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4話『天狗と風呂屋』


 九子は現代日本に居た頃、時代劇を時々見ていた。


 テレビに映る江戸の建物や人々は、あくまで『時代モノの劇』だけあって実際よりも誇張されていたり様式が異なったり華美であったりした。それはそういうものだと理解しているが彼女が現実に目にしている江戸の街並みは、充分に面白く見えるものであった。

 撮影村というか、江戸博物館というか、そういった世界に来たようだ。無論、溝の泥水が溢れていたり、食い詰めた乞食の姿が見えたり、そういったテレビでは見られない汚い部分もある。


 だが九子も異世界で長く暮らしていて、現代日本に比べれば汚い町など見慣れているのだから別段ショックも受けず、物珍しそうに見回していた。


「ちょっと九子。まるでお上りさんなの」

「おお、すまぬ、すまぬ」

「迷子にならないでよ」


 そう言いながら少女が手を繋いでくるのが、なんとも微笑ましくて九子は柔らかな表情を浮かべ、「そうだのう」と呟いて彼女の手を握った。はたから見れば親子程ではないが、姉妹のようだ。

 江戸では薪代が掛かることと、火の不始末をやらかした場合に死刑になってしまうリスクがあるため個人で風呂を所有することは町人や下級武士の間では稀で、皆が銭湯……湯屋に通っていた。

 一つの町に一つ湯屋がある、とまでは言わないが、三町に一軒ぐらいの間隔で建てられていた。九子とお房、それに六科は一番近い湯屋へと向かっていたのだ。

 やがて湯屋の看板が見えてきた。


「あれなの」

「む? どうして弓矢が飾ってあるのだ?」


 看板がある場所には木製の弓矢がぶら下げられている。実用品ではないようで、矢を番えた状態で固定されていた。

 お房は「ふふん」と胸を張って、物知らずの天狗に説明できることを嬉しそうに言う。


「あれが看板なの。『弓で射る』から『ゆいる』、『湯入る』って意味のダジャレなの」

「ほう。なるほどのう……房子は物知りだのう。よしよし」

「えへへ、お姉ちゃんに聞いたの」


 感心してお房を撫で回した。まるで孫のような扱いである。九子の年頃ならば孫がいてもおかしくないのだが、こんな孫がいればよかったと九子は思う。実際に異世界で孫みたいな関係だったのは全国指名手配されていた魔女であったから余計にそう思った。

 三人は銭湯に入り、銭函を前にして座っている番台の主人に六科が纏めて湯銭を払った。

 大人は八文、子供は五文である。以前に出した換算だと大人百六十円、子供百円程度の割安であった。

 六科とお房は通っているので珍しさなど無いが、九子はやはり湯屋の中を眺めて「ほう」などと感嘆の息を漏らしている。


 見たところ男だけではなく女の姿もいて、脱衣所も風呂場も別れていない。どこかで九子は「江戸は混浴だった」という知識を聞いた覚えがあるので納得した。

 彼女は体こそ若返っているが、実年齢八十を越えた老人である。今更他人の裸で興奮もしなければ、自分の裸を見られたところでなんともない。混浴でも一向に構わなかった。

 今の朝方は多少人が少ない時間である。湯屋は朝五ツ(午前八時頃)から店を開けるのだが、真面目な男は仕事へ出勤する時間帯である。そして不真面目な独身男などは朝っぱらから風呂に入るよりは空きっ腹を抱えて二度寝でもする時間だ。

 江戸の人々が多く風呂に入る理由としては九子や六科のように、土埃が多く汚れやすかったからということがあるので、まだ埃に晒されていない朝方はそこまで人気のある時間ではないのだ。


 とはいえ人口の多い江戸では混み合う時間を避けたりするため、既にこの時間に来ている者も数名居た。

 九子たちは履物を下足箱に入れて板敷に上がる。なお、裸足だった九子の草鞋は六科の物を貰い受けた。

 それから脱衣所の衣装戸棚に脱いだ服を置く。そこには『失せ物存ぜず』などと注意書きがあり、貴重品の盗難について湯屋は責任を取らないため自己管理するよう求められていた。


(まさか盗まれんだろうが……)


