第29話
始まりは不意の静寂だった。
今まで戦闘中でも鳥や虫達の声が無くなることはなかったのに、突然に無音の世界が訪れたのだ。
まるで何かから必死で見つかるまいと、息を殺し己が存在をひた隠そうとしているかのようだ。尋常ではないなにかが起きていることは間違いない。
エルの身にも、先程から虫の知らせにも似た警鐘がひっきりなしに伝わってくる。エルの細胞全てが一刻も早くこの場を離れ、全速で逃げろと叫んでいる。亜竜である砂礫竜や15階層の守護者と対峙した時でさえ本能が警告が発することはなかったというのに、エルの微かに残っている野生の勘が特大の危険が近付いていることを知らせていた。
「みんな、急いでここから離れよう。
何か僕たちでは敵わないものが近付いて来ているみたいだ!!」
休憩していたエレナ達もエルの切迫した様子に、一気に緊張の度合いを高めた。
だが、何か異常事態が起きていることは理解したが、エルほど危機を感じていないせいか臨戦態勢を取ったが、エルの言葉を半信半疑に受け取ったようだ。17階層の魔物達を闘い続け、傷は負っても危なげなく勝利を得たきたことが自信に繋がり、例え傷物や名持ちが現れても勝てるという自負を持たせてしまっていたのだ。
通常なら彼らの態度に誤りはない。もし名持ちに襲われたとしても、このパーティなら対処できるという判断にはエルも同意するところだ。
だが、今はそんなものよりもっと恐ろしいなにかが近付いてきているのだ。エレナ達のもどかしい対応に、エルは声を荒げて説得しようとした。
「みんな、真剣に聞いてくれ。
急がないと間に合わなくなると・・・・・・」
エルの本能が告げる危機を仲間達に分からせようとする間に逃げる機を逸し、終わりがやってきた。
無音の世界の沈黙を破ったのは、林道から悲鳴を上げて駆けて来る1人の冒険者の姿であった。狭い道からエル達が休憩を取っていた、比較的視界が良好で襲われても対処し易い開けた場所に、追剥にでも襲われたのか武器や防具も持っていないみすぼらしい姿の男が大声を出しながら、こちらに向かって走って来る。
エルの脳に特大の警鐘が鳴り響いた。この冒険者は何かおかしい。悲鳴を上げるにしても、エル達を発見する直前からわざと上げ始めたような不自然さがある。普段の騒がしい森と違い、先程までは静寂が支配する世界だったのだ。今の様な大声を張り上げていたなら、もっと遠くからでもわかっただろう。
それに・・・・・・、この冒険者はつぶさには解らないが普通とはどこか違う所がある。執拗に危機を知らせてくる肉体に焦燥感を募らせながら、駆けて来る男を食入る様に凝視しているとようやくわかってきた。
目だ。この冒険者の瞳は濁っており、正気というより生きている人間のする様なものではない。
冒険者は壊れた人形の様なただ悲鳴を上げ続け、こちらに迫ってくる。もうすぐ先頭に立つドーガの傍まで来てしまう。エルは大声で叫んだ
「近付くな!!
ドーガさん、そいつを近寄らせちゃ駄目だ!!」
ドーガもこの冒険者に不審な点を感じていたのか、大盾を構え斧槍を突き出して警告を発し、近付かせまいとした。
だが、冒険者はドーガの態度などお構いなしだ。突き出された槍などまるで眼中にないかのように真っ直ぐドーガに向かって駆け、自らの腹を斧槍に突き刺さしたのだ!!
