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第10章「贈り物」


 目を覚ました時、アリスは夢の内容を覚えていなかった。

 格子状に線の走った真っ白な天井を見上げながら、彼女は眠りの中で見た光景を思い出そうとする。しかし、思い出せたのは大切な旧友の顔。ローエングリンの姿。そして、夢でない事実を思い返してしてしまう。

 ローエングリンとは二度と会えないという事実を。

 あれから何日経ったのだろうか。アリスは日数を数えようとしたが、ベッドの上で過ごした時間がそれを曖昧にさせていた。それでも、あの戦いは確かにあった。両手足の傷がその証拠であり、敗北の証拠でもあった。

 もし自分が強ければ、ルーシーを倒すことが出来たのだろうか。ローエングリンを、ホンシアを死なせずに済んだのだろうか。その答えもまた、曖昧だった。

 確かなのは自分が見聞き出来たものだけ。それ以外の全てが曖昧で、夢のようなものだった。

 在り得なかった想像と、起こってしまった事実。その狭間で思考と想起を繰り返しながら、アリスの意識が徐々に覚醒して行く。そして彼女は、窓から差し込む熱が左腕を照らしているのを感じた。外に出ればきっと、麗かな日差しと心地良い大気が満ち溢れている。そう思わせるような温度だった。

 日本の春。桜。アリスはその実物を見たことが無かった。見てみたいと思った。

 窓から見えるかも知れないと、アリスは腰の力と魔力による加速度発生で身体を起こす。その時、彼女は視界の隅に人影を見つけた。少し驚きつつその方向を見ると、そこに少女がいた。

 子熊を模した、パジャマ風の着ぐるみと耳の付いたカチューシャ。真っ赤な薔薇の花束を抱えたベイビードールが、無垢な目をしてアリスを見つめていた。

「ベイビードール……お見舞いに来てくれたのね」

 意外な来客であったが、アリスは心底嬉しく思った。ローエングリンを失った今、彼女が人間社会で再会出来た友人はベイビードール以外に存在しない。

 過去の繋がりによる優しさ。それはアリスにとって、ルーシーの対極でもあった。

 ベイビードールはアリスへと歩み寄り、くぁ、という寂しげな鳴き声と共に花束を差し出した。瑞々しい紅の花。その色にルーシーを連想しつつも、アリスは両手でそれをそっと受け取った。

「ありがとう、ベイビードール」

 思い浮かべてしまった不快を隠し、アリスは優しく微笑んだ。それを見たベイビードールは俯き、着ぐるみの腹部にあるポケットに両手を入れる。そして電子ボードを取り出し、文字を書き始めた。

 何か言いたいことがあるのかしら。アリスは優しい言葉を期待しながら、ペンを動かすベイビードールを見つめる。

 電子ボードからペンを離し、俯いたままのベイビードールがその画面をアリスへと向けた。そこには、こう書いてあった。


「ごめんなさい」


 一体何を謝っているのか、アリスには全く見当が付かなかった。それでも彼女は、顔を伏せるベイビードールの頭に右手を乗せ、ぎこちない手つきで髪を撫でる。

「大丈夫、貴女のせいじゃないわ」

 手を動かすたびに痛む傷口。まだ力の入らない指先。だけどそれは、決してベイビードールのせいでは無い。ローエングリンの死もホンシアの死も、ベイビードールには何も関係無い。

 彼女は何も、悪くは無い。

 アリスはそれを伝えるように、ベイビードールの頭を優しく撫で続ける。悲しげな顔の少女が少しでも笑ってくれるように。

 それ以上に正しい行動など、アリスの認識には存在しないのだから。


 奈々子は警察病院の廊下を進みながら、自分やアリスが平穏無事に過ごせている理由を考えていた。

 陰島俊二による『女王』襲撃から既に1週間。事件は表向きは発生して無いものとして、裏では資産家2名を狙ったテロとして扱われている。現場の検証は警視庁主動で行われ、そこに『女王』側からの介入は全くと言って無かった。

 ある遺体の引渡し要求以外には。

 中庭の一角で死んでいた、異様に白を強調した格好の男。司法解剖はそれが人間では無くアリスと同じ生命体、大シンボルと呼ばれるものであることを明らかにした。その遺体が『女王』の部下なのか、それともアリスや陰島の言っていたローエングリンという人物なのか。それはこちら側の生存者であるアリスに訊ねる他に無かったが、どちらにしても『女王』が回収しようとするのは当然の対応だと言えた。

 だが一方で奈々子は、その程度の介入しか『女王』側が行なっていないことを異常だとも感じていた。『女王』の正体と、彼女による殺人。その重大性を考えれば、自分を含め関わった人間の多くに何らかの警告か、それ以上の口封じが行われてもおかしくは無い。

 それなのに、時間は何事も無く経過している。

 その現状から、奈々子はある疑問を持ち始めていた。彼女が今回の事件で発覚したと考えていた、『女王』の正体。だが本当に、日本警察はその正体を知らなかったのだろうか?

