第56話
エルの黒と白の入り混じった混沌の気を帯びた拳が、巨大な鼬を想わせる細長い胴体に短い四肢を有する魔物の腹に吸い込まれ、白い毛を鮮血で真っ赤に染め上げた。
魔物は甲高い金切声を上げ、硬質化した刃と比べても遜色のない鋭い尾で反撃を試みるが、それよりも早くエルの肘を用いた発剄、短震肘が傷を負った腹に炸裂すると、大量の血を撒き散らしあえなくその一生に幕を閉じたのだった。
エルが今し方闘ったモンスターは、39階層で新たに出現する刃尾白貂である。人間の数倍はある巨体に鋭い爪を持ち、武器にもそのまま使えそうな刃の様な長大な尾を持っている。この鼬の如き魔物は巨体から想像もできない程俊敏であり、油断した、あるいは未熟な冒険者が高速で接近されその牙や爪の餌食になる事もある厄介な魔物だ。短い四肢のせいで体高は低く一寸見胴長な大型犬に見え、牙を剥く寸前まで獰猛な気配を巧妙に隠した可愛らしい容姿から甘く見られがちだが、後足で立ち上がれば人間の裕に2倍の高さをほこり、下手な魔鉱製の鎧など易々と噛み千切る咬合力と、鎧も簡単に引き裂く刃の尾はまさに驚異の一言である。
ただ、エルは先日棘豹竜との闘いで自分の驕りから失敗した経験を経ているので、どんな攻撃を繰り出すかわからない初見の魔物に対して細心の注意を払ったのだ。飛び掛かりを余裕を持って躱し、爪や牙の猛攻を気の高速移動で左右前後に駆け回って回避し、刃の尾の薙ぎ払いも宙に飛び上って易々と避けた。その後も見に回り、相手に飛び道具や隠し技などもないと判断したら一気呵成、瞬時に距離を詰めると烈火の如き拳と肘の連撃で白貂を仕留めたのである。
殺した魔物の血で濡れた拳や服も魔素に変換され迷宮に還ると、まるで何事も無かったように綺麗さっぱり元通りになる。違いは地面に魔物からの落し物がある程度だ。
ただ、エルの身体には生物の体を貫いた生々しい感触がまだ残っている。肉を穿ち砕く感触がだ。
エルはこの手応えが嫌いではなかった。むしろどちらかといえば好きだといえるかもしれない。迷宮の魔物は死ねば魔素になる、いわば仮初めの生命体である。そんな魔物を殺すことは忌避感など覚えはしない。
いや、仮に迷宮以外できちんと死体の残る本物の魔物を殺めたとしても、忌み嫌う所か誇らしく感じるだろう。それほど魔物と人類とは不倶戴天の敵同士であり、お互いが共存することなど不可能であるからである。更にいえば魔物の大半は知能が低く、本能のままにただ人を襲い食らう存在である。もっとも知能がある高位の魔物の方が性質が悪い。人を奴隷か家畜としか思っておらず、いっそ一思いに殺してくれた方がましだと思える程の酷薄な行為でさえ平気で行えるのだ。彼等と分かり合える事など決してないのだ。
魔物達を生み出したとされる邪神は、この世界一切の破壊を望む神である。軍神アナスや武神バルドをはじめとして神々に討たれ、今はこの世界に対する影響力は低い状態だが、一説では虎視眈々と自身の復活を目論んでいるともいわれている。
そんな邪神が創造した魔物達、そして邪神の眷属たる悪魔や魔神はその成り立ちからして、繁栄を望む人類とは到底相容れる事など不可能なのだ。
こちらに負の感情しか持ち得ない隣人とは、手を差し伸べたとしても友好を築けるわけもなく、ましてや共存することなどできはしないのだ。ただ人を害するための存在が魔物なのである。
だから殺す。人類と魔物との闘いはどちらかが果てるまで続く、修羅の巷の如き永劫の闘争なのである。
もっとも、エルに関してはそんな難しい事など端から頭にはない。ただ、自分が強くなるために倒す。それだけなのだ。エルの故郷が魔物による被害が少なかった事も一因として挙げられるが、エル自身はそこまで魔物を嫌っていない。迷宮で自分の手で倒した魔物には敬意すら払っていたのである。
