可愛いアリスの夢の国
あたしはアリス。
可愛いアリス。
ディリュージョン伯爵家の娘、アリスティアラ・ディリュージョン。
手入れを施された金髪に、透き通るような青い瞳。真っ白い肌に細い手足。お人形みたいに可愛い、伯爵家の次女。
それがあたし。
可愛いアリス。
お母様に愛されて、お父様に大事にされる。可愛い娘のアリス。
「あたしは誰よりも愛されているのよ」
そう、無愛想でにこりともしないお姉様より。
お姉様の名前はソニアベル。
ソニアベル・ディリュージョン伯爵令嬢と言えば、社交界では鈴蘭の君なんて呼ばれるくらいしなやかで清楚なご令嬢として有名らしい。あたしはまだ社交の場に出たことがないから知らないけれど、メイドがそう言っていたわ。
赤みの強い金髪は色味が強いけれどさらさら。緑の目はどこか物憂げ。背筋を伸ばして立っているのに垂れた花を思わせるのは、伏し目がちな所為かもしれない。
社交の場ではそれなりに評価されて認められたご令嬢らしいけれど、家庭では評価されていない。そう、愛嬌がないもの。あたしはお姉様がにこりと笑った所なんて見たことがない。
だからお母様も、お姉様の話など口にしない。
いつもあたしを可愛いと褒めて着飾って、あたしの欲しい物をなんでも買いそろえてくれる。
食事だってお姉様はひとりぽっち。お父様は忙しいからなかなか時間が合わないけれど、お母様は毎食あたしと一緒に取ってくれる。好き嫌いは許されないけれど、ご褒美のデザートだって必ずくれる。甲斐甲斐しく、ずっと傍で見守ってくれている。
それは、あたしが愛されているから。
つまり、お姉様よりあたしの方が愛されているから!
あたしは優越感で満たされていた。
見るからにお貴族様なお姉様が、家族にあたしより愛されていないという事実に充足感を覚えた。
対比できる対象が居ることで、愛情に対する飢餓感が満たされた。
だってあたしは、生まれたときからお貴族様だったわけじゃないから。
あたしはアリス。ただのアリス。
十五年前、この伯爵家から連れ去られた、可哀想なアリス。
あたしは生まれてすぐ、本来の居場所から粗末なあばら屋へ攫われた、悲劇の伯爵令嬢だ。
あたしの居場所はここじゃなかった。
そう気付いたのは、隙間風が酷い孤児院に、穢れを知らない肌の女性が駆け込んできた時だった。
「アリス! ああ、やっと見付けたわ、わたくしの可愛いアリス!」
そう言って垢と泥でベタベタしていたあたしを抱きしめた、伯爵夫人。それがあたしのお母様。
肥だめのような孤児院には不釣り合いの綺麗な人は、やせっぽっちなあたしを抱きしめて自分の子だと叫んだ。とてもびっくりしたけれど、腑に落ちた。
やっぱりあたしは、特別だったんだって。
だってあたしは、孤児院に居る誰よりも綺麗な顔をしていた。
自慢じゃない。事実よ。その所為で何回も人買いに攫われそうになったんだから。攫ってお金に換えられるって思うくらいには、綺麗だったってことでしょう。その証拠に、醜女は追いかけられないから生きやすそうで羨ましかったわ。
ずっと思っていたのよ。あたしは、孤児院で埋もれてて良いような存在じゃないって。
神様にだって毎晩訴えたわ。早くあたしを連れ出してくれる、白馬の王子様を用意してって。
やって来たのは白馬の王子様じゃなかったけれど、あたしを本来の世界に連れていってくれるんだから何でもよかった。
自分が独り占め出来る大人ってのも新鮮でよかったわ。孤児院の大人達は、可愛いあたしよりぶさいく達ばかり可愛がるおかしな大人ばかりだったから。
そうよ、おかしいと思っていたの。こんなに可愛いあたしの言うことが聞けないなんて。なんでも思い通りに成る程可愛いのに、あたしの思い通りに動けない人ばかりだなんて!
生きる世界が違ったから、生きづらかっただけなんだわ!