 もしかしたらそんなものはとうの昔に周知の事実であり、もはや機密とは呼べない程に多くの人間に知られているのでは無いか。仮にそうだとすれば、『女王』側が隠蔽工作を行わないのも頷けた。

 そしてもう1つの隠蔽すべき事項である『女王』による殺人は、テロ行為の被害者として立場を明示した上で正当防衛を主張できなくも無い。それどころか、事件を阻止出来なかった日本警察の責任を追求出来る余地すらある。

 そんな奈々子の想像が正しければ、『女王』側が隠すべき真実など存在しないことになる。下手な介入は、むしろ事態を紛糾させる火種となり得るだろう。

 何もせず、日本警察の沈黙に全てを委ねる。それが『女王』側にとって最適の戦略である可能性は十分に考えられた。

 そのような推理を思い浮かべながら、奈々子はエレベーターの昇降ボタンを押した。降りてくるエレベーターを待ちながら、彼女はアリスについても思考を巡らす。

 アリスの重要度は今回の事件で大きく高まったと、奈々子は考えていた。日本国内で起きた最大級の魔力犯罪の目撃者であり、被害者であり、加害者でもある少女。そして、人間社会に潜む別の知的生命体の存在を証明できる存在。『女王』の正体を証明できる者。

 それなのに、アリスに対する警護と監視は全くと言って行われていない。

 奈々子の認識と食い違うアリスへの対応。彼女が重要視されていないとすれば、その理由は何か?

 エレベーターの到着音が響き、奈々子の集中は思索から目の前の扉へと移る。開いた扉の先、降りてきた箱の中には熊の着ぐるみのようなパジャマを着た女の子が立っていた。頭には熊の耳が付いたカチューシャを付け、小熊になり切っている少女。奈々子はその姿が奇妙ながらも可愛らしく見え、自然と微笑んでしまう。

 一方の女の子は笑顔を返すことも無く、するりと奈々子の横を通り過ぎて廊下を歩いて行く。奈々子はその後ろ姿を見送りながら箱に乗り込み、アリスの病室がある階層をパネルで指定する。そして意識もすぐに、小熊の女の子からアリスへと切り替わる。

 昇り始めるエレベーターの中、奈々子はアリスに対する自身の認識を整理する。

 アリス。『構造体』から来た、人間でない少女。可愛らしく、無知な少女。強い魔力と無邪気な愚かさを持った、ただの少女。

 その身に秘められた現代以上の技術も、その声が語ることの出来る『構造体』の情報も、彼女の奔放さからは想像も出来ない。それでも彼女に技術と情報が秘められている限り、彼女は唯一無二の存在に違いないはずだった。

 アリスの特異性。それは『構造体』の技術と情報に立脚している。今回の事件が無くとも、彼女は重要な存在であったはずだ。

 だが奈々子は、アリスに対して制限無く接することが出来ていた。アリス自身もまた、発信機及び盗聴器の内蔵されたリングを足首に付けられている他は、基本的に自由な行動を許されていた。

 その上、彼女の治療を今現在行なっているのは警察病院である。人間で無い彼女の治療であれば、機密性の高い研究機関で行うのが当然であるはずなのに。

 アリスの処遇に対する違和感が、奈々子の中にあった前提を揺るがし始める。そうして彼女の脳裏に、ある仮説が浮かび上がった。今まで気付くことの出来なかった、もしかしたら考えることを避けていたのかもしれない、そんな仮説が。

 階層を示すパネルの数字が増加していくのを見つめながら、奈々子は自身の考えを反芻する。

 大シンボル。人間でない彼らは、本当に稀有な存在なのか。『女王』はもはや人間としての社会的地位を確立し、ローエングリンという者は陰島の庇護を受けていた。彼らの他にもきっと、人間と密接に関係している大シンボルは数多くいることだろう。それはこの日本においても、そして日本警察が関与する範囲においても。