魔物を倒した際にこの手に得た感触は成長の糧を得た実感でもあるのだから、喜びこそすれ嫌忌するなど、倒した魔物を侮辱するような行為などエルには想像する事すらありえなかった。
いってみれば、家畜を殺し日々の糧として感謝していただく様なものである。ましてや自分が強くなるという夢のため、仮初めの命とはいえこの手で刈り取るのである。人類と相容れない敵とはいえ、倒した相手への感謝と敬意は絶対に忘れてはならないと、エルは考えていたのだ。感謝すら抱かずただ敵を殺すだけの存在に堕ちる事は、過去に魔人に成りかけたエルにとって苦い記憶であった。武人として、武神流の拳士として恥ずかしくない存在になるため、エルは己の心も戒め続けていたのだ。
エルは拳を一度きつく握り締め、また一つ自分のために消えた命に感謝し落し物を拾うと、森の中を歩き出したのだった。
39階層の森も38階層と植生も同じであり、広葉樹や針葉樹などが見られる。迷宮都市よりやや高地にあるのか、真夏の焼ける様な陽射しもやや控え目である。
また森に自生している木々の中で、シランバと呼ばれる特徴的な白い広葉樹が稀に見られる。このシランバは木目も美しく、家具としての人気が非常に高い。加えて、迷宮に生えているので魔素を取り込むせいか、魔具として加工した場合も迷宮外の物より性能が優れているので珍重されている。
その他にもこの木は冬に蜜を内部に蓄えるので、集めてシロップを作る事もできる。当然ながらシロップにも冒険者の成長を促成させる効能があるので、甘味材として日常的に使われるし、あるいは酒類に用いられることもある。シランバは幅広い用途のある人気の木なのである。
もっとも今は暑い時期なので全く蜜は溜まっておらず、エルの目の保養に貢献しているぐらいであったが。
多種多様な植物が生い茂る森の中を行くこと暫し、エルはようやく目的の地に辿り着いた。同ランクの冒険者達には人気は無いが、エルにもできる金稼ぎの場所だ。
そこは森の中を切り開かれた、拙いながらも複数の住居と思しき物が見受けられる集落であった。食人大鬼達の集落である。
食人大鬼は知能も低く本能に忠実な部分もあるが、不器用ながら木々から風雨を防げる程度の住居を造る事もできるのだ。さらには、固有の言葉らしきものもあり、仲間同士で意思の疎通もできるのである。鬼達は独自の文化を持っているのだ。
ただし、性格は極めて凶暴で人肉を好む。また単独より複数で行動し、時には村を襲い人を攫い犯し食らう、まさに人類の敵と呼ぶべき存在である。腕力も強く人の胴程度の木でさえ簡単に圧し折る。村などを木の柵で覆ったとしても、この鬼は容易く壊し侵入してくるのだ。辺境の村で食人大鬼の群れに襲われ、女子供が一夜にして多数攫われ村を保てなくなる事もあるぐらいである。それほど食人大鬼とは恐ろしい魔物なのだ。
この鬼一体の強さはせいぜい30階層から出現する魔物、蛮巨人程度といった所だ。エルにしたら造作もなく倒せる程度の敵なのである。これはあくまで4つ星や5つ星の冒険者の評価であって、一般の人々や2つ星以下の冒険者にとっては、出会ったならば死を覚悟しなければならない相手である。
加えて、この迷宮内の食人大鬼は必ず複数で行動する習性を持っている。1体でもかなりの強さを有する鬼が群れを為し襲い掛かってくるのだ。3つ星の冒険者とて油断できるものではない。
敗れれば死が待っている。いや、他の魔物に殺された方がまだマシだと言えるほどの悲惨な死が待っているのだ。人肉を好む鬼達に負ければ、生きたままこの集落に運ばれた後、惨たらしく屠殺されご馳走として食されるのである。
