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第6章「スカーレット・ドレス」 後編


「狙撃班、どうした、応答しろっ!!」

 神崎は小型の通信機に向かって怒鳴るような大声で言った。

「くそっ、どうして答えない……」

 通信機を操作し、神崎は通信先を狙撃班から監視室へと変更する。

「監視班、応答してくれ、監視班!」

 しかし、通信機からは何の反応も返って来ない。

「……まさか、監視室が占拠されたのか?」

 ローエングリンの言葉に神崎は青冷めた。

「監視室が……?」

 『女王』迎撃の要となっているのは、監視カメラ及び各班員からの情報を統括する監視室である。それが敵の手に落ちることは即ち、連携を前提とする迎撃体勢の崩壊を意味していた。

「ありえない、地下の監視室だって無防備なわけじゃ無いんだぞ」

「相手は間違い無く『女王』の手駒、強力な魔導士だ。事前に監視室の位置を知っていたならば、制圧されたとしても不思議は無い」

「だとしたら……狙撃班には何があった」

「勿論……」

 神崎は思わずローエングリンの胸倉に掴みかかってしまう。

「だとしたら、叔父上は……」

 最悪の事態を神崎が想像した瞬間、爆発音が2人のいる廊下に響く。

 何が爆発した音なのか、誰が爆発した音なのか。神埼は理解していた。

 爆発で何人が死んだのかは分からない。だが確実に死んだ1人の名を、神崎は呆然と呟いた。

「…………叔父上」

 見開かれた眼から、ゆっくりと涙が垂れた。

「畜生」

 涙を手で拭いながら、神崎はローエングリンに背を向ける。

「ローエングリン、俺は前の部屋で敵を待ち構える。お前はホンシアたちからの連絡を待ってくれ」

「無謀だ。『女王』が生き残っていた場合、死ぬぞ」

「……俺はなぁ、ローエングリン。お前のことをそれほど信用しているわけじゃない。叔父上がお前を信用していたから、信用しているだけだ」

 ローエングリンは無表情のまま、神崎の言葉を耳に受けている。

「そんなお前と一緒に戦っても、ろくに連携も取れずに共倒れになるのが目に見えている。それなら俺が時間稼ぎになって、その間にホンシアとアリスが来るのを期待した方が良い。そうだろ」

 首を動かす仕草も無しに、ローエングリンはこう返した。

「たった1人で稼げる時間など僅かだ。馬鹿な考えは止せ」

 ふふっ、と神崎は笑いを漏らす。

「おかしなもんだな、オイ。全速力で逃げるくらい怖かったはずなのに、今は自分の手であの女を殺さないと気が済まない気分なんだ」

「落ち着くんだ、神崎。『女王』が死んだ可能性だってある」

「落ち着け? 叔父上が死んだのに、落ち着いていられるわけが無いだろうがっ!」

 神崎は衝動的にナイフを右側に投げた。窓ガラスの割れる音と共に、八つ当たりの刃とガラスの破片が日の傾く中庭へと落下して行く。

「叔父上の死に身動ぎしないお前が俺の心配をするなんて、滑稽じゃないか。その心の中で雀の涙ほどは悲しんでいるのか? 関心があるのは『女王』だけなんだろ、お前は」

 背を向けたままの神崎に向かって、ローエングリンは静かに言った。

「……辛くないわけじゃない」

 神崎は俯き、しばしの沈黙の後、言った。

「……分かっている。叔父上は自分の意志で戦ったんだ。覚悟して戦ったんだ。お前だってそれが分かってるから、涙1つ流さないんだろう。だが俺は、許せない。あの女が、あの『女王』が許せない。もし生きていたとしたら、勝ち殺してやる。俺自身の意志で、殺してやる」

「負けて、死ぬかも知れないぞ」

「その時はローエングリン、済まない」

 神崎は両開きの扉を開き、書斎へと続く廊下、その入口を守るための小部屋へ入る。

「後は頼んだぞ」

 旅立つ者を見送るように、その背中を見つめるローエングリン。彼は「わかった」と寂しげに言った。

 神崎はその声調に僅かばかし、涙を堪えているような感じを受けた。気のせいだな、と笑いつつも、彼はそう聞こえたことが少し、嬉しかった。

 肩を並べて戦う気にはなれなくとも、後を任せるには足りる男。ローエングリンをそう思えることが出来そうだったから。

 神崎の後ろで扉が閉まる。覚悟を決めた敵討ちが、開始された。


 地下の監視室で揺れを感じたカレンは、耳飾りのスイッチを入れた。通信機を内蔵しているその飾りから、荒い息遣いが聞こえて来る。

「ご無事ですか、『女王』」

「当然だ」

 万が一に対する不安を払拭出来ないでいたカレンは、その言葉にひとまず胸をなで下ろす。だが収まったその不安は、続く『女王』の言葉で再び慌ただしくなる。

「……とも言えんな。手酷くやられたのだから」

「どこかお怪我を!?」

 驚いて大声を出すカレンに、『女王』は「静まれ、耳が痛い」と不快そうに呟く。

「予想以上の相手だった。左足と左腕の骨にひびが入っているのは間違いない。陰島を蹴り飛ばした右足にも違和感を感じる。それに両腕の疲労もかなりのものだ。私の慢心だけではない、陰島は実に恐るべき人間だった」

