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サイン







 親指、人差し指、小指を立てる。中指と薬指は曲げて、指の腹を掌につけるようにする。野球のツーアウトを示すサインに似ている。

 そのまま、手を頭の横に持って来て、ねじるようにして、軽く動かす。


 これを読んでいる人。あなたも無意識にこのサインを行っているはずである。

 完全に無意識の行動だから、このサインを行っていることを認識できず、私の話を信じてくれないかもしれないけれど、これは本当の話である。

 そのサインが何を意味するのか、意識しはじめた頃の私には、さっぱり解らなかった。多分、あなたもそうだろうから、順を追って、いかにして、私がこのサインに気付いたのか、そして、このサインが何のためにあるのかを、説明させていただきたい。


 私がそのサインに気付いたのは、仕事をリストラされて、精神科の医者にかかっていた頃のことだ。当時、私の神経は極端に過敏になっていて、他人の細かい仕草に気が向き過ぎるきらいがあった。

 そんある日、医者から治療のために貰った薬も飲まず、職探しの帰りに街を歩いていた時のことだった。

 街中のサラリーマンやOL、中学生、高校生、子供、主婦、客引きをしている店員、警察官、郵便配達員、肌を黒くした少女、オタク風の青年、柄の悪そうな不良っぽい少年やヤクザ風の人らに果ては外国人までが唐突にそのサインを始めるのを、私は見たのだった。

 親指、人差し指、小指を立てて、中指、薬指は曲げて、指の腹を掌につけて、頭の横で、軽くねじるようにして、動かす……。

 誰かがそのサインを開始すると、まるで水面に波紋が次々に伝わって行くようにして、周りのみんなも同じサインをやり始める。そして、始まった時と同じ唐突さで、不意に止めてしまう。

 街を歩いている間中、繰り返されるその行為が、私にはずっと気になっていた。


 家に帰り、鏡に自分の姿を映してみた時、私は、自分も無意識にそのサインをしている事に気付いた。

 神経が高ぶっている影響で、私は、どうもそれが気になって仕方がなかった。はっきりと言えば、うっとうしかった。そんなうっとうしいサインを、自分は何で無意識にやっているのか……。有りがちだが、気になり過ぎて、夜も眠れず、医者に薬の量を増やしてくれと頼むほどだった。

 そこで私は、適当に道行く人を捕まえて、何でそんなサインをしているのかを訊ねて歩いた。今考えると、とんでもない話だが、当時は、ひっかかりを失くしてすっきりしたい、という強迫観念に動かされていたので、そんな行動を取れたものであった。

 「はぁ?」

 そんな私の問い掛けへの第一声は、大抵、こうだった。そして、皆、異句同音にこんなことを言うのであった。

 「あなた、どうかしているんじゃないか? 自分はそんなサインはしていないよ。いい加減にしないと、警察を呼ぶよ」

 人によっては、本当にそうする人もいた。

 そのために交番に引かれて行かれた私は、交番の巡査にも、そのサインについて訊ねてみた。国家権力に関わっている人間ならば、何かを知っているかもしれない、と思ったからだ。

 私は巡査の目の前でサインの形を作り、実演してみせた。

 「お巡りさん、このサインの意味、何なんですか? 教えて下さいよ」

 「あんたねぇ、ちょっとおかしいんじゃあないか? 誰も、そんなサインはしていないよ」

 交番の巡査はすっかり呆れていたが、そう言う彼の手も、サインを行っていた。それなのに、彼は自分でそれに気付いていないのだ……。

 巡査は、私に精神科への通院歴があると解ると、関わり合いになりたくなかったのであろうか、住所と名前、電話番号を控えて、さっさと家に帰してくれた。私の中で、謎は深まるばかりだった。

 その後、二ヶ月ほど図書館に通い詰めて、あのサインに似た物がないか、と手話の本から暗号の本までを読み漁った。だが、私の満足いく答えは見つからなかった。

 いい加減、職も探さねばならなかったが、疑問が解決するまでは、何も手につかず、朝も昼も夜も、あのサインのことばかり考えていた。

 そんな、ある夜のことだった。突然、私の思考が切り替わって、私はその時から俄かに、サインをしないことで何が起こるのか、という考えに取りつかれ始めた。

 神経が参っている時の思考の巡りは、通常では考えられないほどのねじ曲がった経路を取るもので、私は鏡を見ながら、自分に暗示をかける、という方法で、自分がサインを出すことを封じるのに成功したのであった。


 私は街に出て、サインをしなくなったことで、実際にどういう影響があるのかを確かめようとした。

 最初は何の変化もないように思えた。だが、しばらくすると、街を行く人々が、またあのサインを始めるのが見えた。それが、あっという間に人から人に伝わるようにして駆け巡って行く。

 まさにその時である。私があれを見たのは。

 初めは、私の目がおかしくなったのかと思った。それはそうだろう。全身真っ黒な影のようなものが、動物みたいな四足歩行で街の中を歩いているのだ。例えるのならば、大きな黒豹が街に出てきたようなものなのに、周囲の誰も、そいつに気付いた様子もなく、慌ててもいないのだから。

 そいつは地面に這いつくばるようにして、適当な誰かに近づいて行くが、その近づかれた者がサインをするたびに、そのサインを行った者を避けて、別の者へと向かって行った。そして、また、近づかれた者がサインを行うと、また他の者へと方向を転じる……。

 それを繰り返しながら、やがてその影は、私の方に近づいて来た。

 それが何なのか、もちろん解るはずもなかった。しかし、その得体の知れないものが、周囲の人間をよけて、確実に私の方に来ている……私は、腹の奥に、ずしりと重い物を感じ始めていた。

 私は、手近な人たちに、あそこに、このようなものがいる、と訴えてみたが、それらの人々は、片手で例のサインをしながら、「何だ、このおかしな人は?」と言いたげな表情を見せるだけであった。

 そんなことをしている間に、ついに、そいつが私の前までやってきた。

 そいつは、一瞬、じっと動きを止めた。そして、私に――そう私に、その頭らしき部分を、微かにもたげるようにして向けた。

 見つかった! そう直感した時、私の神経は高ぶるのをやめて緊張し、私にある警告を送って来た。

 (そいつから逃げなければいけない!)