集落のあちこちには無数の骨が散乱していた。鬼自身は死ねば魔素に残るので、骨が残るのはこの迷宮に住む動物か冒険者のものしかない。動物の骨らしきものもあるが、人のしゃれこうべらしきものも無惨に打ち捨てられている。闘いに敗れ食われたのだろう。その死はさぞや無念だったに違いない。
ことこの凄惨な現状を目の当たりするに至り、もはやエルにはこの鬼達を殴殺する事に一切の逡巡も良心の呵責も抱かなかった。必殺の意志を固めると、静かに集落の真っ只中に向かって歩き出したのである。
集落のあちらこちらに建てられたみすぼらしい掘立小屋の如き住居には規則性はなく、無秩序に建てられている。ただ、村の中心には広場があり、そこでみな一堂に会し食事を取るのか中心部にはうず高く骨の山が積まれていた。吐き気を催すような光景だ。
ゆっくり歩いて近づくエルには、まだ気付かれていない。
時折、集落を闊歩している食人大鬼を見つけては迅速に一撃で仕留めているので、叫ばれる事無く広場に近付く事ができたのである。
だがここからはそうもいかない。広場にはちょうど昼時のせいか、夥しい数の鬼達がひしめき合っていた。この森で取れる動物、鹿や猪らしき物体をさばいた肉を食らい、よく分からない言葉でにぎやかに騒ぎながら食事を取っているようだ。
百まではいないだろうが、何十体もの魔物を相手にすればエルも死を覚悟しなければならない。1体では容易い相手だとしても数の力は侮れない。減らせるうちに減らすに越したことはないのだ。
エルは音も発てず適当な鬼の背に忍び寄ると、食事に興じる鬼達の背中を高速で駆け軽く突いて回った。鬼にしたら何かが触れたくらいの、ちょっとした違和感を感じた程度の突きであった。
しかし、それは数多の鬼達を黄泉路へと誘う死の宣告であった。数瞬後、エルが触れた部分を通して鬼の体内に浸透した気が荒れ狂い、内部から爆発したかのように鬼の体が爆ぜたのだ。
鬼の構造は人と似通っている。背中から徹気拳にて気を内部に通され心臓をずたずたに破壊されれば、人間より遥かに頑丈な鬼とて生きてはいられない。
次々に仲間の体が破裂し息絶えるという信じ難い驚愕の事態に、広場はたちまち絶叫と喧噪の坩堝となった。小さな闖入者であるエルの存在など、あって無きが如しである。
此れ幸いと鬼達の隙間を高速移動術で駆け抜け、次々に徹気拳を打ち込んでゆく。
その内、裸で腰蓑しか身に付けていない鬼以外に黒い上等な魔鉱製の鎧に身を包み、武器を携帯した大鬼達も見受けられた。この集落のヒエラルキーでも上位に位置し優れた戦士として認めら証として、上質な魔鉱製の装備を着る事を許された食人大鬼戦士達である。その実力は、力押し一辺倒の食人大鬼とは一線を画し、鬼の人外の膂力に加えて優れた技を身に付けた恐るべき戦士だ。3つ星の冒険者のパーティでは、退却も視野に入れて相手しなければならない相手である。
しかし、その危険性に比例するように落し物は希少性が高い。戦士達が装備している魔鉱、暗黒輝石の防具や武器が手に入るのだ。この魔鉱は硬度はもちろんのこと、見た目も美しいので宝石としても取り扱われる場合もあり、高額で取引されるのだ。エルが狙っているのはこの高価な装備である。ただし、この集落で闘い始めれば何十体もの鬼達を相手にしなければならない。一般的な3つ星の冒険者では数の暴力に負け命を落とす確立が非常に高い。それゆえ人気がないのだ。鬼達との連戦をものともしない優秀な4つ星、ないしは5つ星の冒険者達にとっては稼ぎ場と成り得るが、そのランクになればもっと楽な稼ぎ場もあるのであまり此処に訪れる事はほとんどないのである。エルにしたら自分の命の危険性も高いが、薬の代金を稼ぐという意味では、他者と取り合いになる事も少ない破格の稼ぎ場であるのだ。
