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婚約破棄? ありがとうございます! 〜前世社畜の令嬢は辺境暮らしが最高です〜  作者: スナハコ
第2章

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13.手が触れた件について

 夜が深い。


 五の鐘はとうに過ぎていた。定時退社を信条とする私が、なぜまだ作業部屋にいるのかというと──楽しいからである。二回目だ。


(前科がある。前回もこの書き出しだった気がする。でも仕方ない。特産品の売上が想定の二倍を超えて、増産計画の見直しが必要なのだ。これは残業じゃない。趣味だ。趣味)


 机の上には、取引先ごとの出荷予定表と在庫管理簿が広がっている。蜂蜜の増産スケジュール、薬草の品質管理基準書、毛織物の受注リスト。


 数字を並べ替えていると、本当に時間を忘れる。前世ではこれが苦痛だったのに、今は心底楽しい。


(やっぱり環境って大事。同じ仕事でも佐藤部長の怒声が聞こえるかどうかで、幸福度が天と地ほど違う)


 コンコン。


 扉が鳴った。


「はい?」


 ルルはもう寝かせた。こんな時間に来るのは──


 オスヴァルトだった。


 黒い外套を脱いだ普段着姿。右手に木の盆。盆の上には椀がひとつとパンが一切れ。


「……また遅い」


「すみません。つい」


「食え」


 前回のしょっぱいスープ事件から、オスヴァルトは時々こうして夜食を持ってきてくれるようになった。味は──少しずつ改善している。少しずつ、だが。


 盆を受け取り、机の端に置いた。椀の蓋を開ける。今夜は野菜のスープだ。


 一口すすった。


「あ、今日は塩加減がちょうどいいです」


「フリッツが横から指示を出した」


「フリッツさんの貢献が大きいですね」


「……黙って食え」


 笑いを噛み殺しながらスプーンを動かす。温かい。美味しい。


 オスヴァルトは部屋の隅の椅子に座った。いつもなら立ったまま待っているのに、今夜は座っている。手元には──書類が一枚。


「辺境伯様も、お仕事ですか?」


「ああ。来月の北方警備の配置図だ」


「あ、それなら私の机を使ってください。こっちの端、空けますから」


「……いい」


「遠慮なさらず。二人で作業した方が効率いいですよ」


 オスヴァルトが一瞬だけ逡巡して、無言で向かいの椅子に座った。


 机を挟んで向かい合う形になる。私は帳簿、彼は配置図。蝋燭の灯りが二人の間で揺れている。


(深夜の作業部屋で上司と二人。前世なら完全にブラック企業の光景だけど、今はなんだか……落ち着く。不思議)


 しばらく、紙を繰る音とペンが走る音だけが部屋に満ちていた。


 静かだった。心地いい静けさだ。


 蝋燭が一本、燃え尽きそうになっていた。手を伸ばして、新しい蝋燭に火を移そうとした。


 同時に──オスヴァルトも手を伸ばした。


 指先が、触れた。


 蝋燭の横で。ほんの一瞬。


「あ」


 ──と声を出したのは、オスヴァルトの方だった。


 指が弾かれたように引っ込む。


「すみません、蝋燭替えようと思って」


「……ああ」


 オスヴァルトが固まっている。文字通り、石像のように。手を引いたまま微動だにしない。鋼色の瞳がわずかに見開かれている。


(あれ、固まった。蝋燭の熱で火傷したかな)


「大丈夫ですか? 火傷しました?」


「──していない」


「よかった。蝋燭、私が替えますね」


 新しい蝋燭に火を移す。ちらちらと橙色の光が揺れて、部屋が明るくなった。


「さて、帳簿の続き──」


 視線を落として、数字の海に戻る。


 向かいの椅子が、かすかに軋んだ。


 オスヴァルトがぎこちなく配置図に目を戻す気配がした。ペンを取り上げる音。しばらくして──ペンが止まる音。また動く音。また止まる。


(落ち着かないな、辺境伯様。やっぱり火傷かな。冷やした方がいいのかな)


 顔を上げようとした時、オスヴァルトが立ち上がった。椅子が少し引きずれる音がした。


「……今日は帰る」


「あ、お疲れ様です。配置図、まだ途中では──」


「明日やる」


「わかりました。おやすみなさい、辺境伯様」


「……ああ」


 盆を持って、部屋を出ていく。いつもより足が速い。


(あれ。なんか急いでたな。お手洗いかな)


