15話『天狗と天神騒動』
「最近、辻斬りが流行っているらしいよ」
「なんだお主は。いきなり物騒な話題をしおって。もっと楽しげなことを教えぬか。そんなことだから女にモテぬのだ」
「ううう、会話の取っ掛かりなのに……」
その日、店に久しぶりに(といっても数日ぶりだが)やってきた町方同心、生きていた菅山利悟がそんなことを言ってきたので、座敷の定位置に座っていた九子が難色を示した。
彼女は自分専用にした文机に伸し掛かるように身を預けて頬杖をついている。女体になってから胸が重たいので、こうして机に乗せてしまうのが一番楽な体勢なのだ。
余談だが胸を駄肉だと唾棄しつつ九子の少女性を認めている面倒な利悟は、脳内で胸の情報を消すことによって普通に会話することができている。彼の目は胸を見ていてもそれを認識することはない。少年のように平たい胸だと信じて、そう強く思いこんでいる。ほぼ心の病である。
ふと利悟は数日ぶりに見た(というか胸を揉んで雷を落とされた)九子の髪に、以前見なかった髪飾りがついていることに気づいた。
「ところでその髪のやつ似合っているね! 可愛いよ!」
「お主に褒められると途端に外したくなるから不思議だのう」
「酷くない!?」
九子は僅かに飾り分重くなった頭を振って、垂れた白くて丸い房(梵天という、耳かきの頭についているようなものである)を揺らした。
彼女の頭には石燕から貰った装飾具が付けられている。帽子というよりも髪飾りに近い小さな頭巾を頭頂部に乗せて、そこから梵天飾りが伸びている、
石燕が自称天狗から騙されて購入した、女天狗用の衣装をくれたのだ。他にも山伏めいた服や下駄、団扇まで一式貰ったのだがコスプレのようだと思って九子は着なかった。しかし石燕とお房が頑なに天狗っぽい格好をして欲しいと主張したので、仕方無く髪飾りだけ付けることになった。
「なんなら拙者も櫛でもお房ちゃんに……」
「贈ってきたら焚き付けに使うか」
「そのまま質屋に持っていくからなるたけ高いのくれるといいの」
「やたら酷い!」
武士相手とは思えないようなざっくばらんとした口調だが、胸を揉んだ挙げ句に祟りによって雷に打たれた利悟はもはや恐ろしさから強気に出られないし、九子としても敬う相手ではなくなっていた。
それに江戸の庶民では口調が荒いことは珍しくなく、いちいち庶民の言葉遣いに腹を立てていては廻方の同心として聞き込みもできない。
「それにしても辻斬りねえ」
改めて九子が繰り返す。言わずとしれた、路上での一方的な刃傷沙汰のことだ。
「そう、だから一応注意喚起しておこうと思って。滅多な理由じゃ夜に出歩かないだろうけど、お九ちゃんもお房ちゃんも気をつけて」
「お主にちゃん付けで呼ばれると寒気がするのう」
「寒気とまで!?」
九子は思わず目を閉じて身震いした。
「うう、こう寒いと酒を飲まなくては……買って欲しいのう……」
「わかったよ! お房ちゃんお酒ね!」
「はいなのー」
九子が上手くおだてて奢らせていることにお房は笑顔で酒を持ってくる。彼女は常連客相手に酒を奢らせることがままあった。これは当時江戸でも、茶店の看板娘などの気を引くために小遣いをやったりする文化があったため、自然と客も受け入れていた。
まあ九子は看板娘というには、忙しい時間以外は自分用テーブル席で座ってダラダラしているだけなのだが……若い(若く見えるだけでも)娘はそこに居るだけでそれなりに集客するから役には立っている。
それはそうと利悟は「変な汁から普通の蕎麦になってる」と言いつつ蕎麦を啜り、それから話を戻した。
「辻斬りなんだけど、本当に多いからね。というか変な広まり方をしていて……」
「広まりとか、流行りとかどういうことなのだ? 辻斬りって流行るものだったか?」
「実は……」
と、利悟が状況を説明した。
事の始まりはふた月ほど前から、辻斬り事件が起きていることだ。
江戸で起こる辻斬り事件は年々減少しているが、享保の頃でも月に一度か二度ぐらいはあった。ただし、その被害者が夜鷹や無宿人だった場合、大きな事件にはならずに未解決のまま終わることが多かった。
ただし、ふた月前に起こった事件では少々事情が異なった。
まずは襲われたのが武士であるということ。そして刀が奪われていたこと。
更には殺しは管轄外だが、刀目的の盗賊ならうちの管轄だと言い張って検分をした火付盗賊改方のとある同心が、
