第40話
迷宮都市アドリウム、その住居区画の一画に設けられた金の雄羊亭は、迷宮に潜り魔物からの戦利品や迷宮の恵みである、鉱物や動植物を協会に卸すことで生計を立てる冒険者専用の宿である。3階建ての宿は、一階が食堂と主であるシェーバやその娘のリリが暮らす私室に簡単な風呂場が備え付けられてある。2階と3階はそっくり冒険者用の部屋で、30名近い人数が泊まることができる広さがある、この都市でも中堅処の宿といってもいいだろう。
宿の主人であるシェーバの方針で新人や下位冒険者向けのお手頃価格の料金であり、加えて大通りに面していることもあってか、いつも大勢の冒険者で賑わいを見せている。
冒険者稼業は命懸けであるがそれに見合った報酬の得られる、ハイリスクハイリターンの博打的要素のある仕事である。ふとした油断、あるいは不運にも名持ちや変異種といった強敵に遭遇してしまい命を落とす冒険者は後を絶たない。
だがそれでも、食い詰めやその生まれから何の将来の展望も望めない者達にとっては、成上りの機会を得られる数少ない手段が冒険者になることである。新人を卒業したばかりの下位冒険者の1ヶ月の収入でさえ、一般市民の年収に匹敵する稼ぎが得られるのだ。たとえ自分の命が賭けなくてはならなくとも、今の境遇よりはと一縷の望みを託し、多くの者が淡い夢を頂いてこの都市に訪れるわけである。
冒険者を長く続けたいのであれば、堅実さと謙虚さを持つ必要がある。無茶や無謀の代償は、己と仲間達の命である。例え手足の欠損や内臓に損傷を負ったとしても運良く助かれば、生命の女神や大母神の高位の術者の魔法なら肉体を再生させることも可能である。
もっとも、命の危機に晒され恐怖や、体の一部を失う苦痛は生半可なものではない。肉体は完治しても心因的病に懸り、冒険者を続けられなくなってしまうこともよくある話だ。魔物との闘いというふるいに掛けられ、思慮の足りない者達は次第に淘汰され、慎重な者のみが冒険者という因果な職業を続けることができるのである。
命を落とす冒険者は無くならない。この都市に訪れるまでに事前に訓練を受けたり、冒険者について知識を得られる者はまだ幸運だ。不幸な身の上の者ほど新人のまま、下位冒険者になる事も叶わずその身を迷宮に捧げる場合が多い。協会が無料の講習や武器の扱い等の訓練を行い、必死に冒険者の死亡率の引き下げようと努力しているが、中々成果が得られていない。
そのせいもあってか、この金の雄羊亭の冒険者の入れ替わりも日常的に見受けられる。心身の回復を早める魔法の寝具等がある高額な宿や別の宿に移動するならまだいいが、迷宮で非業の死を遂げる冒険者が多いことも厳然たる事実なのである。
朝も早くからこの宿の看板娘であるリリは、せっせと一階の食堂の掃除を行っていた。リリは宿に泊まった冒険者達に気分良く迷宮に出発してもらおうと、食堂を清潔にしておく事を常に心掛けているのだ。
リリは母親譲りの自慢の亜麻色の髪を、淡い桃色の蝶が付いた髪留めで後ろで一纏めに括り、小柄な体を忙しなく動かしながら機敏に清掃を行っていった。昼や夜の書入れ時は店員を雇うが、それ以外はリリと両親で宿の雑用をこなしているのだ。母親が病弱なこともあってかリリは小さな頃から父シェーバを助け、一階の清掃や料理の配膳等の仕事を手伝っていたのでかなり手馴れており、ほどなくして汚れやごみを取り終わった。
季節は夏真っ盛りである。早朝だというのに気温も高く、身体を動かしたせいか軽く汗ばんでいる。日中は陽の下に出るのが嫌になるくらい暑くなるだろうと取り留めもない事を考えていると、誰かが降りてきたようだ。
こんな早い時間から起きてくる人物は限られている。
数ヶ月前からこの宿に滞在している少年、エルである。リリより少し高い中肉中背の黒髪の少年で、年も二つ上と近い。話してみると気が合いすぐに打ち解け、友達付き合いをしている冒険者だ。普段は少々抜けているというか頼りない所もあり、世話好きのリリがついつい口を出したりこともある、どこにでもいそうな純朴な少年である。
