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4.手洗いの革命

 不正商人を追い出してから一週間。


 ノルデン辺境伯領は、静かに動き始めていた。物価は少しずつ下がり始め、領民の顔にも明るさが戻りつつある。


 ──いい流れだ。でも、私にはもうひとつ気になっていることがあった。



      *



 城下町の通りを歩く。ルルが隣にいる。


 市場の肉屋。肉と野菜が同じ台の上に直置きされている。


 パン屋の前。店主が素手で生地をこねた後、そのまま銅貨を受け取っている。


 井戸端。水を汲みに来た女性が、手を洗わずにそのまま食材を洗い始めた。


(──衛生の概念がない)


 前世の世界でも、手洗いが感染症予防に有効だと証明されたのは十九世紀の話だ。だが知っている。知っているからには、黙っていられない。


(前世の会社のトイレに「手を洗いましょう」って貼り紙があったの、あれ実は人類の歴史を変えたレベルの偉業だったんだな)


「ルル、辺境伯領で最近体調を崩す人は多い?」


「はい……。お腹を壊す方は多いと聞きます。特に子どもとお年寄りが」


(やっぱり)


 城に戻り、オスヴァルトに相談した。


「領民に衛生指導をしたいのですが、広場を使う許可をいただけますか」


「……手を洗うだけで?」


「はい」


「…………好きにしろ」


 半信半疑だ。わかる。でも結果で証明すればいい。



      *



 城下町の広場。


 フリッツが触れ回ってくれたおかげで、三十人ほどの領民が集まっていた。子どもを連れた母親、屈強な鍛冶屋、白髪の老婦人。みな怪訝そうな顔をしている。


「追放されてきた令嬢が、何の話をするんだ?」


「さあ。帳簿の不正を暴いたってのは聞いたが……」


 私は深呼吸して、前に出た。


「今日お伝えしたいのは、とても簡単なことです」


 井戸の前に立つ。


「食事の前と後に、手を洗いましょう」


 沈黙。


「……それだけ?」


 鍛冶屋の大男が腕を組んだ。


「手を洗うだけで何が変わるんだ?」


「目に見えない小さな汚れが手についています。それが食べ物と一緒に体に入ると、お腹を壊したり熱が出たりします。手を洗えば、それを防げます」


 ルルと一緒に、井戸水で丁寧に手を洗って見せた。指の間、爪の先、手首まで。


「んなこと毎回やるのか? 面倒くせえな」


「こんな簡単なことで体調が良くなるなら、試す価値はあると思いませんか?」


 続けて、食品の保管について話した。肉と野菜は分けて保管すること。涼しい場所に置くこと。


 領民たちは半信半疑のまま解散した。


 ──でも、数人の母親が真剣にメモを取っていたのを、私は見逃さなかった。


(あの人たちが子どもにやってくれたら、そこから広がる。前世の社内改革と同じ。トップダウンよりボトムアップの方が定着する)



      *



 五日後。変化は、思ったより早く現れた。


「城下町の診療所によると、この五日間で腹痛の患者が半分以下に減ったそうです」


 フリッツが報告に来た。


「特に子どもの症状が劇的に改善したと」


 広場を歩いていると、あの鍛冶屋の大男が駆け寄ってきた。


「う、うちの婆さんが! 手を洗うようになってから、長年の腹下しが治ったって! 本当に手を洗うだけで──」


「よかったです。続けてくださいね」


「ああ! ありがとうよ、お嬢さん……!」


 その後ろで、他の領民たちも集まってきて──


「うちの子も元気になったよ!」


「お嬢様のおかげだ!」


「ありがとうございます!」


 ──ありがとう、の言葉が、波のように押し寄せてきた。


(……あ、やばい)


 前世で七年間、毎月の締めを一人で回して、決算を徹夜で仕上げて、一度も「ありがとう」とは言われなかった。


 なのにここでは、手を洗いましょうって言っただけで、こんなに──


「お嬢様……? 泣いていらっしゃいますか……?」


 ルルが心配そうに見上げてくる。


「泣いてない。花粉症なの」


「かふんしょう……? 冬ですけど……」


「前世の花粉は季節を選ばないのよ」


「お嬢様のおっしゃることがわかりません……」



      *



 夕方。まだ外で衛生指導の続きをしていたら、急に冷え込んできた。


 手がかじかんで、指先の感覚がなくなりかけていた。


 ふわり、と。背中に、重くて温かいものがかかった。


 振り返ると、オスヴァルトが立っていた。黒い外套が一枚、私の肩にかけられている。


「辺境伯様?」


「……風邪を引かれると困る」


 それだけ言って、彼は目を逸らした。


(前世の上司はこんなことしてくれなかった……。佐藤部長なんて、冬にエアコンの設定温度を「経費削減だ」って十八度に下げた人だよ……?)


「あ、ありがとうございます」


「礼はいい。……領民が喜んでいた」


 背中を向けたまま、ぽつりと言った。


「お前のおかげだ」


「お疲れ様です」


「……ああ」


 彼の背中が城門に消えていく。


 その直後。


「おや、カタリーナ殿」


 にやにやしたフリッツが、どこからともなく現れた。


「閣下の外套ですか、それは。しかし閣下、外套が一枚足りないようですが」


 城門の向こうからオスヴァルトの声が低く響いた。


「──知らん」


「先ほどカタリーナ殿がお召しの外套が、閣下のものによく似た──」


「黙れ」


 フリッツが肩をすくめて、私ににっこり笑った。


「閣下は照れ屋さんでいらっしゃいますので」



      *



 城に戻ると、ルルが夕食の準備をしてくれていた。


「お嬢様、おかえりなさい。あら、その外套──」


「辺境伯様がお貸しくださったの」


 ルルが少し考え込んで、言った。


「辺境伯様のお顔が変でした」


「え? いつ?」


「お嬢様に外套をかけた後、すれ違った時です。お耳が赤かったような……」


「寒いからじゃない?」


「そうでしょうか……?」


 まあ、辺境の夕方は寒い。耳くらい赤くなるだろう。


 外套をきちんと畳んで、椅子にかけた。


 ──その夜。ふとあることを思い出した。


 ヴァイスフェルト公爵家の衛生管理。社交パーティーの食事手配。大規模宴会での食品管理。あれは全部、私がやっていたのだ。


(私がいなくなった王都は──大丈夫よね?)


 窓の外は暗い。北の空に冬の星が瞬いている。


 翌朝、フリッツが朝食の席で切り出した。


「王都の南区で原因不明の腹痛が広がっているそうです。王宮の舞踏会の直後から症状者が出ているようで」


 私の手が止まった。


(舞踏会の食事──衛生管理、誰がやったの?)


 嫌な予感が、背筋を這い上がった。

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