 同族の最強が語った賛辞。カレンは認めたくなかった。

「いいえ、陰島は幸運だっただけです」

「彼を侮辱する言葉ならば許さぬぞ、カレン」

 耳飾り越しの威圧に、カレンは思わず身を竦めてしまう。

「我々には兵器として作られた体がある。だが、あの男は違った。自らの意志で戦うための力を高めたのだ。決して誰かに仕組まれたものではない」

 ふっ、と皮肉げな笑い声。

「与えられた力を行使する私よりも、遥かに『自由』だ」

「そんなことはありません、『自由の女王』たる貴女こそが――」

「概念というものにおいて、我々は人間には勝てないのだよっ!!」

 カレンの声を遮り、『女王』の怒声が振るわれる。

「人間に、人間の精神に敬意を払えカレン!! 私でさえ死にそうになった、君もいずれ知ることになるだろう、その偉大さ、素晴らしさ、可能性っ!!」

「分かっています、落ち着いてください、『女王』!!」

 しばしば『女王』が見せるこのような様態に、忠実な部下であるカレンですら辟易していた。普段の神々しくもある姿とは一転して、まるで吠え立てる獣の如し。その時の目はいつだって遠くの何者かを見ているようで、それがカレンには我慢ならなかった。

「まだ敵は残っています、気を静めて下さい!」

「そうだな……その通りだ。勝負の余韻に浸り過ぎていたよ、カレン」

 大きく息を吐く『女王』の音。

「これから邸内の兵を殲滅する。サポートを頼む」

「了解しました。入口ホールは無人ですので、そちらから入って下さい」

 入口ホールに入った『女王』を監視カメラの映像で確認したカレンは、付近に待ち構えている敵の位置、人数、状態を伝える。「分かった」という応答と共に、『女王』の進軍が始まる。

 1階南側の廊下を映すモニター。通信不能になり混乱していた3人の兵士の前に、突如として『女王』が現れる。彼女は相手が気付くのとほぼ同時に1人の首を切り裂き、残った2人の銃を魔力で破壊する。哀れにうろたえる男たちは抵抗する術も無く、喉元から血を噴出し、倒れた。

 カレンはカメラ越しにその光景を見つめつつ、下腹部に熱を感じていた。

 凛々しく雄雄しい、麗しき『女王』の姿。他の者を近づけず、圧倒的な裁きにより愚者を血染めるその御姿。尊敬を刷り込まれている人間という存在よりも貴く、その力と理知を体現する超越者。頂点にあり、玉座にあり、最強にある我が主、女王の中の女王。

 新たに敵の情報をカレンが伝え、『女王』はそれに向かって動き出す。狭い廊下で待ち伏せる敵の上を飛び翔け、肉を裂き、銃を崩し、命を奪い。一連の動作は舞であるかのように滑らかで適確、そして止まる事が無い。

 敵意を向けられたならば、即座に屍を作るその動作。決まった形などない、相手のどんな動きに対しても適切に行われる殺人舞踏。恐怖に満ちた顔で壊れた銃を向ける者にも、目の前で倒れる仲間を呆然と見つめる者にも、逃げ惑おうと背を向ける者にも、全ての者に対して平等に、彼女の裁きは下る。向けた殺意に相当する、命の罰が。

 それらが自らの言葉と連動して行われることに、カレンは恍惚を覚えていた。『女王』と一体になっているかのような感覚、崇拝対象との融合。

 私の声と共にいつまでも舞っていて欲しい、か弱く愚かな人間たちをどんどん殺して行って欲しい。私たちが決して、模倣でも偽物でもなく、人間と同じ価値のある存在であると示して欲しい――