ああ、夢みたい! いいえこれが現実。あたしはお姫さまだったのよ!
それからすぐに伯爵家に帰ってきたあたしは、本当の家族を紹介された。
愛情たっぷりのお母様に、威厳のあるお父様。そして、なんだか辛気くさい顔のお姉様。
赤みの強い金髪に、少し垂れた緑の目。お母様にもあたしにも似ていない、厳格なお父様に似たしなやかな花のようなお姉様。
ソニアベル・ディリュージョン伯爵令嬢。あたしの居ない伯爵家で、一人悠々とお姫さまとして君臨していたお姉様。
でもそれは、あたしが来るまでの話。
あたしが来てからは、お母様はあたしに夢中。
どれくらい夢中かと言えば、お姉様の十八歳の誕生日をすっかり忘れるくらい。
可哀想なお姉様!
成人の十八歳なのに、その誕生日も祝われず、一人ひっそり大人になるなんて!
可哀想なのに――……お姉様の背中はいつも真っ直ぐ。
美しい金髪を靡かせて、淑やかな立ち振る舞い。知性的な緑の目であたしを見てくる。
真っ直ぐ、憐れんだ目で見てくる。
そんな目で見られる謂れなんかないのに。おかしなお姉様。可哀想なのはご自分なのに、わかっていないんだわ。
なら、あたしが教えてあげなくちゃ。
あなたは親に愛されない可哀想な娘なんだって、しっかり教えてあげなくちゃ!
そう、教えてあげなくちゃ!
お前こそ親の愛を得られない憐れな子供だと、教えてあげなくちゃ!
綺麗だけど、あの肥だめに居た不細工達と同じ。誰にも身向きされない、可哀想な子供。可哀想な。可哀想なのは、あちらの方だ。
あたしがお前にそんな目で見られる謂れなんか、一つもないんだから!
「お母様達は、お姉様よりあたしを愛しているんだから!」
書斎で本を読んでいたお姉様に向かって、実にわかりやすく言ってやった。
お姉様はいつも、部屋に籠もるか書斎に籠もるかの二択。時々外に出たかと思えば夕飯に現われない時もある。大人しい顔をして、朝帰りだって普通にする。
そんな女だから、お母様も愛想を尽かしてしまったのだろう。お姉様がいなくても、誰も不審にもわず一日は終わる。
おかげさまで、お姉様を探すときはちょっと手間だ。そもそも家に居ない場合もあるし、普段あたしはお母様と一緒に居るから会っても話すことがない。
だけど今日は、お母様が出掛けていてお姉様が家に居る日だった。
滅多にないことだから、この機会を逃したらお姉様とお話することはできないだろう。あたしは意気揚々とお姉様のいる書斎へ乗り込んだ。
お姉様はあたしの訴えを聞いて、開いていた本を閉じた。あたしの拳くらい厚みのある本は、題名が難しくて読めなかった。育つ場所を間違えたあたしは文字が読めない。あたしは、こういう令嬢に必要なスキルが所々欠けている。だけどそれは、攫われていたんだから仕方がないのよ。
「……あなたは、わざわざわたくしにそれをお伝えに?」
「ええ。お姉様はわかっていないようでしたので、ちゃんと教えてあげようと思ったのですわ!」
そう、あたしは親切だから、ちゃんと教えてあげるわ。
あたしがいない間は可愛がられていたかもしれないけれど、誰より可愛いあたしが来たんだからそこでお終い。可哀想な夢を見ないように、現実を教えてあげなくちゃいけないわ。
愛されなくて可哀想なのはお姉様。
あたしじゃないわ。
あたしじゃないわ!
