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首輪の契約  作者: はちもく


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2/7

第二章 契約の形

 リュシアン・モローという名前は、本名ではない。

 フェリクス・ハルトマンもそのことを知っていた。だが、尋問後にそれを追及することはしなかった。

 出生地を洗い、親の名を掘り、幼少期まで遡るのが普通の諜報機関のやり方である。それによって相手の弱みを掴めるからだ。

 しかしフェリクスは違った。

「その名前でいい」

 組織に正式な登録をする際、彼は書類を眺めながらそう言った。

「本名は」

 事務官が問うと、フェリクスは視線も上げずに返した。

「どうでもいい」

 それきりだった。

 リュシアンはその態度を、最初は楽だと思った。

 過去を掘られないのは助かる。本名や出自は諜報員にとって弱点だ。

 戸籍や親族や古い知人は、鎖にも餌にもなる。知られないならそれに越したことはない。

 だが後になるほど、その無関心は別種の異様さを帯びた。

 フェリクスにとって重要なのは、過去の誰かではなく、自分の前に立っている「この男」だけなのだ。

 だから彼にとってリュシアン・モローとは偽名ではない。

 目の前の個体の名前だった。


 正式に軍の諜報部門へ組み込まれてからの生活は、思った以上に穏当だった。

 もちろん自由はない。監視も脅しも報酬もある。

 命令には従わなければならないし、裏切れば相応の報いを受けるだろう。

 だがそれは祖国にいた頃から同じだ。国家だろうが組織だろうが、汚れ仕事の仕組みに大差はない。

 違ったのは、雇い主の質だった。

 フェリクスは有能で、冷静で、計算が早い。

 感情で命令を変えず、失敗を怒鳴り散らして処理することもなく、かといって甘くもない。

 必要なら切る。必要ないなら切らない。その線引きが妙に正確だった。

 リュシアンは最初、それを堅物だと思った。

 次に、思ったほど悪い男ではないと考えた。

 そして最後には、最も面倒な種類の人間だと理解した。

 居心地を良くしてしまう支配者。

 無能な暴君なら離れる理由はいくらでも見つかる。

 だが有能な支配者は、鎖の長さを絶妙に調整し、噛みつく余地と従う利益を同時に差し出してくる。

 だから厄介だ。


 いつものように報告書を片手に出向いたある夜、リュシアンは執務室の椅子にだらしなく腰を下ろしながら言った。

「相変わらずの遠慮ない呼び出しだな……たまには上質なベッドへの誘いでも聞きたいものだけど」

 書類から目を上げることなく、フェリクスは返す。

「残念だな。期待には応えられない」

「それは全く、実に残念だ。長官殿がそういう趣味なら、今後いろいろ都合が良さそうだったんだが」

「たとえそうだとしても、お前を誘う予定は無い」

「それはそれで微妙に傷つく」

「傷ついたか、では本題に入れ。標的は」

「依頼を受けて、二時間後に処理済み」

 リュシアンは脚を組み、肩越しに窓の外を見た。

「事故死に見えるよう整えてある。今頃、地方局が退屈なニュース原稿の作成中かもな」

「指定した期限は十二時間以内と設定していたはずだが」

「納期は守る、社会人の鑑だろ」

「二時間で済ませ、残りの十時間は何をしていた?」

「九時間寝ていた。三十分でシャワー、十五分で出勤、十分でコーヒーブレイク。残りはここまで歩く時間だ」

 フェリクスはそこでやっと顔を上げた。

 呆れているのか、それとも呆れる価値もないと思っているのか分からない顔だった。

「ずいぶん余裕だな」

「仕事が早いのが取り柄でね」

 リュシアンは口角を上げる。

「良い部下だと思わないか?」

「自分で言うな」

「自己評価は適切にしているよ」

 少し沈黙が落ちる。

 それからリュシアンは、何気ないふうを装って続けた。

「あんたの下で働くのは、悪くないからね。多少はやる気を出すさ」

「……そうか」

「はじめはもっと堅物かと思っていたんだが」

 実際、フェリクスは思ったよりも柔軟で、リュシアンの(半分癖のようなもので、なかなかやめられない)軽口にも程々に付き合ってくれる余裕すら持ち合わせている。

「扱い易い観念的な男ではなくて、失望したか?」

「まさか。悪い奴じゃなさそうで安心した」

「それは評価として喜んでいいのか微妙だな」

「少なくとも、気分ひとつで首を落とされることは無さそうだ、ってな」

 リュシアンは軽く笑った。

「信頼なんて曖昧なものより、行動原理の方がよほど信用できるだろ」

 フェリクスはその言葉を、珍しくすぐには返さなかった。

 彼はいつもそうだった。冗談の形で投げられた石から、核だけを拾い上げる。

「なら俺は、お前にとって有用か」

「今のところは」

「信頼は」

「してないね」

「正直だな」

「契約の基本だろう?」

 そこでフェリクスはごくわずかに息をついた。

 笑いではない。だが拒絶でもなかった。

 その頃のリュシアンは、彼の視線の意味をまだ取り違えていた。

 任務の精度を確かめる目、裏切りの兆候を測る目、道具としての性能を見る目。

 それは確かに含まれていた。

 だが、それだけではなかった。

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