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1.婚約破棄ありがとうございます

 今、まさに婚約破棄されている。


 それはわかる。


 王宮の大広間。数百人の貴族が息を飲んでこちらを見ている。黄金のシャンデリアが揺れ、磨き上げられた大理石の床に私の影がぽつんと落ちている。


 目の前では第二王子レオポルト殿下が、顔を真っ赤にして叫んでいた。


「──よって、カタリーナ・フォン・ヴァイスフェルトとの婚約を、本日をもって破棄する!」


 正直に告白すると、この瞬間の私の心境を一言で表すなら──


(やった…………自由だ…………!!!!!)


 である。




 いや、順番に説明させてほしい。


 私には前世の記憶がある。前世の名前は鈴木(すずき)(りん)。享年二十九歳。死因は過労。


 そう。私は前世で過労死した社畜OLなのだ。


 新卒で入った会社がそこそこのブラック企業で、毎日朝七時出社の夜十一時退社。休日は月に二日あればいい方。


 有給休暇は「制度としては存在する」という都市伝説で、上司の佐藤(さとう)部長は部下を三人まとめて泣かせるのが趣味のパワハラ紳士だった。


 で、ある日の深夜、会社のデスクで意識を失って──


 気がついたら、異世界の公爵令嬢になっていた。


 それが十七年前の話。


 異世界の人生はどうだったか?


 率直に言うと、前世とそこまで変わらなかった。


 社交パーティーという名の強制残業。政略婚約という名の人事異動。


 「公爵令嬢としての嗜み」を叩き込む教育係は佐藤部長の転生体なのではないかと疑うレベルのスパルタ指導だったし、婚約者のレオポルト殿下は新卒時代に配属されたパワハラ上司を彷彿とさせる逸材だった。


 前世:ブラック企業

 今世:ブラック公爵令嬢


 転生しても社畜は社畜だったのである。


 ──だから。


「婚約を破棄する!」


 この言葉は、私にとって解雇通告ではなく退職届の受理だった。


(レオポルト殿下、ありがとうございます。あなたのことは嫌いですが、この決断だけは百点です)


 もちろん、表情には出さない。社畜時代に鍛えた鉄のポーカーフェイスは、こういう時にこそ役に立つ。



      *



 殿下の隣では、聖女ソフィアが大きな翡翠の瞳に涙を溜めて震えていた。


「わ、私のせいで……カタリーナ様がこんなことに……っ。ごめんなさい、ごめんなさい……!」


(出た、嘘泣き)


 前世のお局──佐藤(さとう)美咲(みさき)さん(部長とは別人の同姓)を思い出す。あの人も「私のせいですよねぇ……?」って泣いて、周りに庇わせるのが上手だったなあ。


 手で目を覆いながら、指の間からしっかりこっちの反応を確認するところまでそっくりだ。


 人類、世界が変わっても進歩しない。


「カタリーナ! 聖女を泣かせておいて何も感じぬのか!」


 レオポルト殿下が芝居がかった怒りの表情を作る。この人、本当に毎回聖女に泣かれると反射で怒鳴る。条件反射かな?


「反論があるなら聞いてやる!」


(反論? ないです。むしろ全力で賛成票を投じたい)


「……承知いたしました」


「は?」


「婚約破棄、謹んでお受けいたします」


 にっこり笑った。


 心からの笑顔が出たのは、転生してから十七年で初めてかもしれない。


「な──泣き縋らないのか!? 取り乱せ!」


(取り乱せって言われて取り乱す人間いる?)


「お前は俺との婚約が破棄されて悔しくないのか!」


(悔しい……? ブラック企業を辞められた時の解放感をご存じない? あの時は帰りのコンビニでアイス三つ買いました)


「……殿下がそうお決めになったのであれば、私に異論はございません」


 背後で、貴族たちのヒソヒソ声が始まる。


「かわいそうに……」


「でも仕方ないわ、聖女様を虐めるなんて……」


「公爵家の面目丸潰れね」


(お疲れ様です。陰口はスルーに限る。前世で学びました)


 レオポルト殿下が、予想と違う反応に明らかに動揺している。王子の隣の聖女ソフィアは、涙を止めて目を丸くしていた。


 ──台本にない展開になったらしい。ご愁傷様。


「……ふ、ふん。ならば処分だ。お前にはノルデン辺境伯領への追放を命じる!」


 ノルデン辺境伯領。


 王都から馬車で六日の北方辺境。「冬の墓場」と揶揄される極寒の地。領主は「氷壁の辺境伯」と恐れられるオスヴァルト・フォン・ノルデン。


 周囲の貴族たちがざわめく。「あの辺境に……」「お気の毒な……」という声が聞こえる。


 ──が。


 前世の社畜脳が即座に査定を始めた。


(辺境。つまり田舎。田舎ということは──)


 社交パーティーなし。政治的駆け引きなし。嘘泣き聖女なし。バカ王子なし。自然が豊か。静か。


(…………最高では???)