静かな緑の目があたしを見た。
陰鬱で、不気味な目。あたしを憐れむイヤな目。
お姉様の方が可愛くなくて可哀想なのに。可愛がられなくて可哀想なのに。誕生日を無視されて憐れなのに。
可哀想なのはお姉様なのに、お姉様はあたしを憐れむのをやめない。
「……お母様に愛されているのはアリスよ」
「そうよ。わかっているじゃない」
「あなたじゃないわ」
諭すような言い方に、カチンときた。
成る程。お姉様は認めていないのだ。行方不明だった妹が自分より可愛いあたしだと認めたくない。
だから勘違いした可哀想な子を見る目をしている。あたしを妹と認めたくないから。
それはそれで滑稽で、可哀想だ。事実を認められないんだから。
あたしはお姉様の往生際の悪さを笑いたくなった。
「お母様の可愛いアリス」
だけどお姉様の言葉に、笑うのも忘れた。
「可愛いお人形のアリス。あなたは、六番目のお人形」
「え?」
「お母様が帰ってくる前に、人形遊びから速くお逃げ」
陰鬱な目が、心底あたしを憐れむ目が、ひたとあたしを真っ直ぐ見ていた。
「なにを……言っているの?」
――お姉様が、あたしに向かって何か言うのは、初めてのことだ。
食事の席でも、廊下ですれ違っても、お姉様からあたしに声を掛けることはない。
あたしもお姉様に話しかけたことがなかった。お姉様の前で、わざとらしくお母様に甘えて自分の立場を教えてあげたくらいだ。
じっと黙っていたお姉様が口を開いて、あたしは動揺していた。
あたしはお姉様が何か言い返すなんて、思っていなかった。
だっていつも、黙ってただ憐れむだけだったから。だから、あたしに何を言われても黙って聞いているだけだろうと思っていた。
お姉様が立ち上がる。
貴族として飢えを知らない十八歳のお姉様は、飢えて隣の皿からパンを奪っていた十五歳のあたしより背が高い。
ただ立っただけなのに、威圧感を覚えて思わず一歩下がった。
「――わたくし、昨日十八になったの。十八は、特別な年よ。成人として認められる年だから」
「え、ええ、知っているわ。誕生日なのに祝われなかった可哀想なお姉様! 特別な誕生日なのに、お母様はあたしにかかりきりだったわ!」
気圧されたのを認めたくなくて、あたしは懸命に胸を張った。
昨日は、お母様にあたしの方が愛されているとより認識した日だ。お姉様可哀想、と強く思った日だ。お姉様よりあたしが愛されていて、優越感でとても満たされた。
「そうね。お母様が愛しているのは、娘のアリスだけ」
なのに、お姉様は全く悲しそうじゃない。
「十二歳で亡くなった、わたくしのお姉様だけよ」
「――――え?」
お姉様が何を言っているのかわからなくて、ぽかんと開いた口が塞がらない。
「アリス姉様は――――……アリスティアラは、落馬で首の骨を折って、八年前に亡くなっているわ」
何を言っているの?
「う、そよ。あたしがアリスティアラよ。か、可愛い妹を持ちたくないからって、なんて酷い嘘をつくの!」
「嘘じゃないわ。戸籍を調べればすぐに分かるもの。家系図だってあるわ」
「は、はあ!?」
戸籍なんて知らない。今まで気にしたこともない。家系図だって知らない。
しかし貴族にとって血筋は大事なものだから、戸籍も家系図も厳重に管理されているらしい。
だから、伯爵家の長女が誰か、誤魔化しようがないとお姉様は言う。
「首の折れたアリスティアラを見たお母様は、狂ってしまわれたわ。娘が死んだ事実を認められず、お母様の中には十二歳のアリスティアラがまだ生きている……背丈のそっくりな娘を見付けては、アリスティアラだと思って連れ帰る。あなたは六番目のお人形に選ばれただけ。十五歳と聞いたけれど、栄養が足りなくてとても小さいから、十二歳のあの子くらいの背丈しかないから……」
「そ、そんな話、信じられるわけがないわ! 出鱈目を言わないで!」
「自分がお母様の子供だって、信じているのね。急に貴族のご婦人にお母様よと泣きながら抱きしめられた孤児は、救いを見出して信じたくなるのかしら……でもね、違うの。生き別れの娘なんて居ないわ。居るのは死に別れた娘と忘れ去られた娘だけ。あなたは巻き込まれた赤の他人」
「嘘よ嘘よ嘘よ! お母様に言いつけてやる!」
あたしはお姉様の話に鳥肌が立って、振り払うように地団駄を踏んだ。趣味じゃないふわふわしたドレスの裾が舞う。少し窮屈で、引っかかる感覚がある。
こんなの嘘だわ。なんて酷い人なのかしら。全部お母様に言いつけて、叱って貰わなくちゃ――……!
