↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
首輪の契約  作者: はちもく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/7

第七章 所有

 目を覚ました時、リュシアンは見知らぬ天井を見ていた。

 高い天井、石壁、暖炉、上質な寝具。監獄にしては快適で、私邸にしては閉じすぎている。窓には厚い格子がはまり、扉は重い。

 そして首に、重みがあった。

 彼はゆっくり手を伸ばし、革の感触に触れた。幅広の首輪。そこから伸びる鎖がベッド脇の固定具へ繋がっている。

「趣味が悪いな……」

「同感だ」

 部屋の隅からフェリクスの声がした。

 肘掛け椅子に腰を下ろし、本を閉じる姿は妙に落ち着いている。まるでただ、目覚めを待っていただけというように。

「外してくれと言ったら」

「断る」

「せめて善処するとか、希望を持たせる嘘はないのか」

「お前はそういう嘘を好まない」

「好みを理解されてるのが一番不愉快だ」

 フェリクスは立ち上がり、テーブルの皿を手に取った。

「食事にするか」

 差し出された皿から、強い胡椒の匂いがした。

 リュシアンは目を細める。

「まさか」

「ご所望だったろう?肉」

「朝からステーキを出されるのは流石に想定外だよ……」

「お前の舌に一番合うそうだからな」

 リュシアンは数秒、完全に黙った。

 こういう時に直球を投げてくる男ではない。理屈で包んだ執着を、そのまま当然のように差し出してくる。だから反応に困る。

「まあ、犬の餌にしては上等ですね」

「可愛い犬にはそれなりに手をかける」

 リュシアンはものすごく嫌そうな顔をした。

 だが空腹に勝てるほどではない。悔しいことに、フェリクスの料理が一定以上に美味いことも知っている。

 結局、皿を受け取って一口食べる。

 胡椒は強く、舌に刺さるようだった。

「どうだ」

「悪くない」

「そうだろう」

「ただし、シンプルすぎる。これじゃすぐに飽きが来るな」

「飽きたら変える」

 フェリクスは平然と言う。

「お前がここにいる限り」

 その言い方は脅しではなかった。予定表の一項目のように静かだった。

 リュシアンは暖炉の火を見ながら、無意識に首輪へ触れる。

 逃げるべきだ。

 そう思わないわけではない。

 だが不思議なことに、彼の頭の一部はもう別のことを考え始めていた。

 どう噛み返すか。

 どうやってこの男の余裕に傷をつけるか。

 逃亡ではなく、別種のゲームとして。


 監禁生活は、奇妙な日常へ変わっていった。

 朝、フェリクスが淹れる苦いコーヒーの匂いで起きる。

 昼、二人だけの食卓でリュシアンが皮肉を言い、フェリクスがそれを真顔で受け止めて返す。

 夕方、暖炉の前で本を読む時間が流れ、夜には時々、思い出したように首輪の金具を確かめられる。

 不快で、不可解で、しかし完全に壊れてはいない生活だった。


 呼び方だけは、最後まで微妙なままだった。

 リュシアンは普段、フェリクスを「ハルトマン」と呼んだ。

 そしてフェリクスは、捕まえた後もなお「リュシアン」と呼び続ける。時に、短く崩した「リュー」とさえ言う。

「その名前、いつまで使い続けるんだ?」

 ある晩、リュシアンが不満げに言うと、フェリクスは書類から目を上げずに答えた。

「お前の名前だ」

 それで会話は終わる。

 その頑固さが、リュシアンには少しだけ怖い。

 フェリクスはリュシアンの本当の名を知らないし、知ろうともしない。だが自分が最初に受け取った名を、相手そのものにする。

 執着は情報ではなく認識にかかる。

 それが一番厄介だった。


 一度だけ、リュシアンは違う呼び方をした。

 深夜、悪夢から覚めて喉が渇き、鎖の音を立てて身を起こした時だ。

 隣室にいたフェリクスが扉を開けて入ってきた。暖炉の残り火だけが部屋を赤く照らし、彼の表情は半分影に沈んでいる。

「起きていたか」

「……今、起きた」

「寒くないか」

「上等な毛布を頂きましたので。……寒いのは、金具が触れる首だけだ」

