第ニ十六話 双頭の女狐 ~剣聖降臨~ 菊花の右腕 その3
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激痛に顔を歪めながらも強引に片膝をつき、
満身創痍で立ち上がろうとする菊花。
何とか、…………左腕は動く。
あの狐面に勝つ方法は……!?
この状況下では逃げることすら不可能。
………絶望が支配しつつも、必死に勝機を見出そうとする菊花。
視界が鮮血で真っ赤に染まりながら、暗闇を見つめ……
死中に活を…………凝固していく血を払い、
少女の瞳が鋭く輝いた。
―――――――あの電柱を蹴りあげて…………右から、
そして―――――…………。
全身三分の一以上の出血量。
肉体活動は到底望めない。
…………このままではわたしの全身は八ッ裂きになる……
少女は、全身を劈くかのような激痛にも―――――構わず、
――ッ……――――スパ―――――アアァァァァンッッ―――
………歯を食いしばり、左の掌底に全身の力を込め、
番の狐面に向け、垂直に飛翔する菊花。
―――欲しけりゃこんな命、悪魔にだってくれてやるッ!
―――でも、わたしは、この汚らわしい現世を、
血反吐を吐きながら、
―――この世界でもがき、苦しみ抜いている人々を、
絶対に救う!
救ってみせるッ!
―――貴様らなどに、負けて………………たまるものかッ!
絶望と希望………
少女の瞳から一筋流れる絶体絶命の涙―――――――――
それが、地面に滴り落ちた瞬間――――――――――――、
―――――――――――――――――――――――――ピシッ!!
激しい稲光と共に、その場に激しい光体が放たれた。
――――――ピシャアアアアァァァァッッッッッ―――――――
真昼よりさらに激しく輝く。
白金色の強烈な光芒が、あたりを包んでゆく。
「――――――――――ッ……うっ、
ウォオオオォオオォォォォォォッッ!!!」
双頭の狐はその光源の輝きに恐れおののき、
思わず両手で面を隠した。
同時に狐の身体の輪郭はボロボロと崩れ、
体の端々が砂のように溶けていく…………。
そして精信学園中央大舎の屋根上に掲げられた、木製の十字架がその輝く白光と共に唸りを上げて崩れ落ち、同時にその下にある青銅色の救世主の像が、無数の光芒と共に白銀色に輝いた。
「――――精一郎様ではない、―――精一郎様ではない―――
………………あっ、あれは――――――――!!!」
半透明に輝く逞しい男性の姿が、
血まみれの菊花の両眼に微かに映りこんだ。
――――――京どの、静どの………お気持ち、
受け取りましたよ……
――――――その娘は大丈夫………
かならずや人々を幸せに導いてくださる……
――――――それに……その娘は我々だけでなく、
偉大なる御方の守護も………………
半透明から黄金に輝き始めた男性の優しい笑顔が、
ふたりの幼い姉妹に投げかけられた。
姉は妹を抱きしめ、妹は姉のあたたかい頬に安らぎを感じ取った。
………… あっ! せいいちろうさま――――――――――――
………… あっ! せいいちろうさま、みつけた―――――――
………… せいいちろうさま……あのね、京姉ちゃんがね―――
姉妹の狐面が虚空を舞う…………
あの河原へ、生を為していた葦原へ……。
万延元年(1860年)江戸―――――――
外国勢力が日ノ本國を狙い、
続々と締結されていく和親、通商条約……。
そんな江戸幕府崩壊の数年前。
現在の両国駅近辺に、豊後府内藩下屋敷があった。
その南側に……何とも騒がしい、子供達の声が聞こえてくる、不可思議なお屋敷ひとつ。60過ぎの老年ながら、ふぅふぅ言いながら鬼ごっこ。
その小柄で色白の老年剣士は、自らの屋敷を改築した、子供達の仕切り部屋からトコトコと歩き出し、
「……これこれ、わたしのトシを考えておくれ……」
柔和な表情で子供達を追いかける。
「あはははっ……せいいちろうさま、ここだよぉ……」
楽しそうに笑う幼子。
「こっちこっち……うふふふっ……」楽しそうに見つめる。
たくさんの子供達。
笑顔、泣き顔、ふくれっ面…………。
それらすべてを慈しむように、包み込むように。
老年剣士は、大切に大切に……育て上げていた。
幕末の剣聖。
剣の神様とまで呼ばれた男。
江戸中、そして全国から集うあらゆる剣客と立会い、完全無敗を誇った幕末最強の剣客。文字通り無敵無双を誇った彼の名は、