 カレンの中に沸き立つ願望、それは現実の声によって押し止められる。

「次は何処にいる、カレン」

 我に返ったカレンは、監視カメラの映像を確認する。モニター越しに見えている人影は『女王』を除き、全て死体。残る場所は、監視カメラが映さない3箇所だけ。

「残るは書斎、そこに通じる廊下、その廊下と東棟を隔てる小部屋のみです。監視カメラが設置されていないため、中の様子は分かりませんが」

「恐らく、ローエングリンはそこにいるだろう。陰島の秘書も」

「内部の状況が分からない以上、私が先に参ります」

「必要無い。それより、君はアリスとホンシアの到着に備えてくれ。邪魔をされたら厄介だ」

「……了解しました」

 不満げにカレンは答えた。

「君にはアリス、彼女にはホンシアを任せる。私の命が懸かっている仕事だ。頼むぞ」

「全力で、やり遂げます」

「では、以上だ。また会おう」

 『女王』との通信が切れると、カレンは床に倒れている死体を跨いで監視室を出た。

 自分と『女王』との時間を邪魔する者たち。陰島の一味、ローエングリン、アリス、その全てがカレンには憎々しかった。

 崇高たる存在に歯向かう愚かな者たち。誰も彼も血を噴き出して死んでしまえば良い。

 特に、アリス。『女王』の寵愛を受けながら、それを全く理解もしない馬鹿な娘。恥知らず。あの子だけは、必ず私が始末してみせる。

 『靴の女王』が誇る、この足で。


 正門をくぐり、急ブレーキで停止する車。運転席から降りたのは携帯端末を耳に当てたホンシア。助手席から降りたのはバールのようなものとガンケースを携えたアリス。

「ローエングリン、聞こえる? 状況はどうなってるの?」

 そう言った後、携帯端末に「うん、うん」と相槌を打つホンシア。その横でアリスは、周囲に所々落ちている真っ赤な物体に首を傾げていた。

「ねぇホンシア、この落ちている物は一体何かしら?」

 その問いかけを無視し、ホンシアは「了解。それと、ちょっと待って」と言って携帯端末をアリスに差し出す。

「ローエングリンに言いたいことがあるなら、今のうちに」

 アリスはそれを受け取り、耳に当てる。

「ローエングリン?」

「アリスか……調子はどうだ?」

「完璧よ。今日なら『女王』にだって勝てる気がするわ」

「そうか……頼んだぞ」

 その静かな声調に、アリスはあの日を思い出した。ローエングリンと別れたあの日。『女王』に対する感想を求められた、あの日。

「ローエングリン、1つだけ約束してくれるかしら?」

 ローエングリンはあの時もう、『女王』と戦う決心をしていたのかしら。

「何だ」

「私とした約束。エルザをずっと守るって約束、これが終わったら今度こそ守ること。良いわね?」

「……分かった、約束する」

「絶対よ。必ず」

 そう言って、アリスは携帯端末をホンシアに返し、ホンシアは二言三言ローエングリンと言葉を交わした後、携帯端末をズボンのポケットに入れた。

「アリス、私達は中庭と書斎が良く見通せる位置で待機だって。そうなると、南側の屋根かな」

「屋根?」

 ホンシアが見上げる方向をアリスも見た。瓦の乗った緩やかな三角屋根が、夕陽に染まっている。

「中庭全体が見えるし、廊下を狙うのも問題は無いと思う。だけど『女王』の仲間に見つかる可能性も高いから、それはアナタに任せる」

「ええ、私なら誰が相手でも大丈夫よ」

 胸を張って答えるアリス。

「頼んだからね。それじゃあ、行くよ」

 上昇するホンシア。アリスもそれに続いた。館南側の屋根に着地した2人は身を屈めながら移動し、書斎の中が見える南棟中央付近で動きを止める。

「この辺りかな」

 ホンシアはアリスからガンケースを奪うように取り上げ、中身の狙撃銃を構えて屋根に伏せる。

「うん、悪くない。屋根瓦が少し痛いのが難点だけど」

「この屋根デコボコしてて、ちょっと動き辛いわ」

「ビルみたいに平らじゃないからね。転びそうだったら少し浮いてた方がいいかも」

 そのアドバイスに従うことにし、アリスは少しだけ宙へと浮く。瓦の不安定さから解放されると同時に、視界が僅かに広がった。

 そして彼女は、視線の先に女性らしき姿を見つけた。館の東棟、その屋根の上に。

 目が合ったであろうその瞬間、その何者かは屋根の上を高速で飛び跳ね始めた。瓦を粉砕しながら、東棟から南棟へと猛烈な速度で跳ね抜け、そして――

「くっ!!」

 アリスは屈んでいた体勢から急いで立ち上がり、武器を構える。バールのようなものと女の赤い靴が、勢い良く激突した。

「カレンッ!!」

 彼女は敵の名を呼んだ。赤いボブヘアー、細長いタイトジーンズの脚、真紅の靴。

 それは紛れも無く、『靴の女王』と名付けられた旧知の大シンボル、カレンの姿だった。

「お久しぶり、アリス」

 彼女は微笑んだ。血に汚れた脚で。

 カレンはバールのようなものを蹴り押し、その反動で距離を取った。

「貴方が『女王』の手先だったのね」

 睨むようにバールのようなものを突き付け、アリスが言う。

「手先と言うより、私の場合は靴が正しい。あの方が前に進むための、靴」