エルにとっては幸いな事に、食人大鬼戦士達も周りの喧騒に浮足立ってまだその存在に気付いていない。鎧越しだろうとエルの荒技、徹気拳は鬼本体へ気を通す事が可能なので、混乱の最中に乗じて複数の戦士達を討伐する事に成功するのだった。
だが、エルの一方的な虐殺はここまでだった。広場の奥まった所に設えられた肉食獣の獣の革で作られた豪華な席に座っている、一際大きな巨体を漆黒の鎧で覆い隠した巨大な大鬼が徐に立ち上がると、耳が裂けんばかりの大咆哮を上げたのだ。
この集落の長たる食人大鬼酋長である。
この地を束ねる絶対的な支配者、酋長の雄叫びによって混乱していた食人大鬼達もようやく落ち着きを取り戻したのだ。
静まり返った中、エルは気付かれる最後の一仕事とばかりに、できるだけ多くの鬼に触れられるように動きながら駆け抜けた。
そしてついに乱入者であるエルの存在が発見されてしまう。
鬼達の混乱中に討てた数は20にも満たない。希望的観測からいえば3分の1を倒せたくらいであろうか。
食人大鬼達は多くの同胞を殺めたエルに対し、早くも敵意剥き出しとなり唸り声を上げたり、意味の解らない大声を浴びせてくる。
エルと大鬼達との長い長い闘いの火蓋が切られたのである。
エルが発見された当初、いの一番に行った行為は広場からの逃走である。それはもう脇目も振らず清々しいくらいの逃げっぷりであった。
鬼達が慌てて追いかけても、早さに関してはエルに圧倒的な分があった。直ぐ様広場を後にし適当な住居の裏に回り、腰を落とし右拳に気を溜め始める。
やがて追って来た鬼の集団があばら家の如き住居を回って現れると、待っていたとばかりにエルは溜めに溜めた気を開放し、先頭を走る食人大鬼達を気の奔流が飲み込んだのである。
烈光拳
エルの混沌の気が魔物達に炸裂し、甚大な被害をもたらした。これで何体かは仕留められただろう。
だが、未だ何十体といる鬼達と真正面から事を構えるのは、エルといえども自殺行為である。先述した通り数とは力なのだ。あのまま広間で闘いを挑んだ場合、忽ちの内に取り囲まれ前後左右から挟撃されたであろう事は想像に難くない。そうなればやがて鬼達の攻撃を回避や防御もできなくなり、エルの小さなその身で受けるしかなくなる。大の大人より太い大木の幹を一撃で圧し折る食人大鬼の怪力をだ。
気で全身を覆って受けるダメージを軽減しても、遅かれ早かれ耐えられなくなる事は
明白である。だからエルは鬼達の数を減らす事に腐心したのだ。
それゆえまずは逃走し、追跡してくる魔物を順々に倒す事にしたというわけである。
身軽で素早いエルが逃げ回れば捕まえる事は容易ではない。さらにはこの集落の周りは深い森である。エルが身を隠せる茂みや大木など事欠かない。地の利を得たのは、皮肉な事にこの地に居を構えた鬼達ではなく、異邦人のエルだったのだ。
森に逃げ込んだ風に見えるエルは、その実鬼達にとっては畏怖すべき狡猾な狩猟者であった。追い駆けても有利な場所で待ち構えられ、先頭のものを屠るとはまた距離を取られるのである。鬼達が追い縋っても瞬く間に逃げられ見えなくなってしまう。森の中で人間を探し右往左往していると、いつの間にか接近され仲間を殺されるのだ。鬼達としたら堪ったものではない。
ただ、エルにしても余裕があるわけではなかった。自分の取り得る勝率の高い戦法
がこれしかなかったのだ。食人大鬼のみならまだしも、食人大鬼戦士が複数存在する状態で挑むなど無謀でしかなかったからだ。
