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7.王都崩壊速報

 辺境の朝は静かだ。


 鳥の声で目が覚める。窓の外には雪を被った山脈と、どこまでも続く青空。空気は冷たくて澄んでいて、深く吸い込むと体の隅々まできれいになる気がする。


「今日もいい天気」


 ベッドから起き上がって、大きく伸びをする。


(ホワイトな一日の始まりだ。朝七時起床、夕方五時終業。今日の予定は帳簿の確認と、南の港町からの仕入れ契約書の最終チェック。余裕のスケジュール。前世の私が見たら泣くな。「何それ、天国?」って言う)


「お嬢様、朝食の準備ができました!」


「ありがとう、ルル。今日もいい一日になりそう」


 平和だった。


 完全に、平和だった。



      *



 ──同じ頃、王都は地獄と化していた。


 王宮の一室。薄暗い執務室に、蝋燭の灯りが揺れている。


 公爵家の帳簿を任された経理官が三人、机の上に書類を山積みにして頭を抱えていた。目の下に濃い隈。机の上には飲みかけの冷めた茶が三つ。


「この数字、どうやっても合わない」


「もう三日目だぞ。一体どうなってるんだ、この帳簿は」


「仕入れ台帳と支出記録の数字が一致しない。どこかで転記ミスがあるはずなんだが、どの頁かわからない」


「以前はどうしていたんだ?」


 一人が、古い記録を引っ張り出した。几帳面な文字で整然と記された帳簿。一頁の狂いもない。


「……カタリーナ嬢が一人で管理していたそうです」


「一人で? この量を?」


 机の上の書類の山を見渡す。仕入れ台帳、支出記録、取引先との契約書、税務計算書、資産目録──積み上げると、大人の腰の高さを超える。


「一人で……?」


 三人の経理官が顔を見合わせた。自分たちが三人がかりで三日かけても終わらない仕事を、あの令嬢は一人でこなしていた。しかも他の業務と並行して。


 彼らは知らなかった。追放された公爵令嬢が、前世七年分の経理スキルを持つ規格外の人材だったことを。


 そして問題は帳簿だけではなかった。


 社交界が荒れ始めていた。


「最近、パーティーの席順でもめごとが絶えないのですが……」


「以前は誰が調整を?」


「カタリーナ嬢です」


「侯爵家と伯爵家の商権争いが激化しておりますが……」


「それも以前はカタリーナ嬢が仲裁を」


「外交文書の数字に誤りが見つかりまして……隣国から抗議が」


「チェックしていたのはカタリーナ嬢──」


「王家への贈答品の手配が滞っておりまして……」


「それもカタリーナ嬢が──」


「……あの令嬢は、一体何をしていたんだ」


 宰相ヘルムート・フォン・ブラントが、深い皺の刻まれた額に手を当てた。


 彼は五十五年の人生で多くの政治家を見てきた。有能な者も、無能な者も。だが、追放されてから真価がわかる人材というのは初めてだった。


「閣下。追放された令嬢の業務を洗い出しましたので、ご報告いたします」


「読め」


 側近が羊皮紙を広げた。長い。やたらと長い。


「公爵家の帳簿管理、仕入れ先の審査と選定、税務書類の作成、社交界の席順調整、貴族間の紛争仲裁、外交文書の数字チェック、王家への季節ごとの贈答品手配、慈善事業の運営管理、使用人の給与計算……」


