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3話『天狗と少女と同心汁』

 江戸、八百八町と言われることがある。


 この場合の八百八というのは物の数が多い、という意味で実数ではない。しかしながら江戸の町数は八代将軍吉宗の頃には既に千を超えるほど多かった。


 町、という行政単位の基準は通りの長さを主に数え、一町(長さ約百九メートル)の道とその左右に並ぶ建物、及び路地の奥行き二十間(約三十六メートル)の範囲を、一つの町としたのである。

 江戸は武士の町と呼ばれ、人口の大半は武士であったのだが享保の時に行われた人口調査では、町人(庶民も含む)だけでも五十万人がいることが記録されている世界有数の大都市であった。


 それだけの人口がいれば支えるだけの商業も発展しており、様々な商売が行われている。

 その中でも飯屋、というのは比較的新しいものであった。もちろん、何百年も昔から軽食を提供する水茶屋、泊まり客に食事提供する宿などはあったが、江戸では近年に飯屋が一気に増えた。

 というのもこれより数十年昔、明暦の大火という江戸の市街大半を焼き払う火災が起こり、そうでなくとも江戸の町は毎年の火事によって家屋が次々に焼けた。それを再建するために数多くの大工、職人、人足が地方から江戸に集まってきた。

 彼らの多くは独身男性で、いつの世もそうだがそういった者たちは自炊を面倒だと考える。

 なので、彼ら相手の商売として簡単に提供できる外食産業が発展し、江戸にも根付いたのである。


 なにせ当時の人口比で言えば享保六年(西暦一七二一年)に記録されている町奉行所管軸内で男性三十二万人に対して女性十七万人、男が六五%ほどを占める男余り状態なので、独身男を客とした商売の飯屋は流行った。

 屋台の飯屋は江戸中に広まり、一つの町に三件四件とあったが六科のように表店を飲食店にする店はそこまで多くなかった。

 とはいえ、一七世紀中頃から飯、惣菜、酒などを店舗で食わせる一膳飯屋が広まりはじめていたので珍しいという程ではない。単に屋台の方が、始めるのも止めるのも手軽であったため多かったのだろう。

 六科の店は通りに面した長屋の表店で、立地としては良い場所である。特に店の名は名乗っておらず、近所の者からは雑に『六科屋』だとか呼ばれていた。


 その日の早朝。

 店の前で打ち水をしている小さな女の子がいた。

 長屋の住人にしては上等な着物を着ている、年の頃は十に届かないぐらいの子供だ。

 名を、お(ふさ)という。長屋の大家、六科の一人娘であった。

 裏長屋に続く路地から天秤棒を持った魚売りの住民が出てきて、水を撒いている少女に気づいて挨拶をした。


「おう、お房ちゃん。おはようさん」

「平助さんおはよう。というか平助さんが遅いの。こんな時間だと魚市場にはろくな魚残っていないの」

「へっへっへ、ま、なんか残ってるだろたぶん」


 少女に指摘されて魚売りの平助は苦笑いを浮かべた。

 真面目な魚売りならば日が昇るより早く魚市場に行き、新鮮な魚を買い求めて朝飯を作っている時合に売り歩くのだが、早朝といえども彼は幾分遅い時間であった。

 とはいっても、天秤持ちでの売り歩き商売でも月に十日から十五日でも働けばどうにか暮らしていけるのだから、毎日真面目にやる者など少ない。特に独身者なら尚更だ。


「今日、六科の旦那帰ってくるんだっけ? ……魚いるなら持ってくるけど?」

「じゃあ余ったやつでいいから安くして欲しいの。帰ってこなかったら、お雪さんと食べるの」


 六科の旦那、即ち長屋の大家が留守をしていることは住民皆が知っていた。その娘のお房も、皆から可愛がられている表店の看板娘だ。

 前の日は六科が居ないことから、同じ長屋に住んでいる仲の良い女按摩の部屋にお房は泊まったのであるが、いつ六科が帰ってきて店を開けても良いように前の通りに水を撒き、掃き掃除もしているのであった。

 まだ小さいというのにしっかりとした娘であると六科の関係者は全員が口を揃えて言う。そんな利発で働き者の子供であった。


 魚売りの平助も手を振って市場へ向かう。通りには既に人が増え始めていた。

 あちこちの長屋でも煮炊きの煙が上がりだしている。江戸では朝一番に飯を炊いて味噌汁などを作り、昼と夜も保管していたそれを食べる。江戸時代でもこの頃から町民たちに一日三食の文化が根付いてきていた。

