17.上司が怒る日
翌朝、城の空気がおかしかった。
廊下ですれ違う兵士たちが、全員背筋を伸ばしている。いつも以上に。目を合わせると、微妙に目を逸らされる。
「ルル、何かあったの?」
「閣下が今朝から怖いそうです……いつもの怖さとは違う怖さだと……」
(会社で朝から空気がピリピリしてる日ってあったな。部長が何かに怒ってる日だ)
オスヴァルトの執務室の前に、フリッツが立っていた。
「閣下がお怒りです。聖女の手先がカタリーナ殿を陥れようとした事実に」
(私を陥れようとしたことに? 領地のことじゃなくて?)
「今朝から王都への書簡を書いておられます。もう三通目です。一通目と二通目は破り捨てました」
「なぜ?」
「表現が激しすぎて外交文書として成立しなかったそうです」
(相当怒ってる……)
「私が話をした方がいいでしょうか」
「むしろお願いします。私は『黙れ』の一言で追い出されました」
*
扉を叩いた。
「辺境伯様。カタリーナです」
「……入れ」
声が低い。いつもより、さらに低い。
執務室の机の上に、くしゃくしゃに丸められた羊皮紙が二つ。インクが乾ききらない三通目の書簡。
オスヴァルトはいつもの無表情──ではなかった。鋼色の瞳に、内側で静かに燃えているような温度がある。
「調査団の報告書をお持ちしました」
「ああ」
報告書を置く。一瞥して、すぐに書簡に視線を戻した。ペンを握る手に力がこもっている。
「辺境伯様。怒っていらっしゃいますか」
沈黙。
「怒っていない」
「ペンが折れそうですが」
手元を見て、ペンの軸がわずかに歪んでいることに気づいたらしい。静かに置いた。
「……あの男は。お前を──陥れようとした」
「はい。でも未遂に終わりました。事前に──」
「そういうことではない」
声が、一段低くなった。怒鳴っていない。だからこそ──重い。空気が震えるような低い声。
「我が領地に客人として迎えた人間に、手を出そうとした。──それを、許すわけにはいかない」
鋼色の瞳がまっすぐに私を見た。
「彼女に手を出すことは許さん」
──心臓が、一つ跳ねた。
(……あ)
胸の奥で何かが動いた。
(前世の上司は──私のために怒ってくれたことなんて、一度もなかった。クライアントに理不尽を言われても「お前の対応が悪い」。徹夜明けで倒れても「明日は出られるのか」。七年間、一度も)
「辺境伯様」
「何だ」
「……ありがとう、ございます」
声が震えた。しまった、と思ったが遅かった。
「なぜ礼を言う」
「怒ってくれて──私のために怒ってくれて、ありがとうございます」
目の奥が熱い。泣くまい、と思う。でも前世で一度も感じたことのない温度が、胸の奥から込み上げてくる。
オスヴァルトは黙って立ち上がり、窓辺に歩いた。背中を見せるように。
「泣くな」
「泣いてません」
「声が震えている」
「……風邪です」
「嘘をつくな」
(嘘です。すみません)
袖で目元を拭う。一滴もこぼしていない。ぎりぎりセーフ。
「……書簡は俺が書く。お前は何もしなくていい」
「でも──」
「お前の仕事は領地の帳簿だ。それ以外は俺の仕事だ」
振り返らない背中が、言っていた。──お前を守るのは、俺の仕事だと。
(なんですか、その台詞。前世でそんなこと言ってくれる上司がいたら、退職しなかったかもしれないじゃないですか)
胸の奥が、じんわりと熱い。泣きそうなのとは違う。もっと深いところで、何かが溶けていくような──
*
執務室を出た廊下で、フリッツが待っていた。にやにやが完全に復活している。
「閣下のお怒りは収まりましたか」
「……多分」
「それは結構。──ところで、カタリーナ殿。仕事で頬が赤くなることは、普通ないのですが」
足が止まった。
「……走ったから」
「廊下を歩いていましたよね」
「辺境の空気が乾燥して……」
「今日は湿度が高いですが」
(この人、オスヴァルトさんに対するのと同じ手法を私にも……!)
「き、気のせいです」
「閣下と同じことをおっしゃいますね。あの方も大抵、カタリーナ殿の話をした後に『気のせいだ』と」
「──えっ?」
「おっと、内緒でした。忘れてください」
フリッツがひらひらと手を振って角を曲がって消えた。
「忘れられるわけないでしょう!」
廊下に一人。胸が、どくどくと鳴っている。
(「カタリーナ殿の話をした後に」って、何……?)
頬に手を当てる。確かに、熱い。
前世で感じたことがない。恋愛なんて、ブラック企業の七年間で一度も縁がなかった。この胸の熱さが何なのか、わからない。
(上司に感謝してるだけ。ホワイト上司に出会えた喜び。それだけの、はず)
自分に言い聞かせても、心臓は静かにならなかった。
*
夜。帳簿を開いたが、数字が頭に入らない。四ヶ月間で初めてだ。数字の向こうに鋼色の瞳が浮かぶ。
「お嬢様、帳簿を開いてから一文字も書いてませんよ?」
「ちょっと考え事をしていただけで──」
「お顔が赤いです」
「暖炉の火が近いのよ」
「暖炉に火はつけていませんが……」
(この城の住人は全員ツッコミが鋭い……!)
「お嬢様。ひょっとして……辺境伯様のことを考えていましたか?」
「なっ──なぜそうなるの!」
「だって、辺境伯様以外にお嬢様の帳簿を邪魔できる存在を、私は知りません」
「違うわ。ただ、いい上司だなって思っただけ」
「お嬢様のおっしゃることがわかりません……でも、辺境伯様のことを考えて顔が赤くなってることは、わかります」
「──ルル」
「はい」
「黙りなさい」
言ってから気づいた。──それ、オスヴァルトさんの口癖だ。
(だめだ。感染してる)
帳簿を閉じた。今日はもう無理だ。
ベッドに入って天井を見つめる。暗い部屋の中で、心臓の音だけがやけに大きい。
(前世で感じたことがない気持ち。わからない。わからないけど──嫌じゃない。嫌じゃないのが、一番怖い)
目を閉じても、鋼色の瞳が消えなかった。
──人生で初めて、帳簿以外のことで眠れない夜を過ごした。




