3.社畜式帳簿改革
帳簿と格闘して三日目の朝を迎えた。
作業部屋の机には帳簿が五冊積み上がり、私が書き出したメモが壁一面に貼られている。インクのシミが右手の中指についたまま取れない。
(懐かしい。前世の決算期も指がインクとコーヒーで黒かった。全然懐かしくない)
「お嬢様……また徹夜ですか……?」
ルルが朝食の盆を持って入ってきた。目が不安そうに揺れている。
「違うわ。ちゃんと五の鐘で作業を止めて寝てる。ここはホワイト企業だから」
「ほわいと……」
「ただ、朝が早いだけ。七の鐘の前に起きるのは自主的なものだから、残業じゃないの」
「それを前世では何と呼ぶのですか……?」
「サービス早出。──冗談よ」
ルルの顔がますます不安になったので、スープを受け取ってちゃんと飲んだ。温かい。美味しい。前世の決算期の朝食はカロリーメイトだった。異世界、最高。
*
さて、三日間の帳簿調査で判明した不正の全容を整理しよう。
ノルデン辺境伯領に出入りする商人は、主に三社。穀物を扱うベーレン商会、布と日用品のクロイツ商会、そして金物と建材のハイデン商会。
この三社が結託していた。
仕入れ値は王都の相場の約三倍。輸送費を差し引いても二倍以上の上乗せがある。さらに帳簿の端に残っていた覚書から、他の商人の参入を妨害している形跡も読み取れた。
(競合を排除して独占状態を作り、言い値で売りつけている。教科書に載せたいレベルの独占搾取)
決め手は数字の「不自然な一致」だ。三社ともほぼ同じ利益率──事前に示し合わせていなければ、こうはならない。
メモを整理し、証拠となるページに付箋を挟み、要点を一枚の紙にまとめた。
(よし。レポート完成。上司に報告しよう)
──上司じゃなかった。辺境伯だった。まあ、やることは同じだ。
*
執務室の扉を叩く。
「入れ」
短い声。相変わらず無表情のオスヴァルトが机に向かっていた。その隣にフリッツが立っている。
「報告があります。出入り商人三社が結託して、仕入れ値を約三倍に吊り上げています」
オスヴァルトの表情は変わらない。だが、ペンを置いた。
帳簿のページを示す。覚書の記述。数字の一致。仕入れ値と市場価格の乖離。
「三社の利益率がほぼ同一です。異なる商品を扱う業者の利益率がここまで一致することはありません。価格協定がなければ説明がつかない」
オスヴァルトが帳簿を手に取り、私が印をつけた箇所を確認していく。
「……どうしてわかった」
「七年の経理経験です」
「七年?」
鋼色の瞳がこちらを向いた。
「お前は十七ではないのか」
(あ、しまった)
「前世の概念です、忘れてください」
「……忘れられる類の話ではないが」
フリッツが横から口を挟んだ。
「閣下、今は帳簿の話をしましょう。前世の概念は後ほどゆっくり」
オスヴァルトが帳簿に目を戻し──静かに言った。
「この三社を呼べ」
その声は低く、冬の風より冷たかった。
(おお。怒ってる。この人、声が低くなるタイプの怒り方なんだ。佐藤部長は声が大きくなるタイプだったけど、こっちの方がずっと怖い)
*
翌日。城の大広間。
三社の代表が並んで座っている。ベーレン商会の太った中年男。クロイツ商会の痩せた老人。ハイデン商会の若い男。三人とも視線が落ち着かない。
オスヴァルトが上座に座り、私はその隣に立った。
「本日お集まりいただいたのは、帳簿の確認です」
私が切り出すと、ベーレン商会の男が愛想笑いを浮かべた。
「ほう、帳簿の確認とは。何かお困りでしょうか、お嬢さん」
「困っているのは領民の方々です」
帳簿を広げ、仕入れ値の一覧表を見せる。
