第一話
他サイトで小説を書いたことはありますので、初心者ではありません。皆さんが楽しくわいわい前を向けるような小説を書きたいと思っています。
俺のクラスには、もうそれそれは綺麗な少女がいる。制服の上から見た体形は、モデルのようにスラリとしていて(以下、彼女の身体特徴については省略する)。
先祖代々から受け継がれている、由緒正しい家柄でもあり、ここから見える山の奥には彼女の家のものと思われる豪邸がある。
彼女の名前は、一戸彩芽と言う。
しかし、ある男はその彼女を、まるで床の汚れを拭く雑巾のように扱う。丁寧に彼女の全身を濡らして(制服を着たまま)、床の上でそれを転がし、足で蹴りながら廊下を拭かせるのである。
彼の名前は、斎藤直人。俺の友人だ。
「はっ! てめぇーは雑巾にもなれねーのか? 雑巾にもなれねぇくせに、俺のダチのことを『ボロ雑巾』って言ってんじゃねーぞ、ゴラァッ!」
いいだけ彼女を蹴り尽くしたあと、直人は彼女の自慢である髪を乱暴に掴み、無理矢理顔を上げさせる。
今、彼女の顔には普段のような強気な顔はない。ただひたすらに怯えている顔。涙が溢れ、鼻血をたらし、とても女の子の顔にも見えない。
よくもこんな顔で俺を「ボロ雑巾」と言えたものだ。お前の方がよっぽど「ボロ雑巾」だ。
「……お願い、やめて」
「雑巾がしゃべってんじゃねぇぞッ! ああ!?」
彼女は必死に許しを懇願したが、直人はれを大声で蹴散らした。すると、彼女は小さい悲鳴を上げてまた泣き始めた。
……こんなもんか。
呆れるような溜息を吐いて目の前にいる彼女に目を向ける。勝ち組である彼女がこんな惨めな姿で俺の前に、俺の下にいる。
綺麗だから、力があるから、頭がいいから、金持ちだから。
彼女はそれらが全てだと思っている。
でも、それら全てを持っているようが、彼女の性格が悪人そのものであれば誰も彼女を尊敬しないし、彼女に本当の笑顔を見せることもない。
そもそも、彼女が友達と思って接している連中の中に彼女を友達だと心から思っているやつは何人いるのだろうか。
俺が知る限りでは、彼女の隣をいつも楽しそうに歩いている二人は彼女のいないところで彼女の悪口を平気で言っている。
彼女が一番楽しそうに話す相手も、彼女のことを良く思っていないのも聞いている。
彼女は見せびらかすようにブランドのバックを学校に持ってきたり、頭の悪いやつを見下し、常に会話の中に悪口を混ぜる。
性格が破綻しているんだ、彼女は。
才能も富も美貌もあるのに、もっと上を見ようとしない。彼女ならもっと上に行けるのに、彼女は下ばかりを見ては下をけなす。だから、彼女は下の人間に引きずり下ろされる。
こんなふうに、な。
今回のことには多くの人が協力した。彼女の一番親しい友人は彼女をここに来るように誘導し、彼女を良く思わないクラスメートや先生には、もし俺たちが彼女をいじめていると疑いをかけられたときに、やっていないことを証明してもらう手筈になっている。
他にも彼女の部活仲間にも協力してもらい、今日はこの空き部室に誰も来ないようにしている。
これが、彼女が今まで犯した愚行の結果である。誰も彼女を助けないし、誰も彼女に同情しない。むしろ、酷く憎まれている。
俺は直人に彼女を近くにある椅子に座らせるように伝え、俺は「ボロ雑巾」になった彼女に話しかける。
「一戸さん。これでわかったろ? あなたが誰にも好かれていないことも、あなたに最初から友達がいないことも、皆があなたを罰したいと思っていることも」
「……私は何も悪くない」
「ここまできてそんなことを言うのか? 一戸さん、あなたがこんなことをされた意味、わかりますよね? びしょ濡れにされて、床を転がされた。まるで『ボロ雑巾』みたいだ」
彼女はそこではっとなって目を見開き、目先にいた俺の顔を見ると、バツの悪そうな表情を浮かべて俯いた。
スカートの生地を掴んでいる手を、彼女は強く震わせる。その手に涙かどうかわからない水滴が落ちた。
「いい加減、泣くのやめろ!」
彼女のいじいじした態度に直人は腹を立てた。今にも手が出そうな雰囲気を露にしていたが、今はもう暴力を行使したところで彼女には恐怖しか与えられない。
彼女に与えるべき感情はそれだけじゃ足りない。彼女の腐り切った自尊心をズタズタに引き裂いて、これ以上ない屈辱を味合わせないといけないのだ。
直人には悪いが、もう彼にしてもらうことはない。
今日はもう終わりにしようと直人に告げると、直人はそれに従ってすぐにこの部屋を出ていった。
「さて、一戸さん。提案があるんだけど……聞く?」
口調を柔らかくして優しく聞いてみる。
しかし、彼女の目には怯えと怒りが混じっていた。
「私をここから出しなさい!」
彼女は大声を上げ、立ち上がる。
この場には俺と彼女しかいないため、その声は虚しく響くだけ。
「直人が帰った途端、強気になっちゃうか。ま、いいよ。ここから出してあげる。……でも、条件がある」
このことを誰にも言うな、と言おうとして気づく。一瞬にして、彼女の様子が変わっていたことに。
「こんなことしておいて何が条件よ。条件を守って、私になんの得があるのよ。その条件とやらに私は一生縛られなくちゃいけなくて、あなたに何も抵抗ができなくなって、暴力を振るわれて……。なんで? なんでこんな目に会わなくちゃいけないの? 私は……私は、何も悪くない」
彼女は目を閉じて言い放つ。
目を閉じた彼女はそのまましばらく動かなかった。ようやく目を開けたと思ったら、おかしなことを口にした。
「……殺してよ。今すぐ、私を殺してよ」
彼女の声に張りはない。今にも枯れそうな花のように弱々しく口を動かし、その場で彼女は濁りのない瞳を向けてきた。抵抗する意思のない、感情が死んだ目をしている。
諦めの意思を向けられて、俺は、頭が痛くなる。
殺してよ、ってなんなんだよ?
