第54話
異形の怪足、鋭利な爪と歪な無数の棘がついた巨大な亜竜の前足がエルに襲い掛かった。全身を気で強化し飛び退くで辛くも回避に成功したが、エルよりも巨大な足に叩き付けられた地面は大音と共に大きく凹み、長い爪や棘の形に抉れている。
魔物の力も然ることながら、あの爪や棘々の切れ味も目を見張るものがある。人間など容易く貫き、両断できてしまうだろう。
だが、新たな強敵こそエルの望むものである。強敵との闘いを通じて、また一歩自分が高みに昇れるのだ。爬虫類特有の長細い目で睥睨し威嚇の声を上げる棘豹竜に対し、エルは獣の如き獰猛な笑みで応えると一切の逡巡なく突っ込んでいくのだった。
大商人エピタフにレアモンスターの素材を依頼してから数日後、一気に36階層と37階層を踏破したエルは、38階層にまで足を踏み入れていた。マリナの体調もドウェル医師が処方した応急薬で少しずつ解放に向かっていた。ただし、応急薬はあくまで対処療法的なものであり、症状を抑え痛みを緩和させる働きしかない。マリナの奇病を完治させる効果は残念ながらないのだ。回復の兆しがみられても、今後また悪化し倒れる様な事態に陥ることになるだろう。結局病気を根治させるためには、レアモンスターの素材がいるのである。
そんな中、エルにできる事は非常に少ない。67階層はエルをもってしても一気に到達できる階層ではないからだ。階層が深くなるにしたがって、魔物達の強さは飛躍的に増す。エルの類稀な才能を加味したとしても、67階層に到達するにはどんなに少なくとも、数ヶ月の刻を要するであろう事は明白であった。
また、有り難い事にアルド神官が手の空いた時に67階層を探索してくれるといってくれたが、出現率がとても低いレアモンスター相手ではどれ程の時間が掛かるか予想もつかない。結局はエピタフが素材を入手するのを待つのが最も確立が高いのだ。
エルは今自分にできる事を、高騰した薬を買えるだけのお金稼ぎに専念する事にしたのだ。
エルが何故数日で迷宮を踏破し38階層にいるのかというと、実は38階層も直ぐに攻略し39階層に向かうためであった。39階層に急いで降りる理由は、ひとえにエルでもできる効率的な金策のためである。
以前にアリーシャ達、赤虎族の戦士達のパーティの参謀役であるディムから、40階層までの割りの良いクエストや希少な魔物等々、様々な有益な情報を教えてもらっていたのである。その中で同階級の冒険者の間で人気がなく、逆にエルに打って付けの金稼ぎができる場所が39階層にあるのだ。
エルは其処を目指して迷宮を踏破している途中というわけなのだ。
38階層は巨大な森のエリアである。といっても木々はそれほど密集しているわけではなく、巨大な生物でも通れる程間隔が空いており、人間よりはるかに大きい魔物であっても悠々と通れるスペースがあちら此方に点在していた。また、森には踏み固められた横幅の広い林道らしきものがあり、冒険者達は森での狩りや採取、あるいは採掘をせず攻略だけを目的とする場合は、この道を進めば転移陣に辿り着けるようになっている。ただし林道は開けているので、魔物側からしたら簡単に冒険者を発見できる。冒険者達は周囲から襲い掛ってくる魔物をいなしながら進まなければならないというわけだ。
エルは新な亜竜である棘豹竜に遭遇するまでに、何度か別の魔物からも襲撃を受けた。人間の3倍近い逞しい体躯に不気味な緑の肌を持つ食人大鬼の群れや、巨体に似合わず機敏に穴を掘り地下から毒による奇襲を仕掛けてくる大土竜鼠など、集団の利を生かした波状攻撃や未知の攻撃手段を有する魔物を相手に手酷い傷を負う場面もあった。
だが、持ち前の負けん気と痛みを負う毎に集中力を増す戦闘狂の力をもって、接敵したモンスターは須らく討伐してのけたのである。