「やめなさい。殺されてしまうわ」
「え、はぁ…!?」
衝撃の言葉に顔を上げると、お姉様は相変わらず憐れみを含んだ目であたしを見下ろしていた。
「言ったでしょう。あなたは六人目のアリス。あなたの前に、五人のアリスがいるの」
「そ、そんなはずないわ。見たことないもの。そんな子いないわ」
「そう、もうここには居ないの。意味はおわかり?」
死んだ娘の代わりを求める母親。似ているから連れて来られた娘。
居たのに居ない五人。
成長する身体。窮屈なドレス。
その意味なんて。
「……嘘よ!」
「嘘じゃないわ。お母様が求めているのは十二歳の可愛いアリス。そこから逸脱したアリスはいらないの」
「そんなはずない! お母様はあたしを、本当の子だから愛して可愛がってくれているのよ! 愛されていないからって負け惜しみにくだらない戯れ言を言わないで!」
「あなたはここに来てからよく食べよく遊びよく寝ているわ。肌も身体も健康的に輝いている。止まっていた成長も始まった。十五歳の女の子として成長しているの。十二歳のアリスのままではいられないわ」
そのドレスも、もうサイズが合わないでしょう。
伯爵家に来たときはぴったりだったドレスが、趣味じゃないドレスが、新調されない理由は。
髪型も、着る物も、身につける物は全て、母親が選ぶ理由は。
ぞわぞわと走る悪寒を振り払うように首を振った。
「そ、そうやって脅してあたしを追い出すつもりね……! 負けないんだから!」
「いいえ。わたくしは、あの人の魔の手からあなたを逃がしたいだけよ」
「そんなこと言って、今まで何もしていなかったじゃない! ずっと見ているだけだった癖に、急におかしなことを言わないで!」
「それはあなたが、あの人から離れなかったから」
それはわざと、私がお姉様の前でお母様にくっついていたから。
お姉様に自慢したくて。お姉様は愛されていないのだと教えてあげたくて。あたしが誰よりも、母親に愛されているのだと実感したくて。
優越感を覚えたくて、お姉様の前では殊更、お母様にくっついていた。
「そして私が、やっと十八になったから」
大人になったからだと、お姉様は言う。
十八になったからなんなの。たった一日で、何が変わるというの。
あたしを見るお姉様の目に、何も変わりはないじゃない。
「お逃げなさいアリス。この狂った夢の中から。あなたは迷い込んだだけだから、まだ現実に戻れるわ」
「そんな――」
陰鬱な緑の目が、あたしを見ている。
可愛いドレスを着て貴族のふりをするあたしを道化だと憐れんでいるの?
夢だと気付かず、楽しげに踊るあたしを憐れんでいるの?
あたしがお母様に愛されて自慢げにする度、偽りを誇るあたしを滑稽だと思っているの?
そんな。
そんなの。
ふらりと後退する。震える足で後退って、叫んだ。
「――夢なら大歓迎よ! 生きづらい世界が現実なら、夢のような世界で生きたいわ!」
あたしは貴族。親のいない根無し草なんかじゃない。
皹だらけの手が治ってきたのに、今更貧しい生活に戻りたくない。
あたしを憐れむ女の言葉など聞きたくない。
あたしは叫んで、伸ばされた手をたたき落として、書斎から飛び出した。
残されたお姉様は、遠ざかる足音を聞きながら……とても小さく呟いた。
「あなたが良くても……夢は長続きしないのよ。夢を見ているのは、あなたじゃないから」
「まあアリス。お転婆さんね。淑女が走ってはいけないわ」
あたしの部屋には、いつの間にかお母様が待っていた。
あたしが大好きなお母様は、しょっちゅうあたしの部屋に来る。おねだりすればいつでもなんでも食べられるから、別に気にしていなかった。
お姉様の言葉が過ったが、あたしはお母様に抱きついて訴えた。
「お母様! お姉様が酷いのよ。怖いことを言ってあたしを虐めるの!」
「まあ可哀想なアリス。怯えないで。わたくしがしっかり言い聞かせておきますからね」
ほらお母様はあたしの味方よ。
甘えれば髪を撫でてドレスを着せて、可愛い小物を買ってくれる。不満と言えば本当はアクセサリーが沢山欲しいけれど、まだ早いとはぐらかされていることくらい。
……まだ早い。まだ早いって、どういうこと?
