第七章 所有
目を覚ました時、リュシアンは見知らぬ天井を見ていた。
高い天井、石壁、暖炉、上質な寝具。監獄にしては快適で、私邸にしては閉じすぎている。窓には厚い格子がはまり、扉は重い。
そして首に、重みがあった。
彼はゆっくり手を伸ばし、革の感触に触れた。幅広の首輪。そこから伸びる鎖がベッド脇の固定具へ繋がっている。
「趣味が悪いな……」
「同感だ」
部屋の隅からフェリクスの声がした。
肘掛け椅子に腰を下ろし、本を閉じる姿は妙に落ち着いている。まるでただ、目覚めを待っていただけというように。
「外してくれと言ったら」
「断る」
「せめて善処するとか、希望を持たせる嘘はないのか」
「お前はそういう嘘を好まない」
「好みを理解されてるのが一番不愉快だ」
フェリクスは立ち上がり、テーブルの皿を手に取った。
「食事にするか」
差し出された皿から、強い胡椒の匂いがした。
リュシアンは目を細める。
「まさか」
「ご所望だったろう?肉」
「朝からステーキを出されるのは流石に想定外だよ……」
「お前の舌に一番合うそうだからな」
リュシアンは数秒、完全に黙った。
こういう時に直球を投げてくる男ではない。理屈で包んだ執着を、そのまま当然のように差し出してくる。だから反応に困る。
「まあ、犬の餌にしては上等ですね」
「可愛い犬にはそれなりに手をかける」
リュシアンはものすごく嫌そうな顔をした。
だが空腹に勝てるほどではない。悔しいことに、フェリクスの料理が一定以上に美味いことも知っている。
結局、皿を受け取って一口食べる。
胡椒は強く、舌に刺さるようだった。
「どうだ」
「悪くない」
「そうだろう」
「ただし、シンプルすぎる。これじゃすぐに飽きが来るな」
「飽きたら変える」
フェリクスは平然と言う。
「お前がここにいる限り」
その言い方は脅しではなかった。予定表の一項目のように静かだった。
リュシアンは暖炉の火を見ながら、無意識に首輪へ触れる。
逃げるべきだ。
そう思わないわけではない。
だが不思議なことに、彼の頭の一部はもう別のことを考え始めていた。
どう噛み返すか。
どうやってこの男の余裕に傷をつけるか。
逃亡ではなく、別種のゲームとして。
監禁生活は、奇妙な日常へ変わっていった。
朝、フェリクスが淹れる苦いコーヒーの匂いで起きる。
昼、二人だけの食卓でリュシアンが皮肉を言い、フェリクスがそれを真顔で受け止めて返す。
夕方、暖炉の前で本を読む時間が流れ、夜には時々、思い出したように首輪の金具を確かめられる。
不快で、不可解で、しかし完全に壊れてはいない生活だった。
呼び方だけは、最後まで微妙なままだった。
リュシアンは普段、フェリクスを「ハルトマン」と呼んだ。
そしてフェリクスは、捕まえた後もなお「リュシアン」と呼び続ける。時に、短く崩した「リュー」とさえ言う。
「その名前、いつまで使い続けるんだ?」
ある晩、リュシアンが不満げに言うと、フェリクスは書類から目を上げずに答えた。
「お前の名前だ」
それで会話は終わる。
その頑固さが、リュシアンには少しだけ怖い。
フェリクスはリュシアンの本当の名を知らないし、知ろうともしない。だが自分が最初に受け取った名を、相手そのものにする。
執着は情報ではなく認識にかかる。
それが一番厄介だった。
一度だけ、リュシアンは違う呼び方をした。
深夜、悪夢から覚めて喉が渇き、鎖の音を立てて身を起こした時だ。
隣室にいたフェリクスが扉を開けて入ってきた。暖炉の残り火だけが部屋を赤く照らし、彼の表情は半分影に沈んでいる。
「起きていたか」
「……今、起きた」
「寒くないか」
「上等な毛布を頂きましたので。……寒いのは、金具が触れる首だけだ」