 奈々子は今まで、アリスだけがそのような存在だと信じきっていた。だが、合理的とは言えないその前提を否定すれば、全ての違和感は解消される。アリス以外に『構造体』の情報を提供し、『女王』の正体を証明できる大シンボルがいるとしたら、アリスを特別視する必要など在りはしない。より優れた協力者が他にいるのであれば、アリスはただの少女でしか無い。

 何故、そんな簡単な可能性に思い当たらなかったのか。その答えは、考えるまでも無かった。

 アリスが特別であると、信じていたかったのだ。

 自分が人知の及ばぬ非日常に触れていると、感じていたかったのだ。

 上昇を終えたエレベーターが止まり、扉が開く。奈々子はアリスの病室へ向かって、ゆっくりと歩き出す。

 社会におけるアリスの価値など、自分の幻想でしか無かったのかも知れない。だがそんな幻想を抱かせるほどに、自分にとってのアリスは大きな存在なのだ。そのことを、奈々子は受け入れつつあった。

 アリスの語る空想のような別世界の話と、彼女自身の無垢な愛らしさ。それらはまるで不思議の国へ誘う白兎のように、今も奈々子の興味を惹き付けている。

 アリスが自分の傍にいてくれること。凄惨な事件を乗り越え、生きていてくれること。自分に笑いかけ、世界をほんの少し彩ってくれること。それら全てに感謝すべきなのだと、奈々子は思い始める。

 そして、思い付く。アリスに何か贈り物をしようと。自分が出来うる限りの、彼女が喜んでくれるような贈り物を。

 思い立った奈々子は何を贈ろうかと考えながら廊下を曲がり、アリスまでの最後の直線を進む。

 服とかは……ちょっとありきたり過ぎるか。部屋における小物は……そこまで喜びそうじゃないし。

 アリスに似合う物品を思い浮かべながら、奈々子はどうしてか、日常が戻って来たような気分を覚えていた。


 真っ赤な花に目を落としていたアリスは、ノックの音に顔を上げる。

「起きてるわ」

 誰が来たのか、彼女は予想出来ていたし、期待もしていた。そして予想と期待の通り、扉を開けたのは奈々子だった。

「今日も元気そうね、アリス」

 どこか安堵しているような表情で奈々子は微笑み、扉を閉める。

「……その花は?」

 奈々子の視線は、ベッドの上に置かれた贈り物に向けられていた。

「友達がお見舞いに来たのよ」

「そう……友達が来てたの」

 一瞬だけ訝しげな表情をして、奈々子が静かに言った。アリスはその友達であるベイビードールについて色々と尋ねられると思い、身構える。しかし奈々子はそれ以上の追及を口にせず、窓際まで歩いて行く。

「外はいい陽気よ。もうすっかり春って所ね」

「桜は咲いているかしら」

「もう見頃ね。貴女の回復が早ければ、お花見も出来るかも知れない」

「今すぐにでも行きたいわ」

「もう少し休まないと駄目。傷の治りは早いみたいだけど、もうちょっと辛抱して」

 その言葉を聞いて、アリスはつまらなそうに口を尖らしてしまう。確かに両手足は満足に動かなかったが、外を散歩するくらいは加速度の発生で可能だった。病院のベッドで過ごすのにも飽き飽きしていた彼女は、いっそこっそり外出してしまおうかと想像を膨らませる。

「かなり無茶したんだから、しばらくは大人しくしてて。心配になるから」

 釘を刺すような、奈々子の気遣い。先日の戦いにおいて散々奈々子を心配させた挙句、その彼女に助けられたアリスには、それを無視することなど出来そうになかった。

 たとえ退屈であろうと、安静に休息することが自分への罰であり、奈々子への謝罪である。そのように思えてしまったアリスの内心で、外出への願望は萎縮して行く。

「ごめんなさい、奈々子」

 口から出た謝罪。奈々子を煩わせていることに対する言葉ではあったが、それを発せさせたのは自身の無力さを悔やむ心情であった。

 自分がもっと強ければ、傷つくことも困らせることも、失うことも無かったのかも知れない。過ぎてしまった事柄への問いは明確な答えを成さずに、ただ後悔へと変わって行く。

「謝らなくていいのよ、アリス」

 奈々子はそう言って、バッグの中から1枚の布を取り出す。それをそっと、アリスの前にある花束の上に乗せた。

「貴女が前に言ってた通り、服のポケットに入ってたわ」

 アリスはその布を手に取る。少し汚れたハンカチ。それはホンシアから渡され、もはや返すことの出来なくなった品物。アリスの手元に残った、唯一の遺品。

「そのハンカチ、何か大切な物なの?」

 弱々しい筋力でハンカチを握り締めて、アリスは小さく頷く。

 ホンシアがこのハンカチを渡してくれたのは、自分を戦いに巻き込むためだったのか。それとも、泣いてしまった自分を本当に慰めようとしてくれたのか。その真実は決して分からない。