あたしは十五歳よ。貴族って、結婚早いんでしょう? アクセサリーくらいもっていてもおかしくない、年齢じゃないの? 平民だって、働いて、結婚する。十五歳は、子供じゃないわ。
子供じゃないのに、過剰に子供として接するこれは――お母様が、離れ離れだった時間を取り戻す為、じゃないの?
『可愛いお人形のアリス。あなたは、六番目のお人形』
お姉様の言葉が、頭にガンガン響く。
違う。あたしは。
誕生日も祝われない、お姉様とは違うのよ。
誕生日も祝われない――――……。
……。
「……ねえお母様、昨日がお姉様の誕生日だったの、覚えている?」
胃の中がぐるぐるするような、背筋がぞわぞわするような、そんな気持ち悪さを覚えながら、あたしはお母様に問いかけた。
知っていて、お祝いしなかったんでしょう?
知っていて、あたしを優先したんでしょう?
だからお姉様が、あたしに怖い事ばかり言っているのでしょう?
そう思いたいのに、お母様は不思議そうに首を傾げた。
「そうだったの。早いわね。もうそんなお年なのね」
「お、お姉様の誕生日を覚えていないの?」
「ごめんなさいね。お姉様って、ベスの娘でしょう? すっかり忘れてしまっていたわ」
ベスって誰。
お姉様、お母様の娘じゃなかったの?
違う。ベスの、娘。娘の名前は?
「ベスはお母様の妹よ。お母様より先に娘を産んで……その子のことを、アリスはお姉様って呼んでいたでしょう? もしかして別の子のことだったかしら。困ったわ。その子のいじわるはベスに言いつけるつもりだったのに。別の子だったの? わたくしの可愛いアリスを虐めているのは」
お母様の妹。その娘なら、あたしにとって従姉妹だ。年上なら、姉として慕うのもわかる。
でも、まさか。もしかして。
「……ソニア、ソニアベルお姉様よ」
「ソニア?」
お姉様の名前を聞いて。
きょとん、と幼子のように目を丸くするお母様。
「アリスのお姉様に、そんな子いたかしら」
「―――!」
ぞっとした。
この人は本気で、お姉様を。ソニアベルを忘れているのだ。
いいや、なんなら見えていないのかもしれない。アリスより年上になったソニアベルを認めず、存在をなかったことにしている。十二歳のアリスに従姉妹はいても、実姉はいない。いないから、存在しないから、十二歳を超えたソニアベルは、いないのだ。
お母様の夢の国には、お姉様が存在しない。
だから誕生日など、知るはずがない。
いないから。
夢の国で生きるとは、そういうことなのだ。
お人形遊びのように、綺麗なドレスを着せて髪飾りを乗せて。化粧を施して小物を持たせる。
お母様はアリスが大事だが、夢の国のアリスを愛しているのであって、アリス役のことなど一切見ていなかった。
だって齟齬が出れば、それはもう『お母様のアリス』ではない。
『早くお逃げ』
陰鬱な、けれど真摯な声が蘇る。
あたしは引きつった笑顔で、抱きついたお母様から離れようとして。
お母様の手が、あたしの頭を両側から掴んだ。
「……あらアリス。随分髪が伸びたわね」
「え」
思わず身体が固まった。
言われるほど、髪は伸びていない。伸びていたとしても、数ミリの誤差だ。
「あなたはもう少し短いのが可愛いわ。切らせましょうね」
「お、お母様?」
「あら手足が伸びたの? ドレスが小さくなったわね」
退けようとお母様の手に添えたあたしの手を見て、サイズが合っていないことに気付いたお母様が言葉を続ける。
「ああでも、もうこのドレスも入らないの? あっという間に大きくなるのね。この間まであんなに小さかったのに。あらまあ、どうしましょう。これが一番大きなドレスだったのに」
「い、いた、お母様、いた……っ」
この細腕からは考えられないほどの力強さで頭が締め付けられる。
こめかみを両側から包むように。側頭部に突き立てられた指の爪が、皮膚にどんどん食い込んでいく。
「あら? おかしいわね。あらまあ、まあまあ」
ずいっと近付いたお母様の顔。平民と違って手入れの行き届いた肌。三十代後半なのに、皺一つない少女のような人。
「あら、あら……おかしいわね。アリスより……あら?」