予想もできない事の成行きにドーガも含めてエル達は茫然としていると、急激に冒険者の腹が膨張すると、突然破裂した。
臓物を撒き散らし、激しい異臭を放つ黄色い体液と醜い腸をぶちまけ悍ましい姿を晒した。しかも、冒険者の体液は恐ろしい酸でもあったのか、ドーガの斧槍や大盾が見る見るうちに溶け出したではないか。
鼻に衝く異臭と酸鼻に堪えない光景にエレナやラナから悲鳴が上げると、どこからか野太く甲高い不気味な声が辺りに響いた。
「あらあら。
私の可愛い肉人形を壊したのは誰かしら?」
生理的に受け入れられない気色の悪い声を響かせ木々を薙ぎ倒しながら現れたのは、己が禍々しさを少しも隠そうとしない山の様な巨大な骨の魔であった。全身が白骨と内臓のみであり、上半身が人で下半身が蛇の半人半蛇、いや頭蓋骨に角があるので半鬼半蛇で、背中に役に立つの不明な羽のない翼骨だけを有するあまりにも大きな化け物だった。骨の合間から醜く変色した臓物が顔を覗かせ、エルよりも巨大でどす黒い心臓が、凶々しい存在を主張するかのように力強く脈動している。頭蓋骨には目と舌は残っており、こちらを遊び道具としか思っていない狂気を宿した不気味な瞳に、血の色そのものの様な真っ赤な舌がちろちろと動き、顎がカタカタと笑い声のような音を立てている。伝説の中に存在する魔物達と比較しても遜色のない、強大で醜く恐ろしい化け物であった。
警告の正体はこの魔物であることをエルは即座に理解したが、なぜこの様な途方もない魔がこんな上層にいるのか理解できなかった。闘わずとも身体が分かっていたようにその惨憺たる姿を見ることで、彼我の実力差は絶望的な開きがあることを改めて悟った。冷や汗が滝の様に流れ出て恐怖に竦みそうになるのを、エルは気力を振り絞ってじっと堪える。エレナ達も恐怖で凍り付いて、固まったように動けないでいる。
「ここにも可愛い肉人形がいっぱいいるじゃない。
さあ、私と遊びましょう」
「おっ、お前は何だ!!
どうしてこんな浅い階層にいる?」
寡黙なドーガが恐怖を振り払うかのように、悲鳴に似た大声を上げた。
その様が面白いのか骨を軋ませ不気味な音を立て、魔物は鷹揚な態度で答えた。
「その可愛い態度に免じて答えてあげるわ。
私はデネビア。
這いずるモノどもの王にして、邪しまなる神々に仕える魔神の1柱よ。
ふふふっ、私に会えたことを光栄に思いなさい。
普段はとおっても深い階層にいるから中々会えないのよ。」
魔神デネビア、それがこの魔物の名前らしい。本来なら魔神と言われても肯定することなどありえないことだが、デネビアのおぞましい姿に反発を覚える所かむしろすぐに納得がいった。伝説や英雄譚に登場する魔神の姿も、眼前に泰然と佇むこの禍々しい魔物のような姿であったからだ。
「その魔神が何故こんな浅い階層にいるんだ?」
「この迷宮は聖なる神々だけでなく全ての神々、そう、邪なる神々も力を合わせてお創りになられたのよ。
だから私の様な邪神の眷属の中でも最上級の魔は、特権としてある程度階層を自由に行き来できるのよ」
「うっ、嘘よ!!
貴方の様な魔神がこんな上層に現れたなんて聞いたことないわ」
エレナの激しい否定の言葉を受けて、心底可笑しそうに不愉快極まりない声で大笑いすると、新しい玩具を見つけた子供の様に目を不気味に輝かせて魔神は答える。
「そうね。
普段は聖なる神々の目もあるし、こんな所まで出向くことは本来なら不可能よ。
でも、邪なる神々との対立が激しくなる時は狙い目でね、こうして監視の目を搔い潜って少しの間だけど遊ぶこともできるのよ」
「うそっ・・・・・・」
エレナは現実を受け入れたくないように頭を振り項垂れた。
だが、凶悪なる魔神が目の前に立ちはだかっているのは厳然たる事実である。現実は非情であり、今まさに全滅の、深刻な生命の危機に陥っているのだ。魔神が気まぐれに会話に付き合ってくれているが、少しの間だけ遊べると言っていたので時間制限があり、突如会話を打ち切りその禍々しい腕を解き放って、絶望を振り撒いてくる可能性が高い。
絶大なる恐怖を味わいながらも、エルは必死に打開策を模索していた。
まず勝つことは不可能であることは心も身体も理解している。
逃げることは可能だろうか。その場合は機動力がずば抜けて高いエルは生き残る可能性が高いが、ドーガやラナなどの足の遅い仲間は犠牲になる可能性が高いだろう。
結局タイムリミットが本当がどうかわかないが、仲間達と共に生き残ることを目指すなら、できるだけ会話を長引かせ戦闘が開始しても回避や逃げに徹するしかないだろう。それほど魔神と自分達の力量差は大きく、生存に向けて一縷の望みを託すしかなかったのだ。
会話が途切れ沈黙が訪れると、魔神が動き出すか気が気でないエルが強引に質問を行った。
「這いずるモノどもの王ってどういう意味ですか?