 九子は脱いだ魔法の衣と術符フォルダを、『隠形符』で透明にして棚の奥に押し込み、その上からお房に貰った着物を乗せた。これで盗まれないはずだ。


「よし、風呂にいくかのう」


 ずっと着ていた青白い衣を脱いで全裸になった九子は、腰に手を当てて堂々と仁王立ちした。

 彼女は殆どの人生を男として過ごしていて、今は女体になっているのだが……恥じらいとかはまったくなかった。だいたい、混浴しているのだから裸体が一つ追加された程度で注目されるわけでもない。そう考えた。

 たゆん、と大きな胸が揺れる。九子の背丈はこの時代の平均程度である。しかし豊満な胸と尻は服を脱いだことで初めてお房も目にして、思わず小さな桶を手にお房は彼女の裸を隠した。


「ちょっ……ま、待つの九子! もうちょっと隠すの!」

「む? 混浴なのではないか?」

「混浴でも、年頃の娘さんは隠すの!」


 あまりに常識なく開けっ広げに見せている九子の裸体を、お房は自分の体と桶で隠してやるのであった。

 江戸時代、混浴ではあったのだが、湯屋で艶めかしいことはほぼ起こらなかったとされている。それは周りの目線もあるし、湯屋が蒸気と薄暗さで見えにくいこともあった。

 しかもまかり間違って大工の棟梁の嫁さんや大店のお内儀さんに触れでもすれば、旦那を巻き込んで雷が落ちることになる。それゆえに問題行動を起こさなかったのだ。


 それはそうと、若い女房が子連れで入りにくれば子供を抱きかかえるなどして体を隠し、商家の娘が入りに来るとなれば母や婆が周りをカバーして見せないようにするということがあった。

つまり子供や老婆はどうでもいいが、若い娘の裸は混浴でも隠すものであるし、隠すということは男たちにも興味があるものであった。

 実際、洗い場まで進む九子の体を恐る恐る覗き見する男客はかなり多かった。

 いつの間にか女体化していた本人的にどうでもいいことなのだが、性的な魅力が強い肉付きをしていたのだ。

 九子とて下半身や胸に視線を感じたが、


(まあ減るものでなし)


 若い男の心情というのは仕方がないものだと苦笑混じりで気にしないことにして、たゆんたゆんと揺らしながら歩いていた。なお後ろからついてくる六科は本当にどうでも良さそうに九子へは視線の一つもやらなかった。

 適当に九子は座って、桶で湯を浴びる。


「ふぃー……」

「はい九子。糠袋なの」

「おお、石鹸代わりだな?」


 お房から渡された糠袋を体に擦り付けて垢を落とす……が、彼女の白い肌は埃を洗い流せば殆ど汚れていないようにも見えた。


「……それにしても九子、牛みたいなの。邪魔じゃないのかしら」

「ふむん……以前は邪魔だった股間のブツが消えたからトレードオフというやつかのう」

「なによそれ」


 言い合っているとさり気ない動きで男客が九子の近くに座り、胸をジロジロと見ていたのでお房は気分悪そうに「お湯に行くの」と誘った。

 九子らが石榴口と呼ばれるヒサシのついた浴槽へと行ったのを見送って、男客らはボソボソと言い合った。


「おいなんだあの(おつ)(ぱい)はよぉ……」

「あの体で助平じゃないは無理があるマロ」

「そうかな……そうかも……」


 彼らはとりあえず色々と気分を鎮めなくては浴槽へと入れない状態だった。あの薄暗い浴槽で、体から伸びた(チンコ)が他人に当ってしまったら大変だ。


 余談だがこの江戸時代、女性の乳房が魅力的に思われていたかどうかについては諸説ある。

 貧乳こそが美乳だったという人もいれば、そこら辺で着物から胸を放りだしている女も珍しくないのでそんなものをいちいち性的だとは思わなかったと主張する人もいる。

 ただこの時代に発刊されていた物の本には、遊女が行うプレイとして乳房で男根を挟み愛撫するという……所謂パイでズル的な行為が記されているので、性的魅力を感じる人がいてもおかしくはないのだろう。

