打って雲を潜り抜けた先には、求め続けた山巓であり、やや下がった火口付近に転移陣が見えたのである。
エルが早朝から登頂を開始してから全力を尽くし、太陽が南にさしかかる手前の頃であった。