だからエルは時には茂みに身を隠し、時には木の上を跳躍しながら移動しつつ追跡を撒いては奇襲を仕掛け、魔物の数を減らすことに集中したのである。
ただし、慎重に立ち回ったといっても無傷では済まないし、体力や気力の消耗も激しかった。奇襲後の離脱にとまどり幾らか重い攻撃を貰うこともあったし、気を用いた高速移動をほぼ常時行わなければ距離を稼ぐのも難しく、気力の消耗も激しかった。
心臓が壊れそうな程動き呼吸を欲した。殴られた箇所は鬱血したり、血が流れ出ている場所もある。隠れているといっても人の固有の匂いや血の匂いが嗅ぎ分けられるので、余り休む間もなく見つかってしまいまたすぐ逃げる羽目になった。
限られた時間の中で、エルは外気修練法のよって大気に溢れる力を取り込み心身を癒し回復に努めると、できるだけ発見される前に不意打ちを仕掛けると、逃走を繰り返したのである。
また、奇襲によるアドバンテージを得てもなお、卓出した戦士である食人大鬼戦士に反撃を受けるケースもあった。背後から疾歩によって高速で接近し兜のない頭皮が剥き出しの後頭部に徹気拳を打ち込む事に成功しても、己が死ぬ間際でさえこの熟練の戦士は強烈な反撃を敢行してきたのである。魔鉱製の黒光りする鋼鎚や鋼棍などの重い鈍器をエルに高速で繰り出してきたのだ。
攻撃を仕掛け鬼の頭部まで飛び上がったエルに逃れる術はなく、手痛い反撃に吹き飛ばされ、しばらく間動けなくなるほどのダメージを受けたのだ。
食人大鬼戦士自体はその後頭部を破裂し死に絶えたが、仲間の鬼達に攻め立てられ、回復するのがもう少しでも遅かったらエルが死を賜った可能性もあるほど危険な場面もあったのである。
敵の攻撃を受ける前になんとか立ち直ったエルは、大木を蹴り跳躍を繰り返して追っ手を撒き、高い木の上に身を隠し回復薬を飲み体力を回復し事無きを得たのであった。
その後も熾烈な闘いは続いた。
一撃離脱を念頭に攻撃しては即座に逃げ隠伏し、ひたすらそれを繰り返したのである。時には居場所を見付けられ先手を打たれる事もあったが、気を用いた高速移動で一気に距離を取り、再度潜伏して奇襲を仕掛け直したのである。
いわば命を賭した鬼ごっこである。捕まればはすなわち死である。
エルはそんな危険な遊戯を持ち前の強い精神力、そして改めて学んだ慎重さをもって時間を掛けても確実に魔物を屠っていった。
長い長い時間の果て、肉体が傷付き精神が疲弊した先に、ついには追手の鬼達を全て討伐する事に成功したのである。
荒い息を吐きながら、不味い回復薬を飲み下し落し物を回収してまわる。逃げながら闘ったので戦利品はあちこちに散乱した状態だったので集めるのに手間取ったが、全てを回収し終わる頃には呼吸も整い疲れも少しましになったようだ。
外気修練法で心身を癒すと、気合いを入れ直し再度集落を訪れ広場に向かう。
食人大鬼や食人大鬼戦士は全て倒したが、まだ最後の敵が残っていたからだ。
そう、この村の長にして最も優れた戦士である食人大鬼酋長だ。
エルの姿を見咎めると、獲物の人間よりも巨大な大戦斧を易々と片手で掲げて強烈な雄叫びを発した。
この小さな人間によって仲間が全て討ち取られた事がわかったのだろう。目は血走り噛みしめた牙には力が篭り、今しも復讐を果さんと力を溜めている。
エルが広場の中央まで進むと、暗黒輝石の大鎧に纏った巨体が信じ難き速度で接近し、大上段から戦斧を叩き付けてきた。
もちろん、そんな大振りの攻撃を食らうエルではない。余裕を持って横に飛び退くと通り過ぎた戦斧が大地を叩き、鬼の長の人外の膂力をもって地を爆散させたのである。