「そんなの、踏まれるだけだわ!」

 不意打ち気味に薙ぎ払った得物は、しかし意外にも容易く避けられてしまう。その予想外に対し、アリスは不機嫌を隠せなかった。

「動きが速いわね、カレン」

「あまり馬鹿にしないで。私はそんなに、弱くは無い」

 刺すような冷たい目付きでアリスを見つつ、カレンはそう答えた。

「それでも、私の方がきっと強いわ」

「そう……」

 突然、カレンは後ろに跳び下がる。直後、カレンが立っていた場所に弾丸が衝突した。

「ホンシア!?」

 アリスが振り向くと、ホンシアが狙撃銃ではなく短銃を構えていた。

「そんなことしなくていいわ、ホンシアッ! カレンは私が倒すから、邪魔しないでっ!!」

「でも」

「貴女はローエングリンを助けてあげて。お願いよ」

 ホンシアは「わかった」と頷き、再び狙撃銃を取って身を伏せる。それを確認したアリスは再びカレンへと向き直った。

「すぐに終わらせてあげるわ。早く『女王』と戦いたいんだもの」

 カレンは右足を上げ、刀のように突き出した。

「あの方へ手は出させない。邪魔なんて、させない」

 その右足に対し、アリスはバールのようなものを叩き付けようとした。しかし、カレンはまたしても身体を退き、攻撃は外れた。

「むぅ……」

 その消極的な態度がアリスには気に入らなかった。カレンはそのままバックステップを続け、館の東棟、そして北棟へ向かって下がって行く。

「戦う気があるのかしら、カレン」

 仕方無しにアリスはそれを追う。東棟と北棟が交差する角でカレンは足を止め、アリスもそれと対峙するように立ち止まった。

「どういうつもりかしら、カレン。逃げてるだけじゃ、どうにもならないわ」

「分かってる。だからそろそろ、行かせてもらう」

 瞬間、カレンが身体を捻りながら左足を打ち出す。アリスは身を引いてかわし、続く右足の攻撃に対しバールのようなものを振り下ろした。 しかしカレンの脚は異様な速度で運動し、バールのようなものを回避する。

「えっ……!?」

「馬鹿にしないでと言ったでしょ。脚に関してなら、私の方が上」

 そして踊るように繰り出される脚の連撃。右、左、右、左。アリスはそれらを避けつつ反撃をするも、カレンの足捌きにより空振りに終わった。

 次第にアリスは焦りを感じ始める。カレンの攻撃は避けられないものではない。しかし回避しながらの反撃は、彼女の速度に追いつけない。

 『靴の女王』の称号に見合うカレンの脚、アリスはそれを認めざるを得なかった。

 加えて、カレンの足に履かれている、爪先の尖った赤い靴。アリスの持つバールのようなものと同様の、『構造体』で作られたカレン専用の武器。破壊が不可能な程に強度があり、持ち主以外の魔力も受け付けない。それは靴でありながら、刃物同然の凶器であった。

 出来ることなら、かすらせたくも無いわ。お洋服が駄目になっちゃう。

 そう思いながらアリスは攻撃を避け、攻撃を避けられる。この状態が続けばたとえカレンを倒したとしても疲労は避けられない。かと言って、無理に攻めれば赤い靴の直撃を受ける可能性も高かった。

 拮抗のジレンマ。それはカレンも同じはずだったが、彼女からそれを崩すことは無いとアリスは考えていた。

 『構造体』に居た頃のカレンは積極的な性格では無く、生真面目に仕事をこなし、与えられた役割に背かないという、典型的なシンボルだった。そんな彼女がリスクを省みない行動を取ることはアリスの記憶上ありえないことであり、だからアリスは自分から仕掛けてやろうと心を決める。

 そう、カレンは危険を冒さない。そんな彼女が、不自然に一瞬飛び退いた。

 そして、放たれる豪速の右足。

 不意を突かれたアリスは回避が間に合わず、バールのようなもので受けざるを得なかった。その眼前に、続けざまカレンの左足が迫る。反射的に武器から右手を離し、アリスは迫り来るカレンの左足首を握り掴む。

 防御に成功したアリスだったが、その胸中では苦々しさが込み上げていた。

 まさか先に仕掛けられるなんて、思ってもみなかったわ。こんなに一生懸命なのも、『女王』のためかしら。だとしたら凄く気に入らないわ。あんなののためになんて、気に入らない。

 そんなアリスの不機嫌など御構い無しに、カレンの右足が蹴り放たれる。寸でのところでアリスは右手を離し、その一撃から逃れる。

 再び距離を取る両者。アリスは自分を翻弄する業師を見据え、その表情から迷いが無いことを窺い知る。

 何故、そこまでの意志を持てるのか。アリスはその信念の理由が知りたくなった。

「ねぇ、カレン」

 アリスは呼び掛けたが、刀身のように磨ぎ澄まされたカレンの様子に変化は無い。

「どうして貴女はそんなに一生懸命なのかしら?」

 沈黙の後、瞬きが1回。カレンは口を開いた。

「もちろん、あの方のため」

「『女王』なんかに尽くしたって、何も良いこと無いと思うわ」

 忌々しげに、カレンの眉間に皺が寄る。

「貴女には分からない。あの方はその秀麗、英知、魔力で以って人間と我々をもっと高みに連れて行ってくれる。それなのに貴女は、無知に逆らうだけ。なのに、どうしてあの方は……」

