11.社内報に載る辺境
噂は、商人が運ぶ。
辺境に来て四ヶ月目。ノルデン辺境伯領の名前が、近隣の領地や都市の間でぽつぽつと囁かれるようになっていた。
きっかけは、第一四半期決算の黒字だ。
辺境伯領の財政が急回復したという話は商人たちの間で瞬く間に広がり──「あの冬の墓場が黒字らしい」「嘘だろ、あそこは赤字が三年続いていたはずだ」「どうやら追放された令嬢が帳簿を立て直したらしい」──と、尾ひれがついて各地に伝わっているらしい。
「お嬢様、今日も商人さんが門前に来ております」
ルルが朝食の席で報告してきた。最近、この報告が日課になりつつある。
「何人?」
「三人です。昨日は二人でしたから、増えてます」
(転職市場が活発化してきたな。いや、転職じゃなくて取引先の開拓か。前世の展示会を思い出す。あの時は名刺が三日で五百枚なくなった)
「わかりました。午前中に会いましょう」
*
城の応接間に、三人の商人が並んで座っていた。
一人目。中年の男。恰幅がよく、上等な外套を羽織っている。笑顔が職業的に完璧。目が笑っていない。
二人目。初老の女性。質素だが清潔な服装。背筋が真っ直ぐ。手帳を膝の上に置いている。
三人目。若い男。へらへらした笑い。指先が落ち着かない。視線がやたらと部屋の調度品に向かう。
(はい。一人目はハズレ、二人目はアタリ、三人目は論外)
前世の取引先選定スキルが自動起動した。新卒二年目で覚えた「名刺交換の三秒で相手の経費感覚がわかる」技術だ。
「本日はお越しいただきありがとうございます。まず、お一人ずつお話を伺ってもよろしいでしょうか」
一人目の男が口を開いた。
「いやあ、辺境伯領の発展は王都でも評判ですぞ。ぜひ我が商会と独占契約を──」
「独占契約は結びません」
「……は?」
「競合のない取引は市場を歪めます。以前、この領地で独占供給がどれだけの害を及ぼしたか、ご存じでしょうか」
男の顔が引きつった。知っていたのだろう。不正商人三社の話は、商人の間では有名らしい。
「い、いえ、独占と申しましても──」
「お話は以上です。ありがとうございました」
男が口をぱくぱくさせている。社畜時代に鍛えたにこやかな拒否スキルが光る。
(前世の営業会議で「御社だけの特別価格です」って言ってくる業者を何人見たか。あの手の人間は帳簿を見ればすぐわかる。利益率の説明ができない商人は信用できない)
三人目の若い男は、もっと短かった。
「辺境って儲かるんですねえ。俺もひとつ商売させてもらおうかと──」
「帳簿はお持ちですか」
「え? いや、そういう堅い話じゃなくて──」
「帳簿のない商人とは取引しません」
「そ、そんな──」
「取引先の選定は第一印象と帳簿で決めます」
若い男が肩を落として出ていった。
残ったのは、二人目の初老の女性だ。
「失礼いたします。南方のメーア商会、代表のヘルガと申します」
膝の上の手帳を開いた。中には整然とした数字と取引記録。
「当商会は香辛料と乾物を主に扱っております。こちらが過去三年の取引明細でございます」
──帳簿を見せてきた。こちらが頼む前に。
(この人、わかってる。商売相手に最初に見せるべきものは笑顔じゃなくて数字だ)
明細を一枚ずつめくる。数字に嘘がない。利益率は適正。仕入れルートも明確で、中間搾取の気配がない。
「ヘルガさん」
「はい」
「いい帳簿ですね」
ヘルガが、少し驚いたように目を瞬かせた。
「帳簿を褒められたのは初めてです」
「数字が正直な人は信用できます。前世で学びました」
「ぜんせ……?」
「あ、口癖です。忘れてください」
取引条件の交渉に入った。価格設定、納品頻度、品質基準。前世の調達部門で百回はやったやり取りだ。
三十分後、仮契約がまとまった。
「ありがとうございます。末永くよろしくお願いいたします」
ヘルガが深く頭を下げた。
「こちらこそ。……あの、ひとつ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「なぜ、この辺境に商いに来ようと思ったのですか」
ヘルガが少し考えてから、言った。
「……噂を聞きました。『冬の墓場』と呼ばれた辺境が生まれ変わっている、と。帳簿が正しく、商人を公正に扱い、領民が笑っている土地がある、と」
「そう、ですか」
「正直に商売をしたい商人にとって、それは──夢のような話でした」
(正直に商売をしたい人が、正直にやれる場所。……前世ではあり得なかったな。佐藤部長の下では正直者ほど損をした)
鼻の奥がつんとした。泣くな。商談中に泣くな。
「あ、ありがとうございます。当領地は、正直な方を歓迎します」