男谷精一郎信友―――――通称・精一郎。
講武所師範・下総守として三千石を賜り、三大道場の千葉・桃井・齋藤をも遥かに凌駕。
まさしく剣の頂点を極めた、直心影流の達人である。
人間的に非常に高潔・温厚で偉ぶるところ一切無く、市井の民にもこの上なく優しく、多くの困窮人や行き倒れの人々を救った。
そのあまりの慈悲深さから、救世観世音菩薩の生まれ変わり、とまで言われた。
また、自らの膨大な財産をすべて投げうって、
孤児を養う「精信慈悲院」を建設。
江戸城下に、数百人もの孤児を収容していた事実は……
あまり、知られていない。
みなしごたちのために私財全投入を行った事実も、
慈悲院建設推進に奔走したことも、男谷精一郎はあえて……
外部に洩らすことは、なかった。
60歳を過ぎた現在。
直心影流道場は榊原健吉ら後進の剣士たちに任せ、講武所師範としてのお役目だけを残し、精一郎は、剣客としては既に隠居生活に入りつつあった。
かつては壮絶な修行の日々を送っていた剣の神様も、寄る年波には勝てない。次々と道場破りをなぎ倒していく天下無双の剣聖・男谷精一郎は過去のことであり、現在は親を失ったみなしごたちの未来を心配し、自らの屋敷、道場等を改築しただけでは足りないと、他所にも孤児施設を建設すべく奔走する日々を送っていた。
「……きょうはね、おさかなとらないの?」
ひとりの幼い女の子が精一郎に話しかける。
鬼ごっこは流石に疲れ果て、縁側にへたり込む剣聖などおかまいなしに、次の精一郎の一挙手一投足に注目する子供たち。
片時も精一郎から離れまいと、手を取り、帯にしがみつき、裾をつかんで離さない……子供たちの視線は、いつでも剣聖・男谷精一郎の方へ向けられていた。
「せいいちろうさま、つかれちゃったんだね。
ね、あねさま……」
手をつなぐ静が、姉に話しかける。
4歳の静は、いつも遊んでくれる精一郎が大好きだった。
精一郎は昔から投網が好きで、近くの隅田川に足を運んでは、鯉だのうなぎだのと、捕まえてくるのが日課となっていた。
三千石賜る天下の講武所師範が、投網を引っさげて隅田川の岸辺までぺたぺたと往来を歩く姿も、当時としては異様な雰囲気であったろうが、人々は皆、その微笑ましい光景を「剣の神様が往く」と手を合わせ、有難がるほどだった。
しかも……当時、皮革業などを生業とする、民衆からは避けられる最下層の孤児達まで……ぞろぞろと、引き連れての行列である。
剣聖とまで尊ばれていた精一郎だからこそ許されたのであり、そこらの御家人風情がそれを行えば、ただでは済まなかっただろう。当時の身分制度は現代では考えられないほど厳しい。
「……ああ、そうだねえ……、
今日はおさかな……取りに行けるかな? はっはっはっ……」
息切れはおさまったが、流石に老いは隠せない。
今年6歳になる京は、無邪気にはしゃぐ妹・静をたしなめつつ、縁側で休憩をとる精一郎を心配していた。
あの悪夢の日から一年。
京と静は、精一郎を親とし、道標とし……神と崇め、
今日まで生きてきた。
一年前のあの日、隅田川の岸辺で遊んでいた京。
夕闇が近づき、仕事を終えているはずの両親を探し、妹と共に、葦の草原をさまよい歩いていた。
皮革業を営んでいた京と静の両親。
当時の賎民階層の人々は河原などにその住居を置くことが多く、また住居は集合して立地しているのが通常だった。京と静の両親も同様、隅田川沿いの長屋の一角に居を構えていた。
夕飯の時間ともなれば、母親の子供達を探す声が響くのが日常だったが、その日はいつまでたっても母親の声がしない。
ボロボロの自宅長屋には誰もいなかった。
辺りはさらに暗くなり、京も心配して静の手を引きつつ、
さらに両親を探し続けた。
近所からは夕飯の支度をする包丁を叩く音、
煮炊きする匂い……。
しかし、自分の住まいは未だ漆黒の闇に包まれるばかり。
京は、嫌な予感が、した。
長屋住まいの隣の夫婦から、話し声が聞こえてくる。
「…………無礼討ちだとさ」
「凶状持ちの馬鹿野郎に、無礼もくそもあるもんさね……」
「京ちゃん、静ちゃんが帰ってこないうちに……さ、あんた……」
「……あ、ああ……そうだな……全く、
神様も無慈悲なことをなさる…………。
まだ、あんな小さい子を残して、なぁ……」