あなたの様な恐ろしい魔神なら伝説に聞いてもおかしくないのに、今まで聞いたことがないんです」
「あらっ、良い質問じゃない。
私は動死体や食屍鬼、悪霊や群体死鬼などの昏き地を這いずり生者の生命を欲する、不死者達の王よ。
それから人間達の伝説なんて知らないけど、私に会った人間で生き残れた者なんていないから、聞いたことないのは当たり前じゃない」
甲高い声が癇に障る。エルは吐き気を覚えながらも、デネビアから得られた情報を頭の中で整理した。不死者の王ならもしかしたらエレナの聖属性の攻撃が効く可能性もあるかもしれない。もっともこれは逃げ切れなかった時の最後の手段だ。闇雲に突撃して効かなかった場合は死が待っている。
「それから」
「もういいわ。」
エルが新たに質問しようとしたところを魔神に遮られた。濁った狂気を映す瞳がエルを射るように見つめてくる。
まずい。こちらの意図が気付かれたのかもしれない。
「貴方は頭が良い子ね。
私から聞き出した情報を基に、時間切れになるまで少しでも時間稼ぎがしたかったんでしょう?
でも、だーめ。
この階層に来てから大分遊んだから余り時間がないの。
さあ、可愛いお人形さん達、私を楽しませてちょうだい」
魔神は一方的に戦闘開始を宣言すると、蛇骨と腸が詰まっている下半身を高速でうねらせ急速に接近すると、巨大な骨の腕をドーガに真上から叩き付けてくる。
エルが予想していたよりずっと早い動きに仲間達も動き出そうとするが、致命的なほどに初動が遅い。
ドーガは避ける間もないので大盾で攻撃を受け止めようとしたが、盾ごと地面に押し潰され、一瞬でもの言わぬ骸と化した。それは、生前のドーガの姿を思い起こすことのできない、圧縮され大量の血を周囲に撒き散らし、腸を飛び散らせるだけのただの肉塊であった。
「ドーガ!!」
「ドーガさん!!」
一撃、そう魔神が何の気なしに放った攻撃は、パーティの中で最も防御力の高いドーガをもってしても何の抵抗も許さず圧死させたのだ。気を籠めた猛虎の道着でも受け止めることは叶わないことが容易に想像できる。予想通りの、いや予想以上の絶望的な状況である。
ドーガとは先ほどまで談笑していて、お互いの身の上話を交わしていたのだ。懇ろの女性がいて結婚を申し込もうと思っていると、恥ずかしそうに頭を掻きながら照れて小声でしゃべるドーガの姿が、まだ瞼に焼き付いている。エルは、あまりに唐突過ぎるドーガの理不尽な死を受け入れることができなった。ただ辺りに、エレナやラナの絶叫だけが虚しく響いた。
「あらあら、もう死んじゃったの?