響き渡る轟音。土は周囲に飛散し、軽い物は宙を舞った。
たった一撃で巨大な窪地を作り上げられのである。
これほどの剛力はエルも見たことがない。あまりの慮外の力に面食らってしまったほどだ。あの剛撃を一つでも貰えば致命傷になりかねない。それほどの一撃であった。我知らず音を発てて唾を飲み込んだ。
そんなエルに向けて、酋長は追撃を掛ける。巨体とは思えない速度で疾駆し、草でも刈るような高速の横薙ぎを行ったのだ。
後方に飛び退く事で余裕を持って躱したが、鬼の長は休む事なら追い縋り長大な戦斧を手足の様に操り、無数の斬撃をエルに放ち続けた。
斧の刃部分の長さですら人の半身ぐらいある大戦斧が唸り上げエルに迫る。
エルは足に気を溜め、その一つ一つを注意深く距離を取って躱したが、その度に斧は触れる物全て、大地や住居を悉く砕き斬り裂いていった。
実に驚嘆すべき剛の技である。今のエルを持ってしても、その威力と無尽蔵の体力は真似できない。食人大鬼酋長は見習うべき所が多々ある偉大な戦士であったのだ。
空を裂く大戦斧が恐ろしげな音を発てながら、何度も何度も執拗にエルに襲い掛かる。袈裟、逆袈裟、右薙ぎ、左薙ぎ、唐竹とあらゆる方向から巨大な斧がエルを捉えんとした。
しかし、一撃でさえ貰う事のできない危機的状況にあっても、エルは冷静さを失わなかった。大鬼の長の卓抜した技量を尊びつつも、それでも勝つのは自分だと虎視眈々と反撃の機会を窺っていたのである。
やがて、幾ら攻め続けても攻撃が当たらないのに業を煮やした長が切り札をきった。
横薙ぎの斬撃を宙に飛ぶ事で回避したエルに向けて、やおら大口を開いたのである。
轟音と共に口から不可視の衝撃がエルに迫る。
エルは両腕で顔を覆い気の鎧を形成するも、喝撃とも呼ぶべき大鬼の不可視の衝撃弾に吹き飛ばされてしまったのである。
だが、この不可視の攻撃に似た技は覚えがある。過日手酷く傷み付けられた、棘豹竜の広範囲の衝撃波、疾風爆撃である。
加えて、初見の敵への油断する愚を悔い改めたばかりのエルは、鬼が奥の手を出してきた場合に備えて全身に気を纏っていたのである。
その甲斐あって、軽い痛みと遠くに吹き飛ばされるだけで済んだのだ。もし油断して胸に食らっていれば、動けるようになるまでにあの大斧の一撃を受け、致命傷になった可能性すらある。
しかし軽傷で済んだ。
今度はこちらの番である。
苦も無く着地を決めたエルは、全身に黒と白の気を漲らせ鬼目掛けて疾風の如く駆けた。一方の大鬼はというと、切り札で動けなくなった所に止めを刺す算段があっけなく崩れ、逆に攻め込まれてしまい戸惑いからか迎撃が少々雑になってしまう。
袈裟斬りに振り下ろされた大戦斧を斜め横に回避すると、エルは疾歩により一瞬で距離を無にして懐に飛び込んだのだ。大鎧の上からも構わず右脇辺りに左拳を突きいれ、気を流し込んだのである。
そして、その場に留まる愚を犯さずに鬼の後方に駆け抜けた。
距離を取ったエルがゆっくりと振り返ると、鬼の体が音を発てながら爆ぜた。不気味な緑の血が鎧の隙間から滴り落ちてくるが、驚くべきことに鬼の長は呻き声すら上げずにエルに反撃を開始したのである。
臓物はずたずたで酷い痛みを味わっているはずなのに、全く表情も変えず常と変らぬ斬撃を繰り返し、跳び退るエルに追い縋ってくるのだ。
誠にこの鬼は素晴しき戦士である。大きな傷を負っているはずなのに、衰える所か増々盛んに攻め続ける勇姿は、尊敬の念を抱かずにはいられないほどだ。
この極上の敵に対し、エルは今できる最高の技をもって勝負を決することにした。
唸りを上げる大斧を慎重に回避し続け、目的の斬撃がくるのを待ち受けたのである。
きた!!