『これはかなり腕利きの仕業だぜ』
と、評価したことが広まったのである。一刀のもとに切り捨てられた被害者の切り傷が見事であったためだろう。
案外に、よほど斬り慣れていなければ一撃で相手を絶命させることは難しい。普通は刀傷が幾つもあるものなのだ。故にその同心は腕のいい辻斬りがいる、という判断をした。
その後も続けて二人、夜道を歩いていた武士が同じと思われる辻斬りに斬られて刀が奪われる事件が起こり、そのあたりから噂が広まった。
『矢鱈と強い辻斬りがいるらしい』
『奉行所や火盗改でも手を焼いている』
『その辻斬りを返り討ちにすれば、江戸に名が轟く』
そういう話になって、武芸を齧っている武家の暇な三男坊、江戸に無数あった剣術の町道場の者、名を売って仕官を目指す浪人たちが刀を片手に夜の町へ辻斬り探しにうろつき出したのだ。
太平の世になれば武芸者も暇になって、こういった馬鹿げた行為にこぞって参加したようだ。江戸初期の頃はあらくれた武士による辻斬りも多く横行していたので、そういったことを本能的に好む血が騒ぐのかもしれない。
しかしながら無関係の辻斬り狙いまでうろつくとなると、誰が本来の辻斬りなのか非常にわかりづらく、捜査の邪魔である。
中には当初探していた辻斬りとは明らかに違う、夜鷹や無宿人相手に試し切りをするような事件すら増えだした。
更に辻斬りについて悪い噂が流れた。
『公方様とお奉行様は、町の風俗を取り締まるために夜鷹や無宿人を始末する隠密を放っている。この辻斬り騒動に隠れてそれを行っているらしい』
などという話まで出回ったのだ。もちろん、将軍徳川吉宗も町奉行大岡忠相もそんな命令は出していない。
ただし、この二人が江戸の風俗を取り締まろうとしたのは確かであり、実際に夜鷹や罪を犯した無宿人が捕まることもあった。更に将軍直轄の御庭番と呼ばれる隠密集団の存在もある程度知られていたため、殺すこともあるかもしれないという嫌なリアリティがある噂として広まってしまったのだ。
こうなれば一刻も早く辻斬りを捕縛せよ、と役人たちは上から強い命令が出されることになった。
「そんなこんなで、本物の辻斬りと辻斬り狙いの人斬りと、殺気立っている同心小者や自警団気取りのヤクザがウロウロしては出くわして争い起こしているから、夜に表で騒ぎになっても家から出てこないようにね。危ないから」
「もううろついておる者全員逮捕する勢いだのう」
「そう命じられているからなあ……危険人物だらけだから拙者みたいな若手の駒は特に働かされていて……しかも酷いんだ! 本当は辻斬り相手にするから複数人の同心、小者で固まって行動しろって話なのに、拙者とか水谷とか『お前らなら一人でなんとかなるだろ』って上司から命じられて単身で探索させられるし!」
町奉行所とて人数が慢性的に足りないのだ。南町奉行所に同心の数は百四十人程。その全員が捜索に出られるわけではなく、数多くの書類仕事も抱えているので町に出られるのは動員しても半数ほどだろう。
小者や岡っ引きをつけるとはいえ僅か七十人ぐらいで江戸の町に出没する辻斬りを探すのだから、こうなっては腕の良い者は単独で行かせて捜索範囲を広げるしかない。利悟の場合は普段の素行が悪いため懲罰的な人事かもしれない。
「水谷……よく店に来るあの物静かな同心の旦那か。確かになんかがっしりしておって強そうだのう」
「あいつは町方でも柔術の腕前が一等に強いから……拙者も四番目ぐらいに強いけど! あと剣術は拙者の方が! 見直した!? お九ちゃん見直した!?」
「おお見直した見直した。酒が無いぞ酒」
「お房ちゃん! お酒追加で!」
適当に褒めて酒を追加させる九子である。実際、利悟も子供に対して良くない目で見ていて行動も少々目に余るところがあるのだが、武芸に関しては町奉行所でも信用されているようだ。
あるいは使い減りしないか死んでも惜しくない兵隊だと思われているのかもしれない。
九子はあまり利悟の腕前に興味は無かったので酒を傾けながら相槌だけ打っておく。
(それにしても若い頃は、若い娘を接客させる店の雇われ店長をしておったこともあるが……この年になって似たようなことをしているとは因果なものだのう)
まあ、勝手に利悟が酒を奢ってくるだけなのだが。