「その高みって、一体何かしら?」

「あの方の真意はまだ分からない。だけど、あの方は必ず導いてくれる」

 アリスは呆れて、思わず溜息を吐いてしまった。自分の仕草に一瞬、奈々子のことを思い出す。

「何も分からないのに付いて行ってるって、カレン、貴女は『女王』のことが好きなの?」

 予想外の言葉だったのか、カレンの目元がぴくっ、と反応する。

「それとも、偉いから信じてるだけ?」

「私は……」

 言葉に詰まり、カレンの表情が曇り始める。アリスはその顔に何処か、自分に似ているものを感じた。ローエングリンや奈々子について悩んだ時、自分もあんな顔をしていたのだろうと。

 誰かを想い、迷うこと。それはつまり――

「好きってことなのね」

「そんなの、分からない」

 アリスの発言を振り切るようにカレンは表情を引き締めた。だが先ほどまでとは違い、僅かに隙のある様子で。

「あんな自分勝手な『女王』の何が良いのかしら」

 そう言いながらも、自分だって奈々子やローエングリンの何処が良いかを聞かれたらきっと答えられないだろうと、アリスは思った。そういうものなのだと、理解しつつあった。

「やっぱり誰にも分からないものなんだわ」

 そう言ってアリスは再びバールのようなものを構える。相手も自分も同じ穴のムジナ、自分でも分からない好意を持つもの同士。そのことにどうしてか、彼女は嬉しさを感じた。

 アリスは翔けた。対等の相手に向かって。

 

 全ての家具を取り払った小部屋の中、神崎忠光は右手のナイフを弄びつつ周囲に目を配っていた。強力な魔導士である『女王』ならば、正面の扉だけではなく左右の窓、天井、さらには床からの侵入もありえる。唯一可能性が無いのは、ローエングリンのいる背後のみ。

 神崎の左手には投擲用のナイフ。背後以外からならば『女王』が現れた瞬間に当てる自信が彼にはあった。一撃で仕留められる相手で無いことは承知していたが、少なくとも有効な攻撃にはなるだろう。神崎はそう考えていた。

 そんな期待を吹き消すように、蹴飛ばされたような音と共に正面の扉が吹き飛んで来る。反射的に左手のナイフを投げ、神崎はすぐに右へと跳躍、扉を回避する。投げたナイフは扉へ刺さっており、それが攻撃の失敗を物語っていた。

 新たなナイフを左手で構え、神崎は扉が無くなった入口を注視する。ゆっくりとした足取りで血まみれの『女王』が現れ、神崎は咄嗟にナイフを投げた。しかしそのナイフは『女王』の身体に届くこと無く前後に割れ、弾け飛んだ。

「この速度のナイフでも、振動加工で破壊できるのですね……」

 感情を無理矢理に抑えた、不自然な敬語で神崎は呟く。

「ナイフ使いか。投げナイフは通常実用的ではないが、魔力による加速度でコントロールすれば攻撃の正確性は増し、充分に有効と言えるな」

 身を低くして構える神崎を、『女王』は見下ろすような視線で見る。

「それと神崎、客人に対する言葉使いである必要は無いのだよ。君の主がそれを教えてくれた」

 神崎はゆっくりと立ち上がりながら、再び左手にナイフを握った。

「叔父上は……何か遺言を?」

「特に無いと言っていたが……私を殺せなかったことが心残りとなっただろう」

「ならば、俺はアンタを殺すだけだ」

 腕を全く動かさず、神崎は魔力の加速度だけでナイフを発射した。魔力だけと言えど時速では200kmを超えるそのナイフは、先ほどと同様に『女王』の前で弾かれる。

「化物め……」

 『女王』は柔らかく微笑む。表情と対照的な、血染めの顔で。

「ありがとう。褒め言葉として受け取っておこう」

 その笑顔に怖気を感じ、神崎は右手のナイフを構えたままゆっくりと後退してしまう。飛び掛る獣を向かい討つような姿勢を取りながら、一方でその心は萎縮し始めていた。

 怯むな、怯むんじゃない……!!

 神崎は己を奮い立たせようと必死でイメージを思い浮かべる。命を賭して『女王』と戦った叔父の雄姿。無残に殺された迎撃班の死屍。共に戦う仲間――ホンシアとアリスは既に到着しただろうか。

 いや違う、そんなことは関係無い、俺は時間を稼ぐために戦うんじゃない。この女を殺すために戦うのだから。そう、殺すんだ。糞、一度は収まったって言うのに。怖い、怖いに決まっているだろう。叔父上だって怖かったはずだ。それでも戦い抜いたんじゃないか、足を竦ませずに『女王』に抗ったじゃないか。

 糞ったれ、糞、糞ッ……!