そして今エルが相対したのは、40階層までで出現する魔物の中でも指折りの強さを有する難敵、棘豹竜である。この魔物は砂礫竜や走竜と同じく、亜竜に分類される4足歩行の魔物である。4つ足で立った状態でも非常に大きく、足から頭部まではエルの裕に3倍はある。加えて、足の長さだけでも成人男性が簡単に通り抜けられるほどである。また、足には鋭い爪と無数の長い棘がついており、特にこの棘は攻撃だけでなく敵から身を守る鎧の役割も果てしている。四肢以外の部分は黒と灰色の斑の竜毛しか生えていないので、攻撃を狙うならそちらだろう。
ただし、巨体にも関わらず俊敏な動きでエルを追い詰め、間断なく襲い来る巨大な前足を搔い潜らなければならない。エルも何度か隙を窺い腹の下に潜り込もうとしたが、この亜竜は狼の如く方向転換が速く上手くいっていなかった。エルは攻撃しあぐね、棘豹竜の異常に発達した怪足の連撃に防戦を強いられ続けたのだ。
だが、何も成果が得られなかったわけではない。防御に徹し続けさせられた事で、相手の攻撃パターンも分かってきた。エルが左右や後方に素早く飛び回るので、亜竜も攻撃するために前進しなければならない。移動と攻撃を兼ねるために横振り等の攻撃は少なく、小さな人間を捉えるために自然と前足で叩き付ける動きばかりであった。更にいえば、体重移動と体勢を整える関係からか、左右の前足で交互に攻撃してくるのだ。おそらく、右足ないしは左足で連続攻撃しようとすると、一度叩き付けた足、自分の体重が乗った足を再度振り上げる必要があるので上手くいかないのだろう。
もちろんやってやれないことはないだろうが、そのためには反対側の支えとなる前足の準備が必要だろう。つまり、左右の足での交互の連撃と片方の前足のみでの連撃する場合では、前足の動作が多少は異なるはずなのだ。
そこまでわかれば、後はあの巨大な前足に恐れず突っ込めるかどうかである。もちろん、エルは己が傷付く事を厭わずに飛ぶ込む勇気と度胸を兼ね備えていた。
激しい連撃で林道の地形を変えながら棘豹竜が、エルを仕留めようと執拗に攻撃を繰り返してくる。
エルは素早く後に飛び左前足の叩き付けを躱した。前足の動きは変わっていない。次は右足の攻撃に違いない。
期待通りに右足が浮き上がった瞬間、満を持して反撃の機会を窺っていたエルは気の力を併用した高速移動術、疾歩で一気に魔物の懐目掛けて突っ込んだ!!
しかも、攻撃し辛いように左前足の外側を通り、側面から胴に潜り込もうと疾駆したのである。
攻撃のタイミングを盗まれた事もあり、亜竜は右足を振り上げたのはいいが振り下ろす頃には側面に移動されており、虚しく地面を陥没させるだけであった。
逆にエルにとっては千載一遇のチャンスである。側面から潜り込むと、棘のない竜毛だけの腹に向かって、下から突き上げるような掌底での発剄、猛武掌を打ち放ったのだ。
エルの手には、ぶ厚い毛を通り抜け筋肉らしき固いものを叩く感触が伝わってくる。
ただし、柔らかい竜毛が衝撃を緩和したのか、亜竜の内部にはエルの攻撃が確かに届いたが、内臓を破壊するには至らなかったようだ。
それでも亜竜は腹部への大きな痛みを覚えたようで悲鳴上げ、もがき苦しんでいる。エルはさらに追撃として気を纏った拳、武人拳を下から突き上げるように腹に打ち当てた!!
気によって強化されたエルの人外の力によって、人間の数十倍もの体重を持つ亜竜が宙に浮き上がり、吹き飛ばしたのだ。
だが、逆に言えばその程度のダメージで済んでしまった。他の亜竜、例えば砂礫竜程度なら腹から背まで穿ち貫き、絶命させるのに十分な威力のある拳であるのにかかわらずだ。この柔軟で厚い竜毛は、外部からの打撃や衝撃を和らげる効果が非常に高いようだ。つまり、拳士や打撃武器を用いる冒険者にとっては、攻撃が減衰させられる厄介な相手ということになる。
それならば、エルは自分の手足を武器化させる技も修めているので、竜毛を斬り裂いて倒す事もできる。あるいは、気を相手の内部に浸透させ破壊を起こさせる、徹気拳などの荒技を用いても倒す事は容易いだろう。
しかし、エルはそれを良しとはしなかった。自分の打撃技のみで、怒り狂い血走った目で炯々と睨みつける竜を倒す道を選択したのだ。