暫く利悟はペラペラと捜査上の機密や同僚の個人情報ではないのかと思うようなことまで喋っていった。
「モテない男は女に話しかける話題の引き出しが少ないから仕事の話が多くなるらしいが」
「なんでそんな冷静な分析で心を傷つけてくるの!?」
そして食事を終えて、会計をする。
「お会計、二百七十二文なの!」
「うぐっ……」
利悟は大いに怯んだ。軽い気持ちで入った昼飯で、日本円にして五千円以上飛んでいったようなものだ。主に九子の酒代で。
渋々と財布を取り出して一朱金で支払う。お釣りが四十文になるところを、
「まあまあ、釣りは飲んでおくから気にするでない」
「気にするんだけど! 拙者ら同心は微禄なんだから!」
「ちなみに幾ら貰っておるのだ?」
九子が確認をする。相手にどれだけたかれるのかも知っておかねばならない。
利悟は思い出しながら口にする。
「えーと三十俵二人扶持だから……色々手数料引かれてざっと四十俵で……四俵で一石、最近は一石が一両だった気がするから……年に十両ぐらいかなあ」
なお、扶持米が四俵で一石、一石が約一両というのは江戸時代を通して大きく高下していて決まっていなかったので、あくまでこのときの価値である。現代換算で年収百万円ほどか。
「本当にしょぼいのう」
「下っ端なの」
「それを散々使わせて言う!?」
公務員にしたって随分と低い収入であった。
その年収から、下級武士であっても家来を雇わねばならない規則があって給料も払う必要があるので更に実所得は下がる。
おまけに今は一石が一両だが、江戸を通してこの価格が安定しているわけでもなく、米の値段が下がれば給料が実質減っていくのである。
六科の店ですら月に三両程度の利益を目指しているので、年収は三十六両が目標だ。そう考えると町のそこまで上等でない飯屋の三分の一以下しか収入が無い同心は確かに微禄であろう。棒手振りの野菜や魚を売っている者ですら、一日に三百文稼ぐとされていたので月に二十日も働けば月収は一両を越え、年収として同心を越える。
ただ利悟や端右衛門のような外回りに出て町民らとよく関わる勤務の者は、普通ならば管轄内の店などから付け届けという形で副収入も得られる。しかし利悟はその評判の悪さで付け届けを貰ったことがない。人徳の問題だ。
余談だが利悟ら同心の上役である与力は俸禄が二百石程ある。つまり年収二千万円の世界であり、組屋敷も与えられた。更に付け届けの額も同心より貰える。その分雇って給金を払わねばならない小者・中間の数は多いものの、同心と与力は警察でいうと平巡査と副署長ぐらい格が違うとはいえ大きな年収の差だ。もっとも、同心が昇進して与力になることは無いが。
低所得サラリーマン侍の悲哀はさておき。
利悟は座敷から立ち上がる際に思い出したかのように振り向いた。
「あ、そうだ」
「む?」
利悟は慈愛の眼差しを向けたまま、そっと九子の机に鏡餅のように乗せていた胸へ手を置いて揉んだ。餅のように揉んだ。
「……で?」
九子は藪睨みで奇行の理由を尋ねる。利悟は頷いた。
「いつか治るさ。それまで拙者も諦めない」
「『電撃符』」
「げびびっ」
謎の仁徳ありそうな微笑みを浮かべて意味不明なことを抜かす利悟に再び電撃が浴びせられた。
彼にも悪気はないのだ。
九子の胸に付いている腫瘍のような肉が、少しでも無くなることを祈って普段は不快故に視界にもいれないようにしているそれを、強力な意志力で認識して揉んであげただけなのだ。
だというのに理解の無い天狗からまた死なない程度の電撃を受けて表に放り捨てられた。利悟の認識としては天神様のバチがまた当たったというところか。
正義とは可哀想なものなのである。利悟はその夜、電撃の後遺症的な痛みに魘されながら自分をそう正当化して慰めるのであった。
「まったく。己れが初心な娘だったら始末しておるところだぞ」
感電死した利悟を外に投げ捨てた九子は面倒くさそうにそう言った。彼女としても胸を触られるぐらい本来ならばなんともないのだが、利悟は意味不明な感情で触ってくるのでおぞましさが助平心で来る者よりも強いのだ。
「初心な娘は男を始末しないと思うの……それにお役人を始末しちゃ大変なの」
お房が「わからないでもないけど」と言ってそう九子を宥める。確かに天狗からすれば人間など赤子の手をひねるように始末してしまえるだろうが、社会で生活するにはお上に逆らうのは得策ではない。
