15.聖女のパワハラ
辺境に来て四ヶ月。
窓の外には、柔らかな春の光が差し込んでいる。冬枯れの大地を覆っていた雪はすっかり溶けて、丘には黄色い野花が咲き始めていた。
市場は今日も賑わっている。三ヶ月前には閑古鳥が鳴いていた広場に、今は近隣の領地からも商人が集まってくるようになった。
(前世の経験則だけど、市場に人が集まる=経済の好循環。コンビニの出店数と地域の経済力が比例するのと同じ理屈だ)
「お嬢様、今月の帳簿の集計が終わりました!」
ルルが書類を抱えて走ってくる。最近は数字の読み方も覚えて、簡単な集計なら任せられるようになった。教育とは偉大なものだ。
「ありがとう、ルル。よく出来てるわ」
「えへへ……お嬢様に教えていただいたので」
「前世では新入社員の教育係を五年やったからね。後輩を育てるのは得意なの」
「お嬢様のおっしゃることがわかりません……でも、褒められたことはわかります……!」
ルルが嬉しそうに頬を染めた。この子は結論だけ正確に把握する天才だと思う。
*
平和な朝は、突然終わった。
「カタリーナ殿」
フリッツが執務室に入ってきた。いつものにやにやがない。代わりに、眉間に薄い皺が寄っている。
──嫌な予感がする。前世で「ちょっといい?」と真顔で声をかけてくる上司は、大抵ろくでもない話を持ってくる。
「何かありましたか」
「王都から通達が来ました。──調査団が派遣されるそうです」
「調査団?」
「ええ。名目は『辺境伯領の運営状況の確認』。実態は──」
フリッツが声を低くした。
「聖女ソフィアが国王陛下に讒言を吹き込んだようです。『ノルデン辺境伯が追放令嬢を使い、反乱を企てている』と」
数秒、頭の中が真っ白になった。
それから、猛烈に既視感が押し寄せてきた。
(これ、前世で見た。お局が上長にチクって、真面目に働いてる後輩を追い込む構図。佐藤美咲さんがまったく同じ手を使って、営業部の田中くんを異動に追い込んだ時と一緒じゃないか)
「……聖女様は、随分とアグレッシブですね」
「アグレッシブ、ですか」
「攻撃的という意味です」
「ほう。的確な表現ですね」
フリッツが苦笑した。
「調査団の構成は把握していますか?」
「王都の財務官が三名、護衛の騎士が十名。到着は十日後です。──それと」
「それと?」
「調査団の中に、聖女派の人間が紛れ込んでいるとの情報があります。名前まではわかりませんが」
(お局の手先が監査チームに入ってる。最悪のパターンだ)
でも、前世でも似たようなことはあった。本社からの抜き打ち監査。クライアントの会計検査。上層部の視察。全部乗り切ってきた。
「フリッツさん」
「はい」
「調査団が来るなら、むしろ好都合です」
「……好都合、ですか」
フリッツの目が少し丸くなった。
「実績を見せればいいだけですから。帳簿は完璧に整備してありますし、領地の改善データも全て数値化してあります。むしろこちらから堂々と見せつけてやりましょう」
前世で学んだことがある。やましいことがないなら、監査は怖くない。むしろ正当な評価を受けるチャンスだ。
「前世でもクライアント監査は乗り切ってきました。大丈夫です」
「カタリーナ殿の前世というものが、どれほど過酷な世界だったのか、最近少しずつわかってきました」
「ブラックでしたよ。とても」
フリッツが首を傾げたが、深くは追及しなかった。この人は空気を読むのが上手い。
*
王都、王宮の奥の間。
薄暗い部屋に、蝋燭の光が揺れている。
国王の前に跪く少女──聖女ソフィアが、大きな翡翠の瞳に涙を溜めていた。
「陛下……わ、私、黙っていられなくて……」
