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14.王都崩壊速報

 王都、南区。


 薬屋の前に、人だかりができていた。


「この薬を飲んでから、逆に体調が悪くなったんだ!」


「うちの娘もだ! 熱が下がるどころか、上がってるじゃないか!」


「偽物だ! この薬、偽物じゃないのか!」


 店主の顔が青い。


「そ、そんなことはございません! きちんとした仕入れ先から……」


「嘘つけ! 前に買った時と色が違うぞ!」


 怒声が飛び交う中、王宮では別の火種がくすぶっていた。



      *



 宰相ヘルムートの執務室。


 机の上には報告書が山と積まれている。一枚めくるごとに、彼の眉間の皺が深くなっていく。


「閣下、南区の薬害の件、被害者がさらに増えております。現在判明しているだけで二百名を超えました」


 側近の声が、重い。


「原因は」


「偽薬です。王都に出回っている薬の一部が、成分を薄めた──あるいは全く別の物質で作られた偽造品であることが判明しました」


「なぜ今まで防げなかった」


 側近が口をつぐんだ。


「……言え」


「以前は──仕入れ先の審査を、カタリーナ嬢が行っておりました」


 ヘルムートの手が止まった。


「薬に限らず、王都に出入りする商人の信用調査を、公爵令嬢の立場から──帳簿と取引記録を精査して、不審な業者を事前に排除していたそうです」


「……また、あの令嬢か」


「はい。カタリーナ嬢が追放された後、審査が行われなくなり──以前排除されていた悪質な商人が、全員戻ってきています」


 ヘルムートは椅子の背にもたれた。天井を仰ぐ。


 帳簿が合わない。社交界が混乱する。外交文書に誤りが出る。──そして今度は、偽薬だ。


 一人の令嬢が静かに防いでいた災いが、蓋を開けたように噴き出している。


「聖女の浄化は」


「ソフィア様の浄化の儀式は行われていますが……効果が、以前ほど顕著ではないと」


「なぜだ」


「原因は不明です。ただ──病の原因が穢れではなく、物理的な毒物である場合、浄化では根本的な解決にならないかと」


 ヘルムートは目を閉じた。


(聖女の浄化は万能ではない。それは当然だ。だが、それを理解している者が王宮にどれほどいる)


 扉が勢いよく開いた。


「宰相! これはどういうことだ!」


 第二王子レオポルトが、マントを翻して入ってくる。相変わらず入室に許可を求めない。


「南区で民が騒いでいると聞いたぞ! なぜこうなる!」


 ヘルムートは無表情のまま報告書を差し出した。


「偽薬による健康被害です。被害者は二百名を超えております」


「にせ──偽薬だと!? なぜそのようなものが出回る!」


「仕入れ先の審査が行われていないためです」


「審査など、担当者にやらせればいいだろう!」


「やらせておりました。しかし、以前のように機能しておりません」


「以前は誰がやっていたんだ」


 側近が一歩下がった。ヘルムートが静かに答えた。


「カタリーナ嬢です」


 レオポルトの顔が引きつった。


「ま、またあの女か……!」


「殿下が追放なさった令嬢です」


「わ、わかっている!」


「加えてご報告いたします。カタリーナ嬢が以前排除した不正商人の全員が、王都に戻ってきております」


「全員だと……?」


「はい。ベーレン商会系列の薬種問屋を含む、七社です。いずれもカタリーナ嬢の審査で取引停止処分を受けていた業者です。彼女の追放後、処分の根拠が失われ──あるいは意図的に見過ごされ──全社が王都に復帰しました」


 レオポルトの顔が赤くなったり白くなったりしている。


「だ、だからといって! あの女一人がいなくなっただけで、王都がこうなるのはおかしいだろう!」


「おかしいかどうかは問題ではありません。現実がそうなっております」


 レオポルトが唇を噛んだ。苛立ちの行き場がないらしく、椅子の肘掛けを叩いている。


「ソフィアの浄化で何とかならんのか!」


「浄化では毒物は除去できません」


「では聖女は何の役に立つんだ!」


 ──その言葉を、扉の外で聖女ソフィアが聞いていたことを、レオポルトは知らなかった。


 ヘルムートは深くため息をついた。


(この王子は──救いようがない)


 報告書の束を手に取った。あの令嬢が担っていた業務の一覧。追放されて四ヶ月。リストの項目は、一つも解決していなかった。


 宰相は窓の外に目を向けた。


 王都の街並みは、表面上は変わっていない。尖塔は高く、城壁は白く、通りには馬車が行き交う。だが裏側では──帳簿は合わず、社交界は荒れ、偽薬が横行し、外交文書は誤りだらけだ。


(あの令嬢がいなくなってから、すべてが狂い始めた。一人の人間にこれほどの重荷を負わせていたことに、誰も気づかなかった。──いや、気づこうとしなかった)


 それが王都の罪だ。



      *



 同じ頃。辺境。


 窓から差し込む午後の陽光の中で、私は帳簿を眺めていた。


 数字が整然と並んでいる。仕入れ値、売上高、利益率。すべてが想定通りに推移している。特産品の売上は順調で、新しい取引先との契約も安定している。


(美しい帳簿だ。前世の決算書より美しい。全部の数字が一発で合う喜び。これを知らない人間は人生の八割を損している)


