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6.上司の休日

 七日に一度の休日がやってきた。


 前世では都市伝説だった「休日」が、ここでは本当に存在する。しかも毎週。信じられない。ホワイトにもほどがある。


(前世の会社では「休みは仕事ができない日」じゃなくて「会社に行かなくていい日に家で仕事をする日」だった。あれを休日と呼んでいた日本語の敗北)


 朝食の後、中庭でオスヴァルトとすれ違った。


 ──彼は剣を振っていた。


 朝日の中で、黒い外套が翻る。鋭い剣筋が空気を裂く音だけが、静かな中庭に響いている。


「おはようございます、辺境伯様。今日はお休みですよね?」


「ああ。鍛錬をしている」


「……それ、お仕事では?」


 オスヴァルトの手が止まった。


「鍛錬は日課だ」


「日課でも、休みの日にやったら仕事ですよ。前世で学んだことがあります。休まない人間は壊れます」


(私が証拠です。実際壊れて死にました。享年二十九歳。死因は過労。笑えない)


「……前世の概念か」


「いえ、これは真実です。本当に。切実に」


 なぜか力が入ってしまった。オスヴァルトが怪訝な顔をしている。


「……では、どうしろと」


「今日は休みましょう。城下町の市場でも歩きませんか? 最近活気が出てきたようですし」


「巡回ということか」


「い、いえ、巡回というか……お散歩です。純粋な、お散歩」


「散歩」


 オスヴァルトが、聞き慣れない外国語を聞いたような顔をした。眉がわずかに寄っている。「散歩」という単語を脳内で必死に処理しているらしい。


(この人、「散歩」の概念がないのかもしれない。前世の佐藤部長レベルのワーカホリックだな。ただし佐藤部長と違って善人なのがタチが悪い。悪い人に「休め」って言うのは簡単だけど、善い人に「休め」って言うのは難しい)


「……わかった」


 剣を鞘に収める。その動作ひとつが、やたらと絵になる。前世の部長が傘を振り回す姿とは天と地の差だ。



      *



 城下町の市場は、一ヶ月前とは見違えるほどの賑わいだった。


 新しい取引先から仕入れた色とりどりの果物。ふわふわの焼きたてパン。香辛料の匂いが風に乗って漂ってくる。子供たちが走り回り、おかみさんたちの威勢のいい声が飛び交う。


「わあ……」


 思わず声が出た。


 蜂蜜屋の前で足が止まる。琥珀色の蜂蜜が、ガラス瓶の中できらきら光っている。


「これ、山岳地帯の花から採れた蜂蜜ですか?」


「ええ、お嬢さん! 今年は特に出来がいいんですよ。味見してみますかい?」


「いいんですか!」


 小さな木のスプーンで一口。濃厚な甘さが口の中に広がった。


「きれい……美味しい……」


(前世では蜂蜜なんて高くて買えなかったな。スーパーの安いシロップで我慢してた。異世界の蜂蜜、レベルが違う)


 隣を見ると、オスヴァルトが無表情のまま立っている。蜂蜜を見ている──のか、私を見ているのか、どこを見ているのかよくわからない。


 毛織物の店では、手触りのいいショールを見つけた。淡い水色の、ふわふわの毛織物。


「ルルにお土産に買っていこうかな。あの子、最近頑張ってくれてるし」


「…………」


「辺境伯様?」


「いや。何でもない」


 オスヴァルトが目を逸らした。何か言いかけて、やめたように見えた。


 薬草屋では、珍しいハーブの香りを嗅いでみた。


「これ、前世で言うところのカモミールに似てます。リラックス効果がありそう。寝る前にお茶にして飲むといいかもしれません」


「かもみーる」


「あ、前世の……」


「概念か」


「……はい」


(覚えられてる。「前世の概念」というフレーズが完全に定着しつつある。そのうち辺境伯領の流行語になりそうで怖い)


 市場を半周したところで、ルルと合流した。


「お嬢様! わあ、楽しそうですね!」


「うん。市場調査も兼ねてね」


「し、じょうちょうさ……?」


「どんな商品がどれくらいの値段で売れているか、把握しておくのは大事だから」


(嘘じゃない。嘘じゃないけど、正直に言うと普通に楽しいだけ。前世では休日に出かける体力なんて残ってなかったから、市場を歩くだけで新鮮。これが人間らしい休日ってやつか)