「怖いのか、神崎」

 嘲るような一言。言い当てられた屈辱、激昂。反転する、心。

 神崎は恐怖を紛らわせる程の攻撃衝動を必死で抑え、不敵に微笑む。

「怖かったさ」

 素早く、神崎は服の内ポケットにある手榴弾を投げる。『女王』と神崎はほぼ同時に回避行動を取った。

 そして手榴弾から噴出す、灰色の煙。室内はあっという間に煙で充満した。

「なるほど、発煙弾とはな」

 部屋の何処かから、『女王』の声が聞こえてくる。

「しかもこれは……魔力遮断素材が含まれているのか。我が国でも試験段階にはあるが、日本ではここまで実用化されているとは」

 神崎は緊張しつつも、手で覆った口に薄っすらと笑みを浮かべる。

 対魔導士用発煙手榴弾。魔力を遮断する素材を含んだ煙により、魔導士の戦闘能力を大幅に減退させる。周囲が見えず、かつ魔力の発生自体が阻害されている状態では超常の魔導士も無力な人間になりさがる。

 神崎はこれを迎撃班にも持たせていたが、使う前に殺されたか、それとも付け焼刃程度の効果だったのか。神崎は投げナイフの1本を加速度で浮かせ、魔力の阻害率を確認する。

 ――3割、いや2割程度の阻害か。

 狭い室内においてもその程度の効果である。暴走する乗用車1台を難なく粉砕する『女王』の魔力を考えると、攻撃力の低下は考慮に値しないものであろう。

 神崎はさらに数本の投げナイフを取り出す。元々、魔力阻害に頼るつもりは無かった。勝機は煙と共にある。飛び道具の無い『女王』に対し、神崎には投げられる刃物が豊富にあった。相手の姿が見えなくとも、数を撃てば――もちろん、自分の位置が特定されないように移動しつつ――1本は当たるかも知れないという算段。接近されれば寸秒の内に致命傷を負わされると考えれば、有効な手段だと言えた。

 神崎は3本、ナイフを投げる。音も無く、空気に大きな揺らぎも無い。『女王』から大きく外れたのだろうか。

 身を低くし、神崎は慎重に移動する。足音を立てないように、空気を震わせないように。そして2射目、4本のナイフ。一番右側に投げた物から確かな金属音が聞こえ、神崎はその付近に向けて残りの投げナイフ全てを投げ放った。

「くっ」

 小さな唸り。神崎は手応えを感じつつ、『女王』がいるであろう付近から離れるように動く。下手に突撃すれば返り討ちされるのは明白だった。

 逃れつつ、神崎は残った最後のナイフを左手に持った。右手の物と同様の形状、投げるためでなく迎え撃つための武器。傷を負った『女王』が迫った時、相打ち覚悟で心臓に突き立てるための二振り。

 部屋の隅で左右の刃を構え、後は待つだけだった。化物が狩りに来るのを。

 その時、神崎の向かい側から木材が激しく砕ける音がした。同時に、煙が急速に抜けて行く。

「神崎、君の主人は畏れるに値する戦士だった」

 驚きを声に出さないよう、神埼はナイフを持った手で口元を押さえる。何が起こったのか、煙が薄れていくと共に彼は気付き始めた。

「左の腕と足がまだ痛む。右足にも違和感を感じる。彼は私を手負いにしたのだ、この私を」

 彼は理解した。もはやこの部屋が、部屋としての形を保っていないことを。

「自爆にも危うく巻き込まれる所であった。紙一重、まさに拮抗する魔導士であった」

 段々と視界が鮮明になって行く。

「誇りに思え、神崎」

 部屋の真ん中で、『女王』は雄々しく立っていた。緋色の血痕に塗れた姿、その左肩で真新しい傷が艶めいている。

「主を、そして己を。私に刃傷を負わせるのも、相当なことだ」

 『女王』の背後にもはや壁は無かった。『女王』は南側の壁面を破壊し、頼みの煙幕はそこから外へと散ってしまっていた。

 神崎に残されたのは二振りの刃物と、主に対する誇り。そして自分が無力でないことの、確かな結果。

 十分過ぎた。

「来いよ、『女王』」

 喜びを湛えた顔で、『女王』が飛び掛かる。

 胸元に迫る細指を寸でのことで避け、神崎は左手を振るう。高速の刃はしかし、遅すぎた。『女王』は既に彼の射程より遥か遠くにいて――それなのに次の瞬間には、彼女の右手が脚へと迫っていた。

 神崎は反射的に魔力を発生させ上昇、だが『女王』の右腕もそれを追う様に払い上げられる。必死に加速度を発生させ、神崎はそれを回避。しかし逃れた直後に再び、『女王』の腕が襲い来る。