 皮肉に、フェリクスは特に反応しない。ベッド脇まで来て、首輪の金具に指先で触れる。

「何だ」

「いや。ここにいることを確認しただけだ」

 あまりに真っ直ぐな言い方で、リュシアンは一拍言葉を失った。

 その隙を埋めるように、つい口から出た。

「……フェリクス」

 ほんの一語だった。

 それだけで、フェリクスは少し止まった。

 怒るわけでもない。驚いた顔もしない。ただ、呼吸の間が一つずれる。

「何だ」

「いや」

 リュシアンは視線を逸らした。

「呼んでみただけだ」

 フェリクスはそれ以上何も言わなかった。だがその沈黙が、妙に重かった。

 翌朝になると、彼は何事もなかったように「リュシアン」と呼んだ。

 リュシアンは心底気に食わない顔をしたが、内心ではあの一瞬がちゃんと効いていたことを理解していた。

 互いに本当の名は使わない。

 それでも、その距離の変化だけはある。

 そういう関係だった。


 リュシアンは逃げないと決めたわけではなかった。

 少なくとも本人はそう思っていた。

 首輪の構造は覚えている。窓格子の材質も、屋敷の見取り図も、フェリクスの外出の周期も把握している。鎖の長さ、固定具の癖、鍵の所在。全部、頭に入れてある。

 いつでも牙は残している。

 ただ、逃亡の優先順位が少しだけ下がった。

 それは敗北ではない、と彼は自分に言い聞かせる。

 別のゲームに移っただけだ、と。


 ある夜、食後の暖炉の前でフェリクスが不意に言った。

「お前はまだ、いつか立場を逆転できると思っているな」

 リュシアンは危うくグラスを落としかけた。

「唐突だな」

「違うか」

「否定はしない」

 フェリクスは小さく頷く。

「それでいい」

「は?」

「噛まない犬に価値はない」

 リュシアンは呆れたように笑った。

「やっぱり病気だな、あんた」

「知っている」

「実際に噛まれたら喜ぶのか?」

「見事ならな」

 あまりにも当然のように言われて、もう怒る気にもならない。

 この男は本当に、牙を折った従順さより、噛みつく可能性が残る凶暴性を好むのだ。

 支配と対等が、ねじれて同居している。

 だから厄介で、だから目が離せない。


 リュシアンはグラスを揺らしながら思う。

 自分はフェリクスを軍から奪った。

 フェリクスは自分の自由を奪った。

 互いに人生の一部を持ち去ってしまった以上、もう完全な被害者でも加害者でもない。

 そこに残るのは、やはり奇妙な責任だけだ。

 解き放った者は最後まで面倒を見ろ。

 捕まえた者は最後まで飼い慣らせ。

 どちらもまったく健全ではない。だが筋だけは通っている。


 夜更け、リュシアンはふと笑った。

「何がおかしい」

 書類から顔を上げたフェリクスが問う。

「最初は、金と脅しで働かされてるだけだった」

「今も大差ない」

「そうでもない」

 リュシアンは暖炉の火に視線を向けた。

「今は、あんたが気味悪すぎて逃げる気を失う」

 フェリクスは少しだけ考えてから答えた。

「それは進歩か」

「どっちかと言えば退化だな」

「そうか」

 そこで会話は途切れた。

 だが沈黙は重くなかった。互いに言い足りないものを抱えたまま、それでも同じ空間にいることに、二人とも少しずつ慣れていた。


 窓の外では雪がやみ、枝先にかすかな芽の気配があった。

 季節は確かに進んでいる。

 けれどこの家の中では、まだ首輪のない季節は来ない。

 リュシアンは首の革を指先でなぞりながら、目を閉じた。

 今は逃げない。

 少なくとも今は。

 その代わり、いつか必ず噛み返してやる。

 ベッドの上だろうが、食卓だろうが、この男の余裕をどこかで引っくり返してやる。

 そんな馬鹿げた決意が、彼の最後の牙だった。


 そしてフェリクスは、その牙の存在ごと静かに愛でるのだろう。

 噛む犬だからこそ飼う価値があると、最初から最後まで信じている男なのだから。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。