 これも、江戸では大工などの肉体労働者が増えたことが原因だとされる。それまでの、朝と夕方の二食では体が持たないし、便利な飯屋があちこちにできて気軽に食事を買えるようになったからだ。

 魚売りに続けて裏長屋から独り身の鳶職、左官が道具を手に出てきて、お房は会釈をした。


「行ってらっしゃい。店賃(たなちん)しっかり稼いでくるのよ。トシさん先月分貰ってないの」

「へいへい、博打ですっちまってさ。すぐに取り返してくるよ」

「橋近くの店で茶飯でも食っていこうぜ」


 男二人はさっさと歩いて仕事へ向かう。独り身の彼らは朝の煮炊きはせずに、朝から開いている屋台で茶飯を食べる。茶飯とはほうじ茶や番茶で飯を炊き上げて、塩を混ぜた簡単な味付け飯であり屋台の定番だ。少々豪華になると、これにあんかけ豆腐を掛けまわして出す店もあった。

 去っていく彼らを見送って、お房はひとつため息をついた。


「うちの長屋の銭が他所に持ち出されているの。お父さんに、朝からお店開けるように提案しようかしら」


 彼女は店の食事を長屋の住民に取らせて収入を得る方法を考えていた。

 もちろん義理と人情の江戸社会。長屋の者も、大家が飯屋を開いているとなれば、これまでに入ることもあったのが……お房はまたため息をついた。

 そんな彼女の様子を見て、通りからにこやかに近づいてくる男がいた。


「やあお房ちゃん! 今日もキャワイイ・愛らしい・いい匂いの三点揃いだね! スーッ! ハーッ!(深呼吸して匂いを嗅ぐ音)」

「うぇ……利悟(としご)さん……」


 お房は思わずうめいて声の方を向いた。

 近づいてくる男は紋付袴を身に着けて、腰に大小を帯びた武士である。

 年の頃は二十を幾らか過ぎたぐらいの若侍だ。

 月代も整えて身なりもしっかりとした姿で、懐には赤い房をつけた十手を差しているため、町人が見ればすぐに町奉行所の同心だと身分が分かる。


 名を菅山利悟(すがやまとしご)。江戸の警察役である町方同心であり、六科の店常連の若侍だった。

 彼は笑みを貼り付けたままお房に近づいてきて、おもむろにしゃがんで彼女の手をヌメッと手汗のついた手で握った。


「朝からご苦労様。君のような働き者の子供を見ているとお兄さん嬉しくなってもうなんか汁とか手から浮き出てくるよ!」

「手が気色悪いの……」

「大丈夫! 無害な同心汁だから! 安心して欲しい! 拙者は小さい子の味方!」


 露骨にお房は顔を歪めて迷惑そうにする。江戸では男が茶店の看板娘などに入れ込んで、口説いたりお小遣いを渡して愛想を貰ったりすることは珍しくないのだが、お房ほど小さければ普通はそうもされない。

 しかしこの男、幼い少女に目がないという奇癖を持っている危険人物だともっぱら評判なのである。お房のみに熱を上げているのならまだしも、江戸のあちこちにいる少女たちを眺めるわ近づくわ匂いを嗅ぐわ、外聞を悪くする行動を繰り返している。

 彼の奇癖を知っている親は彼が来たら子供を隠すほどであった。お房は店を手伝いしていてこの利悟が数少ない常連として店に通うので、多少邪険に扱っているものの突き放せずにいる。


