9話『天狗と利悟三度目の死』
江戸に質屋が増えたのは五代将軍徳川綱吉が治める元禄の頃であった。
この頃は都市の経済が発展するに伴い、人々に活気が生まれて出版、芸能、娯楽なども増えたため銭の消費量が増え、町の金融機関質屋の需要が大きくなった。
それから火山の噴火や飢饉などが起こり、経済は冷え込むことになる。不景気の到来である。そして不景気になればまた質屋も仕事が増えるのだ。
そんなことがあって江戸では数多くの質屋があった。長屋住まいの庶民たちも日常的に質屋を利用している。例えば春になれば冬布団や綿入れを質にいれて蚊帳や蝿帳を買い戻し、そして夏が過ぎれば蚊帳や蝿帳を質にいれて冬用品を買い戻す。
そのようにして質屋を倉庫のように利用している庶民は大勢いた。当然ながら自分で持ち続けていた方が最終的に損しないのだが、それでも一時的に金は手に入るという刹那の思考だ。
質屋もわかったもので、そういった客から預かった季節の品はちゃんと半年後などに買い戻すときまで質流れしない。預かり賃を取っているようなものであった。短期的に金を貸し付けて取り立てる高利貸しよりも、安定して買い戻しの利息を得ることができる。
一番近場にあった質屋も、商売下手から時折利用していた六科のことはよく知っているのでその居候であるとお房と共に身分を証明すれば九子もすぐに信用された。
そこで九子は持っていた刀、略称『村雨』を質に入れて、十両の大金を得たのであった。
「……良かったの?」
「売り払ったわけではない。初期投資をして儲ければ買い戻せばよかろう」
刀といえば江戸時代、武士の魂……と言われていたが質屋としては普通の取り扱い物であった。貧乏侍も多く、手放す者も珍しくない。町を歩く武士の何割が腰に帯びている刀が竹光であるだろうか。
刀の値段もまちまちである。大名が将軍より下賜される刀となれば、百両や二百両以上するものもあるのだが、下級武士や浪人が持つ無銘の数打ち刀となれば一両に満たない額で取引されていた。
武士の魂を手放すなど耐え難い、と涙を飲んで質屋や刀商に持ち込んだら小判一枚にもならなかった、という悲哀ある侍の話は数多い。
そんな世知辛い刀の取引事情であっても、武士でもなんでもない九子が刀を持ち込んで、十両もの貸付金を得たのは稀なことである。
一見九子が武士に見えなくても、武家が落ちぶれ身を窶して財産を手放すというのはよくあることだからそこまで刀の出処を疑われなかったことは幸いした。
そして彼女の持ち込んだ刀は、どう見てもそこらの侍が腰に帯びるようなものではなく、鎌倉武士でも使っていたのかという大きさの大太刀であった。
もし武士がそんな刀を持っていれば、家宝として大事にしていたものに違いない。それだけでも価値がありそうなのだが、極めつけは質屋が刀身を確認したことだった。
「凄い……」
と、質屋の親父は刀の凄さに気圧されてそれ以外の言葉が出てこなかった。それもその筈、異世界の魔法が掛けられていて、見るものを圧倒させる効果があるのだから。
ともあれ催眠術で惑わされたように、質屋が凄い業物だと鑑定した結果が十両の大金貸付であった。
二両分ほどは使いやすい銭や一分金、二朱金に両替して貰っていた。庶民が日々の生活で銭を使うが、大きな買い物の商取引には金貨や銀を使った。一両の買い物を五千文で支払うのはさすがに重たく持ち運びも大変だ。
余談だが一文銭の重さを基準に一匁(約三.七五グラム)は決められた。一文の目方(重さの意味)で、モンメという言葉になったのだ。
それで考えると一両分の銭五千枚を持っていたとすれば、十八.七五キログラムにもなる。これはさすがに不便である。
「さて、房子や。買い物に行くぞ」
「そうね。お米と蕎麦粉とうどん粉と……重たくない?」
「沢山買うのだから届けるぐらいしてくれるだろう」
九子は楽しそうに町を眺めながら歩く。こうして懐が温まると、あれこれ目移りして物が買いたくなってくる。
こうして人通りの多い町をのんびりと歩くのも久しぶりだった。九子は異世界だとちょっとした国際指名手配犯だったので、変装でもしなければ大きな町には寄れなかったからだ。
「うーむ、瀬戸物屋で茶碗も欲しいのう。客数が少ないからか、店の茶碗も少なかったから」
「幾つか売っちゃったの」