だが冒険者としては有望なようで、出会って4か月程度で既に3つ星、迷宮の30階層まで踏破する実力を有する新進気鋭の冒険者である。他の冒険者達に話を聞いてみると、口を揃えてエルは期待の新人だと答えるほどだ。
この童顔の少年は、見た目に反して冒険者としての高い資質を有しているのだ。
まず、修行好きで自分を鍛えることが苦にならず、むしろ己が強くなることや新しい技を修得することが大好きらしく、迷宮に探索に行かない場合はほとんどの時間を自己の研鑚に充てている。
また、他の冒険者達から聞いた所エルは非常に好戦的で、魔物との戦闘を繰り返してもあまり疲労しないという稀有な性格の持ち主である。特に強敵、あるいは自分が何か見習うべき部分がある魔物との闘いは精神は高揚するようで、戦闘後は肉体的に疲れはあっても心は全く疲弊した感がなく、それ所か直ぐ様新たに戦闘を行えるほど充足した様子を見せるそうだ。
宿でのエルは穏やかでとても魔物との戦闘が好きな少年には見えないが、将に人は見掛けによらないとはこのことだろう。
そんなことを考えていると、エルがにこやかな笑顔で挨拶してくる。
「おはよう、リリ。
今日も朝早くからお疲れ様」
「おはよう、エル。
いつも通り早いわね。
今日は食べたら直ぐに迷宮探索?
それとも武神様の神殿で修行かしら?」
「うん、今日は一日中ずっと神殿の修練場で修行さ。
3つ星になった褒美として、アルド神官から新しい技を教えてもらえることになってるんだ」
エルは喜色満面の顔で嬉しそうにリリに報告した。その様は玩具を与えられた子供のようである。朝食を食べたら待ちきれないとばかりに神殿まで駆け出しそうな勢いだ。
リリより年上のはずであるが、こういう様を見せられるとまるで弟と接しているような気分にさせられる。
まったくしょうがないんだからと、心の中で感想を漏らすとリリはくすりと笑った。
「じゃあ、今日も一杯食べて精を付けなくっちゃね。
昼食もいつものように準備していいかしら?」
「うん、お願い。
シェーバさんには砂礫竜の肉を大量に渡してあるから、それで何か作ってくれるように言ってくれないかな?」
「わかったわ。
それと朝食はいつも通り大盛りね?」
「うん、いつも通りでお願い。
お腹が空きすぎて、ぐーぐー鳴り出しそうだよ」
「はいはい、父さんに大至急作ってもらうからちょっと待っててね」
エルの返答に苦笑すると、リリは炊事場で仕込みをしているシェーバに本日発の注文を足早に届けに向かった。
そして待つこと暫し、大量の食事を持ってエルの座っているテーブルに向かう。亜竜の肉をふんだんに使ったサンドイッチである。砂礫竜の肉は表面にうっすらとパン粉で覆われ、じっくりと油で揚げられており湯気が立ち昇っている。さらにシェーバ特性の甘辛いタレが味を引き立てている。
リリがテーブルにサンドイッチを置くと、お腹が空いていたエルはリリに礼を言うと貪るように食べ始めた。
それは、見ている方が惚れ惚れする喰いっぷりであった。リリではこの半分、いや3分の1も食べきれない量だが、次から次へとエルのお腹に消えていった。冒険者は身体が資本であり激しい戦闘を繰り返すので、必要とする食糧も多い。中でもエルは修行か迷宮の探索をほぼ毎日に行うので、食事も大量に必要となるのだ。
本人に聞いた所、田舎にいた頃はここまで食べなかったという話なので、冒険者という仕事が如何に消耗が激しいのか物語っている。まあ、エルはまだ子供であるので肉体が成長するであろうし、加えて迷宮での戦闘後に魔素を吸収し心身が強化されるので、エルの身体が成長するために食物を要求していることもあるのだろうが……。
それにしても本当に感嘆すべき食べっぷりである。
まだ早い時間でありエルしか客がいないこともあって、リリはエルの隣に腰を下ろし頬杖をつくと、静かにエルの食事を見つめた。エルのやる気と活力に溢れた生き生きとした様は見ていて心地良かった。傍にいるだけでなんだか自分もやる気が満ちてくる気がする。それにエルの健啖ぶりも嫌いではない。あまり食べてもらえないよりは、こうして気持ち良いくらいに食べてもらった方がずっといい。