 だが、私の体は、その場で固まってしまっていた。

 私が身動きできずに、そいつの黒一色でのっぺりとした、頭らしき部分を眺めていると、その表面に、突然、ぎょろり、と赤い一つ目が開いた。人の頭ほどもあるのではないか、と思うほど、大きな目だった。

 その血走った目と視線が合った途端に、私は、それが狂暴に獲物を狙う獣の目だと思った。

 そして、次に、顔の半分はあるのではないか? と錯覚するほどに大きな口が開いた。

 その口で、そいつがニタリと笑った。人間など簡単に食いちぎってしまえそうな鋭い牙が、狭い間隔で無数に生えているのが、やけにはっきりと見えた。

 交通事故などに遭遇した人間は、一瞬の出来事が、スローモーションのように長く感じられる、という話を聞いたことがある。その時の私の状態は、まさにそれだった。そいつの動作がやけにゆっくり、はっきりと見えるのは、そいつが危険な存在である、という、何よりの証であるように思えた。

 危険を感じているはずなのに、まだ私の体は動かなかった。周囲の人間が怪訝な顔をして私の側を通り過ぎて行くのが、やけにはっきりと見えた。それらの人々は、やはり、片手であのサインを行っていた。

 その瞬間に、私は悟った。あのサインは、こいつを避けるためのサインだったのだ、と。

 私と周りの人間の行動に違いがあるとすれば、それは、間違いなく、あのサインだった。実際に、そいつは周囲の人間に見向きもせずに、私にだけ狙いを定めていた。

 不意に、私の前で、そいつの体が沈み込んだ。

 飛びかかって来る! と感じた瞬間に、私はやっとそいつに背中を向けて逃げ出すことができた。

 私は前後も確認せず、力を振り絞りって無茶苦茶に逃げた。恐ろしくて、振り返ることもできなかったが、そいつが背後でどんどん距離を詰めて来る無言の圧力が、確実に私に迫って来るのが解った。

 どれくらい逃げたのかは解らなかったが、私は突然、背中に衝撃を感じて、地面に倒れてしまった。

 あいつに追いつかれた、という恐怖が、背中からのし掛かって来る重みと一緒に、じわじわと全身にしみ込んできて、私は、そいつに食われてしまう! と観念した。

 だが、その時、あのサインを行えばいいのだ、と急に閃いて、私は無我夢中であのサインを行ったのであった。すると、私の背中に感じていた重みはすっと消え失せて、気が付くと、あいつの影も形も見えなくなっていた。

 周囲の人々が、私を奇妙なものを見る目つきで眺めていた(私は、100mも逃げていなかった)。その誰もが、もうサインをしていなかった。

 それで私は、ようやく、あいつが去ったと安堵したのであった。


 あいつが確かに実在した証拠として、私の服には、はっきりとあいつが爪を立てた跡が残っていた。

 私はあいつの正体を調べるために、さらに図書館に通い詰めたが、結局、その正体は解らずじまいだった。

 だけれど、その時、たまたま読んだ魔除けと潜在意識について書いた本で、あいつの正体ではないが、サインの秘密を解く鍵になるようなものを見つけたような気がした。

 日本の修験道には、いわゆる"魔物"を追い払うために、指で特定の形を作る"印"というものがあるという。あのサインは、その"印"の一種ではなかろうか? 

 そして、人間の意識には、自分で見たくない、と思うものを、シャットアウトする力があるという。

 仮説ではあるし、確かめようがないけれど、おそらく、人間の本能は、あいつが危険な存在であると認識して、それらを遠ざけるサインを、自然に、しかも無意識に行うように潜在意識に刷り込んだのではなかろうか? そして、あいつの存在と、サインを行っているということを、意識からシャットアウトさせていたのではなかろうか? 私のように、サインに気付いて、それを止めようとする人間が出ないように。

 あの時、私の高ぶりすぎた神経は、本来は意識していはいけない領域を、私に垣間見せたのかもしれない。


 ところで、あいつを追い払うサインなのだが、何も手でやるものだけではない。頭を振るものもあるし、足や、体全体で行うサインもある。

 何故、それが解るのかというと、私が治療を受けている病院で、そういうことをしている人間が沢山いるからである。

 現在、私は神経過敏のために入院している。この病院の患者も医者も看護師も清掃係も出入りの業者も、誰も私の言うことを真に受けない。けれど、彼らも確実にサインを行っている。

 私も、今では神経質なほど、あのサインを行っている。あいつへの恐怖が私にそうさせるのだ。もう二度とあいつの姿は見たくない。

 あなたも、あいつの姿を見たら、きっと、そう思うに違いない。だが、あいつの姿など見ない方が幸せというものだ。だから私はあなたに忠告しておきたい。

 もし、あなたが不意に、誰かが無意識にしている仕草が気になり始めたら、それは何かを避けるサインだと考えてみた方がいい。私もあなたも、多分、いろいろなサインを無意識に行っているはずだから。そして、それがサインと解ったのなら、それを絶対に止めてはいけない。そう、絶対に、だ。

 ここの病院の連中は解ってくれないが、あなたは解ってくれると信じている。


 ほら、今もあなたは、無意識にサインを行っている……。


〈終〉




※この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件にはいっさい関係がございません。

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