「定食を出すならお膳がいるか……いや待てよ、テーブルでも座敷に置いて盆で配膳した方がいいかのう……」
「お膳も昔あったけど売っちゃったの」
「六科に経営をやらせないようにしよう」
九子はそう心に決めた。店主は彼なのだが、まったく当てにならない。
「お父さんには毎朝、魚市場でおかずとかおつまみになる魚を買ってきて貰うのはどうかしら」
「む? そういえば元魚売りだったと言っておったのう。まだそっちの方が役に立つかもしれん」
なにもさせないでいるのも問題であるので、魚の調達と下ごしらえ、それに蕎麦切りを役目としようか、と二人で話合う。
お房が案内しながら店から近い問屋を巡ることにした。
「おお、房子や。飴が売っておるぞ。買ってやろう」
「うん!」
「む。これは大福っぽい……鶉餅? これも貰おう。むむ、餡が塩っぱいのう。砂糖は高いから塩餡なのか」
「美味しいの」
「甘酒も売っておる。なんでも路上販売しておるのう江戸」
「……次々に買って大丈夫なの?」
問屋を目指すというよりもブラブラしながら、そこらに屋台や売り歩きをしている菓子や飲み物を買い食いする九子とお房。
その姿は仲の良い姉妹のようでもあったが、やや離れたところから笠を目深に被って二人の様子を窺う、袴姿の侍がいた。
髷を小銀杏にして腰帯に赤い房を付けた十手を差している彼は誰が見ても町奉行所の同心である。享保の頃から、三廻同心とも言われるようになった見廻りの武士は江戸内での風俗取り締まり、盗賊捜索、防火などを目的に町を歩いて回る。
彼もそうであった。
(怪しげな娘め……! あの胸と尻は絶対に風俗を乱してるでしょ!)
町方同心、菅山利悟。市中での評判が非常に低い、自称子供の味方である。
彼の見廻り範囲はこの周辺管轄なので、前々からお房に目を付けていて六科の店にも通い詰めていた。あのお房がゲロとまで評した蕎麦っぽい六科汁を飲み干して気を引こうとしていたのだから、数少ない常連とも言える。
そんな彼はお房を連れて歩く謎の女……九子を笠の中から厳しい目で見ている。
(顔立ちはまあまあ可愛い。合格。おぞましいお歯黒も、威圧する眉剃りも、そびえ立つ島田髷も結っていないのは高評価に値する……だがなんだあの胸は! 怒りすら覚える!)
勝手に人の見た目を評価してワナワナと怒りに震えている利悟である。彼についていた小者は「勘弁してくれ」と暇を申し出たが、拒否されたので渋々こっそりついていっている。
そう、利悟は幼い可愛い少女が好みな、大変厄介な男なのだ。社会の敵とも言える。そして大人の女は嫌悪していた。
そんな彼をして、九子の顔立ちや肌艶は少女なのに体の肉付きがただ事ではないため、脳が破壊されそうになってしまったのだ。
これは大変怪しからぬ事態である。利悟は先日死にかけながら、九子というアンバランスな存在が危険な人物であるという勘に従って、こうして外で見かけたので見張っていたのであった。
暇なのだろうか? いや、彼は真剣だ。ただ仕事じゃなくて自分の趣味に。
(……確か小石川に勤めている医者に聞いた覚えがある……)
利悟はブツブツと呟きながら記憶を蘇らせつつ、やましいものの混じった視線は先で一緒にしゃがんで野良猫を撫でている二人へ向いている。あの猫に精神を憑依できないものか。それも考えている。
町方同心では持ち回りで、小石川にある診療所と薬草園を警護することになっている。利悟も子供相手に医者の真似事をして触診とかできるかと思っていたのだが、御典医に殴られて説教された。
それはさておき、もし病気などで困っている子供がいたら力になりたいという純粋な気持ちから病気の話は多く聞いていた。
(まだ年端もいかない女の子の胸が膨らんでいったと思ったら、癪の病で早死してしまったという話があったな……!)
癪、というと「持病の癪」などという使い方で有名な病だが、江戸時代では原因のわからぬ痛みを伴う病気のことを指した。胸や腹に起こることが多く、これは胃癌や肺癌ではなかったかと言われている。
そしてそういった癌によって体内のホルモンバランスが崩れ、急に背が伸びたり、乳房が膨らんだりする事例は発生する。
(もしかしたら病気なのかもしれない……! 少女の守護者として、確かめるべきか……!? 揉んで……! いやしかしあんな駄肉に触れるなんて拙者には……!)