 朝っぱらから十に満たない少女の手を取って、往来で大声を出す同心の姿を冷ややかな目線で通りかかる人々と、彼の部下である小者と呼ばれる男がやや離れて見ていた。

 同心として出歩く以上、部下は必要なのだがこの利悟は幼児性愛の異常さで誰も部下になりたがらないため、同僚の同心に頼み込んで借りた小者であった。

 その小者は利悟の仲間と思われたくないのか顔を覚えられたくないのか、覆面のような頭巾を被っていて顔を隠し、関わり合いになりたくないとばかりに近づかない。


「ところでお房ちゃん!」

「どうしたの? 手汗ぬめ蔵さん」

「手汗じゃないよ! これは同心汁だから!」

「……同心汁って?」

「同心から排出される汁さ!」

「同心ってなんなの……」

「同心汁を排出する存在さ!」

「……著しくお仲間の名誉を汚してそうなの」


 お房は呆れたように言って、ぬめる手から自分の手を引き抜いて持っていた桶の水で洗った。

 利悟は店の方を見ながらお房に尋ねる。


「店はまだやっていないのかい? 軽く食べて行こうかと」

「お父さん、昨日から出かけていて帰っていないの。だから帰ってくるまでお休みなの」

「なんだって……それは心配だ! よしお房ちゃん、拙者が見守ったり触り守ったりしてあげるから安心し────」


 再び利悟が膝をついてお房と顔を突き合わせ、不穏なことを口走っていたとき──

 こきゃり、と軽い音がして、利悟の首があらぬ方向に曲がった。


「へ?」


 お房はそう呟くと、一瞬で意識を失ったらしい利悟は全身脱力していたのだが、妙な格好でずるずると、離れた通りの隅に移動していき──そこで倒れた。

 小者も呆然とそれを見守っていた。まるで誰かに引き摺られていったような動きであったものの、なにも不審な人物が近寄った姿は見えなかった。

 崩れ落ちた利悟に覆面の小者は近づいていき、脈を取った。


「──死亡確認」


 そう彼は呟いて、首がひん曲がったままの利悟を担いで去っていった。


「なんだったのかしら」

「うむ」

「お父さん⁉」


 背後からいきなり声がしたので振り向くと、そこにはいつの間にか父である六科が立っていたではないか。


「帰ってきたの? 急に現れたからびっくりしたの」


 いくら利悟が目障りであったとはいえ、六科の気配はどこにもなかったというのに通りに不意に現れたように、父はそこに存在していた。

 彼も「むう」と言葉に詰まりながら娘に言う。


「説明し辛いのだが……」

「なにが?」


 お房が首を傾げると、その時であった。


「いやあ、なんかキモかったからつい首をアレしたが……まあバレんだろう」


 そう、二人に話しかけるような声がしてお房はそちらを向いた。

 最初に見たときは声を掛けたらしき人影は誰もいなかったので、目をぱちくりと瞬きしたら──次の瞬間にはそこに人が現れていた。

 びっくりして、お房は思わず尻もちをついた。他の通りを歩いている人は現れる決定的瞬間を見ていなかったようで、お房の反応にやや訝しがるが突如現れた女にはそこまで気も向けない。

 その女は長い黒髪でゆったりとした青白い法衣を身にまとい、裸足であった。腰にはベルトを巻き付け、そこに術符を収めた長方形のフォルダと、小柄な女にはとても抜けそうに思えない大刀が差されている。


「これが六科の娘か。なんだ可愛いではないか」


 じっと覗き込んでくる赤みがかった目。

 異様な風体。異様な登場。これは間違いなく、


「よ、妖怪なのー!!」


 お房は泡を吹いて卒倒した。二人は慌てて騒ぎになる前に、お房を担いで店に入っていくのであった。




 ******




 六科の店は長屋の通りに面した表店であり、二階建ての建物であった。

 一階に店舗兼住居を置いているので二階はほぼ使っていない。親子二人暮らしなのでそれで充分なのだ。

 表から店内に連れ込んだお房を店の板敷に寝かせて、九子は「むん」と両肩を掴んで活を入れてやった。


「はっ!」


 お房の目の焦点があって意識を取り戻す。彼女は周囲をキョロキョロと見回し、ここが馴染み深い自宅の店であることと、六科がいること。

 そして先程妖怪だと認識した女が近くにいることを確認した。


「よ、妖怪なの!?」

「ほれ六科。説明せぬか」

「うむ。お房。今日から一緒に暮らすことになった。仲良くしろ」

「後妻なの―っ!?」


 お房はのけぞった。幸いだったのは、六科に岡惚れしている長屋の女按摩はまだ寝ているからその叫びが聞こえなかったことだろうか。

 ともあれ誤解を招く説明をした六科を、九子は半眼で睨んだ。


「説明が一言も二言も足りぬ。ええい、この唐変木に任せても埒があかぬな。よし、ええと房子(ふさこ)であったな」

「お房なの」

「うむ。己れは天狗の九子という者だ」

「天狗……! やっぱり妖怪なの!」


 お房は九子の説明に、畏れ半分、喜び半分の様子で目を輝かせた。

 現代日本で天狗などと名乗れば頭の病院行きになるかもしれないのだが、江戸時代はもっと怪異が身近であり、信じられていた。

 実際に江戸でも「江戸に住んでいた子供が天狗に攫われ、数年後に戻ってきた」という事件が語られるほどであり(現代でも時々、特定のスポーツ新聞などで記事になるが)、天狗に河童などは目にすることはないが居ても不思議でない存在であったのだ。