 つまりは男ども、遊女とやるように九子で、


「挟みてえ……」

「市中引き回しされたら死ぬ前にあの乳を吸うことを願うマロ」


 などと妄想していたのであった。それぐらいの助平心は、日常が混浴であっても持っていたのだ。


 それはさておき、九子らは湯船に入っていった。

 石榴口というヒサシがあって内部が真っ暗な湯船は、湯気を内部に籠もらせてサウナのようにするためと、湯が汚れている際に暗い方が気にしないでいいという理由からそういう構造になっている。

 それ故に客たちは暗い中で体がぶつからないように注意が必要であった。湯船の広さは九尺(二.七メートル)四方の正方形だ。人が多ければぶつかるのは避けられないために、謝るための江戸的な奥ゆかしい仕草が様々にあった。


 湯船の奥に、首まで沈めて浸かっている男が居た。

 同心の菅山利悟──半刻ほど前、九子から密かに首をへし折られた彼である。死亡確認されたものの息を吹き返し、まだ仕事を継続させるため小者から意識をしっかりさせるように湯屋へ放り込まれたのだ。

 彼のような外回りで巡回する同心も朝風呂によく入っていたとされるので問題はなく、原因不明に痛む首を少しでも癒そうと浸かりながら彼は、


(いったい、なにがあったんだ……)


 と、自問していた。

 現場仕事の同心として利悟も柔術の鍛錬も受けているのだが、抵抗もできないほど巨漢の力士に首を強制的に捻られたような、危うく骨が永久に外れそうな危険な感触であった。

 小者にも聞いたが、現場には誰も利悟の首を折った者などいなかった。当然目の前にいたお房がやったわけでもない。まさに、首を傾げる事態であった。

 しかしながら、利悟は湯屋が好きであったので仕事を放り出して入るというのも中々に乙なものだ。主に彼は湯屋で少年少女を観察するのが好きであった。彼の評判はどんどん悪くなっていた。

 利悟は石榴口を注視していた。内部が暗いため、比較的入り口は見えやすい。入ってくる相手を見ることができる。

 すると、彼行きつけの飯屋の看板娘、お房が入ってきたではないか。


(眼福!)


 なんの凹凸もない平坦な子供の裸を見て興奮する異常者だが、これで意外と同心としての治安維持活動は真面目である。本人がモラルハザードではあっても。主に捕り物の際に最前線で盗賊などと戦い、火事現場に突っ込むのが仕事であった。

 ともあれ、湯船で余計な声をあげたり反応したりすれば袋叩きに合うことも珍しくない。利悟はじっと黙って目を凝らしていた。

 すると、


「おお、こうなっておるのか。意外と時代劇では見ぬ気がするのう」


 九子がのっそりと屈んで入ってきた。彼女が時代劇でよく見たのは、由美かおるが水戸黄門でよく入っているような、檜造りの四角い浴槽であったり五右衛門風呂であったりしたものだ。

 まあこんなほぼ暗闇と湯気しか見えない風呂を撮っても面白くないのであろうが。


 ともあれ、入ってきた九子を見て利悟はぎょっとした。

九子の顔立ちは童顔で少女といっても差し支えない。江戸では十代後半には殆どの女は結婚をしており、結婚した女は島田髷を結って、お歯黒や眉剃りといった既婚者に相応しい化粧をするので一目でそうとわかるし、少女の面影は消える。

 それを考えれば既婚者らしからぬ風体の九子は若く、十四前後の娘に見えなくもない。だが、体つきは異なる。太っているわけではなく腰は柳のように細いのに、胸と尻はそこらの女房よりも大きく、江戸ではそう見ないぐらい張りのあるものをしていた。


「ふぅー、やっぱり風呂はええのう」

「ジジくさいの。天狗だからかしら」


 どっぷりと浸かりながら九子は適当に座り、たまたま利悟の近くであった。

 ところで、江戸では肉付きの豊かな少女は殆どいなかったとされる。

 栄養状態が関係している、という説もある。平成の三十年間だけでも女性の平均バストサイズは大幅にアップした程なのだ。江戸時代ならば尚更、妊娠後ならばともかく子供は小さかったであろう。