声が少しだけ震えた。ヘルガが温かい目でこちらを見ていた。
*
応接間を出ると、フリッツが廊下で待っていた。
「お疲れ様です、カタリーナ殿。商人の選定、見事でした」
「ありがとうございます。一人目と三人目は駄目でした。匂いでわかります」
「におい?」
「帳簿の匂いです。不正をしている帳簿には独特の──いえ、前世の概念です」
フリッツが笑いを噛み殺した。
「閣下が報告を待っておられます」
執務室に向かう。オスヴァルトは書類に目を落としていたが、私が入ると顔を上げた。
「三社のうち一社と仮契約をまとめました。メーア商会のヘルガさん。帳簿が清潔で、利益率も適正です」
「……なぜ三社のうち一社だけだ」
「残り二社は信用できません。一社は独占契約を狙っていましたし、もう一社は帳簿すら持っていませんでした」
報告書を差し出す。オスヴァルトが受け取り、目を通した。
「……なぜそこまで商才がある」
「前世で学びました。取引先の選定は第一印象と帳簿で決める、と」
「前世は経理だったのではないのか」
「経理は何でもやらされるんです。調達も、営業補助も、たまに社長の靴磨きも」
「靴磨き……?」
「冗談です。靴磨きはさすがにありません。社長の犬の散歩はありましたが」
オスヴァルトの眉がかすかに動いた。冗談なのか本気なのか判断できない顔をしている。
「任せる」
短い。でもその二文字で十分だった。
*
王都。
宰相ヘルムートの執務室に、一通の報告書が届いた。
「閣下、ノルデン辺境伯領の最新報告です」
側近が差し出した羊皮紙を手に取る。
「辺境伯領の四半期収支が黒字転換。新規の商人が流入し始めており、市場が活性化している模様」
ヘルムートは眉をひそめた。
「──辺境が、か」
「はい。加えて、近隣の領地から辺境伯領への移住を希望する者も出始めているとのことです」
報告書を机に置く。窓の外に視線を向けた。
王都の帳簿は、いまだに合わない。追放された令嬢の後任に割り当てた十二人の経理官は、三人が体調不良で離脱し、残りの九人も目の下に深い隈を作っている。
社交界の混乱も収まらない。先日のパーティーでは席順の間違いから侯爵家同士が口論になり、外交使節の前で醜態を晒した。
それなのに、辺境は発展している。追放した令嬢のおかげで。
皮肉にもほどがある。
──扉が開いた。
聖女ソフィアが、にこやかに入ってきた。翡翠の瞳に、いつもの涙はない。
「宰相様。少しお時間をいただけますか」
「何かね」
「辺境伯領のこと、お耳に入っているかと思いまして」
ソフィアが微笑んだ。
「あの辺境が発展しているのは──少し、危険ではありませんか?」
ヘルムートの目が細くなった。
「危険とは」
「辺境伯は元々王家とは距離を置いておられます。そこに優秀な人材が加わり、経済力がつけば……。王家の権威が揺らぐのではないかと、心配しているのです」
微笑みを崩さないまま、ソフィアは続けた。
「私はただ──王国の安寧を願っているだけですわ」
宰相は何も答えなかった。聖女が去った後、しばらく椅子の背にもたれたまま動かなかった。
(あの聖女、何を考えている……)
老練な政治家の勘が告げている。あの微笑みの奥にあるものは、善意ではない。
窓の外では、王都の尖塔が夕日に照らされている。華やかに見える。だが足元は──すでに崩れ始めていた。
*
辺境に戻る。
夕方。作業部屋で帳簿を閉じた私のところに、ルルがお茶を持ってきてくれた。
「お嬢様、今日は何人の商人さんとお会いになったんですか?」
「三人。でも契約したのは一人だけ」
「三人中一人って、厳しくないですか……?」
「厳しくて当然よ。領民の暮らしがかかっているんだから。変な商人を入れたら、また前みたいに搾取される」
「お嬢様、前世ではそういうお仕事をされていたのですか?」
「うん。取引先を選ぶのも、帳簿を読むのも、嘘つきを見抜くのも。全部前世で覚えた」
「前世って便利ですね」
「便利なもんじゃないわよ。七年分の胃痛と引き換えだもの」
ルルが困った顔で首を傾げた。
「お嬢様のおっしゃることがわかりません……でも、お嬢様が楽しそうなのはわかります」
(楽しい、か。……確かに、今の仕事は楽しい。前世では義務だったことが、今は自分の意思でやっている。この差は大きい)
窓の外では、城下町の市場から賑やかな声が聞こえている。新しい商人が増えて、市場の品揃えが少しずつ変わり始めていた。
「ルル」
「はい?」
「この辺境、もっと良くなるわよ」
「はいっ! わたしもそう思います!」
ルルの笑顔が眩しい。
──遠い王都で、聖女が何かを囁き始めていることを、私はまだ知らない。