「まだあるのか」


「はい。領地間の通商条約の草案作成、社交シーズンの予算編成、婚約者である殿下のスケジュール管理、各貴族家への季節の挨拶状の文面作成──」


「もういい」


 ヘルムートが手を挙げて止めた。


「……何役やっていたんだ、あの令嬢は」


「数えましたところ、最低でも十二の役職に相当するかと」


「十二」


「はい。現在、その全てが滞っております。代わりの人員を手配しましたが、十二人投入してなお追いつかない状況です」


「十二人で追いつかない仕事を一人でやっていた、と」


「……左様です」


 ヘルムートは深くため息をついた。老獰な政治家として知られる彼だが、この状況には正直頭が痛かった。


 一人の令嬢が抜けただけで、王都の裏方が丸ごと機能不全に陥る。馬鹿げた話だ。だが現実だ。


 ──そもそも、なぜこれほどの人材を一人の令嬢に押し付けていたのか。なぜ誰も気づかなかったのか。


 気づかなかったのではない。気づこうとしなかったのだ。


 そこへ、扉が勢いよく開かれた。


「何を騒いでいる!」


 第二王子レオポルトが、マントを翻して入ってくる。金糸の刺繍が施された豪華なマントだが、着ている人間の中身が伴っていない。


「殿下。ちょうどお話がございます」


「手短にしろ」


「……追放されたカタリーナ嬢が担っていた業務が、全て止まっております。帳簿は合わず、社交界は混乱し、外交文書に誤りが──」


「あの女がいなくても何とかなる!」


 レオポルトが苛立たしげに手を振った。


 ──何ともなっていない。


 ヘルムートは無表情を保ったが、内心では盛大にため息をついていた。


 この王子は救いようがない。自分が追放した令嬢のおかげで今まで回っていた事実すら理解できていない。


「殿下。率直に申し上げます」


「何だ」


「カタリーナ嬢を連れ戻すべきかと」


「……何? あの女を?」


 レオポルトが眉を吊り上げた。しかし、周囲の貴族たちの顔色を見て、何かを察したらしい。全員が青い顔をしている。


「……ふん。仕方ない。連れ戻してやれ。俺が許す」


「殿下」


「何だ」


「追放したのは殿下です」


 レオポルトの口が半開きになった。


「だ、だから俺が許すと言っている!」


「追放された側が、戻りたいと思うかどうかは別の問題ですが」


「戻りたくないはずがないだろう! 王都に戻れるんだぞ!?」


 ヘルムートは何も答えなかった。答える気力がなかった。


 レオポルトの顔が引きつる。


 宰相は書状の準備を命じた。だが、内心ではわかっていた。


 ノルデン辺境伯領からの報告書を思い出す。追放先で精力的に働き、領地の財政を立て直し、領民から感謝されている──と。


(あの令嬢が素直に戻ってくるとは思えんな……)


 追放先で活躍する令嬢。追放元で崩壊する王都。


(……笑えん話だ)



      *



 辺境。


「お嬢様、王都から手紙が届いています」


 ルルが、朱色の封蝋がされた封筒を持ってきた。王家の紋章が押してある。


「ふーん。……お父様から?」


「いえ、宮廷からです。王家の紋章が」


「ああ……」


 封筒を受け取って、ちらりと見る。


(王都。前の職場からの手紙か。退職した会社から連絡が来るとか、前世でもあったな。「引き継ぎ資料の場所がわかりません」とか「あのファイルどこですか」とか。大体ろくな用件じゃなかった)


「まあ、後で読みます」


 封筒を棚の上にぽんと置いた。


「え、開けないんですか? 宮廷からのお手紙ですよ!?」


「今日の仕事が先。帳簿の続きやらなきゃ。南の港町との契約書も最終チェックがあるし」


「で、でも……!」


「ルル。前の職場からの手紙より、今の仕事を優先する。これ、社会人の基本」


「しゃかいじん……お嬢様のおっしゃることがわかりません……」


 ルルが困り顔で首を傾げている。


 私は帳簿を開いた。数字が整然と並んでいる。うん、美しい。自分で組んだ帳簿は我が子のように可愛い。


(さて、今日も定時で上がるぞ)


 窓の外では、城下町の市場から賑やかな声が聞こえている。子供たちの笑い声。おかみさんたちの元気な掛け声。


 棚の上の手紙には、結局その日、手をつけなかった。



      *



 ──王都が崩壊し始めていることを、カタリーナはまだ知らない。


 いや、知ったとしても、きっと帳簿を優先しただろう。

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