 だというのに九子は少女の顔と体に、豊満な胸尻。現代基準、異世界基準でも立派なものだ。

 普段は巨乳のことを駄肉だと蔑む利悟であったが、彼が信仰する少女の体にその駄肉が付与されていることで脳が著しく混乱を引き起こし──


 利悟はそのまま、意識を失って風呂に沈んでいった。


 そして暗闇故に、九子たちが帰るまで誰からも発見されないままであった。

 あまりに風呂から上がってこないのを不審に思った小者が探しに来て、沈んでいる利悟を見つけ「死亡確認」と呟いた。



 ******



 湯屋から店に戻った三人は、ひとまず朝食を摂ることにした。 

 六科が店で出す料理である。まず九子はこれを食べてみなくては、店をどう流行らせればいいのかの見当もつかない。

 幸いなことに、蕎麦を作る材料は店に置かれていた。六科が作る間、九子は座敷に上がって座りながらお房に催促をする。


「のう。酒は無いのか、酒は」

「朝からお姉ちゃんみたいなこと言ってる……高いのよ、お酒は」


 だらしない要求をする九子に呆れた様子でお房が返す。居候一日目とは思えない図々しさだったが、天狗なら仕方がないものかもしれないとお房は思った。一緒に風呂に入ったことでお房の警戒心も薄れていたのである。


「いいではないか一杯ぐらい。後で働いて返す」


 九子も朝風呂に入ってやっと腰を落ち着けることができたので気分が良かったのだ。ここで更に酒があればなお良いと思っていた。


「もう……売り物じゃないけど、お姉ちゃんが自分用に取り置きしていたお酒が戸棚に……」


 お房の言うお姉ちゃんとは、年上の従姉妹のことである。酒好きだが教養があるためお房は時折、従姉妹のところで読み書き計算から絵描きなどを習っていた。

 そんな先生のような相手の酒を勝手に飲ませることにした。どうせいつも飲みすぎるために酒の残量なんて把握していないだろうし、その従姉妹は金持ちなのでいいか、とお房は湯呑に注いで九子に出した。

 ぐい、と飲んで彼女は嬉しそうに微笑む。


「おお、中々どうして、美味いではないか。この時代の酒などあまり期待しておらんかったが……いけるいける」

「すごく上から目線の評価なの……」


 九子は喜んで酒を飲んだ。既にこの時代、灰を使ってにごり酒を清酒にする技術が使われているし、兵庫県の灘では現代でも有名な日本酒メーカー『菊正宗』(当時は正宗と名乗っていた)が良酒を作っていた。九子が飲んでも普通に美味いようだ。


「ちなみにこの酒いくらなのだ?」

「ええとそれは確か上方からの下り酒だから高くて……」


 下り酒、というと大阪京都などの上方から江戸へと船便で届く品のことである。

 町人が多くても江戸は基本的に武士の町であるので、職人による生産物……酒や醤油、布や細工物といった品物は古くから栄えている上方が長じていて品質がよい。もちろん、江戸に運ぶためには運賃も掛かるため値段も相応に高くなる。

 『くだらない』などといった言葉は、関東で作られた品物が上方の『くだる』ものよりも質が低いことを揶揄したものである。


「一升で三百文ぐらいするんじゃなかったかしら」

「三百文……ほう、それは高いのう」


 九子が頭の中で大雑把な計算をしてみて驚いたように息を吐いた。まだ江戸に来て一日目だ。物価の類は詳しくないのであったが、長屋の家賃が月に五百文とは聞いていた。普通、家賃の半分以上もする値段の酒を中々庶民は飲まない。一文二十円で換算すると六千円もする。作者の飲んでいる酒が一升で八百円の紙パック焼酎なことを考えると驚異的な値段だ。

 なお酒問屋から買って三百文なので、店で飲むと割高になって一合あたり五十文は取られるだろう。


「ちなみにお店のお蕎麦は一杯十六文で、御飯は盛り切り一杯十二文なの」

「ほほう……この店、主に蕎麦を売っておるのだったな?」

「ううん。御飯なの」

「……白米がメイン? なんか、六科の話と違うような……」

「御飯だけはちゃんと炊けるのよね……お父さん」


 なにやら不穏なことを言いながらお房はひとまず九子の前にたっぷりと山盛りになった飯碗を差し出した。一合近くは盛っているだろうか。日本昔ばなしに出てくる飯のようだ、と九子は思った。

