第四話 ひたすらに、東菊花
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入学式から一カ月程経過した5月、あの日の朝。
丈太郎が偶然校内に居合わせたことは、彼の人生を激変させるきっかけとなった。
調理実習のために、前日から仕込みをさせてくれと担当教諭にお願いしたが、ニガ笑いされながら「仕込みするアホがおるかいッ」とやはり断られ、渋々朝イチで登校した丈太郎。
イタリアから運び込んだ五つ星リストランテの調理器具一式をかつぎながら、丈太郎が校内をウロウロしていたときのことだった。
2年C組の教室。
東菊花は、ある少年と何かしら会話をしている。
丈太郎のクラスにも、他の生徒と打ち解けられない生徒が何人かいる。ほとんど会話もなく、存在すら確認できないほど。もちろん気弱な、いじめの対象になるような生徒はどこにでもいるのだが……話し相手の少年も、まさにそんなタイプだった。
彼女が一対一で話していたその少年が、唯一熱中していたジャンルが「軍事モノ」。彼の日常は、その手の雑誌を教室の壁際でお通夜のごとく独り黙々と読みふけるだけ。友達もおらず、クラスメイトもほとんど無視している状態だった。
また裏では酷いいじめの噂もあった。
「ふーん……X35とF35の違いかぁ……納豆と豆腐の違いみたいなもン、かなっ?」
「……ガンダマとGNの違いみたいなもんだって? はあぁっ?」
「まぁ、できるだけ色々な趣味とか、他の分野にも興味を持ったほうが、さぁ……」
「そう……そうだよっ、他人と会話もできないんじゃ、将来大変だと思うしィ……」
「将来の会社勤めとかさ、そんなコトを考えるとだね、……そォ、そうなんだよねぇ」
「やはりすべては健康な身体からっ……」
聞こえてくる会話は、楽しげなオタク同士の会話というより、段々と人生相談か、生徒指導のような、何とも理解し得ない内容に徐々に切り替わっていった。
会話は更に続くかと思ったが「じゃ、がんばってね……」と、その少年に一言告げるとあっさり終了。東菊花はすたすたと2年C組の教室を出て行く。
そのとき、丈太郎は彼女に気づかれまいと、その場から立ち去ろうとしたが………。廊下で東菊花と一瞬すれ違う。刹那、丈太郎に衝撃が走った。
―――ペパーミントを濃縮したような、脳天を突き抜ける、衝撃的なまでに爽やかな芳香。甘ったるい女性特有のものとは正反対の、アルプスの少女のブランコが青空高く成層圏まで飛び出していくかのような、高潔で……清々しい空気感。
同時に溢れ出る母性、安らぎ……。
過去に味わったことのない衝撃が、亞蘭丈太郎を襲った。
彼女はそんな丈太郎の感動の一場面を知ることも無く、軍事マニア必読の書「補給戦―何が勝敗を決定するのか」を広げつつ、3年の教室の方へ消えていった。
すると……さっきの軍事マニア少年が、なぜかジャージに着替えて教室から飛び出し、校庭へ突入していく。
何をするのかと見つめていると、いきなりぐるぐると校庭を走り出した。彼は殆ど体育の授業には参加しておらず、運動一般を通じて得意ではない。
しかし、さらにずっと彼を見ていると、もう10週近くになっている。それでも走るのをやめない。ボロ雑巾のようになっても、汗だくでフラフラになって、転んでもまた立ち上がる。そして、校舎の方に向かってクタクタになった体を起こし、なぜか手を振る少年。
その手を振る方向を見ると……校舎4階のベランダがあった。
東菊花が、女神様のような美しい笑顔で彼に右腕を上げ、サムアップ……。
「――――――――…………」
言葉に詰まる。
丈太郎はその青臭い光景を眺めながら、気恥ずかしく、感動もせず、かと言って中々お目にかかれないその不思議な情景に、自分の視線を奪われていた事に気がついた。
(コミュニケーション能力に劣る、気弱な生徒を励ましたい?)
(個人々々の趣味を理解して、それで何になる? 単なる思いつき? 気まぐれか?)
(ただの偽善行為ッ? おせっかい少女の優しさの押し売り?)
亞蘭丈太郎は当初、何がなんだかよく分からなかった。
そのときは、この少女の意図する方向が……意味不明で、全く理解し得なかった。
しかし、東菊花という少女が唯ひとり奮闘している、目指している果てしない目標。
日々継続している、そのあきれるほど地道な行為が、とてつもなく……とてつもなく広大で、それが想像を絶するものであることを知ったとき……。
自らの瞳で確認し、己が身体でそれを体感し終えたときには――――彼は、亞蘭丈太郎は……自らの人生を、その歩みの方向を変えざるを得なくなっていた。
東菊花。
彼女は今朝、国道四号線傍の、とある家庭を訪れていた。
だから渡らなくても良い国道を渡ったのだが、今日初めてその家を訪れたわけではない。
この一軒家には今まで20回程度訪れている。
しかし、訪問して何をするわけでもない。ただ、門前のベルを鳴らすだけ。
そして、インターフォン越しに、
「――――――――……おはよう。………どうかな、学校さぁ……行ってみない?」と告げるだけ。
あるときなどは「学校行こう」とも言わない。
「……今日さぁ、天気いいよ? 窓、空けてみなよ……」
安西家は、我が子が不登校に陥って数ヶ月。
家庭内も崩壊寸前、夫婦・親子関係もボロボロになっていた。
当初は東菊花の突然の訪問に、母親も不審がって学校に通報まで行っていた。しかし何度も訪れる少女の献身的な想いに気づき、それ以降は彼女が訪問すると、頭を床にこすりつけるように、神を崇めるかのように母親はお礼を言った。
「あ、あの……娘も頑張ってるみたいなの……毎日、ごめんなさいね……菊花さん」
まだ通学までは至らないが、日々登校への意欲を見せる娘。心配する母親。この家の内部事情まで、東菊花が知っていたのかどうかは判らない。彼女の日々の行為は、朝この家を訪れること、放課後に宿題のプリント等を持ってくること、学校内の予定や行事、様々な情報を母親に伝えること……。
本来は、担任教諭が行うべき範疇だが、しかしこれを地道に行うのは、とてつもない時間と労力を伴う。
まして東菊花とこの不登校生徒は、友達でも何でもない。クラスメイトでもない。
事実……5回目の朝の訪問で菊花は、この生徒の素顔を初めて見たのである。
「がっこ………楽しいよ? ……みんな、待ってるからさ………」
丈太郎が見た校庭をぐるぐる走り回っていた軍事マニアの生徒・山下志郎。
実は彼も、以前は不登校で学校に来ていなかった。昨年度はほとんど登校せず、菊花に朝の訪問を受けて励まされ、やっと先日から再び登校を始めていたのである。
あの丈太郎が見たシーンは、いわば通常登校への、リハビリ段階だったのだ。
とは言え、東菊花の対応している不登校生徒は、ひとりやふたりではない。彼女はローテーションを組み、全校の不登校生徒32人を、一軒一軒訪問していたのである。
彼女ひとりで毎日毎日……不登校生徒ひとりひとりの現況が書きこまれた、小さなノートとにらめっこしながら。
胸元に光る十字架が、五月の風に煌いていた。
彼女は次の家に向かう。
淡々とそれが毎日の日課のような、当たり前のような表情で……。