 分かっているのは、あの時の優しさが今も自分の心に残り、大切な記憶として思い出せること。

 それはアリスにとって、紛れもない真実であった。

「……私はね、奈々子」

 懺悔の思いが言葉となって、口から溢れる。

「誰も守れなかったの。大切な友達も、友達になれそうだった人も」

 未だに脳裏に残る、2人の死に顔。一片の力も感じられない、表情の終着点。

「もしも、私がもっと強かったら、2人を助けられたのかしら。また一緒に、色々な場所へ行って、楽しくお話もして、それで……」

 もはや存在しない可能性。潰えてしまった幾つもの未来を想像してしまい、アリスは胸が苦しくなる。

「私が、私があと少しでも強かったら……」

「……貴女がどんなに後悔しても、死んでしまった人のために出来ることなんて何も無いわ」

 アリスを諭すように、奈々子が言った。

「でもねアリス、貴女はまだ生きている。生きている限り、人は自分自身のために出来ることがある」

「自分自身のために……?」

「自分のために、自分が正しいと思うことをやればいい。死んでしまった2人との記憶が貴女の中で息衝いているのなら、それだけで彼らが生きていたことを示せるんだと思う」

「本当に、それだけで良いの?」

「それしか出来ないのよ、人間は。自分が正しいと思ったことしか出来ない。でも、その価値観は記憶に左右されている。大切な思い出は価値観に大きな影響を与えて、それは行動にも表れてくる」

 奈々子の右手が、アリスの長い髪をそっと撫でる。優しく、愛おしそうに。

「貴女は貴女らしく生きれば良いの。大事な記憶はみんな、貴女の一部になっているはずだから。貴女らしく生きるということは、それらを大切にするということでもあるの」

 自分らしく生きる。それは外の世界へと旅立つ前日にアリスが決めた、彼女にとって当然の生き方。だがその意味する所は、あの日と今では全く違うのだと、アリスには思えた。

 変わったのは言葉ではなく、自分自身。外の世界に出た自分は、少しずつ、そして劇的に、変わって行った。

 奈々子に髪を撫でられながら、彼女は思い返す。外の世界に憧れていた頃、全ては想像の中にしか無かった。外の世界を真似た数々の物が、自分にその想像を与えてくれた。そして本物はもっと素敵なのだと信じ、憧れた。

 だけど外の世界で過ごす内に、それだけでは無いことを知ってしまう。規則や不自由、汚さや複雑さ。理解できない事柄が綺麗な空や甘いお菓子、面白い物語と一緒に踊っていた。

 自分が信じていた世界と、自分が見たことも聞いたこともない世界。それらが混ざり合って、本物の世界だった。

 そんな世界で共に生きた、大切な人々。そんな人々と共に過ごした、大切な時間。ずっと憧れていた物とは違う、だけどそれ以上に鮮烈なもの。想像すら出来なかった思い出が自分を変え、「自分らしさ」を変えた。今のアリスには、それが実感出来ていた。

 旅立つ前の自分らしさ。それは素敵な物を夢見て、求めること。あの頃の世界は遠く、全ては夢物語だった。

 旅立った後の自分らしさ。それは自分が望むことをやり遂げること。目の前の世界に手を伸ばし、望みを叶えようとすること。

 近くなった世界が、近くなった人々が、アリスの価値観を変えていた。自分が望み、為せば、世界が応える。自分自身が確固たる存在であることを、世界と友人たちが教えてくれた。何もかもが思い通りでは無くとも、決して夢見るだけで終わるようなものは無いのだと。分からないことだらけの世界であっても、自分は前に進めるのだと。

 

 そしてアリスの中で、『女王』は「ルーシー」という個人になった。

 

 新たに得た認識が、絶対に届かない存在を自身の到達点へと変貌させた。奪われた命と失われた未来に対する想いが、嫌悪の感情を打倒の決意にまで高めた。

 もはやアリスには、無視することなど出来ない。誰のためでもなく、自分自身のために、倒さねばならなかった。彼女の一部となった思い出たちが、それを強く掻き立てていたから。