 「ふむ」と九子は箸を手にして白米をそのまま食べ始める。懐かしの……という程ではない。異世界でも食べることはできたからだ。

 品種改良も行われていない(稲の品種改良が始まったのは明治期からである)米であるが、九子の日本人的な白米を美味しく感じる味覚からか、或いは単に異世界生活で色んなものを食べても平気だった許容力からか、普通に江戸の飯は美味く感じた。

 ヌカ臭さも殆どない。この頃には精米を水車で行うようになっており、特に江戸の人々はヌカ臭さを嫌ったので念入りに落とされている。それが原因で栄養が不足して脚気になっていたのだが。


「はい、たくあん漬け」

「いいのう。おお、このたくあん漬けの塩っぱいこと……飯が進む」


 差し出された小鉢に乗っている、淡黄色をした大根の漬物を口にすると一瞬で口の中がよだれでいっぱいになるほど塩が強い。茶請けとか箸休めとか口直しとかではなく、完全に白米のおかずとして浸けられた漬物である。

 江戸の庶民、特にあまり金の無い者などはこうした白米と漬物で生活をした。飯の進む漬物を使って白米を大量に食べることにより、白米に微量含まれる栄養素を量で補うのである。

 おかずが無い分、主食を食べる。その量は成人男性ならば一日白米五合は食べるというのだから、この店の盛り切り飯でもぺろりと食べてしまうだろう。

 とりあえず、この飯と漬物に関して九子は好感触であった。金は無い、料理はしたくない、腹は満たしたいという客ならとりあえず需要が見込まれる。


「かけそばができた」


 ボソリとした愛想も無い声で、六科が板場から蕎麦を持ってきた。温かいつゆに浸けたかけそばだ。

 かけそばは元禄頃……二十年程前から江戸で定着しだした食べ物であり、手軽に一つの丼で食べることができることからサッと食事を終えたいせっかちな江戸の男に好まれた。

 なにせ熱いつゆをぶっかけるのだから、少々蕎麦が伸びている茹で置きだろうがそこまで気にならない。屋台の中に七輪を入れておき、それでつゆを温めて提供された。

 それはさておき。

 九子は目の前に置かれた蕎麦の丼を見て、「うっ」と呟いて動きが止まった。

 それを蕎麦と呼ぶことは、九子にはできなかった。

 ドブ川のように泡立ったつゆは灰色と茶色がマーブル模様を作っていて、ちらりと見える不規則な形状をした二、三寸で切れている麺。匂いは僅かに蕎麦の香りがするが、概ね味噌汁であった。

 箸を突っ込んでみる。やはり、もろもろと崩壊しつつある蕎麦のような小さな塊がすくい上げられたかと思うと汁に溶けていった。


「……これは……なんか、こう……あまり自慢できない見栄えをした地元の郷土料理とかそういう感じかのう」

「かけそばだ」

「己れの知らん蕎麦の珍しい料理的な……命名、むじな汁でどうだ?」

「かけそばだ」

「嘘をつけ嘘を!」


 思わず九子はツッコミを入れた。これが江戸のかけそばなのか? いや違うはずだと彼女は思う。

 それにしたって、一応は食べて見なくてはダメ出しも……できないことはないのだろうが、覚悟を決める。

 九子は現代日本人であるが、元から食べ物の好き嫌いは殆ど無かった。海外の珍味でも問題なく食べることができた。それは異世界に行ってからでも役立ち、食うことに困ったことはあまりない。

 虫だって食べたし犬だって食べた。オッサンのような妖精の体液で作られた料理やセミの抜け殻の入ったシチューだって我慢して食べたことがある。それを考えれば、怪しげな蕎麦程度。

 箸で掬えないので九子は丼を口に付けてぐっと飲んだ。


 現代でも作れる、むじな汁再現レシピ。

 蕎麦粉を適当に鍋にいれてたっぷりの水で煮ます。

 市販の茹でそば麺を包丁で適当に刻んで鍋に入れて一緒に煮込みます。

 味噌を入れます。

 できあがり(ボナペティ)