それに加えて、こうして美味しそうに食べてもらえるのは、料理を出す側としてはとてもうれしいものだ。リリはにこやかな笑みを浮かべながら、エルの食事が一段落するのを見守るのだった。
「ふぅ、おいしかった。
後でシェーバさんにおいしかったって伝えておいてくれないかな?」
「ええ、伝えておくわ。
父さんも喜ぶと思うわ」
エルは勢いよく水を飲むと喉をごくごくと鳴らしながら飲み込んだ。
リリでは食べきれない量も、エルにとってはまだまだ余裕があるのだろう。お腹がきつい様子は微塵も感じられないし、若干食べ足りない様子が見て取れる。
すぐに修行があるので、食べ過ぎて動きに支障が出てては情けないと思っているのかわからないが、何か一人で自己完結して頷く様な仕草をしている。その仕草が可笑しくてリリは笑みを濃くした。
「ねえ、エル。
修行や迷宮探索もいいけど、たまには休みなさいよ」
「うっ、うん。
みんなから言われているんだけど、つい楽しくてね」
リリからの注意に、エルも自覚があるのか焦せりながら答えた。
この少年の欠点は修行と魔物との闘い以外、つまり自分の興味があること以外が非常におざなりになることだ。エルの夢、自分の身一つで伝説に名を残す敵を打ち倒すという夢のせいで、エルは一人で迷宮に赴くことがほとんどである。
リリもエルの夢を否定するつもりはないが、もう少し安全に気を使ってもらいたいという気持ちもあった。特に迷宮は不測の事態が起こり易く、冒険者の命が危険に晒されることも多々あるのだ。エルは闘いが苦にならないので疲労も少ないだろうが、それでも少しずつ疲れも蓄積していくだろう。たまには休憩してリフレッシュし、心身を万全な状態に保ってもらいたい。
リリは今迄に何度も辛い別れを経験している。
だが、この清々しい青空の様な笑顔の似合う友人との別れは経験したくなかった。エルと会話し共に過ごす時間が増えるのつれ、いつのまにかエルの存在は徐々にリリの中で大きくなっていたのだ。
「そうだ、今度私の休みの時に遊びに行こうよ。
エルの休みを兼ねてね。
ねっ、いいでしょ?」
「そうだね。
しばらく休んでいなかったし、ちょうどいいかな」
リリの提案に頷くエルに、リリは花咲く様な笑顔で安堵した。エルは周りから何か言われないといつまでも休憩を取らないので、ついこちらから理由を作って休ませようとしてしまう。見ていて放って置けないのだ。
まあ、エルとの散策は好きなので、自分の気晴らしにもなってちょうどいい。次の休みが楽しみになってきたと、リリはわくわくして自然に笑みが浮かんだ。
「それじゃあ、約束よ。
忘れないでね?」
「もちろん忘れないさ。
久しぶりにリリと遊びに行くんだからね
楽しみにしているよ」
「よろしい」
リリが少し偉ぶって仰々しそうに頷くと、エルは可笑しそうに笑った。
朝から気分がいい。今日は良い一日になりそうと、リリも愉快そうに声を上げた。
「さーて、それじゃあ神殿に行こうかな。
シェーバさんはもう準備できているかな?」
「大丈夫よ、父さんは仕事早いからね。
エルは入口の所で待ってて。
すぐ取って来るからっ」
「うん、わかったよ。
リリ、ありがとう」
リリはエルの謝辞を受け取ると、エルの食べた食器を持ちながらシェーバのもとに向かった。そして、既に準備してあったエルの昼食を受け取ると、エルの待つ宿の入り口に小走りで急いだ。
「はい、エル。
いってらっしゃい」
「ありがとう、リリ。
それっじゃあ、行ってくるよ」
「ええ、頑張ってね」
エルは笑顔で頷きリリから昼食を受け取ると腰の魔法の小袋に詰め、武神シルバの神殿に向かって歩き出した。
まだ朝も早く、大通りでも人は疎らだ。その中をエルが颯爽と歩いていく。体中からやる気が滲み出している。きっとリリから見えなくなったら走り出すに違いない。
リリは可笑しそうに笑いながら、エルが見えなくなるまで手を振って見送るのだった。