 止められない思い。自分の中にある過去と、届くかどうかも分からない未来を繋げる思考。

 それを表す、言葉。

 アリスは気付いた。自分に与えられた、その言葉に。


「あのね、奈々子」

 髪を触る手が止まる。アリスは奈々子の顔を見ずに、言葉を続ける。

「私、夢が出来たのかも知れないの」

 手の中にあるハンカチを見つめながら、自身の思い出に語りかけるように。

「その夢の途中で、もしかしたら、誰かを殺してしまうかも知れない」

 ルーシーのように。

「……もしかしたら、私が死んじゃうかも知れない」

 ローエングリンや、ホンシアのように。

「それでも叶えたい、叶えなくちゃいけない夢なの」

 きっと理解されない思い。だとしてもアリスは、感じて欲しいと願った。

 その夢こそが、今の自分自身であることに。

「奈々子は……応援してくれる?」

 そっと、奈々子の手がアリスの髪から離れる。そして、告げられる。

「応援なんて、出来るはずが無い。貴女が死んでしまうような夢なんて、絶対に」

 アリスは奈々子の顔を見ようと、顔を上げる。アリスの両目が悲しそうな奈々子の表情を捉えるも、彼女はすぐに顔を背け、ベッドから離れてしまう。そして窓際に立ち、外の風景に目を移した。

 そして、諦めたかのように、一言。

「でも……許してあげる」

 肯定でも否定でもない言葉。それはアリスにとって、優しすぎる言葉であった。

 自分が死ぬことを肯定せず、自分が夢を目指すことを否定せず。アリスを心配し、アリスを尊重する奈々子の妥協点。自分には勿体無いくらいの優しさだと、アリスには思えた。それはとても、嬉しいことだった。

 だからアリスは、それに応えようと決意する。奈々子が望まないことを、絶対に避けて見せると。

 それが意味するのは、自分が死ぬこと無くルーシーを倒すということ。夢に敗北することも、引き分けることも許されない。奈々子の優しさを裏切らないためには、完全な勝利を成し遂げるしかない。

