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5.経理は世界を救う

 辺境に来て一ヶ月が過ぎた。


 不正商人を追い出したのはいい。帳簿の闇を暴いたのもいい。衛生改革で領民の健康状態も改善した。


 だが、問題はここからだ。


 ──ノルデン辺境伯領の財政は、控えめに言って瀕死だった。


(前世で言うところの債務超過寸前。いや、よく今まで持ったな、この領地。佐藤部長の経費精算より酷い。あの人は毎月架空のタクシー代を請求してたけど)


 朝、執務室に積まれた帳簿と書類の山を前に、私は深呼吸した。


「さて」


 帳簿を開く。数字の羅列が目に飛び込んでくる。前世で七年間、毎日にらめっこしてきた世界だ。赤字の数字が並ぶ頁をめくるたびに、胃が痛くなる感覚すら懐かしい。


(懐かしい。やっぱり数字は裏切らないな。人間は裏切るけど、数字は正直だ)


「まず現状把握。次に無駄の洗い出し。そしてPDCAを回しましょう」


「……ぴーでぃーしーえー?」


 隣で書類を運んでいたフリッツが固まった。


「Plan、Do、Check、Actionです。計画して、実行して、検証して、改善する。業務改善の基本サイクルですよ」


「は、はあ……」


「前世の概念です。忘れてください」


「いえ、忘れてくださいと言われましても、気になるのですが」


 フリッツの困惑顔はもう見慣れた。この一ヶ月で彼の困惑顔コレクションは三十種類を超えている。



      *



 まず手をつけたのは支出の見直しだった。


 不正商人が設定していた仕入れ価格は相場の三倍。これが是正されただけでも大きいが、それだけでは足りない。


「フリッツさん、近隣の領地との取引記録を全部出してください」


「全部、ですか」


「全部です。サプライチェーンの再構築をします」


「さぷらいちぇーん?」


「仕入れルートの見直しです。どこから何をいくらで買っているか、全部把握して最適化します」


 フリッツが半笑いで書庫に走っていった。あの人、最近私の言葉を面白がっている節がある。


 三日間、ほとんど執務室にこもって作業した。帳簿と取引記録を突き合わせ、相場を調べ、コスト計算をし、改善案を練る。


 もちろん定時退社は守る。ホワイト企業の鑑であるノルデン辺境伯領の労働環境を、私が壊すわけにはいかない。


(前世なら「今日中に終わらせろ」案件だけど、ここには佐藤部長がいない。素晴らしい。定時で帰れるだけで人間はこんなに効率が上がるんだな)


 結果、見えてきたのはこうだ。


 北の山岳地帯から毛皮を安く仕入れられるルート。東の農村地帯との穀物の直接取引。南の港町との海産物の定期便。中間業者を三つ飛ばして直接契約すれば、コストは大幅に下がる。


「これで仕入れコストを四割削減できます。浮いた分を領民の生活基盤に回しましょう」


 報告書を広げながら説明する。オスヴァルトが、じっと私を見ていた。


「……なぜ、そこまでできる」


「前世の経理部で七年間やっていましたから」


「前世」


「はい。……あ、前世の概念です。忘れてください」


「最近よく聞く言葉だ」


(バレそう。いや、前世って言っても信じないだろうけど。仮に信じたとしても「前世はブラック企業の経理OLでした」とか言えない)


「とにかく、あとは実行あるのみです。契約書の雛形は作ってあります。各取引先への書簡の下書きも。承認をいただければすぐに動けます」


 オスヴァルトは数秒、黙って報告書を見つめた。


「……任せる」


 短い。でもその二文字に込められた信頼の重みが、前世では一度も感じたことのないものだった。



      *



 それから数週間。


 新しい取引先との契約が次々とまとまり、市場には色とりどりの商品が並ぶようになった。


 食料品の価格が下がった。品質は上がった。冬の備蓄も十分に確保できる見通しが立った。


 領地の収支報告書を仕上げて、私は小さく息を吐いた。


(黒字転換。前世の決算期を思い出すな。あの時は三日三晩徹夜で数字を合わせたけど、今回は定時内で終わった。やっぱりホワイトは最高。人間、睡眠を取れば仕事の質が上がる。当たり前のことなのに、前世の会社は誰も気づいてなかった)


 執務室の窓から城下町を眺める。以前より人通りが多い。子供たちが走り回っている。露店の数も増えて、活気のある声が風に乗って聞こえてくる。


 ──その時だった。


「カタリーナ様!」


 城門の方から声がした。振り返ると、市場で見かけた顔が何人もこちらに向かってくる。


 肉屋のおかみさん。パン屋の親父さん。薬草を売っていたおばあさん。八百屋の若旦那。仕立て屋のおかみさん。


「カタリーナ様、ありがとうございます!」


「おかげで暮らしが楽になりました!」


「子供たちにまともな食事を食べさせてやれるようになったんです!」


「うちの婆さんの薬代も、半分になりました!」


 口々にそう言って、頭を下げる。


 ──え。


「あ、ありがとう、ございます……?」


 声が震えた。自分でもびっくりした。


 目の奥が、じわっと熱くなる。


(あれ。なんで。泣くところじゃないでしょ、ここ。感謝されてるだけじゃん。嬉しいだけじゃん。なのに何で目から水が)


 でも駄目だった。涙が、勝手に溢れてくる。


「す、すみません……っ」


「お嬢様!? どうされましたか!?」


 ルルが慌てて駆け寄ってくる。領民たちも目を丸くしている。


「お嬢様、お体の具合が悪いのですか!? お水を持ってきます! お医者様を!」


「ち、違うの、ルル……体調は大丈夫……」


 袖で目元を拭う。でも次から次へと溢れてくる。みっともない。公爵令嬢が人前で泣くなんて。でも止まらない。


「……前世では」


「ぜんせ?」


「──どれだけ働いても、『ありがとう』って、言ってもらえなかったので」


 七年間。毎日終電まで働いて。休日出勤して。有給も取らず。決算期は三日徹夜して。部長の経費精算を代わりにやって。新人の教育もして。


 誰にも感謝されなかった。


「お前の代わりはいくらでもいる」──それだけ言われ続けた。


 だから。「ありがとう」が、こんなに嬉しいなんて、知らなかった。


「カタリーナ様……」


 おかみさんが、私の手をぎゅっと握った。ごつごつした、働き者の手だった。


「あなた様がこの町に来てくださって、本当によかった」


 ──また涙が溢れた。


 もう止められなかったので、諦めて泣いた。


 ルルが「お嬢様ー!」と一緒に泣き始めた。領民たちがどうしていいかわからずおろおろしている。感謝しに来たのに泣かれるという、前代未聞の状況に全員が困惑していた。


(泣く理由が「感謝されたから」って、我ながら重いな……。でも、いいか。嬉し泣きくらい許してほしい。前世と今世合わせて四十六年分の涙だ)



      *



 少し離れた廊下の柱の影に、オスヴァルトが立っていた。


 腕を組んで、壁に背を預けて。何も言わない。


 ただ、あの鋼色の瞳が──いつもより少しだけ、柔らかかった。


「閣下」


 フリッツが横に並ぶ。


「何だ」


「笑ってますよ」


「笑っていない」


「口角が上がっています」


「黙れ」


 フリッツは肩を竦めた。が、口元は明らかににやついていた。


「……あの令嬢は、不思議な人間だな」


「ええ。まったく」


 オスヴァルトは何も返さず、静かにその場を離れた。


 耳の端が、ほんの少し赤くなっていたことを──フリッツだけが見ていた。

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