 そんな感じの味だった。異様に濃くてもろもろ、ネッチャリとした蕎麦湯で味噌汁を作った感じだ。丼の底に溜まった溶け損ないの蕎麦粉と味噌滓が最低の後味である。

 実際に、蕎麦湯で味噌汁を作るレシピはあるのだが、そのちゃんとした蕎麦味噌汁から出汁の旨味を抜いてぬちゃっとした食感を加えて倍ぐらい塩辛くしたものだ。


「これ……すごく大目に見て、分類は蕎麦湯ではないか?」


 九子が酷く渋そうな顔をしてそう聞いてみた。少々ならまだしも、丼いっぱい飲みたい代物ではない。


「かけそばだが」


 真顔で六科はそう言うので、もしかして九子は自分が間違っているのではないかと不安になってお房を見ると、彼女はサッと顔を逸した。


「ちょっと……作り方を見ていいかえ?」

「うむ」


 九子は胡乱げな眼差しを向けたまま六科と板場へ向かう。調理するこの場所は、料理台に大きなまな板や外の溝に繋がる洗い場などは広く取られ、竈も大きなものが二つある。

 料理台に蕎麦打ちの道具も置かれていた。捏ねるための鉢、麺棒、包丁が用意されている。


「まずは蕎麦粉を練る」


 六科は無感動な声でそう言って、粉問屋から買っている蕎麦粉を壺から適当に入れる。


「水を入れる」


 水瓶から柄杓で水を三杯ほど鉢にいれた。


「混ぜる」

「おい、ツナギは入れんのか?」

「……うなぎ?」

「いや……いい。とりあえず完成させてみよ」


 九子は眉間に皺を寄せながら工程を進めることを促した。後で纏めて指摘しようと思ったのだ。六科は頷いて、たくましい腕で一分ほど捏ねた。


「よし」

「よ、よし? 粉浮いておるっていうか、割ったら粉が出てくるぐらい……」


 六科は決断的に鉢からボロボロとした蕎麦塊を取り出して、まな板の上に乗せる。


「潰す」

「ふむ」

「よし」

「よし!?」


 潰す、というか手でぐっと押して伸ばしただけで終わった。そこにある麺棒の役割とはなんなのか。


「切る」

「ああ、ほら切断面から粉が……」

「茹でる」

「完全に蕎麦湯に……」

「つゆを作る」

「蕎麦茹でておる鍋に味噌を!?」

「完成だ……!」

「改めて聞くが、この料理の名は?」

「かけそば」


 九子は頭を抱えた。六科がふざけているわけではない、真顔だったからだ。

 よろめきながら店に戻り、お房に聞いてみる。


「どう見繕っても味噌味の蕎麦湯でしかないものができ上がったわけだが、客は本当に満足しておるのか……?」

「と、当然なの……完食したり二回目頼んだりする人は稀なだけで」

「駄目ではないか!」


 やはり世間でも受け入れられていないのではないだろうか。


「……そういえば湯屋から帰る途中、蕎麦の屋台があったな……ちょっと食ってくる」


 まず普通の、まあ屋台の蕎麦は最下級かもしれないがともかくまともな蕎麦を食べて比較してみようと九子は思い至り、店を出ていった。

 残されたお房はぽつりと、


「お金持っているのかしら」


 と、つぶやいて首を傾げ、六科は残った蕎麦のような液体をぐいっと飲んで「うむ」と頷いた。なにがダメなのだろうか。そう思いながら。彼は味音痴だった。



今年も一年、ご愛読ありがとうございました

来年も励みますのでよろしくお願いします

お布施で評価ポイント頂けると喜びます

もしくは本買って頂けると小躍りします

よいお年を!(ボナペティ)

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― 新着の感想 ―
はいはい、九子の体は助平助平 [青田刈り]は今日も通常運転。暫く出てこなかったってぇと四半刻くらいと想像していいかな?大人が30分水の中ってコイツもう人間じゃねえ むじな汁の責任はお六さんにもある…
この時代にただ飯皿洗い返しは適用するんでしょうか。
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