あえて敵の土俵で打倒してこそ意味があるのだ。
そして何より、エルは己の拳を信じていた。打撃技の威力を減少させられるといっても、全て防げるわけではない。亜竜の巨体を浮かび上がらせれた事や、エルの拳に苦しみ悲痛の声を上げた事からも、その推測は間違っていない。
エルの拳は通じるのだ。ならばやることは単純だ。頼みの綱の竜毛を貫くまで、殴り続ければいいのである。エルの拳が勝つか、亜竜の自慢の竜毛が勝つかのシンプルな勝負である。
意を決したエルは、猛々しい心を表すかのような黒と白の入り混じった混沌の気を立ち昇らせると、野獣さながらの顔で笑うのだった。
棘豹竜も怒り狂っていたが、エルの恐ろしいまでの戦意を感じ取ると、幾分冷静さを取り戻したようだ。この亜竜も伊達に38階層もの下層で初めて出現するわけではない。今迄の亜竜と違いただ怒りに身を任せるのではなく、戦闘に勝つための狡猾さも備えていた。
自分の3分の1にも満たない小さな人族が、己を殺し得る可能性がある強敵だと認めると戦法を変えてきたのである。
やおら大口を開けると、半透明の視認し辛い人間大の大きな風の球を吐き出した。亜竜の奥の手の1つ、風裂球である。
エルは突撃を開始する前だったのでなんとか跳び退る事で回避が間に合ったが、地面に球が炸裂すると、無数の刃によってずたずたに引き裂かれたような無惨な状態になった。棘豹竜は自身の魔力を口内に溜め、風の刃を圧縮した珠を形成できるのだ。当たれば唯では済まないだろう。
だがその程度の攻撃で逡巡するエルではない。疾風怒濤、昂ぶる心の赴くままに亜竜目掛けて突撃を開始した。
竜は1発、2発と風裂球を連続で吐き出し接近を阻もうと試みたが、高速で目まぐるしく駆け回るエルに当てる事はできない。亜竜とエルの距離が急速に零になろうとしたその時、竜も迎撃を止めるとエルに向かって突進し出した。先程から執拗に繰り返した前足での叩き付け、ないしは飛び掛かりのを予想し、回避した瞬間に懐に潜り込もうと狙っていたエルの目の前で、突如竜は立ち止まった。
訝しむも足を止めずに駆け続けたエルが見たものは、人を簡単に丸呑みにできそうな大きな咢を開く亜竜の姿であった。
エルが視認できたのはそこまでであった。
森を劈く様な大きな爆音が響いたかと思うと、エルは体全体に恐ろしい程の衝撃を受け、暴風に曝された木の葉のように宙を吹き飛ばされ、地面に落ちた後も勢い止まらずはるか先まで転がり続けた。
ようやく立ち止まり地面に這いつくばった所で驚愕も治まると、激しい痛みを思い出す。呼吸もままならず喘ぐように酸素を求め、体の至る所から絶え間なく痛みを覚える。苦しい。痛い。
のたうち回りたくなるが、身体が真面に動かずそれさえもままならない。
ようやく呼吸が整ってきたという所に、回避も防御もできない所に亜竜からの追撃が掛けられた。半透明の風裂球がエルの身体に炸裂したのだ。
無数の刃がエルの身体を装備ごと切り刻む。防刃性に優れた猛虎の武道着や籠手のおかげである程度は防げたが、剥き出しの首や顔はあちこち切り刻まれて出血し、火傷したかのように熱さを感じる。エルから滴り落ちた多量の血が地面を紅く染めた。血の量からいって止血し回復薬を飲まなければ、そう長くは闘えないだろう。
だが、切られた痛みによって意識は逆にはっきりと覚醒した。まだ全身の痛みは残っているが、幸いにして骨は折れておらず動く事に支障はないようだ。エルは飛び跳ねる様にして一息で起き上がった。
止めを刺そうとエルに迫り来る巨竜を前にして、エルは血染めの顔でそれはそれは嬉しそうに嗤った。久方ぶりの生命の危機に瀕しながらも、死の恐怖よりも喜びが勝ったのだ。
痛みが苦しみが、驚くほどに早鐘を打ち鳴らす心臓が、自分が生きている事を証明してくれる。
そう、今まさに死ぬかもしれないという危険な状況に陥りながらも、こんなにも自分は生きているのだ!!
これほどの生への実感は生死を別つギリギリの闘争でしか得られない。
僕は今生きているんだ!!