「穀物が王都相場の三倍。布地は二・八倍。金物は三・二倍。輸送費を考慮しても、説明のつかない上乗せがあります」
ベーレン商会の男の笑みが引きつった。
「い、いやいや。辺境は遠いですからな。魔物も出るし──」
「では、三社の利益率がほぼ同一であることの説明をお願いします」
利益率の比較を示した。
「ベーレン商会、三十二パーセント。クロイツ商会、三十一パーセント。ハイデン商会、三十三パーセント。一パーセントの誤差で揃う確率を、ご存じですか?」
沈黙。
クロイツ商会の老人が口を開いた。
「……偶然ではないかな」
「偶然ではありません。数字は嘘をつけません」
(前世の監査法人の先輩の受け売りだけど、こういう時に使うとかっこいいな)
「さらに、昨年辺境伯領への参入を試みた行商人が三件、不審な理由で引き返しています」
ハイデン商会の若い男の顔が青くなった。
「言い訳は帳簿の前では無力です。前世で学びました」
「ぜん……せ……?」
ベーレン商会の男が立ち上がった。
「こ、こんなのは言いがかりだ! 小娘の戯言ではないか!」
「座れ」
オスヴァルトの一言が、大広間の空気を凍らせた。
「帳簿の数字が正しいなら、貴様らの弁明に意味はない。三日以内に正規の仕入れ値で再契約に応じるか、出入りを禁ずる。選べ」
三人の商人は逃げるように大広間を出ていった。
扉が閉まる。
「……やるな」
オスヴァルトが、ぼそりと言った。
「帳簿を読めるものがいなかった。助かった」
(「助かった」って言った……! 前世で七年間経理をやって、上司に「助かった」って言われたの、一度もなかったのに……!)
目の奥がじわりと熱くなった。
──泣くな。泣くな鈴木凛。たかが「助かった」の三文字で泣くな。
「あ、ありがとうございます」
声が少し震えた。
「……泣いているのか?」
「泣いていません。目にゴミが入っただけです」
「両目同時にか」
「そうです」
フリッツが後方で小さく吹き出した。
「閣下、カタリーナ殿はお疲れなのでしょう。三日間帳簿と格闘されていましたから」
「……そうか。今日は早く休め」
「はい。お疲れ様です」
「おつかれさま……? ああ、前世の挨拶か」
「はい。労いの言葉です」
「……おつかれさま」
オスヴァルトが、ぎこちなく繰り返した。
(──この人、真似して言ってくれるの、優しすぎない?)
執務室を出ると、フリッツが追いかけてきた。
「閣下があの言葉を真似るのは珍しい。普段は他人の言い回しなど気にしない方なのですが」
フリッツの目がにやにやしている。
「……それは、どういう意味ですか?」
「さあ。私は副官であって、閣下の心理カウンセラーではありませんので」
肩をすくめて去っていった。
*
その夜。
帳簿の残りを整理していると、あることに気づいた。
追い出した三社のうち、ベーレン商会。穀物の仕入れルートを辿ると、王都の商業ギルドの名前がちらついている。
しかも──王都の公爵家御用達の取引先と、同じ名前が。
(……あれ、これ)
王都の大手商会、ゲルトナー商会。ベーレン商会への穀物卸売元であり──ヴァイスフェルト公爵家の主要取引先でもある。
(この商人、王都ともつながっている──)
帳簿を閉じた。窓の外では、北の星がじっと光っていた。
辺境の不正は、辺境だけの話ではないかもしれない。
──前世の経験が告げている。一つの不正の裏には、必ずもう一つの不正がある。
同じ頃──遠く離れた王都では。
「おい、この帳簿の数字が合わないぞ。誰が管理していたんだ」
「……追放されたカタリーナ嬢ではないかと」
「何だと? あの小娘がいないと帳簿も管理できんのか!」
ヴァイスフェルト公爵家の書斎で、怒号が響いていた。