 速度を緩める事無く彼は逃げ、逃げ、逃げ。速さに対して余りにも狭い直方体の部屋の中、神崎は跳ね返る硬球のように壁を蹴り続け、その度に『女王』の真っ赤な腕が目の端で動く。

 彼は気付く。自分の状況が極限にあることを。もし僅かでも速度を緩めてしまったならば。もし少しでも方向転換が遅れたならば。1秒にも満たない間隔で迫る死が、彼を切り刻むであろう。

 もはや減速と自殺が同義となった彼だったが、不思議と恐怖は感じていなかった。反射的に動き続けることを要求される中、感情は麻痺する他無い。微量の思考活動しか許されない頭で、神崎は打開を求めた。

 唯一のイメージ、両手のナイフによる刺し違え。だがそれは違うと、彼の脳は否定していた。単純が成功する程度の化物で無いことが、理性を越えて伝わっている。しかしそれ以外の術など、神崎の手には残されていなかった。

 じりじりと距離を詰められながら、神崎はいよいよ相打つ覚悟を固める。それは即ち、命を諦めること。生物としての本能に抵抗して、彼は最後となる方向転換、攻撃へ転じる壁蹴りを行い――それが目に入った。

 それを発見した瞬間、神崎に生まれたささやかな希望。死ぬことが前提の反撃ではなく、勝利への反撃。刺す、刻む、倒す、殺す。新たなイメージが一瞬で思考を染め上げ、急き立てた。

 『女王』に向かって神崎は右手のナイフを大きく縦に振り上げ、同時に背後の壁に突き刺さっていた数本の投げナイフを加速度発生によって発射させた。神崎の脇を通り過ぎたナイフは期待通り『女王』の身体目掛けて直線に運動し、彼女は回避運動と振動加工による破壊を行わざるを得なかった。

 発見した投げナイフによって生じた、僅かな隙。それは明らかな勝機だった。腕力と魔力、両方を限界まで込めて神崎は放つ。敵の首を掻き切る、左手の一撃を。

 不思議な手応えの後、噴き出した鮮血。

 勝った……!

 安堵と達成感に包まれながら彼は微笑み、息絶えたはずの『女王』がそれに微笑み返す。

「あ……」

 神崎は違和感に左腕を上げる。肘の内側に入った歪な亀裂から、止め処無く血が噴出していた。

 痛みに気付いた瞬間、彼の全てが溢れ、決壊した。

 神崎は泣き叫んでいた。千切れかけた左腕に絶望し、叔父の無念を果たせなかったことに絶望し、自らの死が確定したことに絶望し、彼は泣き叫んでいた。泣き叫ぶことしか、出来なかった。

 無力な敗北者となった神崎に、『女王』がゆっくりと歩み寄る。

「来るな……来るなっ!!」

 『女王』を近寄らせまいと、神崎は残った右手のナイフを遮二無二振り回す。その醜態とも言える姿を『女王』は憐れむように見つめた。

「陰島に勝るとも劣らぬ速度、中々のものであった。ナイフの投擲や判断力も悪くない。主同様、君も戦士だったのだろう」

 陰島の名前を聞き、神崎は右腕を止める。荒い息を吐きながら、ゆっくりとその腕を下ろす。

「だが、最後の最後で君は成り下がった。私が先ほど切り殺して来た者どもと同じ、怯える動物に。恐怖、生物の衝動を己が理知と感情で克服してこその人間であると思うが……どう思う神崎」

 高々と、『女王』の右腕が振り上げられた。

「答えてくれないか、どうか」

 抗い切れない恐怖の中、神崎は走馬灯のように彼の顔を思い起こす。

 叔父。魔導士となったが故に向けられた些細な奇異の視線、その孤独を理解してくれる唯一の人間だった。非常識な人柄で、だからこそ魔導士という特性を楽しんでいたように今は思える。

 遠くの国で魔導士が戦争に参加しているという話をとても楽しそうに語っていた。『女王』の記事を経済雑誌で発見する度に魔導士としての彼女を賞賛していた。物語に夢見る少年のように、いつ訪れるかも分からない戦いに備えていた。その準備に半ば強制的に付き合わされ、もし今回の件が無ければ2人で遠くの戦場に行っていたかも知れなかった。

 孤独を理解してくれた人は、常軌を逸しようとしていた。特別な力を得たことで、自分を特別な存在にしようとしていた。それに散々付き合わされて、でもそれは嫌じゃなかった。その先にあるのがくだらない結果だと分かっていても、叔父と一緒なら楽しめたはずだった。

 だが、今のこの状況は一体、何だ。

 くだらない結果とは、人間そっくりの化物に片腕を引き千切られる事などでは無い。想像していた結末には、叔父が殺されるイメージなど微塵も無かったはずだ。

 おかしい、おかしい。神崎の認識が違和感で混濁し始める。

 普通に考えるのなら、叔父上のおかしな誘いなど一笑に付されて然るべきもののはずだ。それなのに、その結果がこれだ。何人死んだ? これから何人死ぬ?