 望むところだわ、とアリスは心の中で意気込む。元より、死ぬ気も負ける気も無かった。それが奈々子のためになるのならば、迷うことなど何も無い。

 そんな強い決心を沸き上がらせながら、アリスは奈々子の姿を見つめる。寂しそうな、後ろ姿を。

「奈々子……?」

 その背中が、生まれたばかりの決心を一瞬で鈍らせた。

 奈々子のために、夢を叶える。でもそれは本当に、奈々子のためになるのだろうか。それは本当に、奈々子の望みなのだろうか。

「……どうかしたの、アリス」

 ゆっくりと振り向いた顔は険しく、普段のような穏やかさも明るさも、そこには見えなかった。

「えっとね、奈々子……」

 そんな顔をしないで欲しいと、アリスは思う。だがどうすれば奈々子が笑ってくれるか、彼女には思い付かなかった。

 自分の夢が奈々子を不安にさせているのだとしても、夢を捨てることなど出来ない。その代わりに何かをしてあげたいと思っても、何をすれば良いのか見当もつかない。

「私が、貴女に出来ることって、何かある……かしら?」

 だからアリスは、奈々子自身に問い掛けた。自分の精神に存在しない選択肢を、もう1つの精神に求めた。

「貴女が、私に?」

 面食らったらしい奈々子は、驚きながら尋ね返した。

「珍しい、ううん、初めてかも知れないわね、貴女がそんなこと言うの」

 微かながら、笑み。

「そうだったかしら?」

「ちょっと気持ち悪いかも」

 アリスは「ひどいわ」と返し、奈々子は悪戯っぽく笑う。笑って欲しいというアリスの思いは、その手段を知ろうとする過程で果たされた。

「そうね、少しワガママを言わせてもらうなら」

 身体ごとアリスの方へ向き直し、奈々子が言葉を続ける。

「あんまり勝手に遠くへ行って欲しくないかな。やっぱり、心配だから」

 アリスはその言葉の中に、奈々子の寂しさを感じた気がした。まるで置いてけぼりを怖がる少女のような、そんな寂しさを。

「大丈夫よ、奈々子。私は勝手に何処かへ行ったりしないわ」

 その言葉に、奈々子は呆れたような微笑を浮かべる。

「行こうとしたくせに」

 それがルーシーとの戦いの朝を指していると、アリスはすぐに察する。

「えっと、あれは、ちゃんと帰ってくる……」

 帰ってくるつもりだったから。そう弁解しようとした時、アリスは気付いた。

 あの朝も今も、自分が成功のイメージしか心に浮かべていないことに。その一方で奈々子がきっと、失敗の可能性を考えていることに。

「アリス?」

 気遣うような奈々子の呼び掛け。彼女が最悪の事態を考えてくれたから、今の自分がいる。

 アリスは今更、その認識を得ることが出来た。

「……もう、あんな勝手なことはしないわ。奈々子が一緒にいてくれるから、私は私らしく生きられるんですもの」

 自分がこの国に来れたこと。不自由の無い日常を送れたこと。ルーシーと戦い、生きて帰れたこと。

 全ては、奈々子の力だった。

 「これからもずっと、奈々子と一緒に行くわ」

 それを聞いた奈々子が、顔を赤らめる。アリスは微笑みながら、無垢な眼差しで彼女を見つめ続ける。

「もう、何を突然言い出すんだか……」

 狼狽しながらも、奈々子の表情はどこか嬉しげにも見えた。

「貴女はホント、予測出来なくて不思議だらけなんだから」

 アリスは首を傾げて、問い返す。

「私が不思議だらけ?」

「ええ、そりゃもう。私にとっては、貴女は『不思議の国のアリス』以上に夢物語な存在なのよ」

 可笑しかった。可笑しすぎる言葉だとアリスは思った。

 私自身、自分が『不思議の国のアリス』の偽物だって思った時もあるのに。奈々子にとっては、その本物以上だなんて。

 あまりにも滅茶苦茶で、アリスはとても嬉しくなった。

「そうね、それだったら、むしろ光栄だわ」

 笑い合う2人。取り留めの無い会話が、アリスには心地良かった。

「まったく、あんまり調子に乗り過ぎないでね。もう少し常識を身に付けた方が本当は良いんだし」

 そう言った後、奈々子は何かを思いついたように「あ、そうか」と声を出す。

「ねぇアリス。貴女、戸籍を取ってみない?」

 唐突な提案に、アリスは目を丸くする。

「戸籍?」

 その言葉の意味は、おぼろげながらアリスも知っていた。

「自分がどこの誰なのか、証明する仕組みよね」

「そう。それがあれば身分証明が必要なことも出来るようになるわ。貴女が望むのならば学校にも通えるかも知れないし、色々な免許や資格を取ることだって出来る。自分専用の預金口座も作れるからウェブで買い物も出来るし、パスポートを取れば海外旅行も行けるわね」

 奈々子が列挙する可能性の数々。それは人間にとって普通のことでありながら、アリスには許されなかった日常。戸籍を得ることでそれらが可能になるのならば、それが意味することはひとつだった。

「つまり、戸籍を取れば人間になれるのね」

 アリスの言葉に、奈々子はしばし考える仕草をする。そして、頷いた。

「そうね、その通りだわ。戸籍を取れば社会的に人間として認められる。だけど、貴女が変わるわけじゃない。貴女に対する社会の接し方が変わるの。何処の誰でも無い人間っぽい何かじゃなくて、唯一無二の個人として扱ってくれるようになる」

 それを聞いたアリスの中で、イメージが広がっていく。

 自分が見つめて来た世界が自分を見つめ返す感覚。彼女が手を伸ばすと、世界もまた変化する。甘いお菓子も、綺麗な洋服も、色取り取りの景色も、街を行く人々も。

 決して、一方的などでは無い。全てが双方向に関わり合っている。

 アリスは自分の手が、その何もかもに届きそうに思えた。

「それは……素敵なことだわ」

 もはや外の世界など存在しない。奈々子からの贈り物が、アリスを世界に招き入れていた。

 彼女は、自分を取り巻く世界をさらに強く想像する。

 奈々子と楽しい日々を生きる現在。ローエングリンと共に色々なことを学んだ過去。ホンシアのような出会いが待っているかも知れない未来。

 そして、それら全ての先に見えるもの。過去から繋がっていて、現在を生き抜くことで辿り着ける、未来の果てにある到達点。

 世界の彼方で、ルーシーが笑みを浮かべていた。

 その場所を目指して、アリスは歩き始める。記憶の加速度を受け、感覚する全てを道標にして、前へ、前へと。旅路の途中で出会えるだろう、素敵な何かに胸を膨らませながら。

 奈々子と、一緒に。

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