 素直にそう信じてくれると、未来人だとか異世界人だとか説明するよりも手っ取り早くていい。九子は頷いた。


「じゃあ、さっきいきなり現れたのも天狗の妖術なの⁉」

「ん? おお、『隠形符(おんぎょうふ)』といって……まあ天狗の隠れ蓑のようなものだな」


 九子は術符フォルダから一枚の札を取り出して指で摘み、念じる。そうすると彼女の姿が透明になって店から消えてしまったではないか。

 目の当たりにした妖術にお房は目を白黒させた。九子は再び姿を現すと、空中に腰掛けるように浮いて見せる。


「それだけではないぞ。この店に来るまで、お主の親父を掴んだまま空を飛んでやってきたのだ。まあ姿は消しておったから人には見られておらぬが」


 それは九子が着ている青白い衣によるものだった。これも異世界から持ち込んだ魔法道具の一種であるが、日本では天女の羽衣など空飛ぶ衣服というものは伝説にあるので理解されやすい。


「お父さん、そうなの⁉ 飛んだの⁉」

「ああ」


 六科は言葉短く肯定した。彼も、背中を羽交い締めされるようにして一緒に飛ぶことになって驚きのあまり、置物のように体を硬直されたまま運ばれていたのだ。

 ちなみに飛行して江戸に戻ってきた理由は、九子が裸足だったので歩きたくなかったためだ。地表すれすれを浮遊して移動することもできるのだが、不自然な動きになるので姿を消して上空を飛んできた。

 そして六科の案内で彼の家を目指していたところ、少女相手に発奮している同心を見つけて、姿を消したまま九子が首の骨をコキャッと曲げて捨ててきたのである。目撃者はいないので容疑はかけられないだろう。


「そ、それで天狗がどうして……ひょっとして従姉妹のお姉ちゃんが風評被害をばら撒いていたからその報復に⁉」

「いや違うが……風評被害?」

「従姉妹のお姉ちゃんは絵師で『そう、飲み込んで儂の天狗鼻……!』とか言って天狗の高い鼻を衆道穴(しゅどうあな)に突っ込む妖怪春画を描いて出版していたの。あれ、天狗の祟りがあるんじゃないかって評判だったの」

「なにを描いておるのだその女! そして見せるなそんな春画! 子供に!」


 九子も全力でツッコミを入れた。妖怪衆道春画というだけでニッチだというのに、十歳未満のお房に見せて精神に悪影響があったらどうするというのか。

 もしそんな邪悪な春画を見つけたら、新米天狗として破ってやろうと決めながら九子は話を戻した。


「とにかく。己れは六科の商売を手伝う代わりに居候することになったのだ。よろしくのう」

「え? なんで天狗が人間の商売を手伝うの?」

「……」


 なんで、と言われても。九子はやや考えた。そもそも彼女の目的は居候である。ついでに社会生活を送れるぐらいの金を稼ぎたい。そしてのんびり酒でも飲んで暮らしたい。

 だが普通に考えれば山で暮らすはずの天狗が人間の町まで降りてきて、売れない飯屋の手伝いをするなど理由がないと思われても仕方ない。

 適当に思いついたことを九子は言う。


「実は天狗界を追放されてしまってのう」

「追放⁉ どうして⁉」

「えーと……痴情のもつれとかで」

「天狗でも痴情のもつれってあるの?」

「まあのう。お山に帰ろうと思っても、もう遅い状態なのだ。それで途方に暮れていたのだが、快く六科が雇ってくれるというのでな」


 快く雇っただろうか。六科はやや捏造された気がしたが、口出しはしなかった。

 九子が丸め込もうと設定を語る。実際、もはや異世界にも現代にも帰る手段がないのは追放と同じようなものだ。自分の居場所は自分で作らねばならない。


「というわけでここに住むことになったわけだ」

「えー……」

「これこれ、露骨に嫌な顔をするでない。ただ飯喰らいの穀潰しではないぞ」


 事前に六科が言った通り、居候に対して良い顔をしないお房に九子は早速生活に役立つ術符を見せることにした。

 板場に置かれている大きな水瓶に『精水符』を貼り付けて見せると、


「水が湧いてきたの!」

「ふふん。ちゃんと適量で止まるように調整しておる」


 更に竈の中に『炎熱符』を貼り付けて、


「薪も無いのに火がついたの!」

「火事にならんように保険もいるかの」


 すぐには使わないが、竈の近くに『氷結符』という札を貼っておいた。これは温度を下げる氷の魔法が込められたもので、もし竈周辺が異様に熱くなった場合は火事とみなして周辺を氷漬けにするよう命令を念じておく。