道端でグネグネ動きながら手をワキワキさせている怪しげな同心を、通りすがりや店先の人は迷惑そうに見ていた。
勝手に心配して、勝手に揉む計画を立てて、勝手に嫌がっている男である。大人の女が嫌いな彼は膨らんだ胸にも触りたくないのだ。膨らみかけならば可。
そんな一方的な思いを孕んだ熱い視線を向けていると、九子に近づく若い男の姿があった。
どうと言うことはない、江戸ならばどこにでもいそうな独身男の類に見える。颯爽と道を歩いていて立ち止まりそうな様子も無かった。
だがその男が袖から出している指の間に、僅かに刃物の輝きがあることをこの同心は見逃さなかった。
巾着切り。刃物で通行人の衣服や巾着袋を切って中をスリ盗る、江戸でも後を絶たない犯罪の一つだ。どうやら離れていたから同心の姿に気づいていないらしい。
狙いは、先程からあれこれと屋台で買い物をしていた九子だろう。ひょっとしたら質屋の出入りを見張っていたのかもしれない。質屋から出てきて持ち物が減っている客はほぼ間違いなく現金を持っているので、狙い所であった。
「いかん!」
やましいことを考えていても彼は同心。眼の前の犯罪を見逃さず、幾度も体を張って止めているという実績だけで職を続けていられる利悟は即座に接近を試みた。
一方で九子は、スリがすぐ背後まで近づいてきたところで相手の伸ばした腕をあっさりと掴んで止めた。
「いでっ!? いでででで!?」
万力のような握力で握られて、スリの手から剃刀がポトリと落ちる。
「ふむ、痴漢かと思ったらスリかえ」
「てめっ! 離せっ!」
「煩いのう」
九子は強引にスリの腕を後手に極めようと捻った。スリも、少女の見た目からは想像できない意外すぎる剛力に驚いたがなんとか振りほどこうと暴れた。
その抵抗が悪かった。
ごりん。
鈍い音が鳴って、スリの腕があらぬ方向に曲がってしまった。
「おお、悪いのう。いや、スリに来たお主が悪いな……己れは悪くないぞたぶん」
「がああああああ!! 腕ッ腕がああああ!?」
「肩が外れただけではないか。これ、暴れるでない。ええい……」
ここが路地裏とかなら放置したのだが、近くにお房もいるし男の叫びで周囲の注目も集めてしまったので立ち去るわけにもいかず、九子はそっと腰の術符フォルダから一枚の札を出した。
「『電撃符』」
「ぐおッ!?」
地面に引き倒した後でそっと押し付けてやると程々に制御された電流がスリの体を感電させ、悲鳴と共に筋肉が硬直して暴れるのが止まった。
極小の電気を流したので周囲からは急に大人しくなったようにしか見えない。
九子は若い頃アルバイトで、バッテリーなどを使って半グレの若者に電流を流して更生させる仕事をやっていた経験があるのでそれが活かされた。死なない程度の加減ができるのだ。
「きゅ、九子、大丈夫なの?」
「ん? ああ。ただのスリだろう。スリって捕まえたらどうするのだ? 川とかに捨てていいのかえ?」
「番小屋にでも引き渡すの……あれ。利悟さんがいるの」
お房が、駆けつけようとしていて九子の立ち回りに驚き、トボトボとゆっくり近づいてきていた利悟に気づいた。
「や、やあお房ちゃん……揉め事かな? ところでこの女の人は……?」
「うちの居候の九子なの。九子、こっちは……同心みたいなの」
「みたいなの!?」
どうしても素直に同心と認めるには気色悪い存在だとお房に思われていて、利悟はショックを受けた。
それはさておき、同心が来たならば都合が良かったと九子は引き渡す。
「丁度良かったのう。同心の親分さんよ、このスリを頼むぞ」
「お、おう。ちょっといいかい」
利悟がスリの腕を取って袖を捲ると、肘の下に二本の入れ墨が輪のように入れられていた。腕を動かす痛みに、倒れたままスリが「イデデデデ」と涙声になる。
「こいつは再犯だな。おい、きっつい叩きの上に江戸払いだから覚悟しろよ」
「出ていってやるよ! こんな化け物女のいるところなんか!」
「失礼なの。天狗なのに」
「まあ出ていくならよかろう。近所の治安が良くなった」
