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2.ホワイト企業へようこそ

 目が覚めた。


 天井を見上げる。見知らぬ石造りの天井だ。薄い朝日が窓から差し込んで、埃が金色に光っている。


 ──ああ、そうだ。ここは辺境伯の城だ。


 ゆっくりと体を起こす。隣のベッドではルルがまだ穏やかな寝息を立てている。


(……ぐっすり眠れた)


 これがどれだけ衝撃的なことか、わかるだろうか。


 前世の鈴木凛は、夜十一時に会社を出ても持ち帰り仕事で結局深夜三時。朝六時にアラームで叩き起こされる毎日だった。睡眠時間は三時間。目の下のクマは年中無休だった。


 それが──七の鐘まで寝ていていいのだ。


(これが……人間らしい睡眠……!)


 感動で少し目が潤んだ。社畜の涙は安い。



      *



「おはようございます、カタリーナ殿。朝食の準備ができております」


 赤毛の副官、フリッツが食堂の前で迎えてくれた。にこやかだが、目の奥に好奇心を隠しきれていない。昨日の「ホワイトですね」が相当印象的だったらしい。


「おはようございます。あの、朝礼はありますか?」


「ちょうれい?」


「全員整列して社訓を唱和する儀式です。前世の──忘れてください」


「前世の概念、守備範囲が広いですね」


 フリッツが笑いを噛み殺している。この人、絶対面白がっている。


 食堂に入ると、長テーブルに温かいスープとパン、チーズ、燻製肉が並んでいた。


(朝食が出る……! しかも好きな時間に食べていい……!)


 前世の朝は、コンビニのおにぎりを片手にデスクで食べるのが常だった。食事に時間を使う余裕などなかったのだ。


「カタリーナ殿、お口に合わないですか?」


「いえ、美味しすぎて動けないだけです」


「それは初めて聞く褒め言葉ですね」



      *



 朝食後、フリッツが城の中を案内してくれた。


 ノルデン辺境伯の城は、王都の屋敷と比べると飾り気がない。装飾は最低限。通路は広く、どの部屋も用途がはっきりしている。


(無駄がない。合理的。前世で言うところのスタートアップ企業のオフィスだ)


「こちらが閣下の執務室。隣が会議室。その奥が書庫です」


「効率的な配置ですね。動線が完璧です」


「どうせん……? まあ、ありがとうございます」


 フリッツが怪訝そうに礼を言った。


 案内の最後に、小さな部屋の前で足が止まった。


「こちらが、カタリーナ殿の作業部屋です」


「作業部屋?」


「閣下からの伝言です。『暇を持て余すのも辛いだろう。好きに使え』と」


 部屋の中を覗く。木の机がひとつ。椅子がひとつ。窓からは城下町の景色が見える。棚には白紙の帳面とインク壺が揃えてあった。


(……自分の部屋をくれるのか。しかも「暇だろう」って理由で)


 前世の佐藤部長は、デスクを三人で共有しろと言い出したことがある。結果、引き出しの中身が毎日混ざる地獄が誕生した。


「辺境伯様にお礼をお伝えください。大切に使います」


「直接言えばいいのでは?」


「……直接だと、またあの無表情で『別に』とか言われそうなので」


「的確な予想ですね」


 フリッツが今度こそ笑った。



      *



 その日は、城での過ごし方を覚えることに費やした。


 ルルと一緒に部屋の掃除をし、書庫で辺境伯領の地図を眺め、夕方には中庭を散歩した。


 そして──五の鐘が鳴った。


 廊下にいた使用人たちが、一斉に手を止めた。


「お疲れ様です」「お先に失礼します」


 次々と持ち場を離れていく。鎧を着た兵士も、厨房の料理人も、帳簿を広げていた書記官も。


(……帰ってる。みんな帰ってる)


「カタリーナ殿? どうかされましたか?」


 フリッツが不思議そうに振り返る。


「……あの、本当に帰っていいんですか?」


「五の鐘が定時です。閣下の方針で、緊急時以外の残業は禁止されています」


(残業禁止……!?)


 信じられない言葉が聞こえた。


 前世では「定時退社」は伝説上の生き物だった。ユニコーンより見た人が少ない。「今日は早く帰れるかも」という期待は、上司の「ちょっといい?」の一言で毎回粉砕された。


 それが──ここでは全員が、当たり前のように帰っている。


「……最高の福利厚生です」


「は?」


「すみません、感動しています。これがホワイト企業……」


「また、ほわいと、ですか」


「定時退社が文化として根付いている組織は、前世でも滅多にありませんでした」


 フリッツが首を傾げている。


 ルルが隣で小さく手を挙げた。


「お嬢様、お嬢様のおっしゃることがわかりません……」


「うん。ごめんね。嬉しいのよ」


「追放された先で嬉しいのですか……?」


「ルルもわかるわ、いつか」



      *



 翌日。


 午後、ルルを連れて城下町に出た。


 ──そこで、空気が変わった。


 城の中はホワイトだった。だが城下町は、なんというか──元気がない。


 市場には人がまばらで、並んでいる商品も少ない。野菜はしなびているし、布は質が悪いのに値段が高い。


「にんじん一本で銀貨二枚……?」


 ルルが目を丸くする。


「高いですよね。王都の三倍はします」


 私は黙って市場を歩いた。あちこちの店を見て、値段を確認して、品物の質を比較する。


(この価格設定、おかしい。品質に対して値段が高すぎる。しかもどの店も同じような価格帯……)


 前世の経理脳が自動的に回り始めた。


(独占供給だ。競合がいないから、売り手が好き放題に価格を設定している。しかも品質を下げてもバレない──典型的な搾取構造じゃない)


 城に戻ると、私はまっすぐオスヴァルトの執務室に向かった。


「──帳簿を見せていただけますか」


 オスヴァルトが顔を上げた。鋼色の瞳が無感情に私を見る。


「帳簿?」


「領地の収支記録です。仕入れと支出の明細が見たいのですが」


「……なぜだ」


「城下町の物価が不自然です。確認したいことがあります」


 長い沈黙。


 オスヴァルトの視線が、じっと私の目を見据えている。値踏みされているのがわかった。


「……好きにしろ」


 彼は顎で書庫の方向を示した。


(よし。許可が出た)


 書庫に走り込み、帳簿を引っ張り出す。革張りの分厚い帳面を開いて──


 三ページで全てを悟った。


「……めちゃくちゃですね」


 ルルが後ろから覗き込む。


「お嬢様、何がめちゃくちゃなのですか……?」


「全部。勘定科目は統一されてないし、日付は飛んでるし、数字が合わない箇所が十七か所ある。三ページで十七か所よ」


「お嬢様のおっしゃることがわかりません……」


「いいのよルル。わからなくて正常」


 帳簿をめくる手が止まった。


 ある数字の列を、指でなぞる。


(……これは)


 仕入れ値と市場価格の差。複数の業者間の不自然な一致。記録されていない支出の穴。


 前世で七年間、毎日帳簿と睨めっこしてきた目が、はっきりと告げている。


 ──不正だ。


 帳簿を抱えて、もう一度執務室の扉を叩いた。


 オスヴァルトが顔を上げる。


「もう読んだのか」


「はい。辺境伯様」


 帳簿を机の上に広げる。


「この帳簿、不正がありますね」


 鋼色の瞳が、初めて──ほんの一瞬だけ、揺れた。

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