 彼女の使う異世界魔法の術符はそういった細かい調整が可能である。制作したのは九子ではないのだが、作る際に注文をつけて便利にしたのであった。

 ともあれこれで、六科の店では苔むしたような味のする井戸水を汲まずとも冷たく美味しい水が飲めて、冬場には高騰する薪に困ることもない。札はそれぞれ何枚か同じものを持っているのでこうして設置しておけた。


「妖術ってすごいのね、九子!」

「なんでもできる訳では無いがのう」

「病気とか治せないの? 従姉妹のお姉ちゃんが病弱なんだけれど」

「病気かえ? 体調を多少よくする術符もあるが……」

「毎朝、頭が痛かったりふらついたり熱っぽかったりするのよね。手が震えることもあって。お酒を飲めば治るって言って昼間から夜まで飲んでいるのだけれど」

「酒を止めさせろ、酒を。久里浜のアル中医療センターにつれていけ」


 いつの世にも酒の中毒者はいるものだと九子は呆れた。あいにく、彼女の持つ術符は体力を回復させるものであり、アル中を治すものではない。


 さておき、九子はお房に案内されて二階に寝泊まりすることになった。


「寝る場所はこっちなの」


 彼女に連れられて梯子のように急な階段を上がり、やや埃っぽい部屋に入る。お房は窓の障子を開けて空気を入れ替えしながら言う。


「亡くなったお母さんのお布団があるから干しておくの」

「すまんのう布団まで借りて」

「いいの。見たところ、なにも持ってないじゃない」


 九子の所持品は術符と刀ぐらいだ。着替えすら持っていないのはお房も呆れた。

 生活用品一式揃えるには相応の資金が必要なのだが、幸いなことに数年前に亡くなったお房の母、お六の持ち物や着物が処分されないまま残されていたので、それを流用することにした。


「お主の母の遺品を使ってもいいのかえ?」

「だって使わないと勿体ないじゃない。別にいいの」

「サバサバしておるのう……房子は」

「……お房なんだけど、まあ天狗の言う事だからいいの」


 名前が間違えられていることに関して早々と諦めるお房である。天狗だから常識が違っていても仕方ない。九子としてはなんとなくそう呼んでいるだけだったが。

 お房はやや古びているが上質の着物を一枚取り出して、九子に羽織らせた。母の実家は呉服屋なので良い物を着ていたのだ。九子も青白い衣一枚から重ね着することでやや町人らしくなる。


 いくらなんでもお房としても、居候を天狗というか妖怪めいた格好で生活させるわけにはいかないと思っていた。九子もそれは同意で、六科やお房には世話になる関係上そう説明したが、隠すほどではなくとも江戸の人々へ大々的に天狗でございと名乗るつもりもない。

 そんなことをしたら見世物小屋行きになるかもしれない。のんびりと暮らせればそれでいいのだ。

 格好を整えた九子を連れてお房と一階に戻ると、六科も旅装を解いていた。お房に土産の菓子もある。それはいいのだが、


「……お父さんも九子も、ホコリまみれなの」

「む」

「そういえば埃っぽいのう」


 お房はそう指摘した。当時の江戸近郊、及び街道は関東名物の砂埃が吹き荒れ、汗や湿気で肌が湿っているとまるで黄粉餅(きなこもち)のように砂塗れになってしまう。お房が店の前で水を撒いていたのも、土埃を防ぐためだ。

 江戸の町民が風呂好きだった、と言われる理由の一つがこの厄介な砂埃であり、これを払うために銭湯へと通っていたのである。


湯屋(ゆや)に行くの。とても人前に出られないの」


 お房がそう決めたので、否を言うこともなく六科も九子も頷いた。これから江戸で暮らすのだから、銭湯の習慣も知らねばと九子は興味深そうであった。


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飛ばしてんなー、稚児趣味同心 王大人の死亡確認ほど信用ならねぇものはねぇのよ
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