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9.帰還命令、却下します

 朝から城がざわついていた。


 門番が駆け込んできて、フリッツに何か耳打ちしている。フリッツの眉が上がり、それからオスヴァルトの執務室に消えていった。


 嫌な予感がする。前世で「本社から人が来る」と聞いた時と同じ種類の嫌な予感だ。


「お嬢様、何やら王都からお使者様が来るそうですよ」


 ルルが目を輝かせている。この子にとって王都はまだキラキラした場所なのだろう。私にとっては前の職場だが。


「使者……?」


(そういえば先日、宮廷から手紙が来てたっけ。読まなかったからわざわざ使者を寄越したのか。前の会社もメールを無視してたら電話が来たな。……嫌な予感しかしない)



      *



 大広間。


 オスヴァルトが領主の椅子に座り、私はその隣に立っている。フリッツが控え、数名の兵士が左右に並ぶ。


 扉が開き、王都の使者が入ってきた。金の刺繍が入った外套。仕立てのいい革靴。いかにも「王都から参りました」という出で立ちだ。


(あの外套、クリーニング代が大変そう。前世の営業部の人も、経費で落とせないスーツを着て苦しんでたなあ)


 使者が巻物を広げた。声が大広間に響く。


「王都よりの勅命を伝達する。──カタリーナ・フォン・ヴァイスフェルト殿に、王都への帰還を命じる」


 空気が変わった。


 フリッツの目が細くなり、兵士たちの背筋が伸びる。


(え……帰れ? 王都に帰れって?)


 脳が一瞬フリーズした。


(ブラック企業に戻れって? 退職した会社から「やっぱり戻ってきて」って連絡来た時と同じじゃん。あの時は着信拒否したけど)


「カタリーナ殿、ご返答を」


 使者が急かすように言った。


 口を開こうとした、その時──


「その必要はない」


 低い声が、大広間に落ちた。


 オスヴァルトだった。椅子に座ったまま、鋼色の瞳で使者を見据えている。


「彼女は我が領地の財務顧問だ。王都の都合で連れ去ることは認めない」


 使者の顔がこわばった。


「し、しかし、これは王命に──」


「追放したのは王都だ。追放した人間を返せと言うのは、筋が通らない」


 静かな声だった。怒鳴っていない。だからこそ重い。氷壁の辺境伯の異名は伊達ではないらしい。


(庇ってくれた……? 前世の上司は「お前がいなくても回る」って言ったのに。この人は「連れ去ることは認めない」って……)


 胸の奥が、きゅっと締まった。泣きそうになるのを堪える。ここで泣いたら昨夜に続いて二日連続だ。さすがにまずい。


「使者殿」


 一歩前に出た。


「申し訳ありませんが、王都に戻ることはできません」


「な……何故ですか」


「こちらホワイトなので」


「ほ、ほわいと……?」


「はい。転職したてですし、試用期間中に辞めるわけにはいきません。こちらの職場環境は大変良好で、上司も──」


 チラリとオスヴァルトを見た。相変わらずの無表情。


「──前世の部長よりはるかに良い方ですので」


「てんしょく……しようきかん……?」


 使者が完全に混乱している。巻物を持つ手が震えていた。前世用語に困惑する人がまた一人増えた。


「聞いての通りだ」


 オスヴァルトが言った。


(いや、辺境伯様も絶対わかってないですよね? 「ホワイト」も「転職」も「試用期間」も、一つも理解してないですよね?)


 でもこの人は、意味がわからなくても、私の味方をしてくれる。


「お嬢様のおっしゃることがわかりません……でも、帰らないということは、わかります……!」


 後ろからルルの声がした。この子だけは結論を正確に把握していた。


 使者は数回口を開閉したが、最終的に巻物を丸めて深々と一礼した。


「……お返事は、そのまま王都にお伝えいたします」


 手ぶらで帰っていく使者の背中を見送りながら、私はこっそり息を吐いた。


(着信拒否成功。お疲れ様です)



      *



 王都、王宮の一室。


「あの女、何を言っているんだ!」


 レオポルト第二王子が、報告書を机に叩きつけた。


「『ホワイトなので帰れない』? 『転職したてで試用期間中』? 意味がわからん!」


 宰相が静かに報告書を拾い上げた。


「……殿下が追放した令嬢が、帰りたがらないのは当然かと存じます」


「何だと?」


「追い出しておいて『戻れ』とは、いささか虫のいい話です」


 レオポルトの顔が赤くなったが、宰相はそれを無視した。


「加えて、ノルデン辺境伯が正式に庇護を宣言しました。辺境伯を敵に回してまで令嬢一人を連れ戻す理由を、殿下はお持ちですか」


「そ、それは──帳簿が……社交界が……」


「つまり、令嬢がいないと困る、と」


 レオポルトが唇を噛んだ。


 宰相は窓の外に目を向けた。王都の街並み。表面は華やかだが、あの令嬢がいなくなってから帳簿は崩れ、社交界の調整役も消え、あちこちで軋みが出始めている。


(もっと深刻に評価すべきだった。あの令嬢の能力も──ノルデン辺境伯の庇護の意味も)


 宰相は小さく嘆息した。手遅れになる前に、別の手を打たなければならないかもしれない。



      *



 辺境に戻る。


 使者が去った後の大広間で、フリッツがにやにやしていた。


「閣下、先ほどの啖呵は格好よかったですよ」


「啖呵ではない。事実を述べただけだ」


「事実を述べる声が、いつもより低かったですが」


「気のせいだ」


「カタリーナ殿のお顔、嬉しそうでしたよ」


 オスヴァルトが一瞬だけ視線を逸らした。


「……そうか」


「閣下、耳が赤いですが」


「黙れ」


 フリッツは肩を竦めて、それでもにやにやを崩さなかった。


 私はそのやり取りを少し離れた場所から見ていた。


(辺境伯様の耳、確かに赤い。寒いのかな。冬の終わりだし)


 ──鈍い。前世から鈍い。恋愛偏差値は前世と合わせても最底辺にいる自覚はある。


 でも、一つだけはっきりわかることがある。


 ここが、今の私の居場所だということ。


(ブラック企業には、二度と戻らない)

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