 幻想に浸った初老の魔導士も、哀れな雇われ警備兵も、そして俺もこれから殺されるんだ。もしかしたらあの白鳥の騎士も女狙撃手も不思議の国のアリスも、みんなみんな殺されるかも知れない。

 一体何なんだ、これは。

 違和感によって恐怖が和らぎ、違和感によって怒りが押し出されていく。不可解、理不尽、笑うことの出来ないナンセンスが目の前にいること。その違和感に、彼は当初の心を取り戻しつつあった。

 そうだ、全てはこの女が悪いんだ。何もかも夢物語で良かった。現実と幻想は区別するものだった。なのに、だ。聞くところによれば、この『女王』が魔力の発生源を支配しているらしいじゃないか。そのせいで夢物語に手が届いてしまった。遊びで充分だったもの、笑うべきだったものが現実となったんだ。

 そんな自分自身がもたらした魔力ある世界で行うのが、あろうことか殺戮だと?

 許すか、許してたまるか。何を泣き叫んでいたんだ、俺は。

 ぶっ殺す。人間は怪物の玩具じゃない。本来ならば怪物こそ、夢想する人間の玩具だったはずだ。ぶっ殺す。殺してやる、殺してやるさ。腕は2本ともまだ、俺と共にあるのだから。

 もはや生物的衝動は人間的衝動に塗り潰され、神崎は泣きながら笑みを浮かべた。斬首の腕を掲げたまま、『女王』は喜びを示すように歯を見せる。

「神崎、君は人間だ。そして、戦士だ」

 その言葉と共に振り下ろされた彼女の腕は、しかし突然、運動方向を横へと変更し、何かを払いのけた。

 『女王』が払ったのは、ナイフを握った神崎の左腕。もはや握力など無い程に断裂した腕による攻撃、それは神崎に許されていた魔力の慈悲。他者の肉体には不可能でも、自分自身の肉体に関しては魔力を発生させることが可能である。それが彼の神経網に少しでも繋がっている限り、細胞は彼を忘れない。

 神崎の左腕は彼の魔力によって『女王』の右側を攻撃し、他者の肉体故に『女王』はそれを己の腕で防ぐ他無かった。そうして生まれた最後のチャンスを、神崎は有効に活かした。

 右手のナイフに全体重と魔力の加速度を加え、『女王』の心臓へと突き出す。『女王』は左の人差し指と中指で刃を挟み込み、その一撃を制止させた。しかしその力は弱く、均衡は今にも崩れそうであった。

「この刃……これも魔力遮断素材かっ!」

 左胸にナイフの先端が迫る中、驚きとある種の感心が込められた声を『女王』は上げる。

「用意周到なものだな、神崎。確かにこれは私の魔力を妨害する。なるほど、簡単には砕かせてくれないということか」

 嘘だ。神埼には分かっていた。所詮、付け焼刃なのだ。怪物の暴風に小賢しい備えは無力である。

 それでも、全くの無意味では無い。

 歯をギリギリと噛み締め、神崎は力の限りナイフを押し出そうとする。刃の先端はあと僅かで敵の心臓に――だが、そうならないことも予想していた。

「……早く折ったらどうだ、『女王』」

「言われずとも」

 次の瞬間、『女王』の指に挟まれたナイフに亀裂が走り、金属音と共に刃は折れた。

 すかさず、神崎は力の方向を下へと変える。刃が折れたことで2本指の拘束から解き放たれたナイフが、『女王』の掌に深々と切り込んで行く。

 勝利の喜色を浮かべていた『女王』の表情は一変した。苦悶の滲んだ顔で振り下ろされる、彼女の手刀。神崎は折れたナイフを肉から抜き、再び『女王』の心臓目掛け全身全霊を込めて突き出した。

 鈍い音と共に、神崎の脊椎が砕かれる。彼の右腕は血の染み出る『女王』の左手によって抑えられ、折れたナイフの断面は彼女の心臓から数cmの地点で止まっていた。

 床に倒れ込んだ神崎。罵詈を浴びせようと口を開くも、大量の出血と致命的な骨折により叶わなかった。

「終わりだ、神崎。とても痛かったが、楽しかった。畏れ入った。主の敵を取ろうと、命すら顧みず……恐怖心を乗り越え、折れた刃を振るった。君は比類なき魔導士に相応しい、比類なき忠臣であった」

 朦朧とする意識の中、彼は何故かローエングリンを想った。自分が為せなかったことを、為してくれるだろうか。この女を、殺してくれるだろうか。

「ありがとう、神崎」

 彼は最期に託した。誰にも届かぬ思考で、願いを。

 首根っこを切り裂く、細い指。意思は噴血によって、何処へと無く掻き消えた。


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