「お嬢様、あっちに焼き菓子のお店がありますよ!」


「行く」


 即答した。疲れた社畜に甘いものは正義だ。いや、もう社畜じゃないけど。



      *



 焼き菓子屋の前のベンチで、ルルと並んで蜂蜜タルトを食べていた。


 サクサクの生地に、あの山岳蜂蜜がたっぷり。一口ごとに幸せが広がる。


 オスヴァルトは「甘いものは食べない」と言ったが、なぜか近くに立っている。壁に背を預けて腕を組む、いつものポーズ。


(上司が部下のランチを見守る構図。前世でもあった。ただし佐藤部長は「お前ら昼飯に何分かけてるんだ」って言いに来ただけだったけど。辺境伯様は何も言わずにただ立っている。この違い、偉大すぎる)


「美味しい……幸せ……」


「お嬢様、頬っぺたに蜂蜜がついてますよ」


「え、どこ」


「右です。もうちょっと右。……反対側です、お嬢様」


「こっち?」


「いえ、あの……」


 ルルに拭いてもらっていると、物陰からにやにやした顔が近づいてきた。


「おや、閣下。奇遇ですね」


 フリッツだ。偶然を装っているが、さっきから視界の端にちらちら見えていた。あの赤毛は目立つ。


「……なぜお前がここにいる」


「休日の散策ですよ。閣下こそ、今日はお休みでは?」


「巡回だ」


「巡回。お一人ではなく?」


「令嬢が市場を見たいと言ったので案内しているだけだ」


「それ、世間では逢引(デート)と呼びますが」


「巡回だ」


「二人きりで?」


「黙れ」


 フリッツが肩を竦めて去っていった。オスヴァルトの耳が微かに赤い。


(何の話をしてたんだろう。聞こえなかった。フリッツさん、また閣下をからかってたのかな)



      *



 日が傾いてきた。


 城への帰り道、冬の空がオレンジ色に染まっている。吐く息が白い。でも寒さが心地いい。


 隣を歩くオスヴァルトは、相変わらず無口だった。でも、朝の鍛錬をしている時より、少しだけ肩の力が抜けている気がする。歩幅も、私に合わせてくれているのがわかった。


(前世の上司は部下を置いて先にエレベーターに乗る人だったな……。歩幅を合わせてくれる上司なんて初めてだ)


「辺境伯様」


「何だ」


「今日は楽しかったです。ありがとうございます」


「…………ああ」


 それだけ。でも、その短い返事の間に、ほんの一瞬だけ視線がこちらに向いた。鋼色の瞳が夕日を受けて、少しだけ温かい色に見えた。


(いい上司だなあ。部下の休日の付き添いまでしてくれるなんて。前世の部長に爪の垢を煎じて飲ませたい。……まあ、上司なんだから当然か)


「お嬢様ー! 先に戻ってお風呂の準備しておきますね!」


 ルルが小走りで先に行く。私も手を振って、城へ歩き出した。



      *



 カタリーナとルルの背中が、夕焼けの中に遠ざかっていく。


 それを見送ったオスヴァルトの隣に、フリッツがいつの間にか並んでいた。


「閣下、耳が赤いですが」


「風だ」


「本日は無風ですが」


「黙れ」


 フリッツは、もう何も言わなかった。言わなかったが、その口元は最大限ににやついていた。



      *



 城に戻ると、ルルが湯気の立つお茶を用意して待っていた。


「お嬢様、今日は辺境伯様と楽しそうでしたね」


「え? 普通に巡回だったけど」


「巡回って、辺境伯様が荷物を持ってくださったり、人混みで庇ってくださったり、お嬢様の見ていたものを全部覚えていらしたり、するものなんですか……?」


「……するものでしょう。上司なんだから」


「上司……? お嬢様のおっしゃることがわかりません……」


 ルルが首を傾げている。


(何がわからないんだろう。いい上司はそういうものだよ。……たぶん。いや、前世にそんな上司いなかったから確信はないけど)


 湯気の向こうで、ルルが深いため息をついていた。

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