上段からの唐竹割りだ。エルは半歩斜め前に踏み込みながら躱すと、武神流の基本の足捌きである回歩、そして気の移動技である滑歩を併用し滑るようにして大鬼の側面に回り込もうとした。
鬼とてただで接近するエルを指を咥えて見ていたわけではない。振り下ろした大斧をその剛力で止めると、直ぐさま横薙ぎに切り替えエルを両断せんとしたのである。鬼の力と、戦士としての比類なき技量が合わさった高速の斬撃であった。
ただ惜しむらくは、日々の弛まぬ鍛錬によって基礎の技とて疎かにせず、何千何万と反復して修練したエルの移動術の方が、僅かながら早かったのである。
横薙ぎよりも早く右脇に潜り込んだエルは、闊歩によって足を動かさずとも鬼を中心に円を描くように回り続けた。
そして、その間に両拳で鬼の体の至る所を突きまくり、気を流し込んでいった。右脇、背中、左脇と周り、無数の拳を叩き付けた鬼の正面に戻ると一気に後方に飛び距離を取ったのである。
大戦斧を振り切った体勢で止まった鬼はわずかに震えると、その後胴体が大音と共に爆散し、力を喪ったように前のめりに地に伏せたのであった。
徹気連破衝
相手の体に無数の拳を打ち込み何度も気を浸透させることで、気による内部破壊を増幅し極大の破壊を齎す技である。強靭な生命力を誇る食人大鬼酋長といえど、内臓のほぼ全てを破壊され絶命したというわけだ。
地に倒れた大鬼を念のため観察していたが、動く気配すらない事を確認すると、ゆっくり構えを解き大きく息を吐いた。暴風の如き大斧の乱舞に曝され知らず知らずの内に、精神が疲弊していたのである。あの暴虐の嵐の中を前に出る事は、エルといえど多大な勇気を必要としたのだ。
大怪我をせずに快勝する事ができたが、一歩間違えば地に伏していたのは自分であったかもしれないと想像すると、エルは思わず身震いをした。
鬼は静かに魔素になり迷宮に還っていった。現れた落し物は、エルを幾度も苦しめた暗黒輝石製の大戦斧であった。これは希少な落とし物で、クエストの依頼が出ていれば大金貨1枚にもなる高価な品だ。
歩み寄り持ち上げてみる。エルの2倍以上ある巨大な斧は重量もかなりのもので、一般人とは隔絶した力を有するエルでさえ、これを振り回すのは大変そうだ。
この武器を手足の延長の様に操った鬼の長の技量は、まさに敬意を払うのに値する腕前であった。自分にはできない事をやってのける鬼を敬いつつ、魔法の小袋に戦利品を収納すると、迷宮都市に帰還するのであった。
ちなみに協会の受付で精算してもらった所、その日一日のエルの稼ぎは大金貨2枚近くにのぼった。この階層付近の稼ぎとしては格別の報酬であった。
気を良くしたエルはアルド神官に宣言した通り、武神流の修練場で修行を行いつつも39階層に度々訪れ、食人大鬼の集落を攻めては高額の報酬を手にし、見事1ヶ月で薬の代金を稼ぎきったのである。
また、肝心のマリナもこの1ヶ月の間は、医師の処方した薬のおかげで病状が急激に悪化する事もなく、たまに寝込むことはあっても数日すれば起き上がれる状態にまで回復できた。のだ
後は治療薬の原料さえ手に入れば完治できると、心配していたリリやシェーバも明るい表情を見せるようになった。エルが大商人に材料の依頼を頼んでいたので、品薄の現状であっても少々時間が掛かっても、必ず手に入ると信じられたのだ。
物事は万事上手く行き、元気なマリナの姿がもう少しで見られるようになるかと思われた。また家族3人で楽しい生活を送れるようになるのが、もうすぐそこまで来ているかのように想えてならなかった。
だが、そんな淡い期待は朝の静寂を切り裂く少女の悲鳴によって破られたのである。