もう少し頑張ってくれなくちゃ、張り合いがないじゃない」
呆れた風にデネビアが不満を口にする。人を玩具としか思っていない不遜な物言いに、頭に血が昇り怒りが込み上げてくる。
激昂の赴くままに突撃したいのを必死に我慢し、生き残りを賭けた策を練る。防御は不可能だ。攻撃を逸らすことも、失敗した場合は死が待っているのでリスクが高すぎる。やはり回避に徹するしかないが、魔神の攻撃が早過ぎるので攻撃を避けられるのは、疾歩や迅歩などの高速移動術を修めているエルしかできないだろう。しかし、エルにしても1つでも攻撃を避け損なえば即死である。
絶体絶命の状況である。だが、仲間達と生き残るにはエルが注意を引いて、時間切れという細い糸に縋るしかない。エルは覚悟を決めると両掌から連続で気弾を放ちながら飛び出し、あえて仲間達から離れて魔神の気を引くことにした。
「みんなは回避に専念して」
大声で仲間達に指示を出しながら距離を取る。エレナ達も不意の行動に驚いたようだが、エルの意図を察したのか大声で了承すると、いつでも動けるように準備した。
魔神はエルの気弾を避ける素振りも見せない。着弾して気弾が爆発しても、愉快そうに笑い声を上げている。エルの攻撃など躱す必要などないということだろう。
それどころか、粋の良い新たな玩具を見つけとばかりに気色の悪いで嬉しそうに話し掛けてくる。
「元気な坊やね。
今度はあなたが遊んでくれるのかしら?」
「そうだ。
僕が相手だ」
「そう、それじゃあ楽しませてちょうだい」
先程と同じようにデネビアの巨大な腕が無造作に振るわれた。
エルを押し潰さんとする1撃は早く、魔神の剛力をもって恐ろしい威力を秘めていた。エルは足に気を貯め、疾歩によって大きく距離をとって回避する。
エルよりも大きく太い骨の手が大地に衝突すると、地が拉げ轟音と共にかなり離れた位置に跳んだエルをも揺らした。
続いて返しの反対の腕が飛んでくる。これも虫を叩き潰そうとするかのような、上方からの振り下ろしだ。当たれば即死に繋がる致命的な一撃を、神経をすり減らし多大な集中力をもって大きく跳躍しながら回避する。エルの先程までいた地はもはや原形を止めず、激しい音と共に魔神の手の形に陥没した。
「あらあら、上手に避けるじゃあない。
じゃあ、これなんてどうかしら?」
魔神は嘔吐を催す声で可笑しげにしゃべりながら、腰を捻り背中の羽のない翼をエルに向けた。すると、膨大な数の翼骨がエルに向かって飛び出したのだ。
大きく鋭く尖った骨がエルに脅威的な速さで迫る。しかも、あまりに広範囲な攻撃でエルの移動術でも安全地帯まで抜け出せない。加えて、当たれば一溜まりもないだろう。だが、ここでエルが致命傷を負ったら、次は仲間達が呆気なく殺されてしまうことは間違いない。そうならないためにも、エルは決死の覚悟で迫り来る骨の大群を回避することにした。単純な気の運用による移動術だけでは、この嵐の様な攻撃を避けることは不可能だ。この猛威を避けるには、今までの修行の集大成が必要だ。
エルはまず大きく疾歩で横に飛び退くことで、広範囲に襲い来る翼骨の中心部から外れた。それでもまだエルに向かって飛んでくる無数の巨大な骨を、足の裏に氷に性質変化させた気で覆い、全身から気を射出することで急激な方向転換と高速移動を行った。
滑歩と迅歩の組み合わせによる、高速移動術である。アルドに一度だけ見せてもらった高等技を、死神が地獄の鎌を振るうような骨の嵐の中で、エルは凄まじい集中力と意志力によって成功させたのだ!!
嵐が過ぎ去った後は、膨大な数の大骨が大地にその身を半ばほど埋めて突き立っている。翼骨の威力は戦線恐々するほどで、回避できなかったらやはり致命傷を負ったことは間違いない。
デネビアはエルが回避できるとは思ってなかったようで、濁った瞳を一際大きく見開いて驚いている。
「すごいじゃない。
私の翼骨を回避するのは難しいのよ。
坊やは賢い子だと思っていたけど、戦闘能力も優れているのね。
でも、坊やのお仲間はどうかしらね?」
「まっ、待て」
「だーめ」
エルの必死の静止も嘲笑い拒絶すると、無慈悲にエレナ達に無数の翼骨を撃ち放った。
それは虫けらを甚振るのが大好きな畜生の笑みであった。
エルが土壇場で高等移動術を駆使してなんとか回避した、圧倒的広範囲に破壊を振り撒き、絶望的に凶悪な骨の嵐である。
絶叫と破壊の音が辺りに木霊した。
何とか無事でいてくれと、神に祈るエルに対して現実は残酷なほどに非情であった。
エレナは腕や足から夥しいほど出血し、セイは右腕が肘から先が無くなっている。
そして……、ラナは翼骨が胸を貫通し絶命していた。
穏やかで柔和な笑顔が印象的で、エルのことを弟ができたみたいでうれしいと喜んでくれたラナが、その命を儚く散らしたのだ。
知らずエルの口から絶叫が漏れた。
「ふふふっ、また肉人形が壊れちゃったわね。
やっぱり期待できそうなのは、この坊やくらいかしら?