その目が。優しく穏やかだと思っていた人の目が。
ぐるぐるぐるぐると、焦点の合わない目が、あたしを見ている。
「まあ、アリス。アリス。アリスアリス――……」
がち、と揺れていた目が、あたしの目と合った。
合ってしまった。
「アリスじゃないわね」
なんの感情もない、とても静かな声だった。
「あなたアリスじゃないアリスじゃない。ああ、アリスアリス。アリスアリスアリスありすわたくしのかわいいありす」
「ひぎっ」
お母様の爪が頭部に食い込む。整えられた爪が、綺麗に整えられたあたしの髪を引っ張った。
「アリスの髪はもっと短くて艶やかよ。アリスの手足はもっと柔らかくて短いの。アリスの目はもっと輝いていたわ。アリスの肌はもっと潤っていた。アリスの唇はこんなにひび割れてなんかいなかった。アリスの鼻はもっと高いわ。アリスの首はもっと。もっと。もっと――……あら? あら、あらあらまあまあ」
爪の刺さった場所から血が滲む。引っ張られた髪がブチブチ千切れた。恐怖に固まるあたしの前で、お母様はにっこり笑った。
あたしに愛を囁く、穏やかな顔で笑った。
「そうね。そうよね。そうだったわ!」
あたしを躊躇なく傷つけていたお母様の手が、両手が、ゆっくり下がって。
「ありすのくびは、もっとまがっていたわね」
「ギャア――――――ッ!」
夕暮れの光が差し込む廊下を進み辿り着いた画廊。
一際大きな絵画を見上げ、ソニアベルはゆっくり手を伸ばした。
描かれているのは、幼いソニアベルとその家族。姉のアリスティアラが、闊達に笑っている最後の姿が描かれていた。
じゃじゃ馬で、淑女らしい笑顔の苦手なアリスティアラ。
じっとしているのが苦手で、どの絵でもおすましができず、結局楽しげに笑ってしまう姉の姿が画廊には沢山残されていた。
――お転婆な姉は、伯爵家の太陽だった。
そんなアリスティアラが落馬で首の骨を折って亡くなった。
それから母は、夢の国の住人になった。
穢れのない箱庭で生きてきた淑女であった母には、愛娘の首の折れた遺体は、現実として受け入れられる姿ではなかった。
それから、領地で金髪青い目をした愛らしい女の子を、アリスティアラだと思い込みだした。
勿論、彼女たちはアリスティアラではない。
平民の両親を持つ、歴とした別人だ。
しかし相手は領主夫人。
権力者に召集されれば、領民は従わざるを得ない。
(最初の子は、十一歳だった)
両親から引き離されて、戸惑って、怯えて萎縮していた娘。
領主夫人の人形遊びに、始終怯えていた。
(だから、すぐに逃がす事ができた)
夢の国へ旅立った母は、アリス以外の娘を忘れてしまった。
一人残されたソニアベルは、時間が経てば夢も覚めると思っていた。きっと父も同じだろう。母の気が済むなら、領民の一人、お人形感覚で差し出す事も厭わなかった。
でも、母の見る夢はネバーランドではなかった。
母のアリスティアラは永遠の十二歳。
けれどアリス役のお人形は、時と共に成長する人間だった。
常に怯えていた少女は、そんな母の狂気に気付き、年の近いソニアベルに助けを求めた。だからソニアベルは、母が凶行に走る前に少女を逃がす事ができた。
母の目の届かない、領地の端へ。親子共に馬車に乗せ、遠くへ逃がした。
お人形を失った母は荒れたが、すぐに落ち着いた。
別のアリスを見付けたからだ。
(二番目のアリスは十歳だった)
貧しい暮らしをしていたらしい彼女は、領主夫人に気に入られて豊かな暮らしになったのを純粋に喜んだ。無邪気に懐き、学び、のびのびと成長していった。
彼女に危険を伝えるのは、大変難しかった。彼女にとって母は貧しい暮らしからの救世主で、優しい母で、神様のような女性だったから。
だからソニアベルの忠告は聞き届けられず、そのまま数年時が過ぎ――ソニアベルが気付いたときには、いなくなっていた。
「あの子、アリスじゃなかったの。可哀想な迷子のアリス。早く見付けてあげないと」
そう言って再びアリスを探し出す母に、ソニアベルは戦慄した。
恐れていた事態が起きてしまったのだと理解した。
そして、母を止めない父が、それを容認している事も。
(領民は、私達の人形ではないわ!)