江戸はスリが非常に多かったと言われている。しかもスリは現行犯でないと捕えられないため、中々刑罰を与えられない。
その刑罰も初犯は入れ墨、再犯は叩きか追放と命までは取られないので、何度も凝りずにやる者が多かった。
「そうだ。肩をハメておいてやろう」
「いや待ってくれいいよ別にそんな」
焦った様子でスリが拒否するが、体が動かない。それでいて痛覚が麻痺しているわけではなく、動かせないのに痛みだけは襲ってくるのだ。
「遠慮するな。こういうのは早くハメとかないと悪いのだぞ」
ぼりゅん、と嫌な音が鳴ってスリの肩が戻った。
「ぐああああああ!」
激しい激痛で男が叫び、周囲で見ていた町人たちもちょっと引いていた。
九子も「よし」と頷いて立ち上がりにっこりと愛想の良い笑みで利悟を見た。近所を担当する同心とは仲良くしていた方がいい。初対面のとき、姿を消していたとはいえ首をへし折ってしまったが。
「ではお役人、後は任せてよいかえ?」
「うん。でもちょっといいかい。お九ちゃんだっけ」
町娘相手に親しく呼びかけるように名前を言い換えて利悟は言う。いきなりあだ名とは馴れ馴れしいと思いながら九子は首を傾げた。
「重要な確認があるんだけど」
「はて?」
すぐ正面に立って利悟は改めて九子を観察し、
(可愛いが……やはり駄肉が……! 病気か!)
と、巨乳に対して少女性愛者が抱く本能的な恐怖を乗り越えて覚悟を決めた。
正面から九子の胸を両手で揉んだのだ。
もにゅもにゅもにゅ、と念入りに揉んだ。
「……」
「……」
「……」
九子もお房も、そして周囲の人たちも同心が白昼堂々行った突然の奇行に凍ったかのように無言に固まった。
さすがにそこらのエロ中年相手に、小銭で揉ませた九子であってもいきなり役人が正面からセクハラしてくるとは思わず、目をパチパチと瞬かせる。
利悟はなにかに耐えるかのように、額に脂汗を浮かべながら目を瞑り、苦悩と嫌悪感──そして両手に感じる確かな柔らかさが彼の頭を駆け巡って脳細胞を破壊していく。
そして彼は大きくため息をついて、義務感と正義感に満ち溢れた声で告げる。
「毎日揉めば治るかもしれない」
「『電撃符』」
「があああああっ‼」
意味不明の戯言で締めくくろうとした利悟を容赦なく九子が電撃を浴びせた。今度は出力を上げたので周囲からも雷のような閃光が見えた。利悟が白目を剥いてその場に倒れるのを、九子もお房も白い目で見ていた。
なんとなく九子もイラッと来たのである。これがただの助平ならともかく、正義の行いのため自ら犠牲になっているとでも言うべき利悟の顔が。
江戸時代は階級社会である。
たとえ下級でも武士と町民の身分は大きな隔たりがあり、理不尽な理由があれども町人が同心を殴ったとなればそれは大事件になりうる。
だがその同心が、どういうわけか雷に打たれたとなればそれは単なる天罰である。誰がどう見ても九子が殴ったり蹴ったりはしていないのに、いきなりの閃光と激しい音がして倒れたのだ。暴力事件として立証されることはないだろう。
意識を失った利悟を適当に、倒れて縛られているスリと一緒に放置して、
「……さて、行くかのう房子や」
「なの」
二人は買い物を再開するため、何事もなかったかのように歩いていった。
大きくため息をついた利悟の小者が、仕方なさそうに気絶した主人の死亡を確認しつつスリと共に番小屋に運んでいくのであった。
……余談だが、江戸の噂好きな人々の間では、婦女子に対してけしからぬ事をした同心に雷が落ちた、これは天神菅原道真公の祟りであるという話が広まった。
道真公は江戸や大阪だと学問の神故に寺子屋で祀られているため、同時に子供も守る神だとされていた。
なので、子供に手を出した同心やスリに雷が落ちたのだろう。そういう話だ。
町を守る同心でありながら、天神から怒りの雷を落とされたなどと不名誉な噂が立った利悟は(奇跡的に蘇生した)上司にもしこたま叱られた。
それから暫くの間、彼は毎日天神を祀る神社にお参りすることになったのであった……