もっと頑張ってくれなきゃ駄目じゃない。
張り合いがないわねぇ」
デネビアは巨体を器用にくねらせ、失望したとばかりに肩を竦めてみせる。
自分が攻撃しておいて何をほざくか!!
身の内の怒りを抑えきれず唇を強く噛み過ぎて、エルは口から血を滴らせた。
目の前の悪魔は人間を殺すことに快楽を覚える、エルが初めて出会った明確な悪であった。
悪に立ち向かえる力のない自分が憎い。エルは生まれて初めて心底力を渇望し嘆いた。
しかし、現実はいつだって無常である。
突然自分の秘めたる力が目覚め、悪を打ち滅ぼすなんてことは起こりはしない。ましてや、神が手助けをして魔神を葬ってくれることなんて起きるわけがない。御業を与えてくれはするが、ただ神々は天空に座し人間の営みを見守っているだけだ。
セイもエレナも苦痛に呻いている。エレナの方は足もやられているので歩くのもきつそうだ。真面な状態なのはエルしかいない。
もはやこれまでか・・・・・・。
絶望がエルの心に押し寄せる。
だが、気の良い仲間達だけでもなんとしても助けたかった。エルは自分を叱咤し、エレナ達を助けるためにどんなにか細い希望にもしがみ付いてみることにした。
「なあ、デネビア。
頼みがあるんだ。
この2人を逃がしてくれないか?」
「今さら命乞い?
だーめよ。
私が楽しめないじゃない」
「その代り僕が残ろう。
お前がこの2人を逃がしてくれるなら、この場に留まり闘うよ」
「エル!」
「エルくん!」
仲間達から大声で静止の声が掛かる。
魔神も突然の提案に驚いたようだが、すぐに底意地の悪い顏になるとエルの提案を一蹴しようとする。
「別にあなたの取引を受けなくても、この2人を殺してからあなたと遊べばいいだけじゃない。
私がその取引を受ける理由がないわ」
「デネビア、この2人じゃ遊び相手にもならないことをわかってるだろ?
お前を満足させられるのは僕だけさ。
でも、もしこの2人を殺されたなら、僕は闘わず全力で逃げるよ。
戦闘と鬼ごっこ、どっちが好きなんだい?」
今度は魔神が沈黙して考え込んだ。この階層は木々が多く、巨体の自分の動きを阻害するが、この矮小な人間なら問題なく動けるだろう。先ほど少年が見せた気の移動術を使われたら、逃げられる可能性も万に一つあるかもしれない。それでは興醒めもいい所だ。デネビアは、この少年が顏を絶望に染め苦悶の声を上げながら死ぬ様が見たかったのだ。それはこの宴の最後を飾るのに相応しい凶事だろう。
しかし、この取引が嘘で逃げられては意味がない。
「あらっ、そんな提案しておいて足手纏いがいなくなったら、坊やも逃げる積りじゃないかしら?」
「もちろんそんなことはしないさ。
お前が約束を守るなら、今此処で僕が信望している神、武神シルバに誓いを立ててもいい」
「じゃあ、今すぐ誓いなさい。
そうしたら、雑魚は見逃してあげるわ
優しい私に感謝しなさい」
「ああ、受け入れてくれて感謝するよ。
もし魔神ゼネビアが僕との約束通りにエレナとセイに手を出さず見逃すなら、僕はこの場に留まり逃げずに戦うことを我が神、武神シルバの名にかけて誓う!!」
エルの宣契の言葉を聞くと、魔神は不気味な凶笑を辺りに響かせた。
エルは自分の神に誓ったのだから、魔神が約束を守ったならこの場を逃げられない。デネビアの要望通りの状況になったという事だろう。だが、それはエルにしても希望通りの状況だ。これで何とか2人だけでも助けられる。自分が生き残れるかは絶望的だが、それでも足掻くしかない。
エルは2人の笑い掛けた。