「わかっておる。己れとて面倒事はごめんだからのう」
「面倒事っていうけど九子、ここ何日も店でお酒飲んだりお客に絡んだりしているだけなの……」
「むう」
居候の身でありながら、いやだからこそか九子は最低限の労働をしつつ昼間から酒を飲む生活をしていた。
蕎麦打ちはお雪。魚の仕入れと飯炊き、蕎麦切り、茹で、盛り付けは六科。つゆや味噌汁を作るのはお房。接客と配膳もお房。たまに忙しいときに九子。
基本メニューにおいては役割分担が完了したので、九子はこうして店の置物よろしくだらけているのだったが。
もちろん店をちゃんと客が来るように営業させ始めたのは九子なので、役に立っていないわけではない。なのだが、堂々とサボられるとそれはそれとして気になるのであった。
「金を儲けようとすればその分忙しくなる。悩ましいのう」
九子とて、更に集客する方法は様々に考えている。だが今は準備期間というか、店を順調に回転させている最中なのだ。
いきなりあれこれ、メニューを増やすだのセール価格変更だの、更には大規模な宣伝をして客を集めても店が回らない。習熟期間が必要なのだ。九子が来る以前は、日に数名という閑古鳥が合唱しているような状態だったのだから。
「売上も安定しておるから現状維持だ、とりあえず」
「現状維持ね……」
だいたい、テコ入れによって今の調子が続けば月額目標売上はなんとか達成されそうなのだ。三人暮らしにプラスして、九子が一両以上酒を飲む換算が目標なのだからかなり余裕がある。
そうしてから上がった利益を使って宣伝や新メニューの仕入れをすればいい。九子はそうのんびりと考えているのであった。
ところがその日、売上が減った。
「ぬぬっ」
九子はうめいた。理由は簡単で、近所の蕎麦屋台のうち一人が蕎麦麺の購入を止めたのだ。
「近頃、夜は辻斬りが出るってんですっかり客が来ねえから夜鳴き蕎麦は暫く休業しようと思ってなあ」
その屋台の男は夕方から夜にかけて店を出していた。客層は辻番や見廻り、夜鷹や夜遊びの旦那など、人数自体は少ないが一つの町に一店舗ぐらいのニーズはあったのでそこを狙っていたのだ。
だが辻斬り騒動で夜鷹も減り、逆に物騒な連中が出歩くようになった。更に夜鷹が殺されるとなると地元のヤクザが自警団よろしく出歩くようになった。夜鷹の稼ぎから上がりを取ったり、着物を貸し付けたりしていた稼ぎが邪魔されたため殺気立って辻斬りを探している。
辻斬り、ヤクザ、辻斬り目的の人斬り、同心らが出歩いている近頃の夜はとてもじゃないが安全とは言い難い状況なので、儲けが減ろうとも命惜しさに店を閉めることにしたのだ。
「いやそこは営業時間を変えるとかのう」
九子が蕎麦屋に提案してみるが、相手は苦笑いで手を振る。
「なあに、騒ぎが収まるまでのんびりするさ! 早めの梅雨休みってとこで」
「適当だのう」
九子のような現代人的な労働感覚で言えば、それこそ夜が危険ならば昼や朝方に営業すればいいと思うのだがここは江戸であり、蕎麦屋は気楽な独身男だった。
その日暮らせる分が手元にあるなら休んでも良い、という意識である。江戸では結構な数の男がそういった呑気な仕事をしていた。例えば梅雨になれば出かけられないから休み、真夏の猛暑でも仕事にならないから休むなど。
特に夏場などは布団を質屋に持っていってでも休むための生活費を確保する者も多い。休みの日は銭湯の二階にある休憩室に居座って暇人同士将棋でもして過ごすのが江戸の男のサマーバケーションであった。
それはさておき、蕎麦麺の販売が落ち込んだ。
「九子、どうしよう? 梅雨時期になったら昼間の屋台も休むかもしれないの」
「むう」
麺の販売は言ってみれば余力を使ったサイドビジネスなので、本業の儲けで生活費は十分稼げる。とはいえ、麺をある程度売ることを前提に蕎麦粉とうどん粉を多く、割り引いて仕入れているのだ。
それが売れない場合、作り置きはしておけるのだが余る一方だ。
直ちに損する案件ではないが、九子は「ふうむ」と案を考えた。
そして、
「……よし、辻斬り騒動を利用して儲ける方法を思いついた」
「本当?」
「うむ。上手く行けば騒動も終わるし、そうでなくとも客は一時的に増えるぞ」
「凄い! 天狗の知恵なの」
お房が目を輝かせて見てくるので、九子は苦笑いをして応えた。どうもこの少女が不安そうにしているとどうにかせねばならないと思い、喜んでくれると彼女も満更ではない。