領民を、領地を守るのが、領主の仕事なのに。貴族としての誇りなのに。
父は狂った母を落ち着かせる為に、母の領民を使った人形遊びを容認した。
母が領民の人生を踏みにじっても、母を罰する事も、窘める事もない。
(そんなの、許されるものか!)
何より、こんな事。
幼いながらに誇り高く。領地を愛し、領民を愛した姉が――アリスティアラが許さない。
ソニアベルは覚えていた。幼い姉が、将来領主となる姉が、父の仕事を誇りに思っていた姉が語った、将来の夢。
愛し愛されていた姉が、ソニアベル自慢のお姉様が、守りたかったもの全て。
それを蔑ろにして、現実のアリスティアラを忘れた父と母を……ソニアベルは許せなかった。
だから母がアリスを連れてくる度、頃合いを見てソニアベルが彼女たちを逃がした。
多くは突然連れて来られて戸惑い、怯えていたので、逃がそうとするソニアベルの手を取った。その頃には領主の平民遊びが噂されていたので、身の危険を覚えているものがほとんどだった。
それでも、突然の豊かな暮らしに目が眩み、自分は大丈夫だと過信する者もいた。
差し伸べた手を取らず、自ら夢に溺れる者が。
今回のアリスは、まさにそれだった。
孤児という生い立ちもあったのだろうが、自らを本物のアリスティアラだと思い込み、苦労知らずの貴族令嬢を嫌い、虚栄心に満ちていた。ソニアベルが忠告しようにも、自ら母といる事を望み、今の今まで会話らしい会話もできず――そして、今。
母に首を絞められた彼女は、窒息する前に乗り込んできた衛兵に保護された。
成人して発言権を得たソニアベルの指示で控えていた、衛兵に。
(長かったわ……)
長かった。
姉が死んで、母が狂って。父が全てから逃げて。ソニアベルが全ての権限を得る事ができる年齢になるまで。
この日の為に、ずっと準備してきた。
目を逸らした父の罪。夢に逃げた母の凶行。罪と知っていて、甘い汁を吸いたくて加担した使用人達。全ての罪状を纏めた。それを盾に、良識ある親族と連携して、両親を追いやる事ができた。
父からは爵位をいただき、しばらくは飼い殺し。母は共犯者達を世話役にして、塔への幽閉を決めた。
領地内の出来事だからこそ、領主となったソニアベルの判断で動けた。勿論独断だけでなく、忠誠を見せる為に王族へ事の顛末は伝えている。
本当は、領民を殺した母は捕らえるべきだ。けれど明らかに狂人である母を収容する施設は存在しない。修道院に送っても、また母だけのアリスを見付けられたら困る。
だから、幽閉する事にした。
これから見られるのは、両親を告発して幽閉したソニアベルが、どうやって領地を治めるのか。
(今まで長かったけれど……これが終わりではない、のね)
むしろこれからだ。
これから、領民達に償っていかなければ――……。
「お姉様!」
騒がしい足音が近付いてきて、悲鳴のような声がソニアベルを呼んだ。
振り返ると、首に真新しい包帯を巻いたアリス――六番目のお人形が、息を切らして立っていた。
身につけているのは村娘が着るには高価な、貴族令嬢が着るには見窄らしい、どこにでも売っている服だ。
「……まだいたのね」
「……っ、なんで、なんであたしを追い出すのよ! あたしはアリスよ!」
否定され、首を絞められ、命が危なくなったというのに、彼女はまだアリスでいたいらしい。
