10.第一四半期決算
辺境に来て、三ヶ月が過ぎた。
窓の外の景色が変わっている。冬枯れの大地を覆っていた雪が溶け始め、地面の隙間から緑が覗いていた。空気はまだ冷たいけれど、風の匂いが違う。
春が、来る。
(前世では季節の変わり目なんて気にしなかった。オフィスの中は一年中同じ温度だったし、窓の外を見る暇もなかった。桜が咲いたことに気づいたのは、散った後だった)
作業机の上に、三ヶ月分の帳簿が並んでいる。整然と。一冊の狂いもなく。
帳簿は健全。商人たちは正直に商売をしている。領民の栄養状態は改善され、市場には活気が戻った。衛生改革の効果も出始めて、冬の間の病人が去年の半分以下に減った。
(第一四半期、黒字着地。前世の決算発表よりよほど晴れやかな気分だ)
*
「お嬢様! お嬢様! お祭りですよ!」
ルルが部屋に飛び込んできた。目がきらきらしている。
「お祭り……?」
「はい! 冬明けの収穫祭です! 領民のみなさんが広場で準備をしているそうです!」
収穫祭。正確には冬を越えたことを祝う、辺境の小さな祝祭だと聞いた。
(お祭りか……。前世にはなかった概念だな。会社に祭りはなかった。忘年会はあったけど、あれは「強制参加の延長業務」だった。一次会で部長のカラオケを聴き、二次会で課長の愚痴に付き合い、三次会で酔った先輩を介抱する。実質残業。しかも手当なし)
「お嬢様? また難しいお顔をされてます」
「ごめん。前世の嫌な記憶が」
「前世のことはわかりませんが、今日は楽しい日ですよ!」
ルルに手を引かれるようにして、城を出た。
*
城下町の広場に出て、息を呑んだ。
篝火がいくつも焚かれ、橙色の光が石畳を温かく照らしている。屋台が並び、焼いた肉の匂い、蜂蜜菓子の甘い香りが漂う。
人が、笑っていた。
三ヶ月前、しなびた野菜とまばらな人しかいなかった市場が──今は、子供たちが走り回り、大人たちが杯を掲げ、楽師が素朴な旋律を奏でている。
「カタリーナ様!」
肉屋のおかみさんが手を振った。パン屋の親父さんが焼きたてのパンを差し出してくる。
「どうぞ、今日は祭りですから! カタリーナ様のおかげで、こんな祭りができるようになったんです!」
「そんな、私は帳簿を整理しただけで──」
「帳簿だけじゃねえですよ。市場を立て直してくれたのも、衛生のことを教えてくれたのも、全部カタリーナ様でしょう」
言葉に詰まる。
その時、小さな手が私の指を引いた。
見下ろすと、五歳くらいの女の子が立っている。片手に、野の花を束ねた小さな花束を持っていた。
「おねえちゃん、ありがとう!」
「……え?」
「パパが言ってたの。おねえちゃんが来てくれたから、ごはんがおいしくなったって。お薬も買えるようになったって」
女の子が、花束を差し出す。花弁が篝火の光を受けて、金色に光っていた。
「だから、ありがとう!」
受け取った。花束は小さくて、茎が少し曲がっていて、不格好で──温かかった。
気がつくと、周りに人が集まっていた。
「カタリーナ様、本当にありがとうございます」
「うちの婆さんが、冬を越せたのはあんたのおかげだって」
「子供たちがまともに食えるようになりました」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
──何度も、何度も。
目の奥が、もう限界だった。
「す、すみません……っ、また泣いて……」
花束を胸に抱いたまま、涙がぼろぼろ溢れる。止められない。
「お嬢様、泣き虫ですね」
ルルが隣で、自分も泣きそうな顔で笑っていた。
「う、うるさい……前世では七年間、一度も泣かなかったのに……こっちに来てから涙腺が壊れた……」
「わたし、お嬢様の泣き虫、好きです」
「それ褒めてないでしょ……」
袖で目元を何度も拭う。領民たちがおろおろしながらも温かく見守っている。
(駄目だ。感謝されると泣く体質、本当にどうにかしたい。前世で枯れた分の涙が全部今世に繰り越されてる気がする。涙の繰越欠損金だ)
会計用語で自分をツッコんでも、涙は止まらなかった。
*
祭りの喧騒から少し離れた場所に、オスヴァルトが立っていた。
篝火の光が届くか届かないかの境界。腕を組んで、広場を──いや、広場の中のどこか一点を見ている。
「辺境伯様」
歩み寄ると、鋼色の瞳がこちらを向いた。
「……目が赤い」
「泣きすぎました」
「また泣いたのか」
「領民のみなさんが『ありがとう』って。……前世では言ってもらえなかった言葉なので、何度聞いても慣れなくて」
オスヴァルトは何も言わず、視線を篝火に戻した。
しばらく、二人で火を眺めていた。薪が爆ぜる音と、遠くから聞こえる祭りの楽の音。
「辺境伯様」
「何だ」
「三ヶ月、お世話になりました」
「まだ三ヶ月だ」
「前世の感覚だと、三ヶ月は試用期間の終了です。そろそろ正式採用の面談の頃合いかと思いまして」
「何の話だ」
わからなくて当然だ。でも、聞きたかった。
「ここに──いてもいいですか?」
声が、少し震えた。
前世では、聞けなかった問いだ。「ここにいていいですか」と聞く前に「お前の代わりはいくらでもいる」と言われたから。
オスヴァルトが、こちらを見た。
篝火の光が、鋼色の瞳を温かく照らしている。冷たいはずのその目が、今は──
「お前の居場所は、ここにある」
──静かな声だった。
短くて、飾り気がなくて。この人らしい、不器用な言葉。
(居場所。……前世では、一度も言ってもらえなかった言葉だ)
「……それ、前世で一度も言ってもらえなかった言葉です」
「意味はわからんが」
オスヴァルトが、ほんの少しだけ間を置いた。
「ここにいろ」
「……はい」
泣くまいと思った。さっき散々泣いたのだ。もう今日の涙の予算は使い切った。
でも一粒だけ、頬を伝った。
──仕方ない。これは予備費から出す。
*
二人並んで、篝火を見ている。
遠くでは領民たちが歌い、ルルがおかみさんたちに混じって踊っている。フリッツが兵士たちと杯を交わしながら、こちらをちらちら見ている。にやにやしている。いつものことだ。
前世で学んだことがある。
──ブラック企業出身の人間は、辞めた後が一番輝く。
三ヶ月前、私はそう思って王都を出た。
でも今は、少しだけ修正したい。
辞めた後に輝くんじゃない。ちゃんとした場所に行けば、誰だって輝ける。
大事なのは、辞める勇気じゃなくて──自分を必要としてくれる場所を、見つけること。
隣を見た。
無愛想な辺境伯が、篝火を見つめている。炎の光が鋼色の瞳を温かく照らして、いつもの氷壁が少しだけ溶けたように見える。
三ヶ月前、「歓迎はしない」と言った人が、今は「ここにいろ」と言ってくれた。人は変わる。環境が変われば、人は変わる。それは辺境伯も、私も、きっと同じだ。
「辺境伯様」
「何だ」
「お疲れ様です」
辺境伯の眉が、かすかに動いた。
「──これからも、よろしくお願いします」
オスヴァルトが、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑ったのかもしれない。三ヶ月で初めて見る表情だった。
「ああ」
春の風が吹いた。篝火の火の粉が舞い上がり、星空に溶けていく。
──第一四半期決算、黒字。
ノルデン辺境伯領の未来は、どうやら明るいらしい。
第一章 了
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