「お嬢様、お茶を淹れました」


 ルルがカップを差し出してくれた。北方安眠草のハーブティー。商品化した薬草を、自分用にも使っている。


「ありがとう、ルル」


 一口すすった。ふわりと穏やかな香りが広がる。肩の力が抜ける。


「今日も平和ね」


「はい。平和です」


「帳簿が合うって素晴らしいことよ」


「お嬢様、帳簿のお話は何度聞いてもわかりません……」


「いいのよ。数字がわからなくても。数字は私がやるから」


 窓の外を見た。城下町の市場が賑わっている。新しい商人が増えて、品揃えが豊かになった。子供たちが走り回り、おかみさんたちの声が風に乗って聞こえてくる。


 平和だ。


 完全に、平和だった。


「お嬢様」


「ん?」


「辺境伯様が、先ほど廊下でお嬢様のことを聞いておられました」


「何を?」


「『あいつは今日も残っているのか』と」


「定時で上がりますよって伝えて」


「お伝えしたら、何も言わずに行かれました」


「そう。……心配してくれてるのかな。いい上司だなあ」


 ルルがまたため息をついた。最近、この子のため息が増えている気がする。成長期のストレスだろうか。


(まあ、十六歳は多感な時期だ。前世の十六歳の頃は受験勉強で死にそうだったけど)



      *



 王都。夜。


 宰相の執務室。


 ヘルムートは一人、蝋燭の灯りの下で書類を読んでいた。


 偽薬被害の拡大。商業ギルドの機能不全。社交界の混乱。外交問題。──すべてが同時に押し寄せている。


 側近が控えめに扉を叩いた。


「閣下。聖女ソフィア様がお見えです」


「……通せ」


 ソフィアが入ってきた。翡翠の瞳に、いつもの涙はない。微笑みだけがある。


「宰相様、お忙しいところ失礼いたします」


「何かね」


「偽薬の件、心を痛めております。民の苦しみを、聖女として見過ごすわけにはまいりません」


「浄化で対処できるのか」


「残念ながら、毒物への浄化には限界がございます。ですが──」


 ソフィアが一歩近づいた。声をひそめる。


「根本的な原因は、辺境にあるのではないでしょうか」


「辺境に?」


「ノルデン辺境伯領が発展し、優秀な商人を引き寄せています。その結果、王都に残ったのは──質の悪い商人ばかり。つまり、辺境の発展が王都の衰退を招いている、とは考えられませんか」


 ヘルムートは何も答えなかった。


 論理の飛躍がある。辺境が発展したから王都が衰退したのではない。王都が有能な人材を追放したから衰退したのだ。因果が逆だ。


 だが──その理屈を信じたがる人間が、王宮には大勢いる。


「私は、次の手を考えております。王国のために」


 ソフィアが微笑んだ。


「もし宰相様のお力添えをいただけるなら、辺境の問題を──穏便に解決できるかもしれません」


 彼女が去った後、ヘルムートは長い間、動かなかった。


(あの聖女は──何を企んでいる)


 蝋燭の灯りが揺れた。影が壁に大きく伸びて、また縮む。


 老練な政治家は知っている。「王国のために」という言葉を使う者ほど、王国のためには動かない。


 ──窓の外で、王都の灯りがちらちらと瞬いている。


 一つ、また一つと消えていく。まるで王都そのものが、少しずつ息を止めているように。



      *



 辺境。


 夜の作業部屋。


 帳簿を閉じて、窓の外を見た。北の空に星が輝いている。春の夜風が、カーテンを揺らした。


「今日も定時で上がります」


 誰に言うでもなくつぶやいて、椅子から立ち上がった。


 廊下に出ると、オスヴァルトが壁にもたれて立っていた。


「辺境伯様?」


「……帰るのか」


「はい。定時です」


「そうか」


 それだけ言って、オスヴァルトが先に歩き出した。私の部屋の方向へ。


(あれ、送ってくれるのかな。前世の上司は「お先に」の一言もなかったのに)


 二人で暗い廊下を歩く。足音だけが響く。


「辺境伯様」


「何だ」


「今日も平和でした」


「……ああ」


「明日も平和だといいですね」


 オスヴァルトが足を止めた。振り返らないまま、低い声で言った。


「平和は──守るものだ」


「はい」


「守る」


 短く繰り返して、また歩き出した。


 その声の中に──何か、決意のようなものが混じっていた気がした。


(守る、か。この人が言うと重いな。前世の上司は「自分の身は自分で守れ」しか言わなかった。守ってくれるなんて言ってくれた上司は、四十六年の人生で初めてだ。……いや、上司っていうか、辺境伯様は辺境伯様なんだけど)


 部屋の前で足を止めた。


「おやすみなさい、辺境伯様」


「ああ」


 扉を閉める直前、廊下の向こうでオスヴァルトの耳が赤くなっているのが──月明かりでほんの少しだけ見えた気がしたが、きっと気のせいだ。


 春でも辺境の夜は冷える。


 ──王都で何が起きているのか、私はまだ知らない。知ったとしても、きっと帳簿を優先しただろう。


 でも──守ると言ってくれた人がいる。


 だから私は安心して、明日も帳簿を開く。

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