けれど、彼女をアリスと認める人間は、もうどこにもいない。
夢の住人である母はアリスティアラとアリスの差異を認めず、傍観者であった父はそもそも興味がなく、ソニアベルは最初から認めていない。
「あなたは、アリスではないわ」
「あたしはアリスよ!」
青ざめた顔で、腹の底から絶叫する。息を荒げて汗を流し、髪を振り乱して少女は訴えた。
「そう言って、連れてきたのはそっちじゃない! 今更何よ! あたしはアリス! 伯爵家の娘のアリス! あなたの妹なのよ!」
「言ったでしょう。わたくしに、妹はいません」
「あたしがいるわ! ひとりぼっちのお姉様の家族になれるあたしが!」
必死に訴えるが、ソニアベルには少女の言いたい事がわからなかった。
そもそも彼女はソニアベルが嫌いなのに、どうしてこんな虚偽を主張してまで、傍にいたいと願うのか――……。
(……ああ、そういえば、言っていたわね)
やっとまともに会話ができた今日。
危険を認めず、差し伸べる手を振り払う彼女が言った言葉。
『――夢なら大歓迎よ! 生きづらい世界が現実なら、夢のような世界で生きたいわ!』
彼女はただ、現実に……貴族の生活から平民の生活に戻るのが、耐えられないだけなのだ。
夢を見ていたい。夢のような世界で、楽に生きていたい。
アリスとしてなら、それが許されると本気で思っている。
それこそ、夢みたいに。
「わたくしに、夢の世界でしか生きられない、家族はいりません」
まさしく今、夢の世界でしか生きられない母を幽閉した。
そんなソニアベルが、夢を見続けたい彼女を受け入れるわけがなかった。
「なによ――なんでよ! いいじゃないそれくらい! 見せてよ! 夢くらい見させてよ!」
地団駄を踏んで泣き崩れる。愛らしい顔を歪めて、アリスであった少女は泣き叫んだ。
「勝手に夢を見せたのはそっちの癖に!! あたしに夢を見せたのは、お前らの癖に!!」
現実なんて見たくない。少女は夢の世界にしがみ付いて……けれど、引き剥がされた。
ずっと彼女の背後に控えていた衛兵が、泣き喚く彼女をつまみ上げる。わあわあと騒ぐ少女を担ぎ上げ、領主となったソニアベルへこれ以上暴言を吐かないよう、連れ出した。
本来なら、領主の傍に駆け込んだ時点で、不敬だと首をはねられてもおかしくない。その後の発言も、平民が貴族に発するには生き急ぎすぎていた。
けれどソニアベルはそれを許した。
彼女が言ったとおり、この狂った夢の世界に巻き込んだのは、伯爵家だったから。
だから最初の無礼は、許す事にした。沢山のアリスを逃がした領地の端への馬車も出す。そこから先は、もう関わらない。
狂った夢の世界から放り出された少女が現実をどう生きるのか。
(それでも夢にしがみ付くか、現実を嘆くか、歯を食いしばって生きていくか、復讐を決めるか……)
すべて、自由だ。
ソニアベルは画廊を振り返る。
時の止まった家族の、本当に幸せだった頃の絵を目に焼き付けた。
瞼を伏せて、ゆっくり記憶に焼き付けて……夕暮れ色の廊下を進む。
いつか、夢のように温かな家族を、あの画廊にもう一度。
ささやかな夢を描き、叶える為に。
現実の一歩を踏み出した。
夢の国に行ってきました。
ずっと居たかったです。棲みてぇ。
でも夢の国に棲むならそこが現実になるわけで。
ずっと夢を見続けるのは無理です。つら。