 前世の鈍感さを、異世界でも遺憾なく発揮していた。



      *



 廊下。


 足早に歩くオスヴァルトの背中に、壁にもたれていたフリッツの声が追いついた。


「閣下。ずいぶんお早いお帰りですね」


「…………」


「配置図、まだ途中のように見受けましたが」


「明日やる」


「明日は予定が詰まっておりますが」


「知っている」


「しかし──」


「何だ」


 オスヴァルトが振り返った。蝋燭の灯りが遠い廊下で、表情は影に隠れている。だが、その耳の端は──影でも隠しようがないほど赤かった。


「閣下、耳が赤いですが」


「風だ」


「室内で無風ですが」


「黙れ」


「何かあったのですか?」


「何もない」


「何もないのに耳が赤くなるのですか」


「黙れと言っている」


 オスヴァルトが足を速めた。フリッツは追わなかった。追わなかったが、暗い廊下で口角が限界まで上がっていた。



      *



 翌朝。朝食の席。


「お嬢様、昨夜は遅かったですか?」


 ルルが目をこすりながら聞いてきた。


「うん、ちょっと。辺境伯様も来てくれて、一緒に作業してたの。夜食も持ってきてくれた」


「辺境伯様と……二人きりで……夜に……」


「うん。深夜作業の効率は二人の方がいいわね。前世でも同僚と深夜残業する時は──」


「お嬢様」


「ん?」


 ルルが、何か言いたげな顔をしている。口を開いて、閉じて、また開いた。


「……辺境伯様のお顔が変でしたよ」


「え、いつ?」


「今朝、厨房の前ですれ違った時です。私の顔を見た瞬間、目を逸らされました」


「気のせいじゃない?」


「お耳が赤かったです」


「朝は冷えるからでしょう」


「……春ですけど」


「春でも辺境は寒いわよ」


 ルルが深いため息をついた。十六歳の侍女のため息が、妙に老成して聞こえた。


「お嬢様のおっしゃることがわかりません……でも今回は、お嬢様がわかっていないのだと思います……」


「え、どういう意味?」


「わかりません」


「わからないのに私がわかっていないってわかるの?」


「お嬢様、ややこしいです……」


 首を傾げた。何を言っているのかさっぱりわからない。


 まあいいか。今日も帳簿がある。



      *



 昼。中庭。


 フリッツがオスヴァルトに書類を渡しながら、何気ない口調で切り出した。


「閣下、昨夜はよくお眠りになれましたか」


「寝た」


「そうですか。朝の鍛錬で素振りが普段の倍でしたが」


「体がなまっていただけだ」


「なるほど。……カタリーナ殿は、今朝も元気に帳簿を読んでおられましたよ」


「……そうか」


「特に何も変わった様子はなく。いつも通り、笑顔で『おはようございます』と」


 オスヴァルトのペンが止まった。再開した。止まった。


「閣下」


「何だ」


「何でもありません」


「……何か言いたいことがあるなら言え」


「では一つだけ」


 フリッツが、にやりと笑った。


「長い戦いになりそうですね」


「何の話だ」


「さあ。私は副官であって、閣下の心理カウンセラーではありませんので」


「…………黙れ」


 フリッツは肩を竦めて立ち去った。


 中庭に残されたオスヴァルトは、しばらく配置図を見つめていたが──ふと、右手の指先に視線を落とした。


 蝋燭の横で触れた、あの一瞬。


 小さくて、少し冷たくて──柔らかかった指先の感触が、まだ残っている。


 オスヴァルトは配置図に目を戻した。


 耳の端が、まだ赤かった。



      *



 同じ頃。作業部屋。


 帳簿を開きながら、ふと指先を見た。


(昨夜、蝋燭を替える時に辺境伯様の指に触れたっけ。硬い指だったな。剣を振る人の手だ。前世の上司の指はぶよぶよだったけど)


 それだけ思って、帳簿に戻った。


(さて、来月の出荷計画。蜂蜜の増産が間に合うか確認しないと──)


 数字の海に沈んでいく。


 恋愛偏差値は、前世と今世を合わせても最底辺だった。

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