さあ互いの生命を賭けた最後の勝負を始めよう。
エルは多幸感に包まれ獣の如き貌で嗤いながら、箍が外れた様に止めどなく気を顕現させ始めた。
そして何の逡巡もなく竜に突っ込んだ。
突進してきた亜竜がエルにぶつかる寸前で、またしても立ち止まる。先ほどと同じ攻撃を加えようというのだろう。
しかし、もうタネは割れている。いや、正確には想像が付いてる。
辺りに轟く大音。エルの全身や亜竜の前方を窪ませるような広範囲の攻撃。
そこから予想できるものとして、竜は口内に溜めた魔力を風の刃とするのではなく、衝撃波として打ち出したのだ。至近距離にいたエルは避ける間もなく吹き飛ばされたというわけだ。たしかに無作為の衝撃波は避けるのは至難であろう。
先程上手くいった事に味を占めた竜は、再度同じ攻撃を選択したというわけだ。
初見ならまだしも凡そ予測のできている攻撃を続けるという事は、エルに対抗手段はないと考えているに相違ない。
同じ攻撃がまた通用すると思ったのか!!
エルは怒り、大声で吠えた。
「僕を、武神流を舐めるな!!」
エルは大喝すると、開き始めた咢に向けて大量の気を篭めた右拳を真っ直ぐに突き出した。
するとエルの拳から気の奔流が迸ったではないか!!
烈光拳
エルの新たな技、アルド神官より授けられた気による遠距離攻撃である。黒と白の入り混じった混沌の気が棘豹竜の口内に吸い込まれると、大爆発を巻き起こした。
自分の溜めた魔力とエルの気が口内で衝突し爆発したのである。
竜は絶大な痛みに哀れな悲鳴を上げた。
その隙を逃すエルではない。足を気で強化すると腹下に潜り込むと、神の御業剛体醒覚によって身体能力を極限まで上昇させ、渾身の武人拳を下から腹目掛けて突き上げたのである。
しかも、今回は横に吹き飛ばすのではなく上に打ち上げるように、拳を地から天に向けてち真っ直ぐ突き上げたのだ。
竜の巨体が空に浮かび上がる。この竜は飛行できないので、打ち上げられた宙では何もできない。まあ実情としては、エルの凶悪な拳や口内の爆発の痛みのせいで、反撃したくてもできないというのが本当の所であったが……。
地に足が着く前に、再びエルの拳によって打ち上げられた。
何度も何度も何度もだ。
竜毛を貫き、皮膚や筋肉を穿たれ夥しい血を流し始めてもだ。ついには、拳が竜の腹に埋まり吹き飛ばせなくなっても、エルの攻撃は止まる所をしらない。
己が拳に混沌の気を纏い、修羅さながらの連撃を続けたのである。
突いて突いて、突き続けた。己の体力の続く限り、全身を返り血で深紅に染めながらエルは我武者羅に突き続けたのだ。
肉が、血が、そして臓物が飛び散り、大地に血の池を作り上げる。竜は絶叫を上げながらも、腹下に潜り込んだ人間に必死に追い払おうを試みるが、間断なく襲い来る絶大な痛みに次第に抵抗も弱弱しくなってくる。強靭な生命力が禍して、肉を穿ち内臓を砕かれても、果てしない苦しみの中生き続けたのである。
ようやく亜竜が安楽の死を賜ったのは、エルの拳が亜竜の腹を蹂躙し尽くし、背中を突き破った時であった。
倒れ伏した亜竜の傍ら、肉や悍ましい腸の飛び散った血溜まりの中、荒い息を付きながらも凶笑を浮かべるエルは、どちらが魔物かわからない様な風貌になっていた。
やがて呼吸も整い出す頃には、事切れた竜は魔素に戻り迷宮に還っていく。エルは己の拳で強敵を降した喜びと興奮に震え、天高らかに雄叫びを上げ勝利の余韻に浸るのだった。
一休みした後は、青臭い苦味の強い回復薬をがぶ飲みして傷を癒すと、先程まで共に死闘を演じてくれた亜竜に感謝しつつ落し物を拾い、一路転移陣を目指した。
それ以降も林道を歩いていると、何度も魔物達の襲撃を受けた。苦戦を強いられた棘豹竜にも遭遇する事もあった。
しかし、魔物達の攻撃を己の身体をもって、文字通り身を持って体験し糧としたのでそうそう同じ技は通じない。初見では危ない場面もあったが、2戦目以降は危なげなく倒してのけたのである。
この亜竜よりも弱い食人大鬼や大土竜鼠では言わずもがな、エルは圧倒的な強さを見せつけ殴殺するのであった。
深い森を練り歩き、ようやく39階層への転移陣に辿り着いたのは、陽が今しも地面に隠れそうになった時の事である。回復薬や外気修練法によって肉体や精神力を回復できても、さすがに疲労は治らない。疲れた体を気力で無理矢理動かしながらも、色々と為になる1日だったと、反省と教訓を胸に満足そうな顔で迷宮都市に帰還するのであった。