これが仮に六科などが「どうにかしてくれ」とむっつりした顔で頼んできても「暫く待っておけば勝手に収まる」と適当に返事をするところなのだが。
「それでどうするの?」
「ま、とりあえず今日はもう夕方だからのう。今日明日と準備が必要だ」
「準備?」
「うむ。まずは来た客相手に噂を撒くのだ。『近頃天神様が怒っているようだ』『雷に気をつけろ』とな」
九子は悪戯っぽい顔をして提案したが、お房は真剣に頷くのであった。
夕方に仕事上がりの客相手に店が賑わい出したあたりで、お房は拙く、九子は酒を片手に客に絡みながら「天神様の祟りがある」といった噂を教えていった。
こういった話をするのは九子など手慣れたものだが、お房もぎくしゃくしながら話題を出すのを、子供が雷を怖がっているのだろうと解釈されて自然であった。
そう言われれば、既に近所では昼間に雷が落ちて同心とスリに直撃したという噂はあったので、なるほどあれが天神様の祟りか、とすぐに納得されていく。
中でも鳥山石燕が店に寄った際に九子は簡単に事情を話して、
「辻斬りどもを驚かすため、噂を広めておいてくれぬか」
と、頼むと彼女は自信ありそうに胸を叩いて応えた。
「フフフ任せておいてくれたまえ! 私の得意とするところだよ! ちまちま話をするよりもっと効率的に行こうではないか!」
そうすると彼女は筆と紙を取り出してスラスラと絵を描き始めた。
迷いのない筆捌きである。とても酒を飲んでから描いている手付きとは信じがたい。九子は感心して「ほう」と吐息を漏らした。
「ところでなんだその、死ぬほど凶暴そうな牛にまたがって武器を振り回しておる男は。倶利伽羅峠の木曽義仲かえ?」
「フフフ怒り狂った天神道真公だよ! 牛は道真公の相棒として有名だからね!」
「道真公なのに筆とかではなく思いっ切り剣を持っておるのだが……」
「天神道真公は武神としても扱われることがあるからね! そういう逸話無いのに天神ゆかりの刀や鎧があちこちで見つかったりするぐらいだよ!」
「そ、そういうものか」
九子は一応頷くのだった。それにしても、石燕が即興で描いた絵は中々の迫力である。力強いタッチに鬼か不動明王のような表情の牛と道真。周囲には雷が派手に放電している。
お房が石燕のことを、生活はだらしないが絵は非常に上手いと評していただけはある。
「この絵を親しい版元に持っていって瓦版に使わせよう。なあに、急ぎ仕事が得意な瓦版の版木職人なら一晩で作れるはずさ」
「それは頼もしいのう」
「先に噂も広めておくとも。なにせ天狗様の依頼だからね!」
石燕は残りの酒を飲み干すと、絵を片手に店を出ていく。そして外から彼女の大きな叫ぶ声が聞こえた。
「皆の者~! 天神様の祟りによってこのままでは江戸は滅ぶ! 滅びますぞー! ことごとく天神様を畏れてくだされー‼」
「……」
「……」
「頼もしいが、他人の振りをしよう」
「なの」
噂を広めるというか、怪しげな終末思想の辻説法が如く大声で喧伝する石燕であった。九子とお房は唖然と見送り、さっと目を逸した。友達だとは思われたくないタイプである。
さてこの日の段階では、噂を広め始めたのは夕刻になってからなのでそこまで広まっていないし、聞いた者も「そんな話もあるのか」といった程度の反応であった。
夜になり、江戸の人々が眠りだす時間になって九子は二階の窓から空高く飛び上がる。
ぐんぐんと上昇をして雲の高さまで昇る。上空数キロメートルまで上がってから九子は「うう寒」と呟いて術符を取り出した。
『電撃符』をかざして、念じることによって出力や放電の走る方向を調整する。利悟などに使うよりも遥かに大規模に、しかし地上には落ちない程度に。
ヴ、と低く鈍い音がゆっくりと響き、巨木の幹ほども野太い蛇のように白光の放電がうねって伸びる。放電に触れた大気に一瞬で一万度を超える熱が加わり爆発的に膨張する。その勢いは衝撃波を発生させ、破裂音に似た振動が夜空に拡散していく。
九子が生み出した魔法の雷が周囲何里にも伸びては雷鳴を鳴り響かせた。
これが遥か遠く、地上では音が引き伸ばされてゴロゴロと聞こえているだろう。時折、稲光も見えているかもしれない。
「今日のところはこれぐらいでいいか」
そう呟いて九子は地上に戻っていった。




