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8.辺境伯と夜食

 夜が深い。


 五の鐘はとうに過ぎていた。定時退社を信条とする私が、なぜまだ作業部屋にいるのかというと──楽しいからである。


(残業じゃない。これは趣味。前世の経理部で徹夜してた時とは根本的に違う。あの時は佐藤部長の「明日までに」が原因で、今日は自分がやりたくてやっている。この差は大きい)


 机の上には領地の改善計画書が広がっている。来季の予算配分、新しい取引先の開拓リスト、市場の活性化案。数字を並べ替えていると時間を忘れる。


「お嬢様、本当にお休みにならないのですか……?」


 ルルが目をこすりながら聞いてきた。もう三回目だ。


「ルル、先に寝なさい。明日も朝は早いんだから」


「でも、お嬢様を一人にするのは……」


「前世では深夜三時まで一人でデスクにいたから平気よ。ほら、行きなさい」


「お嬢様のおっしゃることがわかりません……でも、おやすみなさい……」


 ルルがふらふらと部屋を出ていく。あの子は早く寝た方がいい。成長期だ。前世の後輩にも「若いうちは寝なさい」と言い続けたが、誰も聞かなかった。ブラック企業では寝る暇がないのだから当然だ。



      *



 それから、どれくらい経っただろう。


 コンコン、と扉が鳴った。


「はい?」


 ルルが戻ってきたのかと思って開けると──


 オスヴァルトが立っていた。


 黒い外套を脱いだ普段着姿。この時間に見るのは初めてだ。無表情は相変わらずだが、どこか居心地が悪そうに見える。


 その手には、木の盆。


「食え」


「……これは?」


「飯だ」


 端的にもほどがある。


 盆の上には椀がひとつと、パンが一切れ。椀の中身は……何かのスープ、だと思う。色が濃い。具材の正体がよくわからない。パンはやや硬そうだ。


「辺境伯様が、お持ちくださったんですか」


「遅くまで明かりがついていた」


「あの……これ、まさか……ご自分で作られたんですか?」


 一瞬の間。


「フリッツに教わった」


(フリッツさんに……? この人が……? 料理を……?)


 受け取った盆を机に置く。スプーンを手に取り、スープを一口すくって、口に運んだ。


 ──しょっぱい。


 すごくしょっぱい。


 海だ。口の中が海。前世で残業中に食べたカップ麺に粉末スープを二袋入れた時と同じ塩分濃度を感じる。


 パンをちぎってスープに浸す。パンがしょっぱくなった。


 でも──温かかった。


 椀から立ち上る湯気が、冷えた指先を包む。深夜の作業部屋に、素朴なスープの匂いが広がる。


「……おいしいです」


「嘘をつくな。しょっぱいだろう」


「しょっぱいです」


「ならば──」


「でも、おいしいです」


 オスヴァルトが黙った。鋼色の瞳が、わずかに揺れたように見えた。


 もう一口。やっぱりしょっぱい。でもスプーンが止まらない。


(前世では──深夜のオフィスで、一人でカップ麺を食べていた。自販機の缶コーヒーと、百円のカップ麺。それが夜食のすべてだった。温かいものを持ってきてくれる人なんて、一人もいなかった)


 目の奥が、じわりと熱くなった。


「……すみません」


「なぜ謝る」


「前世では──」


 声が少し震えた。スプーンを置く。


「夜中に温かいものを持ってきてくれる人なんて、いなかったので」


 オスヴァルトは何も言わなかった。


 ただそこに立って、私が食べ終わるのを待っている。


 涙が一筋、頬を伝った。


「泣くな」


「泣いてません」


「目が赤い」


「……気のせいです」


「気のせいではない」


 オスヴァルトが、ぶっきらぼうに言った。


「泣くな。──飯で泣くな」


(飯で泣くなって言われても。前世で七年間、誰にも夜食を作ってもらったことがなかった人間の気持ちがわかりますか、辺境伯様)


 わかるわけがない。でもこの人は、理由がわからなくても、しょっぱいスープを持ってきてくれた。


「……ごちそうさまでした」


 空になった椀を盆に戻す。全部食べた。しょっぱかったけど、全部。


「もう寝ろ。明日に響く」


「はい。──ありがとうございます、辺境伯様」


 オスヴァルトは盆を持ち上げ、何も言わずに部屋を出ていった。


 扉が閉まった後、椀の底にスープが少しだけ残っていたことに気づいた。温かかった。しょっぱかったけど、温かかった。



      *



 廊下に出たオスヴァルトを、壁にもたれたフリッツが待っていた。


「閣下。いかがでしたか」


「……しょっぱかったらしい」


「でしょうね。味見した時に申し上げましたが」


「黙れ」


「明日はもう少し塩を控えた方がよろしいかと」


 オスヴァルトの足が止まった。


「……明日?」


「明日も作られるんでしょう?」


 沈黙。


「閣下が自ら厨房に立たれたのは、私の知る限り初めてです」


「それがどうした」


「いえ。ただ──閣下、耳が赤いですが」


「黙れ」


 オスヴァルトが足早に去っていく。


 フリッツは暗い廊下で一人、声を殺して笑った。

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