声が震えている。肩が小刻みに揺れている。指先がかすかに膝の上を掴んでいる。
──完璧な演技だった。
「ノルデン辺境伯様が……追放された令嬢を利用して、王都に対抗する勢力を作っているという噂を聞いてしまったのです……」
「ソフィア、落ち着きなさい」
国王が椅子から身を乗り出す。
「う、嘘であってほしいのです……でも、辺境が急速に発展しているのは事実で……商人たちが王都から辺境に流れているとも聞きます……」
涙が一筋、頬を伝った。指の間から国王の反応を確認する──
──そう。指の間から、しっかり見ている。
「もし本当に反乱が起きたら、陛下のお命が……っ。考えただけで、私……っ!」
嗚咽が部屋に響いた。
国王の目が揺れる。この老いた王は、聖女の涙に弱い。いや、この国の大半の人間が聖女の涙に弱い。
「……調査団を送ろう」
「へ、陛下……?」
「辺境の実態を確認させる。反乱の兆候があれば、即座に対処する」
「ああ……陛下は、やはりこの国を守ってくださるのですね……!」
ソフィアが感涙の表情を浮かべた。
──その唇の端が、ほんの一瞬、弧を描いたことに気づいた者はいなかった。
国王が退室した後、部屋に残ったソフィアの表情から、涙が嘘のように消えた。
翡翠の瞳が冷たく光る。
「辺境で楽しくやっているようですけど──邪魔なのよ、あなた」
小さく呟いた声は、蝋燭の炎に溶けて消えた。
*
辺境に戻る。
「辺境伯様に報告を」
オスヴァルトの執務室の扉を叩く。中から低い声が返った。
「入れ」
入室して、調査団の件を簡潔に報告する。オスヴァルトは黙って聞いていた。表情は変わらない。鋼色の瞳が、じっとこちらを見ている。
「──以上です。十日後に到着予定とのことです」
沈黙が数秒。
「対策は」
「すでに考えてあります。帳簿と改善データを全て報告書にまとめます。資料さえ揃えておけば、正面から監査を受けても問題ありません」
「……そうか」
短い返事。でもその二文字に信頼が込められていることを、四ヶ月の付き合いで知っている。
「聖女の手先が紛れているという話も聞いています。そちらも対処します」
「一人でやるつもりか」
「いえ、フリッツさんにも協力を仰ぎます。それと──」
少し迷ったが、正直に言った。
「辺境伯様にも、お力添えいただきたいのですが」
オスヴァルトの眉がかすかに動いた。
「何をすればいい」
「普段通りにしていてください」
「……それだけか」
「はい。辺境伯様が普段通りに領地を治めている。それが一番の証拠ですから」
ほんの一瞬、オスヴァルトの目が和らいだように見えた。気のせいかもしれない。
「わかった」
退室する。扉を閉めて、廊下で小さく息を吐いた。
(さて、十日間で完璧な報告書を作りましょう。前世の決算期を思えば、十日なんて余裕。あの時は三日で百ページの報告書を仕上げたんだから)
足早に作業部屋に向かう。やることは山ほどあるが、不思議と気分は悪くない。
──前世でも、本当のピンチの時ほど頭が冴えるタイプだった。
(聖女の手先が何をしてくるかわからないけど、準備さえ万全なら負けない。不正は帳簿に残る。数字は嘘をつかない)
ルルが廊下の向こうから走ってきた。
「お嬢様! 何かあったんですか!? お顔が怖いです!」
「怖くないわよ。戦闘モードなだけ」
「せんとうもーど……?」
「監査前に入るやつ。──ルル、インクと羊皮紙を大量に用意して。あと、四ヶ月分の取引記録を全部持ってきて」
「は、はい! わかりませんが、やります!」
ルルが脱兎のごとく走っていった。わからなくても動いてくれる。最高の後輩だ。
(来なさい、調査団。──この社畜の帳簿に、穴はない)