なぜその発想に行き着いたのかがわからない。彼女の言った意味がその通りなのであれば、彼女はもう抵抗する意思をなくしていることになる。
なぜだ?
俺の予想では、彼女はもっと抵抗すると思っていた。傲慢な彼女のことだから、もっと落ちるのに時間がかかると思っていた。
何もかも自分の思い通りにことを進めたいと思っている彼女が、俺の言うことなんて聞かずに俺を力尽くで支配するなんて、本来の彼女なら簡単なことだ。それだけの力と技術を、彼女は持っているんだ。
だけど、実際の彼女はとても弱かった。「死にたい」なんて口にして、前を向くことをやめた。
いつもの彼女はそこにはいなかった。傲慢な姿が見当たらない。憎むべきところが見つからない。
消えていく。本来の彼女が消えていく。
目の前にいるのは「一戸彩芽」に似た誰かと思ってしまうくらいに、実像からかけ離れていく。
そんな彼女が、弱くて、とても弱くて、思わず抱きしめてしまった。
自分でも何をしているんだろうと思う。俺はこいつのことが憎くて憎くて仕方がなかったはずなのに離せない。一戸彩芽のことを離すことができない。
「私を殺してよ、『ボロ雑巾』。『ボロ雑巾』が私に触れないでよ。私に気安く触らないでよ。汚れる。だから、殺してよ。……私は、嫌われることをしたの」
俺を怒らせようとしている。
それがわかって、俺はさらに彼女を強く抱きしめた。冷たくて、本当に冷たくて。彼女が水浸しになったからじゃない。本当に、冷たかったんだ。
なんで彼女は俺のことを「ボロ雑巾」と呼ぶのか、今、わかった。
思えば、彼女と同じクラスになってから、ずっと俺は「ボロ雑巾」と言われ続けている。俺が誰かの手伝いをしているときに限って、彼女はいつも言うんだ。
──ボロ雑巾みたい、って。
俺は反論した。
その場にいた人も反論してくれた。
でも、今はそれの本当の意味に気づいた。
彼女が俺をバカにして「ボロ雑巾」って言っているわけじゃない。他人の後始末、つまりは「汚れ」を拭いて上げているって言っているんだってことを、悪い意味なんかじゃないんだってことを気づいたんだ。
「……私が憎いんじゃないの?」
憎かった。
「……『ボロ雑巾』って言われて、悔しくないの?」
悔しかった。
「……私のこと、嫌いじゃないの?」
嫌いだった。
いくつもの負の感情が過去のものになっていく。憎かったことも、悔しかったことも、嫌いだったことも。全てが光を帯びて、輝き出す。
過去が消えないことはわかっている、変えることができないことも。でも、見方は変えられる。
こうして俺が気持ちを変えたように、物事を見る向きを変えれば、こいつを廃人にしてやりたいと思った気持ちが、一戸彩芽を助けたいって思う気持ちに変えられる。
「散々君を痛めつけた俺が言うのは虫のいい話かもしれないけど、それでもこれは本当なんだ。今はもう違う。本当に、本当に虫のいい話だけど、君のことを……助けたくなった」
一度離れてから、彼女の目を見つめて、思いをぶちまけた。人の気持ちはこんなにも変わりやすいんだってことが伝わればいいなと思う。
すると、彼女は優しく笑った。
人をバカにしたときにいつも彼女がするような高笑いではなく、道端に咲く、蒲公英のような明るい笑顔だった。
「……ありがとう」
心から笑ってくれている。そう思って俺は彼女を抱きしめると、彼女は抱き返してくれた。
でも、やっぱり、その手は酷く冷たかった。そして、震えた。
「くしゅんっ」
えらく可愛いクシャミだった。風邪を引いてはいけないと思うのと同時に、俺はさっきの出来事を思い出して、自己嫌悪に陥り、彼女を離す。
「そんな顔しないでよ。こんなことになったのは私のせいなんだから。私の性格が悪いのはわかっている。でも、変えられないの。どうしても自分に甘くなっちゃうし……くしゅんっ。あーもう、これじゃちゃんと話もできないじゃない! くしゅんっ」
彼女はイラつきながら鼻血混じりの鼻水を濡れた制服で拭いた。その言葉を聞いて、俺はさらに罪悪感が増して、胸が苦しくなった。
「そんな顔しないでって言ったでしょ!?」
「ご、ごめん」
謝ったのに不機嫌そうな顔になった彼女は、俺の顔を見て溜息を吐くと、隅に置いていた雑巾を取って床を拭き始めた。
「とにかく、私はここの後始末しておくから、教室から私のバック取ってきてくれない?」