↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
首輪の契約  作者: はちもく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/7

第四章 救いの手と、逃げる男

 軍本部の執務室には、夕刻の青白い光が落ちていた。

 紙の束が山をなし、机の上には封を切られた資料が散らばっている。誰かが急いで持ち込み、誰かがそれを読み、また別の誰かがおそるおそる置いていった結果、部屋全体が後始末の匂いを帯びていた。

 フェリクスは一人だった。

 帽子を机に置いたまま、最後の報告書に視線を落とす。

 その内容は、彼にとって意外ではなかった。むしろ整いすぎているほど整っていた。個々の不正も失敗も、元々そこにあった。だがそれらがもっとも致命的な順番で表に出ている。誰かが組んだのだ。

 そして、その誰かに思い当たる男が一人いる。

 フェリクスは右手で口元を覆った。

 外から見れば、怒りか疲労で言葉を失っているように見えただろう。

 だが実際には逆だった。

 思考が、あまりにも鮮やかな線で繋がったのだ。

 資料の一枚に添えられた細い癖字、目くらましとして置かれた余計な情報の質、直接の証拠は残さずに責任だけを集める手口。

 ああ、と彼は思う。

 そう来たか。

 肩がわずかに震えた。

 怒りでではない。

 笑いをこらえる時の、ほんの微かな振れだった。


「……これがお前の選択か、リュシアン・モロー」


 誰もいない部屋で、フェリクスはその名を口にした。

 それは部下に向けた叱責ではなく、独白に近い。だが同時に、狩りの開始を宣言する声でもあった。

 リュシアンは殺しに来なかった。

 国家と軍という檻を壊し、フェリクスをそこから追い出した。

 客観的に見れば裏切りであり、失脚であり、破滅だ。

 だがフェリクスの思考は別の形に変換してしまう。

 軍という鎖を断った。

 国家という檻を壊した。

 自分を自由にした。

 ならばこれは――救出だ。

 お前は俺を奪いに来たのだ。

 そこまでして解き放ったなら、最後まで責任を取れ。

 そう考える自分が、どこか狂っていることをフェリクスは理解していた。理解した上で訂正しなかった。

 むしろ、その歪みの中に一貫した美しさすら感じていた。


 ただ、彼はすぐには動かなかった。

 衝動で追えば足跡は荒れる。怒りのまま飛び出せば、相手が最も得意とする「混乱の中で姿を消す」という手に付き合うことになる。

 だからフェリクスはまず、椅子に深く座り直した。

 帽子を手に取り、机の書類を一枚ずつ整え、呼ぶべき者を順番に呼んだ。責任を取るべき場では責任を引き受け、切るべき関係は切り、残すべきものだけを残す。

 軍を辞める手続きは煩雑だったが、フェリクスはその煩雑さを誰より正確に処理した。

 後顧の憂いを残さない。

 組織の顔を捨てるなら、完璧に捨てる。

 その準備期間は、単なる整理ではなく変身の時間だった。

 軍人フェリクス・ハルトマンから、個人的な執着だけで獲物を追う狩人へ。

 猛禽の笑みが表に現れたのは、その変身が終わった後だった。


 リュシアンは帝都を離れ、三つの国境を越え、五つの宿を使い捨てた。

 紙の身分証は二度燃やし、列車を三回乗り換え、追跡を撹乱するためにわざと雑な痕跡を二つだけ残す。そこまでしてようやく、呼吸が少しだけ楽になる。

 組織の追手なら撒ける。

 国家の網も、数日あれば薄まる。

 彼はそう計算していた。

 事実、その計算は大筋で正しかった。帝都の混乱は激しく、軍はまだ自分の足元を固める方で精一杯だろう。

 だが、その計算に一人だけ含まれていない男がいる。

 フェリクス・ハルトマンだ。

 いや、含めたくなかったと言うべきかもしれない。


 最初の異変は、小国の安宿に潜り込んだ朝に起きた。

 鍵はかけた。窓も内側から留めている。床にも戸口にも、仕掛けた細工は無傷だ。

 それなのに机の上に、一枚の紙が置かれていた。

 リュシアンは扉から二歩の位置で立ち止まり、しばらくその紙だけを見た。罠の可能性を潰し、匂いと重さを計り、最後に手袋越しで拾い上げる。

 書かれていたのは短い一文だった。


『継続せよ』


 リュシアンは黙った。

 冗談ではなかった。

 脅しの文面ならまだ分かる。怒りや復讐の宣言なら、むしろ扱いやすい。だがこの書き方は違う。

「自分の働きに対する賞賛」だ。

 少なくとも、そういう質のものが混ざっている。

「……こっわ」

 思わず声が漏れた。

 恐怖というより、心底のドン引きだった。

 紙はすぐに暖炉で燃やした。宿も捨てた。次の町では市場の雑踏に紛れ、第三国語で会話し、行き先を二重に偽装した。

 それでも二度目の接触はさらに早い。

 夕暮れの市場を抜けたところで、外套のポケットに入っていたはずのない小瓶に指先が触れた。

 取り出すと、それは何の変哲もない、粗挽きのブラックペッパーだった。

 リュシアンはその場で凍りついた。

 周囲には人がいる。夕餉の買い物客、酔客、荷車を押す少年。誰もこちらを見ていない。誰が近づいたかも分からない。

 だが分かることが一つだけある。

 フェリクスは、もうここまで来ている。

「プレゼントのつもりか?趣味が悪い」

 握った小瓶から、微かに辛い香りが立った。

 怒りよりも先に、理解不能への嫌悪が来る。

 この男は怒っているのではない。追跡を楽しんでいる。それどころか、逃げた自分をすぐに捕らえず弄んでいるのだ。

 意味が分からない。

 意味が分からないのに、その論理が相手の中では完璧に成立していることだけは、痛いほど分かった。


 リュシアンはその夜、列車の中でほとんど眠れなかった。

 ふと窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑ってしまう。

 敵国の工作員に追われるのではなく、一人の男に追われている。

 しかもその男は、自分の思考の癖も、逃げ方も、恐らく休む時間帯まで知っている。

 一番追われたくない相手に追われる。

 それは妙に滑稽で、そしてひどく現実的だった。


 しかし、結局のところ。

 それ以降、フェリクスの痕跡がリュシアンに届くことは無く、リュシアンは二年の時を「いつも通り」に過ごすことになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。