「さあ、2人とも逃げてくれ」
「でもっ、あなたを残してなんて……」
「そうだ、僕たちはほとんど死に体だ。
君が逃げた方がいい」
「いいや、あいつは僕を決して逃がさないよ。
一番遊べるオモチャである僕をね。
だから取引も成立したのさ。
さっ、早く行ってくれ」
「でも……」
「早くしないと苛立った魔神が取引を反故にするかもしれない。
転移陣に戻って、なるだけ早く救援を呼んで欲しい。
僕も長く持たせられるとは思っちゃいない。
僕の命の炎が消えるまでに助けを呼んできて欲しいだ。
さあ、早く行って!!」
渋る2人に逃げ出す理由を付けて追い出す。
「辛い役を押し付けてごめんね。
必ず援護を呼んでくるからね」
「死に急ぐなよ。
必ず戻るから」
2人は何度もエルを振り返りつつ林道に消えた。最年少の少年を地獄に残して去らねばならない、自分達が情けなく悔しかったのだ。
エルは彼らが見えなくなると魔神に向き直った。デネビアは心底呆れたいるようだ。
「やっと終わったのかしら。
ほんと、人間のお涙頂戴劇なんてくだらないわねぇ」
エレナ達はエルと二度と会えない可能性も考慮したから別れを渋ったのである。まあ、魔神に人間の心の機微を講釈したとしても、理解できるわけがないとエルは嘆息した。目の前の悪魔は悪意の塊である。人の苦しみ嘆く様が喜びなのだ。
「待たせて悪かったな。
約束通り僕は逃げない」
「ええ、遊びを始めましょう。
折角お仲間を逃がしてあげたのだから、簡単に壊れないでちょうだいね」
そう言うと、デネビアは虚空に無数の暗黒の玉を浮かべた。魔神の高位魔法なのか、詠唱することなく魔法球の数がどんどん増えていく。
そして、不規則な動きでエル目掛けて飛んでくる。もとよりエルの選択肢は回避の1択しかあり得ない。どの攻撃を貰っても致命傷になる可能性が高いからだ。
細心の注意を払って無数の暗黒球を大きく躱していく。魔神の暗黒の魔法は地にぶつかると球と同じ体積の土を消滅させて消え去った。どうやらこの魔法は触れたものを消滅させるようだ。邪神の眷属の高位魔神の見せる凄惨で脅威的な威力を誇る魔法だ。1つでも当たらないように気を付けねばならない。
エルが魔法の威力を目の当たりにして肝を冷やしていると、数多の消滅魔法が襲い掛かってくる。エルは己が持てる技術を駆使して、死に物狂いで回避を行った。
暗黒球が当たると大地がどんどん消滅し、地面に無数のクレーターを形成していく。エルが恐ろしい魔神の魔法を極度に神経を摩耗させなんとか躱しきった頃には、美しい森が穴だらけの不毛の地に変貌を遂げていた。
エルの息もすっかり上がっている。この魔法はそう何度も回避できるものじゃない。次に撃たれたら無事では済まないだろう。
「あらっ、これも躱しきったの?
坊やは本当に凄いじゃない。
でも、自分だけ避けて良かったの?
まだ、お仲間もいたのに……」
魔神の問いかけに激しく胸を上下させながらエルは訝しんだ。
仲間とは誰のことを指しているのかと。エレナやセイは転移陣に向かっているだろうし、ドーガやラナは死んでしまった。そう、死んでしまったのだ。
苦痛に顔を歪めたエルに、不意に後方から声が掛かる。
「エルさん、助けてください」
馬鹿なっ、ラナは骨が胸を貫通し死んだはずだ!!
驚愕して後ろを振り向くと、胸に骨が刺さったままのラナが立っていた。骨は心臓の位置を通り越し背中から突き出ており、目は瞳孔がなく生者がするようなものではない。
これは……、デネビアがラナの死体を操って声を出させたのだ!