 危うく声に出すところだった。


 深く一礼する。


「殿下」


「何だ」


「三年間、大変お世話になりました。殿下と聖女様の今後のご活躍を、辺境よりお祈り申し上げます」


 完璧な退職スピーチだった。


 大広間が水を打ったように静まった。


 何人かの貴族が「えっ?」という顔をしている。レオポルト殿下は口を半開きにして固まった。聖女ソフィアは泣くのを忘れて目を瞬かせている。


(あれ、空気おかしくなったかな。まあいいか)


「では、失礼いたします」


 くるりと背を向けて、大広間を出る。


 扉が閉まった瞬間──


(っしゃあああああああ!!!!!)


 心の中でガッツポーズ。


(自由! 自由だーーー! 辞表が通ったーーー! いや辞表じゃなくて解雇だけど! でも自由!!!!)


 足取りが軽い。スキップしそう。前世で退職が決まった翌朝の出社と同じ気分だ。あの時は荷物をダンボール一箱にまとめるのに十五分しかかからなかった。社畜は撤退が速い。



      *



「お、お嬢様、お待ちくださいっ……!」


 侍女のルルが息を切らせて廊下を追いかけてくる。


 焦げ茶の髪を揺らして、今にも泣きそうな顔。この子は本当にいい子だ。前世にこんな後輩がいたら、私はもう少し会社で頑張れたかもしれない。


「お嬢様……辺境は、大変だと聞いています……。魔物も出るそうですし……」


「ルル」


「はい……」


「魔物と満員電車、どっちが怖いと思う?」


「……まんいんでんしゃ?」


「ごめん、忘れて。──大丈夫よ、辺境でも楽しくやるわ」


 むしろ楽しくない要素が見当たらない。


「お嬢様が楽しそうなのは嬉しいのですが、追放なのですよ……?」


「追放って言うから暗い気持ちになるのよ。地方転勤って呼べば? しかも裁量権付き。実質スローライフ開始じゃない?」


「ちほうてんきん……? すろーらいふ……?」


「前世の専門用語。気にしないで」


「お嬢様、ときどき不思議なことをおっしゃいますよね……」


「うん、それはごめん」


 荷造りは三十分で終わった。元より華やかな令嬢ではない。ドレスは最低限。代わりに実用的な外套と、前世の知識を走り書きしたノートを詰めた。


 出発の朝、父が門まで見送りに来た。唇が白い。目が赤い。


「リーナ……すまない、父は……」


「お父様」


「守ってやれなかった……」


「大丈夫です。前の上司──じゃなくて、前の環境よりずっと自由になれますから」


 意味がわからないだろうに、父は泣いた。


(お父様はいい人だったな。ブラック企業の人事部長みたいなポジションだったけど、私を守ろうとはしてくれた。……前世の会社にこんな上司がいれば)


 馬車に乗り込む。ルルが隣に座る。


「お供します」


「辺境よ? 寒いよ?」


「お嬢様のお傍に参ります」


 彼女の目にはまっすぐな決意があった。


 ──こういう後輩が一人いるだけで、人は頑張れるものだ。


「ありがとう、ルル」


 馬車が動き出す。王都の門をくぐる。


 一度だけ振り返った。白い石壁の向こうに王宮の尖塔が見える。あの中で今も、くだらない政治劇が続いているのだろう。


(さよなら、ブラック王都)


 前を向いた。窓の外の景色が、少しずつ開けていく。


 前世で学んだことがある。


 ──ブラック企業出身の人間は、辞めた後が一番輝くって。



      *



 六日後。


 馬車が、ノルデン辺境伯領の城門の前で止まった。


 冬枯れの大地。遠くに雪を頂いた山脈。空気が冷たくて、澄んでいて、深く吸い込むと肺が痛いほどきれいだった。


(──空気がうまい。会社のビルの空調とは大違い)


 門の向こうに、黒い外套を纏った長身の男が立っている。


 黒髪。鋼色の瞳。彫刻のように整った顔立ちに、感情というものが一切存在しない目。


 ──氷壁の辺境伯、オスヴァルト・フォン・ノルデン。


 怖い、と世間は言う。冷酷だと。


 馬車から降りた私を一瞥して、彼は低い声で言った。


「歓迎はしない」


(おお、怖い。──でも佐藤部長よりマシかな。佐藤部長は挨拶すら返してくれなかったし)


「ただし、追い出しもしない。王都から来た令嬢に辺境は堪えるだろうが──」


「あの」


「何だ」


「こちらの領地の始業は何時ですか?」


 辺境伯の眉が、かすかに動いた。


「……は?」


「あと残業はありますか? 休日は? 有給休暇制度は?」


 沈黙が落ちた。


 辺境伯の後ろで、副官らしき赤毛の青年が口を半開きにしている。


「……朝は七の鐘で起き、夕は五の鐘で終える。七日に一度の休みがある」


(朝七時出勤、夕方五時退勤、週休一日……前世基準で計算すると……)


「──最高です」


「何?」


「素晴らしい労働環境です。感動しました。ノルデン辺境伯領、ホワイトですね」


「ほわいと……?」


 辺境伯が困惑している。背後の副官がさらに口を開けている。


 冬の風が吹き抜けた。寒い。でも心は晴れやかだ。


(うん。ここ、いい職場な気がする)


 この直感が正しかったことを、私は翌日から身をもって知ることになる。


 ──そしてこの無愛想な辺境伯が、前世を合わせた四十六年の人生で初めて出会う「ホワイト上司」だということも。

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