皮肉に、フェリクスは特に反応しない。ベッド脇まで来て、首輪の金具に指先で触れる。
「何だ」
「いや。ここにいることを確認しただけだ」
あまりに真っ直ぐな言い方で、リュシアンは一拍言葉を失った。
その隙を埋めるように、つい口から出た。
「……フェリクス」
ほんの一語だった。
それだけで、フェリクスは少し止まった。
怒るわけでもない。驚いた顔もしない。ただ、呼吸の間が一つずれる。
「何だ」
「いや」
リュシアンは視線を逸らした。
「呼んでみただけだ」
フェリクスはそれ以上何も言わなかった。だがその沈黙が、妙に重かった。
翌朝になると、彼は何事もなかったように「リュシアン」と呼んだ。
リュシアンは心底気に食わない顔をしたが、内心ではあの一瞬がちゃんと効いていたことを理解していた。
互いに本当の名は使わない。
それでも、その距離の変化だけはある。
そういう関係だった。
リュシアンは逃げないと決めたわけではなかった。
少なくとも本人はそう思っていた。
首輪の構造は覚えている。窓格子の材質も、屋敷の見取り図も、フェリクスの外出の周期も把握している。鎖の長さ、固定具の癖、鍵の所在。全部、頭に入れてある。
いつでも牙は残している。
ただ、逃亡の優先順位が少しだけ下がった。
それは敗北ではない、と彼は自分に言い聞かせる。
別のゲームに移っただけだ、と。
ある夜、食後の暖炉の前でフェリクスが不意に言った。
「お前はまだ、いつか立場を逆転できると思っているな」
リュシアンは危うくグラスを落としかけた。
「唐突だな」
「違うか」
「否定はしない」
フェリクスは小さく頷く。
「それでいい」
「は?」
「噛まない犬に価値はない」
リュシアンは呆れたように笑った。
「やっぱり病気だな、あんた」
「知っている」
「実際に噛まれたら喜ぶのか?」
「見事ならな」
あまりにも当然のように言われて、もう怒る気にもならない。
この男は本当に、牙を折った従順さより、噛みつく可能性が残る凶暴性を好むのだ。
支配と対等が、ねじれて同居している。
だから厄介で、だから目が離せない。
リュシアンはグラスを揺らしながら思う。
自分はフェリクスを軍から奪った。
フェリクスは自分の自由を奪った。
互いに人生の一部を持ち去ってしまった以上、もう完全な被害者でも加害者でもない。
そこに残るのは、やはり奇妙な責任だけだ。
解き放った者は最後まで面倒を見ろ。
捕まえた者は最後まで飼い慣らせ。
どちらもまったく健全ではない。だが筋だけは通っている。
夜更け、リュシアンはふと笑った。
「何がおかしい」
書類から顔を上げたフェリクスが問う。
「最初は、金と脅しで働かされてるだけだった」
「今も大差ない」
「そうでもない」
リュシアンは暖炉の火に視線を向けた。
「今は、あんたが気味悪すぎて逃げる気を失う」
フェリクスは少しだけ考えてから答えた。
「それは進歩か」
「どっちかと言えば退化だな」
「そうか」
そこで会話は途切れた。
だが沈黙は重くなかった。互いに言い足りないものを抱えたまま、それでも同じ空間にいることに、二人とも少しずつ慣れていた。
窓の外では雪がやみ、枝先にかすかな芽の気配があった。
季節は確かに進んでいる。
けれどこの家の中では、まだ首輪のない季節は来ない。
リュシアンは首の革を指先でなぞりながら、目を閉じた。
今は逃げない。
少なくとも今は。
その代わり、いつか必ず噛み返してやる。
ベッドの上だろうが、食卓だろうが、この男の余裕をどこかで引っくり返してやる。
そんな馬鹿げた決意が、彼の最後の牙だった。
そしてフェリクスは、その牙の存在ごと静かに愛でるのだろう。
噛む犬だからこそ飼う価値があると、最初から最後まで信じている男なのだから。