振り返ったことを後悔しながら慌てて魔神に向き直ると、エルを簡単に一飲みにできる大口が眼前に迫っていた。
咄嗟に足に気を纏い飛び退くも間に合わない。気を籠めた猛虎の道着ごと左手を肩口から持って行かれてしまった。鋭利な刃物で斬られたのではなく、歯で磨り潰され噛み千切られたのだ。その痛みたるや想像を絶し、エルは生まれて初めて魔物に与えられた苦痛に対して、顔を歪め大声で絶叫を上げた。
「良い声で鳴くわねー。
もっと私を楽しませてちょうだい」
魔神はエルの悲鳴が心地よいのか、顎の骨を鳴らし魂が恐怖を覚えるような顔で嗤っている。人の負の感情を見るのが楽しくて仕方ないのだ。
エルは腕を失い左肩から膨大な量の出血を強いられ、激しい痛みに喘いでいた。
魔神はそんなエルの状態をお構いなしに、暴力の形を為した悪意を押し付けてくる。
怪腕を叩き付け、凶悪な酸の唾を飛ばし、丸太よりも太い骨の尻尾を横薙ぎにしてくる。
エルは苦痛を辛抱強く堪え途切れそうになる意識を無我夢中で繋ぎ止め、魔神の無慈悲な死の乱舞をなんとか疾歩や迅歩で回避していく。しかし、血を流し過ぎたせいか、意識が弱まり徐々に動きが緩慢になって行く。もうじき魔神に捕らえられるであろうことは間違いない。
もはやエルの命は風前の灯火だった。
死にたくなかった。
道半ばのこんな所で、夢を叶えることなく無念の死を遂げたくなかった。
自分の旅はここで終わりと思うと堪えようのない恐怖が襲ってくる。
エルは涙に塗れ大声で情けなく喚きながら魔神の攻撃を避け、死を恐れ生に執着した。
情けなくとも生き延びたかったのだ。
だが、醜く踠いても刻一刻とエルの命は喪われ、目も霞んでくる。
どんなに生を望んでも助けてくれるものはいないのだ。
もうすぐ動けなくなり死を与えられるのは目に見えている。
悔しくて悔しくて仕方ないが、此処が自分の終着点なのだろう。
エルは大きく息を吐き出すと涙を拭き、静かに己が死を受け入れた。
1度死を受け入れると、不思議と恐怖が治まってくる。死の寸前の自分にもまだできることがある。
最後に一矢報いよう。
例え死に面しても足掻き続けた強敵達のように。
そして、非業の死を遂げたドーガやラナの無念を少しでも晴らすために……。
己が死を認め覚悟を決めたエルは、命の灯を燃やして信じられない力を発揮する。緩慢になった動きが元に戻り凶悪なデネビアの魔手を搔い潜ると、高速で魔神の袂に飛び込んだのだ。至近距離まで接近すれば魔神の大きすぎる身体は反って邪魔になり、エルの攻撃を回避できない。
まだ無事な右手に気を籠めると、全力の武人拳を魔神の長大で気色悪い腸目掛けて叩き込んだ!
エルの想いが通じたのか、拳が腸を突き破った。
しかし、拳を腸に埋没させると直ちに絶大な痛みに襲われる。腸内には鼻が捥げる様な腐敗した得体のしれない液体が詰まっており、右手を溶かしたのだ。
「一矢報いたかったようだけど、残念ねェ。
坊やはこれでお終いよ。
さあ、甘美な絶望の声を上げてちょうだい」
魔神にはこの結果が解っていたのだろう。だから動かなかったのだ。
魔神の笑い声が木霊し、その腕がエルを捕まえようと動き出した。
まだだ!まだこのままじゃ終われない!!
エルは最後の命を燃やし尽くすかのように、全身にありったけの気を纏い魔神の大きすぎるあばら骨を足掛かりに身体を駆け上がった。
狙いはただ一つ。黒く脈動する心臓だ。
「僕の命をくれてやる。
だから、お前の命を僕に寄越せ!!」
死力を振り絞り、溶けて骨となった右手に全身全霊の気を籠めると、エルは今迄の人生で最高の武人拳を黒き心の臓に叩き込んだ!!
右拳が表面を突き破ると内部で気が炸裂し、エルの命を賭した膨大な量の気が荒れ狂い、魔神の心臓をずたずたにする。
「ざまあみろ・・・・・・」
エルはもはや受け身を取る余裕もなく、ただ地に向けて落ちていくのみだ。
だが、最後に魔神に一泡吹かせられたことで、不思議と心が晴れやかになっている。
禍々しくもおぞましい凶笑が響く中、エルは静かに目を閉ると、己が意識を深い闇に委ねるのだった。




